ナルドの香油

ナルドの香油
マルコによる福音 51
ナルドの香油
14:1-11
「ナルドの壷ならねど、献げまつるわが愛」(讃美歌 391)の出典がこの
物語です。歌は 7 月の曲目に入っていて、20 日と 27 日に歌いました。マル
コの福音書ではここは、その前の律法学者たちの画策と、その後のイスカリ
オテのユダの話との間に、サンドイッチの形で挟まれて語られます。映画で
言うと,同時進行のカットバックの手法ですか。このサンドイッチ形式はマ
ルコ特有の技法ですが、マタイもここはその同じ文章形式を踏襲しています。
二枚のパンとハンバーガーの間には共通のテーマが一貫しているのですが、
それは、イエスの埋葬の準備をした人たちの姿です。では、まずその“パン”
の部分から。
1.ユダと祭司長たち :1-2,10-11.
1.さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、
なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。2.彼らは、
「民
衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。(も
う一枚のパンへ行って……10 節へ飛びます。)
10.十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司
長たちのところへ出かけて行った。 11.彼らはそれを聞いて喜び、金を与え
る約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとね
らっていた。
マルコはこの福音書が、イエスの死という結末へ、ここから真っ直ぐに進
むことを暗示するのですが、まず「祭司長たちと律法学者たち」という、こ
の国の最高指導者たちにとって、イエスは都合の悪い存在、消さねばならな
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い存在になって来ました。ちょうどその時、十二人の一人イスカリオテのユ
ダが、イエスと一緒にいながらイエスが分からなくなって、現代式に言うと
「プッツン」するのです。マルコはこのユダがイエスを「引き渡した」
(
,3:19,cf.
,14:11)と言います。「裏切った」(3:
19)という訳語は、多分、西洋の教師たちの偽らぬ感情を込めてあるのでし
ょうが、ユダがしたことは、イエスを祭司長たちに「引き渡す」ことだった
と、マルコは淡々と語ります。
いずれにせよ、宗教家たちの怒りと、イエスが信じられなくなった直弟子
の復讐……でしょうか。このユダの「プッツン」の原因についての推理は、
昔から多くの詩人や小説家の想像力を刺激しました。聖書を題材にした映画
やミュージカルも、この推理ゲームに加わりました。今朝はこの点には深入
りしないことにします。
文章の流れだけを追いますと、イエスが憎くて我慢できないユダヤの指導
層と、自分の持つ宗教や救済のイメージにイエスが合わないので「切れた」
不幸な高弟との間で、イエス殺害の計画が進められたとも読めるのですが、
マルコのサンドイッチ文学は、ハンバーガーの部分の内容から、本当はもっ
と大きな意志がこの成り行きに秘められていたこと、そして、まだ誰もそれ
に気づかぬうちに、ある平凡な女性がその秘密を直感して、弟子たちを驚か
せたことを告げるのです。
では、そのハンバーグとピクルズのところへ行きます。最初に出てくる「ら
い病人シモンの家」は、実際に病気の人が家の中にいれば、モーセの律法に
よって、その家に弟子たちと客人が入って食事することは許されなかったで
しょうから、これは「何年か前にらい病人シモンを出した家」として知られ
ていたものか……。シモンがもし存命中であったのなら、レビ記の言う「重
い皮膚病」から完治して、清めの儀式(レビ 14 章)も終えていたのでしょう。
いずれにせよ、こういう病気でいつまでも差別が行われたユダヤの社会で、
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イエスと弟子たちだけは、その人たちとも同じ人間として連帯する心を持っ
ていたのです。「らい病人シモンの家」という一言は、多くのことを暗示し
ています。
2.ナルドの香油を注いだ女
:3-7.
