ー生命保険の勧誘員だっ た。

中国「紀年」詩考 (I)
漢文学教室
A.
塩
見
邦
彦
おまえが生 まれて間 もない 日。
秀鷹のように そのひとたちはやつてきて
黒い革鞄のふたを あけたりしめた りした。
一T生 命保険 の勧誘員だった。
(ず いぶん
お耳が早 い)
私が驚 いてみせ る と
そのひ とたちは笑 って答 えた。
(匂 いが届 きますか ら〉
顔の貌 さえさだまらぬ
やわ らかなお前の身体の
ど こに
私 は小さな死 を
わけあたえたのだろう。
もう
かんばしい匂 い を
ただよわせていた とい うではないか。
(吉野弘「初 めての児 に」
)
B.
子日,吾十有五而志子學)三十市立,四 十而不惑,五 十而知天命,六十而耳順,七十而徒心
所欲不鍮矩。
(『 論語』角政篇)
(子 曰 く,吾 れ十有五にして学 に志 ざす。三十 にして立 つ。四十にして惑わず。五十 にして
分り
こ
天命 を知 る。六十にして耳順 ごう。七十 にして心の欲 する所 に従 って,矩 を鍮 えず。)
¬
塩見邦彦 :中 国「紀年J詩 考 (I)
Aは 吉野氏 の有名 な詩「初 めての児 に」,Bは ,こ れ も有名 な孔子の自叙伝 とも言 える『論語』為
政篇 の文 章 である。
まず,吉 野氏 の詩 について言 えば,氏 自身『詩の楽 しみ』 (岩 波書店 ,1982年 刊 )の 中で,こ の詩
が生 まれたい きさつを,以 下 のように述 べ られ る。
「・……私 の長女が生 まれ ましたが,間 もな く,生 命保険 のセ ールスマ ンがやって きました。私 は
『ず いぶん,お 耳 が早 い』 と驚 いてみせ ました。す るとセールスマ ンは『ええ,商 売柄 ,赤 ちゃん
の匂 い には鼻 が利 くほうで して一―』 と答 えた ものです。 セールスマ ンは もちろん,生 まれたばか
りの子 どもの匂 い を芳香 のつ もりで当意即妙 に答 えたのですが,生 命保険 は人 間 の生命 が死 と表裏
の関係 にあることを基礎 にした仕組 みです。 その ときのセ ールスマン はたぶん,子 どもの進学資金
のための保険 を勧 めたのだろうと思 い ますが ,生 命保 険 は普通 の預貯金 とちがい,人 の死 を保険 に
か ける仕組 みになって い ますか ら,い やで も人 の死 を思わせ るようになって い ます。 おそ らくその
ためで しょうが,私 は自分 の子 どもに生命 を与 えたつ もりで い た ところが,実 は死 も一緒 に与 えて
lLl)
いた ことに気付 かぬわ けにはゆきませんで した。」
ここには,人 間 が持 って生 まれた宿命 の ような ものが,は か らず も吉野弘氏 という詩人 の眼 を通
して語 られて い る訳であるが,こ の世 に生 を享 けた生物 は全て,遅 かれ早 かれ「死 」 を迎 えねばな
らない。 そのような中 にあって,人 間 だけが,日 々の生活 の中で,己 の「死 」 につ いて,あ らか じ
め予知す ることがで き,「 死」 が訪れ る ことを自覚す る ことがで きる生物 とい うことがで きよう。
Bは あまりにも有名 な文 章 なので贅言 を要 しないが,実 は後世 ,特 に中国 の知識人 に とって,こ
の 『論語』の文章 は,我 々の予想 をはるかに超 えて,大 き く影響 を与 えつづ けた と言 ってよい。 A
は日本人 の,し か も現代 の詩人 の眼 を通 して,人 間 の「生 と死」が語 られ,Bは 中国人 の,し か も
古代人 の言葉 によって「生 (と 死 )」 が語 られてい る, と言 って もよか ろう。 このよ うに現代 と古代
日本 と中国 とい う,い わば時空 を異 にす る中 にあって も,「 死」をめ ぐる問題 は,人 間 その ものの根
,
源 を規定す る大 きな側面 と言 えるのであるが,以 下 ,こ こで とりあげようとす る中国 の「紀年」詩
つ まり年齢 を詩旬 に詠み込 んだ詩 ,の 様相 は, どのような ものなのであろうか。以下 にまず,中 国
,
の詩 における通史的な「紀年」詩 の特色 を,ご く大 ざっぱに見てい こうと思 う。
上述 したように,こ の章 で は,各 時代毎 の「紀年」詩 の様相 を,ご く大 まかに述 べ,詳細 は次回
以後 にとりあげる予定 の各時代 の「紀年」詩 の論考 に譲 る事 とす る。 それ故 ,こ こでは今 までの調
査か ら気づ い た点 をい くつか挙 げるに とどめる。
。唐代 の「紀年」詩
