Untitled

君たち日本人だろう、しっかりしろ
李登輝さんありがとう
堀 真澄
まえがき
この物語は実話であるが、主人公の親族の一部の意向から、実名を使わず、ドキュメンタリー
的な伝記小説として発表した。筆者が主人公の家族や親類などに数年かけて取材し書き上げたも
のである。そしてこの物語に書かれているとおり、李登輝前総統にお会いし、インタビュー内容
に目を通していただいたうえで、発表の許可をいただいた。筆者は直ちに発表したいと思ったが、
出版不況など様々な事情で頓挫し、残念ながら今に至ってしまった。このことで多くの人にご迷
惑をかけたことを、この場を借りてお詫びする次第である。
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第二章
第一章
父の遺志、李登輝さんありがとう
父と娘
親子の約束
目次
第三章
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親 子 の 約 束
第 一 章
第一章 親子の約束
「私の秘密」
『私は戦時中フィリピンのジャングルで生命を救った日本人に招かれ十九年前の約束どおり、養
子に迎えられた中国人です』
昭和三十九年(一九六四)四月二十七日(月)広島県の呉市体育館で午後八時から、NHKテ
レビのクイズ番組『私の秘密』の第四六〇回の公開放送が行われた。この番組は非常に特異な経
験をした人や変わった特技、趣味をもっている秘密の持ち主が出題者、これに対して解答者の文
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親 子 の 約 束
第 一 章
化人四人がいろいろな質問をし、その秘密の答えに近づいていくというもので、秘密の意外性と
その正解にいたるまでのプロセスが面白く、大変人気があった。当時、テレビはまだカラーでは
なく白黒放送で、ビデオも無くほとんどが生放送だった。
会場の体育館は超満員で、前方に作られた舞台の右には、司会の八木治郎アナウンサーと精悍
な顔立ちの男性が座り、左にはレギュラー解答者でノンフィクション作家の渡辺紳一郎、茶道家
の塩月弥栄子、詩人の藤浦洸とゲスト解答者で小説家の井伏鱒二が座った。フロア・ディレクタ
ーが台本を持った手を上げて大きく振り回し、観客の大きな拍手で番組が始まった。
会場の観客には解答が書かれた大きな看板が示され、視聴者にはテレビの黒い画面に白字で書
かれた解答が写されると同時に、陰の声が流れた。「私は戦時中フィリピンの……」観客席から
「おおーっ」というどよめきと驚きの声が響き、再び大きな拍手が会場中に広がった。解答者が
『私』に対して、「それはあなたの経験ですか」とか「それは最近のことですか」などと、いろ
いろな質問をするのに対して、『私』は中国人とは思えない流暢で丁寧な日本語で答えた。これ
を見て、観客はまたまた驚き、感心していた。
びほう
林美峰十九年ぶりの日本
りん
『私』こと林美峰が台湾の貨物船チャウ・クオ号から降り立ち、十九年ぶりに日本の土を踏ん
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親 子 の 約 束
第 一 章
たかはらあつし
だのは先の放送から、わずか八日前の四月十九日だった。神戸港の兵庫埠頭には昨年一月二八日
に養子縁組した養父の高原温四が迎えに来ており、二人は十九年ぶりの再会を喜び、思わず抱き
あ った 。 「元 気 か 」 「 え え 」 「 よ か った 。 よ か った 」 後 は 言 葉 に な ら な い 声 を 上 げ て 抱 き 合 い 、
込み上げてくる感情をお互いに噴出しあった。そして二人はあらためてお互いに顔を見つめあっ
た。やせ衰えていた十九年前の姿はそこにはなく、二人とも、ふっくらとした顔立ちになってい
た。だが、あの当時、高原は五十六歳だったが今や七十四歳。一方の林は当時二十四歳だったが
今 や 四 十 二 歳 。 顔 に は 歳 が 隠 せ な い 。 そ れ が 長 か った 別 離 を 否 応 な く 表 現 し て い た 。 そ れ で も 、
あの時の目、口元、別れてから何度も何度も思い出していた顔がお互いの目の前にあった。二人
は再 び ひ し と 抱 き 合 っ て 、 再 会 が か な った 喜 び を 、 お 互 い の 抱 き 合 う 腕 の 力 で 感 じ あ っ て い た 。
このあと二人は朝日新聞の記者の取材を受けた。高原が近所で知り合いの朝日新聞の販売店主
にこの話を漏らし、朝日新聞関西本社の社会部がこのニュースにとびついたのだった。二人はこ
れまでの経緯や思いを話した後、インタビューに対して林美峰は「高原さんはフィリピン時代か
ら父のように思っており、その時の約束どおり、親子の関係になることができ、やっと今日この
よ う に 会 え て 、 た だ た だ う れ し い 。 今 後 は 早 く 一 家 で 来 日 し 、 親 孝行 を し た い 」 と 答 え て い る 。
高原も感激しながらインタビューに答えた。「二人とも本当によく生きていたものだ。フィリピ
ンのジャングルの中で林さんが私を水牛に乗せ、何時間も安全な場所を求めて歩いてくれたのが
目に浮かんで……。本当にこんな誠実な人を見たことはない。ジャングルでの約束を果たし、私
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親 子 の 約 束
第 一 章
の子供としてこれからも幸福な生活をしてもらうのが私の恩返しです」
この話は翌日の朝日新聞関西版の朝刊の社会面に『実ったジャングルの誓い』という見出しで
三段で掲載された。そしてその日のうちに、これを読んだNHK広島放送局の担当者から電話が
あり、一週間後に呉体育館で行われる「私の秘密」の生放送への出演依頼があったのだった。
二人は高原の故郷である広島県因島市の家で、これまで文通というもどかしい手段でしか話せ
なかった話や思いのたけを一から話し合った。高原は夜になって床についた後もなかなか寝付け
なかった。今回のことであとわずかな自分の人生はそんなに大きく変わらない。夫婦二人だけだ
ったところに新しく息子ができて、これからの生活は寂しくなくなって楽しいものになるのは間
違いない。
しかし林美峰の方はどうだろう。彼も彼の家族もこれまでの生活が激変するのだ。もともと日
本と台湾は風土も文化も違う。戦前に日本の教育を受けたとはいえ、戦後の日本は戦前とはかな
り違っている。仕事はどうするのか。子供たちの教育はうまくいくのか。差別されるのではない
か。林美峰とその家族の人生を劇的に変えてしまうことに対する責任の重さ、今後起きることの
重大さを感じ、身震いする思いだった。
高原温四
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親 子 の 約 束
第 一 章
高原温四は明治二十二年(一八八九)十月九日、広島県の因島、御調郡土生村、現在の因島市
土生町に生まれた。当時は五百四十世帯、人口は三千人余りで小学校と中学校が一校ずつあった。
温四はこの小学校と中学校を卒業した後、兵庫県の兵庫工業学校に進んだ。明治四十二年(一九
〇九)に兵庫工業学校を卒業するが、四番目の男の子であり、後継ぎでなかったため、高原温四
は卒業後直ちに台湾へ行くことを決意し、学校の先生に打ち明けた。
当時の日本は日露戦争に勝利し、中国本土に様々の権益を手に入れたことから、当時の若い男
たちの間では、『海外で一旗挙げる』という言葉が流行し、また世間もそのような進取の気性を
持つものを煽るような風潮だった。若い高原もそうした風潮の中で育った一人だった。しかし広
すぎてまだ謎だらけの大陸よりも、なぜか台湾の方が明るくて活躍し甲斐があるような気がした
のだった。
台湾の発見とオランダ統治時代
台湾は今もそうだが、昔から悲しく厳しい運命を背負っていた。だが若い高原は台湾がそのよ
うな過酷な運命を持ったところだとは知らなかった。
』とは呼
Taiwan
台湾は十六世紀にポルトガル人によって発見された。船から緑豊かな美しい島影を見て船員は
「 Ilha Formosa
イラ・フォルモサ」麗しき島と叫んだ。今でも欧米諸国では『
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親 子 の 約 束
第 一 章
』と呼んでいることが多い。『 Formosa
』はその後、海賊集団『倭寇』の巣
ばずに、『 Formosa
窟となり、約二百キロ離れた明王朝から忌み嫌われる存在であった。当時はマレー・ポリネシア
系の先住民と明本国から移住した漢民族がわずかに住んでいただけで、どの国も、誰も統治して
いない状態だった。
一六〇三年にオランダの艦隊が膨湖(ペンチュウ)島に上陸し、これを知った明王朝が軍を送
って膨湖島からオランダ艦隊を一旦追い出した。しかしオランダは一六二二年に再び膨湖島を占
領する。明王朝は一六二四年またまた膨湖島を猛攻撃するがうまくいかず、結局オランダ艦隊が
膨湖島から撤退するならば、台湾占領を認めて、オランダとの貿易に同意するという条件で停戦
した。明王朝は台湾を自らの領土とはみなしていなかったと思われる。
オランダ艦隊は一六二四年八月に台湾南部の今の台南付近の安平(アンピン)に上陸し、ゼー
ランジャ城を建設、翌年、赤嵌(セキカン)にもプロビンシャ城を建設した。そして先住民の抵
抗を武力で鎮圧するとともにキリスト教を布教して三十八年間統治した。一六二六年にはスペイ
ンも台湾北部を占領したが、一六四二年にオランダが軍を派遣して追い出している。
鄭成功時代
この頃、中国本土では満州人の国、清が明王朝を滅ぼそうとしていた。このため明王朝は東ア
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親 子 の 約 束
第 一 章
ジア一の海賊、鄭芝竜に援助を求めた。鄭芝竜は日本人の妻、田川マツとの間にできた次男、鄭
成功ととも に 明王 朝の重臣と な って清軍と 戦うが 、明王 朝は一六 四六 年に滅 ぼされてしま った 。
鄭芝竜は清王朝にだまされて幽閉され、母は清軍に陵辱されたため自害してしまった。鄭成功
はなおも抵抗するが、一六六一年には厦門島と金門島に追いつめられた。この時、対岸の台湾を
拠点にして、清に復讐し、明王朝を復活しようと考え、台湾の住民とともにオランダ軍と戦った
すえ、一六六二年に台湾をオランダの支配から解放した。
残念ながら鄭成功はその年に三十九歳という若さで死亡してしまい、明王朝復活はできなくな
ってしまうが、台湾を解放し開拓した功績をたたえられ、「開山王」とあがめられて、台南に「開
山廟」が建てられている。彼は国姓爺とも呼ばれ、その活躍は日本でも近松門左衛門によって人
形浄瑠璃『国姓爺合戦』として紹介されている。
清国統治時代
台湾はその後も鄭氏一族によって治められていたが、一六八四年に清国が二万人の軍隊で攻め
こみ、鄭氏政権を滅ぼして領土とした。しかし清国は台湾の統治には消極的で、台湾の移住民を
強制的に中国本土に引き揚げさせたり、台湾への渡航を禁止したり、台湾の開発を制限したりし
た。このため清国統治の二百十二年間に武力による抵抗運動や抗争事件が百件以上も起きている。
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親 子 の 約 束
第 一 章
一七二一年の朱一貴の乱、一七八六年の林爽文の役、一八六二年の戴潮春の役は三大反乱といわ
れている。
一八四一年からイギリス艦隊がなんどか台湾にやってきて基隆港と梧棲港を占領しようとし
たが失敗した。
一八五四年にはアメリカのペリー艦隊が基隆港に来た。ペリー提督は帰国後、「台湾を占領す
べきだ」と主張した。こうして欧米列強が台湾に食指を動かし始めた。
一八七一年、琉球の宮古島の住民六十六人が台湾南部に漂着し、うち五十四人が台湾の先住民
に殺されるという「牡丹社事件」が起きた。日本政府は一八七三年、日清修好条約批准書交換の
際に、この事件について交渉しようとしたが、清国政府は「台湾の住民は『化外(ケガイ)の民』
で台湾は清国の教化が及ばない地だ」と主張して責任を回避した。これを受けて日本政府は一八
七四年、台湾に出兵し恒春(ヘンチャン)近くに上陸して、台湾南部を占領した。これにあわて
た清国政府は交渉の末、北京専約を結び、日本国に五十万両、事件の被害者の遺族に弔慰金十万
両を支払うことなどを約束したため、日本は台湾から撤兵した。琉球はこれまで日本と清国との
間で帰属がはっきりしていなかったが、これによって日本に帰属することになったという意味で
この台湾出兵の意義は大きい。
このあと清国政府はこれまでの消極的な台湾統治を改め、渡航制限の撤廃、石炭の採掘、道路
建設、移住の奨励などの積極政策をとるようになり、後には鉄道建設や通信用送電線の敷設まで
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親 子 の 約 束
第 一 章
始めるようになった。
日本の統治
明治二十七年(一八九四)から二十八年にかけて日清戦争が勃発、日本が勝利して、五月八日
に交わされた 講和条約によ って清国から台 湾の割 譲を受けた 。これで台 湾は日本の領土と なり 、
日本にとって初めての植民地となったが、これに対して台湾人は台湾民主国の独立を宣言するな
ど猛烈に抵抗した。このため日本軍が進駐し、約五ヶ月にわたる軍事行動により、台湾人一万人
以上を殺戮し、十一月十八日にようやく平定した。
台湾諸島は八十七の島々からなり、全部で三万五、九六一平方キロ、当時人口は二百八十万人、
人種は最も古いマレー・ポリネシア語族系の山地人(高砂族)が二・五%で、十二世紀以降持続
的に中国大陸の福建、広東地方から移民してきた平地人が九七・五%だった。
台湾は日本領土となって台湾総督府が統治していたが、その後何度も台湾人による武装抗日運
動がおきた。当初台湾を統治する総督は軍人で、樺山資紀、桂太郎、乃木希典といった歴代総督
は抗日ゲリラの鎮圧に終始した。
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親 子 の 約 束
第 一 章
技術者高原温四
明治三十八年(一九〇五)から台湾総督府は新式の精糖工場の建設を奨励する政策をとり、こ
の結果、台湾全島がサトウキビ畑のようになったという。砂糖は台湾で最大の産業となり、日本
国内へ輸出すると同時に外国にも輸出され、一九二〇年代には台湾の総輸出額二億五〇〇〇万円
のうち、砂糖が一億円を占めるまでになるのである。
高原温四が台湾に行こうと思った頃の台湾の人口は、平地人二九八万人(九五・四%)、山地
人七万六、〇〇〇人(二・四%)、日本人六万人(一・九%)、外国人八、〇〇〇人(〇・三%)
で総計三百十二万四、〇〇〇人だった。
当時、産業としては米と砂糖だけに特化させられており、特に精糖業が盛んだったが、それ以
外はまだ未開の土地だった。衛生も貧弱で疫病も多かったため、工業学校の先生たちは「大変だ
ぞ。やめたらどうだ」と本土での就職を薦めたが、進取の気性に富んでいた高原は、明治四十二
年(一九〇九)四月、決意も固く台湾へ渡り、最初は台湾北部の車路乾で精糖の技術者として働
いた。このあと台湾を南へ下り、高雄にあった台湾精糖で働くことになった。鉄道は清国統治時
代の一八九一年に台北・基隆間に初めて開通し、二年後に新竹まで延長されたが、その後工事は
中断されていたため、移動手段は馬車と駕篭であった。
高原は技術者として非常に優秀だった。当時、台湾の精糖工場ではアメリカ製の精糖機械を輸
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親 子 の 約 束
第 一 章
入して使っていたが、高原はこの機械を分解して、設計図を作り、これをもとに台湾製の精糖機
械を作ることに成功したという。今なら特許法違反でとんでもないことだが、当時はそれでよか
ったのだろう。高原は台湾を本当に愛していた。自分は台湾のために尽くし、台湾に骨を埋める
とまで言っていた。
民生統治
第四代総督の児玉源太郎と民政局長の後藤新平がとった政策が、台湾を近代化に向けて大きく
変えていくことになる。児玉と後藤は一般民衆に対しては融和的政策をとり、台湾人固有の風俗
慣習への干渉を極力少なくした。そして台湾平野部の土地測量と全面的土地改革を行い、近代的
な 土地 所有 権 の 観 念 を こ の 植 民 地 に 持 ち 込 ん だ 。 ま た 交 通 や 流 通 シ ス テ ム 、 医 療 制度 を 整 備 し 、
台湾銀行を設立、通貨と度量衡の統一も行った。そして清国統治時代に中断していた鉄道建設を
一八九九年(明治三十二年)から再開し、一九一一年(大正元年)東部縦貫鉄道が全線開通した。
抗日ゲリラ運動に備え、日本政府は軍隊一万一、〇〇〇人、憲兵四、〇〇〇人、警官三、三五
〇人が駐屯させていたが、児玉と後藤の政策が功を奏し、抗日ゲリラ運動も一九一五年(大正四
年)四月の西来庵事件を最後に下火になり、これ以降武力を使った組織的な直接闘争はなくなっ
た。
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親 子 の 約 束
第 一 章
台湾の産業発展
精糖業が活気づくとこれが牽引車になって、他の産業を引っ張った。総督府は電力、鉄鋼、セ
メント、炭鉱、肥料などの産業を興す政策をとり、一九二〇年代、一九三〇年代と台湾は工業社
会になっていく。東部縦貫鉄道の全線開通につづいて、一九一八年には中央山脈横断道路が完成
し、台湾内の輸送力が大幅に増強された。
また一九三四年には日月潭水力発電所が完成し、工業生産に必要な大容量の電力が供給される
ようになった。また、これはこれまでしばしば起きていた洪水を防ぐとともに、上水道、農業用
水、工業用水の計画的な供給に大いに役立った。
これらと平行して台北や高雄といった大都市の上下水道が完備していった。この下水道の完備
は、まだ日本本土の首都である東京にも完備していなかった画期的なもので、おかげでこれまで
蔓延していた赤痢やマラリアなどの伝染病が追放された。
日中戦争への道
一方、日本は明治三十八年(一九〇五)五月、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破って
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親 子 の 約 束
第 一 章
日露戦争に勝利し、ロシアから中国東北地方の権益を手に入れる。日本が列強の一国ロシアに勝
った こ と で 、 当 時 の 中 国 の 若 者 た ち の 一 部 は 日 本 に あ こ が れ 、 日 本 に 留 学 す る も の が 急 増 す る 。
中国浙江省出身の蒋介石が日本へわたったのは一九〇八年、中国人留学生のための陸軍士官学校
の予備学校であった振武学校を一九一〇年に卒業した後、新潟県高田の砲兵連隊で二等兵を一年
務め、日本の厳しい軍人訓練を経験している。その蒋介石は中国に戻って一九二七年に北伐に成
功し、南京に国民政府を成立した。そして一九三二年に日本が中国東北部を占領し、満州国を設
立した。
総督府は台湾の重点政策として、皇民化、工業化、南進基地化を発表した。
一九三七年にはついに、日本と中国は戦争状態に入り、台湾も戦時体制に入る。そして一九三
九年になって
台湾鉄工所
昭和十五年(一九四〇)の初頭、神戸製鋼所の重役たちが投資して、高雄に軍需物資や精糖機
械などを作る台湾鉄工所を設立した。そして高原の技術力を買って、この会社の技術担当常務取
締役工場長として引き抜いた。
ここでも高原温四は非常によい仕事をした。人を育てるのが非常にうまく、台湾人に技術を教
えることに情熱をもっていた。工員養成所を作り、貧乏で上の学校へ行けない若者が就職してく
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親 子 の 約 束
第 一 章
ると、昼間の仕事が終わった後、工員養成所で新しい技術を教えた。中でも機転が利いて真面目
な子を見つけると、ポケットマネーで学校へ行く費用を出してやった。この子たちが育って優秀
り
れいぎょく
な成績で大学を卒業して、その後の台湾経済の発展に尽くしている。
こ の 時 、 後 の 高 原 志 津 、 李 麗 玉 が タ イ ピ ス ト と し て 台 湾 鉄 工 所に 就 職 し た 。十 七 歳 で あ っ た 。
だが当然のことながら、二人は重役と新入社員、身分が全然違い、顔をあわせることも口をきく
こともなかった。
太平洋戦争勃発
昭和十六年(一九四一)十二月八日、ハワイの真珠湾攻撃の数時間後に、日本空軍はフィリピ
ンのアメリカ軍に猛攻撃をかけ、制空権を奪った。十日から日本軍はルソン島の各地に上陸して、
アメリカ軍をバターン半島に追いつめ、日本軍総司令官、本間雅晴中将は翌一九四二年一月二日
にマニラを無血占領した。日本軍はなおもバターン半島のアメリカ軍に猛攻撃をしかけた。極東
アメリカ軍司令官ダグラス・マッカーサーはついに三月十一日家族とともに魚雷艇でコレヒドー
ルを脱出し、ミンダナオを経て一七日に、オーストラリアのメルボルンに到着した。ここであの
有名な「アイシャルリターン」を全世界に向けて宣言した。
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親 子 の 約 束
第 一 章
マニラの軍需工場
日本軍は航空機や兵器のためにフィリピンに軍需工場が必要になり、台湾鉄工所にフィリピン
進出を要請し、高原温四は台湾鉄工所の常務取締役兼マニラ支社長として、フィリピンに赴任し
た。この時、李麗玉も同僚の女性三人とともに高原温四についてフィリピンへ派遣された。高原
はすでに五十二歳、初老の人のよい重役で、不便なフィリピンにまで一緒についてきてくれた若
い社員たちを非常に可愛がり、親代わりとしてよく食事に連れて行ったり、何かと相談に乗った
りしたという。李麗玉もこの時初めて高原と親しく話をした。
高原はここでも日本軍のためによく尽くした。高原の軍需工場は航空工廠の仕事をしていたが、
高原のやり方はいつも経理的に採算度外視のような状況で、軍の経理担当が決算時に帳簿などを
見 て 、 「高 原 さ ん こ ん な こ と で は 儲 か ら な い で し ょ う 」 と あ き れ て い った が 、 高 原 は 「 イ ヤ ー 、
儲からなくてもいいんですよ。お国のためにやっているんだから」と全く気にとめなかった。
こ う し た こ と か ら 高 原 は 軍 か ら 大 変 優 遇 さ れ て い た 。軍 隊 の 中 で は 大 佐 ク ラ ス の 扱 い を 受 け 、
「高原さんのいうことは何でも聞いてやれ」という命令が出ていた。このため仕事で台湾との間
を往復するときは専用機を与えられた。しかし南方軍の軍人の中には横暴なものも多く、その一
人が自分のいうこと聞かない高原に苛立って、軍刀を抜いたことがあった。それでも高原はひる
まず、「それは国益にならない。斬れるものなら斬ってみろ。私は国のためにならないことは一
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親 子 の 約 束
第 一 章
切拒否する」と言って頑として譲らなかったという。
フィリピン戦線の悪化
日本軍の戦況がよかったのは、一九四二年から四四年夏までのほんの一時的なものだった。マ
ッカーサーが「アイシャルリターン」と宣言したとおり、四四年(昭和十九年)八月九日アメリ
カ軍の航空母艦から発進した戦闘機と爆撃機がダヴァオの日本軍施設を爆撃し、アメリカ空軍の
猛攻が始まった。三日後の八月十二日にはマニラ湾内の日本船舶とマニラ周辺の滑走路にも急襲
爆撃が加えられ、アメリカ軍にフィリピンの制空権を制圧されてしまった。アメリカ軍は次いで
十月九日に南西諸島に来襲し、十二日及び十三日にはそれぞれ六百機で台湾を空襲した。
この戦闘で日本軍は米空母六隻を撃沈、一隻炎上、米航空機二百機を撃墜したと報じた。しか
し実際は米軍の巡洋艦二隻が大破しただけで、むしろ日本軍の方が第二航空艦隊の兵力が半減す
るなど大損害を蒙っていた。大本営は十月十八日の夜に、フィリピン決戦を意味する『捷一号』
の 発 動 を 命 じ た が 、 こ の 時 点 の 航 空 兵 力 は 本 州 に 二百 機 、 海 軍 は フ ィ リ ピ ン に わ ず か 三 十 五 機 、
台湾と九州に二百三十機というありさまだった。捷一号作戦は攻勢に出てきたアメリカ軍に対し
て、ルソン島で一大決戦を行い、一撃を加えて有利な立場にたったうえで、講和の道を探ると同
時に本土決戦を遅らせるという意味合いがあった。
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親 子 の 約 束
第 一 章
こうしたなか、アメリカ軍は十月二十日に四個師団が六百五十隻以上の艦艇に分乗してレイテ
に上陸した。マッカーサーは歩いて岸に上がり「ついに戻ってきた」と再び宣言した。
日本軍航空兵力の現実を知らない大本営は「米軍は満身創痍であり、今こそ陸・海・空の総戦
力を結集して、米軍を撃破すべきだ」と判断し、当初のルソン島決戦を変更し、レイテ島決戦に
切り替えた。日本の連合艦隊は水上部隊のレイテ突入を十月二十五日に敢行し、その前日の二十
四日に航空総攻撃を行う計画を立てた。
神風特別攻撃隊
しかしながら航空機の集結が間に合わず、フィリピンに三十五機ほどしかなかった第一航空艦
隊は『神風航空隊』を編成して、体当たり攻撃を行った。神風特別攻撃隊はレイテ湾内のアメリ
カ艦船に果敢に体当たりしていったが、体当たりする前に撃ち落されて、残念ながらあまり効果
はなかった。これでほとんどの航空部隊を失った連合艦隊は全滅を覚悟で水上部隊を突入させた
が、完敗であった。この戦闘で空母四隻、戦艦三隻、重巡四隻、軽巡四隻、駆逐艦十一隻、潜水
艦一隻を失い、このあとの海上決戦能力を失ってしまった。
一方、大本営と南方軍はともにまだ台湾沖における航空戦の戦果を信じており、現地の山下奉
文大将が反対したのにもかかわらず、陸軍によるレイテ地上決戦の実行を命じ、フィリピン各地
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親 子 の 約 束
第 一 章
の陸上兵力にレイテ突入を督促した。結果はあっという間に明らかになった。アメリカ軍はグラ
マン、ロッキードといった高性能戦闘機や水陸両用戦車、火炎放射器などの新型武器だったのに
対し、日本軍は武器が古くてまともに太刀打ちできなかった。そうした中、この決戦で日本軍は
壊滅的打撃を蒙り、八万人の陸軍兵士と大量の兵器弾薬を失った。大本営は十二月二十五日にな
って、ついにレイテ決戦をあきらめ、ルソン島持久作戦に切り替えた。
高原にはもともと子が無く、姉の子を養子にしていたが、その子も丁度このレイテ戦で、特攻
隊の隊長機として米戦艦に体当たりして戦死していた。
マニラからの脱出と疎開生活
陸軍の山下奉文大将は現在の日本軍の兵力では、とてもアメリカ軍の攻撃にまともに太刀打ち
できないと判断した。そしてアメリカ軍をマニラで迎え撃てば、市街戦になり、日本軍の犠牲が
大きいだけでなく、多くのフィリピン市民を巻き添えにすることになると考え、陸軍としてはマ
ニラから山間部に撤退して戦うことを決意した。
一方、高原のいたマニラの軍需工場やマニラ市内の民間施設にも米軍機の空襲がますます激し
くなり、十二月に入って軍需工場の関係者など民間人も陸軍とともにマニラから疎開することに
なった。日本領事館から「避難は一時的なものなので、十日間程度の食糧と衣類を用意して集ま
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親 子 の 約 束
第 一 章
れ」という通達があった。明らかに退却、敗走の避難行動であったが、日本人たちは聞こえのよ
い『転進』と称した。集まった民間人たちは当初、トラックで五号線道路を北へ走ったが、途中
の川では既に日本軍がアメリカ軍のマニラ侵入を防ぐために、橋という橋を全て爆破してしまっ
ていた。このため仮橋を作ったが、重量のあるトラックは渡れないのでここからひき返した。
それからは元気なものは荷物を担いで歩き、高原のような年寄りは水牛や牛の背中に乗って移
動せざるを得なくなった。道幅三メートルから四メートル程度の道路は避難する人と輸送の車な
どでごった返していたが、その上空にアメリカ軍の戦闘機と爆撃機が何十機も飛来し、爆弾投下
と機銃掃射を繰り返した。高原たちは一週間かけてバリート峠を越え、アシン川上流のカガヤン
渓 谷 に あ っ た 航 空 工 廠 の 疎 開 地 へ 移 動 し た 。高 原 の 軍 需 工場 が 航 空 工 廠 の 仕 事 を し て い た た め 、
高原たち一行は割合優遇された。そのうち戦火はますます激しくなり疎開地にいた兵隊も山を降
り第一線へ駆り出されて行った。カガヤン渓谷の断崖絶壁の上のジャングルには、民間人を中心
にした日本人部落ができていった。高原と李麗玉ら台湾鉄工所マニラ支社の従業員たちはこの中
で日本軍が残していった食料や原住民の畑から芋を掘ってきて、飢えをしのいだ。
アメリカ軍の攻勢
陸軍の山下奉文大将の決断にもかかわらず、日本海軍はマニラを捨てきれず、マニラを死守す
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親 子 の 約 束
第 一 章
るために、これまでの戦争で船を失った水兵や軽症の負傷兵などを寄せ集めて海軍マニラ防衛隊
を結成し、一部陸軍の兵も借りてマニラの財務省などのビルに立てこもった。
一九四五年(昭和二十年)一月九日、アメリカ軍はリンガエン湾からの上陸作戦を開始し、大
量の最新式水陸両用トラクターや水陸両用トラックを使って兵士を運び、さらに飛行場を建設し
たり、破壊された橋を架けながら内陸部に進攻した。そして二月三日にアメリカ軍は北から戦車
を先頭にマニラ市内に入ってきて、日本軍の海軍マニラ防衛隊との間で激しい市街戦を展開した。
最終的に日本軍はイントラムロスのマニラ城壁の中に閉じこもって篭城作戦をとった。このため
アメリカ軍は二十三日午前七時三十分に、二百四十ミリ榴弾砲など全ての大砲を集結させ、城壁
に 向か って撃 ち込 んだ 。城 壁は あちこ ち で 破られ て そこか ら 戦 車を 先頭にアメ リ カ兵が 侵入 し 、
二十五日になってマニラはアメリカ軍の手に落ちた。捕虜は二十数人、死亡した日本兵は五百人
近く、そしてその何十倍ものフィリピン人たちが死亡した。
悲惨な負け戦
マニラから逃げ出した日本軍はアメリカ軍の空と陸からの攻撃に抵抗しながら、命からがらル
ソン島の北と東のジャングルや山岳地帯に逃げ込み、バリート峠やサラクサク峠などに新たな陣
地を構築して最後の抵抗を続けた。
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親 子 の 約 束
第 一 章
アメリカ軍はこれを日本軍司令官山下奉文の名をとって『山下ライン』と名づけ、これを突破
すべく空から陸から猛烈な攻撃を加え、日本軍は全滅する部隊が相次いだ。とくに悲惨だったの
は血気盛んな日本兵を十人以上集めて『切り込み隊』を編成し、最新兵器で迫ってくるアメリカ
軍に対して、日本刀や竹槍で応戦した。また爆弾を抱いたまま戦車に飛び込むという肉弾戦を挑
んで死んでいく兵士もあった。フィリピン人のゲリラも容赦なしに日本人を襲い、山道には日本
兵や民間人の死体がごろごろ転がって凄惨な状況だった。もはや統制のとれた軍隊とは程遠い状
況で、本隊からはぐれたり、自分の部隊を無くしてしまう兵が増え、これらの中には民間人の避
難活動や疎開活動を助けることに、自らの新たな任務を見出すものも多くいた。林美峰もその一
人だった。
台湾人林美峰
林美峰は台湾が日本の領土になって二十六年たった一九二一年(大正十年)十一月一日に台湾
イラン
の宜蘭で生まれた。彼は生い立ちが非常に複雑で、寂しくつらい子供時代をすごした。
台湾では長男が生まれると、その後継ぎを確保するために、まだその子が子供のうちに、親が
将来長男の妻になるべき女の子を探してきて一緒に生活させるという習慣があった。そして適齢
期になると有無を言わさず、結婚させてしまうのだ。林美峰の父親も長男だったため同様で、子
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親 子 の 約 束
第 一 章
供の頃から自分の母親が決めた妻になるべき女と一緒に暮らしていた。成人して一旦二人は結婚
したが、妻はこの夫が嫌で指一本触れさせなかった。そしてなんとか別れようとして同じ宜蘭で
妻を亡くした曹天助と不倫関係をもち、美峰を産んで林家から離縁された。今でいう「できちゃ
った結婚」を敢行して曹家に嫁いだのだ。曹家には先妻の残した男子が二人いて、美峰は曹家の
三男として一家の皆から非常に可愛がられた。
ところが林家は妻を離婚しておきながら「美峰は正式な婚姻中に産まれた子で、法律的には林
家の嫡男だ」と主張して裁判に訴えた。裁判所も「美峰は林家の長男である」との決定を下した
ため、美峰は五歳の時に林家へ戻されてしまった。林家は父親が三輪の人力車夫をしていて暮ら
しは貧しく、借金取りがやたら自宅にやって来た。そのうえ美峰はやはり林家の本当の子ではな
いため、継子扱いされ、父も新しい母もよってたかっていじめるという非常にかわいそうな境遇
で育った。
宜蘭の公民学校、台北一中で勉強をしたが、将来中国本土で活躍したいと思って、中国語(北
京語)を学んだ。当時日本の台湾総督府は教育に力を入れ、学校を充実させていて、台湾人にも
日本人と同じ教育をし、台湾人の邦人化を図っていた。それでもなお台湾人は「チャンコロ」と
呼ばれ、日本本土から移住してきた日本人とはいろいろな点で多くの差別を受けて育った。こう
した中で公民学校(小学校)から教育勅語をはじめとした日本人教育を八年間も受けた林美峰は
現在の日本人よりも日本人らしく育っていったといっても過言ではない。
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親 子 の 約 束
第 一 章
日本兵林美峰
一九四一年(昭和十六年)台湾人の志願兵が認められ、林美峰は高等学校在学中の二十歳の時
に、学徒特別志願兵として陸軍歩兵二一七連隊(泉州部隊)に入営した。彼が早々と特別志願兵
に応募していったのは、先に述べたつらい家庭から早く逃れたかったからだった。幸い中国語が
できたために珍重され、翌一九四二年、見習い士官として中支へ赴任し、江西省新建県八房村に
本部があった椿第六八四三部隊に入隊した。そして陸軍少尉第一機関銃中隊第一小隊長として江
西省南昌市や南京市などの戦闘で活躍するが、翌四三年夏の宜昌作戦の際に右腕と右足(右大腿
部貫通銃創)に敵の銃弾を受けた。
野戦病院で二週間手当てを受けたあと、天津陸軍病院に一ヶ月ほど入院した。退院後は一階級
昇進し、陸軍歩兵中尉となって、翌四四年に戦闘が最も激しいフィリピン・ルソン島に派遣され
