pioggia ~ 雨 ~

pioggia ~ 雨 ~
数ある隠れ家のうち、最もボロく汚いそこに俺がたどり着いた時、時
刻は既に日付を変えていた。フィオーレのしつこい追手を振り切り、逃
げ込んだそこはスラム街。その中でも最も日が当たらない、今にも崩れ
落ちそうなアパートの一角。電気もガスも来ていない、真っ暗な部屋の
中を手持ちのライターの灯りだけで一歩、また一歩自分の行く先を照ら
しながら進んでいくと、目の前にようやくソファの姿が目に飛び込んで
くる。ずきずきと痛む足を庇いながら、どかっと腰を降ろすと、まるで
誰かの悲鳴の様な音が耳を衝いた。
ろくに掃除もされていない、湿って澱み切った空気に包まれた暗い部
屋の中、体を休めつつも全身の感覚を研ぎ澄ませ、追手の気配がないか
探りながら窓の外を眺める。黒カビがびっしりと住み着いた窓枠、そこ
へいつの間に降りだしたのか透明の雫達がはり付く。それらは徐々に数
を増やし、やがて無数の筋となって流れだす。逃げ回っている最中に降
られなくて良かったと考えつつも、雨には嫌な思い出しかないので視線
をそらせば、暗闇に慣れた目がおびただしい空の酒瓶を捉えた。
「ちっ。これも、これも無しか」
傷の消毒代りに、どれか中身が入っていないかと確かめてみたもの
の、どれもこれも、ものの見事にきれいに飲み干されている。代わり見
つけたのは吸い殻が入った灰皿、裸の女のグラビア数冊。誰のだか分か
らない、片方だけの靴下。そしてふたの空いた缶詰。そこから漂う、オ
イルの匂いとラベルに書かれたイワシのイラストから、中身がオイル・
サーディンと分かるが、その匂いが今はやけに胸がむかついて、手でそ
れをテーブルの上から乱暴に払いのける。間抜けな音と共に、むき出し
のコンクリの床に散らばるイワシの切り身。すると誰もいないと思って
いた部屋の隅で何かがこそり、と音をたてた。
「……誰だ」
素早く腰に手を当て愛用の拳銃を取り出し、いつでもように攻撃出来
るように体勢を整えているが、心臓はうるさくその鼓動を強めている。
追手は確かにまいたはずだ、もう気がつかれたのか。足音は全く聞こえ
なかった、雨の音でがかき消されてしまったか。だから雨は嫌いなんだ
とイラつきながらも、どうやってこの場を切り抜けようか、残りの装弾
はどれだけあったかとグリップを握る手に力を込めれば、暗闇から聞こ
えて来たのは「うなぁ」という、小さな小さな、獣の声だった。
「っ、なんだ猫か。脅かすんじゃないよ」
声とともに視線の先に現れたのは、目つきがひどく悪い一匹の子猫。
浮いたあばら骨に、細くて枯れ木の様な手足。あちこち汚れて、元の毛
並みや色が分からなくなったその体に警戒を解くと、仔猫はこちらを
じっと眺めてにゃぁ、とまた小さな鳴き声をあげる。憐みを誘うような
声に、ぴるぴると小刻みに震える、耳と体。ほの暗い室内で光る瞳は2
つあるはずなのに、ひとつしか確認出来ない。片目か、とよく観察すれ
ば、向かって左側の瞳全体が白く濁っていた。
今の体の大きさからその眼だとすると、恐らく生まれつきの障害なの
だろう。首環もなにもつけてはいないし、飼い猫ではない。野良猫とし
てこの世に生を受けたがいいが、その瞳ゆえに親兄弟の行動についてい
けずに見捨てられたか。と考えていると、おずおずとした様子で仔猫は
こっちに向かって歩みを進めて来た。
「しっしっ、どっかいけ。俺は今気がたっているんだ、殺すよ」
夜の街、スラム街。その中でも最低の暮らししか出来ない、半分棺桶
に足を突っ込んだ人間が息をひそめる場所。どこに救いを求めても何を
祈っても、報われない救われない、誰からも見捨てられた冷たい場所。
そんな場所で例えお前が命を落としたって、誰も振り返ることはない
し、涙を流しはしないんだと考えながら、右手で払う様な仕草を繰り返
すけれど、こちらが見えていないのか、はたまた見ようとしていないの
か?仔猫はゆっくりとではあるが、確実にソファーの方角に歩を進め
る。
もしかして目だけじゃなくて、脳ミソまでいかれてるのか?と言いな
がら手近にあった、吸い殻山盛りの灰皿に手をかける。その仕草に瞬間
びくり、と動きを止めた仔猫だが、止まったのはほんのわずかな時間。
再び音もなくこちらへと歩を進めるその視線の先をたどれば、そこには
さっき自分が払いのけた、缶詰の中身にたどり着いた。
「なに、腹減ってんの?」
これの匂いを嗅ぎ付けて入ってきたのか。と言いながら床にひっくり
返ってしまった、小さなイワシの切り身を一枚つまみ上げれば、仔猫は
再びその歩を止めるが、視線はそこから離れない。手にしたそれを、ぽ
いっと元あった場所に放り投げれば、「なぁ」と小さな声が上がる。懇
願される様な声に、勝手に言葉が口をついて出ていた。
「喰えば。喰って、さっさと出てけ。俺は忙しいんだよ」
その小さな体の首根っこを掴んで、窓から放り出しても良かったが、
しばらく前まで街中、狭い路地裏や建物の間、道なき道を駆け巡ってい
た体は休養を求めていた。しかもアルバに負わされた刀傷は、とっさの
判断で自身のベルトで止血はしてあるものの、思っているよりも深く、