『全唐詩』 を通覧 して,六 朝・ 唐代 における「紀年」
還欽 立校輯 『先秦雨漢 三 國雨晉南北朝詩』。
I.六 朝
詩 の特徴 を簡単 に述 べ るな らば,ま ず第 一 に,唐 代 の「紀年」詩 と比較 して,六 朝詩 において は
「紀年」詩 の詩数 が圧倒的 に少 ない と言 う ことで ある。 そして,そ の圧倒的 に少ない六 朝 の「紀年」
,
詩 の中で,一 番多 く「紀年」詩 を残 した詩人 は陶淵明 (365?∼ 427)で ある。 その他 は,ご くわず
﹁︱ ︱ ︱ ︱ ︱
鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会学科 第 42巻
第
2号
(1991)
かの詩人 による「紀年」の詩旬 が存在す る程度で,ま ず,こ の ことを確認 してお
きた い と思 う。 い
ま,そ の淵明の「紀年」詩のみを挙 げてお こう。
(1)是 時向立年
是の時 立年 に向ん とし
志意 耳さずる所多 し
志意多所恥
(2)自
我抱勉獨
我
佃挽四十年
(飲 酒二十首 ,其 十九)
滋の独 を抱 きてよ り
祖挽 た り 四十年
(連 雨獨飲 )
(3)姦
目轟浣雪
琵翌 目に琵古量 を親 し くす
に)結髪念善事
髪 を結 びて より善事 を念ひ
樋挽六九 年
佃仇 た り 六九年
(1)の 詩 は「立年」即 ち三十才 に近 い頃の作であ り,(4)の
が 『論語』 をふ まえてい ることが判れば,充 分であろう。
(雑 詩十 二首 ,其 六 )
(怨 詩楚調示廃主簿都治中)
詩 は五 十四才の時の もので ある。(lX2X3)
六朝・ 唐代 の「紀年J詩 の特徴の第 二 は,で は六朝・ 唐代 を通 じて
,一 番多 く「紀年」詩 を残 し
白居易 (772∼ 846)で ある。全唐詩中の「紀 年」詩の,実 に半数以上 を
占める比率で,白 居易 は「紀年」の詩旬 を残 していると言 える。特徴 の第二 は,こ れ は に一 で
既
章
も触れたが,や は り『論語』為 政篇の三十才 か ら七 十才 までの,十 年毎の節 に
目 「紀年」詩が詠わ
れて い る場合が,圧 倒的 に多 い, とい う ことが で きる。 この点 に関 して言 えば
,陶 淵明 も白居易 も
例外で はな く,い かに当時の知識人が,こ の『論語』為政篇の一章 に大 きく影響 されていたか
,と
い うことを側面的 に物語 っていよ う。 い ま,詳 し く見 る暇 はないが
,白 居易詩の中で,代 表的な詩
句 を見 てみよ う。
た詩人 は誰であろうか ?
は)三 十氣太壮
留中多是非
鬱)況 我今四十
本茶形貌扇
得)青 山率眼三 千里
白髪平頭五十人
三十 気太ytLな るも
智中 是非多し
境んや我
本来
今四十
形貌扇 る
白髪
平頭
五 十の人
六十
河南のテた り
前途足可知
前途
知 るべ きに足れ り
莫嫌衰病莫嫌貧
(白 髪 )
青山眼 を挙 ぐれば三千里
化)六 十河南テ
(5)同 喜同年浦七旬
(白 雲期責巌下作 )
(登 龍尾道南望底 山奮隠)
(六 十界河南ヂ)
同 じく喜 ぶ 同年の七旬 に満 つ るを
衰病 を嫌ぶ ことなかれ貧 を嫌ふ ことなかれ (偶 吟 自慰兼呈夢得 )
塩見邦彦 :中 国「紀年」詩考 (I)
以上挙 げた三 点 が,六 朝・ 唐代 の「紀年」詩 の主な特徴 と言 えるが,そ の他 にもさまざまな詩人
たちの「紀年」詩 を相 当数 日階す る ことがで きる。それ らについては稿 を改 めて述 べ る こととす る
ため,こ こで はその特徴的 な事象 を指摘す るに とどめたい。
‖.未 代 の「紀年」詩
五十
無如衰疾何
衰疾
(2)家 世無高年
我今六十翁
(3)自
驚 七十猶強健
采薬編茶見暮鳩
は)一 日復 一 日
遂作八十翁
未 だ老 と名 づ けず
如何 ともす るなし
(五 十 )
家世 に高 き年 な く
我 今 六十 の翁
(送 宣書記井寄其兄曇才二 公)
自ら驚 く七十猶 ほ強健 なるを
薬 を採 り帰来 して暮鳩 を見 る
(野 輿 )
一 日また一 日
遂 に八十 の翁 となる
(雑 興 )
第 二 に指摘 で きることは,宋 代 を代表す る文学 ,詞 の中 に,「 紀年」
旬 が存在す るとい う ことで あ
る。唐代 の詩人達 の中 にも詞 を残 して い る詩人 もい るが,唐 代 の詞 には「紀年」 の詩句 は存在 しな
「紀年」
い。 しか しなが ら,宋 代 に入 ると,五 言 や七 言 の定型詩 は勿論 ,詞 とよばれ るジャ ンルに も