た。第二六独立機関銃大隊重機関銃中隊長としてマニラ周辺の数々の作戦に参加していた。マニ
ラの陥落のあとは、アメリカ軍に追われて北へ転進しているうちに、何度もアメリカ軍の爆撃機
に攻撃されて部隊は壊滅状態になってしまった。
林美峰の中隊もバラバラになってしまったため、しかたなくジャングルの中の疎開地へ逃げ込
んだのだった。
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親 子 の 約 束
第 一 章
李登輝総統の生い立ち
林美峰と同年代の人物として、後に台湾人初の総統になる李登輝がいる。彼は一九二三年一月
十五日に台湾警察の刑事、李金龍の次男として三芝郷の埔坪という小さな村で生まれ、割合裕福
な家庭で育った。勉強もでき、旧制の台北高等学校から京都帝国大学に進学している。日本名は
岩里政男。一九四四年の春に大学生の身分のまま日本陸軍の二等兵、しかも歩兵を志願する。し
かし日本軍は粗末に扱わず、最終的には少尉に昇進させて、千葉の高射砲部隊に回される。その
李登輝の一歳年上の兄、李登欽は日本海軍陸戦隊の少尉として、フィリピンのマニラで戦死して
いる。林美峰と同じ釜の飯を食っていた可能性が高い。
悲惨なフィリピン戦線末期
アメリカ軍は日本兵が山の中へ逃げ込んでからは、高原温四たちが隠れていたカガヤン渓谷の
山岳地帯にも空と陸から攻撃をしかけてきた。爆撃機で上空から手当たりしだいに爆弾や焼夷弾
をばら撒いて、ジャングルの樹木を焼きはらった。そのうえで防空壕らしきものを発見すると時
限式のパラシュート爆弾を落して爆発させ、防空壕に入るものを釘付けにする。そして機銃掃射
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親 子 の 約 束
第 一 章
を加えながら陸上部隊に連絡し、やって来た陸上部隊が防空壕に火炎放射器を放つのだった。当
然、防空壕にいたものは全員黒焦げになって死亡した。
七月に入って高原たちはついにこのカガヤン渓谷の疎開地を捨てざるを得なくなり、山また山
を越え、北へ北へと逃げた。
カガヤン渓谷からの移動
フィリピンは既に雨季に入っていて、どしゃぶりの雨の中を行くのだが、山ヒルが木の間から
ポロポロと体に落ちてきて血を吸うのだった。これをタバコの火や焼きいれたナイフの刃でつぶ
しながら歩いた。靴は履きつぶしてしまってボロボロになり、もはや全員裸足であった。
山の中の行進はまさに道なき道を歩くのだが、大きな荷物を持っては進めないため、食料と水
以外は捨てざるを得なかった。昼間は米軍機が飛んできて、人が居そうな場所や上空から見て樹
木が異常なゆれ方をしているところを発見すると、所かまわず、機銃掃射を加える。飛行機の爆
音が聞こえると、小さな声でお互いに声を掛け合い、全員、偵察機が行き過ぎるまでじっと息を
凝らして物音ひとつ立てないようにする。行き過ぎたのを確認して移動したり、食料探しをした
りする。
そのうち手持ちの食料は完全に底をつき、原住民の畑から芋をほじくり出してきたり、山の中
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親 子 の 約 束
第 一 章
の 野 生 の 芋 や そ の 蔓 を 抜 い て き て 、 焼 い た り 炊 い た り し て 食 べ る の は ま だ よ い 方 で あ った 。 猿 、
蛇、トカゲ、ミミズ、ゴキブリまで捕まえて食料にした。特に猿は非常にうまく、脳みそをはじ
め、歯以外はすべて食べることができた。それでも栄養失調や伝染病で倒れるものが続出し、脱
落していった。
小さい子供を連れた母親の中には、子供連れでは身動きが取れないことや子供の食べ物まで確
保するのが難しいため、泣きながら子供の首を絞めて殺してしまう者も出る始末だった。回りの
者もそれを見て見ぬ振りをせざるを得なかった。
死の行進と林栄鋒の助け
山から山へ、裸足で、しかも食料も無く、逃げ惑う日本人たち、その中でも五十歳を過ぎた高
原にはだんだん体力も気力もなくなっていった。険しい山の中では自分の足で歩かなければなら
ない。弱音を吐き、ときどき取り残されそうになった。そのとき助けたのが林美峰だった。
彼はまだ二十四歳、若かった。軍人でもあったし、体も訓練されていた。へばって腰をおろし
た り 、 大 の 字 に な っ て 倒 れ て い た 高 原 を見 つ け て は 戻 っ て き て 、 時 に は 水 牛 に 乗 せ て く れ た り 、
また時には自分の背中に負ぶって山道を何時間も歩いてくれた。自分で食料を見つけることので
きない高原のために、林美峰が芋を掘りに行ってくれた。高原の部下だった李麗玉も高原のため
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親 子 の 約 束
第 一 章
に食料探しをしていたが、やはり女性である。ジャングルの中で原住民にあったらどうなること
か。どうしても回数が少なくなる。その点、林美峰は頼もしかった。
李麗玉(高原志津)はその当時を思い出し「私はあの苦しいときも〝死ぬ〟なんてことは一度
も思ったことがありませんでした。非常に楽観的なんですね。ジャングルの中で薄暗い中を、よ
く一人で平気で芋掘りに出かけましたよ。帰ってきたら『原住民にあったらどうするんだ』とみ
んな心配していたのでびっくりしたものです。そのときも自分が死ぬなんてことは考えたことも
ありませんでした」
親子の約束
五十歳を過ぎ、わが子を戦死させた高原温四は寂しかった。戦局は末期的で、全員命からがら
逃げている。高原は自分の体力から考えて、このまま逃げつづけ生きて台湾や日本に戻れるとは
思えなかった。
何度も何度も「もはやこれまで」と思う時があった。そのようにくじけそうになっている高原
を、若い林美峰がそのたびに励ましてくれた。高原はこの林美峰を命の恩人と思うと同時に、他
人とは思えないようにいとおしく感じた。そしてある夜、「とても生きて台湾へ帰れるとは思わ
ないが、二人とも生きて戻ったら親子になってくれないか」と提案した。
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親 子 の 約 束
第 一 章
林美峰はいろいろ世話をするうちに、高原の人柄も好きになり、ほうってはおけない存在にな
っていた。それに林美峰は生まれが複雑で、小さい頃から両親に冷たくされ、親の愛情に飢えて
いたこともあって、この提案をこころよく受け入れた。しかし、自分たちは明日をも知れぬ状態
である。この約束が実現する可能性は非常に低いと感じていた。
終戦
昭和二十年(一九四五年)八月十五日に日本はポツダム宣言を受諾して敗戦した。日本全国に
天皇の玉音放送が流れたが、フィリピンの山の中にはその情報は届かなかった。しかし、これま
で 毎 日 の よ う に 上空 を 飛 ん で い た 米 軍 の 偵 察 機 が あ る 日 を 期し て ピ タ ッ と 飛 ん で こ な く な った 。
「えらい静かになったなあ」と不思議に思っていると数日後、米軍機が飛んできて大量のビラを
撒いた。
拾ってきて読んでみると、おそらく中国人に書かせたのだろう、非常に達筆な字で次のように
書かれていた。
『皇軍将兵ニ告グ。
待望ノ平和再ビ来タレリ。日本帝国ガ天皇陛下ノ命ニヨリ遂ニ連合国ト媾和スルニ至ツタ事実
ヲ、吾々ハコノ一紙ヲ以テ諸君ニ通知ス。君タチノ気付ケル如ク、吾軍ノ射撃ハスデニ中止サレ
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親 子 の 約 束
第 一 章
タ 。 君 タチ ハ 各 自 ノ 本 部 ニ 集 合 シ 、 将 校 ノ 指 導 ニ 従 エ 。 一 同 ガ秩 序 正 シ ク 吾 ガ 線 ニ 来 得 ル ヨ ウ 、
ソノ方法ガ講ジラレツツアル。
皇軍将兵ニ告グ。
マズ部下兵士ヲ集メタル後、白旗ヲ翻エセル将校使節ヲ吾ガ線ニ送レ。サスレバ彼使節ヲシテ
部下兵士ヲ秩序正シク吾ガ線ニ誘導スルニ必要ナル条件ヲ持チ帰ラシム』
降伏
軍人も民間人も日本は絶対負けるはずがないと信じていた。軍部からも何の情報も入ってこな
い。「これは自分たちをおびきよせる罠だ」と誰も出て行くものはいなかった。
九月に入ってしばらくした頃、ザラ紙に謄写版で刷られた軍の新聞が届き配られた、そこには
南方軍総司令官山下奉文の名前入りで、「日本は無条件降伏をした。全員、山を降りて出てくる
ように」と書かれていた。これで「ああ日本が負けたのは本当だったのだ」とわかった。多くの
人はがっくりしていたが、内心これで命は助かったと思ったものも多かった。
フィリピンでの戦闘は本当に悲惨なものだった。戦後、日本の厚生省の発表では、フィリピン
戦線に参加したのは陸軍・海軍合わせて六十三万人で、このうち終戦の日までの戦没者は四十八
万六、六〇〇人、それ以降の戦没者が一万二、〇〇〇人で合計四十九万八、六〇〇人となってい
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親 子 の 約 束
第 一 章
る。
捕虜
高原たちが山から下りる途中の道端には日本人兵士や、民間人の死体がごろごろ転がっていた。
アメリカ軍の攻撃で死亡したとみられるものがほとんどだったが、血を流しておらず、がりがり
に痩せてあきらかに餓死したとみられるもの、マラリアなどの伝染病で死亡したとみられるもの、
それもほとんど白骨化していて目を覆うばかりの惨状だった。そしてこれらの遺体からまだ使え
そうな靴やリュックの中の物を奪い取っていくものもいた。
一日以上かけてやっとたどりついたカガヤン渓谷入り口のキャンガンではアメリカ軍が既に
ブルドーザーで道路を整備しており、テントが沢山張られていた。ここで軍人と民間人の成人男
性、それに女性と子供の三グループに分けられた。日本人捕虜たちはその日アメリカ軍の軍隊食
を与えられテントの中で一泊した。みんなやっと助かったと初めてホッとした思いだった。翌朝
大型 トラックに 分乗して、マニラの収容 所へ向か ったが、途 中、町の近くで現地 人に出会うと 、
アクセントの変な日本語で「バカヤロー」「ヒトゴロシ」などと罵倒され、石を投げられた。
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収容所
日本軍兵士の林美峰はかつて日本軍の捕虜収容所だったモンテンルパ収容所に入れられ、民間
人はカンルバン収容所へ運ばれたが、ここで男女別々に分けられたため、高原温四と李麗玉も完
全に別れ別れになってしまった。収容所では女性と子供は働かなくてもよく、食事面でも優遇さ
れたが、これまでろくなものを食べていなかったため、アメリカ軍から支給された肉の缶詰など
収容されている日本人のために、船から食糧を降ろそうとしたが、アメリカ軍は「食糧は足りて
のすぐ外側に埋められた。アメリカ軍が墓をつくるのだが、墓の上に立てられた十字架があっと
そして収容されてからも体力のないものや病気にかかっていたものが次々と死んでいき、収容所
いう間に増えていくのだった。
日本から三隻の海防艦が邦人引き揚げのためにマニラに到着したのは十月十一日だった。捕虜
いるので降ろす必要は無い」とし、一番最初に婦女子を船に乗せるよう命令した。このため李麗
玉は十月十一日に海防艦に乗せられ、ここで久しぶりに麦飯、野菜の煮付け、たくあん、番茶と
いった日本の味にありついた。
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に胃がびっくりして、下痢をしたり、戻したりするものが多かった。
親 子 の 約 束
一方、兵士や民間人の男は労役があるにもかかわらず、食事は毎日わずかなお粥ばかりだった。
第 一 章
李麗玉の復員
船には約五百 人の日本 人女性と子供が一緒 で、十 三日にマニラ港を出発して日本へ向か った 。
一向は二十三日に広島県の宇品港に到着し上陸した。李麗玉にとっては初めての日本だった。そ
れから一週間は、港の近くに緊急に建てられた木造の仮収容所で過ごした。次々と復員船が到着
し、仮収容所が満員状態になったため、一週間後に李麗玉ら第一陣は自分の実家、あるいは親戚
非常に気の毒がり、家の中に招き入れて、温かい白米のご飯をご馳走してくれた。久しぶりの銀
券と無料乗車券、乾パン二袋が支給された。とにかく駅まで行こうということになり、台湾人女
と聞いたが係の者もどうしたものかわからなかった。仮収容所を出るとき、全員に二百円分の食
性や沖縄出身の女性たち二十人余りはぞろぞろと宇品駅まで歩いた。途中、民家の玄関先で休ん
でいると、その家の婦人が表に出てきて事情を聴いた。李麗玉がこれまでの経緯を簡単に話すと
シャリのおいしさにみんな涙を流して食べた。婦人とご飯を食べながら話していて「博多へ行け
ば台湾行きの船があるかもしれない」ということになり、広島駅まで歩いた。
広島は原爆で焼け野原になっており、広島駅もホームが一本あるだけの無残なものだった。李
麗玉らはここから汽車に乗り博多へ向かった。
35
や知り合いを頼って帰るよう厚生省の係官から指示された。
親 子 の 約 束
しかし李麗玉ら台湾人には行くところがない。係の人に「私たちはどうすればいいのですか」
第 一 章
親 子 の 約 束
第 一 章
林美峰の復員
林美峰も台湾人ということで、他の日本兵より早く、同じ十月十一日に迎えにきた海防艦に乗
り、十月十五日、第二陣でマニラを発った。鹿児島県の加治木港には二十五日に到着し、そこか
ら軍用列車で京都府福知山市の陸軍連隊区司令部へ集められたが、翌二十六日に早々と除隊にな
った。林美峰は台湾へ戻ろうと他の台湾人兵士二人とともに、福知山駅から一つ京都よりの綾部
駅まで歩いた。汽車の到着を待つ間に、林美峰たちも駅前の民家の主婦から昼食をご馳走になり、
お土産にカキまでもらった。この主婦も同じ年頃の息子をもっていて、ラバウルから帰ってくる
のを待っていたのだった。
このあと林美峰たちは汽車を乗り継いで上陸した鹿児島の加治木港に戻ってみたが、台湾行き
の船の姿は既になかった。残念がっていると、佐世保で台湾へ帰る者を世話しているとの情報が
入ったため、佐世保へ向かった。
高原温四も民間人ということで軍人より早めに海防艦で送還され、十一月二日に鹿児島加治木
港 に 到 着 し 、 着 の 身 着 の ま ま の 惨 め な 姿 で 故 郷 の 広島 県 因 島 へ 帰 り 、 兄 の 家 に こ ろ が り こ ん だ 。
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偶然の再会
日本政府は佐世保の海兵団の宿舎を日本在住で台湾へ帰る台湾人たちの宿舎とし、衣食住の世
話をしていた。衣服は海兵団のセーラー服や作業服が支給され、食事は大きな海兵団の厨房で炊
き出し、おのおのがバッカンと呼ばれる食器に入れて部屋に持ち帰って食べるという生活だった。
林美峰は鹿児島から十一月初めになってやっとこの海兵団宿舎に到着したが、このとき疲れか
玉は病人を見下ろしたまましばらく動けなかった。
海兵団宿舎へ移ってきたばかりの李麗玉がこれを見て看病人に応募してきた。病人が誰だか知ら
友人たちが宿舎中に看病してくれるものを募集する張り紙をしていると、丁度博多から佐世保
されていなかった李麗玉は、ベッドで高熱にうなされている男を見てびっくりした。ついこの間
までフィリピンの山の中で長い間苦労を共にした林美峰ではないか。何という偶然だろう。李麗
林美峰も李麗玉に気づき、あまりの奇遇に声も出なかった。思い出すのも忌まわしいあの苦し
い疎開生活を一緒に暮らした二人、お互い他人とは思えない。当然のことながら李麗玉はかいが
いしく介抱した。林美峰もこれまでの寂しさが吹き飛んで、次第に元気になっていった。
林美峰はこのとき李麗玉に心から感謝するとともに、恋心を抱くようになった。完全に回復し
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ら風邪をこじらして肺炎になり高熱を出した。宿舎には医師はいたが、看護婦はおらず、身より
親 子 の 約 束
がないため看病するものがいなかった。
第 一 章
親 子 の 約 束
第 一 章
た後、李麗玉の友達に「好きなんだが、彼女に伝えてくれないか」と打ち明けた。友達から聞い
た李麗玉は困った。フィリピンでの長い苦しい日々を共に過した中であり、その頃から頼もしい
人だと感じていただけでなく、今回の再会も運命づけられているのかもしれないと思ったが、残
念ながら李麗玉には既に故郷の高雄に婚約者がいた。友達にはその場で婚約者がいることを告げ
た。李麗玉の友達からそれを聞いた林美峰は本当にがっかりした。表向きは明るく振舞ってはい
たが、心の中ではこの失恋の痛手からなかなか立ち直れなかった。
台湾への帰国
台湾人たちはこの地で約二ヶ月の間、台湾行きの船を待った。そして林美峰と李麗玉たちは十
二月三十一日、大晦日の日に博多港に向かい、進駐軍が監視する中、貨物船日章丸に乗り込んだ。
林美峰と李麗玉ら大勢の台湾人を乗せた日章丸は大晦日の夜に博多港を出港し、翌一九四六年の
一月四日に基隆港に到着した。港には帰国を待っていた肉親たちが大勢出迎えてくれた。二人の
肉親は姿を見せなかったが、二人ともやっと故郷に帰ることができた喜びで、涙が止まらなかっ
た。ここから林美峰は故郷の宜蘭へ、李麗玉も実家がある高雄へと分かれていった。
この三ヶ月あとには、後に台湾の総統になる李登輝も伊豆の下田港から、日本政府がアメリカ
から借りていた戦時標準船『リバティ船』に乗って台湾へ戻っている。
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親 子 の 約 束
第 一 章
終戦後の台湾
日本の植民地から中国に返還された台湾はどうなっていたのだろう。一九四五年九月二日、東
京湾の米戦艦ミズリー号上で日本国全権が降伏文書に署名したのを受けて、連合国総司令部は指
令 第 一 号 を 発 表 、 こ れ に よ っ て 台 湾と 北 ベ ト ナ ム は 蒋介 石 の 中 国 軍 に 統 治 さ れ る こ と に な った 。
当時既に中国本土では蒋介石率いる国民党軍と共産党軍との内戦が始まっていたが、蒋介石の国
民党政権は陸軍大将陳儀を台湾省行政長官に任命した。十月五日に先遣部隊八十人が米軍機で台
北に到着、十月十七日には国民党軍一万二、〇〇〇人と官吏二百人が三十隻余りの米国艦船で基
隆港に到着した。
戦争中に大陸に渡り、国民党軍に参加していた台湾人の一部がこれより前に台湾に戻っていて、
国民党軍上陸歓迎のムードを盛り上げるため、台湾人の住民に旗を持たせて港へつめかけさせた。
船から降りてきたのは菅笠をかぶってボロボロの服にわらじ履きかボロ靴、肩に担いだ天秤棒に
は生活のための鍋釜をぶら下げ、とても兵隊とはいえない中国人たちだった。これまで整然とし
た日本の兵隊を見慣れていた台湾人たちはこの国民党軍兵士を見て唖然とし、はっきり言って落
胆した。これからはこういう連中と付き合わなければならないと思うと情けなくなった。
陳儀台湾省行政長官は十月二十四日に上海から米軍機で台北入りした。翌二十五日に台北公会
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親 子 の 約 束
第 一 章
堂で降伏式を行い、ラジオ放送で「今日から台湾の土地と住民は全て中華民国国民政府の主権下
におかれる」という趣旨の声明を発表した。そして祖国復帰を祝う「慶祝台湾光復大会」が開催
された。この日から台湾人は中華民国の国籍になった。
教員の先生
宜蘭に帰った林美峰は小学校で教員の先生になった。当時、台湾人のほとんどは日本語か台湾
語しか話せなかったが、本土から来た国民党政府は自分たちの北京語を公用語とし、小学校から
北京語を強制的に教え始めた。しかし北京語ができる先生はほとんどいなかった。
高等学校を中退して日本軍に志願した林美峰には教員の資格はなかったが、北京語ができた。
しかも戦争中には日本兵としてもその語学力を見込まれて中国本土に派遣され、ますます磨きが
かかっていた。このため近所の小学校の校長から教員に北京語を教えることを頼まれたのだった。
毎日、放課後になると教員たちを一つの教室に集め、翌日教員たちが生徒に教える北京語の授
業を前もって教えるのだった。この教員の先生を半年勤め、その後は、やはり北京語ができるこ
とを見込まれて、宜蘭の地方法務院の検察所に北京語の通訳となった。
私生 活は質素な一 人暮らしで、遊びなど派手なこと には近づかず、給与の大半を貯金に回 し 、
検察所に勤めてすぐにそのお金で台所と二間だけの小さな家を買った。また先に述べた複雑な家
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親 子 の 約 束
第 一 章
庭の事情と、幼いときのいやな思いから、実家である林家には一切近づかず、本当に血のつなが
りがある曹家と親しく付き合っていた。
李麗玉の破談
一方、高雄に帰った李麗玉は実家で久しぶりに会った両親に、毎日自分が経験した苦労話をし
た。両親も娘を不憫に思って大事にしていた。戦争で男が大勢死んだため、台湾でも年頃の男が
不足していた。
李 麗 玉 の 両 親 は 娘 を 早 く 嫁が せ よ う と 結 婚 式 の 日 取 り を 決 め る た め に 婚 約 者 を 実 家 に 呼 ん だ 。
婚約者は李麗玉の上品さなどから、李麗玉の実家が非常に裕福だと思っていた。ところが李麗玉
の実家を見てそれほど裕福ではないことがわかり、玄関前でUターンして約束の時間に現れなか
った。そして後ほど手紙でいろいろ理由を言いつくろって破談を申し入れてきた。
李麗玉はびっくりし、大変なショックを受けたが、それ以上に李麗玉の両親はカンカンに怒り、
婚約者の家に怒鳴り込みそうな勢いだった。しかし年頃の男が貴重な時代で、男がどうしても有
利なだけに、いかんともし難い。しかも心の離れた男と無理やり結婚させても娘が不幸になるだ
けだと判断して家族全員で慰めながらあきらめた。
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親 子 の 約 束
第 一 章
運命の結婚
李麗玉の破談は近所にすぐ伝わった。麗玉には近所の人たちがみな「理由はなんだろう。何が
あったんだろう」と好奇の目で見ているように思えたが、いちいち説明して歩くわけにも行かな
い。失意の李麗玉はしばらく家に閉じこもってじっとしていた。
だが家に閉じこもっているとますます気が詰まって、余計に悲しみがこみ上げてくる。これで
はいけないと気づき、働こうと思って勤め口を探そう思ったが、実家の近くでは働きたくなかっ
た。
李麗玉は林美峰を思い出した。二人は台湾の北と南に別れたが文通を続けていた。というより
も李麗玉に未練があった林美峰が一方的に何度も手紙を出し、ときたま李麗玉がこれに応えてい
た程度だった。
李麗玉は手紙に「自分が破談になったこと、勤め口を探しているが、高雄では働きたくないの
で宜蘭によい仕事はないか」と書いた。手紙を受け取った林美峰は小躍りした。すぐに返事を書
き、その中で「何も働く必要はない。すぐ結婚してほしい」と求婚した。李麗玉は勿論異存はな
か った が 、 手 紙 を 父 親 に 見 せ た 。 そ し て 林 美 峰 は 早 く も 次 の 日 曜 日 に 李 麗 玉 の 実 家 を 突 然 訪 れ 、
父親に結婚の許しを請い、許可された。林美峰は買ったばかりの小さな家を売って全額結納金に
した。
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親 子 の 約 束
第 一 章
二人は一九四六年十一月二十六日に結婚し、宜蘭の法務院の官舎を新居にして、幸せな生活を
送ろうとしていた。しかし台湾は大変な事態に突入していくことになる。
国民党政権と中国人
国民党政権とともに大陸から渡って来た中国人は文明的に非常に遅れていた。台湾では水道の
ことを自来水と書く。これまで水道を見たことがなく、蛇口をひねると自然に水が出てくるのが
不思議で、壁に蛇口さえ差し込めば水が自然に出てくるものと勘違いした。そしてこの自来水と
いう漢字を当てはめたのだ。中には蛇口を大量に買い込んで大陸へ戻って売り出したが、壁に蛇
口を差し込んで栓をひねっても水が出ず、大恥をかいた者もいたという。それにもかかわらず国
民党政権は新たに中国本土からやって来た中国人を優遇し、役人や企業の管理職は全て中国人が
占めるなど、もとから台湾に住んでいた台湾人たちをいろいろな点で差別をした。
また国民党政権は日本統治時代の軍施設など公的機関や日本の民間企業、それに民間の私有財
産を接収したが、この際、国民党政権の官僚たちは必ず何らかの形で着服した。日本人が作った
財産目録を適当に改竄して自分のものにしていくのだ。
こうした中国人を軽蔑した笑い話がある。日本の工場の備品のリストに金槌百本とあるのを見
て本物の金でできた槌と勘違いし、自分の懐に入れようとしてこっそり持ってこさせたが、ただ
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親 子 の 約 束
第 一 章
の鉄の槌だとわかって怒り出したというのだ。
日本統治時代の教育で法治国家のすばらしさを知っていた台湾人は、こうした国民党政権の官
吏の腐敗堕落ぶりを目の当たりにして、「犬(日本人)去って、豚(中国人)来たる」といって
国民党政権と中国人に失望というよりも、軽蔑するようになるのである。そしてこのような中国
人に支配されていることに対する不平不満が鬱積していき、ついにその導火線に火がつくのであ
る。
二・二八事件の発生
一九四七年二月二十七日の夕刻、台北の商店街大稲埕で台湾人の闇タバコの取締りが行われ、
取締官六人が台湾人の未亡人から闇タバコの没収と同時に所持金まで取り上げた。未亡人は「所
持 金 は 返 し て 欲 し い 」 と 取 締 官 に す が った が 、 逆 に 銃 で 頭 を 殴 ら れ 血 を 流 し て 倒 れ て し ま っ た 。
これを見ていたまわりの人たちは、これまでの取締官や中国人役人の横暴さについに我慢しき
れなくなり、取締官を二重三重に取り囲んで詰め寄ったため、取締官は怖くなり逃げながら発砲
した。このうちの一発が通行人に当たって即死してしまったから大変だ。台湾人たちはどんどん
集まってきて、巨大な群衆になり、射殺犯の引渡しを要求して近くの警察を取り囲む騒ぎに発展
してしまった。
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親 子 の 約 束
第 一 章
国民党政権はタバコを専売品としており、重要な財源だったため闇タバコの取締りにやっきに
なっていた。ところが国民党政権の高官や関係者自体が大量の外国タバコを密輸して、闇に流し
て稼いでいたのだ。取締官たちはそうした闇タバコの元締めには全く手をつけず、末端の小売業
者ばかりをいじめるように摘発し、タバコと売上金を没収して自分の懐に入れていたのを、台湾
人たちは以前から不満に思っていた。これがついに爆発してしまったのだ。
台湾人の爆発
翌日二十八日の朝、群衆は台北の専売局を襲い、職員たちに殴る蹴るの暴行を加えたうえ、机
や椅子、書類などを外へ放り出して火をつけた。怒った群衆はますます増え、午後には台湾総督
府の行政長官公署前の広場に続々と集まりだした。陳儀長官は危険を感じ、憲兵に発砲して群衆
を散らばらせるよう命じた。憲兵は長官公署の屋上から機関銃を掃射し、数十人の死傷者が出る
事態になった。
この事件によって台湾人の怒りは頂点に達した。台北中の商店が全て店を閉め、工場も操業を
停止、学生も授業をボイコットして、全員抗議のデモに加わって台北市は騒然となった。陳儀長
官は台北市に戒厳令を発令したが、台湾人たちは放送局を占拠して、ここから台湾全土に向けて
事件の発生を告げるとともに、全国で国民党政権への抗議行動を起こすよう呼びかけた。
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親 子 の 約 束
第 一 章
台湾人の抗議行動はあっという間に広がり、翌三月一日には台湾全土に波及した。都市だけで
なく地方の村などでも台湾人たちが役所や警察を襲って、外省人に暴行を加え日ごろの不満をぶ
つけた。陳儀長官は軍隊まで出動させ、警察や憲兵隊とともに銃や機関銃の発砲で鎮圧しようと
したが、抗議行動は収まるどころか激しくなる一方であった。
二・二八事件処理委員会
こうした中、台北市の台湾人たちの間に『タバコ取締り流血事件調査委員会』が発足し、代表
が陳儀長官に面会して、『二・二八事件処理委員会』の設置を要求した。事態が一向に好転しそ
うにないため、陳儀長官はこれを受け入れ、三月一日の午後になって戒厳令の解除、逮捕した台
湾人市民の釈放、軍・警察・憲兵の発砲禁止、『二・二八事件処理委員会』の設置を全国に放送
することを約束した。翌二日、『二・二八事件処理委員会』が招集された。その後の審議の中で
官僚に台湾人を多く採用することや、言論・出版・集会の自由を保障すること、台湾の軍人を台
湾人で構成することなど台湾人の自治が実現するかのような提案が次々と採択された。これらは
全てラジオで全国に放送された。
陳儀長官は二・二八事件処理委員会の要求を次から次へと受け入れるかのように見せかけ、そ
の裏で密かに中国本土の国民党政権に援軍の派遣を要請していた。それと同時に憲兵隊や警察に
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親 子 の 約 束
第 一 章
対し、台湾人の危険人物リストの作成を急がせていた。
各地の都市では学生、復員した軍人などの青年たちが臨時的な組織を作って、警察や軍隊と対
決していた。
林美峰はこの頃、宜蘭の裁判所で中国語の通訳官をしていたが、元日本軍の軍人だったことか
ら、宜蘭の青年組織から頼まれて青年や学生に銃の扱い方や、市街戦でのゲリラ的な戦い方など
を指導した。しかし、あの忌まわしい戦争を体験した者として、自ら銃を手にする気にはならず、
できるだけ深入りすることは避けていた。
血の殺戮
一九四七年三月八日午後、中国本土から憲兵二、〇〇〇名と陸軍一万一、〇〇〇名の増援部隊
が北の基隆港と南の高雄港に到着した。増援部隊は上陸するや否や、銃や機関銃でその場にいた
台湾人に向かっていきなり無差別に発砲した。銃も何の武器も持たない、それこそただの通りす
がりの一般市民たちまでがばたばたと倒れ、その場はたちまち一面血の海と化した。
北の増援部隊は基隆から台北に向かって進軍したが、増援部隊の武器はアメリカ軍から援助を
受けた近代的なものだったのに対し、抵抗しようとする台湾人の武器は戦前から残っていた旧式
なもので、ひとたまりもなかった。
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親 子 の 約 束
第 一 章
ぼうもうしゅう
南の高雄の駅では大勢の人がホームで汽車を待っているところに、彭孟緝将軍の率いる増援部
隊がホームの両側から機関銃で無差別掃射を行い、全員が射殺された。李蘭玉の母と兄たちもそ
の日高雄駅へ行ったが、たまたま早く駅に着いて一台早い列車に乗ったため危うく難を逃れてい
る。
無辜の市民に対する殺戮と同時に、国民党軍はリストアップしていた危険分子を次々と逮捕し、
処刑していった。大学教授、弁護士、医者、作家、教師が粛清されたが、そのやりくちはさなが
ら台湾人の知識人を根こそぎ駆除するかのようであった。二・二八事件でこの一ヶ月余りの間に
殺害された台湾人は、国民党政権自体がその後発表した数字でも二万八、〇〇〇人となっている。
これは当時の台湾人の二百人に一人が犠牲になった形だ。それも逮捕のあと市中を引き回された
り、耳と鼻を削ぎ落とされたり、手のひらに針金を通して数人一緒につないだり、処刑後も見せ
しめのため街中に死体を放置したり、麻袋に詰め込んで海や川に投げ込むなど残虐の限りを尽く
した。とても同じ民族のすることとは思えないだけでなく、二十世紀の文明人とは到底思えない
野蛮な仕打ちだった。
林美峰の苦悩
林美峰一家は幸いにしてこの殺戮の犠牲にならずにすんだが、二・二八事件は林美峰に大きな
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親 子 の 約 束
第 一 章
衝撃を与えた。この殺戮はいつまで続くのか。国民党軍はこの台湾と台湾人をどうしようと考え
ているのか。林美峰はフィリピン戦線を思い出した。アメリカ軍の戦車や戦闘機による攻撃で戦
友たちがばたばたと倒れていく様が脳裏に甦ってきた。「戦争はいやだ。もう二度とあのような
ことは経験したくない」
宜蘭の町でも、彼が銃の扱い方などを教えた青年や学生が国民党軍に引っ張られていき、殺さ
れるのを間近に見た。自分のところにも当局のものが来るのではないかと、いつもびくびくして
いなくてはならなかった。そのうえ陳儀長官は『清郷工作』を発表し、五人連座制度と密告奨励
制度を実施して、国民党政権に不都合な人物を次々と逮捕していった。それだけでなく、ただあ
やしいというだけでも逮捕され、まともな裁判もなく、ひどい場合は死刑、軽くても何ヶ月も監
獄に入れられるのだ。林美峰も元日本軍軍人ということで、目をつけられやすかった。青年組織
に銃の扱い方を教えたことなど、誰かに密告されたらひとたまりもない。
「 い つ 官 憲 が 家 に 来 る か わ か ら な い 。 今 ま で 何 も な か った と い う の は た だ 運 が 良 か った だ け だ 。
台北に近い宜蘭にいては危険だ。引っ越そう」愛する妻の李麗玉のお腹には自分の初めての子供
が宿っていた。
「この子は絶対に幸せにしてやりたい。そのためにも自分はここで死ぬわけには行かないのだ」
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親 子 の 約 束
第 一 章
台南への引越し
けいえい
一九四七年十一月二十五日に長女慧栄が生まれた。引越しを急がねばならない。国民党政権の
取締りは台湾北部のほうが厳しく、南部は比較的ゆるやかだった。美峰は宜蘭の裁判所で一緒に
働いていて、各地に転勤していった裁判官や書記官に手紙を書き、就職斡旋を依頼した。
北京語を話せる人材はどこでも不足していて、いくつか勤め先が見つかったが、妻の実家のあ
る高雄に近い台南市の裁判所に移ることに決めた。長女が生まれてから一年余り立った一九四八
年末に台南に引越しをした。しかし美峰はこの時、フィリピンのジャングルで高原温四と交わし
たあの約束、「生きて帰ったら親子になろう」、この言葉を思い出していた。
林美峰は頑固だったが、意志が強く、やろうと思ったことは絶対に最後までやり遂げる男だっ
た。林美峰は通訳官の仕事が終わった後、自宅で猛烈に法律を勉強し、裁判所の書記官になるこ
とができた。そしてこのあとも法律の勉強をつづけ、司法書士の試験に合格し、独立して法律事
務所を開くことができるようになった。これで台南での暮らしも落ち着き、銀行から金を借りて
