トゥルーズでの送別会

トゥルーズ での 送別会
博多では箱崎八幡宮の放生会、熊本では藤崎八幡宮大祭(ボシタ祭)が来ないと涼しくならないと
言われる。フランスでは、夏時間から冬時間に変われば、急速に秋に近付くことになる。1日を境とし
た時間観念の移行においては、この瞬間1日は 24 時間ではなくなる。夏の夜9時近くまで明るいのに
まかせて野外活動に興じ回っていた日に、夜が突然に早く到来する。紅葉が散在する我が国とは異
なって、異国の森は一面を黄金色で刺繍したような輝きで迫り、それがどこまでも懐深く続くのであ
る。
振り返れば、江戸時代は太陽の明るさに合わせて生活していた。日の出と日の入りの間を昼間の
時間に振り分けた不定時法を用い、どの季節でも太陽エネルギーを最大に利用できるシステムを考
えていたのである。それは低エネルギー型消費社会を円滑に運用するために、理にかなったパラダイ
ムでもあった。
南仏は地中海を近くにもつ高温・乾燥の海洋性地域と、ピレネー山脈周辺の緑が豊富な山岳性
地域に分けられる。冬ともなれば、3〜4時間でピレネーのスキー場に行けるトゥルーズは、ラングドッグ
という広域の名称にも属する。またブランデーと言えば、コニャックではなくアルマニャックが出てくる
地方でもある。
トゥルーズ南部のラングイユ病院の裏に回ると、ヘリポートがある空き地に至る。高台にあるここから、
町の中心はやや離れていて、かすかに赤い建物が群集している。その中に、11 世紀末に建てられた
ロマネスク時代の最大の聖堂であるサン・セルナン聖堂や、ドミニコ修道士会が初めて造った修道院
であるジャコンバン修道院、サン・テティエンヌ教会の、尖塔や鐘塔が、町という限局性空間を空に
誇示するように天に向かっていた。
スペインの聖地サンティアーゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路聖堂でもあるサン・セルナン聖堂は、
11 世紀からの長い時間を白く色褪せた渋いレンガ色に閉じ込めていた。簡素でいながら四方を二組
ずつの吹き抜けの窓で重ねられ、全体に簡素でいてしかも洗練された塔は、空に向かっていたが、あ
る時、成長を止めるが如く、腰を据えて屋根に根を下ろし、その屋根は四方に伸びて、前方の一隅
が丸く膨れ上がった門構えをなし、比類なき三廊形式の構造を示していた。土地に根ざした文化で
あるロマネスク美術は、倦むことのない幾何学模様の縞にて、内部の天井に柔らかい穹窿を与えて
いた。
日曜日ともなると、この聖堂の前では蚤の市が開かれ、大勢の人が集まっていた。彫刻と見せか
けた型を流しただけの細工人形を、初めは1個 100 フランと言い値で吹っ掛けてきた。帰ろうとしたら、
「議論していけ」と言う。「1個 50 フランならどうだ」、「ダメだ」。40 フランまで下げてきたが、結局買わ
なかった。少し離れた場所で、フランス女性が同じ人形2個を 50 フランで買っていた。ここでは必ず
値切らなくてはいけない。いくらならよいかとまず聞いてき、ここから値下げ交渉が始まるのである。
ガロンヌ川は、ピレネー山脈からフランス南西部アキテーヌ盆地を流れ、ボルド−に至る、フランス4
大河川の1つである。そのガロンヌ川沿いの市営の無料駐車場に車を置いて、広広として水をたたえ
るガロンヌ川を眺めると、ゆったりと川面は移動し、そこに鈍い赤の半円形のドーム型の建物が映えて
いた。川向いには、このドーム型と長方形の建物を合わせたオテル・デューである。神の宿る所と言
われ、昔の市立病院であった歴史的建物であり、今は医療事務関係の施設として利用されていた。
トゥルーズを去る間近の秋日、オテル・デューで、フィカ教授主催の「膝関節の1日」という研究会のレ
セプションが開かれた。フランスの晩食は、始まるのも終わるのも遅い。ディナーが9時から始まって、
腹一杯になった頃、最後の止めのデザートが出てくるのである。この夜は、パイナップルを真っ二つに
