古代エジプト軍事史

古代エジプト軍事史
序文
古代エジプトが初めて統一されてから、前 342 年に最後のエジプト人ファラオが退位す
るまでの期間は 2500 年を超える非常に長大なものである。当然のことであるがその間に戦
闘において使用される武器や軍隊は大きく変化した。そもそも古代エジプトの統一は鉄器
の発明の遥か以前であり、当時は職業軍人というものも存在してはいなかった。また、エジ
プト王国が長きにわたって存在していた間に周辺においては数多くの国々が興亡を繰り返
し、豊かな土地を持つエジプトを脅かし続けた。国家の地位を安定させるためエジプト王は
軍事遠征を行わねばならず、ときには大規模な軍事衝突が発生することもあった。さらにエ
ジプト自体が河岸段丘に挟まれた上エジプトとデルタが形成する下エジプトという二つの
領域からなるために、南北が対立して分裂する事態がたびたび起こった。本稿では、最後の
エジプト人ファラオが退位するまでの古代エジプトにおける武器・軍事政策・戦争の歴史に
ついて、政治・国際情勢を交えながら記述していく。
古代エジプトの統一
統一以前のエジプトにおける主な武器は弓矢と棍棒であった。弓は木の棒の両端に動物
の角を取り付けて弦を張った単純なものであった。弓矢は戦いの象徴とされ、「軍隊」は弓
と矢筒を持った射手のヒエログリフによって表された。一方棍棒は、上エジプトと下エジプ
トで形状が異なり、上エジプトでは円錐形の頭部を持つメヌウ棍棒、下エジプトでは洋梨型
の頭部を持つヘジュ棍棒が用いられた。ヘジュ棍棒はメソポタミアから取り入れられたも
のだったようである。弓が戦闘の象徴であったのに対し、棍棒は先王朝時代には既に権力の
象徴とみなされるようになっていた。
古代エジプトの統一は前 3000 年頃に上エジプト勢力が中心となって下エジプト統合と
いう形で行われたと考えられている。この過程の中で上エジプト勢力は下エジプトのヘジ
ュ棍棒を採用し、メヌウ棍棒は急速にすたれていった。一方ヘジュ棍棒はエジプト全土で使
用されるようになり、また王が敵に対しヘジュ棍棒を振りかざす姿は王の権力を示す肖像
としてローマ支配の時代に至るまで受け継がれていった。
初期王朝時代から古王国の繁栄へ
統一直後のエジプトは平穏ではなく、反乱も起こった。エジプトの統一を保つため、初期
の王は上下エジプトの境界に首都メンフィスを建造した。第1王朝(前 3000 頃~前 2800
頃)の王たちは国土防衛と資源獲得のため南方のヌビアとの戦いやシナイ半島への遠征を
開始した。当時のエジプトの軍隊は主に傭兵で構成されており、この後ヌビア人たちは軍隊
の中核をなすようになっていった。
第1王朝の後半には上下エジプト間での勢力争いが起こり、第2王朝(前 2800 頃~前
2650 頃)後半になると両者は政治・宗教両面で強く対立した。対立は内乱にまで発展し、
初期王朝時代最後の王の治世下には下エジプト側が上エジプト側の中心地ネケブを攻撃し
た。下エジプト側であった王はこれを鎮め、反乱を鎮圧して国土の統一を回復させた。
初期王朝時代に続く古王国時代前半の王たちは、国の外側へと強い関心を向けた。第3王
朝(前 2650 頃~前 2600 頃)2代目の王ジェセルは、シナイ半島の鉱物資源獲得に熱心で、
遠征に力を入れた。彼はまたヌビアとの戦いを行って第1カタラクト1のアスワン付近まで
南の版図を拡大した。アスワンは軍事上の要衝となり、この後古代エジプト人たちはアスワ
ン以北をエジプトと認識するようになった。第4王朝(前 2600 頃~前 2475 頃)初代のス
ネフェルもまた、積極的な国外遠征を行った。彼はリビアやヌビアへと大規模な軍事遠征を
行い、シナイ半島へと親征を行ったという。彼の治世下の軍事遠征や交易は国力を高め、次
