文 字 禍 れい やみ 文字の霊などというものが︑一体︑あるものか︑どう か︒ めす えき び ょ う ま アッシリヤ人は無数の精霊を知っている︒夜︑闇の中 ちょう りょう など を 跳 梁 するリル︑その雌のリリツ︑疫 病 をふり撒く ゆう かいしゃ み ナムタル︑死者の霊エティンム︑誘拐者ラバス等︑数知 あく り ょ う だれ れぬ悪 霊 共がアッシリヤの空に充ち満ちている︒しか ︱ ころ その頃 というのは︑アシュル・バニ・アパル大王 し︑文字の精霊については︑まだ誰も聞いたことがない︒ 5 ︱ きゅう てい みょう あや ニネヴェの 宮 廷に 妙 な いんぼう しず しょけい るバビロンの俘囚はことごとく舌を抜いて殺され︑その ぬ あ っ た が ︑ そ れ が本 当 で な い こ と は 誰 に も 判 る ︒ 千 に 余 わか たバビロンからの俘 囚 共の死霊の声だろうという者も ふ しゅう 精 霊 ど も の 話 し 声 に 違 い な い ︒ 最 近 に 王 の 前 で 処 刑 され ちが ってみたが︑それらしい様子もない︒どうしても何かの のこととて︑何かまた︑不逞の徒の陰謀ではないかと探 ふ てい キンの謀叛がバビロンの落城でようやく鎮まったばかり む ほん しい話し声がするという︒王兄シャマシュ・シュム・ウ 噂 があった︒毎夜︑図書館の闇の中で︑ひそひそと怪 うわ さ の治世第二十年目の頃だが 6 つきやま 舌を集めたところ︑小さな築山 が出来たのは︑誰知らぬ よう かん ぼく むな たんさく 者のない事実である︒舌の無い死霊に︑しゃべれる訳が ほし う ら な い な い ︒ 星 占 や 羊 肝 卜 で 空 し く 探 索 し た 後︑ こ れ は ど う しても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外は なくなった︒ただ︑文字の霊︵というものが在るとして︶ かいもく とはいかなる性質をもつものか︑それが皆目判らない︒ きょ がん しゅく はつ アシュル・バニ・アパル大王は巨眼 縮 髪の老博士ナ め ブ・アヘ・エリバを召して︑この未知の精霊についての そ の 日 以 来 ︑ ナ ブ ・ ア ヘ・ エ リ バ 博 士 は ︑ 日 ご と問 題 研究を命じたもうた︒ 7 エジプト パピル ス く さ び がた あし ふ ごう せ ほ と もの や し まいぼつ し ふけ み いだ さら ねん ど る いる い 識の中から︑彼は︑文字の霊についての説を見出そうと かれ たる瓦の山がうずたかく積まれた︒それら重量ある古知 爪さえそのままに使われている︶の上には︑毎日︑累々 つめ ていた︒老博士の卓子︵その脚には︑本物の獅子の足が︑ テーブル った︒書物は 瓦 であり︑図書館は瀬戸物屋の倉庫に似 かわ ら の板に硬筆をもって複雑な 楔 形の符号を彫りつけてお こう ひつ 両河地方では埃及と違って紙草を産しない︒人々は︑粘土 メソポタミヤ るが︶に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽に耽った︒ けんさん に 二 千 三 百 年 に し て 偶 然 発 掘 さ れ る運 命 を も つ も の で あ ぐう ぜん は っ く つ の図書館︵それは︑その後二百年にして地下に埋没し︑更 8 む だ ほか したが︑無駄であった︒文字はボルシッパなるナブウの つかさど 神の 司 りたもう所とより外には何事も記されていない のである︒文字に霊ありや無しやを︑彼は自力で解決せ はな ぼく しゃ かん ぞう ねばならぬ︒博士は書物を離れ︑ただ一つの文字を前に︑ にら 終日それと睨めっこをして過した︒卜者は羊の肝臓を ぎょう し 凝 視することによってすべての事象を直観する︒彼も なら うち これに倣って凝視と静観とによって真実を見出そうとし つ たのである︒その中に︑おかしな事が起った︒一つの文 み 字を長く見詰めている中に︑いつしかその文字が解体し こうさく て︑意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなっ 9 わか て来 る︒単な る線の集りが︑なぜ︑そういう音とそうい も こけ ら いた ちゅうちょ ここまで思い到った時︑老博士は 躊 躇 たましい ない手・脚・頭・爪・腹等が︑人間ではないように︑一 なく︑文字の霊の存在を認めた︒ 魂 によって統べられ ものは︑何か? るバラバラの線に︑一定の音と一定の意味とを有たせる 必然でもない︒彼は眼から 鱗 の落ちた思がした︒単な め の間当然と思って看過していたことが︑決して当然でも この不思議な事実を発見して︑ 驚 いた︒今まで七十年 おどろ な っ て 来 る ︒ 老 儒 ナ ブ ・ ア ヘ ・ エ リバ は ︑ 生 れ て 初め て ろう じゅ う意味とを有つことが出来るのか︑どうしても解らなく 10 つの霊がこれを統べるのでなくて︑どうして単なる線の 集 合が ︑ 音 と意 味 とを 有 つ こ とが 出来 よう か ︒ この発見を手始めに︑今まで知られなかった文字の霊 こ の性質が次第に少しずつ判って来た︒文字の精霊の数は︑ の ねず み 地上の事物の数ほど多い︑文字の精は野 鼠 のように仔 ふ を産んで殖える︒ まわ ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻って︑ 