切った中にこってりと甘いクリームを侍らせたものであった。最後のカフェが出てきたのが夜中の 12 時
であった。この研究会で起こった出来事が今でも忘れられない。
昼食会のことである。フランス人はネクタイや背広は着用したがらない。いつもはラフな服装でいる
インターンが、この日ばかりは、ネクタイを締めてスーツで身を包んでいたのである。ここにトゥルーズ名
物の鍋料理のカスレが運び込まれてきた。事もあろうに、ウエイトレスが誤ってこの鍋を1人のインター
ンの前のテーブルでひっくり返してしまった。白インゲン豆と肉の濃厚な煮込みが、無残にもスーツの
上に広がり、ウエイトレスは慌てて厨房へ行き急いで戻って来た。「済みません」と言って、汚れた服
を拭くと思いきや、なんと、「済みません皿を替えます」と言って、さっさと去って行ってしまった。こぼ
れた服を拭いてやるのが通常の考えであろう。しかし、当事者のインターンは、怒りもせず、眺めてい
る皆に対して、肩をすくめるのみであった。これを見ていた者も驚きと哀れとおかしみが交錯した表現
を示し、別に怒りをぶちまける者もいなかったのである。これが日本であればとんでもないことになって
いたろう。このウエイトレスと客との我が国と彼の国との対応の落差が、今でも心に深く理解しえないも
のとして残っている。
この精神的な余裕は何であろうか。インターン食堂での昼食時のことである。夏だけは室内にある
テーブルをプールサイドの庭に出して、よしずを張って、即席の野外食堂が設営される。ここでは、し
ばしばインターンが、食事をしている皆に向かって、ホースで突然、水をかけたり、ある時は、蓋を取っ
たヨーグルトを皆の頭上に投げ上げたりするのである。本邦であれば食事しているのにふざけたことす
るなと怒り出す者がいることは間違いない。ここフランスでは誰も怒らず、楽しく逃げ回っているのであ
る。この自由な雰囲気は何であろうか。これはもう行動的ユーモアである。
フランスでは個人主義的発想基盤が普通となっているが、我が国ではグループ化傾向を持つ。一
人でも離れた者がいると、何とか自分の領域、グループに引き込もう、包括しようとし、一緒に行動さ
せようとする。グループ化に慣れた外国人が彼の国に来れば、たちまち疎外感を味わうことになる。
部署別の忘年会、飲み会、打ち上げなどもないし、友人数人誘って飲みに行くこともない。個人、カ
ップル、家族単位でしか動かない。こういう状況では、我が国では、フランス人だと、かわいそうとか一
緒にのみに行こうとかになる。それがないフランス人は、冷たいという印象を与えがちになる。以前、
福岡に来ていたフランス人で日本政府給費留学生の医師クロード・ピカールが大阪に行くのに、日本
の教授が乗換や道筋を一つ一つ細かく書いてくれたことに対して、「迷った時は人に聞くことができる
のに」と、この非常な親切に対して立腹していた。日本では親切なのが彼等にはいらぬ御節介なので
ある。
彼の国では、送別される人、歓迎される人が、お金を払って送別会や歓迎会を開く。なぜなら、自
分のために相手の時間をいみじくも頂くという考えに基づく。忙しいのにわざわざ自分のために来て頂
くのである。小生も、ここラングイユ病院を去る時、感謝の気持ちを込めて、送別の儀を取り行った。
すでに送別会を開いたインターンから院内送別会の費用の相場を聞いていたので、前日の夜に、郊
外のスーパーマーケットに、食前酒などを買い出しに行く。パスティス、マチニ、ムスカ、ウイスキ−など
のアッペリティフを病院のカンファレンスルームに並べて、昼食前に、お別れ会を 30 分程するのであ
る。この会を催すことは事前に周知しておき、ここに集まってくれる人の数で、自分の人気、影響、人
柄を間接的に知ることになる。
フランス人は一見冷たそうに見えるが、一旦、知り合えば、とことん親切になる。一方、日本人は、