の詩 旬 を詠 み込む詩人が現われ る。そして,こ の ことは,実 は何 もこと改 めて指摘す る程 の ことで
はない, と思われ るか も知れないが,後世 ,清 代 の詞で はほ とん ど全 く現われない,と い う ことか
らも,宋・ 元・ 明代 にのみに現わ れ る特徴 とい う ことがで き,そ の先鞭 を宋代 の詩人達が つ けた
,
と言 えそうである。以下 ,詞 に現われ る「紀年」旬 の例 を少 しだけ見 てお こう。
(1)風 光緊急
二 月俄 三十
(2)笑 塵埃
緊急 にして
俄 かに三十
塵埃 を笑ふ も
(朱 淑員
清平築)
遷
(1)五 十未名老
の う
まず,第 一 に,宋 代 で最 も多 く「紀年」詩 を残 した詩人 は陸海 (■ 25∼ 1210)で ある, とい う こ
とである。陸渉 は八 十 六才 とい う天壽 を全 うした こともあ り,晩 年 になるに従 つて多 くの「紀年」
詩 を残 した詩人である。 い ま,そ のい くつか を見てお こう。
と
を,最 初 にお ことわ りしてお きたい。
さて,宋 代 の「紀年」詩 の特徴 はどのような ものであろうか。
ほ
宋代 において は,『 先秦雨漢 三 國而晉南北朝詩』や『全唐詩』のように,朱 詩 を集大成 した書物 が
存在す る訳で はな い。はりそれ故 ,宋 代 の詩 を通覧す るためには,個 人の別集 に当る以外 にはな く,又
それ ら個人 の別 集 が全て印刷 されて刊行 されて い る訳で もない。以上 のような事情 か ら,宋 代 の聯己
年」詩 について は,で きる限 りの詩集 (別 集 )に 当 り,そ の範囲で言 える ことについて述 べ る こと
鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会学科 第 42巻
二十九年非
三十九年 の非
長 へ に客 となれ り
長為客
0)吾生四十漸知 非
祗思青鵠笠
吾 が生四十 漸 く非 を知 る
祗だ思 ふ 青鵠笠
江上雨罪粟
江上の雨
粟罪 た り
第
2号
(1991)
(幸 棄疾
満江紅 )
(王 以寧
臨江仙 )
第 二 に,こ れ は直接 「紀年」詩 と関係 がない, とも言 えるのであるが,或 る個人 の現存す る詞が
ほ とん ど全て「壽詞」であ り,し か も「生 日」 を詠 う詞であるとい う現象が,朱 代 で は存在 する
,
とい う ことである。
具体的 にいま,名 前 を挙 げるとすれば,魏 了翁 (1178∼ 1237)・ 劉克荘 (1187∼ 1269)
の詞 のほ とん どは,「 生 日」か「生 日」にちなんだ壽詞 とい う ことで ある。 このような現象 を一体 ど
う説明すればよい のであろ うか。 この点 も,後 に詳述 したい と考 えて い るが,い ま,い くつか の詞
題 を挙 げて,宋 代 の詞 にそのよ うな特徴があ る, とだけ指摘す るに とどめてお きた い。
魏了翁詞題
楊崇慶 薫生 日 (蝶 懸花 )
婦生朝李倅□同其女載酒為壽用韻謝之 (水 調歌頭 )
安大使 丙生 日 (水 調歌頭 )
生 日謝寄居見任官載酒三十七歳 (木 蘭花慢 )
鄭倅子美生 日 (虞 美人 )
劉克荘詞題
漢宮春癸亥生日
漢 宮 春 呉侍郎生 日
念 奴 嬌 丙午郊少師生 日
解連還成午生日
木蘭花慢コ吐 日
第四 に,第 二で指摘 した ことと,多 少かかわ るが,宋 代 の後半あた りか ら顕 著 にな り始 め,金・
元。
明。
清 と,時 代 が 降 るに従 って,明 確 なパ ター ン化 が 目立 つ現象 として,聯 己年」 を詠 う場合 に
決 った「場」の設定が,こ の宋代後半 あた りか ら兆 し始 めるとい うことで ある。聯己年」を詠 う場合
,
,
唐代及び宋代前半で は,そ れ程顕著 な現 象 とも思 えないが,ど うも宋代 の後半 を界 として,「 生 日
・
大晦 日・ 元旦」 とい う,二 つ の場 面 での「紀年」詩 の傾 向が著 しくなって くるように思われ る。 つ
まり,唐 代及 び朱代 の前半 で は,「 紀年」詩 は,自 己が年齢 に対 して,或 る種 の感 慨 を憶 える (憶 え
た)時 に制作 され る場合 が普通 であるのに,宋代後半 あた りか らは,前述 したように「生 日」か「大
晦 日」か「元且 」 といった,い わば誰 しもが 自己の年齢 に対 して,或 る種 の感 慨 を憶 える,そ の最
も憶 えやすい「 日」 の設定 とい うパ ター ンが増大す るように思われ る。 これについて も後 に詳述 し