代のクフ王のもとでの繁栄をもたらした。
最初の混乱期
大ピラミッドの建造で知られるクフのもとで古王国は黄金期を迎えたが、その後は徐々
に衰退していった。第5王朝(前 2475 頃~前 2325 頃)時代には南方の国境は後退し、さ
らに後継者問題による政情不安が起こった。第6王朝(前 2325 頃~前 2200 頃)の成立で
政情は安定したものの、王権は急速に衰退していった。それでも軍事遠征は盛んに行われ、
軍隊を南パレスティナまで進めたこともあった。しかしこれらの軍事遠征はあくまで交易
路の確保のためであり、直接的支配を狙うものではなかった。そのため末期にはヌビアでの
反乱が拡大し、王はたびたび軍隊を送らねばならなかった。第6王朝後半には地方勢力が台
頭し、さらにデルタ地帯はアジア人によって侵略されて王国は分裂した。第1中間期の始ま
りである。
続く2つの王朝はメンフィスを中心とする限られた地域しか掌握してはいなかった。前
2150 年頃に第8王朝が滅亡するとエジプトは内戦に突入する。第1中間期の後半には中部
エジプトのヘラクレオポリスの第 10 王朝とテーベの第 11 王朝(前 2100 頃~前 1975 頃)
が並立することとなった。両者はたびたび衝突したが、その一方で第 10 王朝側はデルタの
アジア人にも警戒せねばならず、南側との衝突には慎重な姿勢であった。
統一は南側によって果たされた。テーベ勢力はヌビアの資源と傭兵を手中に収め、ヘラク
レオポリス勢力に対して優位に立った。第 11 王朝のメンチュヘテプ2世は北方への侵攻を
行い、前 2000 年頃に第 10 王朝を滅ぼして再統一を達成した。ここに中王国時代が始まり、
国の中心はテーベへと移った。
統一後、エジプトはメンチュヘテプ2世の下で平和と繁栄を取り戻し、対外活動も復活し
1
急流地帯。アスワン以南には複数のカタラクトが存在し、これらは古代エジプトにおい
てしばしば南の国境地帯となった。
た。次の王は久しく行われていなかったとみられるワディ・ハンママート2への遠征を行っ
た。これは石材を入手するためのものであったが、同時に地方の反乱分子を制圧する目的も
あった。
第 11 王朝は統一後短期間で終焉し、第 12 王朝(前 1975 頃~前 1800 頃)が始まる。初
さんだつ
代のアメンエムハト1世は王位を簒奪したようで、即位するとすぐ艦隊でナイル川を航行
して各地の敵対勢力を制圧した。さらに彼は国内を安定させるため様々な変革を行った。上
下エジプトに目を配るためメンフィスの近くに要塞都市イチタウイを築いて都とし、さら
に東方の守りを固めるため「支配者の壁」と呼ばれる要塞群を築いた。
第 12 王朝の王たちはヌビア方面の支配に力を入れた。南部にカタラクトを迂回する運河
しゅんせつ
を浚 渫 し、南部の国境を拡大した。これまでのヌビア侵攻は遠征隊の派遣が中心であった
が、この時代になると王たちは要塞群を建設し、兵士を駐屯させるようになった。しかし今
まで同様にこれらの軍事行動は直接支配を目指すものではなく、あくまでヌビアの資源を
確保するためのものであった。また、この時代には初めて西方のオアシス地帯への遠征が行
われた。一方アジアへも遠征が行われたが、これは主に報復・略奪を目的としたものであっ
た。
エジプトとヒクソス
中王国時代、西アジア系の人々がナイルデルタ東部に移住し定着するようになった。これ
らの定住者たちは次第に勢力を増していきヒクソス3と呼ばれた。一方第 13 王朝(前 1800
頃~前 1650 頃)は第2中間期最初の王朝とされるものの、ある程度全土への影響力を保持
していた。しかしこの王朝が崩壊するとエジプトは再び分裂していった。その中でヒクソス