今もじわじわと傷口から血が流れ出ている。なるだけ無駄な動きはした
くない、動き回って、これ以上血を失いたくはない。再び足を庇いなが
ら、ゆっくりとソファーに腰を下す俺に対し、律儀に「みゃぁ」と小さ
く返事をする仔猫。その絶妙なタイミングに「運がいいね、お前」と思
わず口の端だけで笑った。
「俺のテリトリー内で食事が出来るなんて、光栄に思うんだね」
ま、ちょっとばかし小汚ないレストランだが、そこは我慢しろ。と言
いながら構えを解き、ポケットから携帯を取り出せば、仔猫はまた音も
なくその歩を進める。その姿を見るともなく眺めながら、携帯の着信履
歴を確かめようしたその時、その後ろ足に視線がいった。
「なんだ、お前もドジったの」
後ろ足、向かって左側の後ろ足のそこにある怪我。血は半分位乾いて
いるように見えたが、時折見え隠れする白いそれが、傷の深さを物語っ
ている。母親から見放され、不自由な片目で、その小さな体で必死に生
きていくために食糧を求めている最中にでも負ったのだろうか?それと
も気まぐれな人間どもに、おもちゃの代わりにされた際にでも負わされ
ただろうか。いずれにせよそのまま放置すればそこから細菌が入り、そ
の命はあっさりと終わるのだろう。
ひょこひょこ足をひきずりながらも、やっとありつけたオイル・サー
ディンにかぶりつき、勢いよく咀嚼を続けるその姿に、いっそここでひ
とおもいに楽にしてやろうか。という考えが脳裏を横切る。今や仔猫は
目の前の晩餐に夢中になっていて、こちらの存在には見向きもしない。
よほど腹が減っていたのだろうと思う反面、仔猫の、俺への認識の甘さ
に、思わず反吐がでそうになる。俺はお前が思っている様な、いい人間
なんかじゃないんだぞ。と思いながら拳銃を見つめる。暗い部屋の中、
鈍く光るそれだけが、唯一の灯りに見えた。
ここまで来るために数え切れない人数の命を脅かし、傷つけ、そして
奪ってきた。強くなりたい、力が欲しい。誰にも負けない、全てを制す
る力が欲しい。だからここまで来るまで、どんな仕事でもした。拒ま
ず、ためらわずそして迷うことなく。マフィアに入る前から盗みやスリ
なんか当たり前にしてたし、頼まれればクスリも運んだ。借金の取り立
てに駆り出されたことなんていうのもしょっちゅうだったし、18になる
前までに人殺しも経験した。一番最初の相手は名前も知らないスラムの
住人。爺さんで口やかましくてうるさいから、手に入れた拳銃で脳天に
狙いを定め、一度だけ引き金を引いたら倒れた。眉間を撃ち抜かれ、即
死。人間なんてあっけなく死ぬもんだと、その時改めて思った。
エルドラドを出てからは、1人でイタリア中を渡り歩き、危ない橋
を渡りながも決して後ろは振り返らずに走り続けた。ミラノ、ジェノ
バ、ヴェローナ、ヴェネツィア、ボローニャ、フレンッツェ、ナポリ、
そしてシチリア島。それこそ寝る間も惜しんで、ありとあらゆる裏家業
のスキルを身につけた俺は、数年後にはあちこちのマフィアから、自分
達のファミリーに入らないか。と声がかかるまでになっていた。来れば
即、幹部クラスの待遇を約束すると言う彼らに、待ってる奴がいるから
と誘いを断り、列車に乗り込んだのは今から3年前。座席は当然一番い
いエグセグティブ席。ヒッチハイクをしながらあちこちを移動を繰り返
してたのは、もう過去の話になっていた。
「スケか?お前が忘れられないなんて、どんだけイイ女なんだよ」
「会ってみてぇな、兄さんのいい人」
待たせている奴の為にエルドラドに帰ると言う俺に対し、勝手に女の
元に帰ると勘違いしてる男達に、いい奴だぞと言いながらニヤリと笑え
ば、脳裏に思い出されるのはルビーの様に赤い、虚ろの瞳。元気にして
いるだろうか?まさか勝手にくたばっちゃいないだろうなと考えつつ、
昔の記憶を頼りにフィオーレの屋敷に向かえば、大勢の構成員達に出迎
えられながら車を降り、本部の中に消えていく男達の姿を見つける。
フェンス越し、通行人を装いながら目的の姿を探すけれど、どれもこれ
も違う、なかなか見当たらない。銀髪、黒髪、おバカそうな金髪に、女
みたいに長い髪の男。どいつもこいつも初めて見る顔ばっかだ、フィ
オーレも変わったなと思いながら、もしかしてあいつはもう……と最悪
のシナリオを想像していたら、お疲れ様です!と野太い男達の声がより
一層、大きくなる。黒塗りの車の後部座席からゆっくりと降りてきた、
スーツの上着を肩から引っ掛けている背の高い男。構成員達の様子に、
おおよそそいつが筆頭幹部なんだろうと踏んでその横顔を見た時、歓喜
で一瞬、心臓が止まるかと思った。
生きてた。生きててくれた、俺の、俺の唯一無二の『兄弟』すぐにで
も飛んで行きたい衝動を必死で抑え込みながら、なんとかその場から離
れ、街中へと走り出す。生きてた生きてた生きてた!生きていやがっ
た!しかも随分と偉くなってと考えながら、目についたバールに入り熱
いカッフェを流し込む。赤い髪に整った顔つき。仕立てのいいスーツに
包まれた、あの頃よりもうんと高くなった身長。何もかもすっかり変
わって、いい男になっていたけれど、瞳に宿るどこか空虚な色は昔のま