た い。
Ⅲ.金・ 元代の 「紀年」詩
金代及び元代 は,異 民族支配 とい う ことと関係 があるのか も知れないが,「 紀年」詩全体か ら見れ
ば,そ れ程多 い とい う訳で はない。幸 い『全金詩』によって金代 の詩 を通 覧す る ことが で きるので
,
塩見邦彦 :中 国「紀年」詩考 (I)
一 流 の詩人か らしてそ うなのであるか ら,他 はお して知 るべ し,で ある。
(1)三 十七年今 日過
可憐 出庇雨陸蛇
12)三 十九年何限事
只留択影伴責昏
(3)四 十率兒子
提亥瑯 自誇
(41四 十二 年
FJH指 過
却疑行鹿是前 生
G)四 十九年堪一笑
昨非今是可憐生
二十 七年 今 日 ぐ
漫
憐 むべ し 出虎両 つ なが ら瑳蛇た り
二十九年
(除 夜 )
何限 の事
只 だ孤影 を留 めて 黄昏 を伴 はん
(長 壽山居元 夕)
四十 にして児子 を挙 げ
提核 期 か 自 ら誇 る
(阿 千始 生)
四十 二 年
弾指 に過 ぐ
却 つて疑ふ 行 く処是 れ前生か と
四十九年
昨 は非
一笑 に堪ふ
今 は是 憐 むべ し
(済 南雑詩五首 ,其 ― )
(和 仁郷演太 白詩意二首 ,其 二 )
金代 の「紀年」詩 に比 べ ,元 代 のそれ は,何 と説明 して よいか,は なはだ こまるのであるが,『 論
語』為政篇 の影響 を色 こ くうけて,三 十 か ら七十 までの,夫 々の区切 りの十年 に,集 中 して多 く現
われ るとい う傾 向を持 つ。元 王朝 に帰順 した漢人が多 く詩 を残 した ことの,一 つの現わ れか も知れ
ないが,こ のような現象 をどう説明すれば よいで あろうか。 この件 に関 して,現 在 ,説 得的 な説明
を持 ち合 せていない。稿 を改 めて金 ,元 代 の詩 について詳述す る際に,改 めて問題 にしたい と思 っ
て い る。
Ⅳ.明 代 の「紀年」詩
明人 の「紀年」詩 につ いて言 えば,長 壽 で卒 した文徴明 (1470∼ 1559)が ,そ の晩年 ,集 中的 に
「紀年」詩 を残 して いるが,そ の他 は高啓 (1336∼ 1374),唐 寅 (1470∼ 1523),李 夢陽 (1472∼ 1529),
湯顕祖 (1550∼ 1617),衰 宏道 (1568∼ 1610),工 世貞 (1526∼ 1590)と い った,い わゆる明代文人
の詩 に多 く,詩 にも詞 にも現われ るのが特徴 と言 えよう。他 の時代 のように,特 に多 い という詩人
。
はな く,強 いて多 い詩人 を挙 げる とすれば,高 啓 ,唐 寅位 いで あろう。明代 も「生 日 大晦 日・ 元
旦 」 で「紀年」詩 を詠 う とい うパ ター ン化 が 目立 ち,そ れ らの中 にあって,湯 顕祖・衰宏道な どは
,
そのようなパ ター ン化 した詩題 の 聯己年」詩 も多少有 るものの,そ
こか ら抜 け出 し,「 間居雑題」 と
か「看梅」 とい う,上 述 の ような詩題 とは全 く別 の所 で「紀年」詩 が詠 まれてい るのを見 ると,さ
すがに一代 の文藻 と言 うべ きであろう。
V.清 代 の「紀年」詩
査 い年 は 一
それに従 つてみてみると,第 一 に,金 代 で一番多 い「紀年」詩作家 は元好問 (■ 90∼ 1257)で ある
と言 えるであろう。第 二 に,異 民族支配 とい う ことと関係す るのか も知れないが,金 代 の「紀年」
詩 は『論語』為政篇 の規定 にあま り左右 されて い ない, とい うことがで きる。以下 に元好間の「紀
年」詩 のみを挙 げてみるが ,そ れを見れば,そ の ことが証明 され るであろう。元好問 の如 き,当 代
鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会学科 第 42巻
第
2号
(1991)
清 一代 ,約 二百年 の中で,一 番多 く「紀年」詩 を残 した人物 は査慣行 (1651∼ 1728)で あろう。
査慣行 の詩 は,現 在 ,我 々が 目賭す る詩数 も非常 に多 いが,時 代 が降 るに従 ってパ ター ン化す る
いわゆる「生 日」等 に年齢 を詠 む とい う傾向か らも抜 け出て い る。 この点,清 代 で は次 に多 くの「紀
,
年」詩 を残 した と思われ る程先貞 (1607∼ 1673)や 方丈 (1612∼ 1669)達 のパ ターン化 した詩題 と