は王朝を打ち立てるまでに力をつけた。
ふくごうきゅう
ヒクソスはそれまでエジプトになかった複合 弓 、馬、戦車(戦闘用二輪馬車)といった
新たな軍事力を持っていた。複合弓は数種類の材料を張り合わせた弓である。当時のエジプ
トでは約 50mの射程距離を持つ単弓が普及していたが、複合弓は射程距離・張力・射出速
度の全てにおいてこれを大きく上回っていた。機動力に優れる馬と戦車もまたエジプトに
とって大きな脅威となった。ヒクソスは侵攻を進めてメンフィスを陥落させ、下エジプトを
支配するようになっていった。
第2中間期の後半(前 1650 頃~前 1550 頃)には、ヒクソス政権だったアヴァリスの第
15 王朝とテーベの第 17 王朝が有力になり、中部エジプトのクサエを境界として両者がエ
ジプトを南北に分ける状態となった。第 17 王朝の初期の王たちはヒクソスとの直接対決を
避けたが、タア2世の時代に対立は頂点に達した。第 17 王朝側はヒクソスの軍事技術を導
入し、改良を加えて軍事力を強化していた。一方のヒクソスは、ヌビアのケルマに興った自
治集団と手を組み第 17 王朝を討伐しようとした。両者は激突し、タア2世は頭部に重傷を
2
3
か れ だ に
上エジプトのコプトス付近から紅海へと続く涸れ谷。交易路・石材の調達地であった。
「異国の支配者たち」を意味するヘカウ・カスウトに由来する。
負って戦死した。結局、ヒクソスの討伐はタア2世の息子の一人イアフメス1世4によって
なされた。彼は北進してヒクソス勢力をデルタ地帯から駆逐し、更にシリアまで追撃して滅
ぼした。これにより上下エジプトは再び統一され、新王国時代が始まることになるのである。
新王国の領域拡大
新王国時代の軍事は、ヒクソスとの遭遇以前のものからは大きく変容していた。それまで
の軍は弓矢隊と剣隊からなる歩兵隊中心で、また各ノモス5から軍隊を招集するという仕組
みであった。しかし新王国においては戦車が軍隊の中で大きな役割を果たすようになり、ま
た兵士が職業として確立して国家が常備軍を所有するようになった。エジプトの戦車は御
者と戦士の2人乗りへと改良されており、速度や小回りでアジアの戦車に勝るものであっ
た。軍隊ではときに王が兼任することもあった最高司令官の下に複数の大将が配されてい
た。王子たちはしばしば大将に任命され、軍事の経験を積んだのであった。
ヒクソス勢力を追放したイアフメス1世は、シリアで新たな脅威に直面した。ミタンニで
ある。ミタンニはシリアにおいて強勢を誇っており、統一後間もないエジプトを脅かす可能
性があった。イアフメス1世は危機を回避するため戦争で東の国境を封鎖し、さらにヒクソ
スと手を結んでいたケルマの勢力を服属させてヌビアを直轄領とした。
第 18 王朝時代前半には支配領域が大きく拡大した。特に3代目のトトメス1世は幾度も
遠征を行い、東はユーフラテス川、南は第4カタラクトまでの広大な領域を支配下に置いた。
しかしこの時代の東方遠征の主要目的は人的・物的資源の獲得とミタンニの牽制であり、シ
リア・パレスティナを直接支配しようとするものではなかった。エジプトは侵略を防ぐため
事前に攻撃を仕掛ける「攻撃的防御」としての遠征を繰り返さざるを得なかった。しかし2
代後のトトメス3世と共同統治を行ったハトシェプスト女王は軍事にあまり力を入れなか
ったようで、その間にアジアの地域はエジプトから離反していきエジプトの支配領域は縮
小した。
これに危機感を募らせたトトメス3世は、前 1450 年頃に単独統治を開始すると東方との
戦いを開始し、以降 17 回にわたって遠征を行った。彼は国境を再びユーフラテス川まで押
し広げ、ミタンニとも直接衝突してその版図を後退させた。トトメス3世はヌビアへも遠征