まで、その事が随分と俺を安心させる。良かった、よかったよジュ
ディ。そのまま大人になってくれて、あの時のまんま大人になってくれ
て。お前が以前と変わってものすごくいい奴になってたら、俺がお前を
ぶち殺す理由がなくなってしまう。そう考えながら2杯目のカッフェを
注文していたら、どこからともなくフィオーレと、それに相反する勢力
のマフィアの話が耳に飛び込んでくる。エルドラドの安全を守るフィ
オーレ・ファミリーと、そこに侵攻しようとしているヴィスキオ・ファ
ミリーという名前のマフィアの話に、これから俺の進むべき道を見つけ
たと思った。
長年抱いてきた夢、俺を捨てたジュディへの復讐。そのチャンスを待
ち望みながら色々準備していたそんな時、フィオーレの元に放っておい
た部下が変わった情報を掴んできた。彼等の元に女がやって来たという
話に、幹部連中どもの女かと訊けば、顔を見た部下はその様な感じでも
ないと首を横に振る。
「随分と丁寧な対応でボス代理、筆頭幹部のジュディを始め、幹部全員
からも客人としてもてなされ、屋敷にとどまっているようです。年のこ
ろは大体、10代後半から20代前半。外国人、それも東洋人の様で」
見たところ育ちが良さそうな感じですね、世間知らずのお嬢さんとい
うか。と話す部下の言葉に、女の写真を撮ってくる様に告げる。マフィ
アの女になるなら目ぇつむってたって、ナイフや拳銃の扱いの出来る位
の腕と、人並み外れた度胸がある女じゃなければなれないと思うが、あ
の甘ちゃんのジュディなら、お嬢さんみたいなタイプもありなのかもし
れない。いずれにせよ、フィオーレに関する情報なら何でも、いくつ
あってもいい。上手く撮れた奴には褒美を出してやると部下を煽れば、
数日後に俺の元に若い構成員が飛び込んできた。
「写真、写真撮れましたぁ、グレゴリーさん!」
いやはやあいつらガードキツくて、マジで苦労しましたよ~とぼやく
部下から受け取った1枚の写真には、背のちっこいガキみたいな男と並
んで、川を眺めている微笑んでいる少女の姿が写っている。男の方はア
ルバか、こいつ確か相当なバカだって話だよねと呟く俺に、その場に居
合わせた部下達はどっと笑い声を上げるけれど、武器である日本刀の腕
は相当なものだと聞いている。あれ頭で考えて動いてるんじゃなくて、
もう脊髄反射で行動してるんですよ、動物っすよ動物~。という誰かの
比喩に、またどっと笑い声が上がっていたけれど、そういう奴にほど手
こずらされる事もある。いずれにせよ、幹部であるアルバが護衛につい
ているとは、フィオーレの奴らにとって彼女は余程大事な存在であるこ
とには違いない。写真を撮った構成員によくやったと言いながら、約束
通り何枚かの紙幣を差し出せば、他の構成員達の興味は一斉にそちらに
移る。この前貸した金返せだのやれ今晩奢れだの、やかましくなった部
屋から写真を手に自分の車へと移動する。誰もいない車内で改めて写真
の女の方に視線を移した瞬間、ざわりと震える胸。茶色の柔らかそうな
髪に大きく黒い、オニキスのように光る濡れた瞳。白くしなやかな手足
に、見る者の心をあたたかく包み込む様な笑顔。この笑顔、そう言えば
どこかで……と考えながら記憶の引き出しをさぐれば、同時に思い出し
たのは、幼い日のあの景色。
間違いないこの笑顔、あの子、あの子だ!ジュディがまだマフィアでも
何でもなかった頃に手を引いて可愛がっていた、あの女の子!
すらりと背も高くなり、当時ぺったんこだったその胸は、今や女らし
く膨らみを帯びている。イタリア女と比べれば、まだまだ足りないよう
な気がするが、彼女にはその大きさが十分の様に見えるから不思議だ。
顔立ちはあの頃よりかは幾分か大人びて見えたが、その太陽よりも眩し
い笑顔はあの当時俺にではなく、ジュディにだけに向けられていた。惜
しげもなく、燦々と。
欲しくてほしくて、しかし絶対に決して手に入れることの出来なかっ
た当時の状況を思い出し、胸が詰まる。当時の俺はそれこそ生きること
に必死で、誰かの顔を見て何か思うなんて余裕は全くなかった。それこ
そいっそ死んでしまった方がいいと思いながら震える夜に、それでも残
酷に訪れる朝の光。澱んだ空気が漂うスラムの街中を身をひそめながら
生活する中、生きる糧を求め、危険を承知で街中に出掛けたある日に、
俺は彼女を連れて歩く幸せそうなのジュディの姿を見た。ジェラート屋
のショーケースの中を小さな体で懸命に覗き込もうとする彼女を、見た
こともない位に優しいまなざしで見つめた後、そっとその体を抱き上げ
るジュディ。嬉しそうにストロベリーのジェラートを受け取る彼女に、
金を受け取る店主がジュディに向かって笑いかける。『可愛い妹さんだ
ねぇ』『いいお兄さんだねぇ』その度にやつは少しだけ困ったような、
でも嬉しそうな顔で微笑みながら、彼女の小さな手をとって歩き出す。
昔からある、この街の時計台の展望台へと彼女を導くその微笑みに、ど
れだけ俺は胸をかきむしった事か。俺には、俺にはあんな残酷な仕打ち
をしてきたのに、見捨てたくせに!なんでお前だけがそんなに幸せそう
なんだよ、不公平だろっ!!!