外国人に対して一見親切に見えるが、それ以上の付き合いを望まない。フランスでは、職場でのグ
ループ行動がないのに反して、個人的な関係で自宅での招待は我が国と比較にならぬ程多い。
私がフランスを去ろうとしていた年の秋は、日本のそれよりも更に長かった。帰国も間近になると、
親しくして戴いた方の家に招待される。トゥルーズを去ろうとする1週間は、個人的にフランス人の家
庭に招待されっぱなしで、この時、忙しく気が張り詰めていれば、風邪は向こうから退散するということ
を悟った。というのも、フランス人家庭に招待されるということは容易なことではないからである。通常、
日本に興味のある他の1 〜3組の友人や家族も招待されている。夜の9時からの食前酒と食後酒に間
に膨大な量の食事が出て、「日本人は小鳥のように食べる」と小食をからかわれるため無理して胃に
詰込み、議論して、そして夜の 12 時前に帰ると失礼にあたるので、夜中の1時当りなった頃を見計ら
って、「明日は早くから手術があるので」と下手な嘘をついて、居合わせた誰よりも早く退散して、運転
して帰るのである。タクシーは地方では夜には働いていない。これが、忙しい帰国寸前に連日連夜行
われ、インターン宿舎に帰宅後、夜中に荷造りをするという始末であった。
郊外でもかなりの田舎に招待されることがある。人家がほとんどなく周りに明かりがないため道筋が
わからない。夜、時速 120Km で飛ばす割には、中央分離帯もない普通の道なので、対向車の手前、
ヘッドライトを前に向けることはできない。そのため、前に走る車を見たら必死でその車に追い着き、そ
の車のテールランプを目安に走り続けなければならない。しかし、ランプをナビゲーションとして走って
も、道はしばしば凹凸がついていて、目印にしていたランプがフーと消えることがある。
仏国では子供抜きのホームパーティが頻繁に催される。我が国では子供が王様扱いされているに
対して、仏国では半人前扱いである。性悪説の仏国では、子供の躾に厳しい。子供抜き、奥様主導
である。乗り物では立たせて置く。自宅でのパ −ティでさえ、子供は給仕係で、食前酒用のつまみであ
るオリーブの実を「どうぞ」と言いながら、歩き回るのは子供だし、テーブルの皿を替えていくのも子供
の役目である。「この子まだ 16 歳なのに近頃、皆と同じくテーブルに着きたいと生意気なことを言うの
よ。」「いいじゃないの、皆も知っている間柄だし、ここでは1人前と認めてもよいのではないかしら。」と
いう会話が聞かれるのである。
10 月3日は、ペル−の留学生のカーロスとブラジルの留学生のロベルトとともに、フランスで知り合っ
た、郊外のバルマーという町に住む家族から招待を受けた。医学関連ではなく、たまたま町で知り合
っただけなのに、これ程までに親切にされることが不思議でたまらない。わざわざ小生のために一席
設けてくれたのである。ぞくぞく友人が集まり、14〜15 人程集まったろうか。北アフリカのクスクス料理
後、ラングドッグの本を皆からプレゼントされ、皆がこの本に連名でサインしてくれた。インターン宿舎に
戻ったのが夜中の2時を回っていたが、嬉しくてすぐには眠れなかった。
10 月5日は、フィカ教授の次男でインターンでもあるジャン・ジャックから招待され、妊娠7ケ月の
奥さんが、手料理でもてなしてくれた。彼は、広大なフィカ教授の屋敷の一角に別棟を構えていたた
め、その夜は、フィカ教授夫妻がアフリカの教授 を連れてやって来て、座はさらに盛り上がっていっ
た。
10 月6日は、スブルリイ夫妻に招待された。実は9月にイギリスからの整形外科医2人が見学に来
て、フィカ教授の家に彼等とともに招待された席で、教授の長女のマリー・エレーヌを紹介されたので
あった。彼女は医者であったが、化学者のスブルリイ氏と結婚し、子供の教育のために今では医者を
やめている。この席で、彼女から来週自分の家に招待すると言われ、実際に招待されたのであるが、