を行い、中王国時代に造られた運河を浚渫した。こうしてエジプトは支配領域を回復するの
みならず最大版図を手に入れた。彼は諸国が反乱を起こさないよう、征服した都市に親エジ
プト諸侯を配置し、また諸侯の子息をエジプトで教育する人質政策をとった。トトメス3世
が死去するとアジア諸都市は反乱を起こしたが、次の王アメンヘテプ2世はこれを鎮圧、ア
ジアへの支配を改めて強固なものとした。またこのころから、軍隊関係の官僚の登用が目に
つくようになる。
イアフメス1世は第 17 王朝の家系であるが、第 18 王朝(前 1550 頃~前 1290 頃)の
初代とみなされている。
5 古代エジプトの地方行政区分を表す語。エジプト語ではセパトといった。
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ヒッタイトの脅威とアマルナの混乱
アメンヘテプ3世の時代に、新王国時代は黄金期を迎えた。先王たちの手で支配の基礎が
固められていたため、彼の治世は戦乱が起こることもなく比較的平和な時代となった。しか
しその一方で、東方では鉄器製造を半ば独占したヒッタイトが強大化してエジプトにまで
影響を及ぼしかねない存在になっていた。これにより国際関係に変化が生じ、エジプトはそ
れまで主要敵国であったミタンニと同盟し、関係を強めるため政略結婚を行うようになっ
た。アメンヘテプ3世も盛んな結婚外交を行い、ミタンニをはじめとする諸国の王女を王妃
として迎えて対ヒッタイトの連携を強化した。これによりアジアの領土は一時安定した。し
かし支配者の代替わりでこの政策も効果が薄れ、さらにアジア遠征が行われなかったこと
で一部のアジア諸都市の属王たちはエジプトよりもヒッタイトに目を向けるようになった。
前 1350 年頃にアメンヘテプ3世の跡を継いだアメンヘテプ4世は、アクエンアテンと改
名して宗教改革を行った。いわゆるアマルナ改革である。一方シリアではヒッタイトが侵攻
を進めており、属王たちはエジプトに援助を要請した。しかしアクエンアテンは改革にかか
りきりでこれに応えず、結果シリア・パレスティナの都市国家の多くはエジプトから離反し
た。
アクエンアテンが死去すると、トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)の下で宗教は従来
のものへ戻り、また最高指揮官ホルエムヘブが軍事遠征を行ってアジアにおける影響力を
回復した。ホルエムヘブは後に王となり、軍を2人の司令官の下に分割するなどして国内の
政情安定に努めた。
相次ぐ外敵との戦い
ホルエムヘブは部下のラメセス1世に王位を譲り、第 19 王朝(前 1290 頃~前 1185 頃)
が始まった。2代目のセティ1世は国力を盛り返すため事業を起こし、国外への進出を行っ
た。その中で、エジプトは初めてヒッタイトとの直接衝突を起こした。この頃にはヒッタイ
トは強大な国家となってエジプトの支配領域に勢力を拡大していた。
セティ1世の跡を継いだラメセス2世は、アジアで反乱が起こったのを機に史上最大規
模の軍隊を招集し、ヒッタイトとの戦いに打って出た。前 1275 年頃に両者はオロンテス川
流域のカデシュで衝突した。最初エジプト軍は危機的な状態に陥ったが何とか持ち直し、結
局戦いはヒッタイト優勢の引き分けに終わったようである。戦いの後ヒッタイト側は和平
を提案したが、ラメセス2世はこれを拒否し、なおも遠征を繰り返した。しかし最終的にシ
リア北部の確保は不可能と判断し、一方のヒッタイトも国内問題とミタンニを滅ぼして強
大化を始めていたアッシリアの脅威から、エジプトとの敵対を避けようとしていた。そこで
ラメセス2世はヒッタイトと相互不可侵・援助を内容とする和平条約を締結した。