戦前、日本の登記事務所長の官舎であった家を買うことができた。この家は二階建てでかなり古
かったが、部屋数が七部屋もある大きな家で、この一階に法律事務所を設けた。林美峰と李麗玉
にはその後三人の男の子が産まれ、一家は幸せな暮らしを送っていた。
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愛情表現の下手な男
林美峰は映画が大好きだった。その頃たまに日本映画も上映されることがあった。美峰はある
日、台南銀座の映画館で、美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみという当時日本で非常に人気の
あった三人娘が主演する映画『ジャンケン娘』を見た。コメディタッチで、笑いあり、涙ありで
最後はお決まりのハッピーエンドというものだったが、久しぶりに日本映画を見た美峰は、妻に
行くぞ」と言って、本当に出て行ってしまった。
っかく切符を買ってきてやったのに、俺の厚意を無にするのか」と怒鳴った。李麗玉が黙ってい
行けという。「嫌よ。眠いからこのまま寝かせてよ」といった妻の言葉に美峰はむっとして「せ
ると、ますます苛立って、「お前のような冷たい女はいない」と言いながら、鞄に洗面道具や着
替えを詰め込んだかと思うと、いきなり「そんな愛情のわからない女とは一緒に暮らせん。出て
日本男児と大和撫子
美峰は戦前の日本の教育を受けて、男の理想は大和魂をもった日本男児で、確固たる信念を持
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も見せたいと思って夜九時からの最終回の切符を買って帰宅した。その日、李麗玉は気分がすぐ
親 子 の 約 束
れず夜八時に早々と布団を敷いて寝ていた。そこへ興奮した林美峰が帰ってきてすぐ起きて見に
第 一 章
親 子 の 約 束
第 一 章
って何事もやり遂げなければならないと信じていた。そして家庭では亭主関白で妻や子供に甘い
言葉をかけたりするものではないと思っていた。このため口をついて出てくる言葉はきつい言葉
が多かった。本当は心根が優しく妻や子供のことを非常に愛しているのだが、その表現の仕方を
知らなかった。
李麗玉も戦前の日本の教育を受けており、親からも「妻は夫に従い、貞淑に死ぬまで添い遂げ
る」ことが女の務めだと言い聞かされてきた。そしてそれを実践するようにしていて、そういっ
た意味で本当の大和撫子だったし、美峰もそんな李麗玉に惚れて結婚したのだった。そしてこれ
まで美峰のきつい言葉や身勝手なもの言いにもたいていは絶えてきた。しかしときどき堪らない
ときがあった。この日もそうだった。
美峰が出て行ってホッとして寝入りかけた時、わずか一時間ほどで美峰が帰ってきた。美峰に
は行くところがどこにも無いのだった。今度は李麗玉が「あなたが帰って来たのなら私が出て行
くわ」と言って、身の回りの品を鞄に詰め、家を後にした。美峰は「ああ出て行け。子供は誰も
連れて行くな」と言っただけで止めることも後を追うこともしなかった。そんな夫婦喧嘩の様子
を小学校低学年と幼稚園児の子供たちはどうしたらよいのかわからず、布団の中で身体を小さく
してじっと聞き入っていた。子供ながらにいつもの夫婦喧嘩とは違うと感じていた。
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親 子 の 約 束
第 一 章
初めての離婚の危機
高雄の実家に行くにも夜十時を過ぎていて汽車は走っていない。こんなに遅いと友達の家に行
っても迷惑だ。李麗玉も家を出たものの行き場が無かった。でも美峰のように自宅へ帰るのも癪
だと思って、台南駅まで歩き、駅の待合室のベンチに座って朝を待ち、一番列車で実家へ帰った。
両親は驚いたが、そのうち美峰が家事に困って迎えに来るだろうと考えていた。
翌 朝 、 美 峰 は ご 飯 と 豆 腐 の 味 噌 汁 と い う 朝 食 を 作 り 、 子 供 た ち を 学 校 と 幼 稚 園 へ送 り 出 し た 。
その頃、台湾では子供たちは正午には自宅へ帰って昼ご飯を食べることになっていた。林家の子
供たちがいつものように自宅へ帰ってくると、食卓には美味しそうなイカの姿焼きがおかずだっ
た。だが食べると薄皮が取ってなく、とんでもない昼ご飯だった。父親の厳しさをいやというほ
ど判っていた子供たちは何も言わずにイカを噛んで、父親が見ていない隙に、薄皮を吐き出しな
がら昼ごはんを食べるのだった。
元の鞘
こうして一週間が過ぎると李麗玉の両親もさすがに痺れを切らし、父親の李定が台南の林美峰
宅へ出向き、どうするつもりなのか問い質した。
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親 子 の 約 束
第 一 章
頑固な美峰は自分が悪いのではないと言い張り、「麗玉が頭を下げてくるまで許さん」と言う。
李定は「君が悪いのではないことはわかるが、女の気持ちもわかってやって欲しい。家事も大変
だし、子供のためにも連れ戻しに来たらどうか」と水を向けるが、美峰は首を縦に振らなかった。
説得しようといろいろ努めた挙句、李定が「それじゃあ別れるしかない。どうしても別れるの
か」と聞くと美峰は「ええ別れます」と答えたため、李定は業を煮やして席を立ち、林美峰宅を
後にした。
すると美峰は隣の部屋で事の成り行きを心配して、聞き耳を立てていた四人の子供たちをそば
に呼び、「お前たち、ママが必要か」と聞いた。四人が目を輝かしてうなづくと、「それじゃあ、
すぐおじいちゃんを追いかけていって、『ママに帰ってきて欲しい』と言ってきなさい」と言う
のだった。
本当のところは自分も妻に帰ってきて欲しいのだが、それを素直に言えず、子供を使って間接
的に表現したのだった。李定と李麗玉もこれを察し、子供可愛さもあって元の鞘に収まったので
ある。
草野球の本格派投手
林美峰は小学校、中学時代、野球が好きで、よく学校で野球をして遊んだ。ポジションはいつ
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親 子 の 約 束
第 一 章
もピッチャーだった。台南一の商店街、台南銀座の青年たちの間で草野球チームを作ろうという
話が持ち上がった時、最初に参加を宣言したのは林美峰だった。
日本のヤマハ・オートバイの総代理店をしていた台湾ヤマハが台南銀座の中央にあり、この会
社がスポンサーとなって『台南・銀座隊』が結成された。林美峰はやはりピッチャーで、毎朝早
くから練習し、日曜日には他流試合をした。
そのうち台湾全土でも野球が盛んになり、大会社は競って野球チームを作り各地で対抗試合が
行われるようになった。一九五三年頃には、台南・銀座隊は台南一強いチームになっており、当
時、台湾最強のチームといわれていた、台北の台湾電力と高雄球場で対抗試合をすることになっ
た。一万人以上の観客が見守る中、ピッチャーの林美峰は台湾電力の強打者をよく抑えたが、台
南・銀座隊は結局一対二で惜しくも敗退した。
台湾少年野球生みの親
この試合を最後に林美峰は台南・銀座隊を引退したが、その二年後から、子供たちが通ってい
た永福小学校の野球チームの監督をすることになる。
永福小学校は台南一の進学校で、生徒は勉強はできたが、スポーツはからきしダメだった。野
球 の 対 抗 試 合 で も い つ も ビ リ だ った の を 、 林 美 峰 は 歯 が ゆ く 思 い 、 校 長 先 生 の と こ ろ に 行 っ て 、
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親 子 の 約 束
第 一 章
監督をさせてくれと申し入れた。そして四年生と五年生、二十人余りの選手全員に自腹でグラブ
とバットを買い与えた。
練習は毎朝午前六時から授業開始までと、放課後は暗くなるまでみっちりやった。監督自ら選
手と一緒にランニングをし、ノックをして守備を鍛え、トスバッティングをして打撃を教えた。
この教え方はまるっきり戦前の日本の軍隊方式だった。スパルタ式でヘマをするとお尻をぶつな
ど、非常に厳しかったが、ファインプレーをしたり、ここぞという時にヒットを打つと抱きしめ
て「よくやった。よくやった」と体中でほめた。そして練習後や日曜日の他流試合の後などはお
菓子を買い与えたりして選手を可愛がった。
永福小学校チームは徐々に力をつけていき、三年後の一九五八年、長女慧栄が六年生になった
年の初めに、林美峰監督は「今年は絶対優勝する。優勝するまで髭を剃らない」と宣言した。そ
してその宣言どおりに台南市の対抗戦で優勝したのだった。
優勝後、永福小学校チームの市内パレードが行われたが、選手に囲まれてニコニコ顔の林美峰
監督の髭ぼうぼう姿が沿道の人たちを驚かせた。これ以来、台湾では小学校を中心に少年野球が
ますます盛んになり、リトルリーグブームに火がつくのである。
台南での日本的生活
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親 子 の 約 束
第 一 章
林美峰は「生きて帰ったら親子になろう」という高原温四との約束を忘れたことがなかった。
あの時、自分は日本人だったが、やはり差別があった。だが高原さんの子になれば差別のない
本当の日本人になれると思い、非常に嬉しかった。いずれ高原温四と連絡が取れればあの約束を
実行して日本へ行こう。そして一家揃って日本人になろう。このため林美峰はできるだけ日本の
暮らしに近い生活をしようとし、家族にもそれを強制した。
仕事から帰って夕食を食べると浴衣に着替え、下駄をはいて近所を散歩したり、自分の部屋に
は畳表を敷いてごろ寝をするのが好きだった。また日本と同じようにひな祭りや端午の節句には
手作りの雛人形や鯉のぼりを飾り、七夕では笹に短冊をつけて楽しんでいた。
台湾では正月は二月の旧正月を祝うが、林美峰は日本と同じように一月の元旦を祝い、近所の
菓子屋に大きな鏡餅を作らせて床の間に飾った。近所の菓子屋にはたまたま戦前の日本の菓子屋
で修行をして、日本の菓子や餅を作れる菓子職人がいたのだ。それに今の家が日本の登記事務所
長の官舎であったことで、床の間があったのもよかった。
子供のしつけ
子供のしつけも日本式だった。幼少時に親の愛をほとんど受けなかった林美峰は、自分の子供
たちには絶対に自分と同じような思いをさせないと心に誓っていた。そしてある時は子煩悩だっ
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親 子 の 約 束
第 一 章
たが、ある時は厳しくしつけていた。食事の時は手を合わせて「いただきます、ごちそうさま」、
学校に行くときは「行ってきます」、帰ってきたときも「ただいま」と日本語で言わせた。長女
慧栄はこれを友達に知られるのが恥ずかしく、学校帰りに「あなたの家で宿題を一緒にしよう」
と言われてもいつも断っていた。
しかし林美峰はどうも娘の慧栄には甘かったようだ。慧栄が小学一年生の時、授業が始まって
も生徒が静かにしないので、先生が懲らしめようと思って「今日は家に帰しません。明日までこ
こにいなさい。夜になるとお化けが出てくるぞ」と脅して入り口に鍵をかけて出て行ってしまっ
た。慧栄は怖くなって隣の子に「窓から逃げない?」と聞いたが、「私は行かない」というので、
一人で窓から逃げ出して家に帰ってしまった。一人だけいないことに気づいた先生が心配し、美
峰の家を訪ねてきて事が露見したわけだが、これに美峰はかんかんになって怒った。慧栄を正座
させ「他の者がみんな我慢しているのに、一人だけ和を乱すようなことをしてはいけない」と懇々
と言い聞かせたが、絶対に手を上げることはなかった。
これに反して男の子たちのしつけは日本の軍隊式で非常に厳しく、何か悪いことや間違ったこ
とをすると、「足を開いて歯を食いしばれ」と命じ、頬を思い切りぶつのだった。
台湾人と外省人の対立
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親 子 の 約 束
第 一 章
こうした林美峰の行動と林美峰一家の様子は近所では、やはり奇異に映っていた。林美峰自身
はいっこうに動じなかったが、日本好きな行動がだんだん評判になってきたこと、それに日本に
いる戦友と文通していたことで、国民党政権から危険分子としてあやしまれ、ときどき警察官が
自宅にまで来ては、手紙の内容をチェックなどするようになった。
このままでは何かの拍子に本当に逮捕されるかもしれない。自分が逮捕されるようなことにな
ると一家は路頭に迷うことになる。「何とかこの島から抜け出さなくては」林美峰は真剣に台湾
脱出を考えるようになった。そしてあの高原温四との約束を実現したいという願望が強くなって
いった。
台湾は二・二八事件によって台湾人(本省人)と外省人の対立構造が根深いものになり、現在
もこの対立の構造は変わってはいない。これを『省籍矛盾』といった。この台湾人に対する大量
虐殺について、アメリカのスチュアート中国駐在大使は蒋介石に対して厳しい抗議をした。中国
南京の国民党政権は陳儀行政長官を一九四七年四月二十二日に罷免した。国民党政権はこれまで
の行政長官公署を廃止して、台湾省政府を新設し、アメリカ政府に受けのよい、魏道明を台湾省
政府主席に任命した。
魏道明主席は台湾省政府委員十四名の内、半数の七名に台湾人を任命するなど台湾人を懐柔す
るための政策をとるが、この魏道明も結局一年八ヶ月後の一九四八年十二月二十九日に解任され
た。
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親 子 の 約 束
第 一 章
蒋介石の台湾統治
中国大陸では国民党と中国共産党の戦闘がますます激しくなっていたが、そうした中、蒋介石
は一九四八年五月二十日に国民党総裁兼中華民国総統に就任した。しかし国民党の形勢はますま
す不利になり、国民党政権は台湾への移転に向けて準備を始めた。
蒋介石は腹心の陳誠将軍を台湾省政府主席に任命すると同時に、長男の蒋経国を国民党台湾省
委員会主任委員にした。一九四九年に入って陳誠政府主席は各地の港と河口を封鎖して、許可証
のない中国人の台湾上陸を厳しく制限し、中国からの難民が入ってくるのを阻止した。そして五
月二十日に戒厳令を施行した。この戒厳令は一九八七年七月十五日に解除されるまで四十年近く
続き、世界一長い戒厳令になるのである。
蒋介石は中華民国総統を辞任して下野するが、国民党総裁のまま台湾に渡り、そこから中国本
土の国民党政権を指揮、命令することにした。この準備として一九四九年八月一日に台北近郊の
陽明山に中国国民党総裁弁公庁を開設した。
十月一日には中華人民共和国が建国を宣言し、国民党の敗北は決定的になったが、蒋介石ら国
民党はこれを認めず、中華民国が唯一の中国であり、国民党政権が中国の唯一の正統政府である
ことを主張しつづけた。そして国民党政権は十二月七日に台湾移転を宣言し、十日には蒋介石と
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親 子 の 約 束
第 一 章
蒋経国が成都から軍用機で台北の松山空港に到着し、中国本土を共産党政権に明け渡した。
朝鮮戦争の勃発
大量の台湾人虐殺と中国本土からの撤退で、国民党政権に完全に失望したアメリカのトルーマ
ン大統領は翌一九五〇年一月五日に、『台湾海峡不介入』の声明を発表し、中国共産党が台湾進
攻をしてもアメリカは一切関与しないという方針を明らかにした。共産党政権の人民解放軍は大
陸の東海岸に押し寄せ、一九五〇年中には台湾は陥落するというのが世界の常識になりつつあっ
た。こうした事態に危機感を抱いた蒋介石は三月に中華民国総統に復職し、日本統治時代の総督
府を総統府として、その後の政治の中心とした。
ところが、六月二十五日に北朝鮮の金日成が北緯三十八度の南北暫定境界線を突破して朝鮮戦
争が勃発した。これが国民党政権にとって救いの神となった。トルーマン大統領は二日後の二十
七日に『台湾海峡不介入声明』の撤回を発表し、ただちに第七艦隊を台湾海峡に急行させた。そ
してこれをきっかけに台湾はアメリカの軍事保護下に置かれ、さらに一旦停止されていた台湾援
助が再開されることになった。
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親 子 の 約 束
第 一 章
アメリカの援助と保護
一九五一年二月十日に米華共同防衛相互援助協定が調印されると、アメリカは台湾に軍事顧問
団を派遣した。そして一九五四年十二月には米華共同防衛条約を締結している。こうして台湾に
は軍事顧問団九百名を始め、第七艦隊の空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など二十五隻の他、フィ
リピンの第一三航空隊の分遣隊も駐在し、六万人のアメリカ軍兵士が駐留した。アメリカから台
湾への軍事援助は一九五一年から一九六五年の十五年間に約八億ドルに及んでいる。アメリカか
らの近代的装備とアメリカの軍事顧問団に加えて、日本の元軍人だった富田直亮も中国名、白鴻
亮と名乗って秘密軍事顧問団を作り、国民党軍を訓練したことで、台湾の軍隊自体も飛躍的に強
化された。
このように外的にはアメリカに助けられて安定した蒋介石政権は、国内では相変わらず国民党
一党独裁で、しかもその国民党の中枢は蒋介石の直系で固めていった。国民党一党独裁はレーニ
ン式の政党運営で、これには若い時にソ連に留学したことのある蒋介石の長男、蒋経国が大きく
貢献している。その蒋経国は一九六五年に国防部長に就任、一九六九年には行政院副院長になっ
て、蒋介石から蒋経国への後継体制を固めていった。
台湾人と中国人
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親 子 の 約 束
第 一 章
台湾人にとって、国民党政権のもとの台湾は居心地の悪い、住み難い場所になっていった。戒
厳 令 の も と で 結 社 の 自 由 は 無 く 、 表 現 の 自 由 と り わ け 出 版 は 厳 重 な 検 閲 で 自 由 は 全 く 無 か った 。
そのうえ、役人や警察官が威張り散らし、日本統治時代には考えられなかった賄賂が横行してい
た。それでいて徹底的な抗日宣伝と反日教育が行われた。
もともと台湾人も山岳民族の原住民を除いては、大陸から渡ってきた人間である。同じ中国人
でどうしてこんなに違うのか。台湾人の知識人の間では台湾人(本省人)と中国人(外省人)は
歴史的に違う民族になったのだという。オランダ統治、明国統治、清国統治の時代に大陸から渡
って来たのは、男ばかりで女は渡航が許されていなかった。そのため男たちは原住民の女と結婚
せ ざ る を 得 ず 、 こ れ に よ っ て 混 血 の 子 が 代 々 続 い て 、 大 陸 の 中 国 人 と は 異 な った 人 種 と な った 。
文化的にもその後五十年の日本統治で、大陸より非常に早く近代化し、それに日本の教育によ
って高い倫理観と豊富な知識と技術を与えられ、新しい民族になっていた。台湾のある民族研究
家によると、台湾原住民との混血で、台湾人は肉体的にも中国人と異なってきており、それが証
拠に「台湾人の足の小指の爪には割れ目が入っている人が多い」ということである。
日本への憧れ
林美峰も外省人達の行動を見ては、彼らと自分たちは違う人種で、異なった民族だと自分自身
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親 子 の 約 束
第 一 章
に言い聞かせ、「それが証拠に自分たちの父方の祖先には外省人たちと同じ漢民族がいるが、母
方には純粋な漢民族はいない」などと家族にも何度も言っていた。どんなことがあっても彼らと
同じ人種、同じ民族とは絶対思いたくなかったのだ。
「それにしても日本はなぜ台湾を手放してしまったのか。いや見捨ててしまったのか」
林美峰は外省人の嫌な行動を見たり、聞いたりした後、いつも、家族にこう漏らしていた。故
国台湾に帰れて嬉しかったと思ったのは、ほんの一瞬だった。今や日本の統治時代が懐かしかっ
た。そんなことを思うたびに『親子の約束をした』高原のことを思い出した。「高原さんはどう
しているのだろう。何とか連絡がとれないものか」林美峰は文通していた日本の戦友にも、「探
して欲しい」と書いたり、日本との貿易をしている人や、日本から帰ってきた船員などを見つけ
ては高原温四の居所を探そうとしたが、手掛かりが見つからなかった。
婦人雑誌の尋ね人欄
一九六〇年(昭和三十五年)になって、近所の主婦が「小学校時代の日本人の先生を探して欲
しい」と日本の婦人雑誌の『尋ね人欄』に投稿をしたところ、見つかったという話が飛びこんで
きた。李麗玉も日本の懐かしさから婦人倶楽部という雑誌を購読していた。二人は藁にもすがる
思いで「高原温四さんを探してください」と投稿した。六月号だった。八月になって岡山市在住
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親 子 の 約 束
第 一 章
の安原美江と名乗る女性から「温四という名は珍しいので、探していらっしゃる高原さんはきっ
とこの方だと思います」という手紙が届いた。
この安原美江は高原温四や李麗玉と同じ台湾鉄工所フィリピン支社の会計課長だった人の娘
だった。これで高原温四の住所は広島県因島市土生だとわかった。二人は相談して早速手紙を書
いた。
約一ヶ月経って返事が来た。当時はまだ航空便がなく船便だったため、外国との手紙の往復に
は非常に時間がかかった。手紙の主は間違いなくあの高原温四だった。手紙によると高原も林美
峰の行方を探していたところへ安原美江から連絡があったという。
養子縁組
林美峰は次の手紙で台湾の現状と『親子になる約束』を果たして、日本へ行きたい気持ちを切々
と訴えた。その手紙を受け取った高原は「何とかしてやらなければ」と、すぐさま因島市役所へ
出かけ、役所の戸籍係に相談した。
因島のような地方の役所ではこれまでに外国人、それも外国に住んでいるものと養子縁組する
という例がなかった。戸籍係も法律に無知だった。「高原さんそりゃあ無理だよ」とにべも無い
返事が返ってきた。
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親 子 の 約 束
第 一 章
かつて同じ国だった日本と台湾、戦争に負けて別々の国になってしまうと、昔出来た事も出来
なくなってしまうのか、高原は肩をがっくり落として自宅へひき返し、失意の中で役所の見解を
手紙に書いた。
林美峰も妻の李麗玉とともに手紙を読んで「ええーっ」と声を上げた。「ちょっと待て。調べ
てみる。養子縁組がだめでも、他に何かいい方法があるかもしれない」
林美峰は幸いにして法律事務所を開いていた。このときの台湾の民事法はまだ日本統治時代の
ままだった。林美峰は自分の事務所の本や図書館に通って日本の法律を徹底的に調べた。日本の
法律には外国人を養子にすることを妨げる条文は何も無かった。戸籍係が、ただ単に無知だった
ことが判ったのだ。林美峰は関連の条文を書き写し、養子縁組の手続きを詳しく説明する手紙を
高原に送った。
最終的に高原温四と林美峰・李麗玉夫婦の養子縁組が認められ、因島市役所の高原温四の戸籍
に入籍したのは一九六三年十月二十八日だった。
日本への渡航
林美峰と李麗玉の次の目標は日本へ移住して日本人になることだった。とにかく日本へ行かな
ければと思ったが、これがまた大きな難題だった。当時、国民党政権は台湾人による反政府運動
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親 子 の 約 束
第 一 章
が台湾の内外で活発に行われ出したことで、台湾人の海外渡航を禁止していた。特に一九五六年
二月二十八日に東京で、廖文毅が台湾共和国臨時政府を樹立したこと、一九六〇年四月十日には
やはり東京で、台湾独立を主張する『台湾青年』が創刊されてからは、華僑や船員などは別とし
て、台湾の民間人の日本への渡航は絶対禁止だった。
林美峰は知り合いの旅行業者や貿易業者、船員などに相談し、日本渡航の道を探ったが不可能
だった。
この難しい道を開いたのは一九六四年二月二十三日に日本の吉田茂元首相が台湾を訪問し、蒋
介石総統と会談したことだった。この会談で両国は共産主義に対して政治的に団結する。日本は
台湾に対し経済協力を行う。両国の貿易と相互交通を盛んにするなど友好関係を深めることなど
で合意した。アメリカの台湾への援助が一九六五年六月で終わるため、中華人民共和国の脅威に
備え、政治の安定と経済発展を進める台湾、国民党政権にとって、どうしても日本の援助と友好
関係が必要だったのである。
これで台湾の民間人の日本への渡航が幾分緩和されたことにより、林美峰の日本への渡航が可
能になった。とはいっても最初から移民ヴィザをとることは出来ない。林美峰は旅行会社に頼ん
で、とりあえず二ヶ月の観光ヴィザをとった。そしてまだ両国の間には客船の往来が無かったた
め、貨物船に乗って単身日本へ向かったのだった。
一九六四年四月十九日、チャウ・クオ号(四、八六〇トン)は神戸港に近づいた。およそ十九
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親 子 の 約 束
第 一 章
年ぶりに見る日本は想像以上に近代化していた。港の向こうに建ち並ぶ神戸の町中のビルまたビ
ル、港の広さと各埠頭に横付けになっている巨大な貨物船の数、十九年前焼け野原ばかりで、完
全な廃墟になっていた終戦直後の日本は跡形も無かった。林美峰は嬉しくなった。すばらしく復
興 を 遂 げ た 日 本 を 誇 り に 思 っ た 。 「俺 は 再 び 日 本 人 に な る 」 こ の 決 意 を 大 声 で 叫 び た か った が 、
その気持ちを押し殺し、心の中でそっとつぶやいた。神戸の町を見続けているうちに自然と目頭
が熱くなった。
憧れの日本生活
因島の高原の家では親戚などを呼んで、毎日毎日、林美峰の歓迎会が催された。久しぶりの日
本食は美味しかった。日本酒の味も思い出した。海と山の自然が美しい因島も気に入ったが、新
しい父、高原温四とともに広島や尾道へ足を伸ばして、デパートや商店街を散策するのも楽しか
った。そして四月二十七日に呉へ行ってNHKに出演したのだった。
この放送では「私は戦時中フィリピンのジャングルで生命を救った日本人に招かれ十九年前の
約束どおり、養子に迎えられた中国人です」と紹介されたが、美峰は自分が『中国人』とされた
ことが不満だった。自分は台湾人なのだ。台湾では中国人というと、蒋介石と一緒に台湾に来て、
台湾人を大量虐殺した外省人を指す。NHKに対して抗議したかったが、日本に来たばかりでつ
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親 子 の 約 束
第 一 章
い気後れしてしまい、我慢してしまった。
それにしても日本は物資が豊富で市民生活が活発だった。ちなみにこの年の日本の国民総生産
は二十五兆三、六〇〇億円で経済成長率はなんと九・四%だった。十月にはアジアで初めてのオ
リンピックが東京で開催されることになっており、そのために時速二百キロの新幹線と首都高速
道路が建設中だった。林美峰は日本の復興ぶりの見事さに何度も何度も感心した。それに比べて
台湾はどうだろう。国民党政権の台湾政策はただ日本から受け継いだ遺産を維持するのが精一杯、
戦後十九年の間にどれだけの進歩を遂げたのか。アメリカの軍事・経済援助があったため、大陸
に比べれば経済は安定し、生活水準も悪くはないが、日本のような劇的な変化はなく、国民党政
権の経済運営はまことにお粗末なものだ。
林美峰は目の当たりにしたすばらしい日本の状況と、自分への歓迎ぶり、高原家の様子などを
妻への手紙の中に克明に書いた。そして日本への永住にそなえて、子供たちに日本語を教えるよ
う書き加えた。
日本永住への道
このすばらしい日本に永住し、日本人になるのにはどうすればよいのか。林美峰の渡航許可は
観光ヴィザだった。当時の法律ではこのままでは二ヶ月しか滞在できない。林美峰と高原温四は
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親 子 の 約 束
第 一 章
五月十八日になって広島市内の入国管理事務所へ相談に行った。二人は養子縁組が成立した戸籍
謄本を見せ、フィリピンのジャングルでの約束がやっとかなったこと、「一家六人で日本に永住
し、日本人になりたいのだ」と係官に訴えた。
しかし、係官の辻真紀には二人の希望することが無理だということがすぐ判った。観光ヴィザ
で入国し、滞在期間を過ぎても出国しない外国人が後を断たないことから、入国管理局では観光
ヴィザでの入国者には非常に厳しく、林美峰の滞在期間を延ばすのは不可能だった。しかも日本
に帰化するには日本に五年間以上住んでいなければならない。
だが二人の話に感激し、さらに話を聞くうち、辻と林美峰は中国戦線ですぐ近くの部隊に居た
ことが判った。「それでは戦友ではないか。なんとかしてやろう」
辻は上司の入国審査課長と事務所長のところへ二人を連れて行った。林美峰は「私は昔は日本
人で、戦争中は志願して日本兵として戦いました。このたび高原さんの養子になることができた
ので、一家全体で日本に移住して、日本人になり、親孝行をしたいのです」と涙ながらに訴えた。
一
課長の佐藤啓も事務所長の山下留吉も感激した。
心の暖かな日本人たち
「十九年前のジャングルでの親子の契り、日本人と台湾人の国境を越えた親子の愛情、これはニ
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親 子 の 約 束
第 一 章
ュースじゃないか」
山下事務所長は広島県庁の記者クラブに電話をした。数社の記者が駆けつけてきた。記者たち
も二人の話に感激した。「暗いニュースが多い中で、最近にない良い話じゃないか」「これはビ
ッグニュースだ。永住、帰化が出来るよう我々も力を貸そう」「入管事務所もなんとか考えてや
ってよ」佐藤課長は林美峰と記者たちに観光ヴィザを変更して滞在期間を延長することが如何に
困難かを説明した。林美峰はすかさず言った。
「すみません。私はこれまで高原さんの養子になることに全力を尽くしてきました。養子になれ
ば簡単に日本人になれると思っていました。昔は日本と台湾は同じ国で、私は日本人でした。今
回再び日本人になろうと思って来ましたが、戦争が終わって別々の国になったことを今になって
実感しました。私も台湾で法律関係の仕事をしていますので、法をまげることが出来ないことは
承知しています。今回はあきらめます。一度台湾に引き返し、あらためて正規の手続きをとって
出直してきます」
佐藤課長はこの毅然とした態度に痛く感服し、林美峰の両肩に手をおいて言った。「林さん、
よくぞ言ってくれた。僕は君のために一肌脱ぐよ」
広島入国管理事務所としては、とりあえず『観光ヴィザの六十日間滞在延長申請』を受理する
ことにし、どのような法令に基づき、どのような手続きをとれば林美峰の滞在期間を延長し、日
本に帰化できるかを調べることにした。そして「特別措置として、『親族訪問』の名目で林美峰
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親 子 の 約 束
第 一 章
二
の観光ヴィザが切れる六月十九日から百八十日間滞在を延長してやってほしい」という上申書を
法務大臣宛てに送った。
心の暖かな日本人たち
翌日の各紙の朝刊には『十九年ぶりの養子縁組悲し』『日本に永住できぬ』という見出しの記
事 が 写 真 入 り で 大 き く掲 載 さ れ た 。 早 速 様 々 な 方 面 か ら 反 響 が あ った 。 日 本 人 か ら だ け で な く 、
東京の中華民国大使館からも電話があり「華僑という身分にすれば長期滞在ヴィザがとれると思
う」という提案があった。奈良県天理市の木下正も新聞を読んで林美峰に連絡してきた。木下は
林美峰と中国戦線で同じ椿六八四三部隊に所属していて、中隊は違ったが顔見知りだった。「よ
し。戦友の窮地だ。なんとかしよう」
木下は当時の上官で今は防衛庁の統合幕僚会議事務局長になっていた吉江誠一と親しかった
ので、林美峰の問題を吉江事務局長から時の法務大臣にじきじきにお願いしてもらうという大胆
な方法をとった。六月に入って木下から電話があった。「おい、法務大臣がお前に会うと言って
いるらしい。すぐ上京しよう」
林美峰と高原温四は大阪で木下と落ち合って上京し、東京駅からは吉江事務局長の案内で霞ヶ
関の法務省へ向かった。赤レンガの重厚な建物の中の法務大臣室で賀屋興宣法務大臣に面会した。
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親 子 の 約 束
第 一 章
賀屋法相は開口一番「あなたが林さんか。新聞やテレビで見ましたよ。広島の入管事務所から
もちゃんと書類が届いているし、心配しなくてもいいですよ。なんとか考えますよ」と気さくに
述べ、ヴィザの変更と滞在期間の延長についての話はそれだけで、後は吉江事務局長も加わって、
戦争中の話に花が咲いた。
法務省を後にした林美峰、高原温四、吉江事務局長、木下の四人はその足で九段の靖国神社を
訪れ、中国戦線や南方戦線で散った戦友たちに手を合わせた。林美峰は二十年前の悲惨な戦争体
験を走馬灯のように思い出した。「よくぞここまで生き延びた。しかも靖国神社に足を踏み入れ
ることが出来た。自分は本当に幸せ者だ」こう思いながら拝殿で柏手を打って社を見上げたとき、
日本人としての実感のようなものが胸の奥底から湧き上がってくるのを感じ、感無量だった。
温情の滞在延期
七月十三日、法務省から広島入国管理事務所に連絡が入り、林美峰と高原温四が事務所に駆け
つけた。なんと法務省は林栄鋒のヴィザ、渡航資格を『入国管理令四条一項一六号の三』を適用
し、当初の『観光』から『法務大臣が特別に認めた資格』に変更して、最初の滞在期限が切れた
六月十九日から百八十日、半年の滞在延長を認めてくれたのだ。
これには山下事務所長をはじめ事務所全員だけでなく、取材に来た新聞社の記者たちも驚いた。
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第 一 章
親 子 の 約 束
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親 子 の 約 束
第 一 章
佐藤審査課長から「この措置によって、君は今後半年ごとに滞在延長ができる。これによって
五年後には帰化できることを法務大臣が太鼓判を押してくれたようなものだ」と聞かされて、林
美峰も「万歳」と叫びだしたいのをこらえて思わず破顔一笑、顔がくしゃくしゃになってしまっ
た。
その瞬間を新聞社のカメラに撮られた後、記者たちのインタビューに対し、林美峰は「こんな
に嬉しいことはありません。私の立場をよく理解してくださった広島入管や日本政府、日本の人
たちにまったく手を合わせたい気がします。台湾に居る妻子を早く日本に呼んで、父に会わせた