は,際 立 った対称 をなしていると言 えよう。 い ま,そ の査慣行 と程先貞 の二人 の具体的な例 を,同
一 年齢 を詠 った詩題 の所 でみてみよ う。
(1)我 今過四十
貌作山澤 膿
荏高年光途四旬
家園又見歳時新
(2)三 年奏贖困方朔
五十吟詩笑高適
今四十 を過 ぐ
は
貌 山沢の躍 と作 る
(査 慣行
抜 白詩 )
在再た り 年光 四旬 を造 ゆ
家園 また見た り歳時新 な り
(程 先貞
丁亥元 日呈南村先生 )
三 年蹟 を奏 し 方朔 を困 ませ
五 十詩 を吟 じ 高適 を笑ふ
(査 慣行
題男【
毅仁書剣国)
我
寄語良朋能恵我
語 を寄す
願聞四十九年 非
願 わ くは四十九年の非 を聞かん
(程 先貞
乙未元 日)
多許 な く
花 甲周来す第 一春
(査 慣行
庚寅元 日試筆戯敷 楽天
●)慰 毛 白後無多許
花 甲周茶第 一春
良朋能 く我 を恵み
頗毛 白後
般)
浮生回首六旬過
浮生回首
草草光陰欲奈何
草草 たる光陰奈何 せん とす
(4)童 時了了記観河
六 十二 年忽已過
六旬過 ぎ
(程 先貞
丙午歳秒擬明歳元 日…)
童時了了 として靭河 を記す も
六十 三 年
年華七九過
年華
元 日意如何
元 日の意
忽 ち己に過 ぐ
七九
(査慣行
残冬展根病楊消寒 …)
(程 先貞
庚成元旦 )
過ぎ
如何
以上 の如 くであるが,0)の 詩例 のように,査 慣行 の詩 にも「元 日」に詠 った詩がない訳 で はない。
査慣行 は長壽 で あった こともあ り,七 十才 を過 ぎてか らは,集 中的 に「紀年」詩 を残 している詩人
である。 これ らの詩句 を読 む と,人 間 とい うものは,つ くづ く年 を重ね るに従 って,年 齢 が気 にな
るもの らしい。それにして も査慣行 は,先 ほ ど述 べ たパ ター ン化 か ら抜 け出 しているとい う特色 を
,
最晩年 までつ らぬい た詩人 であった, と言 えよう。
第 二 の清代 の特徴 として,「 詞」は清代で も多 く詠 まれているが,宋 代 の 聯己年」詩 の条 で述 べ た
如 く,詞 の中 に 自己の年齢 を詠む詞 は全 くといって よい程存在 しない。 これ は宋代 の詞 と大 きな違
いで ある。
塩見邦彦 :中 国「紀年」詩考 (1)
以上 ,六 朝期 か ら清代未 まで,西 暦 で言 えば二世紀後半 か ら二 十世紀初頭 までの,約 1600年 余 の
間 に,中 国で詠 まれた「紀年」詩 を対象 に,各 時代毎 の特徴 を概観 した訳であるが,中 国 の詩人達
にとって,自 己の年齢 を自作 の詩中 に詠 み込む とい う ことは,ど のような意味 を持 って いたので あ
ろうか。或 る詩人 に とって は
「人 生鮮百歳 ,只 有名常存」 (人 生百歳 鮮 し,只 だ名 は常 に存す る こと
:清
・
あり
馬維翰「九折坂」)と 詠 うように,名 を残 せ ばそれで よい と考 えて いた らしい人物 もあれ
ば;「 人生少至百,毎 懐多憂慮」 (人 生百 に至 ること少 し,毎 に多 くの憂慮 を懐 く :金・ 元好間「雑
著五首 ,其 三」)の ように,人 生 その ものを憂慮 と考 えて いた らしい人物 もある。恐 らく,こ のあ と
四・ 五 回を要 して,各 時代 の「紀年」詩 を詳述す る際に,こ れ らの ことについて も触れ てい きたい
と考 えてい る。
最後 に,こ れ らの 聯己年」詩 を検索 した参考文献 を時代順 に挙 げ,ひ とまず筆 を欄 くこととす る。
参考文献
六朝
選欽立校輯 『先秦面漢三國面晉南北朝詩』 (1983年 ・ 中華書局)
唐
『全唐詩』 (1979年 ・ 中華書局)
竺常撰『全唐詩逸』 (1979年 ・ 中華書局)
王重民・ 孫望 。童養年輯録 『全盾詩外編』上・ 下 (1982年 ・ 中華書局)
林大椿輯 『唐五代詞』 (1976年 ・ 商務印書館)
楊家路主編 『全五代詩』上 ,中 ・ 下 (1973年 ・ 鼎文書局)
宋
呉之振・ 呉留良・ 呉 自牧選 『宋詩妙』一∼四 (1986年 ,中 華書局)
唐圭章編 『全宋詞』一∼五 (1986年 ・ 中華書局)
陸渉撰 『陸済集』一∼五 (1976年 ・ 中華書局)
陸海撰 『放翁詞編年箋注』 (1981年 ・ 中国古典文学叢書 ,上 海古籍出版社)
蘇轍撰 『蘇載詩集』一∼八 (1982年 。中国古典文学基本叢書・ 中華書局)
蘇轍撰 『蘇轍集』一∼四 (1990年 ・ 中国古典文学基本叢書・ 中華書局)