しかしその後、彼女はその後しばらくしてジュディの前から消えたは
ずだ。なぜかは俺にも分からないが、彼女のいなくなった後、ジュディ
の表情は俺がよく知るジュディへと戻っていった。それにしても、どう
してこの街に戻ってきたのだろう?観光?留学?ジュディの知り合いに
しろ、マフィアの本部に泊まる事は不自然だと考える俺が本部で掴んだ
のは、クスリの取引の際、外国人らしき一般人にヴィスキオ構成員や密
売人の顔を見られたという事実。その時現れたフィオーレの連中とは派
手にやり合いになったという話から察するに、ジュディが彼女をヴィス
キオから保護する為に、彼女を本部屋敷でかくまっているという事に気
付く。クスリの取引見られるとか、どんだけ間抜けなんだそいつ。と呆
れていたら、今度は別の構成員が他の情報を持ってくる。その内容には
さすがの俺も、思わず声が上ずった。
「アンジェロの孫娘!?彼女が……」
「はい。しかしアンジェロは周囲にも彼女にも、その事実は伏せていた
ようです。ですから彼女は、自分の祖父は今でも一般人だと思っていま
す」
「……ジュディ、ジュデイちゃんはその事、この子には伝えてるの?」
「話していない模様です。しかもこの事実を把握している人間は、フィ
オーレの中でも筆頭幹部であるジュディと、フィオーレ顧問であるテス
タと呼ばれている人間だけのようです」
恐らくファミリー内に無用な混乱を招きたくないからでしょう。と語
る構成員の言葉に、これはきっと神が初めて俺に賜うた福音だと思っ
た。フィオーレの奴らに復讐するのに、こんなにも格好の餌食は他には
見当たらない。引き続き彼女を観察する様に指示を出しながら頭の中で
彼女を誘拐され、慌てふためくジュディの姿を想像すると胸がときめ
き、鼓動が高鳴るの抑えられなくなる。居ても立っても居られなくて、
その日は自分の目で彼女の姿を確認に出掛けた。
記憶の中の彼女は小さくて、そしてころころとしてたけれど、実際の
姿は写真で見るよりももっと煌めいていて、少し離れた所から見ている
だけでも十分に魅力的に見えた。俺の姿を見つけて、明らかに警戒をす
るアルバの視線をやり過ごしながら、なおも彼女に視線を向けると彼女
とも目があう。俺を見て少しだけ戸惑って揺れる瞳に、出来るだけ優し
く微笑んで軽く手を上げれば、アルバが俺の視線から守る様に彼女の手
を引いていった。
「ボンジョールノ!シニョリーナ、お嬢さん」
彼女に直接声をかける事が出来たのは、それからしばらくしてのこ
と。部下の話通り、常に金魚の糞みたいにくっついているアルバが離れ
た、ほんのわずかな隙を狙いなるだけ驚かさない様にしながら声を掛け
る。女相手にこんなにも優しい声を出したのは、一体何年ぶりだろう
か。彼女と言えば、突然現れた俺に笑顔で対応しつつも、どこか怪訝そ
うな顔をして警戒を強めていた。
……無理もないか、君と出会ったのはもう随分と昔の事で、しかも俺
が一方的に君を知っているだけなんだから。と思いながら、ファースト
コンタクトを無難に終える。それからも彼女がひとりきりになるチャン
スを狙っては、彼女が欲しがっている「おじいさんの情報」を少しずつ
開示していくけれど、決して緩むことのない彼女の頬。募る想いと焦燥
感、苛立ちを覚えていた時、そこに新たな情報が舞い込んでくる。
「どうやらあの小娘、あの幹部と出来たようですぜ。アルバって奴と」
あんなチビのどこがいいんだか。と鼻で笑いながら報告してくる部下
に平静を装いながらも、ふつふつと湧き上がってくる感情を、何とか治
めようとしている所に次いで聞いたのは、フィオーレと協定を組むとい
う、ヴィスキオ本部のふざけた提案。すでにこの話は水面下では着々と
進んでおり、これからはフィオーレのやり方を推進するという情報に、
耐えていた何かが音をたててぷつりと切れる。気づけば俺のやり方に賛
成している部下を引き連れ、ヴィスキオ本部を飛び出していた。長年の
夢を叶える為に。そしてその夜はやって来た。
フィオーレの本部の玄関先で一人、護衛を付けずにそわそわしながら
誰かを待つ彼女を見た時は、身震いがするほど嬉しくて、思わずその場
で叫び声を上げそうになった。待ち人ではない俺の姿に、より一層の警
戒を抱く彼女の腕を掴めば、小鳥の様に軽い体はいとも簡単に俺の腕の
中に収まる。ふんわりとした甘い香りに、どこまでも柔らかな体。驚き
に揺れる瞳、そして小さく慎ましい唇。思わずその場で、何もかも奪い
尽くしてしまいたくなる欲望が頭の中を支配するが、お楽しみは後に
取っておこうと車の中に押し込み、そのままハンドルを握る。突然の出
来事に当然、彼女は必死になって抵抗してきたが、そんなか弱い力は俺
の前では何の効果もない。窓を叩き助けを求める彼女の叫びは、フィ
オーレの誰にも届かない。道すがら、彼女の携帯にアルバから電話がか
かってくるが、もちろん途中で取り上げ窓から放り出す。なぁにが俺が
守ってやるだ、出来もしない事を言うんじゃねぇ。
かび臭い部屋、崩れかけてる壁に、雨漏りしてシミが出来た天井。お
姫様を招待する城としては最低最悪の場所なのに、彼女の瞳の中にはア
ルバや、フィオーレへの信頼と愛情の色しか見えない。可哀そうに、君
は騙されているんだ。お願いだから目を覚ましてくれ。誠心誠意を込め
て、彼女の探し求めるおじいさんはもう、この世にはいないんだという
事を詳しく説明するけれど、彼女が俺に向ける瞳は警戒の色だけ。死ん
だ人間を生きていると嘘をついている悪魔の甘言は信じ、残酷だが真実
は信じてくれない彼女。
「私はアルバ君の事を、フィオーレの事を信じています!」
零れ落ちそうになっている涙を押しとどめ、きっぱりと言い切る言葉
とその瞳の色に瞬間、頭の中で何かが爆ぜた気がした。真実はいつでも
そうだ。本当の事はいつも闇から闇に葬られる。そう、あの雨の日の出
来事の様に。人は誰もの俺の言うことを信じてはくれない。なぜ?と問
いかける心に、迫りくるオレンジの炎、黒い煙。建物が崩れ落ちていく
轟音の中、聞こえる誰かの怒号が鮮やかに脳裏によみがえる。
何とか生き残った、当時まだ構成員でもない子供の俺さえ殺そうと追
いかけてきた、その中にジュデイの父親や兄貴達の姿を見つけた時の気
持ちといったら。それでも何とか彼らから逃げ回り、裏路地でぼんやり
とを佇むジュデイを見つけた時は、九死に一生を得たと思った。子供同
士決して仲は良くないが、それでもジュディは俺を助けてくれるだろ
う。そう思っていたのに、返ってきたのは残酷極まりない一言。
おまえ、だれ?
