文字禍

文字禍
中島敦
3
アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、 闇 の中
か。
文字の 霊 などというものが、一体、あるものか、どう
た。ただ、文字の霊︵というものが在るとして︶とはい
物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなっ
占 や羊
星
肝卜 で空 しく探
索 した後、これはどうしても書
い事実である。 舌の無い死霊に、 しゃべれる訳がない。
れい
を跳
梁 するリル、その 雌 のリリツ、疫
病 をふり 撒 くナム
かなる性質をもつものか、それが 皆目 判らない。アシュ
あくりょう
ゆうかいしゃ
め
エジプト
あし
くさびがた
パピルス
ぐうぜんはっくつ
きょがんしゅくはつ
たんさく
タル、死者の霊エティンム、 誘拐者 ラバス等 、数知れぬ
ル ・ バニ ・ アパル大王は 巨眼縮髪 の老博士ナブ・アヘ・
メソポタミヤ
テーブル
かわら
こうひつ
むな
霊 共がアッシリヤの空に 悪
充 ち満ちている。しかし、文
エリバを 召 して、この未知の精霊についての研究を命じ
だれ
ねんど
さら
ほしうらない ようかんぼく
字の精霊については、まだ 誰 も聞いたことがない。
たもうた。
ころ
あや
きゅうてい みょう
やみ
その 頃 ︱
︱
︱というのは、アシュル・バニ・アパル大王
その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題
ま
の治世第二十年目の頃だが︱︱︱ニネヴェの 宮廷 に 妙 な噂 の図書館 ︵それは、 その後二百年にして地下に 埋没 し、
いんぼう
しず
えきびょう
があった。毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと 怪 しい
に二千三百年にして 更 偶然 発
掘 される運命をもつもので
むほん
ふてい
めす
話し声がするという。王兄シャマシュ・シュム・ウキン
あるが︶に通って万巻の書に目をさらしつつ 研鑽 に 耽 っ
ちょうりょう
の謀
叛 がバビロンの落城でようやく 鎮 まったばかりのこ
た。両
河地方 では埃
及 と違って 紙草 を産しない。人々は、
しょけい
つめ
ふけ
るいるい
けんさん
ほ
し し
みいだ
せとものや
かいもく
ととて、何かまた、 不逞 の徒の 陰謀 ではないかと探って
土 の板に 粘
硬筆 をもって複雑な 楔形 の 符号 を彫 りつけて
など
みたが、それらしい様子もない。どうしても何かの精霊
おった。書物は 瓦 であり、図書館は 瀬戸物屋 の倉庫に似
ふしゅう
み
どもの話し声に 違 いない。最近に王の前で 処刑 されたバ
ていた。老博士の卓
子 ︵その脚 には、本物の獅
子 の足が、
わか
うわさ
ビロンからの 俘囚 共の死霊の声だろうという者もあった
さえそのままに使われている︶の上には、毎日、累
爪 々 た
ぬ
かれ
まいぼつ
が、それが本当でないことは誰にも 判 る。千に余るバビ
る瓦の山がうずたかく積まれた。それら重量ある古知識
つきやま
ふごう
ロンの俘囚はことごとく舌を 抜 いて殺され、その舌を集
の中から、 彼 は、文字の霊についての説を 見出 そうとし
ちが
めたところ、小さな 築山 が出来たのは、誰知らぬ者のな
4
腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べる
だ
たが、 無駄 であった。文字はボルシッパなるナブウの神
のでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを
む
の司 りたもう所とより 外 には何事も記されていないので
有つことが出来ようか。
はな
ほか
ある。文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねば
この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊
つかさど
ならぬ。博士は書物を 離 れ、ただ一つの文字を前に、終
の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、
ぎょうし
日それと 睨 めっこをして過した。卜
者 は羊の 肝臓 を凝
視 地上の事物の数ほど多い、文字の精は 野鼠 のように仔 を
なら
かんぞう
することによってすべての事象を直観する。彼もこれに
産んで 殖 える。
うち
ぼくしゃ
って凝視と静観とによって真実を見出そうとしたので
倣 ナブ ・ アヘ ・ エリバはニネヴェの街中を歩き 廻 って、
み つ
にら
ある。その中 に、おかしな事が起った。一つの文字を長
