1. 生態系とにおい 第 1 章 香 り の 文 化 史 生物の世界は多くのにおいに満ちており、植 物も動物もにおいを仲立ちにしてさまざまに生 命を営んでいます。 美しく咲く花は、においで昆虫を誘って受粉 を行わせ種の保存を図り、昆虫はその花の蜜を 吸って個体を維持するように、においは動物と 植物の垣根を越えて生物界全体の交流を橋渡し しています。 フェロモン…植物の中には風媒花である稲の 花のようにほとんどにおわないものもあります が、動物にとっては、においは生きるために必 要な食物を探す手がかりであり、敵味方を見分 けて身を守る、異性を誘引する、生活圏や群社 会を作るなど、種と個体を保存するための貴重 な情報です。 ペットや使役目的で飼われているイヌは 、 人 間の 100 万倍以上も嗅覚が鋭いことで知られて います。多種類のにおいを認識することができ、 人間一人ひとりの特徴を識別できるので、震災 時の被災者救出や麻薬所持などの犯罪捜査にも 活躍しています。 測することさえします。その一方で、嫌いなに おいは食欲を失わせます。また、食物が古くな においと人間…私たちは、食物が好ましいもの ると腐敗や変敗を起こしますが、それが放つ異 か かどうかを、口に入れる前ににおいを嗅いで判 臭で、食物には適さず体に有害であることを知 断します。おいしそうなにおいであれば食欲が ることができます。 そそられ、消化液の分泌が始まります。調理で さらに私たちは、木立の香りで季節の移り変 も、においで料理の出来具合を判断し、味を予 わりを知り、花の香りを嗅いで心地よさを感じ フェロモン フェロモンとは、同種の生物間のにお い信号で、異性の誘引、生活圏の主張、 警報の伝達、群社会の構成維持、食餌 探索のための道しるべなどの情報を交 換するために分泌される物質のこと。 異種生物間の情報交換のために分泌さ れるにおい物質もあり、このような物 質のことを他感物質(allerochemical) という。フェロモンは 1959 年ブテナ 6 ン(A.Butenandt) が カ イ コ の 性 フ ェ ロモンであるボンビコールを見出して 以来、昆虫学の分野で著しい発達が見 られ、空中散布による昆虫の交信撹乱 による害虫の駆除などに利用されてい る。現在は、炭化水素、アルコール、 ケトン、エステルなどさまざまな化合 物が発見され、性フェロモンだけでも 数百の化合物が見出されている。 第 1 章 香 り の 文 化 史 ることができます。その一方で、街角のゴミの 人間は、このような役割を持つにおいを古く においでいやな気分になり、ガスの異臭で危険 から利用しながら、生活の知恵を生み出して、 を察知します。このほか、においには忘れてい 文化の豊かな発展や感性の発達に役立ててきま た過去の記憶をよみがえらせる力があることが した。 知られています。これをプルースト効果と呼び ますが、においの記憶は妙に具体的で、生々し いという特徴があります。 プルースト効果 無意識な記憶によってよみがえる自分 の過去の時間を見つめる「時間の心理 学」をテーマにした長編小説『失われ た時を求めて』で著者のマルセル・プ ルーストは、普段はほとんど思い出し たことのない過去の出来事が、マド レーヌ入りの紅茶の香りで突然生き生 きと想起されたことを描写しているこ とから、においが情動と結びついてい ることが多い過去の記憶を鮮明に喚起 させることをプルースト効果(現象) と呼んでいる。 7
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