蘇轍撰 『桑城集』上 。中・ 下 (1987年 ・ 中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
蘇洵撰 『嘉祐集』 (1958年 。国学基本叢書・商務印書館)
欧陽修撰 『欧陽修全集』上・ 下 (1986年 。中国書店)
竜成大撰 『屯石湖集』上・ 下 (1981年 ・上海古籍出版社)
文天祥撰 『文天祥全集』 (1985年 ・ 中国書店)
蘇舜欽撰 『蘇舜欽集』 (1981年 。中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
梅莞臣撰 『梅莞臣集編年校注』上・ 中・ 下 (1980年 ・ 中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
張未撰 『張来集』上・ 下 (1990年 。中国古典文学基本叢書 。中華書局)
陳輿義撰 『陳輿義集』上 。下 (1982年 。中国古典文学基本叢書・ 中学書局)
王安石撰 『王文公文集胡上・ 下 (1974年 ・上海人民出版社)
王令撰 『王令集』 (1980年 ・上海古籍出版社)
楊高里撰 『誠齋集』 (1975年 ・ 台湾商務印書館)
朱敦儒撰 『樵歌』 (1958年 ・ 文学古籍刊行社 )
石介撰 『径篠石先生文集』 (1984年・ 中華書局)
張景星・ 銚培謙・王永棋編 『宋詩別裁集』 (1975年 ・ 中華書局)
黄庭堅撰 『山谷詩集』 (昭 50年・和刻本漢詩集成第14輯・ 汲古書院)
陳興義撰 『簡齋詩集』 (昭 51・ 和刻本漢詩集成第15報・ 汲古書院)
﹁︱︱︱︱︱
鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会学科 第 42巻
第
2号
(1991)
曽幾撰 『茶山集』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第15輯 ・ 汲古書院)
劉應時撰 『願藩居士集』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第15輯・ 汲古書院)
高蒻撰 『菊鴨詩集」 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第16輯・ 汲古書院)
巌羽撰 『巌治浪先生詩集』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第16報・ 汲古書院)
劉克荘撰『後村詩妙』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第16輯 ・ 汲古書院)
方岳撰『秋崖詩妙』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第16輯・ 汲古書院)
員山民撰 『員山民詩集』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第16輯・ 汲古書院)
林適撰 『和靖先生詩集』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第■鞘 。汲古書院)
秦観撰 『淮海集妙』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第■輯・ 汲古書院)
任淵撰 F后 山詩註』 (昭 51年・ 和刻本漢詩集成第14輯・ 汲古書院)
鄭思肖撰 『所南翁―百三十回詩集』 (昭 51年 。和刻本漢詩集成第 16輯・ 汲古書院)
金
死
『全金詩』一∼二 (1968年 ・ 新興書局)
『全金元詞』上・ 下 (1979年 。中華書局)
顧嗣立編 『元詩選』初集上 。中・ 下,二 集上 。下,三 集 (1987年・ 中華書局)
張景星・ 挑培謙・ 工永麒編 『元詩別裁集』 (1975年 ・ 中華書局)
薩都拉撰 『雁門集』 (1982年 ・ 中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
陳乃乾輯 『元人小令集」 (1958年 ・ 古典文学出版社)
楊載撰 『楊仲弘詩集』 (昭 52年・和刻本漢詩集成第17輯・ 汲古書院)
明
沈徳潜・ 周準編 『明詩別裁集』 (1975年 ・ 中華書局)
全明詩編纂委員会編 『全明詩』― (1990年 ・ 上海古籍出版社)
龍楡生編選 『近三百年名家詞選』 (1956年 ・ 上海古典文学出版社)
卓爾堪選輯 『明遺民詩』 (1960年 ・ 中華書局)