い。これからは父にひとつひとつ教わりながら、早く立派な日本人になりたい」と答えた。高原
も「林さんと毎日楽しく過ごしていますが、許可されてまったく嬉しい。彼は礼儀正しく、私に
とっては過ぎた息子です。帰化できれば、私の親類の会社に勤めてもらうよう、ぼつぼつ仕事を
教えています」
このニュースは体全体で喜びを表している林美峰の写真とともに『温情の滞在許可』『法務大
臣が愛の計らい』などの見出しで、翌十四日の各紙の朝刊に大きく取り上げられた。
台湾での来日準備
林美峰はこの後、妻李麗玉と連絡を取り合い、台湾に残る家族五人の日本への移住の手続きを
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親 子 の 約 束
第 一 章
日本と台湾で進めた。一方、李麗玉は夫からの手紙でヴィザの変更と滞在期間の延長がうまくい
き、一家六人で日本に永住できそうだということが判り、嬉しい思いと不安とが入り混じる複雑
な気持ちだった。
台湾での外省人たちのもとでの生活から逃れ、復興著しい日本で生活できることや、あの高原
重役の下で生活できることなどについては期待に胸が膨らむが、日本での生計をどう立てるのか。
夫は台湾料理の店でもやろうというが、自分は家で近所の主婦たちと一緒に台湾の家庭料理を習
っているのであって、とてもお客様に食べてもらうようなものではない。それに子供の教育が一
番心配だ。自分たち夫婦は戦前日本の教育を受け、日本語の読み書きに不自由しないが、現在子
供たちが受けている教育の基本は反日教育で、学校内は勿論、学校の外でも日本語での会話は厳
禁だった。家の中では簡単な日本語と台湾語で会話をしているが、学校の授業についていけるよ
うなものではないし、ひらがなとカタカナはこれから教えていかなければならない。漢字も日本
と は 使 い 方が 違 う 。 し か も 日 本 語 教 育 は お お っ ぴ ら に は 出 来 な い 。 子 供 た ち が 学 校 か ら 帰 る と 、
李麗玉は毎日家でこっそり日本語と日本の習慣などを教え始めた。そして新学年になると四人全
員学校へ行くのをやめさせ、自宅で毎日徹底的に日本語教育をし始めた。
高原温四の台湾訪問
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親 子 の 約 束
第 一 章
日本では十月十日、快晴の空のもと第十八回東京オリンピック大会が開催され、九十四ヶ国か
ら七千人近い選手が参加した。アジアで初めての民族の祭典で、台湾からも陸上競技、柔道など
に四十三人の選手が参加していたが、残念ながらよい成績を収めたものはいなかった。
日本は地元の利を活かし、この東京大会から正式種目になったお家芸の柔道や体操、重量挙げ
などで金メダル十六個を含む二十九個のメダルを獲得して、アメリカ、ソ連に次ぐ好成績を上げ
た。林美峰は新しい父温四とともにオリンピック競技を毎日テレビで見て興奮していたが、日本
人選手を応援し、その活躍ぶりを喜ぶ様は既に日本人になったかのごとくであった。
オリンピックも終わり、世の中が平静さを取り戻した時、林美峰は高原温四に台湾行きを提案
した。温四も元気なうちに行ってみたいと大乗り気で日程調整に入った。林美峰は妻と高雄の友
人たちに手紙で高原の台湾行きを知らせ、大歓迎しようと提案した。高原の台湾行きは台湾鉄工
所で高原の世話になったものに口コミで伝えられ、これらのものがお金を出し合って高原の往復
の費用と宿賃を出すことになった。
高原温四は高雄で大歓迎された。高原の歓迎パーティでは台湾鉄工所の部下だったもの、高原
の尽力で鉄工所の工員養成所に入ったもの、高原がポケットマネーを出して上級学校へ行くこと
ができたものなど、これらが家族ともども出席して久々ぶりの再会を喜び合った。集まったもの
の中には会社や工場を経営していたり、会社で重要な役職についているものが多く、「現在、よ
い仕事が出来るようになったのは、すべて高原さんのおかげです」とみんな抱き合って高原に感
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親 子 の 約 束
第 一 章
謝の言葉を述べていた。
台湾からの脱出
翌一九六五年(昭和四十年)七月末になって、林美峰の家族全員に日本への渡航許可が で た 。
ヴィザは林美峰と同じ法務大臣の特別許可で、滞在期間は百八十日間であった。林美峰は三年前
に古くなったこれまでの家を壊して、同じ地所に新築したばかりだったが、これを売りはらった。
銀行のローンを返して、残金を日本円に両替すると三百四十万円になった。これを台湾料理屋を
開く元手にするつもりだった。林一家は親戚や知り合いと別れの挨拶をするなど身の回りの始末
をした。九月三日台南駅を出る時には近所の人や草野球時代の友人、少年野球の教え子など百人
近い人たちが見送りに来てくれた。一家は高雄の李麗玉の実家に三泊し、九月六日にバナナ船シ
ンチ・リーファー号で高雄港を発った。
このときも親戚や知り合いが三十人くらい見送りに来た。船が岸壁を離れ、見送りの人たちの
姿がだんだん小さくなり、豆粒ほどになって妻と子供たちは船室に降りた。後部甲板には林美峰
がただ一人残った。
美峰は胸の底からこみ上げてくるものを抑えることができなかった。「バカヤロー、国民党の
バカヤロー、中国人のバカヤロー、外省人のバカヤロー、俺はお前たちのおかげで生まれ故郷の
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親 子 の 約 束
第 一 章
台湾を捨てるんだぞ。お前たちのせいだ。バカヤロー」美峰は涙をボロボロこぼしながら大声で
何度も何度も叫んでいた。
台風の洗礼
丁度そのころ太平洋には台風二十三号と二十四号が発生していた。二十三号も二十四号も中心
気 圧 が 九 五 〇 ミ リ バ ー ル と い う 大 型 で 非 常 に 強 い も の だ った 。 林 美 峰 ら を 乗 せ た バ ナ ナ 船 は 四 、
二八二トンという余り大きな船ではなかったため、出港してまもなく二十三号の暴風雨に巻き込
まれて大揺れに揺れ、長女慧栄ら子供たちは船酔いに悩まされた。
船室でじっと寝ていてもごろごろ転がり、そのうえ気持ちが悪くなって吐きたくなり、嘔吐を
す る た め に ト イ レ に 行 こ う と す る と 、 思 う よ う に 歩け ず 扉 や 柱 に あ ち こ ち ぶ つ け る 始 末 だ っ た 。
食欲もなく食堂へ行くこともできなかったので、船員たちが心配して朝、昼、夕にコーヒーとド
ーナツなどを船室まで運んでくれたが、これも少し口にしただけで気持ち悪くなった。長女慧栄
などはこのあと十年間以上コーヒーの臭いをかいだだけで吐き気がするぐらいだった。
やっと台風二十三号が船の近くを通過して日本が近くなったころ、今度は二十四号が近づいて
きて、船は再び暴風に翻弄された。普段なら四日か五日で日本に着くところを台風のために七日
もかかって、船はようやく十三日の午後七時に神戸港に到着した。
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親 子 の 約 束
第 一 章
林一家あこがれの日本到着
兵庫突堤に係留され、一家が入国手続きの始まるのを待っていると、係官と高原温四が新聞記
者を大勢連れて船内に乗り込んできた。そしてそのまま高原を取り囲んでの写真撮影が始まって
フラッシュ攻め、つづいてインタビューが行われた。林美峰は一家揃って日本に来ることが出来
た 喜びを率直に述べ、 「我々は日本 人が本国に引き揚げるのと 同じ気持ちで来日したのだから、
もしこれで帰化できなければ死ぬほどつらい」と記者たちに訴えた。李麗玉はこれからの日本で
の生活や子供の教育の大変さを話した。長女慧栄ら子供たち四人は先ほどまで船酔いに悩まされ
て疲労困憊していたが、到着してからは元気になっていて、大勢の記者団に驚きながらも日本で
の新しい生活に胸を膨らませていた。
この日は台風二十四号接近の影響で前線が刺激され、西日本一帯で集中豪雨に見舞われた。一
万戸を上回る家屋が浸水するなど大惨事となって、翌一四日の朝刊は一面も三面も台風のニュー
ス一色となっていたが、林美峰一家来日の記事は『戦火の中で誓った“親子、二十年ぶりに再会』
『果たしたジャングルの誓い、二十年目に養子縁組』などという見出しで全ての新聞が大きく取
り上げた。
一行はその夜神戸市内のホテルに宿泊したが、翌日は台風二十四号のために山陽本線の明石・
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親 子 の 約 束
第 一 章
垂水間で起きた土砂崩れ現場に、特急が乗り上げて脱線するという事故があり、山陽本線全線が
不通に な ったため 神戸で足止 め を食 ってしま って、ホテルに 二日間も閉じ込められてしま った 。
しかし子供たちは初めて日本のホテルに泊まって大喜びで、外には一歩も出ることができなかっ
たが、テレビを見たり、ホテル内を探検したりして楽しんでいた。
李麗玉は高原が高雄に来た時は余り話す機会が無かったため、今回の再会ではフィリピンの苦
しい思い出から始まって、林美峰との結婚、これまでの暮らしなどを事細かに話した。そして高
原が養子縁組をしてくれたことに話が及ぶと、感謝、感激して思わず涙ぐんでしまった。
十六日朝、台風二十四号が通り過ぎ、やっと動き出した電車に乗って、一行は尾道駅に着いた。
尾道市内は台風二十四号のもたらした集中豪雨で、あちこちで洪水になっていたが、ここでもマ
スコミが待ち受けていて、明くる日の新聞に写真入りで取り上げられた。
日本での生活の不安
高原の家がある因島は船で一時間もかかり非常に不便なので、一行はしばらく尾道市の天理教
分教会に身を寄せることにした。高原の姪が天理教の信者で頼み込んでくれ、分教会の人も新聞
で一家のことを知っていたので、天理教の宣伝にもなるということで泊めてくれたのだった。高
原と林一家はここから毎日、尾道市内や広島市内などを見物して歩いていたが、二十七日にはヴ
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親 子 の 約 束
第 一 章
ィザの取得でお世話になった広島の入国管理事務所へお礼に行った。ここでも広島のマスコミが
取材に来て、翌日の新聞に大きく掲載された。これら一連の記事で林美峰一家は関西ではすっか
り有名になってしまった。
高原温四と林美峰夫婦は毎晩夕食後に今後の生活をどうすべきか話し合った。李麗玉は日本へ
の移住が決まってからは、それまでの家庭料理だけでなく、お店で出せるような本格的な台湾料
理も習っていたので、台湾料理店を始めることは決まっていた。林美峰はそれを手伝いながら日
本と台湾の物資を輸出入する貿易業をやってみようと思っていた。
問題はその店をどこに構えるかだった。高原の家がある因島や対岸の尾道市では商売にならな
い。だが広島市内の都会の良い場所に、店と住居を借りるとなると不動産価格が高くて、林美峰
がこれまで貯めていた金と台南の家や家財全部を売った金を合わせても、敷金と店の改装費には
とても足りないことがわかった。
台湾の知人たちと連絡をとると、福岡など北九州には台湾人が多く、こちらへ来て共同で店を
やろうという人が何人かいた。しかし北九州へ行くと高原から遠く離れてしまうため親孝行がで
きない。高原はもはや七十五歳になっており、故郷から離れたくないといっていた。
開山会の救いの手
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親 子 の 約 束
第 一 章
こうして思い悩んでいると、広島市の開山会というところから林美峰一家を援助したいという
電話があった。この開山会は戦前、台湾に住んでいて、終戦後、広島県に引き揚げてきた人たち
で組織されたもので、日本人を母に持ちオランダから台湾を解放した鄭成功をたたえ、台湾の人
たちが『開山王』と呼んだのにちなんで会の名前にした。メンバーも戸田工業会長の戸田俊夫が
会長で、会員は約四十人、当時の広島県の副知事、広島大学の教授、助教授ら錚々たる人物が名
を連ねていた。
因島という離島にいた高原はこの存在を知らなかったが、この申し出に喜んで林美峰とともに
開山会の代表に会いに行った。広島駅近くのレストランでの話し合いでは、開山会の代表は開口
一番こう切り出した。
「新聞でお二人のジャングルの誓いを読みました。その誓いを二十年後に実現されたことに、我
々は本当に感激しました。戦前台湾で生活したものとしてお二方がまったくの他人とは思えない
のです。我々も台湾料理が懐かしいので、ぜひ広島市内でお店を開いてください。我々にそのた
めのお手伝いをさせてください」。高原と林も開山会の人たちがかつて台湾に住んでいたという
ことで、非常に近しい気がし、やはり他人とは思えなかった。
高原と林もこの申し出に感激し、開山会の好意に甘えることにした。このあとはフィリピンで
の苦しい逃亡生活、戦後の台湾、現在の台湾などの話が続いた。開山会の人たちは二人の話を聞
いて改めて感激し、広島市内に店と住居を探すことだけでなく、資金援助もすることを約束した。
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親 子 の 約 束
第 一 章
開山会では十月末から本格的に寄付を募る活動を始めるとともに、林美峰一家の住居と台湾料
理店にふさわしい店舗の物件探しも始めた。そして一ヶ月ほどで広島市金屋町に住居が見つかり、
一家はここに引っ越してきた。またほどなく店の方も広島駅近くの荒神町に見つかり、改装工事
に入った。
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父 と 娘
第 二 章
第二章 父と娘
日本での生活スタート
林美峰一家が生活拠点を広島にしたことによって、一家の本格的な日本での新しい生活が始ま
った。三人の男の子はまだ義務教育だったため、簡単に広島市立旭中学校の三年生と一年生、広
島市立南方小学校の五年生に転入し、早速通学し始めた。ところが、長女慧栄の学校選びは難航
した。慧栄は台湾でも一流校である台南第一高等女学校に通っていたが、日本と台湾の学力比較
が困難であるだけでなく、日本語の理解力がやはり劣っていた。林美峰は慧栄を広島県立広島皆
実高校に入れたがったが、編入試験の結果、国語の能力が低いと判断し、高校側は「無理だ」と
いう判断だった。
しかし林美峰はあきらめず、長女を連れて広島県教育委員会へ行ったり、広島皆実高校の校長
に直接電話をした。広島皆実高校の校長は十二月半ばになって「それでは一度お会いしましょう」
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父 と 娘
第 二 章
と言ってくれ、美峰と慧栄は夕方六時過ぎに広島皆実高校を訪れた。吹きさらしの玄関前でドア
が開くのを待っている間、慧栄がコートのポケットに手を入れて身をすくめていると、美峰はコ
ートを脱いで直立不動の姿勢をとり、慧栄にも「コートを取りなさい。人にお願いする時にはそ
んな格好でいるものではない」と命令した。
慧栄は木枯らしの吹きすさぶ中、泣く泣くコートを取ってドアが開くのを待った。十分ほどで
やっとドアが開いて暖かい校長室に通された。校長は林一家の話を一応新聞で読んで知っていた
が、林美峰から直接、フィリピンでの悲惨な戦争の中での『親子の約束』の話を聞いて感激した。
そして校長自ら教育委員会にかけあってくれ、その結果十二月二十四日になって「とりあえず聴
講生として一年生に入学し、三学期の成績によっては正式な二年生に進級できる」ことになった。
この特別な計らいについて県教委は「このようなことは最初で最後であり、今後はこのような
特別扱いはしない」というコメントを発表している。これも翌日の新聞に『編入学のクリスマス
プレゼント』という見出しと慧栄の写真入りで記事になった。慧栄はインタビューに対して「日
本での初めて迎えるクリスマスに最大の贈り物をうけました。しっかり勉強して将来は外交官か
新聞社の特派員になりたい」と話した。
開山閣の開店
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父 と 娘
第 二 章
台湾料理店の改装が終わり、開店したのは年の瀬も押し迫った十二月二十日だった。店の名前
は援助してくれた開山会の名にちなんで『開山閣』とした。林美峰が「こんな小さな店で『閣』
なんて、ちょっと恥ずかしいですなあ」というと、開山会のメンバーの一人が「繁盛して、店が
大きくなり、そのうち本当の閣になるからいいんだよ」と言って大笑いした。
また林美峰は日本と台湾の間で物資の輸出入をする会社を作り名前も開山貿易とすることに
した。この開山閣の開店も地元の新聞に大きく取り上げられ、記事の中で林美峰は「店が開店で
きたのも皆さんのおかげで、なんと感謝してよいのかわかりません。店は我々一家の生活ができ
ればよい。あとは美味しいものを食べてもらってせめてもの恩返しをしたい。また店に『たずね
びと』の名簿を置き、台湾にいた人の消息がわからない場合、台湾と連絡をとって探します」高
原も「孫たちは日本の正月を知らないので、正月には因島に連れて帰って餅つきを見せてやりた
い」と話している。
開山閣は開山会の会員たちがいろいろな機会に宴会を開いたり、私的、公的な様々な会合に利
用 す る こ と に よ っ て 繁 盛 し た 。 料 理 は 全 て 李 麗 玉 が 作 った が 、 美 峰 も 予 約 の 受 付 や 宴 会 の 準 備 、
後片付けなどを手伝った。子供たちも学校から帰ってきたあとは買い物や皿洗いなど親の手伝い
をした。
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父 と 娘
第 二 章
武士の商法
堅物で頑固な美峰の商売の仕方はかなり変わっていた。毎朝開店前に銀行に行って、千円札を
何十枚も新札に両替するのだった。「おつりに新札をもらうと気持ちのいいものだ」というのが
彼の持論で、彼なりの商売のコツだった。しかし、客あしらいはけっしてうまいとは言えなかっ
た。
自分が酒を飲まないこともあって、酔っ払いが大嫌いで、初めての客が酔っ払って入ってきた
りすると、「今日はもう終わりだ」と言って追い帰してしまうのだ。また常連客でも酔っ払って
くると「もう酒はストップ。これ以上飲んだら身体に悪いよ」と言って、絶対に酒を出さなかっ
た。客が厨房にいる妻の麗玉に冗談を言ったりすると、急に機嫌が悪くなり、その客をぞんざい
に扱うのだった。
それに行儀の悪い客には「君は日本人だろう。そんなことで恥ずかしくないのか」などと平気
で注意する始末で、怒って何も食べずに帰ってしまう客もいた。こうしたやり方に麗玉は「これ
じゃ あ 商売 に な ら な い わ 」 と 不 満 を 述 べ 、 閉 店 後 自 宅 へ 帰 る 道 す が ら は い つ も 夫 婦 喧 嘩 だ った 。
親しい客からも「武士の商法のようだ」と言われたりもしたが、それでも開山会の会員を中心
に「そんな堅いところがよい」と言う人も多く、常連客の数は徐々に増えていった。
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父 と 娘
第 二 章
開山閣の発展
林美峰の武士の商法は麗玉の杞憂だったのか、開山閣はだんだんと繁盛していった。そのうち
店が手狭になったので、開店からわずか一年二ヶ月しかたたない昭和四十二年二月に、広島市役
所が近い広島市国泰寺町二丁目にあった古い旅館を買って新しい開山閣にした。木造の二階建て
で、一階には店の他に四畳半の小部屋が四つ、二階は六畳間が三つあり、間のふすまを取っ払う
と大広間になって大きな宴会もできるようになった。資金は店の常連客だった広島県商工会連合
会の榊原会長の口利きで、三和銀行から簡単に借りることができた。店が大きくなったことでさ
らに客が増え、開山閣はますます繁盛した。
子供たちの成長
開山閣の繁盛で林家の生活は安定し、子供たちも学校で人気者になるなど、林一家六人は日本
での新しい幸せな生活を楽しんだ。高原は以前と同じ因島に住んでいたが、ときどき広島の林家
にやってきて慧栄ら孫たちに本やおもちゃを買い与えた。孫たちも「おじいちゃん、おじいちゃ
ん」と本当の祖父と孫のように高原になついた。
長女慧栄は楽しい高校生活を送っていたが、やはり日本語の理解力が思うように発達せず、非
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父 と 娘
第 二 章
常に苦労して昭和四十三年に広島皆実高校を卒業した。そして大阪の近畿大学に入学し、大阪で
下宿し始めた。三人の男の子たちもこのあと順調に進学し、それぞれ大阪、東京、京都の私立大
学に進学し、親元を離れて住むようになった。
林家は授業料や下宿代など大変な物入りだったが、林美峰はどんなにお金がかかっても、子供
たちには絶対不自由な生活をさせたくなかった。開山閣が非常に繁盛していたので、家計が潤沢
だったこともあったが、それよりも自分の生い立ちが貧乏で不幸だったので、子供たちには絶対
に同じような思いをさせたくないという気持ちの方が強かった。それに父親の自分が子供たちに
も良かれと思って、日本に連れて来たのだが、子供たちはそのために日本語に苦労し、一流大学
に入れなかったわけで、内心忸怩たるものがあったことも否めない。その一方、自分自身の楽し
みは一日一箱のタバコくらいで、派手な服装もせず、生活はいたって地味だった。当時の収入な
ら自動車を買うこともできたが、娘と共有の自転車で全て用を足していた。
大阪万博のエスコートガイド
大阪の近畿大学で勉強し始めていた慧栄は、既に二十一歳になっており母親似のキュートな女
性に育っていた。彼女は何事にも積極的で、翌昭和四十五年三月から大阪の千里丘陵で開かれる
日本万国博覧会EXPO七〇のエスコートガイドに応募して採用された。台湾出身で中国語と英
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父 と 娘
第 二 章
語が話せただけでなく、容姿と明るさ、積極さなどがかわれたのである。
この大阪万博は林美峰が十九年ぶりに日本にやって来た昭和三十九年に企画された。この年、
日本では十月から東京で開かれる、アジア初のオリンピックに向けて盛り上がっていたが、今度
は大阪でアジア初の万国博覧会を開こうと大阪府などが誘致運動を始めたものである。そしてパ
リのBIE(博覧会国際事務局)で大阪開催が決まったのは、奇しくも林一家が台湾から神戸港
に到着した、翌四十年の九月十三日だった。
大阪万博は千里丘陵三三〇万平方メートルの土地に、参加国七十七、国際機関や外国の州や都
市、それに日本企業など百十六のパビリオンが建設され、昭和四十五年三月十五日から九月十三
日までの百八十三日間開かれた。日本全国だけでなく世界各国から観光客が訪れ、入場者数は六、
四二二万人という空前の規模になった。
慧栄は四十五年正月明けから訓練に入り、三月十五日から日本万国博覧会協会のエスコートガ
イドとして、華やかで楽しい毎日を送った。父親の美峰は娘がエスコートガイドになったことを
非常に喜んだ。そして慧栄が手に入れた招待券を使い、高原温四や妻、弟たちを連れて何度も万
博会場を訪れた。それだけでなく開山会のメンバーや店に来た常連客に「娘がエスコートガイド
をしているから、ぜひ見に行ってくださいよ」と嬉しそうに、また誇らしげに万博見物を勧めた。
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父 と 娘
第 二 章
昔話の好きな変なおじさん
美峰は憧れの日本での生活を楽しみながらも、何か今の日本に違和感を感じていた。子供たち
の学校での話を聞いたり、街の若者たちの様子を見ていて、どうも昔、自分が教わった日本と違
っているように感じた。経済的には較べようがないほど豊かにはなっているが、こんなはずでは
なかった。高原や開山会の人たち以外の年寄りはたいてい元気がないし、若者は元気だが、日本
人らしさを失っているように感じた。
美峰は客の中で気に入った若者を見つけると、自分が受けた昔の教育や、台湾の烏山頭ダムを
建設した八田與一など、台湾の発展に貢献した日本人の話をしてみた。驚いたことにだれひとり
としてそのような話を知らないばかりか、すぐには信じないのだ。美峰は根気よく同じ話をいろ
いろな若者に話した。そのうち美峰の話を面白いというものが少しずつ増え、それがまた友達を
連れてきて食事をしながら、「おじさん、この前の続きを話してよ」と言うようになった。
美峰は嬉しくなって自分の知っている話だけでなく、前もって図書館で調べてきて、台湾で活
躍した鄭成功や新渡戸稲造、後藤新平、明石元二郎などの話をした。美峰はもともと変ったおじ
さんだと思われていたが、これらの若者の間では、変わっているが、面白いおじさんだと評判に
なっていった。
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父 と 娘
第 二 章
戦前の日本を探す
それだけではもの足りず、美峰は日本人らしい日本人を探したいと思った。自分が昔、世話に
な っ た 日 本 人 は 本 当 に 日 本 人 ら し い 日 本 人 だ っ た 。 そ こ で ま ず 自 分が 中 国 戦 線 で 負 傷 し た 時 に 、
武昌の野戦病院で手当てをしてくれた看護婦さんを探すことにした。
名前はヤマカワ・タマさん、滋賀県琵琶湖の北の方の出身と言い、よく琵琶湖エレジーを歌っ
ていた。台湾人ということで何かと差別を感じることが多かった野戦病院で、彼女は親身になっ
て看病をしてくれ、軍医の隙を見てビスケットや飴をこっそりくれた。
会って是非お礼を言いたい。美峰は滋賀県庁や滋賀県のあちこちの市や町、村の役所に電話を
してみたが、「それだけの情報では無理だ」と取り合ってもらえなかった。そこで昭和四十一年
(一九六六)六月になって、以前知り合った読売新聞の記者に話し、新聞に書いてもらって探し
てもらった。また同時に、いくつかの婦人雑誌にも載せてもらったが、残念ながら連絡はとれな
か った 。 戦 死 し て し ま った の か も し れ な い と 思 い 、 遺 族 も 探 し た が 手 が か り は つ か め な か った 。
宜蘭公学校の恩師
こ お し
ついで、美峰は宜蘭の公学校(小学校)時代の担任の先生を探した。田中好子先生といい、大
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父 と 娘
第 二 章
正十三年(一九二四)に台湾に渡り、台南師範学校を卒業して宜蘭公学校で十三年間教鞭をとっ
た。美峰は四年生から六年生までの三年間、担任として教えを受けた。
「筋金入りの立派な人間に育ててやる」と非常に厳しく『愛の鞭』をふるった先生だったが、当
時貧しかった林美峰たち生徒に鉛筆やノートを自分のポケットマネーで買ってくれるなど、やさ
しいあたたかい先生でもあった。
台湾にいる昔の同級生に連絡をとって、先生がどこの出身なのか、現在どこにいるのか情報を
得 よ う と し た が 、 知 っ て い る 者 は い な か っ た 。 し か し 日 本 に い る 一 人 の 同 級 生 の 居 所が わ か り 、
電話をすると東京と大阪にいる同級生、四人と連絡が取れ、お互い協力して先生を探すことにし
た。
田中先生は日本へ帰った後もきっと先生を続けていると思い、全国の教育委員会に手紙を出し
たり、前に出演した関係でNHKにこの話を取り上げてもらったりして探していたが、昭和四十
四年(一九六九)の秋になってやっと佐賀県にいることがわかった。田中先生は昭和二十一年(一
九四六)に日本に引き揚げ、郷里の佐賀で小学校の先生をしていたが、昭和三十五年(一九六〇)
に定年退職したあとは農業に従事していた。苗字の田中はありきたりだが、名前の好子が男の名
前としては珍しいため、佐賀県の教育委員会の事務局の一人が覚えていたのだ。
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父 と 娘
第 二 章
恩師との再会
田中先生とは電話で話をし、手紙も交換したが、同級生四人と相談して、翌年先生夫婦を東京、
大阪、広島に招待することにした。まず東京の同級生が東京見物に招待し、この帰路に大阪の同
級生が大阪万博会場を案内した。
このあと先生夫婦は六月十五日に広島に立ち寄った。林美峰は広島駅に迎えに行ったが、なに
しろ三十年ぶりである。あの頃若々しかった先生もすでに六十二歳、すっかり変わっていた。「先
生お久しぶりです。林です」美峰は懐かしさで思わず涙が出、そのあと涙がなかなか止まらなか
った。まだ子供だった美峰もはや四十八歳、田中先生も目を細めて美峰の手をとった。「先生に
は よ く 叱 ら れ ま し た 。『 立 派 な 人 間 に な る よ う 教 育 し て や る 』 と よ く お っ し ゃ っ て い ま し た が 、
まだご期待にそえない状態ですみません」「いやーっ、立派に成功したじゃないか。すっかり変
わったが、かすかに面影があるよ」
美峰は田中先生夫妻に一週間滞在してもらって、広島市内や厳島神社、呉港などを見物しても
らい、夜は開山閣にも来てもらって家族を紹介し、台湾料理をご馳走した。先生は本当に久しぶ
りの台湾料理を食べ、「これだ。この味だ。なつかしい」と何度もうなづいていた。
美峰は田中先生と思う存分話をし、やはり昔の日本人に会ってよかったとつくづく感じた。美
峰らは台湾にいる宜蘭公学校の教え子全員で『田中先生招致委員会』を結成し、翌年二月に先生
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父 と 娘
第 二 章
夫妻を台湾に招き大歓迎した。
大使の息子との出会い
げんか
きん
大阪万博では七月十日は中華民国のナショナルデーで、台湾から厳家淦副総統夫妻が来日し中
華民国館を訪れた。館内の広場でセレモニーが行われ、巨人軍の王貞治選手が厳副総統に、ミニ
チュアのバットにサインボールをのせたマスコットを手渡し、慧栄が副総統夫人に花束を贈呈し
た。美峰は慧栄がこの栄えある役に選ばれたことに大喜びし、慧栄の後を八ミリビデオで追いか
けまわして撮影し、店で常連客に見せて自慢した。
このセレモニーには中華航空大阪支店長のトーマス張も同行しており、張支店長は慧栄にすっ
かり惚れこんで「大学を卒業したらぜひ中華航空に入ってください。他へ就職してはだめだよ」
ぼういんこう
と言った。このセレモニーで慧栄に惚れこんだものがもう一人いた。やはり東京から同行してき
た中華民国の駐日大使、彭孟緝の末子、彭蔭功で、大使一家は家族全員でこのセレモニーに出席
していた。
その日の午後、中華民国大使館員が再び訪れ、慧栄に「大使の家族は大阪が不案内なので、デ
パートなどを案内して欲しい」と申し入れがあった。「明日は仕事が入っています」と答えると、
「休みにしてもらっています」と言う。事務所で行ってみると、確かに勤務日程が変更されてい
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父 と 娘
第 二 章
た。
翌日、待ち合わせ場所の心斎橋のそごう百貨店へ行ってみると、彭蔭功と姉夫婦の三人が待っ
ていた。「他の家族は急用ができて来れなくなったのです。私たちの買い物に付き合ってくださ
い」と言ったが、そのうち姉夫婦もいつの間にか姿を消してしまった。慧栄は彼らの行動にびっ
くりしたが、すぐ全てを理解した。彼は私に会いたいがために、そして私が警戒しないよう家族
を使ったのだ。
そ の 日 は 食 事 を し 、 喫 茶 店 で 冷 た い 飲 み 物 を 飲 み 、 心 斎 橋 を ぶ ら ぶ ら 歩い て 一 日 を 楽 し ん だ 。
初めてのボーイフレンド
日本へ来てからこれまで、男友達と本格的なデートなどしたことがなかった慧栄はアパートに
帰って、夢のような今日一日を反芻してみた。彼は自分と同じ台湾人で、お金持ちの駐日大使の
息子だ。年齢も自分と同じで現在アメリカ・カリフォルニア州のサンタバーバラに留学中という。
慧栄は日本へ来て高校に編入した時にマスコミに取材されて「将来は外交官か外国特派員になり
たい」と言った。今でもその夢は諦めてはいない。ボーイフレンドとして申し分ない人物ではな
いか。この交際は大事にしよう。
このあと二人は東京と大阪に分かれたが、手紙の交換が頻繁に続き、時には彭蔭功が大阪を訪
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父 と 娘
第 二 章
れて、京都や奈良を観光し、時には慧栄が上京して、東京でのデートを楽しんだ。彭蔭功は銀座
などで洋服などいろいろプレゼントしてくれた。慧栄は中華民国大使館の中にある大使公邸にも
連れて行かれ、両親に会ったが父親の彭孟緝はあまりいい顔をしていなかった。また彭蔭功は慧
栄が泊まっていた、ホテル・ニューオータニに大使館の車で迎えに来て、皇居前に着くと、運転
手にチップをつかませて車を帰し、後は二人きりを楽しむという、心憎い演出をして慧栄の心を
とらえていった。
ある日、彭蔭功は慧栄に「僕の親父は二・二八事件に関係していて、台湾人はすごく恨んでい
るのだが、それでも今後、僕と付き合ってくれるかい」と聞いた。慧栄はその時は何のことだか
よく分からなかった。
台湾人の敵の子
慧栄はその週末に広島に帰って父親に聞いた。「実は中華民国駐日大使の息子さんと付き合っ
ているんだけれど、大使は二・二八事件と何か関係あるの」
美峰は黙って聞いていたが、だんだん顔つきが厳しくなり、「お前は駐日大使の彭孟緝の息子
と付き合っているのか」と急に声を荒げた。慧栄が「そうよ。万博で知りあったのよ。アメリカ
の大学に留学しているのよ」と答えると、美峰は「その男はだめだ。そいつの親父は二・二八事
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父 と 娘
第 二 章
件の時の大量殺戮者の一人だぞ。あの時高雄に上陸してきた国民党軍を現場で陣頭指揮して、機
関銃で台湾人を無差別に殺させた男だ。高雄駅にいた人を皆殺しにして、もう少しでお前のお祖
母さんや伯父さんたちも犠牲になるところだったんだぞ。そんな奴の息子と付き合うなんて、と
んでもない」口角泡を飛ばす勢いで、大変な剣幕だった。
二・二八事件について、慧栄は台湾時代に両親や親戚などから何度か聞いていたが、学校では
タブーで、正式に教わったこともなかったため、これまで二・二八事件の重大さを実感したこと
が全くなかった。今、父親が大変な剣幕で怒っているが、それと自分の間にそれほど重大な関わ
りがあるとは思えなかった。確かに二・二八事件はひどい事件だったかもしれないが、はるかに
昔のことで、自分の付き合っている彭蔭功がいったい何をしたというのか。慧栄は「彭蔭功は二・
二八事件とは関係ないわ。パパが何でそんなに怒るのかわからない」と父に反抗的態度を見せて、
自分の部屋へ閉じこもってしまった。
