海洋に住む数兆の神秘 (前篇)

海洋に住む数兆の神秘
(前篇)
WILLIAM J. BROAD 著 / 森田真由子 (オルテック・ジャパン) 訳
ニューヨークタイムズ紙 2015 年 6 月 29 日号より抜粋
動植物の生息地―ここ数世紀でかなり探索が進んだ熱帯
雨林や草原、森、砂漠、高山帯草原―は地球の生物圏の
1%にも満たない。なぜそんなにもわずかなのか?地上で
生物が暮らす域は狭い。肥沃な土壌は深さ数フィートほ
どまでであるし、もっとも背の高い樹木でも数百フィー
トほどまでにしかならない。鳥はもっと高くまで飛ぶこ
とができるが、それでも食べるためには地上へ戻ってこ
なくてはならない。
水については、しかし、話が違う。水は地球の表面積の
7 割以上を覆っておりその深さも数マイルに及ぶ。科学
者たちは、生物圏の 99%以上を海が占めているとしてい
る。漁師たちはその表面の水域を知っているし、その深
さも調査してはいるが、しかし全般的に、地上と比べれ
ば海洋はなじみが薄い。
したがって、科学者たちがようやく最近になってオニハ
ダカ(bristlemouth)―新種の深海魚類。海の中層に住み、暗
地球上の生息数が最多であるオニハダカ属の魚類
闇で光る。口を非常に広く開くことができ、針のように
とがった歯をもつ―が地球上でもっとも数の多い脊椎動物であると発見したことにも納得がいく。
カリフォルニアの海洋生物研究施設である Monterey Bay Aquarium Research Institute の上級海洋生物学者で
ある Bruce H. Robinson 氏は、その骨ばった魚は「どこにでもいる。誰もがその魚が地球上で最も多いと賛
同する」という。
人間を基準とすれば、その凶暴な生物は小さい。指よりも小さいほどだ。だが、この奇妙な小魚は多くで
群れ、行動のトリックも使ってその小ささを克服している。
その魚はオスとして誕生し、場合によって、雌に変化する。これを科学者らは雄性先熟―つまり、雄性先
熟型雌雄同体―と呼んでいるが、これはある種の昆虫や青貝類や蝶類にもみられる。
『Hermaphroditism(雌雄同体)』の著者である John C. Avise 氏は、オニハダカのオスの成魚は雌よりも小さ
い傾向にあり、嗅覚がより優れているという。これは明らかに、暗闇でもメスを見つけられるようにだと
同氏は言う。
Avise 博士によれば、この魚は接触が難しい環境に住んでいるため、生態についてはあまりわかっていない
という。
少々ぞっとするような方法ではあるが、より大きな魚類の胃の内容物を調べることでこの魚についての情
報を収集してきた。オニハダカを捕食する生物はタツノオトシゴや、深海に住む鋭い歯をもったオニキン
メ(fangtooths)などであることがわかっている。
オニハダカの生態は完全には明らかになっていないものの、他の生物をはるかにしのぐ数が存在し、地球
上で最も数の多い脊椎動物であると科学者が自信をもって断言できるに足るだけの情報は得られている。
鳥類に関して書かれた『The Thing With Feathers(羽毛を持つもの)』の著者である Noah Strycker 氏は、最近
のインタービューで、いかなる他の脊椎動物よりもニワトリ族の鳥類の生息数が多いと述べている。
同氏は、地球に生息するニワトリ
族の総数は 240 億羽としている。
対して、魚族学者らは、オニハダカ
属の魚類は数百兆か数千兆か、そ
れ以上が生息しているとしている。
カリフォルニア州ペタルーマにあ
る先進生態系研究を行う Farallon
Institute 所属の魚類研究者である
Peter C. Davison 氏は「どんな他の
生物もオニハダカ属の生息数には
はるかに及ばない。海洋の 1 立方
メートルあたりのオニハダカの生
息数は 12 匹だ」と言う。
オニハダカは肉食の深海魚で、ギ
William Beebe 氏(左)は、1930 年代初頭に暗い深海で、初めてオニハダカ属の
魚類を見た科学者である。彼は、Otis Barton 氏(右)が設計したバチスフィア
(深海調査用潜水球)で潜水した。
リシャ語で”円形“という意味を持
つ Cycloyhone という名の属である
が、この名前は明らかにその生物
の大きく割けた口に由来する。ま
た、彼らは円口類としても知られる。
この属には、shadow bristlemouth 等 13 種が属している。それぞれの違いは、ひれの形や発光器官に見られ
るわずかな違いであり、どの種も、針のような歯をもっている。すべての種が 1~3 インチほどの全長で、
色は黄褐色から黒色、時に幽霊のように半透明になる。
この魚がどこにでも存在することを発見する最初のきっかけは、地球上を1872年から76年にかけて航行し
海洋学の基礎を築く一助となった、イギリスの船、H.M.S. Challenger号の航海中のことである。その船
は、数十もの研究対象海洋区域に網を下ろし、水深3マイルの深さに住む生物を引き上げたのだ。
この研究航海のレポートには、その小さな魚のことがこう記されている―列をなす発光器官と、大きな
顎、そして鋭い歯をもつ。―ほかの種についても書かれてはいたが、内容はわずかであり、その魚の生態
を知ることは困難であった。
暗闇に住む動物たちについて研究を初めて行ったのはWilliam Beebe氏で、それは1930年代初頭のことであ
った。Beebeは現在ではWildlife Conservation Societyとなっている団体の上級研究員であり、バミューダ島
沖の深海に球形潜水艇で潜って、丸窓から初めて見る珍しい生物を観察した。
「数えきれないほどの小さな生物」が船の発する光線を横切った、と彼が1934年に発表した本『Half Mile
Down(半マイル水中)』に記されている。のちに、それらはオニハダカであったことが明らかになった。そ
の本の挿絵には、大きく口を開けた一群がカイアシ類(長い触角をもつ微生物類)の群れを追う様子が描か
れている。
より多くの網が投じられ、より多くのダイバーたちが深海を探索するようになるにつれ、オニハダカ属の
生息数の多さがわかり、1954年までに、大英博物館の著名な海洋生物学者で、『Aspects of Deep Sea
Biology(深海生物の形態』の著者であるN.B. Marshall氏はその魚を「海洋中で最もありふれた魚」と称し
ている。
だが、この後、ある謎がこの主張を脅かすことにある。
(後編へ続く)