最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々
ほこり
わし
こ
く見
詰 めている中に、いつしかその文字が解体して、意
ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなと
尋 こうさく
はたらき
あお
から
うが
のねずみ
味の無い一つ一つの線の 交錯 としか見えなくなって来る。
ころはないかと。これによって文字の霊の人間に対する
ふ
単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味と
用 を明らかにしようというのである。さて、こうして、
作
も
ろうじゅ
くるみ
まわ
を有 つことが出来るのか、どうしても 解 らなくなって来
おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚え
おどろ
たず
る。 老儒 ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思
てから急に 蝨 を捕 るのが下
手 になった者、眼に 埃 が余計
わか
議な事実を発見して、 驚 いた。今まで七十年の間当然と
はいるようになった者、今まで良く見えた空の 鷲 の姿が
め
うじむし
あっとうてき
なお
ごと
へ た
思って看過していたことが、決して当然でも必然でもな
見えなくなった者、空の色が以前ほど 碧 くなくなったと
ちゅうちょ
と
い。彼は 眼 から鱗 の落ちた思がした。単なるバラバラの線
いう者などが、圧
倒的 に多い。
﹁文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ 喰 いた
たくみ
しらみ
に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?
イアラスコト、 猶 、蛆
虫 ガ胡
桃 ノ固キ 殻 ヲ穿 チテ、中ノ
こけら
ここまで思い 到 った時、老博士は 躊躇 なく、文字の霊の
実ヲ巧 ニ喰イツクスガ如 シ﹂と、ナブ・アヘ・エリバは、
たましい
く
存在を認めた。魂 によって統べられない手・脚・頭・爪・
いう者、 し ゃ っ く りが度々出るようになった者、 下痢 す
出始めたという者、 く し ゃ みが出るようになって困ると
新しい粘土の備忘録に 誌 した。文字を覚えて以来、 咳 が
獅子の影を 狙 い、女という字を覚えた男は、本物の女の
で、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それ
なものではないのか。
せき
るようになった者なども、かなりの数に上る。
﹁文字ノ精
代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無
しる
ハ人間ノ鼻・ 咽喉 ・腹等ヲモ犯スモノノ如シ﹂と、老博
かった 昔 、ピル・ナピシュチムの 洪水 以前には、歓 びも
の ど
やす
り
士はまた誌した。文字を覚えてから、にわかに頭髪の 薄 慧 もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文
智
あご
げ
くなった者もいる。脚の弱くなった者、手足の 顫 えるよ
字の 薄被 をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は
ま ひ
りょうし
ヴェイル
いたずら
ねら
うになった者、 顎 がはずれ易 くなった者もいる。しかし、
知らない。近頃人々は 物憶 えが悪くなった。これも文字
おくびょう
よろこ
ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。
の精の 悪戯 である。人々は、もはや、書きとめておかな
にぶ
きょう
こうずい
﹁文字ノ害タル、 人間ノ頭脳ヲ犯シ、 精神ヲ 痲痺 セシム
ければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るよう
うで
むかし
ルニ至ッテ、スナワチ極マル。﹂文字を覚える以前に比べ
になって、人間の 皮膚 が弱く 醜 くなった。乗物が発明さ
うす
て、職人は腕 が鈍 り、戦士は臆
病 になり、猟
師 は獅子を
れて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が 普及 して、人々
だ
ち え
射損うことが多くなった。これは統計の明らかに示す所
の頭は、もはや、働かなくなったのである。
ふる
である。文字に親しむようになってから、女を 抱 いても
ナブ・アヘ・エリバは、ある書物 狂 の老人を知ってい
うった
こ
ものおぼ