母親の李麗玉が後から慧栄の部屋に来て、二・二八事件や本省人と外省人の対立などを話して
聞かせたが、慧栄は涙を浮かべて黙ったままで、聞く耳をもたなかった。
林美峰にとってこの付き合いはとても許せるものではなかった。もし二人が結婚するようなこ
とにでもなれば、彭孟緝と姻戚関係になる。そうなると台湾の親戚や友人たちに合わす顔が無い。
美峰は思い悩んだ。だが無理矢理引き離そうとしても、反抗するばかりだから、時間が解決して
くれるのを待つしかないと判断した。美峰の期待に反してこの交際は彭蔭功がアメリカに戻った
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父 と 娘
第 二 章
後も、また大阪万博が終わった後も文通という形で続いた。
大阪万博は九月十五日に閉幕し、慧栄は学生に戻った。彭蔭功からはほとんど毎日のように航
空便が届いた。北京語で書かれた甘い甘いラブレターだった。慧栄も一週間に一度は返事を出し
た。
台湾人の敵本人との対決
その年の十月に広島市のホテルで中華民国物産展が開かれた。オープニングパーティには広島
県知事や広島市長、地元選出の国会議員など、政財界の大物が招待され、駐日大使の彭孟緝がテ
ープカットをした。この大物ばかりが出席するオープニングパーティの招待状が林美峰にも届い
たのである。
林美峰は一介の中華料理店の店主がなぜ招待されるのか不思議に思ったが、どう考えても娘と
彭蔭功の交際の関係で呼ばれたとしか考えられなかった。それに大使からの招待を受けないわけ
にはいかないということで、ホテルに出向いた。彭孟緝大使の開会の挨拶とテープカットが終わ
ると、大使は「林さんはいませんか。林さんどこにいますか」と美峰を探しだし、見つけると「あ
とで上の私の部屋でお茶でも飲みましょう」と誘った。
美峰は彭孟緝が二人の子供たち、慧栄と彭蔭功の交際をどう思っているのかを考えた。もし交
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父 と 娘
第 二 章
際を許して欲しいとか、いずれ結婚をなどと言われたらどうしよう。自分としては慧栄から打ち
明けられた時と同じように、すぐさま断るべきだと思っていたが、娘が可哀想な立場になってし
まうことも頭をよぎって判断がつかなかった。美峰はどうしたものか迷ったままエレベーターを
使い、大使のスィートルームに着くと、不気味な屈強なボディガード二人が片手をズボンのポケ
ットに入れたまま出迎えた。奥へ通されると彭孟緝がソファに座っていて、美峰にも座るよう勧
めた。ボディガードは二人とも入り口で立ったままだった。
外省人はやはり外省人
彭孟緝は気さくな語り口で切り出した。「イヤー本日はよくいらっしゃいました。もうお気づ
きだと思いますが、話と言うのは他でもない、私達の子供たちのことです。お宅のお嬢さんは万
博の時以来、何度かお会いしましたが、美人で大変素敵な方ですね」「いえ、ふつつかな娘でも
うしわけありません」美峰は娘をほめられて悪い気はしなかったが、気を許すことなく相手から
次に出る言葉に身構えた。ところが彭孟緝は予想もしていないことを言い出した。「林さん、悪
いが息子と付き合うのをやめさせて欲しいんですよ。お嬢さんを息子に近づけないでくれません
か。私のところと林さんとは身分が違いすぎるでしょう」。
美峰は頭に血が上ってかーっとなった。なんだこいつは、やはりくだらない人間だった。人の
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父 と 娘
第 二 章
心もわからない本当に台湾人の敵だ。美峰は相手をにらみつけて言った。「私も前からそう思っ
ていましたよ。娘にあなたの子供だから付き合うなと言ったんです」
この言葉に彭孟緝はむっとした。にらみ合う二人の間に火花が散った。二人のボディガードも
身構えた。「あなたも息子さんに『娘に近づくな』とはっきり言っといてください」そう言い放
って美峰は席を蹴った。
ホテルを出て帰り道、美峰は涙を流した。悔し涙と可哀想な娘を思う涙だった。台湾人を大量
殺 戮 し た 張 本 人 が 目 の 前 に い て 、 そ の う え 、 そ い つ か ら 「身 分が 違 う 」 な ん て こ と を 言 わ れ て 、
何もできなかった。ボディガードがいなかったら殴りかかっていたかもしれないが、結局何もし
なかった自分がくやしかった。今日のことはとても慧栄には言えない。あんな奴の息子を好きに
な っ て し ま い 、 そ れ に 「 身 分が 違 う か ら 近 づ け る な 」 と ま で 言 わ れ 、 あ ま り に も 可 哀 想 過 ぎ る 。
こんな父美峰の思いを知らず、慧栄と彭蔭功の交際は翌年も続いた。彭蔭功はやはりほとんど
毎日のようにアメリカからエアメ イルを寄越した 。そして翌年の夏休みにも日本に帰ってきて、
東京と大阪で二人はデートを繰り返していた。
慧栄の失恋
彭蔭功はオートバイが好きでアメリカではよく乗り回しているというので、慧栄は毛糸で肘宛
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父 と 娘
第 二 章
てと膝宛てを編み上げて送ってやるなど二人の恋は二年近く続き、彭蔭功からの手紙も二百通以
上に及んだ。この頃の手紙には甘い言葉の後に「早くアメリカにお出でよ。アメリカで一緒に暮
らそう」と書かれるようになっていた。だが慧栄はまだ学生でアメリカまでの渡航費用もなかっ
たし、父親が許すわけがないことが判っていたので、返事は曖昧にせざるをえなかった。
七月に入って二週間ほど手紙が途絶え、どうしたのだろうと思っていると、変な内容の手紙が
きた。それには「これまでの自分は本当の自分ではなかった。ぼくはあなたをだますと同時に自
分自身もごまかしていたことに気がついた。別れましょう。さようなら」と書かれてあった。慧
栄には何のことかさっぱりわからなかった。すぐどうしたのか問い質す手紙を出したが、戻って
きてしまい、彭蔭功からの手紙はそれ以来ぷっつりと来なくなった。
アメリカに飛んでいって直接会って問い質したかったが、それもできず慧栄はアパートの部屋
で一人涙を流すしかなかった。初めての失恋を味わったのだ。
台湾でのビジネス
大阪万博のおかげで日本中の人々が海外に関心を持つようになった。広島県の商工課も海外進
出を考える地元の企業を集めて東南アジア視察を計画した。視察団の団長は広島では大企業であ
った滝沢鉄工所社長の滝沢満雅氏、副団長は西山商工課長だった。
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父 と 娘
第 二 章
西山商工課長が開山閣の常連客だったことから、中国語が話せる林美峰を通訳として同行させ
た。ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポール、台湾を回って各地の役所や商工会議所などト
ップと会談をしたが、これらのトップは華僑、中国系の人が多いため、中国語を話せる林美峰は
非常に役に立った。
とくに台北では、華僑投資資金委員会の会長が林美峰の林家と同じ烏石林の出身であったこと
から、滝沢団長とのトップ会談も非常に友好的だった。これに感激した滝沢団長は帰りの飛行機
の中で林美峰に「君の故郷の台湾に滝沢鉄工所の合弁会社を作りたい。是非協力してくれないか」
と台湾進出に強い意欲を示した。林美峰は快諾し、帰国後早速、台湾経済部に何度も電話をした
り、申請書類を作成して郵送するなどほとんど一人で獅子奮迅の働きをしたが、うまくいかなか
った。滝沢社長は地元の有力政治家にも頼んで働きかけてもらったが、台湾経済部は「地元企業
の保護のため、日本企業の進出を許可できない」との回答をよこした。
日本と台湾の橋渡し
そこで林美峰は最後の手段として再び台北に飛び、先日会った華僑投資資金委員会の林会長に
頼み込んだ。林会長は林美峰から生まれた林家のことや戦争の話など昔話を聞いていたが、「君
は華僑の身分だから、君が大株主で、自ら董事長(社長)になるのなら、許可してもらえるよう
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父 と 娘
第 二 章
尽力しよう」と約束してくれた。
林美峰は電話で滝沢社長と相談し、林美峰六五%、滝沢鉄工所三五%という出資比率の書類に
作り直し、翌日申請しなおした。林会長はこれを自分で委員会や役所に持って行き、持ち回りで
許可を取ってくれたのだった。こうして台湾滝沢鉄工股份有限公司が台北近郊の中壢に設立され、
六五%を出資したことになっている林美峰が董事長、いわゆる社長に就任したが、実際は一〇
〇%滝沢鉄工所出資だった。
林美峰がこれまで経営していた開山貿易は台湾の食材を輸入する会社であったが、台湾の食材
はあまり日本では売れず、本格的なビジネスにはならなかった。このため林家の家業の中心は台
湾料理店開山閣で、林美峰は開山閣で使う食材を輸入するために年に二~三度台湾へいくだけだ
った。だが台湾滝沢鉄工股份有限公司設立後は日本から機械を送ったり、社員を募集したり、経
理をチェックしたりと月に何度も台湾との間を行き来する忙しい日々を送るようになった。
娘の就職
慧栄は昭和四十七年(一九七二)三月に近畿大学を卒業したが、日本国籍になっていなかった
ため、残念ながら外交官にはなれず、第二志望のマスコミにも就職できなかった。いろいろ就職
活動を行い、実際、日本航空の人事部にも行ったが、日本国籍ではないという理由で受験するこ
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父 と 娘
第 二 章
ともできなかった。結局広島に帰り家業の中華料理店を手伝うことにした。
久しぶりに慧栄が自宅へ帰ってきて家の手伝いをしてくれるのを美峰は喜んだ。卒業して一ヶ
月後の四月末、ご褒美に台湾旅行に連れて行った。慧栄がたまたま台北の知り合いのみやげもの
店にいたとき、日本人の客の一人が急に気分が悪くなり倒れてしまった。店の人たちが言葉が通
じないためにおろおろしているのを見て、慧栄が通訳をかってでて病院まで連れて行き、医者と
の会話も通訳してこの人は助かった。軽い食当たりだったのだが、彼は慧栄に命を助けられたと
思って本当に感謝した。この人が中華航空の広島支店長だった。
後日、塚田支店長は慧栄が家の手伝いしかしていないことを聞いて、自分の会社で働いて欲し
いと言ってきた。こうして慧栄は中華航空の広島支店に勤めることになったが、一ヶ月たったと
き、大阪万博の時に就職を約束してくれた大阪支店長トーマス張がたまたま広島を訪れ、働いて
いる慧栄を見つけて「なんだ、君じゃないか、あの時約束したのにどうして私のところに来なか
ったの」。慧栄はあのときの言葉は軽い冗談かと思って、その後すっかり忘れていたのだった。
こうして慧珍は中華航空の大阪支店でチケットカウンターの仕事をすることになり、再び親元
から離れることになった。当時の日本人には台湾旅行は航空運賃も飛行時間も丁度手ごろで、日
台間の路線はいつも超満員だった。まだコンピューターが導入されておらず、チケットは全て手
書きだったので、慧栄は非常に忙しい毎日だったが、充実した独身生活を送っていた。この就職
には両親も素直に喜んでくれた。だがこの喜びもそう長くは続かなかった。
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父 と 娘
第 二 章
台湾の孤立
一九七〇年(昭和四十五年)の秋にカナダとイタリアが相次いで中国本土の中華人民共和国と
外交関係を結んだことから、台湾政府は両国と断交した。一九七一年の四月にはアメリカの卓球
チームが大陸を訪問し、中国チームと対戦して〝ピンポン外交〟と呼ばれ、アメリカと中国の雪
解けムードが高まった。七月九日にはアメリカの大統領補佐官キッシンジャーが秘密裏に大陸を
訪問し、中国共産党幹部と会談する。帰国後ニクソン大統領の訪中決定が発表された。日本の頭
越しの米中雪解け、ニクソンショックである。そして十月二十五日に中国が国連に加盟したため、
蒋介石はただちに国連を脱退してしまった。
翌四十七年二月二十一日にニクソン大統領が訪中し、上海で米・中共同コミュニケが発表され、
国交が回復された。
これに遅れて日本も総理大臣になったばかりの田中角栄が、最初の大きな仕事として訪中し、
九月二十九日に日中国交回復を成し遂げた。当然台湾は日本と断交した。
慧栄の失職、再就職
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父 と 娘
第 二 章
これで日台間の航空路線は全て運航されなくなり、中華航空の事務所は閉鎖となって、慧栄は
失職してしまった。慧栄もショックを受けたが、父の美峰は日本と台湾の断交が娘の職業を奪う
という運命のいたずらに大変落胆した。何とかしてやらねば、美峰は開山閣のメンバーや友人た
ちに慧栄の再就職先を探してもらった。そして常連客だった第一勧業銀行広島支店の支店長が
「お宅のお嬢さんは英語と中国語が話せるんだって。それならうちの外為課で働いてもらえない
か」ということで外為課に再就職できたのである。
日本と台湾の関係はその後、彭孟緝駐日大使が十一月二十八日に台湾に引き揚げて十二月二十
八日に大使館は閉鎖された。しかし日本と台湾両国は経済中心の実務関係を維持するため、十二
月一日に財団法人『交流協会』を発足させ、東京に本部、台湾の台北と高雄に事務所を置き、こ
れまで大使館が行っていた業務をそっくり引き継ぐ態勢をとった。中華航空は半年後に台北・福
岡間の路線の定期便を復活し、成田空港が完成した後は中国民航機が成田発になったため、台
北・羽田路線も復活して現在に至っている。
開山閣はますます発展
慧栄が自分の家から会社勤めをするようになって、美峰は嬉しかった。一人娘なのに大学、就
職 と 五 年 間 も 離 れ 離 れ に 住 ん で い た が 、 こ れ で や っと 自 分と 同 じ 屋 根 の 下 に 住 む こ と に な った 。
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父 と 娘
第 二 章
今後はずっと手元において花嫁修業をさせ、いい伴侶を見つけて幸せな結婚をさせてやろう。美
峰は日本の普通の親と同じ気持ちで娘の将来を見守り、花嫁姿、それも日本式の文金高島田で嫁
いでくれることを夢見ていた。そのうち長男、次男と男の子供たちも大学を卒業したが就職は難
しく、実家に戻って家業を手伝うようになった。
子供たちが手伝うようになって、開山閣はますます繁盛し、常連客も増えて予約を捌ききれな
くなるほどだった。また子供たちが自宅に帰ってきたため、住居部分も狭くなっていた。
五階建てビルの建築
美峰は新しく店舗兼住居を建てなおすことにした。他の土地もいろいろ探したが、官公庁に近
くて、常連客に便利な今の場所に優る物はなかった。結局すぐ近くに仮店舗を設け、今の古家を
壊して、鉄筋五階建ての細長いビルを建てることにした。一階は半ば地下になっていて、車二台
がゆうに入るガレージと倉庫、二階がテーブル席で三階はお座敷が五部屋あり、移動式の壁を取
っ払うと五十人収容の宴会場になった。そして四階、五階を家族の住居にした。銀行から再び高
額の借金をしたが、最近の売上げの伸びを見ていると、意外に早く全額を返せそうだった。
昭和五十年九月にビルが完成したが、美峰はビルを見上げて感無量だった。振り返れば自分た
ち親子が日本に来て丁度十年が経っていた。最初の荒神町の小さな店を思い返した。あれからわ
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父 と 娘
第 二 章
ずか十年で、この鉄筋五階建てのビルにまで発展したのだ。これもみな自分を支えてくれた開山
会を中心とした常連客のおかげだ。そして美峰は自分の強運にも驚いていた。
九月七日に美峰は開山閣ビルの落成式と、開山閣設立十周年を記念して大がかりなパーティを
開いた。開山会を中心とした地元の名士が大勢出席して大賑わいだった。
帰化、晴れて日本人に
一家が日本に来てから七年が経過して、昭和四十八年(一九七三)十一月二十四日に、美峰は
家族全員の帰化申請をした。日本在住が五年を越えれば帰化申請ができるが、日本が中華民国と
国交を断絶したため、日本在住の台湾人は中華民国の国籍を離脱して、一年間ほど無国籍状態に
ならなければ帰化の申請ができないことになった。一家は大阪の中華民国領事館に中華民国のパ
スポートを返しに行ったが、領事館の事務所にはすでにものすごい数のパスポートが積み上げら
れていた。
帰化の許可は五十年十月十九日に決定され二十八日に林家に通知された。待ちに待った日本へ
の帰化である。悲願がかなったのだ。美峰はすぐさま一家六人揃って広島地方法務局に行き、『帰
化者の身分証明書』を受け取った。これをもって広島市役所を訪れ、本籍を高原温四の因島市土
生町三七五三番地として、高原峰雄、志津の名前で帰化の届出をし、同時に外国人登録証明書を
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父 と 娘
第 二 章
市役所に返還して、一家六人は晴れて日本人になったのである。
慧子の留学
長女慧栄は高原慧子と名前を改め、第一勧業銀行広島支店でOL生活を送っていた。最初は未
知 の 仕 事 に 対 す る 好 奇 心 で 、 楽 し く 仕 事 に 専 念 し て いた が 、 も と も と 外 国 為 替 の 仕 事 は 少 な く 、
お茶くみばかりさせられるのに嫌気がさしてきた。
何かもっとやりがいのある仕事がしたい。日本に来た時の夢や希望はどうなったのか。勿論、
いまさら外交官になるのは無理だが、ジャーナリストへの道はまだ塞がれてはいない。アメリカ
ではウォーターゲート事件が起き、新聞記者の追及でニクソン大統領が一九七四年の八月に辞任
に追い込まれるという、前代未聞の事態となっていた。このニュースを新聞やテレビで見て、慧
子の心の中に、アメリカに留学してジャーナリズムを勉強したいという情熱が沸々と湧きあがっ
てきた。
昭和五十一年(一九七六)二月に入って、日本にもアメリカからとんでもない一大疑獄の嵐が
飛び込んで来た。ロッキード事件の捜査の始まりで、マスコミは蜂の巣をつついたようになった。
慧子のジャーナリストへの熱望は頂点に達した。母親の志津に打ち明けると、志津はすぐ賛成し
てくれたが、父の峰雄は簡単には了承しないであろう事が予想された。
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父 と 娘
第 二 章
このため志津と相談して留学のための書類を、志津が通っていたお花の先生の自宅宛てに取り
寄せ、こっそりと準備を始めた。準備をしているうちに、アメリカの大学に入学するためにはも
っと英語の力を磨かねばならないことに気づき、まずサンフランシスコの英語学校へ入る手続き
を整えた。三月の終わりになって慧子は、意を決してジャーナリズムの勉強のためのアメリカ留
学計画を父親に打ち明けた。案の定、峰雄は反対で、むっとした顔で黙ったままだった。このと
きから峰雄は三週間くらい一言も口を聞かなかった。
父の心と娘の心
峰雄は思い悩んでいた。大学に入学する時から慧子はいつも親元を離れようとしていた。慧子
は自分の最初の子で、唯一の娘だ。小さい時から本当に目に入れても痛くないほど可愛い存在だ。
今回のアメリカ留学の動機には、彭蔭功の存在があるのにちがいない。台湾人の敵の息子、彭蔭
功に接近することだけはなんとしても防がねばならない。
だが娘のジャーナ リスト志望は今に始まったこと ではない。台湾にいたときからの夢だ った 。
あのまま台湾で勉強を続けていれば、あの頃の彼女の成績から考えて、台湾のマスコミ業界に就
職するのは、そう難しいことではなかったろう。それを自分が日本へ連れてきたことで、日本の
学業についていけず、彼女のジャーナリスト志望の夢を摘んでしまったのではないか。勿論、日
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父 と 娘
第 二 章
本への移転は彼女のためにも良かれと思ってしたことだが、結果的に娘には可哀想なことになっ
てしまった。
それに自分が小さい頃、台湾での日本の教育を通じて、理解していた日本と今の日本は全然違
った。子供たちから聞く学校での教育内容も昔とは全然変わっていた。先生の資質も昔とは大違
いだ。
日本の腐敗
日本経済は高度成長を続けているものの、政治は田中角栄の金脈問題を始め、台湾の外省人の
世界と同じように腐敗が目立っている。社会的にも三億円事件のほか、よど号ハイジャック事件
や連合赤軍事件、ロッド空港乱射事件などの一連の日本赤軍事件、大学紛争や内ゲバ事件、企業
爆破事件と世の中を騒がすことが多すぎる。「日本よ、日本人よ、これがあの自分があこがれて
いた日本なのか」峰雄は本当に愕然とすることが非常に多い日本社会に半ば落胆していた。
こんな日本に子供たちを連れてきて本当によかったのだろうか。峰雄は以前から感じていたこ
とを反芻しながら、子供たちを幸せにしてやらねば、特に慧子を何とかしてやらねばならないと
真剣に思った。残念ながら今の日本には学ぶべきものはあまりない。留学は許してやろう。しか
しアメリカ行きは何とか阻止しなければならない。
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父 と 娘
第 二 章
峰雄は慧子にロンドン留学を勧めた。「ロンドンにも良い大学があるだろう。ロンドンなら学
資を出してやるよ」慧子はこの提案を即座に拒否して言った。「もう留学する学校は決まってい
るのよ。それに留学の費用は全部、私の貯金でまかなうわ。パパの世話にはならないから心配し
ないで」。峰雄は押し黙ってしまった。それ以来、峰雄は店の常連客や友人に娘のアメリカ留学
を「娘に赤紙が来た」と表現して愚痴っていた。
娘との別れ
慧子は以前勤めていた中華航空を辞める時、わずかな退職金と一緒に、中華航空の無料チケッ
トをもらっていた。これでサンフランシスコ行きの飛行機を予約した。昭和五十一年(一九七六)
五月九日、日曜日の朝、タクシーで母とともに自宅を出る時、慧子は父の部屋の前で「パパ行っ
てくるね」と声をかけた。だが返事がない。ドアをあけて再び「パパ行ってくるね」と声をかけ
た。峰雄は机に向かって慧子には背を向けたままで一言も発しなかった。慧子はしかたなく寂し
い思いでタクシーに乗った。
峰雄はタクシーが走り出す音を聞いてベランダに駆けよった。峰雄の顔は涙でくしゃくしゃだ
った。出て行く娘に一言も声をかけず、背を向けたままだったのは娘に泣いているのを知られた
くなかったからだった。峰雄は涙でかすむ目でじっと走り去るタクシーを見続けていた。これっ
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父 と 娘
第 二 章
きりずっと会えなくなってしまうのではないかという気持ちで、胸がしめつけられる思いだった。
本当に悲しく寂しい別れだった。
母の志津は慧子を新幹線で東京駅まで送ってきてくれた。そこから羽田空港へは慧子一人だっ
た。中華航空のカウンターでチェックインしようとして、退職の時もらった無料航空券を出すと、
係の男は同じ姓の林で、「中華航空にお勤めだったのですか」と親しげに話しかけてきた。「え
え、でもあの国交断絶で首になってしまって……、その後のお勤めも嫌になったので、アメリカ
に留学するんです」と慧子が答えると、林は「私もあの時クビになったんですが、台北・羽田線
が再開されたので再就職したんですよ。気をつけて行ってらっしゃい」飛行機に乗ると林の厚意
で座席はファーストクラスだった。
初めてのアメリカ
初めて乗ったファーストクラスは今まで経験したことのないサービスで、慧子は落ち着かなか
った。ファーストクラスの隣の席には、中国系の裕福そうな婦人が座っていた。婦人は何でこん
な小娘がファーストクラスに乗っているのか不思議だったのだろう、「どこへ行くの」と中国語
で声をかけてきた。
慧子は久しぶりの中国語が懐かしく、ジャーナリストの勉強をするため、サンフランシスコの
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父 と 娘
第 二 章
大学に留学するのだと答えた。婦人はシンガポールの銀行の頭取夫人でサンフランシスコに別宅
を持っているという。「あちらには誰か知っている人がいるの」「いいえ、誰もいないので本当
は心細いんです」と言いながら慧子は急に彭蔭功を思い出し、「そういえば前の台湾の駐日大使、
彭孟緝の息子で彭蔭功という人と以前付き合っていたんですが、三年くらい前から連絡が取れな
くなってしまって。その時は彼、サンタバーバラにいたんですが、あれから大分経つので、もは
やどこにいるか判らないし……」
すると夫人は「ああ彼の一家はよく知っていますよ。私たち彭蔭功のことを小栄・シャウロー
ンと呼んでいたけれど、あまりよく知らないわ。オークランドに彼のおじさんがいるので聞けば
わかると思う。今は電話番号をもっていないけれど、サンフランシスコのコンドミニアムに行け
ば判るから、明日にでもお出でなさいよ」と言って住所を書いたメモをくれた。
あこがれのアメリカ
飛行機は深夜、ハワイのホノルル空港で給油し、同じ日の午後サンフランシスコに着いた。サ
ンフランシスコでは英語学校が紹介してくれたアパートに住むことにしていた。慧子は空港に迎
えに来てくれたアパートのオーナーのオンボロ自動車に乗って、アパートへ行った。
アパートは治安の悪そうな、ごみごみした場所にあり、廊下はぎしぎしと鳴り、部屋は狭くて
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父 と 娘
第 二 章
暗く、裸電球が一つぶら下がっているだけだった。後で気づいたのだが、住んでいる住民はほと
んどが年金生活をしている白人の老人たちだった。「これがあれほど憧れていたアメリカの生活
なのか」がっくりきて慧子は着いたその日にホームシックに罹ってしまった。
翌日から慧子は英語を学ぶため、デイリーシティのアダルトスクールに通ったが、アパートか
らはバスを三度も乗り換えなければならない不便な場所だった。慧子はこうした実情を母親に話
したかったが、あれほど強がりを言って、飛び出してきた手前、母には心配をかけたくなかった
し、父からはそれ見たことかと言われるのが嫌で、泣く泣く我慢をした。
彭蔭功との再会
次の土曜日の午後、慧子は飛行機の中で知り合った婦人のコンドミニアムに行った。サンフラ
ンシスコの中心部モンゴメリー通りの高台にあり、超高層の最上階の広い部屋で、窓からはゴー
ルデンゲイトブリッジやベイブリッジなどサンフランシスコの街が一望できるのである。なんと
いう違いか。慧子は自分の境遇との差に愕然とした。お茶をいただいた後、婦人の部屋から彭蔭
功のおじさんの家に電話をかけた。
「ああシャウローンはまだそのままサンタバーバラにいるよ」早速おじさんから教えてもらった
彭蔭功の電話番号に何度もかけてみたが、その日は誰も出なかった。
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父 と 娘
第 二 章
慧子はアパートに帰り、その日から毎日電話をしてみた。一週間後にやっと彭蔭功が電話に出
た。「慧栄です。私今サンフランシスコからかけているんです。どうして手紙をくれなくなった
の 。ど う し て あ ん な 変 な 手 紙 を く れ た の 」 と 問 い質 す と 、 彭 蔭 功 は 「 そ れ を 聞 か れ る と つ ら い 。
聞かないでくれ。とりあえずこちらに来たらどうだ。明日の金曜日、僕は仕事だが、次の日は休
みだからゆっくり過ごせるだろう。飛行場までルームメイトを迎えに行かせるよ」
サンタバーバラ
慧子は翌朝一番のユナイテッド航空で彭蔭功のいるサンタバーバラへ向かった。彭蔭功がなぜ
急に手紙を寄越さなくなったのかを、どうしても知りたかったのだ。
一時間後に降り立ったサンタバーバラ空港はだだっ広い、まわりに何もない空港だった。迎え
彭蔭功に会いに来たの」と聞い
に来ているというルームメイトらしき人物を探してキョロキョロしていると、上半身裸で、半ズ
ボン姿の真っ黒い顔の男が急に前に立ち、英語で「ミス慧栄?
てきた。「ええそうです。私、今は日本人になって高原慧子といいます」「僕はユージーン、彭
蔭功のルームメイトです。車はこっちです」二人は彼のボロ車に乗ってアパートに行き、彭蔭功
の帰りを待った。ユージーンは藤原ユージーンといい日系三世だったが、日本語は全く話せなか
った。
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父 と 娘
第 二 章
彭蔭功の裏切り
彭蔭功のデスクを見ると壁やデスクの上に沢山の写真が飾ってあった。慧子は彭蔭功がカメラ
で写真を撮ることが大好きで、デートの時もよく自分を撮影してくれたのを思い出した。近づい
てよく見ると全て同じ女性が写っているではないか。「これは誰なの」慧子が聞くと、ユージー
ンはこともなげに「彼の妻さ。もう別れたがね」と答えた。慧子はこれで全てがわかった。
彭蔭功は大学を卒業して、サンタバーバラでエレクトリック・エンジニアとして会社勤めをし
ていたが、ランチの時間にアパートに帰ってきた。彭蔭功の車はさすがに金持ちで新しい白のト
ヨタ・セリカだった。「やあ慧栄。よく来たね」と中国語で親しげに話しかけてきた。
五年ぶりの再開だったが、当然慧子は笑顔を見せず、「私は慧栄ではないわ。日本に帰化して
高原慧子になったの。この人はあなたの奥さんですって」と写真を指差した。「いやーっ、ごめ
んごめん。君には知られたくなかった。僕が一番恐れていたことだ。まあとにかく今夜ゆっくり
話をしよう」と言って会社に戻ってしまった。
完全な失恋
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父 と 娘
第 二 章
慧子はユージーンとまた二人きりになった。二人はUCサンタバーバラのキャンパスを散歩し
ながら、日本のことや大学のことなどを英語で語り合い盛り上がった。一時間ほど話したろうか、
ユ ー ジ ー ン が 急 に 真 面 目 な 顔 を し て 切 り 出 し た 。 「 こ れ は 言 っ て お い た 方 が よ いと 思 う ん だ が 、
彭蔭功は愛するに値しない男だ。結婚した女の他にも女がいたし、あの男のことは忘れた方がい
いよ。僕は彼から君の写真を見せられていたので、君から手紙やプレゼントが来るのを見ていて、
いつも『かわいそうにだまされているのも知らないで』と思っていたものさ」
慧子は本当にくやしかった。彼はそんなに不誠実な男だったんだのか。彼からの手紙が来なく
なってから、何かあると思っていて、自分なりにいろいろ理由を想像した中に、別の女ができた
というのもあった。だが女ができた後もずっとだまし続けていたとは……。頭が真っ白になった
が、不思議にも涙は出なかった。
そ の 夜 会 社 か ら 帰 っ て き た 彭 蔭 功 は 自 分の 車 に 慧 子 と ユ ー ジ ー ン を 乗 せ 、 町 に 連 れ て 行 っ た 。
三人は町に出て、レストランで食事をした後、映画館で『ロッキー』を見た。慧子は英語が全て
理解できないこともあったが、頭の中が混乱していて何を見たのか、内容がさっぱりわからなか
った。三人はこのあと浜辺に車をとめて話をした。
ジャーナリストへの道
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父 と 娘
第 二 章
慧子は彭蔭功に中国語で五年まえに別れてからサンフランシスコに来るまでを話した。そうす
ると中国語がわからないユージーンがときどき英語で「今何の話をしているんだい」と話に割り
込んできた。そうすると彭蔭功が英語で簡単にこれまでの話を教えるのだった。
慧子が「私ジャーナリストになりたいの。どこの大学が良いかしら。教えてくださらない」と
聞 い た 時 、 彭 蔭 功 が 目 を 輝 か し て い った 。 「 ユ ー ジ ー ン の ダ デ ィ は サ ク ラ メ ン ト に い る け れ ど 、
サンフランシスコで日本語新聞を出しているジャーナリストだよ」彭蔭功は英語でユージーンに
それを確かめた。
ユージーンも「父はサンフランシスコで日本語の新聞を発行しているのだけれども、大学へ行
きながらその仕事を手伝ってはどうか」と慧子に提案した。慧子は目を輝かせた。日本で両親に
強いことを言ってはいたが、全く身寄りのないアメリカで勉強し、ジャーナリストになることな
ありがとう。是非お父さんを紹介してくださいな」慧子はユー
ど、そんなに簡単なことではないことはわかっていた。ユージーンの実家がなんらかの手掛かり
になるかもしれない。「本当?
ジーンの提案に跳びついたが、このときの慧子にとってユージーンは単なる彭蔭功のルームメイ
トでしかなかった。
アメリカの大学生活
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父 と 娘
第 二 章
慧子はサンフランシスコへ戻って、デイリーシティのアダルトスクールで英会話の勉強をした
後、九月からUC(カリフォルニア大学)バークレイ校の政治学部に入学した。住まいもバーク
レイに移り、ジョンソンという不動産業を営む白人の家にホームステイした。家事の手伝いをす
るかわりに朝夕の食事代と家賃は無料という条件だった。だがUCバークレイ校の政治学の授業
は英語力の弱い慧子には難しすぎた。毎日の授業にはついていけず、連日出される宿題に悲鳴を
あげた。
楽しいアメリカの大学生活を夢見ていた慧子だったが、現実はとても厳しく、同級生とも溶け
込めないために、相談する友人もできず、完全に落ち込んでしまっていた。
クリスマス休暇に入る直前、サンタバーバラのユージーンから電話があった。「僕の両親に連
絡した?」慧子はすっかり忘れていた。授業が難しいのと勉強の忙しさで、それどころではなか
ったのだ。
あきこ
「それじゃあ僕はこれから車でサクラメントの実家に帰るので、途中バークレイによって君をピ
ックアップしてあげるよ」。
藤原一家との出会い
ふじわらのぼる
ユージーンの両親、藤原昇と章子は非常に暖かく慧子を迎えてくれた。日本の実家のことや現
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父 と 娘
第 二 章
在の生活など久しぶりに日本語でいろいろ話ができたのが嬉しかった。そして慧子はジャーナリ
ズムの勉強を続けたいが、UCバークレイの授業は難しすぎて自分には歯が立たないことを告白
した。
章子は「UCバークレイ校は超一流よ。留学生には確かに難しすぎるかもしれないわね。サク
そして私たちのところでアルバイトをして実務も勉強すればいいじ
ラメント・ステート・ユニバーシティにもジャーナリズム学科があるし、こちらのほうがやさし
いから転校したらどう?