湯頴祖撰『湯頴祖詩文集』上・ 下 (1982年 ・ 中国古典文学叢書・ 上海古籍 出版社)
衰宏道撰『衰宏道集箋校』上 。中・ 下 (1981年 ・ 中国古典文学叢書・上海古籍出版社)
踊有光撰 『震川先生集』上・ 下 (1981年 。中国古典文学叢書 。上海古籍出版社)
憑惟敏撰『海浮山堂詩稿』 (1981年 ・ 中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
陳子龍撰 『陳子龍詩集』上・ 下 (1981年 。中国古典文学叢書・上海古籍出版社)
高啓撰 F高 青丘集』上・ 下 (1985年 ・ 中国古典文学叢書・上海古籍出版社)
李東陽撰 『李東陽集』 (1984年 ・ 岳麓書社)
劉基撰 『誠意伯詩妙』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第17輯・ 汲古書院)
唐寅撰 『唐伯虎集』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集第 18輯 ・汲古書院)
文徴明撰『文衡山先生詩妙』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第18輯・ 汲古書院)
王守仁撰 『王陽明先生詩妙』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第 18輯・ 汲古書院)
謝茂榛撰『謝茂榛山人詩集』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第18韓・ 汲古書院)
工世貞撰 『弁州詩集』 (昭 52年・和刻本漢詩集成第18輯・ 汲古書院)
李言恭撰 『白雪齋詩集』 (昭 52年・和刻本漢詩集成第18輯・ 汲古書院)
徐勉撰 『鼈峰絶旬妙・ 田園雑興』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第18韓・ 汲古書院)
張楷撰 『蒲東獲張珠玉詩集』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第18輯 ・汲古書院)
浦
徐世昌輯 『晩晴縁詩睡』上・ 下 (詩 歌絡集叢刊清詩巻 。1988年・ 上海三聯書店)
部之誠撰 『清詩紀事初編』上・ 下 (1965年 ・ 中華書局)
工爬輯 『湖海詩俸』上 。下 (1958年 。国学基本叢書・ 商務印書館)
沈徳潜編 『清詩別裁集』上・下 (1975年 。中華書局)
葉恭綽編『全清詞妙』上 。下 (1982年 ・ 中華書局)
塩見邦彦 :中 国「紀年」詩考 (I)
方芭撰 『方芭集』上・ 下 (1988年 ・ 中国古典文学叢書・ 上海吉籍出版社)
呉偉業撰『呉悔村全集』上 。中・ 下 (1990年 ・ 中国古典文学叢書 。上海古籍出版社)
黄景仁撰 『爾営軒集』 (1983年 ・ 中国古典文学叢書・上海古籍出版社)
呉嘉紀撰 『呉嘉紀詩箋校』 (1980年 ・ 中国古典文学叢書・上海古籍出B4■ )
銭謙益撰 『牧齋初学集』上 。中・ 下 (1985年 。中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
査慎行撰 『敬業堂詩集』上 。中・ 下 (1985年 。中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
丘逢甲撰『嶺雲海 日櫻詩妙』 (1982年 ・ 中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
黄遵憲撰 『人境鷹詩草箋註』上 。中・ 下 (1981年 。中国古典文学叢書・ 上海古籍出版社)
鄭雙撰 『鄭板橋集』 (1962年 。中華書局)
唐菰撰 『潜書』 (1963年 ・ 中華書局)
業自珍撰『薬 自珍金集』 (1975年 ・ 上海人民出版社)
魏源撰 『魏源集』上 。下 (1976年 。中華書局)
江子豆輯 『八大山人詩妙』 (1981年 ,上 海人民美術出版社)
■孝萱編 『揚州八怪詩文集』 (1985年 。江蘇美術出版社)
顧炎武撰 『顧亭林詩文集』 (1963年 ・ 世界書局)
洪昇撰 『稗畦集 。稗畦続集』 (1957年 ・ 古典文学出版社)
江蔚林編 『孔尚任詩文集』第一冊∼第二冊 (1962年 ・ 中華書局)
曹寅撰 『棟亭集』上 。下 (1978年 ・ 清人別集叢刊・上海古籍出版社)
周亮工撰 『頼古堂集』上・ 下 (1979年・ 清人別集叢刊 ,上 海古籍出版社)
唐孫華撰 『東江詩集』 (1979年 ・ 清人別集叢刊 。上海古籍出版社)