一向楽しゅうなくなったという訴 えもあった。もっとも、
る。その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に
、
、
、
、
さい
パピルス
みにく
こう言出したのは、七十 歳 を越 した老人であるから、こ
博学である。彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでな
ひ ふ
れは文字のせいではないかも知れぬ。ナブ・アヘ・エリ
く、 紙草 や羊皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読
な
ふきゅう
バはこう考えた。埃及人は、ある物の 影 を、その物の魂
む。およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬこと
、
、
、
、
、
み
かげ
の一部と 見做 しているようだが、文字は、その影のよう
5
6
ぎ せ い しゃ
ヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の 犠牲者 の第
みじ
はない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の
一に数えた。ただ、こうした外観の 惨 めさにもかかわら
むすこ
きょう
何月何日の天候まで知っている。しかし、 今日 の天気は
ず、この老人は、実に︱︱︱全く 羨 ましいほど︱︱︱いつも
なぐさ
りんじん
うらや
晴か曇 か気が付かない。彼は、少女サビツがギルガメシュ
幸福そうに見える。これが 不審 といえば、不審だったが、
くもり
を慰 めた言葉をも諳 んじている。しかし、息
子 をなくし
ナブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の 媚薬 のごとき
きさき
じ い
ふしん
た隣
人 を何と言って慰めてよいか、知らない。彼は、ア
猾 な魔
奸
力 のせいと見做した。
そら
ダッド・ニラリ王の 后 、サンムラマットがどんな 衣装 を
たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病に 罹 られた。
かか
びやく
好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服
医 のアラッド・ナナは、この病軽からずと見て、大王
侍
あいぶ
ふん
まりょく
を着ているか、まるで気が付いていない。何と彼は文字
のご衣裳を借り、自らこれをまとうて、アッシリヤ王に
かんかつ
読み、諳んじ、 愛撫 する
いしょう
と書物とを愛したであろう!
した。これによって、死神エレシュキガルの眼を 扮 欺 き、
せきがく
あざむ
だけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギ
病を大王から 己 の身に転じようというのである。この古
と
ようしゃ
おのれ
ルガメシュ伝説の最古版の粘土板を 噛砕 き、水に溶 かし
来の医家の常法に対して、青年の一部には、不信の眼を
かみくだ
て飲んでしまったことがある。文字の精は彼の眼を 容赦 向ける者がある。これは明らかに不合理だ、エレシュキ
あら
なく喰い 荒 し、彼は、ひどい近眼である。余り眼を近づ
ガル神ともあろうものが、あんな子供 瞞 しの計に欺かれ
す
へそ
つじつま
かざ
だま
けて書物ばかり読んでいるので、 彼の鷲形の鼻の先は、
るはずがあるか、と、彼 等 は言う。 碩学 ナブ・アヘ・エリ
むしば
おそ
あか
ら
粘土板と擦 れ合って固い胼
胝 が出来ている。文字の精は、
バはこれを聞いて 厭 な顔をした。青年等のごとく、何事
せむし
こ
また、彼の脊
骨 をも蝕 み、彼は、臍 に顎のくっつきそう
にも 辻褄 を合せたがることの中には、何かしらおかしな
た
な傴
僂 である。しかし、彼は、 恐 らく自分が傴僂である
所がある。全身 垢 まみれの男が、一ヶ所だけ、例えば足
いや
ことを知らないであろう。傴僂という字なら、彼は、五
の爪先だけ、無闇に美しく 飾 っているような、そういう
せぼね
つの異った国の字で書くことが出来るのだが。ナブ・ア
7
ある日若い歴史家︵あるいは宮廷の記録係︶のイシュ
もなく、文字の精霊である。
の病と考えた。そして、その病をはやらせたものは、疑
位をわきまえぬのじゃ。老博士は 浅薄 な合理主義を一種
おかしな所が。彼等は、神秘の雲の中における人間の地
この問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口
獅子 狩 と、獅子狩の 浮彫 とを混同しているような所が
文字をいうのであろうか?