ゃない」。
慧子はUCバークレイ校は完全にお手上げ状態だったので、この勧めに従って新しい年の初め
にすぐ転校手続きを取り、サクラメントへ引っ越してきた。
藤原昇の人生
ただし
ユージーン藤原正の父、藤原昇は一九〇七年(明治四十年)に広島で生まれ、広島高等師範学
校を卒業後、奈良県立郡山中学校で教鞭をとっていたが、野球部の運営をめぐって校長と意見が
対立し、一九三四年(昭和九年)教師生活わずか三年で辞表を出した。そしてその年に渡米して
ミシガン州のカラマーズ大学に留学し、このあとカリフォルニア州のスタンフォード大学の大学
院で学んで一九三九年に修士課程を卒業した。卒業後も大学に残りフレスノという町の日本語学
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父 と 娘
第 二 章
校で教師をしながら、東部の大学の博士課程を目指していたとき、カリフォルニア大学の修士課
程を卒業した才媛で日系二世の武 田章子と知り合 った 。すぐ結婚し、一年後に長女が 誕生した 。
一九四一年十二月七日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、日米戦争が始まると西海岸
に住む日本人と日系人に立ち退き命令が出された。藤原一家は妻の両親などとともにカリフォル
ニア州の北部、オレゴン州との州境に近いツールレーキー日本人強制収容所に収容された。この
収容所には一万九、〇〇〇人が収容され、悲惨な生活を余儀なくされたが、ここで次女と長男ユ
ージーンが生まれている。
終戦後、藤原は留学生ヴィザでの滞在だったため、移民法の関係で大学に戻らなければならな
かった。なかなか受け入れてくれる大学が見つからなかったが、いろいろな大学の教授に直談判
をして、フィラデルフィア州のプリンストン大学の大学院にやっと入学できた。妻子と別れて東
海岸での生活だった。藤原は大学院で勉強しながら、ニューヨークへ出稼ぎアルバイトに行って
生活費を稼いだ。卒業後はしばらくペンシルベニア大学で教鞭をとっていたが、一九五二年(昭
和二十七年)妻の実家があるサクラメントへ帰って、日米時事新聞社のサクラメント支社長とし
て働くことになった。
このあと大阪朝日放送のアメリカ支社長や日刊スポーツの嘱託なども兼任した。そして一九六
二年にサンフランシスコで加州タイムスという日本語の新聞社を設立し、これが藤原のライフワ
ークとなった。
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父 と 娘
第 二 章
ジャーナリストとしての第一歩
慧子はサクラメント・ステート・ユニバーシティに通う傍ら、藤原昇の事務所にアルバイトと
して雇われた。藤原昇はサクラメントとサンフランシスコを行ったり来たりする忙しい毎日を送
っていた。しかしその忙しい中で、慧子に取材の仕方から原稿の書き方、ジャーナリストの心構
えなどをやさしく教えてくれた。
一ヶ月あまりたって、慧子は昇のかわりにカリフォルニア州議会やサクラメント市議会などの
取材を始めた。取材後は、慧子がまず日本語と英語の両方で自分なりの原稿を書き、電話で昇に
伝えると、昇がこれを書き直してサンフランシスコの本社へ送った。慧子は翌日送られてきた日
米時事新聞の記事を見て、自分の原稿のあまりの変貌振りに驚いた。「原稿ってこのように書く
んだ」と昇の文章力にすっかり感心する毎日だった。
日 が た って 、 そ の う ち に 慧 子 の 原 稿 の 文 章 が そ の ま ま 記 事 に な る 部 分 が 少 し ず つ 増 え て い き 、
半年ほど経つと、たまに慧子の原稿がそのまま記事になった。慧子はそれを発見すると「やった
ー」と飛び上がるほど嬉しかった。
慧子は二年でサクラメント・ステート・ユニバーシティを卒業し、インターンシップの資格で
そのまま藤原昇の事務所で本格的に働くことになった。慧子の頑張りようは目に見張るものがあ
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父 と 娘
第 二 章
り、この頃には記者としてひとり立ちできるようになっていた。
娘の結婚
藤原昇と妻の章子は慧子の仕事振りと、しっかりした性格にすっかり惚れこんだ。そして一人
息子ユージーンの嫁になって欲しいと思った。ユージーンは少し変わった性格で大学を九年もか
けて卒業し、カリフォルニア州政府の役人になって、自宅から役所に通っていた。両親から「慧
子を嫁にもらったらどうだ」と聞かれた時、ユージーンは嬉しかった。ルームメイトの彭蔭功か
ら写真を見せられた時から憎からず思っており、初めてサンタバーバラ空港で会った時、こんな
可愛い娘を彭蔭功の犠牲にしてはいけないと思ったものだった。
親子三人からのプロポーズに慧子も悪い気はしなかった。一応、日本の両親に相談すると返事
をしたが、気持ちは既に決まっていた。翌日広島に電話をして母親に話すと同時に両親あてに詳
しい手紙を書いた。
妻の志津からこの話を聞かされた峰雄は結婚相手が彭孟緝の息子ではないことにホッと し た 。
しかし大事な一人娘の可愛い慧子が日系人とはいえ、アメリカ人と結婚してアメリカに永住して
しまうことに強い戸惑いを感じた。峰雄は慧子が日本人と結婚し、近くに住んで欲しかったのだ。
だからアメリカに留学させたくなかった。妻の志津はこの結婚話を素直に喜んで、全面的に賛成
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父 と 娘
第 二 章
していた。そして「あなたも私と結婚してから親元を離れて台南に住み、その後日本にまで来た
じゃないの。子供は皆親から離れて巣立っていくのよ。それにアメリカも今やそんなに遠いとこ
ろではないわ。会いたい時に会いに行けるわよ。子供の幸せが一番よ」と慧子の味方をして、峰
雄の身勝手を非難した。
結婚を祝福
その夜、峰雄は反省した。慧子も既に三十二歳になっていた。この結婚が無くなっても、慧子
が日本に帰ってくるとは思えないし、次の結婚相手が見つかるのはいつになるかわからない。今
回の相手は日本語が話せないとはいえ幸い日系人だ。白人や黒人のアメリカ人と結婚されるより
はよいではないか。早く孫の顔も見たいし、志津が言うように結婚してもしばしば会いに行けば
よいではないか。
それに以前から感じていたように、今の日本は自分が育ったときの『日本』と全く違っている。
汚職で逮捕され起訴されても辞職することなく、選挙に出馬して政界の黒幕になっている田中角
栄を筆頭に政治家もひどいし、こうした政治家を当選させている日本の有権者もひどい。日教組
のお陰で教育者の程度の悪さは目を覆うものがあるし、そうした教育者から教わった若者の行動
や考え方も、自分の記憶に残っている日本人の姿から程遠い。慧子に子供が出来、その孫の時代
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父 と 娘
第 二 章
に日本はいったいどうなっているだろう。アメリカについてはフィリピンでの悪い記憶はすでに
遠のいてはいたが、広島と長崎に原爆を落とし、大勢の民間人を大量虐殺した国だ。人種差別が
あり、犯罪が多くて治安も悪い。でもいまや世界一発展している国だし、将来性はあるかもしれ
ない。
一夜空けて、峰雄は志津に「この結婚を許してやろう。電話をしておめでとうと言ってやって
くれ」と言って、自分は慧子に結婚を祝福する手紙を書いた。
最盛期の開山閣
新しいビルになって、店も宴会場も大きくなった開山閣は、日本全体の景気がよかったことも
あり、お座敷はいつも満席という日がつづいた。広島の大企業が役人や大学の先生を接待し、製
薬会社が病院の医師や医科大学の先生を接待するのによく使われた。月曜日から土曜日まで毎日
忙しい日が続いたが、三人の息子たちが志津をよく手伝った。お座敷や宴会場の接客は派遣の仲
居さん、テーブル席の接客はパートの主婦やアルバイトの女子大生などに頼んでいた。そしてこ
れらを監督したり、予約を受け付けたり、経理全般を見るのが峰雄の役目だった。
こうした連日の盛況で、開山閣の売上げは飛躍的に伸び、ビルを建てた時に借りた銀行のロー
ンをわずか三年で全額返済してしまった。それからはお金が貯まる一方だったが、峰雄はこれを
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父 と 娘
第 二 章
将来すべて子供たちのために使おうと決心して、贅沢を一切しなかった。乗用車を買うこともな
く、娘が置いていった自転車に乗って町中走り回って用を足した。服はいつも白いワイシャツに
黒 ズ ボ ン で 、 暑 い と き に は 腕 ま く り を し 、 寒 い 時 に は こ の 上 に ジ ャ ン パー を 羽 織 る だ け だ った 。
峰雄は同時に台湾滝沢鉄工公社の董事長(社長)をしていたが、開山閣の方が忙しくなったた
め、自分は名前だけの董事長となり、実際の経営は本社の滝沢鉄工所の役員に任せた。これで峰
雄が台湾へ行くのは銀行からの借入金の契約更改をする時など、年に三回くらいですむようにな
った。
娘へのビッグプレゼント
昭和五十三年(一九七八)の秋、藤原昇が大阪での会議のため来日し、広島の実家へ寄ったつ
いでに高原家を訪れた。峰雄と藤原はお互い経営者同士ということで話がはずんだ。経営の苦労
などいろいろ話をし、峰雄は藤原の学者肌の人柄を非常に気に入った。彼も戦前の日本人だった。
娘もこの人物の嫁になるのなら安心だと確信した。
翌年峰雄と志津は慧子と藤原正=ユージーンの婚約パーティに出席するため、初めて訪米しサ
ク ラ メ ン ト の 藤原 家 を 訪 問 し た 。 娘 の 夫 と な る ユ ー ジ ー ン 、 姑 と な る 藤原 章 子 に 初 め て 会 っ た 。
このとき峰雄は娘が夫やこの義理の両親に可愛がってもらえるよう、娘夫婦のための家をサクラ
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父 と 娘
第 二 章
メントに買ってやった。きれいな湖のほとりに立ち、ベッドルームが三つある一軒家である。一
五万七、〇〇〇米ドル、日本円で当時三、五〇〇万円近くしたが、これを全部キャッシュで支払
い、しかも十年間分の固定資産税も同時に払ってやったのである。開山閣の大繁盛でいくつかの
銀行にかなりまとまった貯金があったが、峰雄はこれをすべて子供たちのために使ってやろうと
決心していた。この娘夫婦の家はその第一号だった。
その翌年一九八〇年五月は慧子の結婚式で、峰雄はまた夫婦で渡米し、慧子とサクラメントの
教会のバージンロードを歩いた。
日本兵の手帳
慧子は次の年、一九八一年五月二十八日に長女を出産する。峰雄は孫を抱くためにまたまた夫
婦で 渡 米 し た 。 そ し て 慧 子 夫 婦 の 家 に 一 ヶ月 近 く 泊 ま っ て 、 カ リ フ ォ ル ニ ア の 各 地 を 旅 行 し た 。
この時、峰雄はたまたま昼食を食べたストックトンの日本料理店、YONEDAの店主から日
本兵の手帳と作戦要務令を預かった。ストックトンの蚤の市で売られていたものを日系人が買い
付け、店主に何とかしてくれと置いていったという。戦争中アメリカ兵が戦場で拾ったものであ
ろう。
峰雄は自分が戦前、同じ日本兵で、今や日本人である証として、この二冊の持ち主か遺族を絶
130
父 と 娘
第 二 章
対に見つけ出してやろうと思った。手帳は大阪市東成区東今里町二丁目の大谷製作所が昭和十八
年に発行したものだった。表紙はボロボロで、持ち主の名は書かれておらず、中には「十八年一
月十日、中部二十七部隊に入営。その後歩兵第二十連隊編成となる」などと書かれていた。
峰雄は広島に帰ってから、大阪市内に十軒ある大谷製作所に電話をしたり、厚生省援護局で歩
兵第二十連隊を調べたりしたが、手掛かりはつかめなかった。
八月になって、かつて自分の記事を書いてくれた朝日新聞の記者の名刺を見つけ、その記者に
頼んで、大きく取り上げてもらった。新聞の力は大きい。それ以来、峰雄の家には同じ部隊だっ
た戦友や上官などから、電話や手紙で二十近くの問い合わせがあった。そして半月ほどして京都
府向日市の元陸軍二等兵丸橋良一さん、当時二十一歳のものであることがわかった。
丸橋さんは峰雄と同じフィリピンに派遣され、レイテ沖で戦死したという。これまで遺骨も遺
品も 無 く昭 和 十 八 年 七 月 二十 二 日 戦死 と いう 戦死 公 報だ け で墓 を作 り 、 お参 り を し てき た た め 、
遺族はこの手帳と作戦用務令を非常に喜んだ。峰雄も同じフィリピン戦線で戦った仲間だったこ
とで、他人事とは思えず、生きて帰れた自分を幸せに思うと同時に、大役を果たせて本当によか
ったと胸をなでおろした。
温四の死と峰雄の決意
131
父 と 娘
第 二 章
昭和五十六年(一九八一)十二月十二日に高原温四が九十三歳の天寿を全うした。峰雄は自分
の人生、子供たちの人生を大きく変えてくれた恩人の死に涙が止まらなかった。
温四は親の愛が薄かった峰雄のために本当の親になってくれた。峰雄も本当に愛せる親ができ
て嬉しかった。目を瞑るとフィリピン山中での苦しい逃亡生活、アメリカ軍の爆撃、目の前で死
んで い く 同 胞 、 い や な 思 い 出 が 走 馬 灯 の よ う に 脳 裏 に 次 々 と 現 れ て は 過 ぎ 去 り ま た 戻 っ て き た 。
目を開けて晩年の温四の遺影を見つめると、戦後一九年目にやっと神戸で再会したときの温四
の嬉しそうな顔と声が頭の中で甦った。温四のような人物にはもう二度とお目にかかれないだろ
う。その温四も九十三歳、自分も既に六十歳、還暦になっていたのだ。あれからおたがい長く生
きたものだ。峰雄は自分の心の拠り所が無くなると同時に、一つの時代が終わって、昔の日本が
消えていくように感じた。
温四の葬儀の日は寒いが穏やかな日射しが射す日だった。峰雄は葬儀を行いながら考えた。
「これまで自分は温四のためにも、自分自身が幸せにならなければならない」と思ってきた。そ
し て 自 分 は 十 分 幸 せ に な った 。 温 四 が 死 ん で し ま った 今 、 自 分 に は も う 欲 し い も の は 何 も 無 い 。
そ の 分 、 自 分 の 子 供 た ち に は こ れ ま で 以 上 に 尽 く し て や ろ う 。 普 通 の 親 に は 到底 で き な い ほ ど 、
出来る限りの事をしてやろうと心の中で再び誓った。
132
父 と 娘
第 二 章
アメリカの永住権
慧子はこれまではグリーンカードホルダー(永住権者)だったが、テストを受けて市民権をと
った。子供が市民権を持っていると親や兄弟は永住権を取りやすいのだ。慧子は両親のグリーン
カードを申請し、翌年グリーンカードを取得することができた。
グリーンカードを持っていると、一年以上アメリカを離れてはいけないことになっているため、
峰雄は夫婦でサンフランシスコにやってきて、家探しをし、寝室が四つもある大きな一軒家を買
い、そこに毎年一ヶ月余り滞在するようになった。広島のビルの自宅には庭が無かったため、こ
の家の広い庭の手入れをするのが楽しみだった。またここからは台湾人が多く住んでいる街まで
近かったので、一人でよく出かけて行き、街の中でいきなり台湾語で話しかけては友達を作るの
だった。
峰雄夫婦がサンフランシスコへ行っている間、家業の開山閣は息子たちが全て経営できるよう
になっていた。
藤原昇の死
サクラメントの慧子は一九八三年十一月二十九日に長男を出産し、普通の幸せな主婦と母親に
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父 と 娘
第 二 章
専念していた。ところがこれを急変させる出来事が起きた。一九八五年八月、藤原昇が急死した
のだ。七十八歳だった。もともと心臓が悪かったのだが、サンフランシスコからサクラメントの
家に帰る時、サンフランシスコ空港で気分が悪くなり、我慢をしてサクラメント空港まで飛んで、
そのまま病院へ直行した。二、三日で何とか良くなったのだが、医者の勧めでそのまま入院を続
け、心臓バイパス手術を受けた。ところが高齢のせいか出血が止まらず帰らぬ人となってしまっ
た。アメリカでも『昔の日本人』が一人この世を去ったのだ。
藤原昇亡きあと加州タイムスの経営を誰がやるかが問題になった。藤原家の長男ユージーンは
日本語が出来ないので「自分はやはり公務員の方がよい。自分には新聞社を経営する才能は無い」
と逃げてしまった。会社を売ってしまおうかという話もあったが、昇の妻の藤原章子が「慧子さ
ん、ジャーナリストとして経験のある、あなたが頑張るしかいないわねえ」と言って、慧子に矛
を向けた。
慧子は姑からの指名に戸惑いながらも、ジャーナリストを志した人間として「自分がやるしか
ない」と章子の提案を承諾した。
慧子は二人の子供を連れてサンフランシスコの父峰雄の家に引っ越してきて、子供たちを住み
込みのお手伝いさんに預けて、加州タイムスの経営に専念しようとした。しかし会社経営は全て
初めての経験で想像以上に大変だった。
その頃の加州タイムスはとんでもない忙しさだった。ところが従業員はいつまでたっても藤原
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父 と 娘
第 二 章
昇の従業員であって、なかなか新しい経営者である藤原慧子の従業員になろうとしなかった。自
分たちの方が仕事については先輩だという意識が強く、事あるごとに意見が対立した。慧子自身
も未熟だったが、それにまったく気づかず、自分の意見を押し通した。従業員は一人去り、また
一人去りと藤原昇時代の従業員は全て辞めていった。
それでも慧子は新しく雇った従業員の尻をたたきながら、自ら取材して原稿を書き、がむしゃ
らに営業をして、事業を進めていった。
台湾の発展と民主化
ちょうどこの頃、峰雄の生まれ故郷台湾が大きく変わり始めていた。一九七五年四月に蒋介石
が死亡した後、息子の蒋経国が後を継いで総統兼国民党主席となっていた。一九八五年八月にア
メリカのレーガン大統領が台湾の民主化を勧告したため、蒋経国は一九八七年七月に悪名高い戒
厳令を三十八年ぶりに解除した。その蒋経国も翌一九八八年一月十三日に急死し、この後を副総
統だった李登輝が継ぎ、初めての台湾人の総統兼国民党主席が誕生した。李登輝総統は政治犯を
釈放したり、政党結成を自由化するなど民主化を進めた。中国大陸では一九八九年六月四日に天
安門事件がおき、民主化運動が弾圧されたのと大違いであった。経済面でも年間の一人当たりG
NPが六、三三三米ドル(一九八八年)に達し、高所得国家の仲間入りを果たし、アジアで日本
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父 と 娘
第 二 章
に次ぐ資本輸出国となった。峰雄は台湾滝沢鉄鋼公社の董事長(社長)として台湾を訪れるたび
に、台湾が豊かになっていくのをひしひしと感じ、自分も微力ながら貢献していることで非常に
嬉しかった。このまま李登輝総統のもとで台湾は着実に変わって行くだろう。自分の生まれ故郷
は何といっても台湾だ。自分は国民党政権のもとでの台湾には全く未練はなかったから、日本に
逃 げ 出 し て き た 。今 、 台 湾が 台 湾 人 の も の に な り つ つ あ る 。 自 分 は 帰 化 し て 日 本 人 に な っ た が 、
日本人であると同時に台湾人だ。歳も歳なので大したことはできないかもしれないが、新しい台
湾のために、役に立つことがあれば、一肌でも二肌でも脱ごうと誓った。
大の李登輝ファン
李登輝総統は民主化の推進、現実外交による国際社会への復帰、中国の武力侵攻に備えての防
衛力の整備、中国との敵対関係を解消して対等な関係を構築することなどを総統自らの使命とし
て、新しい台湾を運営しようとしていた。そしてこれらを見事に推進し、一九九四年七月の国民
党大会で翌一九九五年十二月に立法院の議員(任期三年)を公選にし、一九九六年の三月には総
統自身(任期四年)を公選にするという画期的な政治日程を認めさせてしまったのである。そし
て 実 際 に こ れ が 実 行 さ れ 、 一 九 九 六 年 に は 李 登 輝が 初 め て の 公 選 の 総 統 に 選 出 さ れ る の で あ る 。
峰雄は日本の新聞に李登輝総統の話や台湾の改革の話しが載っていると、それを食い入るよう
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父 と 娘
第 二 章
に読んだ。日本人ジャーナリストからのインタビューに流暢な日本語で答え、「日本が好きだ」
といって憚らない李登輝総統の人柄を峰雄は好きだった。私心が全くなく、武士道魂をもってい
て、「本当に日本人以上に日本人らしい人物だ」と心から尊敬していた。それに生粋の台湾人で、
年齢も一歳くらいしか離れておらず、しかも自分が一年間だけ学んだ台北高校出身であり、戦前
は日本兵だったことなどもあって非常に近しく感じていた。
峰雄は蒋経国の死後、李登輝が総統になった一九八八年から、日本の新聞や雑誌、週刊誌など
に掲載された李登輝関連の記事や、『新生台湾』の記事を切り抜いていた。そしてこうした記事
を親しい常連客に見せながら、「これからの台湾は楽しみだ。一九九六年の初めての総統選挙の
日には、絶対に台湾に行く。残念ながら自分には選挙権がないが、この目で李登輝総統の当選と
二
これを喜ぶ台湾人と一緒にお祝いをするのだ」と公言していた。
離婚の危機パート
時代は平成となり、日本経済はバブル期に入って、開山閣は毎日、接待中心の客で満員の盛況
が続いた。この大成功に得意満面の峰雄はますます堅物で頑固になり、お客に平気で意見をした
り、一見で気に入らない客に帰れと言ってみたりするのだった。言われた客は怒って、玄関のド
アを蹴っ飛ばして帰っていくこともあった。ある日、志津が「そんなことでは商売にならないわ。
137
父 と 娘
第 二 章
もう少し客あしらいをうまくしてよ」と文句を言ったことがきっかけで夫婦喧嘩となった。志津
は家を飛び出して、台湾の高雄の妹の家に行ってしまった。平成元年(一九八九)五月のことで
ある。
開山閣の調理は息子たちで何とかしのいでいたが、常連客はいつもと味が違うのに気づきだし
た。一週間たつとさすがの峰雄もこのままではまずいと思い、志津の行きそうな親類や友達のと
ころに電話をかけまくった。そしてサンフランシスコの慧子のところにまで国際電話をかけてき
て、「ママがそっちに行ってないか」と聞くのだった。子供たちも協力してあちこち電話をして
探し回り、やっと見つけ出した。「ママ帰ってあげてよ。パパ本当に参っているわよ」と慧子が
説得して、志津が開山閣に戻ったのは一ヶ月後だった。
峰雄の脳溢血
そのあとすぐのことだった。峰雄が台湾滝沢鉄工公社の仕事で台北へ行っている時に、軽い脳
溢血を起こして倒れたのだ。すぐさま入院し、志津も広島から慌てて駆けつけ一ヶ月ほど安静に
して回復した。幸い手足がしびれるなどの後遺症もなかった。
しかし、この脳溢血にはいつも強気で頑固な峰雄もさすがにこたえたようで、入院中、何度も
サンフランシスコの慧子のところに電話をかけてきて、「僕が倒れても子供たちは誰も見舞いに
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父 と 娘
第 二 章
来てくれない。来たのはママだけだよ」と寂しそうに弱音を吐いた。
これ以降、威厳を保つためか、峰雄は息子たちには何も相談しなかったが、娘の慧子のところ
にはよく電話をしてきて、なにかと相談したり、愚痴を言ったりした。そして最後にいつも「僕
が先に死んだら、ママを大事にしてやってくれ。ぼくはママを大事にできなかった」と言うのだ
った。
バブルの崩壊
平成二年(一九九〇)イラクがクェートに攻め込んで占領し、いわゆる湾岸危機が勃発したこ
とにより、四万円近い高値をつけていた日本の平均株価が暴落したのをきっかけにして、バブル
がはじけた。開山閣も翌年から接待による利用がめっきり減り、客の数も減少しだした。勿論売
上げは大幅に落ちたが、手伝いのパートやアルバイトを減らし、その他経費を切り詰めて、なん
と か ほ ど ほ ど に 利 益 は 確 保 し た 。 客 が 減 った こ と に よ っ て 、 そ の 分 峰 雄 や 志 津 の 仕 事 も 減 った 。
貯えも十分にある。日本へ来て二十五年がたち、峰雄と志津は二人とも六十五歳を越えて、もう
そんなにあくせく働く必要はなかった。
だ が 、 峰 雄 は い つ も 何 か の た め 、 誰 か の た め に 、 何 か し て い な いと 気 が す ま な い 性 分だ っ た 。
それというのも自分は台湾で台湾人として生まれていながら、働き盛りの戦後、外省人の統治に
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父 と 娘
第 二 章
よって台湾のために何もできなかった。このため憧れの日本へやってきて、今度は戦前の祖国で
ある日本のために何かしたいと思った。開山閣や台湾滝沢鉄工股份有限公司、それに交友関係を
通じて自分なりに頑張ったつもりである。しかし帰化して日本人になったとはいえ、やはりもと
は台湾人というレッテルは消えず、日本人らしい働きもできなかった。しかも日本は戦前の日本
と違って、どこか間違った方向へ行っているように思えてならない。そういうこともあって峰雄
は子供たちのために働き、報いてやることを生きがいにしてやってきた。その子供たちも成人し
て一人前になり、もはや助けてやることもない。
焦燥感とリタイア
そうしているうちに、生まれ故郷の台湾はどんどん変わっていった。李登輝総統の下、台湾人
自ら台湾のために働ける時代が来ていた。ところが自分は台湾、中華民国のパスポートを領事館
に返し、無国籍になった上で日本に帰化しており、身分上台湾人ではなく、日本人であり、台湾
での選挙権もない。台湾へ戻って何かお役に立ちたいと思っても、歳をとりすぎていて、もはや
その気力も体力もない。バブルのときならかなりの収入があったので、金銭面の応援くらいは出
来たであろうが、バブルがはじけた今、自分たちの老後のための蓄えを減らすわけには行かない。
峰雄は何か焦燥感のようなものを感じつづけていた。
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父 と 娘
第 二 章
慧子ら子供たちは「パパ、そろそろリタイアしたらどう?
サンフランシスコに引っ越してお
いでよ」と言ってくれる。妻の志津も「リタイアを考えないと、いつまでたっても息子たちが成
長しないわよ」と言う。確かにサンフランシスコの気候は夏は乾燥していて、過ごしやすく、冬
は暖かくて、自分のような年寄りには生活しやすい。その年から店を次男の洋二にまかせて、サ
ンフランシスコでの滞在期間は三ヶ月になった。そして来年か再来年には妻や子供たちの言うと
おりリタイアするつもりになっていた。
慧子社長の苦悩
日本でバブルがはじけたことから、経営が悪化してアメリカから撤退する日本企業が続出した。
サンフランシスコの広告スポンサーが減りだした。一九九二年にはロサンゼルスで黒人たちの暴
動が起き、これで日本からの観光客が激減し、観光客相手のみやげ物店やレストランが次々と倒
産して、またまたスポンサーが減る事態になった。
慧子の加州タイムスはスポンサー開拓のために大きなイベントを計画した。一九九二年には茨
城県と組んで日本の梅をサンフランシスコの郊外に移植して公園を作るという『梅チャリティ』、
一九九四年には日本から五百人をよんで、アメリカ人五百人と一緒に『第九』を合唱するという
ものだった。峰雄は慧子がこうした大きなイベントを行っているのを、誇らしげに常連客に自慢
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父 と 娘
第 二 章
するのだった。しかしこうした事業は加州タイムスの経営状況をますます悪くしていった。
慧子は従業員を必要最小限にまで減らし、事務所も狭いところに移転して、経営改善に努力し
たが、この経営状態を一切、父に話さなかった。開山閣の営業状態がよくなくなっていることも
知っていた。勿論、父に話せば父は必ず援助してくれるに違いないが、自分がアメリカで会社社
長をしていることを誇りにしている父を見ていると、とても本当のことは言えなかった。しかし
どうしても男手が欲しいため、弟たちには相談し、長男と三男に仕事を手伝ってもらうことにし
て、サンフランシスコに呼び寄せた。
脳溢血が再発
平成八年(一九九六)二月九日は快晴で、日当りがよく冬にしては少し暖かい日だった。この
日店は暇で、夕方七時過ぎには客が一人もいなくなった。店には峰雄のほかに志津と次男の洋二
そして従業員の岡田の四人がいて、しばらく昔話をしていた。開山閣の閉店時間は午後九時だっ
たが、峰雄は「今日はこれで終わりのようだな。ちょっと早いけど閉店にしよう」と言ってシャ
ッターを下ろした。
志津、洋二、岡田の三人は厨房へ行って後片付けを始め、峰雄は店に残ってレジを閉めて売上
げの計算をしていた。志津は厨房から大きな声で話を続けたが、峰雄からはぼそぼそという力の
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父 と 娘
第 二 章
ない声が返って来るだけで何を言っているのか聞き取れなかった。これが峰雄の最後の声だった。
しばらくしてたまたま店を覗いた岡田が「あれっ!」と異様な声を上げて店に飛び込んだ。
ただならぬ声を聞いて志津も後に続いた。峰雄はレジのレシートの巻紙をちぎったまま床に倒
れていた。洋二が峰雄を抱き起こしたが、意識がなく右半身が痙攣を起こしていた。岡田が一一
九番に電話をし、志津は上の峰雄の部屋に行ってパジャマやタオルなどを袋につめ込み、入院の
準備をした。救急車はすぐ到着し、救急隊員が「高原さん、高原さん、聞こえたら私の手を握っ
てください」と耳元で大声で言ったが、峰雄は全く反応しなかった。志津も救急車に一緒に乗り、
救急車が走り出した時に、丁度午後九時のサイレンが響いた。
峰雄の死
病院に到着し峰雄はすぐ検査室に入れられた。一時間ほどして今度は集中治療室に移された後、
志津は医師に呼ばれた。「すごい出血で脳全体に血があふれています。手術しても助からないの
で、傷をつけないでこのまま静かに逝かしてあげましょう」。志津は峰雄が倒れた時からダメか
も知れないと既に覚悟をしていたが、医師から告げられて峰雄の死が現実のものとなり、身震い
と同時に涙があふれ出た。涙で霞んだ目で志津はベッドの上の峰雄の顔を覗き込んだ。まだ息は
していた。「先生、三人の子供がサンフランシスコにいるんです。明日の夜にならないとみんな
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父 と 娘
第 二 章
帰って来れません。それまで呼吸を続けさせてくれませんか」。
医師は峰雄が絶対に助からないことを強調し、人工呼吸器を取り付けて点滴をすると、心臓は
動き続けるかもしれないが、身体が浮腫んで非常に汚くなることなどを説明し、このままにする
ことを勧めた。集中治療室で志津は峰雄の手を握り続けて様子を見守った。だんだん呼吸が弱く
なり、日が変わって午前二時十七分に心臓が止まった。七十四歳だった。
日本男児の死
峰雄の遺体は自宅に帰り、峰雄の部屋のベッドに寝かされた。昼間だけ店を手伝ってくれてい
る近所の主婦が店に来て峰雄の死を知り、大声でわあわあ泣いた。泣きながら「社長さんは本当
に思いやりのある人ですね」と言った。志津は本当にそうだと思った。死ぬ時も妻や子供に面倒
を か け る こ と な く 、 さ っと 逝 っ て し ま った 。 こ の 死 に 方 は 峰 雄 が 憧 れ て い た 最 も 日 本 人 ら し い 、
日本の桜のような散り方ではないか。
翌十一日の夜八時過ぎようやくサンフランシスコから慧子と息子たち、その家族が自宅に着い
た。父親の死に顔を見て慧子は涙が止まらなかった。暖かい部屋で遺体の腐敗を防ぐために大量
のドライアイスを使っていたせいか、額に汗のように水滴がついていたので、慧子がハンカチで
拭いてやると少し口元が緩んで微笑んでいるような顔つきになった。「ママ、パパが笑ったよ」
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父 と 娘
第 二 章
志津と兄弟たちも峰雄の顔を覗き込んだが、確かに微笑んでいた。「不思議だねえ。あなたたち
が帰ってきたので喜んでいるんだわ」志津はそういって大粒の涙を流した。それをきっかけに全
員がまた声を上げて泣き出した。
通夜
十二日は通夜で、葬儀屋が峰雄の遺体を棺に入れようとしたが、棺が少し小さかったのかなか
なかうまく入らない。何度か入れ直していると、峰雄の顔が引きつって、いつもの怒ったような
顔つきになった。志津と慧子はそれを見て「やっぱりパパはこの顔の方が似合っているわ」と言
ってうなづき合った。また、全員が涙を流した。
通夜の読経が終わった後、志津が峰雄の棺の隅に大きな茶封筒を入れた。慧子は「これ、なあ
に?」と言って封筒を取り出した。中を覗くと新聞の切抜きがぎっしり詰まっていた。見出しを
見ると『李登輝総統』とか『台湾の政治』に関する記事のようだった。「これ、私が形見にもら
っておくわ。いいでしょう」誰も異存を唱えるものはいなかった。慧子はその封筒をスーツケー
スの中に大事にしまいこんだ。
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父 と 娘
第 二 章
葬儀
十三日の葬儀は滝沢鉄工所と開山閣の合同葬とし、滝沢鉄工所の社長滝沢忠義が葬儀委員長と
なって執り行われた。三階の大広間に祭壇を設けて弔問を受けたが、弔問客は長い列を作り、五
百人近くに及んだ。弔問客の中には食事に来た時に、峰雄から昔話などいろいろな話を聞いてい
た 若 者 た ち も い て 、 「も う 我 々 を 叱 っ て く れ る 人 が い な く な った 」 と 峰 雄 の 死 を 惜 し ん で い た 。
葬 儀、 告 別 式 が 終 わ り 、 峰雄 の 遺 体 は 荼 毘 に ふ す た め 家 族 、 親 族 と と も に 葬 祭 場 に 向か っ た 。
葬儀屋の人たちが後片付けをしていると、何かがぶつかったのか、一階の店の天井にぶら下がっ
ていた大きな電灯カバーが突然、丸テーブルの上に落下した。これは台湾製で、木枠には中国風
の文様が彫刻されていて、峰雄が非常に気に入っていた物だった。また丸テーブルも家族全員が
いつも昼食をとり、昼の団欒を楽しんでいた場所だった。この電灯カバーはこれまで落ちたこと
はなく、そう簡単には落ちないものだったので、葬祭場から帰ってきた家族はこれを見て驚いた。
志津は「あまりにも突然の死だったので、パパもやり残したことや言い残したことがあって、魂
がこの家から離れたがっていないのかもしれないね」と言って新たな涙を流し、女性たちも、う
なづきながら泣き声を漏らした。
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
台湾初の総統選挙、李登輝総統の選出
台湾滝沢鉄工股份有限公司の社葬が三月二十三日に、台湾中壢の工場で執り行われることにな
った。偶然だが、この日は台湾初めての総統選挙の投票日だった。李登輝ファンだった峰雄は前々
からこの日を楽しみしており、自分には選挙権はないが、投票日には台湾へ行って、この目で李
登輝総統が選出されるのを見るのだと言っていた。
ところが、この初めての民主選挙をこころよく思わない大陸の中国は三月八日から南シナ海で
陸海空軍の大規模な演習を始めた。そして福建省沖合でミサイルを発射し、高雄近くの海上に三
発が着弾、日本の与那国島近くに一発が落ちた。すわ中国軍の台湾進攻かと大騒ぎとなり、台湾
の株価は一気に暴落した。李登輝総統はこの事態に対応して、急遽、二、〇〇〇億元の基金を作
って、「これ以上株価を変動させることはない」と言明した。アメリカ政府も急遽空母二隻を南
シナ海に出動させた。これで台湾の民衆は落ち着きを取り戻し、国内の騒ぎは静まったが、中国
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
軍の演習は選挙が終わった三月二十五日まで続いた。
選挙の結果、即日開票され五八一万三、六九九票、得票率五四%の大差で李登輝総統が当選し
た。台湾初の民主的に選ばれた総統でしかも台湾人だ。台北では台湾人たちがこの李登輝総統誕
生を大いに喜んでいた。その様子を慧子の胸に抱かれた故高原峰雄、もと林栄鋒の遺影がじっと
見続けていた。
親不孝の自覚
日本と台湾での葬儀を終えて、慧子は久しぶりにサンフランシスコに帰ってきた。彼女がいな
い間に仕事は山のようにたまっていた。時差ぼけの眠い目をこすりながら、夜遅くまでかかって
片付け、自宅へ帰って死んだように眠った。目が覚めるとなんと翌日の夕方だった。
慧子はここ一ヶ月を振り返り、父のことを思った。自分が生まれてからこれまで、父は本当に
自分たちを愛し大事にしてくれた。台湾での小さい時も、長女の自分は、後で生まれてきた弟た
ちよりもずっと可愛がってもらったように思った。日本へ来てからもアメリカへ来てからも、学
校のことや就職のこと、結婚や家を買ってもらったことなど、いろいろ思い出すと、「なんと素
晴らしい父親だったのだろう」と改めて父の偉大さに気づくのだった。
「それにしても自分は父のために何をしてあげたのか」慧子はふと自分自身を振り返った。「自
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
分は父に甘えてばかりいて、その上父に反抗ばかりして、何も父の喜ぶことをしていないではな
いか」最後の最後まで心配ばかりかけて、本当に親不孝ばかりしてきたように感じた。
台湾人としての自覚
慧子は母が棺の中に入れようとした封筒を取り出し、中の新聞の切抜きを読み始めた。切抜き
は全て日本の新聞で、一九八八年一月、蒋経国が急死し、副総統の李登輝が総統に就任したこと
を伝えるものから始まり、李登輝総統の民主化政策や台湾経済の発展を報じるもの、初めての
二・二八事件記念行事、初めての国会議員選挙などの記事がぎっしり詰まっていた。
慧子は父が何故このような記事を切り抜いて溜め込んでいたのかを考えた。頭の中は、まだ時
差ぼけがとれておらず、朦朧としているが、それでいて非常に興奮してきた。「父は台湾の国と
自分が台湾人であることを捨てきれなかったのだ。それに間違いない。そうだ、その娘である自
分も台湾人ではないか。