冷静にならなければいけなかったのだ。いつものように淡々と、そし
て最も効率の良いやり方でジュデイをフィオーレを、アルバを徹底的に
苦しめれば良かったのに、なのにどうしてもそれが出来なかった。脳裏
を甦るあの日の記憶に対し、湧き上がる感情を抑えられず、相手を冷静
に見ることが出来ず、彼女を求める気持ちも抑えられず。結果的には怪
我まで負わされ、逃げる羽目になってしまった。
千載一遇のチャンスだったのに、天より賜うた贈り物だったのに。奥
歯をぎりりとかみしめ、負わされた傷跡に視線を向ければ白のパンツ、
太ももの部分に広がっていく赤いシミは今もじわじわと広がりをみせ、
まるで大輪の薔薇の様な形を作り上げつつある。体力には人一倍自信が
あるが、傷の深さは思ったよりもあるようで、とっさにとったベルトで
の止血も限界が近づいているのが分かる。早く仲間と合流しなければ、
そして計画を練り直さなければ。そう考えながら携帯を操作し、見つけ
た番号をダイアルすれば、何度目かのコールの後に男の声が出た。
「……俺だ」
『グレゴリーさん、今』
今どこにるんですか?という彼の言葉の向こう側で時折聞こえるの
は、アスファルトの水たまりを跳ね上げていくタイヤの音。どうやら向
こうは車での移動中らしい。俺が彼女を連れ去って話をしている間、隠
れ家の周りにも何人かの構成員を配置してあったが、逃げる寸前に目で
確認しただけでも半分以上は倒れ、何人かは銃を突きつけられながら縛
り上げられていた。捕まった奴らは無能だ、そいつらは放っておけばい
い。さて、どこで落ち合おうか?と考えているそこへ『グレちゃ
ん!!!』と大きな女の声が飛び込んでくる。
鼓膜を震わせ、脳ミソの芯まで震わせそうな甲高いその大声に、思わ
ず携帯を耳から離し顔をのけぞらせると、今度は別の意味で脳がくらり
と揺れる。襲ってくる眩暈に存在を主張するかのように増していく怪我
の痛みになんとか耐えていると、再び電話の向こう側が騒がしくなる。
『グレちゃん!ねぇグレちゃんてば聞いてる?もしもし、もしもー
し!』
「っ、うるさい、きゃんきゃん騒ぐな。んな大きな声を出さなくても聞
こえてるよ」
傷に、頭に響く。と言えば『ええっ!グレちゃん怪我したのっ!』と
ますます上がっていく向こう側のボルテージ。今どこだ、大丈夫かとま
るでマシンガンの様に浴びせかけられる声にうるさい!と即行電話を切
りたくなるが、それでは何の解決にもならない。気持ちを押さえながら
電話を変われと言えば、『えー』だの『なんで~』だのいう、不満げな
声がしばらくの間聞こえていたがその後、電話の声は男に戻る。
「……なんでアンジェラが一緒なんだよ」
あの金切り声で俺を殺す気なのか。と言いながらまだキンキンする耳
に手をやれば、彼女のそば仕えの命を下さったのは、ボスの方で。と今
度はやたらいい低温ボイスが左耳の鼓膜をくすぐる。俺よりも年下で、
ヴィスキオを出てくる時に引き連れてきたこの男の名はロレンツォ。彼
女がアンジェロの孫娘だということを掴んできた男で、実質俺の右腕、
ナンバー2の存在だ。
やたら背の高い男で、黒々とした髪は常にオールバック。冗談も笑顔
も、そして愛想笑いさえも一切見せないこの男は銀縁の眼鏡をかけ、い
つも上質のスーツをパリッと着こなし、ノートパソコンやタブレット持
ち歩きながら、始終カタカタやってる。その姿からついたあだ名が「歩
く情報端末」「アンドロイド」だが、実は体術の腕も大したもので柔
道、空手の腕は共に有段だし、ブラジリアン柔術にロシア軍隊が使うシ
ステマも身につけている。
そしてさっきから電話口でうるさく喚いている女はアンジェラ。元々
ヴィスキオのおっさん幹部の知り合いだっていう女。なぜかやたら俺の
事を『グレちゃん』などという、ふざけた呼び方で構いたがる人間だ。
自称33歳でイタリア人とチネーゼ、中国人のハーフ。部下を引き連れ
てヴィスキオを飛び出てきた時、一緒についてきた。理由を尋ね、返答
次第ではここで殺すと拳銃を差し向けても、顔色一つ変えるどころか
『だってさ、こっちの方が楽しそうだったんだもん』と言いながら、向
けられた銃口にてめぇの人差し指突っ込みながら笑ってた、イカレた女
だ。
「おじさん相手は飽きちゃった。なんか物足んない~」
やっぱり男は若い方がいいわ、体力もあるし。お金だけあってもダメ
ね~と笑う彼女に、男漁りならよそでやれと追い返したのだが、しばら
くするといつの間にか必ず俺の近くにいる。いっそのこと殺して、その
死体を川にでもぶちこんでやろうかと何度か考えたそんな時、しくじっ
てパトカーにしつこく追い掛け回されていた時に助けてくれた。
「うふふ。実は『お友達』がたっくさんいるのよねぇ、あ・た・し」
聞けば大企業の会長や社長に、警察の大物幹部、果ては政治家の名前
までつらつら出てくる。そのあまりの男性遍歴には驚いたが、確かに味
方につけといて損はないと思い彼女を迎え入れ、以後行動を共にしてい
る。黒くて艶のある長い髪に、きめ細かくぬけるような白い肌。整った
目鼻立ちに、ぽってりと官能的な唇、そして触れればきっと存分に楽し
む事が出来そうな、たわわな胸や丸い尻、引き締まった足首は、男心を
掴むのに十分すぎる魅力をたたえている。彼女はたちまち部下達の間で