帰国前にもう一度招待したいと、今夜は2回目の招待で歓迎された。フランス北部のリールから移っ
て来て階下に住む家族、それにフィカ教授の次女で医学生でもあり非常に美しいカテリーヌも共に招
待されていた。誰と誰をどういう配置した方が話が面白くなるなどと夫人が判断して、テーブルの席を
指示していく。前回の招待でシュークル −トが好きだと言ったのを覚えていて作ってくれていた。踊り浴
衣、袴、カセットテープ、扇をセットにして持参して日舞を披露し、人形のようにかわいい子供等に折り
紙を折った。夫人は、日本関係の書物を集め、トゥルーズに来た鬼太鼓座を見て感動する大の日本
贔屓で、日本のことを中心に話題を展開するという心配りがありがたかった。前回招待の折は、パリか
ら買って帰ったというグランパレでのシャルダン展のポスターを頂いた。これは詩情豊かな落ち着いた
画面で日常生活や身辺の事情を描いた絵であった。今回は、版画家の友人が刷った版画絵2枚を
見せて、好きな方を上げたいと言われた。ロマネスの柱頭彫刻で有名なトゥルーズのオーギュスタン
博物館を描いた版画とシャルダンのポスターは今でも我家の内部を飾っている。
10 月7日は、フィカ教授宅での招待である。スペインから見学に来ている医師を伴って、郊外のポ
ルテ・シュル・ガロンヌへ車を疾走させる。門から車でしばらく屋敷内を走って母家に到着する。整形
災害外科部署のチーフ医師4人も招待されていて、それぞれに奥方を伴って来ていた。それらの奥
様方が手伝いもせずに、フィカ夫人より、悠然と構えているのもフランスらしい。職場での上下関係は
なく、もてなす主人側ともてなされる客側との関係である。教授の知性とアイデアの良さ、夫人の落ち
着いた話ぶりと話題を引き出す能力に、フランス上流層の社交技術が伺えた。印象派の大美術図
鑑をプレゼントされ、最後に、失礼だけどと断って挨拶の頬キスをしてくれた夫人は、後年、教授ととも
に日本に招待され、空港で別れる時に涙していた。
10 月8日は、放射線医フィリップの家にいた。彼の家庭に招かれたのは3回目である。フィカ教授
とともに仕事していた彼には、陽性造影剤のみによる関節造影法を教えられ、自宅でも多くのレントゲ
ン写真を見せてもらった。食後酒のコワントローを飲んだのも彼の家が初めてであった。彼の親密な好
意には頭が下がる思いであった。
10 月9日は、ラングイユ病院で送別会を自ら開いて、この病院での研修最後の日でもあり、またト
ゥルーズを去る前日でもあった。車の売買、イギリスに立ち寄るための割安航空券の手配、荷造りな
どで慌ただしく日中が過ぎ、夜はインターンのラフィット夫妻宅に招待された。彼は東京に6ケ月間留
学したことがあり、頻回に自宅に招待してくれた。彼の異常とも思える親切さは、異国にあって身にし
みて嬉しかった。他にインターン夫妻と1組の家族が招待されていた。この日は、彼が東京で過ごした
日のスライドなどを見せて、ここでもサイン入りの本を2冊頂いたのである。
広い高い空に黄色の小花を付けた小枝が風にそよいでいた。山吹色が背景の青の中で眩しいが、
黄丹から弁柄色までの中間色の病院の建物や、そこの丘から眺め遣るトゥルーズの町のくすんだカッ
パーレッドも、今日は新鮮な色として甦り、しっかりと感情を伴った特別な風景として心の電磁場に焼
き付ける。進む者は別れねばならぬという、阿部次郎の「三太郎の日記」の別れの時が甦る。Hを発
音しないフランス人の特徴として、「お 〜い、いあら」と手を上げて、いつもやさしく迎えてくれた、フィカ教
授の笑顔が見られないと思った瞬間、ドスンと身体が重くなった。その時、この地での貴重な生活が
過去のものになり、それにあらがうが如く、帰国を願った精神状態が逆転し、留まりたいという念が表
出してきた。日本と断ち切った自らの存在を、暗闇で見出そうとする心に、渡仏して初めて出合った
のであった。
九州労災病院勤労者骨・関節疾患治療研究センター 井原秀俊