ラメセス2世の治世後半は比較的平穏であった。しかし国際情勢は大きく変わり始めて
いた。東地中海沿岸において「海の民」と呼ばれる諸民族の移動が諸国に影響を与え始めて
いたのである。ヒッタイトも領土を脅かされ、ラメセス2世の後継者メルエンプタハは救援
物資を送った。またメルエンプタハの治世下には西方国境でリビアとの紛争が起こった。リ
ビアの侵攻は各地での反乱を助長したが、王はすぐにこれを鎮圧した。
第 20 王朝(前 1185 頃~前 1070 頃)のラメセス3世の時代になると、
「海の民」の脅威
は巨大なものとなっていた。大移動はヒッタイトをはじめとする東地中海沿岸の国々に大
打撃を与えて国際情勢を一変させた。前 1175 年頃、ついに「海の民」は陸路・海路の両方
からエジプトへと侵攻してきた。ラメセス3世はまず陸側を撃退し、さらに海側も海岸と船
上から弓を射かけることで勝利、
「海の民」を追い払うことに成功した。
ラメセス3世の時代の外患は「海の民」だけではなかった。ヌビアは支配地として安定し
ていたが、西方のリビアでは紛争が相次いだ。以前から続いていたリビアの諸民族の侵入が
激化したのである。ラメセス3世はこれを壊滅させ、多くの戦利品を得た。一方で新王国時
代後期にはリビア人たちは軍人として王に雇われ、警察組織の中で活躍するようになった。
彼らはマアもしくはメシュウェシュと呼ばれ、単なる臣下ではない独自の立場を持ってい
た。
南北の再分裂と異国人による再統一
ラメセス3世の死後、王権は急速に弱体化していき、領土も縮小していった。さらに外患
により王の目が北側に向いていたために、上エジプトは独立の傾向を強めていった。ラメセ
ス 11 世の時代にはテーベでアメン大司祭が頭角を現し、ヌビア総督と争うようになった。
ラメセス 11 世は将軍を送って混乱を収束させようとしたが、争いは三つ巴の様相となって
激化し断続的な争いが続いた。この後ヌビア総督は南に退き、上エジプトの実権はアメン大
司祭が掌握するようになって前 1080 年頃には事実上の独立状態6となった。
ラメセス 11 世が死去すると、デルタ東部のタニスでネスバネブデデトが即位し第 21 王
朝(前 1070 頃~前 945 頃)を開いた。ここに3度目の中間期が始まる。国土は分裂しテー
ベではリビア人による略奪や内戦が続いていたものの、南北の政権はそれぞれの支配権を
認め合っていたようで、互いに婚姻関係を結んで関係を強化した。
第 21 王朝の系譜が途絶えた後に王位についたのは、メシュウェシュの首長シェションク
1世であった。第 22 王朝(前 945 頃~前 735 頃)を開いた彼は上下エジプトを統一するこ
とに成功し、さらにはパレスティナを攻撃してユダ・イスラエル両王国を破った。シェショ
ンク1世は要所に親族を置いて統一の維持を図ったが、約 100 年後テーベの支配権をめぐ
って王族の間で内紛が起こった。その後第 23 王朝(前 830 頃~前 715 頃)が分離して統一
は再び破れ、さらに各地に王を名乗る人物が乱立する不安定な状態となった。
エジプトの騒乱状態は諸外国にとってエジプト侵攻の絶好の機会であった。アジアでは
アッシリアが領土拡大を始めており、シリア・パレスティナへの侵攻を開始した。エジプト
側はアジアの小都市国家と同盟し、前 853 年オロンテス川岸のカルカルでアッシリア軍を
6
テーベ神権国家、アメン大司祭国家などと呼ばれる。
破ることに成功し進撃を食い止めた。
第 21 王朝以降エジプトの支配から離れたヌビアも次第に力をつけ、前8世紀後半にはテ
ーベをも勢力下に入れるようになった。一方のエジプトは4人の王が分割統治を行う状態