人気者となり、慕われて今に至る。
自由奔放な性格に、子供の様な無邪気な笑顔。どんな人間の懐にも警
戒心を抱かせずに入り込む能力のお陰で、彼女の周りには常に誰かがい
る。自分だったらうっとおしい!と叫んでキレるような状態にも、彼女
は何一つ嫌な顔をしないで笑顔で接する。構成員に対しても上下関係、
優劣をつけないし、よくある使いっぱしりもさせない。そして彼らが不
測の事態に陥った時は、自分の持っているコネを使って全力で助ける。
食べる事が大好きで、自身でよく作って食べているのはティラミスや
ビィスコッティが多い。エプロンをつけ、どこか異国の言葉の歌を歌い
ながら体を左右に揺らし、出来上がったデザートを構成員達に振る舞う
時の彼女は、どちらかというと優しく明るい、イタリアのマンマにしか
見えない時もあるが、そういった所も部下達には魅力なのか?その人気
はとどまる所を知らない。
彼らの想いはさておき、使えるうちはとことんまで使ってやろう。た
だし怪しい気配があれば即座に殺す。そういう意味で近くに置くことに
決めた時、彼女の見張りにロレンツォをつけた。こいつは頭がいいだけ
ではなく『クソ』がつくほどの大真面目だし、俺の言うことならなん
だって聞く男だ。その上女嫌いなので彼女になびき、たらしこまれる可
能性も他のに奴らと比べれば低い。それでも物事には絶対はないので、
この二人を更に他の部下に見張らせてある。アンジェラに気がある構成
員、ジャンをだ。何か変わった事があればすぐにでも報告するように
言ってはあるが、今のところ彼等の間にはこれといった進展はないらし
い。
「ロレンツォって、もしかしてあっちは全然駄目なんじゃないですか
ね?それともあの年でまだ童貞とか?まさか本当にアンドロイド!?」
「さぁな」
「だって信じられます?あんなイイ女の近くにいて何もしねぇなんて、
俺には全然理解出来ねぇや」
「そうだねぇ」
「やっぱ!やっぱボスもそう思います?あ~一回でいいから、あの胸に
思いっきり顔うずめてみてぇ~」
「ククク、俺は別に止めないよ」
存分にやってくれば。そう言う俺の言葉をマジで受け取って、どんな
匂いするんかなぁ~と身もだえするジャンは、自他ともに認める女好
き。ロレンツォと同い年という話だが、いつも趣味の悪いスーツを着て
は自分がエルドラドで一番いい男だと盛大に勘違いしていばりくさって
いる、非常に残念な男だ。街に偵察に行かせればろくに仕事もしない
で、女のケツばっか追っかけるロクな奴じゃないが、親がえらく金持ち
でいつもやたら羽振りがいい。そのおかげでヴィスキオの幹部連中から
も可愛がられ好き放題やっていたが、フィオーレと協定を組むという話
を聞いてからは、奴もヴィスキオを飛び出していた。
「フィオーレの奴らは嫌いだ、兄弟になるなんてまっぴらごめんだ。筆
頭幹部のジュディは俺と同じ様に女にモテやがるし、イコナっていう奴
もスカシた女たらしだって噂だし。ロニとかいう奴もカジノでオーナー
やってるってだけで毎晩、女からちやほやされてるって話だし、アルバ
はただのバカだし。なにより全員、マフィアのくせに正義面してるのが
許せねぇ」
そうぶつくさ言いながらやさぐれて、バールでやけ酒かっくらってる
所を、お前はヴィスキオみたいな、あんなちんけなファミリーで収まる
男じゃないんだよと言いながら連れ出し、そのまま適当に女をあてがっ
てやったら、喜んでほいほいついてきて、今じゃロレンツォについでナ
ンバー3といった地位であぐらをかいている。正直、こんな好き者仲間
にしなくても良かったのだが、ファミリーを維持する為にも金は絶対に
必要だ。
今は監視対象のアンジェラをどうやって自分のものにするか?1日の
大半そればっか考えているみたいで、山のように服やら宝石なんかを彼
女にプレゼントしてる姿を見かける。俺の目から見ても全部、趣味が悪
いものばっかだがな。後、本人はまだバレていないと思っているが、彼
女が使うバスルームやらトイレやらに隠しカメラをつけている事は、ロ
レンツォから報告を受けて認知済みだ。どうするかって聞かれたが、こ
れで彼女妙な行動とってもよく分かるからいいだろって言って、そのま
ま放置してあるが。
てかそんな回りくどい事してないで、本当に襲っちまえばいいのにと
考えていると、アンジェラさんに近づくとするだけでやたら警戒するん
すよ、あいつ。こっちはただ話しようとしてるだけなのにと、こちらの
考えを読み取ったかのように言いながら、苦虫を食い潰したような顔を
するジャン。あの腰抜け野郎。もしかしたらあっちとかか!?と自身の
体を掻き抱きながら身震いするジャンに、そういうお前は万年発情男、
盗撮ド変態野郎だと思うがあえて口に出しはしない。だがここでロレン
ツォを見張る事や、仕事に対してやる気を無くされても面倒だなと考え
た俺が交換条件を出せば、曇っていたジャンの表情が一気に輝く。
「マジっすか!フィオーレの奴らを殲滅する事に貢献したら、マジでア
ンジェラさんに口添えしてもらえるんすか!」
「うん、優秀な部下には褒美も必要だしねぇ」
それに実はちらっと聞いた事があるんだがアンジェラのやつ、どうも
お前に気があるって話だと言えば、面白い位に鼻の穴を広げるジャン。
マジで、マジっすかグレゴリーさん!うっわ、どうしようどうしよう!