金農撰 『冬心先生集』 (1979年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
黄蕉茶撰 『友鴎堂集j(1979年 。清人別集叢刊・上海古籍出版社)
方丈撰 『念山集』上・ 中・ 下 (1979年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
朱鼻筆撰 『騰笑集』 (1979年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
朱鶴齢撰 『愚庵小集』上・ 下 (1979年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
孫枝蔚撰 『漑堂集』上・ 中・ 下 (1979年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
陳夢雷撰 『閑止書堂集妙』 (1979年 ・ 清人別集叢刊 。上海古籍出版社)
納蘭性徳撰 『通志堂集』上 。下 (1979年・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
江愁麟撰 『百尺梧桐閣集』上・ 中・ 下 (1980年 ・ 清人別集叢刊 。上海古籍出版社)
江愁麟撰 『百尺梧桐閣遺稿』 (1980年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
顧冴撰 『鳳池園集』上 。下 (1980年・ 清人別集叢刊 。上海古籍出版社)
王櫨撰『産中集』 (1981年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
程先貞撰 『海右陳人集』 (1981年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
徐作蔀撰 『偶更堂集』 (1982年 ・ 清人別集叢刊・ 上海古籍出版社)
高士奇撰 『高江郵集妙』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第18報・ 汲古書院)
薦士鐙撰 『忠雅堂詩妙』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第20輯・ 汲古書院)
衰枚撰 『随園詩妙』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第20輯・ 汲古書院)
衰枚撰『随園絶句抄』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第20報・ 汲古書院)
工文治撰 『王夢棲絶句』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第20輯・ 汲古書院)
趙翼撰 『廟】ヒ
詩選』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第20輯・ 汲古書院)
張間陶撰 『船山詩草』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第20輯・ 汲古書院)
察雲撰 『禁雲呉欲妙』 (昭 52年 。和刻本漢詩集成第20報 。汲古書院)
陳文述撰 『陳碧城絶旬』 (昭 52年・和刻本漢詩集成第20輯・ 汲古書院)
陳鴻詰撰 『味梅華館詩妙』 (昭 52年・ 和刻本漢詩集成第20輯・ 汲古書院)
訳 1)吉 野弘著 『詩の楽 しみ』 (1982年 ・ 岩波書店 。191頁 )
訳 2)最 近,北 京大学古文献研究所編による『金宋詩』が,向 う5ケ 年計画で発行予定 ときくが未見。
鳥取大学教育学部併究報告 人文 ,社 会学科 第 42巻
.第
2号 (1091)
85
から「 紀年」についで解説したもの│に 以下のものがあり,多 大な禅益を受けたoこ の場をか りて
附記 象刻の復↓
深 く感謝したい。
事輯解説
=組 年印――北川博邦著 (鞣 刻と 5,昭 5銚 東京堂出版)
専輯解説―紀年印倒トー北川博邦著 (『 象刻とNc10,1860,東 京堂出版)
専輯解説―紀年印 (年齢)一 北川博邦著 (t築 刻』No15`昭 61,東 京堂出1働
生 日印解説
耳
切ll博 邦者 ('祭 刻』Na10,Hg62,東京堂出膀
(1991年 8月 31日 受勘
一
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