3.イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いてお
られたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の
壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 4.そこにい
た人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使い
したのか。 5.この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すこ
とができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
「石膏の壷」は、ギプスのように練って固めたものではなくて、「アラバ
ストロン」という半透明の白い石を削ってアンプル状に刳り抜いた容器です。
使う時は長い頚の部分を折って開けました。最近の研究書には、当時使われ
始めたガラスのアンブルも「アラバストロン」の名で呼ばれたとあります。
シドンにはガラス工場があって、吹きガラスの技法も使われていました。マ
ルコの「アラバストロン」
が、吹いて作ったガラスのアンプル
か、それとも彫刻して刳り抜いた雪花石膏のアンプルか……いずれにせよ、
容器自体もかなり高級品ですが、中身の「ナルド」はインド産の植物から抽
出した超高級品でした。「三百デナリオン以上」は、日雇い労働者のほぼ一
年分の賃金です。それだけのものを一度に空けて、それをイエスの頭に注ぎ
かけたのです。たいへんな香りが、部屋いっぱいに広がったことでしょう。
「もったいない!」という語感は日本語特有だと、よく言われますけれど、
似た感情は込められていたでしょう。「無駄だ! 大変な浪費だ!」と彼女を
咎めたのは、「そこにいた人の何人か」だとマルコは言います。マタイは「弟
子たち」が憤慨したと書きます。
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ナルドの香油
このナルドの香油は、髪の毛に振って香りをつけたことが、旧約の雅歌に
記されます(1:12,4:13,14)。それも王の恋人が身につけたくらい高価な
ものでした。香油は数滴で足りたでしょう―香料としてならです。ナルド
はまた、葬儀の時には遺体にも振り掛けました。それでも、こんなに、全部
空けることは無かったでしょう。「無駄だ。売って慈善に生かしたら、貧し
い人を何人救えるか!」これは正論です。生きた信仰はお金をどう使うかと
いう点から見れば、弟子たちは間違いなくイエスの精神を身につけていたの
です。イエスも、「そうだ、貧しい人に全部与えてこそ私の弟子だ」と言っ
てくださるに違いない……と思った。ところが、イエスのお言葉はそうじゃ
なかったのです。
3.イエスのされた評価 :6-9.
6.イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困
らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 7.貧しい人々はいつもあ
なたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、
わたしはいつも一緒にいるわけではない。 8.この人はできるかぎりのことを
した。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
9.はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、こ
の人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから」という言葉は、イエ
スのお言葉としては不可解……と感じる向きもあるかも知れません。福音書
をここだけしか読まない人なら、「ちょっと冷たいな」と思うでしょう。し
かし、貧しい人や苦しむ人や、疎外された人をイエスがどれだけ大事になさ
ったか、また弟子たちにも「大事にせよ」と教えたかを知る人なら、何より、
日頃イエスが教えてこられたことと「どうしてここは違うのだろう?」とい
う疑問は、感じるはずです。
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イエスは、「貧しい人たちのことは忘れてもいい」と言われたのではあり
ません。「貧しい人たちに仕える務め、病む人や疎外された人たちと一緒に
いて力になる務め」は何よりも優先するのです。それが分からなければ、イ
エスの弟子だと言うことはできません。しかし……です。今この瞬間この女
の人がした途方も無い行為は、それ以上に重い事実を見てしまったから、思
わずナルドの壷の頚を折って、中身を全部イエスに注いだのです。「はした
ない」と言えば、はしたないし、「思慮が足りない、衝動的に過ぎる」と言
えば、本当にそうです。ただ、この女の人はこの瞬間、まだ誰も見ていない
神聖な事実を見て、ショックを受けました。そのことをイエスは、「この人
は……前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言わ
れたのです。
果たして彼女は、イエスの死の意味を正しく受け止めて、正確に理解して
いたかと言うなら、それは怪しいでしょう。イエスはこの私の罪の贖いのた
めに死ぬ。イエスはこの私に命を与えるために死ぬ。私はこの方の流される
血の力で、死から救っていただくしか道はない。今から起こるできごとは、
単に祭司長たちとユダの結託で起こるのではない。この出来事の中に、天の
父の聖なる意志がこめられている!