とひとり自分勝手な妄想をしながら、ジタバタその場で身もだえする馬
鹿な男に、ここぞとばかりに前から2人はお似合いじゃねぇかなって、
思ってたんだよねと言えば、ジャンはえへへ~と言いながら締まりのな
い、緩み切った顔を寄せてくる。思わずその汚いツラに拳をお見舞いし
たくなる衝動をグッと抑えながら、焦るなあせるな、勇み足は禁物だぜ
兄弟。ときっちりと釘をさすことも忘れない。なぜなら彼女からその様
な素振りも話も、一切聞いた事はないからだ。
俺の目的はフィオーレの、ジュデイへの復讐。それさえ済めばこんな
変態女たらしなんかとはおさらばだし、こんな奴生きようが死のうがど
うなっても構わない。そう、ジャンだけじゃない、レンツォもアンジェ
ラも、そして他の構成員達も俺にとってはただの『駒』であり、仲間な
んかじゃない。
鼻息だけでなく、吐く息まで荒くなってくるジャンの口臭に内心辟易
しつつも、今度はこちらから近づき、その肩に腕を回わして距離をつめ
る。あぁいう男に慣れていそうな女ほど、中身は意外に乙女なんだよ。
だからな、様子を見ながら少しずつ、すこしづつ距離を縮めていくんだ
よともっともらしく耳打ちしてやれば、具体的にはどうすればいいっす
かね、兄貴!と仕事での指示を仰ぐ以上に真剣な表情をし始めるジャ
ン。んな事てめぇで考えろバーカ。と思うけれど、間違えても口に出す
ようなヘマはしない。しばらくの間そうだねぇ。と真剣に考え込むふり
をしつつ、他の男よりも仕事や気遣いが出来る所を見せてやるのが一番
効果的だろうなと言ってやれば、さすがグレゴリーの兄貴!とその視線
が熱っぽくなる。その辺にいる弟分を捕まえ、見当違いな面倒を見る
ジャンに正直、いつまで続くかとあまり期待はしていなかったが、その
姿を見かけたアンジェラにも褒められたみたいで、意外にもその日から
他の仕事も真面目にこなすようになった。そう言えば今いるこの場所
も、あの後あいつが見つけてきたうちの一つだったんだ。内装は最悪だ
けれど場所がスラムで、その中でもフィオーレの奴らがあまり立ち寄る
事のない場所だと、胸を張って自慢していたなと思い出している耳に
『ボス、聞えてます?ボス?』とどこからか男の声が聞こえる。
『大丈夫ですか?』
「ん?あ、あぁ……」
珍しく少し焦った調子のロレンツォの声に我に返れば、そういや今は
電話の最中だったな。とそれていた意識を携帯に集中させ、現在の居場
所と怪我の状態を伝えれば『分かりました、すぐに迎えにあがります』
と耳に伝わる、心地良い響き。なるだけ早く来い、腹も減ったといえば
そこに聞こえてくる、穏やかな歌声。この低い声、アンジェラか?そう
言えばよくこいつなんか歌ってるな。と考えていると『大丈夫です
か?』と再びロレンツォの声。
『反応速度がいつもよりも遅いです。傷が痛みますか』
「っ、うるさい。このくらいなんてことない。いいから早く車回してく
れ」
何分位かかる?言えば、電話の向こう側からカタカタとお馴染みの音
が聞こえ『大体、25分といった所かと』という返事。その言葉に15
分で来て。と言えばしばし間があったが『了解』と簡潔な返事が戻って
くる。思いの外彼らは遠くにいたのかと考える俺の耳に『15分!?無
茶だよロレンツォの兄ぃ!フィオーレの奴らだってまだうようよしてる
し、サツの奴らもいるって!』と、運転を任されているらしい、まだ若
い構成員の情けない声が聞こえてくるが、お構いなしに一方的に通話を
切る。テーブルの上に携帯を放り出し、疼く右足を庇いながらソファー
の背もたれから体を動かせば、今度は違う場所が悲鳴を上げる。
「ケ・パッレ!糞ったれアルバ!次顔見たら、今度は俺がたっぷりお見
舞してやる、鉛玉をな」
走る痛みに耐えながら、おそらくは折れているであろう肋骨に手を当
てながら呼吸を整える。幸い、折れた骨が内臓には突き刺さっている様
子は見受けられないが、満身創痍の今の自分に状態に段々と腹がたって
くる。しばらくの間、満足に動けない自分の姿を想像しつつも、今はこ
こを出ることが最優先だと考えながら、用心深くソファーの背もたれに
体重を預ける。トタンを叩く雨音さえも胸に響く気がした。
フィオーレの奴らだけでなく、警察まで出てきたとなると事は少しば
かり事はやっかいだ。だがロレンツォなら今ごろ自慢の灰色の脳ミソを
高速回転させているだろうし、こんな時のアンジェラだと思いながら、
電話越しにかすかに聞こえた彼女の歌声を思い出す。台所以外でも口ず
さんでいるその歌の内容は知らないが、喋ってる時よりかは穏やかで、
話している時とは違うと感じるから不思議だと思う。
「アンジェラ。おしゃべりさえ止めれば、いい女なんだけど」
俺のことが心配だとかなんだとか、あいつ頭の中は腐ってんのか?そ