台湾人から日本人になり、そして今やアメリカ人と三つの国の国籍を取ってきたが、自分の身
体には台湾人の父と母の血が流れていることに間違いない」慧子はこのとき初めて自分が台湾人
であることを意識した。「これまで何故意識しなかったのだろう」慧子は父のことを思うとそん
な自分が本当に情けなくなって涙が自然とこぼれてきた。そして幼い時に育った台湾の景色や町
149
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
並みを思い出して、新たな涙が噴出してきた。
本当の台湾を学ぶ
それ以来、慧子は台湾について勉強しようと、台湾関係の本を読み漁った。台湾が民主化し、
大きく変わろうとしており、しかも台湾ではパソコンやIT関連の産業が発達し、台湾経済が急
成長をし始めていることもあって、日本だけでなくアメリカでも台湾がブームになっていた。こ
のため台湾関係の本が沢山出版されており、李登輝総統の民主化政策のおかげで、特にこれまで
タブーだった二・二八事件やその後の弾圧についていろいろな人が事実を明らかにし、解説を加
えていた。
これまで慧子は二・二八事件のことや国民党と外省人たちが如何にひどいことをしてきたかを、
父から耳にたこができるくらい何度も聞かされていた。しかし、いつも「また父の繰言が始まっ
た」と聞き流し、真剣に受け止めたことがなかった。今回、こうした本を読み続けるうちに、随
所に昔、父が話していたことに思い当たり、「ああ、父はこのことを言っていたのか。父はこれ
を私たちに教えたかったのか。台湾人たちはそんなにひどい目に遭っていたのか」と、目からう
ろこが落ちるようにはっきり判ってきた。そして「自分たちがどれだけ父親に守られて生きてき
たのか。どれだけ愛され、大事にされてきたのか」ということがここにきてやっと分かったのだ
150
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
った。
アメリカの台湾人たち
ツン
一
慧子はもっと台湾のことを知りたいと思い、会社の経理をみてくれている、台湾人の公認会計
士、ケーシー董に台湾についての自分の気持ちを話した。ケーシーは「僕の父も台湾から脱出し
ツンチャンチュン
てきた一人で、台湾大学で李登輝総統と一緒だったらしいよ。話を聞きにおいでよ」と言ってく
れた。
ケーシーの父、董長坵は台湾の中学校を卒業した後、日本に渡り東京農業大学へ入学した。大
東亜戦争末期になって、学徒動員が始まったが、理科系の学生は卒業まで召集が延期されていた
ため、兵役にはつかなかった。だが、東京大空襲に遭い、命からがら逃げ回った経験をもってい
る。戦争が終わり、台湾人は全員引き揚げることになり、董長坵は学業半ばで台湾へ帰り、台湾
大学に編入した。
李登輝総統は京都大学農学部だったが、学んでいた農業経済学科が文科系だったため、学徒動
員され、陸軍少尉として千葉の高射砲部隊に配属された。しかし幸いにも戦場に行く前に終戦を
迎え、台湾に引き揚げてやはり台湾大学に編入している。ここで二人は同時期に同じ学び舎のも
と学業に専念し、ともに学者の道を歩むことになった。
151
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
国民党政権の下では、いくら頑張っても台湾人の活躍する機会は少なく、表現の自由や集会の
自由が全くなく、こうした状況に対して、不満を述べることもできなかった。とくに二・二八事
件の後は密告制度と特殊警察の目が厳しく、罪が無くても、いつ逮捕されて投獄されるかもしれ
ないという恐怖におののく毎日だったという。このため学生たちの間ではできるだけ良い成績を
あげて留学し、台湾脱出のチャンスを得ようとする者が多く、董長坵も良い論文を書こうと一所
懸命に勉強した。
董長坵は幸いアメリカのスタンフォード大学から奨学金をもらって留学することができ、博士
号をとってUCフレスノ大学の教授となり、アメリカに住みついている。
董長坵は「李登輝総統の時代になり、民主化され台湾人の時代になったが、決して安心できな
い。いつ大陸の中国が襲ってくるかわからない。今や野党になった国民党や外省人たちの中には
それを望んでいる者もいる。台湾が独立し、それが世界的に認められなければ、我々は本当に安
心できない」と語り、慧子に大陸中国の脅威という新たな問題を教えてくれた。
慧子は台湾での父の社葬の時に、中国軍の演習が行われ、台湾近海にミサイルが打ち込 ま れ 、
騒然となったことを思い出した。
アメリカの台湾人たち二
152
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
・
・
チャウ ツ ショウ
董長坵からの紹介で周祖寿にも会った。
彼は一九六五年に九州大学の農学部に留学し、農業経済を学んだ。そして一旦台湾政府の役人
になった後、一九七〇年にアメリカの大学の奨学金をもらってアメリカに留学してきた。「僕が
九大に留学してきてびっくりしたことは、大学内や佐世保などで、学生がベトナム反戦運動をや
り、大がかりな集会やデモを公然とやっていたことだ。台湾では絶対言ってはいけないこと、し
てはいけないことが沢山あった。日本ではこんなことが許されているんだ。これが本当の民主主
義、自由なのだと初めて納得した。だけど自分たち台湾人はそうした運動に一切参加できなかっ
た。国民党政権の秘密警察が日本にまでやってきていて、我々をこっそり監視していたんだ。我々
チュウショウシュウ
が国民党政権の気に入らない言動や行動をすると、台湾にいる両親が官憲に呼び出されて厳しく
叱られるようになっていた」
現在、アメリカで台湾独立運動の旗を振り、そのための新聞を発行している邱勝宗=ピータ
ー・チュウは一九七五年に日本の明治大学経済学部に留学し、その時から台湾独立運動を始めた。
卒業後、日本で貿易会社に勤め、アメリカへ派遣されてそのまま台湾独立運動を続けている。「日
本にいるとき、自分は台湾独立運動をしていたので、当然国民党政権の秘密警察に目をつけられ
ていた。台湾の両親が孫の顔を見たいと言ったので、自分は無理だが、まだ七歳の息子は大丈夫
だろうと、東京の亜東協会へビザの申請にいったが、なかなか許可が出ず、結局思想犯扱いで拒
否された。七歳ですよ。おそらく史上最年少の思想犯ですよ」と言って大笑いした。
153
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
アメリカの台湾人たち
三
荘パメラはサンフランシスコのチャイナタウンでお土産屋を経営しているが、彼女は一九八二
年、四十八歳の時にアメリカに移民してきた。夫の林が台中のアメリカ軍事顧問団のキャンプで
二十年間勤めたため、アメリカ政府からご褒美にアメリカの永住権をもらい、家財道具を全て売
って移民してきたのだ。「大陸から来た中国人たちは全く教育されていなかったのです。戦争が
終わった時私は十一歳でした。両親は日本人が経営していた旅館に勤めていたのですが、戦争が
終わって空家になったその旅館が国民党軍の宿舎にされたのです。我々が出迎えるなか、到着し
た兵士たちは玄関からいきなり土足のまま畳の上に上がり、おまけにその中の一人がカッと痰を
吐いたんです。我々は台湾語と日本語、彼らは北京語なので言葉が通じなかったのですが、私は
ダメダメと手を振り、紙で痰を拭き取って、土足で汚れた畳を雑巾で拭いたのです。そして身振
り手振りで靴を脱ぐように言いました。十一歳の少女に注意されたので恥ずかしかったのか、面
白くなくて怒っていたのか、みんな顔を真っ赤にしながら靴を脱いだんですが、脱いだ足と靴が
ものすごく臭くって我々は大慌てで外に飛び出しました。そんな中国人たちに我々の社会がずっ
と牛耳られたんですよ」
漢 方医学の権威曽碧光博士は台東出身で台東中学、台東高校を卒業して台湾大学に入学 す る 。
154
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
一九五六年、卒業と同時に徴兵され、二年間兵役についた。そしてそのうち十ヶ月間、最前線の
金門島、それも大陸に最も近い小金門島に派遣された。
大陸との間は泳いで渡れるくらいの距離で、大陸からの砲弾が飛び交い、何度も自分たちの潜
んでいるトーチカの上に着弾し、本当に恐ろしかったと言う。その上、電話は使えず、手紙は全
て 検 閲 さ れ 、 全 く 自 由 が 無 か っ た 。 彼 は 大 学 出 なの で 、 司 令 部 づ き の 参 謀 で 位 は 少 尉 だ っ た が 、
部下には外省人の職業軍人が多くいて、彼のことをこころよく思っていないのが、ひしひしと感
じられたという。自分たちは万年軍曹で最前線で苦しい思いをしているのに、台湾人の若造が大
学出ということだけで、自分たちの上官として赴任してきて、わずか二年で退役していくのが面
白くなかったのだろう。「実際に大陸から攻めてきたら、まず自分の部下の兵隊に殺されるので
はないかと思いましたよ」
台湾では徴兵が終わってはじめて外国留学が可能になる。留学のテストに合格し、半年くらい
思想や家系、家族の調査を受けたあと、一九五五年に東京大学農学部の大学院に留学し、やっと
台湾を脱出できた。その後、アメリカのカンザス大学大学院に留学し、コネチカット大学の助教
授を勤めている。
故郷台湾での取材
155
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
二〇〇〇年三月十八日、台湾では二回目の総統選挙が行われた。李登輝総統は前回当選した後、
次の総統選挙には立候補しないことを宣言しており、国民党からは連戦副総統、民進党からは陳
水扁台北市長、それに無所属の宋楚瑜が立候補した。結果は陳水扁、四九七万七、七三七票、宋
楚瑜、四六六万四、九三二票、連戦、二九二万五、五一三票で、陳水扁が当選し、台湾独立派で
ある、民進党が初めて勝利し、国民党が初めて野党にまわった。
丁度広島の実家に里帰りしていた慧子は台湾独立派勝利で喜ぶ台湾人たちの様子を肌で味わ
おうと、関西国際空港から台北に飛んだ。空港では昔中華航空の大阪支店で一緒に仕事をしてい
た林がノースウェスト航空の空港支店長をしていて、税関の中まで迎えに来てくれた。民進党支
持派の林は興奮していて、会っていきなり「やったよ。慧子さん。陳水扁が勝ったんだよ。台湾
の独立もこれで近くなったよ」と手放しで喜んでいた。慧子もなんだか嬉しくなり「よかったね
え。私もアメリカで応援していたのよ」と軽口をたたいた。
慧子はその足で父の故郷宜蘭へ向かった。台北駅から出発して、軍港の基隆を過ぎると列車は
美しい海岸線を走る。宜蘭に近づくと沖合に亀の格好をした亀山島が見えてくる。懐かしかった。
幼い頃台南に住んでいる時、夏休みに父に連れられてよく遊びに来た。車窓から亀山島が見え
ソウチョウクン
ると、「あっ、亀だ。亀だ」とみんなではしゃぎ、降りる準備をしたものだった。宜蘭の駅には
従姉妹の曹澄薫が迎えに来てくれて、車で自宅へ連れて行ってくれた。
この曹澄薫の夫は二十年前警察に勤めていたが、ある日自分の知り合いが政治犯として逮捕さ
156
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
れることを知って、事前に教えて逃がした。これが同僚の知るところになり、自分も身の危険を
察知して、家族にも内緒で十年もの長い間身を隠していた。三人の息子がいたが、曹澄薫が女手
一つで育て上げ、今や三人とも立派な医者になっている。家では伯父、父の兄にあたる曹金栄が
慧子が来るのを待っていてくれた。
ソウキンエイ
食事をしながら慧子は伯父に聞いた。「伯父さん、日本の植民地時代と国民党の政治とどっち
がよかった」
今年八十三歳になる曹金栄は一部入れ歯が壊れてもごもごした話し振りだが、「そんなのきま
っとる。日本人は厳しかったが、しっかりしとった。国民党や外省人たちとは大違いじゃ」と言
いながら直立不動の姿勢をとり、いきなり歌いだした。慧子も従姉妹も知らない歌だった。「旅
順開港約なりて、敵の将軍ステッセル……」伯父は昔を懐かしむように次から次へと知らない歌
を 歌 った 。 「徐 州 、 徐 州 と 人 馬 は 進 む … … 」 み ん な が あ っ け に と ら れ て 伯 父 の 顔 を 見 て い る と 、
伯父の目から大粒の涙が噴出していた。曹澄薫がハンカチで涙を拭こうとすると伯父はそれを手
で払い、涙を流し続けたまま歌い続けるのだった。「青葉茂れる桜井の……」
高雄の叔父
リ タイ
宜蘭から台北に帰った慧子は翌朝、母の故郷である高雄へ飛んだ。高雄では母の弟である李大
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ショウ
勝が建築業を営んでいた。慧子はやはり日本人と外省人との違いを聞いてみた。叔父は開口一番、
「中国人には法律というものが無い。制度や秩序がメチャクチャで、おまけに道徳心も無い」と
国民党政権や外省人を厳しく指弾した。
「日本の統治時代はなあ、日本の役人は建築許可をとりに書類を持っていくと、合格しているも
のはもちろん許可するが、例えば柱の太さが足りないとか前の道路の幅が狭いと『これは建築基
準法何条で許可できない』とはっきり言って、どんなことがあっても絶対許可しない。そしてそ
の厳しい決定が将来家が倒れるのを防いで我々の命を救い、秩序だった家並みをつくって後々町
全体がよくなるのだ。しかし大陸から来た外省人の役人は建築許可をとりに行くと、書類も見な
いでまず『ダメだ。出直して来い』と言う。明くる日『もう基礎工事を始めていますから、何と
かしてください』というと『今夜裏からこっそり来い』と言って、暗に賄賂を要求し、要求どお
りもっていくとダメなものでも許可してしまうのだ。これによってちょっとした台風で屋根が吹
き飛んだり、道路がジグザグになって将来自分たち台湾人の首を絞めることになるのだ。賄賂を
受け取った外省人自体はあとのことは知らん顔さ」
慧子はよく父の言っていた「昔の日本人はよかった」ということを思い出した。宜蘭の伯父も
高雄の叔父も日本の統治時代のほうが国民党の政治よりよかったし、日本人自体よい人が多かっ
たと言っている。父はこのことをいつも言っていたのだ。それに比べて最近の日本人、とくに政
治家や役人、教師などの資質や人格が地に落ちていることを嘆いていたのだ。
158
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
父はそんな日本から李登輝後の最近の台湾を見て、台湾を捨てて日本に帰化したのを後悔し始
めていたのではないだろうか。そして台湾に戻って台湾のために何かしたかったのではないだろ
うか。もっと父の話を真剣に聞いてやればよかった。慧子はいつも「また始まった」と言って馬
鹿にして席をはずしていた自分を恥じた。
李登輝元総統に会いたい
サンフランシスコに帰り慧子は父の遺志をついで、台湾のために何かできないか考えた。残念
ながら加州タイムスは日本語新聞で、日本人、日系人を対象にしているため、台湾や台湾人の話
を書いても読者は関心がないし、読んでくれないだろう。自分に何ができるだろう。何かしたい。
慧子は思い悩んで、ケーシーの父、董長坵の所へ相談に行った。
董長坵はつい先日友達三人と台湾へ行ったという。「同じ台湾大学で同時期に学んでいたよし
みで李登輝さんに会えないか申し込んでみたら、意外と簡単に会ってくれたよ。『台湾をこんな
によくしてくれてありがとう。陳水扁総統を助けて今後ともよろしく』とお願いしてきましたよ」
と嬉しそうに自慢した。「君も李登輝さんに会って、インタビューでもしたらどうかね」
そうだ。父はきっと李登輝さんに会いたかったろう。会って董長坵と同じように﹁李登輝さん
ありがとう﹂と言いたかったに違いない。李登輝さんの単独インタビューなら日本人も関心があ
159
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
るだろう。そして李登輝さんに今の日本人、とくに日本の政治家や経済人、知識人などに日本を
よくするための提言をしてもらいたい。慧子はなんとか李登輝元総統のインタビューを実現した
い と 思 った 。 そ し て そ の 際 、 父 に 代 わ っ て 「李 登 輝 さ ん あり が と う 」 と お 礼 を 言 お う と 思 った 。
慧子はサンフランシスコやロサンゼルスに住む台湾人の友人やその知り合い、それに台湾に住む
親類、友人などに李登輝元総統と接触できる可能性がないかどうか聞いてまわった。
ライコクシュウ
二〇〇一年の四月、慧子はサンフランシスコの台湾料理のレストランで、知人から台湾電子台
(TTV)の社長である頼國洲氏を紹介された。頼國洲氏は李登輝元総統の娘婿だった。慧子は
自分の父親のことを簡単に話し、父親が李登輝元総統をものすごく尊敬していたことなどを一気
に話した。「父は李登輝さんにありがとうと言いたかったと思うのです。もちろん私もありがと
うと言いたいのですが、今度機会があれば李登輝さんに会わせてくださいませんか」頼社長は「お
安い御用ですよ」と気軽に答えてくれた。
李登輝さんへの手紙
二〇〇一年九月十一日、ニューヨークのワールドトレードセンターとワシントンのペンタゴン
に旅客機が突っ込んで炎上するという同時多発テロが起きた。これに対してアメリカのブッシュ
大統領はアフガニスタンのタリバン政権への攻撃を開始した。この一連の出来事のおかげで世界
160
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
的に景気が大きく後退し、慧子の新聞事業にもスポンサーが減るなど大きな影響があった。
二〇〇二年に入ってもアフガン戦争は続いた。一方、日本の政界では加藤紘一や鈴木宗男とい
った政治家たちの脱税や汚職まがいの不祥事が相次いで発覚し、混迷を極めていた。慧子は「こ
のままでは世界は一体どうなってしまうのだろう。人類はどうなるのだろう」という不安をこれ
まで以上に強く感じるようになっていた。そして李登輝元総統はこのような事態をどのように見
ているのか、ぜひ聴きたいと思うようになった。慧子は頼國洲社長の名刺を取り出し、「李登輝
元総統に会わせてほしい」と電子メールを送った。しかし電子メールは届いたのかどうかわから
ず、頼國洲社長から返事は来なかった。そこで慧子は意を決し、李登輝元総統へ手紙を書き、こ
れまで書かれた「父の伝記」の原稿を同封して李登輝元総統の研究室に送るという大胆な方法を
とった。
手紙は日本語で、内容は次のようなものであった。
「はじめまして、自分はサンフランシスコで日本語新聞を発行している藤原慧子と申します。も
とは台湾台南市出身の林慧栄ですが、一九六五年に家族とともに日本の広島市へ移住し、その後
一九七六年に単身渡米し、大学でジャーナリズムを学んだ後、加州タイムスに入社、一九八八年
から加州タイムスの社長をしています。幼い頃から父親にいつも『君たちは中国人じゃない。台
湾人だ。誇りを持て』と教育されてきました。父が亡くなり、私自身五十代になって台湾人であ
ると いう 誇りと 自信も てるように な った のは、李登 輝様が『 徳川家康 』 スタイルの政治 手腕で、
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
台湾を民主化し、独特の外交を展開して国際社会における台湾の地位向上を図ってくださったか
らです。父は李登輝様が初めての総統選挙で選出されることを楽しみにしていましたが、投票日
の数日前に突然倒れ帰らぬ人となりました。台湾をこよなく愛し、情熱家だった父は長年の悲願
一天光を見ることなく、きっと悔しかったに違いありません。それ以来、娘の私は李登輝様がメ
ディア に登場 す るた び に い つも 心の中で父と 一緒 に『 李登 輝さ んあり が と う 』と 叫 ん で い ます 。
父の伝記もほぼ完成するところまできております。是非ご一読ください。『その父ありてその娘
あり』という自負のもと、是非李登輝様にお会いいたしたく思っております」
李登輝さんからの返事
これに対して四月二十六日、会社に李登輝元総統の秘書という人からファックスが届いた。内
容は次のとおりである。
「拝啓 春暖の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。四月十一日付のお手紙とお父
様の伝記の原稿を拝受しました。李総統はすこぶる感心なされ、『その父ありてその娘あり』の
あなたに喜んでお会いしたいと言われました。会見日と場所は次のとおりです。お知らせ申し上
げます。
日期:五月二十一日(火曜日)午前十時より
162
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
場所:桃園県・・・・・自宅
なお台北市のホテルから車を利用した場合、約九十分かかると見積ってください。台北に到着
鐘振宏(秘書)」
しましたら、一応、私にお電話をください。まずは、お知らせまで。ますますのご健勝をお祈り
申し上げます。敬具
慧子は大声で叫びたいほど嬉しかった。顔が知らず知らずのうちにほころんでくるのがわかっ
た。誰かにこの喜びを早く伝えたい。結局、広島の母志津に電話をした。朝早かったが、志津も
「信じられない」と大喜びしてくれた。そして「私もいっしょに連れて行ってよ。伝記の内容は
ショウシ ンコウ
ほとんど私が話したのだから、私にも李登輝さんに会う権利があると思うわ」
慧子はすぐさま秘書の鐘振宏氏に電話をし、あつかましいお願いだが、面会の際、加州タイム
スのためにインタビューをさせてほしい。また母の志津を同行させてほしいと頼み、快くOKが
出た。
李登輝邸
五月十八日、慧子はサンフランシスコから関西国際空港へ向かい、そこで広島から来た母の志
津と合流してそのまま台湾へ直行した。桃園市のホテルに宿を取って鐘振宏氏に電話をした。翌
163
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
日二十日には鐘振宏氏がホテルに迎えに来てくれ、李登輝元総統のオフィスを見せてもらったほ
か、台湾電視台の頼國洲社長にも会った。
インタビュー当日は、昨日頼んでおいたタクシーで早めに李登輝元総統の自宅へ向かった。タ
クシーの運転手は李登輝元総統のファンのようで、自宅へ行くことがうれしそうだった。彼によ
ると今でも李登輝元総統の人気はすごく、支持率は七〇%を超えると話していた。自宅は入り口
にガードマンが立つコミュニティの中にあって、李登輝前総統の家にはさらにガードマンが立っ
ていた。到着したのは約束の時間より一時間も早く、李登輝元総統は家族と朝食の最中というこ
とで、全員ガードマンの詰め所でお茶をいただきながら時間をつぶした。
約束の時間の三十分前に応接間に通され、李登輝元総統はまもなく姿を現した。初対面の挨拶
を済ませ、慧子はゴルフ好きの李登輝元総統夫妻におそろいのゴルフウェアとゴルフボールをプ
レゼントした。母の志津は備前焼の茶碗を手渡した。
164
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
165
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
李登輝さんへのインタビュー
慧子 この度は亡くなった父に代わりまして李登輝さんに「ありがとう」と申し上げに参りまし
た。台湾の国と台湾人のためによくここまで頑張ってくださいました。私たちは四十年前に台湾
を離れまして、ずっと海外で暮らしてきまして台湾のために何ひとつしてあげられなかったので
すが、李登輝さんが全部してくださったような気がいたします。以前から一度お礼を申し上げな
ければいけないと思っておりまして、今回それがやっと実現しました。
李元総統 まずよくいらっしゃいました。歓迎します。お父さんについては伝記で台湾時代の林
さ ん の 戦 前 、 戦 後 の 詳 し い 内 容 を 承 っ て おり ま す 。 そ し て 私 に 対 し て は 非 常 に よ く サ ポ ー ト し 、
心から支持をしてくださっていたことを承知しています。本当にありとうございました。それが
お亡くなりになり、私も心から残念に思っています。この度そのお父さんの代わりに藤原さんが
台湾を訪れ、私とお話しすることできるのを私も非常にうれしく思っております。
慧子 父もあの世で喜んでくれていると思います。本当にありがとうございました。それから私
はサンフランシスコで日本語新聞を経営しているのですが、ご存知のとおり今の日本は大変な状
況でございます。隣国台湾の元首であった李登輝先生から見て、この混迷する日本に対して何か
助言をいただけるのではないかと思いまして伺いました。
166
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
台湾の主張
李元総統 私はかつて『台湾の主張』という本を書きました。その本にも書いたのですが、司馬
遼太郎さんとの対談で「台湾人に生まれた悲哀」という言葉を使ったように、台湾人が台湾人と
して自分の政府を持たず、自分を治めていくことができない悲しみというのは、ここ四百年、全
ての台湾人が感じてきた気持ちじゃないですか。こういう状態から台湾がどうやっていくべきか
ということが非常に大切です。こういうような中で、私のようなちょっと珍しい、日本の教育を
受け、二十二歳まで日本籍だったし、二十三歳以降は台湾の国民政府の下で中国人のような教育
を受けさせられた。その後アメリカに留学してアメリカの教育も受けた。台湾人か何なのかわら
ない。私みたいに違った国々で違った教育を受けて、違った国状を知ることができた者には「台
湾をどうや っていけばよいのか」と いうことがは っきり わか ってくるの では ないかと 思 います 。
また『台湾の主張』の中では日本に対する期待を大きくしています。非常に大きな期待を日本に
か け て い る 。 二 十 二歳 ま で の 日 本 の 教 育 が 影 響 し て い る の か も し れ ま せ ん 。 日 本 人 は 働 き 者 だ 。
真面目一点張りで正直だ。こういう点ではおそらく世界でも非常に少ない特質を持った一つの民
族だと私はいつも思っています。我々が受けた教育では「日本精神というものはどういうものか」
ということを植えつけられた。それが戦後中国に支配され中国人と比べてみたら、同じ漢民族で
167
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ありながらこんなに違った考え方を持っているのかということを知ることができた。それによっ
て日本人と中国人のどこが違うかということ、国を治める方法において何が違うか。日本人のも
つ良い面もあるが、悪い面、欠点も沢山ある。それを見極めて我々はどうしていくかを考えるこ
とが大切だと思う。
日本への期待
アジア全体から見た場合は日本が一番の先に進んでいる国だし、経済的にも世界第二の大国だ
し、こういう日本がもう少し元気を出してアジアを指導していくことが日本の責任ではないかと
私はいつも思っている。中国は今非常に強くなっているように見えますが、実は紙の張子みたい
なもので、表面的には力があるように見えますが実際にはそんなに力がない。上層部の人々は非
常に政治的な面にとらわれすぎて人民のことを考えていない。人民は可哀想ですよ。こういうよ
うな国がアジアをリードしていったらアジアの人たちも可哀想になってしまうんです。中国人の
持つ歴史観というものは何か。また日本人は戦後において受けた教育で日本人は自分の国を否定
してきている。特に若い人たちは我々の祖先は戦前悪いことばかりしてきたと考え、非常に自分
を卑下したような考え方を持っている。こうしたことからこれからの日本は非常に努力しなけれ
ばいけない。なにか最近は非常に変わってきたような気がします。そういう面で私は日本に非常
168
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
に期待をかけている。
アイデンティティー
台湾それ自体の内部においてもこういう国際的な環境で台湾内部のいろいろな要素が変わっ
てきたため、台湾独自のアイデンティティーを持つようになりましたが、まだまだなんです。ま
だ時間がかかります。台湾も日本と同じように今苦労しなければならない。わたしみたいに民主
主義を導入し、自由主義的な社会を作ろうと考えているものにとっては、総統の職を辞めてもま
だ安心してはおられません。
ある人がいわく「アメリカでは今生きている、辞めた大統領が八人もいて、もしその大統領が
発言したら大変なことになる」と言う。ところが台湾とアメリカは違うのです。アメリカはきち
っとした民主政治をとっている。民主党と共和党という二つの政党でお互い政策を争いながら国
のためにやっています。台湾は日本と同じように国に対するアイデンティティーを持っていない。
国に対するアイデンティティーは台湾では「認同、同じく認める」というのですが、台湾はそ
れがまだまだなんです。これに我々は非常に努力しなければならないと思うのです。日本も同じ
く努力しなければいけない面が沢山残っている。
169
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
親日家李登輝前総統
慧子 李登輝さんは非常に親日的なのですがどうしてなのですか。
李元総統 これは私の若いときの教育が非常に関係している。それから五十年間の統治の間に日
本が台湾に何をしたか。台湾はこの五十年間の日本の植民地時代がなかったら今の海南島よりひ
どい状態のままかもしれない。日本が台湾を植民地にしたことは政治的に見ればよくないようで
す が 、 実 は 台 湾 の 近 代 化 に 対す る 貢献 は そ れ は それ は 大 き な も の で す よ 。 台 湾 の 封 建 的 な 社 会 、
いろいろな制度の遅れた面を変えてきたからね。
簡単に言いますと「土地の制度」、台湾の昔は大地主と小地主とその下に小作人がいた。こう
いう制度をどう変えていくか、ちゃんとやったんですね。戸籍簿を作り地積図も作り、そして台
湾の貨幣の制度、まちまちだった貨幣を一つにしたり、台湾の度量衡制度を改めた。
もう一つ重要なことは台湾に法律制度を持ち込んだ。これらが台湾の近代化に非常に役立った
ということです。こういう面以外に経済的な種々の建設、たとえば嘉南大圳一五万町歩の開発(日
本人技師八田與一が設計した)や桃園大圳四万町歩の開発これらによって農業を非常に促進した。
農業に対する研究機関が非常に進んだ。医学の面においてもちゃんとやり、日本の統治時代に台
湾ではマラリアが無くなった。これらは大きな貢献です。これら種々の面から見た場合、他人の
国を植民地にするのは確かによくないが、その人々が非常に助けられたということは肯定しなけ
170
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ればならない。もちろん私だって日本に対して別の考えを持っています。昔は日本人でなければ
学校の先生にはなれないし、政府の機関には入れないし、いろんな差別待遇がありました。私み
たいに京都大学に行っても台湾に帰ってきたら仕事あるかなという具合に差別がひどかった。そ
ういう面もあります。我々はそういう面も承知しながら、先ほど述べた種々の面を判断したとき
に、 「 日 本 統 治 の 五 十 年 間 は 確 か に 台 湾 の た め に よ く や った 」 と 我 々 は 考 え な け れ ば な ら な い 。
日本の戦後教育の偏向
慧子 今、李登輝先生がおっしゃったことは日本の政治家や国民、メディアはあまり取り上げな
いですね。
李元総統 言ってはいけないことになっているんです。だって学校の教科書には「日本はけしか
らん。台湾を植民地にした」それだけしか書かない。日清戦争に勝って李鴻章から台湾を渡され
たということくらいは書いても、日本が台湾で何をしたかということを日本人はわかっていない。
台湾の歴史についても詳しくない。
台湾に本当に貢献した日本人は多いですよ。日本でどれだけの評価を受けているかわかりませ
んが、例えば後藤新平、新渡戸稲造、こういった人は本当に大したものですよ。そういった人た
ちを日本ではなんだか否定しているような気がします。台湾にとっては大きな偉大な政治家だっ
171
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
たし、統治者だったですよね。こういったことがわからないように戦後における歴史教育という
ものは「日本が間違っていた」ということ一点張りに絞って、台湾の歴史の細かいところ知らせ
ない。こういうようなことをしてはいけない。そして教科書問題が出てくる。教科書を変えて子
供たちになにかもう少し教えこもうとすると別の人たちが反対をする。自分の国の歴史ははっき
り させ て お く 必要 が ある 。伝 え る だ け で良 い 。歴 史観 は 全 て変 てこ な 人が 作 るも の じ ゃ な く て、
人民を中心にして、政府やいろいろな人を入れて考えなければならない問題じゃないかと思いま
す。
日本の中国一辺倒外交
慧子 李登輝先生が総統になられて大分変わってきましたが、これまで日本の政治家もメディア
も台湾を無視してきたというかタブーにしてきましたが、これはどうしてなんでしょう。
李元総統 この問題は戦後のことを考えなければならない。台湾は蒋介石政権に管理が移った。
この時、蒋介石総統は日本に対しては「怨みに徳を以ってす」という一言で賠償金は取らないし、
日本人の家族や兵隊を全部日本に送り返した。この事実に日本は注目して非常に感謝してしまっ
ている。ところが蒋介石政権というのは非常に独裁的で、二・二八事件、一九五〇年以降は白色
テロで我々は夜は眠ることができなかった。私のような者でも官憲がいつ捕まえに来るかわから
172
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ない。考え方一つ、言い方一つ間違ったら、すぐ叱られるのですよ。ああいう政治の下で我々は
生きてきた。こういう政治にアメリカも非常に困ってしまった。こんな独裁的な政権を支持して
いくわけには行かない。中国と国交を結んでしまい、日本も中国と国交を結んでからは中国一点
張りになってしまった。それで台湾は全然頭に無くなってしまった。台湾には日本の新聞社は産
経新聞が支局を置いていただけで、ほかは一切無かった。台湾の天気についてもNHKの天気番
組では放送しない。日本の商売人はよく来ます。一年間に百万人くらい来る。「日本から来たお
客さんは台湾で明日雨が降るかどうかわからないでは困るじゃないか」とかつて言ったことがあ
ります。そういうふうに台湾をネグレクトした。これには二つのヒントが入っている。
中国と日本が国交を結んでからは、正当な政府だから中共のいうことばかり聞かなくてはなら
ない。昔の懺悔話も入ってくるし、中国大陸で戦争をしたときにいろいろな悪いことをしたんだ
という宣伝を受けている。南京大虐殺だとか宣伝を受けているから、日本としては頭をぺこぺこ
下げて、友好関係、友好関係という一点張りをしてきた。その中に何かからくりがある。詳しく
知ろうという気持ちはほとんど無かった。台湾自体はああいう状態だったから日本としては相手
にしない。台湾の国民党と大陸の共産党との間の内紛だから、お前たちいいようにやればいい。
我々関係したくない。そういう態度だったんでしょうね。こういうふうに台湾は長い間日本から
忘れられてしまった。
173
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
台湾は日本の生命線
ところが日本にとって台湾は非常に貢献しているのですよ。台湾というのは日本から見れば温
帯地域で砂糖も作れる。果物も作れる。お米も早くできる。それによって日本も利益を得てきて
いた。経済的利益だけ得てきたが、政治あるいはメディアの面では「もっと台湾を日本に紹介し
ていこう」という気持ちはほとんど無かった。でも台湾は日本の生命線です。
戦争中においても戦後においても台湾は日本の生命線だ。一九九六年の総統選挙のときに中国
は大陸からさかんにミサイルを撃ってきた。ミサイルが落ちた場所というのが日本の与那国島と
台湾島の間だった。というところから見ると実は日本に対してミサイルを撃っているのか、台湾
に対して撃っているのかわからない。そこにいろいろな問題がおきてくる。
次に台湾海峡というのはシーレーンですよ。日本への輸入物資の三分の一以上はこのシーレー
ンを通らなければならない。一旦シーレーンが阻害されて船が通れなくなったら大変なことにな
ってしまう。今詳しい数字を持ってはいませんが、一日にこの台湾海峡を通る船はかなりの数で
すよ。これが通れなくなったら日本の経済にいろいろな問題が出てくる。日本の政治家もわかっ
ています。わかっていても国会で持ち出してそんなこと を言 った ら北京政府に対してよくない。
というのでそこら辺は目をつぶっていく以外に道は無い。
174
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
日台経済
もう一つは台湾と日本における貿易問題です。私が総統になる前は台湾は一年間、貿易赤字大
体百五十億ドルを日本に払っていた。台湾はアメリカなどほかの国から儲けた金でそれを日本に
払っていたんです。
もちろん日本の技術やいろんな製品は非常に進歩しているから、台湾としても技術的、経済的
に 日 本 に そ れ ら を 仰 が な け れ ば な ら な い 面 が あ った か ら 、 日 本 か ら ど ん ど ん も の を 買 っ て い た 。
私が総統になってから調べてみたら百六十五種類のものが台湾ではほとんど作れない。日本に仰
がなければならない。例えばテレビのブラウン管とかリモコンとかエアコンとか、これらはほと
んど日本から入れなければできなかったんです。それを私は何とかして台湾でもやれるようにし、
日本からも台湾に来て指導してもらってやっていかなければならないと考えた。
今では台湾も経済的、技術的に進んできまして、ハイテクや電子産業は非常に進んできて、台
湾のICというのはある程度日本に並ぶようになってきました。こういう面から見た場合、台湾
と日本の結びつきは何かということです。台湾と日本は決して競争的な関係ではない。むしろ補
完的な関係です。日本ではできて台湾ではできない。台湾ではできて日本ではできない。お互い
に協力的な関係に立った経済的な面がまだ相当あるわけですね。政治的には台湾は日本の生命線
であり、経済的には台湾と日本は強い結びつきを持たなければならない。
175