となっていた。これを見たヌビアのクシュ王ピイは北伐を始め、エジプト側は同盟を組んで
これに対抗しようとした。ピイは進路を阻まれつつも第 24 王朝(前 730 頃~前 715 頃)軍
をメンフィスまで退却させ撃破することに成功した。ピイはエジプト王に即位し、第 25 王
朝(前 745 頃~前 655 頃)を開いた。エジプトの統一は彼の後継者によって達成された。
アッシリア支配から新たな時代へ
エジプトを統一しメンフィスに移ったクシュ王は、アッシリアの脅威を目の当たりにす
ることとなった。最初は中立・不干渉策をとっていたが、その後パレスティナへ積極的に手
を伸ばそうとした。アッシリア側はこれをエジプトが反乱を扇動していると見做し、前 674
年頃にエジプトへの侵攻を開始した。エジプト側はフェニキア人、シリア人、キプロス人、
そしてエジプト人の兵士たちを動員してこれに対抗しようとした。エジプト軍は国境付近
でアッシリア軍を一時撃退した。しかし鉄鉱石の産地を押さえて鉄製武器で武装したアッ
シリア軍と青銅製武器を主体とするエジプト軍の戦力差は大きかった。間もなく状況は逆
転し、アッシリア軍は再度エジプトに侵攻してメンフィスを占領した。その後王の死でアッ
シリア軍が一時撤退したためエジプト北部で反乱が起きたが、新王アッシュルバニパルは
これを鎮圧、エジプトを占領した。クシュ王はヌビアに敗走、次の王がエジプト奪回を試み
たものの結局失敗した。
かいらい
エジプトを征服したアッシリアだったが、自国で後継者争いが起こったため統治を傀儡
の王に任せてエジプトから撤退した。傀儡王で第 26 王朝(前 664~前 525)初代のプサム
テク1世はテーベ勢力と協力関係を結ぶことでエジプトの分裂を防ぎ、またイオニア人・カ
リア人を中心とした軍隊を徴兵して王権を強化した。彼はアスワンにカリア人傭兵を駐屯
させてヌビア勢力の封じ込めを図り、デルタでは反乱の鎮圧に力を注いだ。国力を回復させ
ることに成功したプサムテク1世はアッシリアの内紛に乗じて前 653 年にその支配から脱
却、ついに独立を達成した。
アッシリアの弱体化により西アジアは不安定な状態となった。新バビロニアをはじめと
する新たな勢力が台頭し始めたのである。プサムテク1世はこの危険に気付いてアッシリ
アを支援したが、その甲斐なく前 612 年にアッシリアは滅亡した。
第 26 王朝時代に入るとエジプトは地中海世界とこれまで以上に積極的な交流を行うよう
になり、エジプトには多くのギリシア人がやってくるようになった。彼らは傭兵として雇わ
れて活躍し、2代目のネカウ2世の治世下にはイオニア人を中心としてエジプト海軍が創
設された。以降ギリシア人たちはエジプト軍で大きな役割を持つようになる。第 26 王朝時
代には国内は安定し、王たちは対外進出に力を注いだ。東方ではパレスティナを再び支配下
に収めることに成功し、一方南方のヌビアへは、なおも存続していたクシュ王国の牽制と金
の獲得のために傭兵団による遠征が行われた。
アケメネス朝の台頭とエジプト王国の崩壊
エジプトに再びの繁栄をもたらした第 26 王朝であったが、その後半には国内外での軍事
問題に見舞われた。4代目の王ウアフイブラーの時代、東方では新バビロニアが勢力を拡大
していた。国内でも、アスワンでは駐屯軍が反乱を起こし、またリビア方面ではドーリア人
が侵入し支援に向かったエジプト軍に大打撃を与えた。生存部隊がリビアから帰還したと
き、エジプト人の軍と傭兵部隊が対立、内戦が起こった。軍隊は結局将軍イアフメス側につ
き、前 570 年ウアフイブラーは殺害されてイアフメス2世が即位した。
第 26 王朝末期には、新バビロニアに代わってアケメネス朝ペルシアが新たな脅威となっ