れとも仲間だからとかか?そうだとしたら相当おめでたい奴だなと思
う。それともなんだ、男がいないと生きていけない体だから、だから心
配なんだろうか?どちらにしてもくっだらねぇ。俺にはそんな心配はい
らねぇし、そんな甘ったるい存在は要らない。人は生まれてくる時も、
そしてその命を終える時も一人きりだ。本当に、本当に、くだらない。
外は相変わらずの雨模様で、一向にやむ気配がない。いつの間にか食
事を終え、前脚を舐めていた仔猫と視線が合う。全部とはいかなった
が、元あった量の3分の2は消えている所を見ると、この食事は奴に
とってはかなり満足出来る内容だったらしい。
「ふん、食ったんだ」
「みゃあ!うんみゃあ、なぁ~なぁ~ん~」
「プッ、さっきより声に張りがあんじゃん」
旨かったのか。そりゃ良かったと言いながら手を伸ばし、ちょんと一
度頭をつつく。一瞬、怯えて逃げられるかと考えたが、意外にもされる
がままの仔猫に悪い気はせず、今度はその首根っこをつまんで、目の高
さまで持ち上げてみる。見れば見るほど可愛くない、やせっぽっちで汚
くて、なんの愛情も湧かないその姿を下に降ろそうとした時、突然ざら
りとした、湿ったものが鼻先をかすめる。思わず驚いて声を上げる俺
に、彼だか彼女だか分からないそいつは、俺の目の前でしきりに鳴き声
をあげた。
「うっわ、何すんだてめっ」
「うなぁなぁなぁ、なぁなぁ~なぁん~なぁ~~ん」
「……猫語はよく分かんないけど、もしかして礼のつもり?」
「なん!うなぁんなんっ!」
「はんっ。別に俺の食べもんじゃないし、礼なんかいいよ。てかどっか
ら入って来たの、お前」
あんまりこの辺りフラフラしてっと、蹴られて殺されかねないよと言
いながら、なぜかそのまま膝の上に乗せれば、少しの間仔猫はもぞもぞ
していたが、やがてその身を落ち着け、こちらをじっと見上げてくる。
よく分からないが気の向くまま、その小さな頭に軽く手をやり、何度か
往復させれば今度はどこから出しているのか?ぐるぐる、ごろごろと地
鳴りの様な音が静かな部屋に響き渡る。
生き物は飼ったことがない。というか、他の奴の体や頭を、こうして
撫ぜたことなんて一度もない。気まぐれに抱いた女相手にさえない、た
だの一度も。手袋越しにでも分かる、人とは違う感触と体温。そういや
動物は人よりも体温が高いのだと聞いた事があるな、と考え再びその柔
らかな体に手を伸ばしかけたその時、開いたままの傷口に視線がいき、
思わずその手が止まる。自分と同じ場所、同じ形状の傷に自身の傷口ま
でもが疼き、悲鳴を上げる。
「……本当にロクなもんがないね」
部屋を見回し、せめてこの傷にあてる布きれかなにかないかと考える
が、バカみてぇな顔で笑って媚びたポーズをとっている裸の女の写真
は、今はクソも役にたちはしない。自分の持っているもので使えそうな
物と言えばこれしかねぇなと、素早く手袋の片方を外せば、白く濁った
瞳が俺の顔を見つめるのが分かった。
「こら、こら動くんじゃないよ。やりづらいだろ」
「うみゃあ!みゃあみゃあっ!」
「暴れるなって言ってるだろ。うーごーくーな、動かれると俺も痛い」
「ふぎゃふぎゃあっ!ふみ、むみゃあ、ふ、ふふふしゃ、
しゃぁっっっ!!!」
「おっ、一丁前にこの俺に歯向かう?言っとくが俺は強いよ」
長年使い込んでいる、愛用の隠しナイフで手袋を切り裂き、逃げよう
とするその体をむんずと捕まえ、なんとかそれを仔猫の足にそれを巻き
付け終えた時には、時間なんか忘れていた。本来ならばもっと清潔な布
で患部を覆いたい所ではあるが、何もないこの場所では致し方無い。味
方だと思っていた相手から、突然された窮屈な拘束に仔猫はすっかり憤
慨した様子で、ぎゃあぎゃと抗議の声を上げつづけながら自分の足を気
にする。その小さな姿に、自分自身なぜこんな事をしたのか分からない
でいたが、それでも不思議と嫌な感じはしていなかった。
「いいか。お前は自分の足で進むんだ」
この残酷な世の中では誰も助けてはくれない。人は、生き物は生まれ
てくる時も、そして死ぬ時もひとりきりだ。脇目もふらずに走れ、走れ
なくなったら歩け、歩けなくなったら這いつくばれ。どんなにみっとも
なくたっていい、長く生きられなくてもいい。お前がそこで生きてい
るっていう姿を、他の奴らに見せつけてやるんだ
俺の言葉に、抗議の声を上げていた仔猫はやがて黙ってじっとこちら
を見つめる。何かを訴えようと揺れるその、不自由な片方の瞳がやけに
眩しくて、気がつけば目をそらし天井に視線を移す。これ以上こいつを
見てたら妙な事を考えそうで困る、俺はそんな人間じゃない。そこまで
考えた所で、テーブルの上の携帯がブルブルと小刻みに震えた。
- 続 -