それをヨハネもペトロもまだ見ていない時に、直感的に見て、度を失った
と言えば、度を失ったのです。衝動的になったと言うなら、本当に衝動的に
なったのです。最大の「もったいないことをした」と言えば、こんな「もっ
たいない」浪費はありません。でも、この瞬間、彼女は天の父が弟子たちに、
「さあ、世界でいちばん大事なことを見よ。どうだ見えたか?」と言われた
一事を、確かに見たのです。「イエスが死ぬという出来事に、天の父の思い
がこめられている!」と。だから、イエスは言われました。「はっきり言っ
ておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたこと
も記念として語り伝えられるだろう。」
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ナルドの香油
《 結 び 》
「ナルドの香油」の話でした。「ナルドの壷ならねど」という讃美歌はや
はり名曲だと思います。「ナルドの壷ならねど、献げまつるわが愛。御業の
ため、主よ、きよめて、受けませ、受けませ。」箕面教会の青年会で習って
以来、とても好きな曲ですから、これからも愛唱すると思います。でも、一
つだけ引っかかる所があるのです。
あの「御業のため」というのは、マルコ伝から言えば、「イエスが私のた
めに死んでくださった尊い御業を感謝して、私の愛を献げます」という意味
のはずで、そう歌うべきですが、どうも訳文の趣旨は「主の御業を行うため
に、そのためにこのナルドを注ぎます」と歌っているように聞こえます。も
ちろん、その事も大事です。それに反対するのではありません。でもあの歌
はどうも、やはり、このとき、「貧しい人に 300 デナリオン施した方がいい。
私ならそれに献げて功徳を積みます。主よ、感心してください」と言う人の
気持ちの方が歌詞に出ているようで、
「私は苦しむ人のために犠牲を払って、
ナルドをお献げします。主よ、私めのこの供え物を清めてお使いください」
と聞こえるので、この女の人の気持ちとは「ぐいちになってる」ように思え
て、いつも歌う時は、訳者の込めた意味とは違う内容を……私自身の信仰告
白を込めて、歌詞とは少し違う内容を歌っております。
ここにありますのは、今年 2 月に出た“讃美歌 21”です。歌詞も口語体に
なって、それに 9 節のイエスのお心も汲んで、次のように改訂されています。
ナルドの香油 そそいで 主に仕えた マリアを
思いおこし、私の愛 ささげます、主イエスよ。
「世界中どこでも……この人のしたことも記念として語り伝えられるだろ
う」というお言葉が、この訳詞では、「主に仕えたマリアを思い起こし」に
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ナルドの香油
表現されています。43 年前の訳詞より確かに一歩前進だとは思いますが、私
なら最後の行はこうしたいところです。
…… 主に仕えた マリアを
思いおこし、主の死を 感謝します、主イエスよ
趣旨は、お分かりいただけたでしょうか……。最後に、現代の多くの教会
には「ナルドの香油」をイエスの埋葬のためにではなく、イエスの死を感謝
するためにではなくて、自分の立派な献げ物として? お供えして、その功績
で救いを確保しているつもりの人がいることを暗示して、この話を結びます。
「300 デナリオンもお献げしたんだ!」と言う人。いや、「私なんか、貧し
い人のために 300 どころか、400 デナリオンも献げたのに……!」でも、こ
の物語の女性の心が分かる人は、それだけは言わないのです。私たちの間に
はいないと信じますが、たいていの教会へ行くと、「私ほど犠牲を払った人
はないのに……」と内心思っている熱心派? の信者はいるものです。「これ
だけ勉めたのに……! どうして、私だけがこんなに人より損をして苦しまね
ばならないのです?」そう叫んで去る人は、日本にも、外国にも跡を絶ちま
せん。
しかし、本当にナルドを献げる人は、主の埋葬にだけ献げるのです。そし
て、自分が注いだ「ナルドの香油」のことはすぐ忘れて、イエスが自分に命
を与えたことだけを感謝して、喜ぶのです。周りの世界が、「そんなイエス
の十字架などより、あなたの愛の実績の方が重みを持つ」と言っても、「イ
エスの死だとか、イエスの復活などということは幻想のようなものだ」と言
っても、「そんなものに感動して、そんなに沢山ナルドを注ぐのは『もった
いない』だけだ。あなたは単に衝動的になっているだけだ」と軽蔑されても、
恥じないのです。
(1997/08/10)
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ナルドの香油
《研究者のための注》
1. 「過越祭と除酵祭」
はこの形で二語を組み合わせて使う習慣
であった(Schweizer)と言われます。広義の「過越祭」全体をこの組み合わせの名
称で表わしたものでしょう。
2. 「祭司長たち」
は「有力祭司連」のことで、エルサレム神殿の高位の祭
司からなる指導グループを言い、元大祭司や大祭司家に属する人たちを含んでいまし
た。同じ語の単数形
は大祭司を指しました。
3. 「アラヴァストロン」
が削って彫り抜いた雪花石膏のアンプルではなく、
吹きガラスのアンブルであったろうという説明は、教文館の「聖書大事典」(329-330
頁)、「新約聖書ギリシア語小辞典」(18 頁)を参照
4. 「良いこと」
は「美しいこと」とも訳せます。L.Williamson は、「彼女の
行為は時宜にかなっているので賞賛に値している」と説明します。
5. イエスを「引き渡せるかと」
という動詞は
の並行箇所マタイ 10:4 の「引き渡した」
。マルコ 3:19 とそ
は「裏切った」と主観的に訳さ
れることが多いですが、元々「引き渡した」事実を述べる抑えた表現です。この語
はユダの「引き渡し」を語るだけでなく、父なる神がイエスを「引き渡し」、
イエスもまたご自身を「引き渡した」ことをも表現する点に注意を引くのは Karl
Barth の教会教義学(ユダについての章)です。
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