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
国家の重要性
慧子 李登輝先生がおっしゃったようにアジアをリードしていかなければならない日本が、だら
しない状態では、台湾から見て心配ではないですか。
李元総統 心配だよ。というのは今とくにグローバライゼーションといって、地球化というのが
進んでいるでしょ。「地球化が進めば国いらない」なんてそんな馬鹿な考え方はないですよ。地
球化が進めば進むほど国の重要性が出てくるし、国の文化と国の伝統というものを尊重しなけれ
ばいけない。これがグローバライゼーションの大きな意義じゃないかと思います。もし個人がこ
の 社 会 の 中 で 個 性 を な く し 自 分と い う も の が な く な っ て し ま った ら ど う い う 社 会 に な り ま す か 。
個人の意義はやはり存在する。個人というのは国際的にみたばあいは国なんだよ。日本的なもの
を持ち出さなくてはならない。これは軍国主義や国家主義を主張するのではなくて、これは基本
的な一つの国のあり方ですよ。どこの国にいっても同じ。
今回のアメリカの九・一一の同時テロのケースを見てご覧なさいよ。アメリカでさえこういう
場合になったら国が一つになってしまう。日本ではそういうことはないなあ。可哀想だけど。ア
メリカは帝国主義だ。アメリカはけしからん。批判はできても、いざ日本にそういうことが起こ
ったらどうしますか。国が一体にならなければものの処理ができないじゃないですか。
176
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
心の改革
慧子 李登輝先生は台湾のアイデンティティーを確立し、台湾という国を世界的に認めてもらお
うと努力されていらっしゃいますよね。
李前総統 私は政治的に独裁政治から台湾を開放する。それから民主化と自由化を促進する仕事
をしてきた。これは政治的だ。制度的に変える仕事だ。ところがこれじゃあだめなんですよ。と
いうのは五十年も百年もこういう独裁政治の中で生きてきた人民というのは、奴隷と一緒で、昔、
リンカーンが南北戦争で黒人を解放したが、解放された黒人はどうしたらいいかわからないんだ。
解放されて自由の身になったが、自由になったということ事態は難しいですよ。明日から職を求
め な け れ ば な ら な い 。 明 日 か ら 飯 に 困 る 。 い ろ いろ な 問 題 に ぶ つ か る 。 そ の と き に ど う す る か 。
一番大事なのは人間の心なんですよ。魂なんですよ。この魂で責任を持った、独立した一つの人
間としてやっていかなければならない。国も同じなんです 。旧約聖書に出てくる出エジプト記、
モ ー ゼ が イ ス ラ エ ル 人 を エ ジ プ ト の 奴 隷 か ら 解 放 し 、 難 し い 紅 海 を 渡 っ て シ ナ イ 半島 に 入 った 。
シナイ半島に入ったが、自分の国カナンの地に入れなかった。どういう意味かというと心が一致
していないんだよ。そのときに非常に苦労する。食べ物がない。困難が多い。そういうときにま
た昔の奴隷に帰りたいというやつが出てくるのだよ。イスラエルの人間は自由になったからとい
177
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
っても飯は食えない。困難にぶつかる。やっぱり奴隷がいいなあという。この気持ちではこの人
たちをカナンの地に入れてはいけないという神の戒めですよ。この気持ちが一致したときに初め
てカナンの地に入る。精神的なゆとりと精神的な魂の面における大きな変化がなければならない。
このことをモーゼがシナイ山に登って持って帰ってきた十戒を、イスラエルの人間に﹁これを守
れ﹂と命令し、それによってアイデンティティーができた。我々はこうこうすべきだ。イスラエ
ルの人間としてどうすべきかがわかり、それによってはじめてカナンの地に入っていくわけよ。
カナンの地というのはアイデンティティーの で き た 精 神 を 持 っ た 人 々 の 集 ま り の 場 所 だ と 考 え
なければならない。
台湾のアイデンティティー
同じようなことに今、台湾もぶつかってきている。台湾は政治的な面で制度を変えた。これで
終わってはいけない。まず教育を改革しなければならない。教育改革によって子供たちの知識を
高めなければならない。我々の祖先はどういう苦労をしてきたのか。台湾の地理はどうなってい
るのか。今の若い人たちは全然台湾の歴史がわかっていない。台湾の地理がわからない。中国大
陸五千年の歴史ばかり教えられて、台湾に対する愛着がない。それに今の法律は大陸から持って
きた法律そのもので、法律それ自体は戒厳令時代の、ああいう独裁時代に作った法律を今も適用
178
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
している。私は変えなくちゃならないと主張している。政治的な改革は始まりであって、けっし
て最後ではない。最終的な改革は〝魂〟、台湾では〝心霊〟、日本でいう『精神的な面』での変
化が伴わなければとても難しいのです。こういう仕事はおそらく一代や二代ではちょっと難しい。
我々は一代、二代とかけて精神的な面、アイデンティティーを追求しなければならない。これが
一番大切だ。
教育の重要性
日本はもはや戦後ではないと言いながら、戦後において何が起ったのか、これについての反省
がない。政治も教育も同じだ。日本では教育、学校は日教組によってゆがめられていて教科書も
含め、問題が多いですよ。こういうことはあきらめなければならない。もうちょっと振り返って
日本というのは何かということに戻らなければいけない。原風景に戻って、こういう気持ちでや
っていく。日本は法律もしっかりしていて、非常に秩序だった法律を作っている。汚職もそんな
に多くない。こんな状態の中で教育が第一だと思う。そしてメディアが非常に大切だ。メディア
がどうも間違った報道ばかり強調している。私が日本人の方々に言いたいのはもう少し「日本的
なものは何か」ということを考えてほしい。そしてこれがいわゆる国家というものを考える第一
歩なんです。その中で大事なものは文化、それに伝統、こういうものを強調しなおすということ
179
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
が大事なんです。このことは外国からのいろいろな文化やいろいろなものを取り入れることにけ
っして反対しているのではない。取り入れるが、自分の国でもう少し評価し直して、自分の国に
適したものに作り直していくことが大切だ。戦後日本もそういうところがうまく行 っていない。
台湾も独裁政治の下でやってきて、私が十何年の間いろいろやってきましたが、基本的な問題は
文化の問題です。
中国文化
中国文化とは何か。この文化は台湾では非常に問題が多い。中国文化について私は悪口をよく
言い、非常に嫌われています。中国文化は五千年、人為的に作った歴史なんだ。この歴史の中で
孔子様の教えだとか、口で言っていますが、やっていないんですよ。中国人というのは考えてい
ること、口でしゃべっていること、やることがばらばらなんです。
日本 人はその点考 えていることと口でしゃべ って いること、やることが比較的一致して い る 。
こういうことができる非常に少ない民族の一つです。私はこれが大好きなんだ。考えていたこと
と言ったこととやることが一致しなければならない。これはどこの国に行っても同じだ。とくに
私はクリスチャンだからね。キリスト教では新約聖書の中ではっきり言っている。いくら信心が
あっても行為がなければ物事は成立しない。まとまったことが出来ないというのはそこなんだよ
180
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ね。行為と言うことと考えることが一致しなければならない。
これは非常に基本的な問題じゃないかと思います。これが中国文化にはない。中国文化という
のは名前ばっかりで、名刺にいっぱい自分のタイトルを羅列して満足したり、いろんなレッテル
を貼ったり広告したりしてそれで満足している。絶対に行為はしない。
台湾の文化
慧子 台湾の文化はどういうものなんでしょう。
李元総統 台湾の文化はあまりはっきりしていない。大部分が中国大陸から輸入してきたものだ。
ところが忘れてならないのは「台湾に来た人間というのは四百年前の中国大陸動乱の時代にその
動乱から逃れて自由を求めてきた人だ」ということです。
どういう人かというと労働者が多い。農民が多い。けっして政治をしたり、宮廷に関わってい
る官吏ではない。こういう人たちが台湾に来たが、こういう人たちなりの生活というものがある。
け っし て 中 国 の あ の 華々 し い宮 廷 の 生 活と か 宮 廷 の も の を 台 湾 に 持 っ て き た の で は な い の で す 。
そういうところに台湾の文化の基点がある。
それに台湾人は非常に努力する。本当に苦労しても努力していく。そして子供たちにはよい教
育を受けさしてあげたいとがんばる。第三は絶対に嘘をついてはいけない。真面目に仕事をやり
181
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ながら、言うべきことははっきり言う。このように生活面から見た場合、台湾というのは中国離
れしているのです。オランダの影響、スペイン、日本の影響、とくに日本の五十年間の徹底した
教育というのは、確かに台湾を一変させた。そして戦後における蒋介石政権の下で受けた教育で
も台湾を変えることは出来なかった。台湾は独特のものを持っている。
リーダーは直接選挙で
慧子 台湾は総統がいて、立法院があって、司法院があって、三権分立していて、もう立派に一
つの国だと思うのですが。
李元総統 これについては新しい意見が出てきている。国民党政権時代の五権制度というものが
ある。三権以外に監察院と考試院があって五権になっている。我々としてはこれを何とかしなけ
ればという考え方が最近強くなってきている。いかにして三権にしていくか。監察院と考試院と
いうものは封建時代のものなんです。特別な制度を作って特別な人間を養成する。そして昔は官
吏は汚職が多いから監察してコントロールしなければいけない。こういうことは民主社会におい
てはありえないことなんだよ。
大体、政府の官吏になって汚職やるとはけしからんじゃないか。だから三権分立にしていく方
向ですよ。だが日本と台湾との大きく違う面は、台湾では総統を人民が直接選挙する。日本には
182
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
天皇があるが、憲法では天皇は政治に携わらない。そして政党政治で総理大臣を選ぶが、これを
根回しで選んでいる。明日はあなた。今日は私。個人的に回しているだけで全然人民の意思が入
っていない。こういうような総理大臣では国をリードする力が出てこない。そういう点では台湾
が進んでいる。
独裁政治を絶つ
一九九六年に私は初めての総統選挙をやった。ここまで持ってくるのに非常に苦労しましたよ。
ものすごい反対があった。こんなことをやったら大変なことになると言うが、これをやらない限
り民主政治はウソです。なぜなら独裁政治でも口だけは「民主政治だ」というが、実は少しも民
主政治ではない。これがかつての我々の五十年の政治だった。それをいかにして独裁政治から真
の民主政治にするか。軍隊というのは党の問題。昔、党が出来て軍隊を作って、古い政府を倒し
て自分が政権を握る。だからいつも軍隊というのは党につながっている。これをいかにして軍隊
を国家のものにするか。これは大きな仕事だった。これが出来なければああいう政治改革という
のは不可能ですよ。そういう面で中国の持つ過去の歴史、これを近代化する。民主化していくに
はどこが問題かを知らなければならない。私はそのために勉強し、中国の歴史に対する理解を非
常に深めました。5千年の中国の文明とはなんだったのか。アヘン戦争以後における中国の状態
183
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
は ど う だ った の か 。 中 国 の 問 題 の 重 点 は ど こ に あ る の か 。 中 国 の 文 化 を 変 え な け れ ば な ら な い 。
この文化は結局あの独裁政治を作る原因になっていると私は思う。だからあえて私は総統は二期
やったら絶対に継続してはいけない。二期やったら降りる。そして選ばれた人に政権を渡す。こ
れが私の主張。
なぜならば総統を降りたらたたかれますよ。この社会では。日本の総理大臣の比ではないです。
いろんな所でたたくんです。ここの文化は降りたらシコタマたたくんです。ましてや私の場合は
昔の統治階級の人々を押しのけて政治改革をやった。台湾では統治階級であり、一等国民だと思
っていた人がついに政権を失ってしまった。それは怨み深いものですよ。「李登輝、けしからん。
事あらばたたくべきだ」と、これはしようがないですね。この文化を変えていかなければならな
いと思っている。変えていくには私が十字架を背負って、どんなに罵倒されようが、いやがらせ
などいろいろなことをされても平気でいなければならない。
そのためには自分をクリーンにしなければならない。総統をしているときからクリーンにして
いて、そして正々堂々と降りていく。そして虐められようがどうされようが平気でいられるとい
う人にならなければならない。これがこの文化を破っていく一つの道だ。これが一代続き、一代
目は私、二代目は陳さん、三代と続いていけば台湾の文化はだんだん変わっていきます。独裁に
なっても仕方がない。でも二代総統をやったらおとなしく降りてくるということにしなければな
らない。これがこの文化を打ち破っていく方法です。
184
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
日本の政治の欠点
逆に日本の場合は、今日私が総理をやって明日はあなた、明後日はあの人にやらせよう。こう
いう根回しでやっている限りは絶対にリーダーシップが取れない。マンデイト(Mandate
委任統治)がない総理は何も仕事が出来ない。その地位をうまく保持できたらそれで結構。それ
が今の日本の政治の大きな欠点だ。リーダーシップがない。私、よく言うんです。憲法を改正し
て総理大臣を人民が選びましょう。四年間くらい総理にマンデイトを与えて、「しっかり指導し
てやってくれ」と人民が同意する。変てこな人が総理になったらどうするかと心配する。かまい
ません。民主政治だから悪かったら次の人が出てきてだんだん変えていきます。急にいい人が出
てくるはずがない。選んでいるうちに本当にいい人が出てくる。そのときにこそ国に非常に役立
つ。
第二の問題は国の目標がはっきりしない。日本はどう進んでいくか。台湾はどう進んでいくか。
民主政治における今後の台湾の目標はどうすべきか。日本のことを言えば二十一世紀における日
本はどうすべきか。アジアにおける地位はどうか。アジアで民主主義を防衛するのにはどういう
役目を果たすのか。経済的に日本はどうすべきか。国内ではどうすべきか。こういう目標を立て
なければいけない。目標がないとアイデンティティーが出てこないのよ。国の団結を促進するこ
185
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
とが不可能になる。非常に大切な問題ですね。今、私は総統をやめましたから、こういうような
仕事こそ、今私のやるべき仕事と思っています。総統を辞めたら悠々のうのうと遊んで、ゴルフ
やってというわけにいかない。人民の我々に対する期待とはそういうものではない。
これからの台湾
慧子 アメリカで今回初めてタイワニーズ・アメリカン・ヘリテージ・ウィークが開かれます。
これまではチャイニーズ・アメリカンしかなかったのです。
李元総統 私も昨年の六月の終わりから七月にかけてアメリカへ行きましたが、大変な大歓迎を
受けました。あちこちで演説をやったんですが、一回の講演に台湾の人が八百名から千名が集ま
った。このときに私はできるだけ人々に教えなくてはならない。台湾に対するアイデンティティ
ーをもつ。台湾の国の目標をはっきり決めてもらわなければならない。今年の四月台湾で、台湾
の 正 式 の 国 名 を 「台 湾 」 に き り か え る 運 動 を や り ま し た が 、 非 常 に 沢 山 の 人 が 集 ま り ま し た よ 。
三万名ほど集まりました。今回は短い時間でやりましたが、来年になったら五十万人は集まるで
しょう。これから台湾の正式な名前を決める運動をやろうと思っています。私は今、李登輝の友
や台湾アドボケイト(台湾群策会)などの組織を持っているし、それに台湾団結連盟のサポータ
ーでもあるから、こういう関係を通して人民に直接アピールする。私はあくまでも現政権を支持
186
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
します。誰が政権を握ろうが、台湾の現状を維持していく面だけは指示しますよ。そしてさっき
申し上げたように教育の改革から司法の改革から、魂、心霊的な面の改革も同時に進めます。
観音山と総統職
慧子 昨日李登輝先生の淡水の事務所を拝見させていただきましたが、一八〇度眺めることが出
来る窓からは淡水河が見え、その向こうに台湾海峡が望めるのですが、李登輝先生はその景色を
ご覧になりながら、どのような思いで仕事をなさっているのですか。
李元総統 淡水は私の生まれたところ、私は淡水の公学校を卒業して、中学校も淡水中学で、私
にとっては非常に懐かしい町です。そこからは大きな道があって、その道が私の郷里の三芝郷に
直 接 続 い て い る 。 こ の 道 を 人 民 は 李 登 輝道 路 と 呼ん で い る 。 そ れ を 私 は 非 常 に 誇り に し て い る 。
そして向かいに観音山がある。観音山の頂上はこんなに尖がっている。その上に立つと本当に怖
いんですよ。四方にたよるところが何もない。台湾海峡、淡水の方、台北、林口と見えるが、い
つ転げ落ちるかわからない。そのときの絵が食堂にありますから後でお見せします。
私と孫とうちの家内と嫁と四人で、今、四人暮らしです。私の家族。その四人で山に登ったん
ですよ。私は子供のときよく登りました。孫にも見せたいと思ったのは、総統になったらどうい
うような気持ちかということを教えたかったのです。山の頂上に立ったら何にたよることも出来
187
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ない。だから陳総統にもいつか一緒にあの山に登りましょうと言いました。この山に登ったらも
うたよる人はいない。自分ひとりなんだ。これは中国人がよく言う「寡人」私一人ということで、
国の最高の地位に立った人間というのは誰にも頼ることも出来ない。たよるものがあるとすれば
頭の上の神様だけ。後は自分ひとりで全てやらなければならない。私はこのストーリーをよく話
します。
観音山のストーリーといって、『台湾の主張』の中にも書きました。中国版の『台湾の主張』
にはその時の孫と二人だけの写真も入っています。一番上に立った人間は自分ひとり、後は神様
だけ、自分の信じるところに従ってきちんとやらなければならない。オフィスの窓から見ると観
音山があって、淡水河があって、台湾海峡があり、昔の故郷がある。気持ちは複雑ですよ。この
国はどうなっていくか。この国をどうすべきかということが頭に浮かぶ。そういうことで私はい
いところにオフィスを持ったと思っている。
命のある限り国、人民のために
慧子 昨日の台湾のテレビで李登輝先生がインタビューに答えて「この命のある限り台湾のため
に尽くす」とおっしゃっていらっしゃいましたが。
李元総統 私は家族は四人だけです。それに総統を辞めても国から給料をもらっている。生活に
188
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
困ることはない。子供や孫たちには教育をちゃんとしてあげているから、この人たちに財産を残
すというようなことを考える必要がない。ただ考えるのは台湾がどうなるかということ。私の余
生、この心臓病が悪くならなければあと五年か十年はもつだろう。それなら台湾のために奮闘し
ますよ。台湾の歴史を見ながら、台湾はどう向かっていくだろうか。目標、我々はどうやるべき
か。これを私がやらなければ。引っ張っていく力強い指導力がなければ大変だと思っている。
昨年一年間は体の調子がそんなによくなかったが、奮闘しましたよ。私の総統選挙のとき以上
に。私の総統選挙のときは楽々でした。そんなに苦労しなかった。昨年の台湾団結連盟の連中た
ちをサポートするためには、本当に全身全霊で頑張った。二、三ヵ月休むことがなかった。毎日
ですよ。台湾を駆けまくった。これが効果があった。というのは私が総統を辞めてから台湾の内
部におけるアイデンティティーがぐらついてきた。国会が大陸や外省人勢力に狙われて、困った
と、この状態ではとっても嘆かわしい。それに陳総統の民進党の力はそんなに強くない。強くな
い党が国をリードしていくのは非常に難しい。この中でどうするか。一肌脱いで助けなければな
らない。
台湾のメディアも全部大陸よりだ。こういう状態の中で昔の旧勢力、いわゆる支配階級の旧勢
力、国民党はお金を持っているし、党産を沢山もっている。それでお金をばら撒いていろんなこ
とをやる。そしてメディアを使う。台湾のアイデンティティーが下火になってきた。それでは私
が平和的に政権を交代した意味がない。家族の中には体のことも気をつけないといけないと言う
189
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
人もいるし、昔、私と一緒に仕事をした人の中には「こんなことをしたら総統職十二年間が無駄
になる」そんなことを言う人もいる。歴史は歴史。十二年間何をやったかは歴史が決める。私は
こんなことで毎日漫然と暮らすわけにはいかない。これをもう少し力強くもっていくのは私の責
任だ。そして現在の総統に対してはこれを尊重する。人民が選んだのだから尊重しなければなら
ない。そして大事にしてあげながら国を守っていく。それが私の責任だ。これが五年間であろう
が、十年間であろうが、まだまだ奮闘しますよ。そういうことを言いました。簡単に言えば、私
はクリスチャンだから別にこれと言った希望とか変な考え方を持つこともない。総統もやったし、
国民党の主席もやったし、もうなにもやることはない。ただ人民のために国のために余った時間
を使うべきだ 。
慧子 このあと五年、十年、李登輝先生のご活躍を見守っていきたいと思います。
李元総統 見るだけでなく少し叱ってくださいよ。批判してください。ここがいけないあそこが
いけないと言わなければいけない。そういうことによって初めて進歩がある。こんなことを言う
と、まるで教科書に書いているようなことを言うと言われるかもしれないが、私は実際そう考え
ている。別に批判をしても悪いことではない。私はやはり考えますよ。言っていることがあって
いるかどうか。言っていることがあっていれば実行します。
190
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
慧子 これからは時々台湾を訪れて、李登輝先生のご活躍をアメリカで報道していきたいと思い
ます。
李元総統 お願いしたいことがあります。最近、台湾に台湾自体の意識を強調した「台湾ボイス
ネット」というのが出来た。アメリカのロサンゼルスにオフィスを置いている。東京にも置く予
定です。これは台湾を主体にした新しいインターネットのグループなんです。これがスタートし
ました。出来ればこの人たちと連携して、台湾のニュースをお宅のメディアを使ってアメリカで
報道してもらえれば非常に良いと思います。
慧子 ありがとうございました。
インタビューの最中、李元総統は時にはにこやかに笑みを浮かべながら話し、時には鋭い目で
厳しい表情で話した。インタビューは終わったが、李元総統はそのあとも饒舌だった。
政治家へのきっかけ
李元総統 私は政治には向かない。やるべきではないと思っていた。台湾の農業が非常に重要な
問題であったとき、蒋経国副院長に呼ばれたのが政治家になるきっかけです。アメリカのコーネ
191
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ル大学に留学していたとき、博士論文を書いた。これがアメリカの農業経済学会の最優秀論文賞
をもらった。それが有名になって、台湾に帰ってきたら蒋経国副院長に呼ばれ、「台湾の農業問
題はどういうところに問題があるか」と聞いてくれた。いろいろしゃべったんですが、これが彼
の気に入ったのかどうか知らないが、私が国民党員でもなかったのにそのあと国務大臣に命ぜら
れた。「農業問題を解決してくれ」と言ってね。
私は初めから政治をやる気持ちがないから、若い時は農業を勉強して中国大陸にでも行けばい
いじゃないかという気持ちだったんです。私は農業経済をやったもので非常に細かい。高等学校
に入ったときは文科だったが、農学部に入ったら理科になり非常に細かいことをやらされた。そ
のときはいやいやながらやった。京都大学に行ったらもう本当に小さい小さい、くだらないこと
をやらされた。それが案外僕に役立ったと思うんだ。細かいことも知りながら、ちゃんと大きな
ことも掴まえておく。こういうことができたというのは非常に良かったし、大切だと思う。
勉強家・研究熱心
私は蒋経国学校と名づけていたが、六年間の国務大臣時代に、蒋経国は毎日会議があるたびに
「いったい自分が何を考えているか。この会議でどんな結論を出すのか」私に前もって結論を出
させて、後でこの結論とどこが違うかを勉強させた。「自分の専門の学問を基礎にした考え方と
192
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
政治はどこが違うのか」ということを勉強させられた。蒋経国は政治家としてはやはり一流でし
ょうなあ。たいした力を持った人でした。
六年間、こうしたことをしたあと、蒋経国学校の卒業生として台北市長をやった。台北市長に
なったときは都市経営理論を作った。これで変わった市政をやってみた。それに今までの基礎が
あ る か ら そ れ が 役 立 った 。 農 村 復 興 委 員 会 で 働 い て 細 か い こ と ば か り や っ た 。 数 学 も 得 意 だ し 、
統計学にも明るいし、サンプルの理論も詳しいし、農業の経営も詳しいし、自分で新しい農業簿
記も作った。こういう細かいことをやった。それが非常に役立った。そのほか中国はどうすべき
か。いわゆるアジア生産方式は何か。スターリンのアジアの赤化策略はどういうものか。毛沢東
はなぜ農民運動を起こしたのか。こういう勉強からもいろいろ得るものがあった。若いときによ
く勉強しました。それが非常に役立ったと思う。中国に対する興味というのが深かった。開発途
上国に対する考え方については私なりの考え方を持っている。だから日本のODAに対して非常
に批判的なのはそのためです。
それから国際的な宗教問題をどうするか。こういう進歩した国々の人民は個性を失ってしまっ
ている。個性を持つには変てこな宗教に入らなければならない。こういうところからどう抜け出
すか。そして宗教に非常に興味を持っている。五年間バイブルばかり研究したことがあった。ク
リスチャンになる前に一週間に五日、台北の教会巡りをした。
193
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
若き日の李登輝元総統
若いときから非常におかしいが、「なぜ人間は死ぬか。死んだらどうなるか」という問題から
始めて、「なぜ人間はこうも我が強いのか」こういう問題を考え、哲学もやった。それが非常に
役立ったんですね。今回、国際図書展覧会に呼ばれて「心に残るこの一冊」というテーマで話を
させられた。そのときの話の内容は、私が非常に影響を受けた三冊の本がある。三冊というのは
RESARTUS)』。『衣装哲学』が一番最初に影響を受けたので『衣
ゲーテの『ファウスト』と倉田百三の『出家とその弟子』、それにトーマス・カーライルの『衣
装哲学(SARTOR
装哲学』を語りましょうというものです。
その中では若いときから我に対する問題を考えつづけ、それで禅宗をやった。鈴木大拙の禅の
本などを読んだりして、行動派だから必ず実行した。だから修行をした。中学時代には朝早く起
きて便所掃除をやらせてもらって、自我の退治をする。自我をどう退治するか。こんな問題ばか
り や っていた 。これが私の非常に唯心論的な面です ね 。それが終 戦のとき、私は第十軍司令部、
名古屋にいた。そこで日本のあの状態を見て「これじゃだめだなあ」結局、環境と物資を大いに
高め、人民の生活が改善されない限りは社会はだめだ。ただ唯心的な考えだけではだめで、唯物
的 な も の も な く て は な ら な い 。 そ こ で 唯 物 論 者 に な った 。 十 年 間 、 徹 底 し た マ ル キ ス ト だ った 。
その後もいろいろなことがありました。アメリカにも留学し、いろいろなことをやっているう
194
第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
ちにだんだん解りかけてきた。数学を鍛えられて、統計もやって、新しい経済理論も教えられて、
それでやっぱり唯物論はだめだと悟った。人間というのは体もあるが魂もある。二元論だ。「人
間は結局、二元論的に生きていくことが大切だ」という考え方になったわけです。
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
今でも勉強
私に言わせれば、それは日本の教育のおかげだ。あの自由な空気の中で勉強したおかげだ。『麗
しき日本の歌』というのを最近もらって、昨日も家内と一緒に聞いていましたが、三高の寮歌や
与謝野鉄幹の歌「妻をめとらば才たけて、みめ麗しく情けあり。友を選ばば書を読みて、六分の
侠気四分の熱」昔歌った歌ですよ。ああいうのを思い出すと書生気分が出てきて、本当に若いと
きの情熱が戻ってくる。そして今でも暇あると本を読む。本は沢山あります。地下室に大きな図
書室があって、あれで自分が今考えていて、何か教えを受けたいときにそういう本を見ます。岩
波がだいたい一千冊あるので古典的なものはたいていある。自分が求めているのは何かと漁って、
これだと見つけてゆっくり読む。
最近は若い人たちを訓練しなければいけないのでマックスウェーバーの『職業としての政治』
を読んでいます。あれを読んで子供たちに「政治家になるには理想を持ちなさい。理想と情熱で
もって自分を励ましてやっていく。第二は人民に対する責任感と服務の精神を失ってはいけない。
第三は個人的に止揚しなければならないのは判断力だ。一人前の政治家になるには、これだけの
要素がどうしても備えなければならない」。このように本を見ながら若い子供たちに教えてあげ
ているんです。自分でも面白いと思っている。とくにこの九月十一日の同時テロのあと世界はど
う動くか。世界文明史は変化している。アメリカも物質だけではやっていけない。ほかの国々の
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
協力を得る必要がある。世界で一番安全なアメリカが安全でなくなったからね。国際的にも変わ
ってきた。アメリカもかなり精神的な面を強調して各国との協力を強くする必要があるのではな
いか。中共あたりの政策も変わってきた。中央アジアに軍隊を駐屯させているが、あのアフガン
の戦争は中共をびっくりさせた。ああいう形でアメリカと戦争したら、おそらく瞬く間に北京も
上海もめちゃくちゃになってしまう。それで少し変わりましたよ。江沢民は最近おとなしくなっ
た。そういう気がします。こういったようなことを見ながら、国際的な判断をし、国としてどう
あるべきかという態度を決めていく。私はこのように思っています。
日本への提言
私は日本に対して、先ほど言った三つのこと、リーダーシップを確立しろ。第二は国家目標を
はっきりせよ。第三はアイデンティティーを通して人民の団結を図れ。そしたら日本はまだアジ
アのリーダーとして立ち上がることが出来ますよ。と私は言うのです。いまの中国はそのような
基礎は出来ていない。リーダーシップがあるようだが、実をいうと無理に作られたリーダーシッ
プだ。人民がサポートしたリーダーではない。国家目標が安定しているかというと、他人の国を
飲み込むことが唯一の目標なんだ。昔、清朝時代に作った大きな領土、それが目標らしい。これ
では永久にアジアは平和になりません。ここらへんを見通して何かいい戦略でも作り上げて、中
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
国とは喧嘩するわけではないが、少しずつ修正してやっていくということをやらなければならな
い。今回一番いい例は瀋陽の総領事館の事件、日本にとっては大変なことだと思う。週刊新潮に
写真が載っていて、北朝鮮の五人が逃げ込むところから、警察官が入り込んで捕まえる写真が出
ている。これは世界に全部伝わっていっているんですよ。大変なことですよ。こういうのはもう
国として恥ずかしいじゃないですか。日本の主権をないがしろにした外交官というのは、政府と
して何とかしないといけない。これがきっかけとなって日本の外交政策が変わればいいと思いま
す。
話が終わったあとも李元総統はみんなと一緒に写真をとったり、書庫を見せてくれたり、終始
にこやかだった。そして総統府と書かれた木箱入りの、螺鈿の飾りのついた美しい壺のお土産ま
でくれたのだった。
台湾に生まれた幸福
「素晴らしい人だねぇ」「本当に立派な人ね」「会えてよかったねぇ」帰り車の中で、慧子と
志津は興奮して同じ言葉を何度も何度も繰り返していた。
サンフランシスコに帰り、早速、慧子は加州 タイ ムスの記事にすべく、録音を聞き書きした 。
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
自分は結構とんちんかんな質問をしているのだが、心のやさしい李登輝元総統はそれを相手の
身になって理解し、的確に答えてくれていた。そして話し全体に無駄がなく、全ての話の中に素
晴らしい教えを含んでいた。インタビューの内容を何度かよく読んでいて、慧子は「父が言って
いたこと、父が言いたかったことは、こういうことだったのか」と、今までもやもやとしていた
も の が 今 回 初 め て は っき り し た よ う に 思 った 。 父 は 李 登 輝元 総 統 ほ ど 教 育 を 受 け て も い な い し 、
勉強もしていないので、はっきりと表現できなかったが、自分自身それをもどかしく思いながら、
自分なりに人に話し、行動に表していたのだ。「パパありがとう。本当にありがとう。生きてい
るうちに理解できなくてごめんなさい」慧子は父の遺影に向かってつぶやいた。
慧子はインタビューを加州タイムスに連載したあと、李登輝元総統の話の全文を印刷し、問い
合わせてきた読者や知人、特に日本の友人たちに送った。大変な反響だった。友人の一人が電話
をかけてきて言った。「司馬遼太郎との対談で李登輝元総統は『台湾に生まれた悲哀』という言
葉を使ったが、あなたも含め台湾人たちはこんなに立派なリーダーを持って幸せじゃないか。日
本にもアメリカにも世界中探してもこんなに立派な政治家はいないよ。しかも『命のある限り国
と人民のために奮闘する』なんて、台湾人たちは『台湾に生まれた幸福』を感じなきゃ罰が当た
るよ」そうだ。本当にそのとおりだ。慧子は何度も何度もうなづいた。
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第三章 父の遺志、李登輝さんありがとう
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が き
と
あ
あとがき
戦後、アメリカの日本占領政策の第一はいわゆる日本人の精神構造を変えることにあった。そ
してそれは見事に成功した。日本人はアメリカから与えられた自由と人権を錦の御旗にして、糸
の切れた凧のようにエコノミックアニマルに走るのである。そして奇跡的な経済発展を成し遂げ
るが、その経済発展の中心的役割を担ったのは、ほかならぬ戦前の教育を受けた人たちであった。
だが、これらの人たちが引退していくうちに、政治、行政、経済界における倫理の地に落ちるス
ピードが増していく。戦後育った人々の手によってバブルは膨らみ、やがてそれがはじけ、その
後も失われた十年が続き、今も混沌とした時代が続くのである。
しかし日本人はいつまでもこのままでいるはずはない。かならずや気がついて本来の日本人に
戻らんとするであろう。この物語の中の主人公や李登輝台湾前総統はアメリカの日本政策の影響
中公新書
をまったく受けなかった。二人の言動は、日本人の心の奥底に潜む本来の日本人の魂をきっと揺
『台湾』
り動かすのではなかろうか。
主な参考文献
伊藤 潔
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が き
と
あ
『アジアの知略』
『台湾総統への道』
『李登輝』
『台湾』
光文社
光文社
南風舎
小学館文庫
岩波新書
戴 國輝
『敵は中国なり』
日本教文社
深田祐介
碧光
隆
李 登輝 中嶋嶺雄
曾
美齢
『台湾人と日本精神』
PHP研究所
角間
蔡 焜燦
『台湾の主張』
金
李 登輝
岩波新書
岩波書店
『ルソン戦―死の谷』
彰 『フィリピン戦逃避行』
阿利莫二
岡田 梅子 新美
著者略歴
堀 真澄
京都大学法学部卒業、日本テレビ放送網株式会社入社、主に報道部門にて取材活動、ロサンゼ
ルス特派員、
NTVIC副社長兼ロサンゼルス支社長、日本テレビ国際部、法務部ほかを経て、名古屋文理
大学教授(現)
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君たち日本人だろう、しっかりしろ
李登輝さんありがとう
堀
発
行
発行者
真澄
2011 年 3 月 21 日
横山三四郎
出版社 e ブックランド社
東京都杉並区久我山 4-3-2
http://www.e-bookland.net/
© Masumi Hori / Printed in Japan
ISBN 978-4-902887-38-9
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