た。前 525 年、ペルシア王カンビュセス2世はエジプトに侵攻した。即位して間もなかっ
たエジプト王プサムテク3世はデルタ東部のペルシウムでこれを迎え撃ったが、対抗する
力はなく敗れた。カンビュセス2世はエジプトを征服し、ペルシア支配である第 27 王朝(前
525~前 401)が始まった。
第 27 王朝初めの王2人は親エジプト策をとった。しかし 2 代目のダレイオス1世がギ
リシアとの戦いで敗れたのを機に、エジプトでは反乱が起こった。次代のクセルクセスによ
って反乱は厳しく鎮圧されたが、クセルクセスが死去すると再び反乱が発生した。この反乱
はギリシア人の助けもあって最初こそ成功したものの結局失敗し、その後はしばらく平穏
な時代となった。しかし5代目ダレイオス2世の時代、デルタ西部のサイスのアミルタイオ
スを中心として再び反乱が起こる。当時のサイス軍はギリシア人傭兵を中心としていた。ダ
レイオス2世が死去するとアミルタイオスは第 28 王朝(前 405 頃~前 399)を開き、前
401 年ペルシアの内紛に乗じて独立を獲得した。
第 28 王朝はアミルタイオス1代で終了し、第 29 王朝(前 399~前 380)が始まった。第
29 王朝の王たちはペルシアに対抗するため、ギリシア勢力と手を結んだ。特に3代目のハ
コルはエジプト海軍を強化、さらにギリシア系傭兵を多数雇い入れてペルシアに反抗した。
ハコルの死後間もなく第 30 王朝(前 380~前 342)が成立する。第 30 王朝間もなくペ
ルシア軍がエジプトに侵入した。エジプト軍は初めこれに敗れたが、侵入軍の内部対立によ
りメンフィスへの侵攻が遅れたため、エジプト側は体勢を立て直して反撃に成功した。3代
目のジェドホルはギリシア人傭兵を雇ってペルシアへの反撃とシリア獲得を狙った。しか
し彼は傭兵への支給のために重税を課したため、政変が起こって退位させられた。
次の王ナクトホルヘブの治世前半はペルシアの内紛により侵略を免れた。しかし治世後
半、ペルシアでは新王アルタクセルクセス3世が権力を掌握してエジプト侵攻を狙うよう
になった。ナクトホルへブはこれに対処するためデルタ東部のペルシウムに約 10 万の兵を
配置した。その約5分の1はギリシア人であった。しかしこうした対策も最早意味をなさず
前 342 年にペルシウムは陥落、間もなくメンフィスも陥落した。ナクトホルへブはヌビア
へ逃れ、エジプト人ファラオがエジプトを支配する時代は終わりを迎えた。
図1.古代エジプト王国
図 2.ヌビア
図 3.古代オリエント世界
※図1~3は各参考資料をもとに作成
参考文献
青柳正規 『興亡の世界史 第 00 巻 人類文明の黎明と暮れ方』 講談社 2009 年
笈川博一 『面白いほどよくわかる古代エジプト』
日本文芸社 2007 年
大貫良夫・前川和也・渡辺和子・屋形禎亮 『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』
中央公論社 1998 年
近藤二郎
『わかってきた星座神話の起源―エジプト・ナイルの星座』
誠文堂新光社
2010 年
ジョイス・ティルディスレイ
『古代エジプト女王・王妃歴代誌』
月森左知訳
創元社
2008 年
ピーター・クレイトン 『古代エジプトファラオ歴代誌』 藤沢邦子訳 創元社 1999 年
マリア・カルメラ・ベトロ
『図説 ヒエログリフ事典』 南條郁子訳 創元社 2001 年
山花京子 『古代エジプトの歴史 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで』 慶応義塾
大学出版会 2010 年
歴史学研究会編 『世界史資料1 古代のオリエントと地中海世界』 岩波書店 2012 年