在った 事柄 をいうのであろうか?
い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、
賢
明 な老博士が賢明な 沈黙 を守っているのを見て、若
ちんもく
デイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。歴史とは何ぞ
で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在っ
けんめい
や? と。老博士が 呆 れた顔をしているのを見て、若い
た事柄で、かつ粘土板に 誌 されたものである。この二つ
さいご
せんぱく
歴史家は説明を加えた。 先頃のバビロン王シャマシュ・
は同じことではないか。
ひとつき
がり
す
しる
た ね
ざくろ
せいとうこう
きたな
冗談 ではない、書かれなかった事は、無
それとも、粘土板の
シュム・ウキンの 最期 について色々な説がある。自ら火に
書
洩 らしは? と歴史家が聞く。
ことがら
投じたことだけは確かだが、最後の 一月 ほどの間、絶望
書洩らし?
けっさい
うきぼり
の余り、言語に絶した 淫蕩 の生活を送ったというものも
かった事じゃ。芽の出ぬ 種子 は、結局初めから無かった
あき
あれば、毎日ひたすら 潔斎 してシャマシュ神に祈 り続け
のじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
まき
は
めしつか
ボルシッパなる明智の神ナブウの 召使 いたもう文字の
かきも
たというものもある。第一の 妃 ただ一人と共に火に入っ
若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦
ひしょう
じょうだん
たという説もあれば、数百の 婢妾 を薪 の火に投じてから
を見た。それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュ
いんとう
自分も火に入ったという説もある。何しろ文字通り 煙 に
ヌ誌す所のサルゴン王ハルディア 征討行 の一枚である。
いの
なったこととて、どれが正しいのか一向見当がつかない。
吐 き棄 てた柘
榴 の種子がその表面に汚 話しながら博士の ひ
近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを
らしくくっついている。
けむり
記録するよう命じたもうであろう。これは ほ んの一例だ
が、歴史とはこれでいいのであろうか。
、
、
8
の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に 触 これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、 不滅 らぬとみえるな。文字の精共が、一度ある事柄を捉 えて、
精霊共の 恐 しい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知
うとしていることを悲しんだ。文字に親しみ過ぎてかえっ
おしばらく、文字の霊の害毒があの 有為 な青年をも害 お
若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。老博士はな
たためであろう。
つまりは、君が文字に親しみ過ぎて、その霊の 毒気 に中 っ
あた
れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わね
て文字に疑を抱くことは、決して 矛盾 ではない。先日博
どっき
ばならぬ。太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられ
士は生来の 健啖 に任せて羊の炙
肉 をほとんど一頭分も平
おそろ
それは、彼等
とら
ていない星は、なにゆえに存在せぬか?
らげたが、その後当分、生きた羊の顔を見るのも厭になっ
ふ
ふめつ
がアヌ・エンリルの書に文字として 載 せられなかったか
たことがある。
みな
むじゅん
あぶりにく
ちぢ
くら
そこな
らじゃ。大マルズック星︵木星︶が 天 界 の 牧 羊 者︵オリ
青年歴史家が帰ってからしばらくして、ふと、ナブ・
こうむ
いりょく
ゆうい
オン︶の境を犯せば神々の 怒 が降 るのも、月輪の上部に
アヘ・エリバは、薄くなった 縮 れっ毛の頭を抑 えて考え
もたら
けんたん
が現れればフモオル人が禍を 蝕 蒙 るのも、 皆 、古書に文
んだ。今日は、どうやら、わしは、あの青年に向って、
込 、
、
、
、
、
、
の
字として誌されてあればこそじゃ。古代スメリヤ人が馬
文字の霊の 威力 を讃
美 しはせなんだか? いまいましい
くだ
という 獣 を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無
ことだ、と彼は舌打をした。わしまでが文字の霊にたぶ
いかり
かったからじゃ。この文字の精霊の力ほど恐ろしいもの
らかされておるわ。
しもべ
おさ
は無い。君や わ し らが、文字を使って書きものをしとる
実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老
しょく
などと思ったら大間違い。 わ し らこそ彼等文字の精霊に
博士の上に齎していたのである。それは彼が文字の霊の
こ
こき使われる 下僕 じゃ。しかし、また、彼等精霊の 齎 す
暮 存在を確かめるために、一つの字を幾日も じ っと睨み ずいぶん
さんび
害も 随分 ひどい。 わ しは今それについて研究中だが、君
した時以来のことである。その時、今まで一定の意味と
、
、
、
、
、
けもの
が今、歴史を誌した文字に疑を感じるようになったのも、
、
、
、
、
、
9
音とを 有 っていたはずの字が、 忽然 と分解して、単なる
リヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕ま
治的意見を加えたことはもちろんである。武の国アッシ
こつぜん
直線どもの集りになってしまったことは前に言った通り
れてしまった。しかも、これに気付いている者はほとん
も
だが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外の
ど無い。今にして文字への 盲目的崇拝 を改めずんば、後
さんぎょうしゃ
かんけつ
うんぬん
ふくしゅう
ふ
がくぜん
もうもくてきすうはい
あらゆるものについても起るようになった。彼が一 軒 の
に 臍 を噬 むとも及 ばぬであろう云
々 。
けん
家を じ っと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、
文字の霊が、この讒
謗者 をただで置く訳が無い。ナブ・
ねつれつ
およ
木材と石と煉
瓦 と漆
喰 との意味もない集合に化けてしま
アヘ ・ エリバの報告は、 いたく大王のご 機嫌 を損じた。
か
う。 これがどうして人間の住む所でなければならぬか、
ナブウ神の 熱烈 な 讃仰者 で当時第一流の文化人たる大王
きかい
きんしん
ほぞ
判らなくなる。人間の 身体 を見ても、その通り。みんな
にしてみれば、これは当然のことである。老博士は 即日 かっこう
ざんぼうしゃ
意味の無い 奇怪 な形をした部分部分に分
析 されてしまう。
慎 を命ぜられた。大王の幼時からの 謹
師傅 たるナブ・ア
しっくい
どうして、こんな 恰好 をしたものが、人間として通って
ヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの 皮剥 に
れんが
いるのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものば
処せられたであろう。思わぬご不興に 愕然 とした博士は、
だいじしん
きげん
かりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同
直ちに、これが奸
譎 な文字の霊の 復讐 であることを 悟 っ
からだ
じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってし
た。
こんてい
おそ
のろい
かべ
くず
さと
かわはぎ
そくじつ
まった。もはや、人間生活のすべての根
柢 が疑わしいもの
しかし、まだこれだけではなかった。数日後ニネヴェ・
ぶんせき
に見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになっ
アルベラの地方を 襲 った大
地震 の時、博士は、たまたま
しょか
すさ
し
て来た。文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいに
自家の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、 壁 が崩 ただ
たお
その霊のために生命をとられてしまうぞと思った。彼は
れ 書架 が倒 れた。夥しい書籍が︱︱︱数百枚の重い粘土板
けん
まと
くなって、早々に研究報告を 怖 纏 め上げ、これをアシュ
が、文字共の 凄 まじい呪 の声と共にこの讒謗者の上に落
こわ
ル・バニ・アパル大王に 献 じた。但 し、中に、若干の政
、
、
10
むざん
︵昭和十七年二月︶
ちかかり、彼は 無慙 にも圧死した。
底本:
「ちくま日本文学全集 中島敦」」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成 4)年 7 月 20 日第 1 刷発行
底本の親本:
「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
1987(昭和 62)年 9 月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号 5-86)を、大振りにつくっています。
入力:野口英司
校正:野口英司、富田倫生
1997 年 11 月 17 日公開
2004 年 2 月 2 日修正
青空文庫作成ファイル:
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