最近に文字を覚えた人々をつかまえては︑根気よく一々 たず 尋ねた︒文字を知る以前に比べて︑何か変ったようなと ころはないかと︒これによって文字の霊の人間に対する 11 はたらき と なお へ た うじむし ごと くるみ から ほこり うが 、し 、ゃ 、み 、が出るようになっ 来︑咳が出始めたという者︑く せき リバは︑新しい粘土の備忘録に誌した︒文字を覚えて以 しる 中ノ実ヲ 巧 ニ喰イツクスガ如シ﹂と︑ナブ・アヘ・エ たくみ ヲ喰イアラスコト︑猶︑蛆虫ガ胡桃ノ固キ殻ヲ穿チテ︑ く と い う 者 な ど が ︑ 圧 倒 的 に 多 い ︒﹁ 文 字 ノ 精 ガ 人 間 ノ 眼 あっ とう てき が見えなくなった者︑空の色が以前ほど碧くなくなった あお 計 は い る よ う に な っ た 者 ︑ 今 ま で 良 く 見 え た空 の 鷲 の 姿 わし てから急に 蝨 を捕るのが下手になった者︑眼に 埃 が余 しらみ おかしな統計が出来上った︒それによれば︑文字を覚え 作用を明らかにしようというのである︒さて︑こうして︑ 12 り 、ゃ 、っ 、く 、り 、が度々出るようになった者︑ て困るという者︑し げ ど 下痢するようになった者なども︑かなりの数に上る︒ ﹁文 の 字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉・腹等ヲモ犯スモノノ如シ﹂と︑ ふる 老博士はまた誌した︒文字を覚えてから︑にわかに頭髪 うす やす の薄くなった者もいる︒脚の弱くなった者︑手足の顫え あご るようになった者︑顎がはずれ易くなった者もいる︒し ひ か し ︑ ナ ブ ・ ア ヘ ・ エ リ バ は 最 後に こ う 書 か ね ば な ら な ま かった︒ ﹁文字ノ害タル︑人間ノ頭脳ヲ犯シ︑精神ヲ痲痺 にぶ おくびょう りょう し セ シ ム ル ニ 至 ッ テ ︑ ス ナ ワ チ 極 マ ル ︒﹂ 文 字 を 覚 え る 以 うで 前に比べて︑職人は腕が鈍り︑戦士は臆 病 になり︑猟 師 13 だ は獅子を射損うことが多くなった︒これは統計の明らか な こ で︑獅子という字を覚えた猟師は︑本物の獅子の代りに 獅 子 と い う 字 は ︑ 本 物 の 獅 子 の 影 で はな い の か ︒ そ れ の影のようなものではないのか︒ その物の魂の一部と見做しているようだが︑文字は︑そ み アヘ・エリバはこう考えた︒埃及人は︑ある物の影を︑ かげ るから︑これは文字のせいではないかも知れぬ︒ナブ・ もっとも︑こう言出したのは︑七十歳を越した老人であ さい いても一向楽しゅうなくなったという 訴 えもあった︒ うった に示す所である︒文字に親しむようになってから︑女を抱 14 ねら 獅子の影を狙い︑女という字を覚えた男は︑本物の女の むかし こう ずい よろこ 代りに女の影を抱くようになるのではないか︒文字の無 え かった 昔 ︑ピル・ナピシュチムの洪水以前には︑ 歓 び ち も 智 慧 も み ん な 直 接 に 人 間 の 中 に は い っ て来 た ︒ 今 は ︑ ヴ ェイ ル 文字の薄被をかぶった歓びの影と智慧の影としか︑我々 も のお ぼ は知らない︒近頃人々は物憶えが悪くなった︒これも文 いたずら 字の精の悪戯である︒人々は︑もはや︑書きとめておか ふ みにく なければ︑何一つ憶えることが出来ない︒着物を着るよ ひ うになって︑人間の皮膚が弱く 醜 くなった︒乗物が発 ふ きゅう 明されて︑人間の脚が弱く醜くなった︒文字が普 及 し 15 て︑人々の頭は︑もはや︑働かなくなったのである︒ きょ う ナブ・アヘ・エリバは︑ある書物 狂 の老人を知って そら むす こ メシュを 慰 めた言葉をも諳んじている︒しかし︑息子 なぐさ は晴か 曇 か気が付かない︒彼は︑少女サビツがギルガ くもり の何月何日の天候まで知っている︒しかし︑今日の天気 きょう とはない︒彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目 読む︒およそ文字になった古代のことで︑彼の知らぬこ なく︑紙草や羊皮紙に誌された埃及文字まですらすらと パピルス に博学である︒彼は︑スメリヤ語やアラメヤ語ばかりで い る ︒ そ の 老 人 は ︑ 博 学 な ナ ブ・ ア ヘ ・ エ リ バ よ り も 更 16 りん じん をなくした隣人を何と言って慰めてよいか︑知らない︒ きさ き 彼は︑アダッド・ニラリ王の 后 ︑サンムラマットがど い しょう んな衣 装 を好んだかも知っている︒しかし︑彼自身が 読み︑諳ん 今どんな衣服を着ているか︑まるで気が付いていない︒ 何と彼は文字と書物とを愛したであろう! あい ぶ じ︑愛撫するだけではあきたらず︑それを愛するの余り かみくだ に︑彼は︑ギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕き︑ と あら 水に溶かして飲んでしまったことがある︒文字の精は彼 よう しゃ の眼を容赦なく喰い荒し︑彼は︑ひどい近眼である︒余 り眼を近づけて書物ばかり読んでいるので︑ 彼の鷲形の 17 ぎ せい しゃ す た むしば さにもかかわらず︑この老人は︑実に こ へそ おそ う らや みじ 全く 羨 まし ふ しん い つ も 幸 福 そ う に 見 え る ︒ こ れ が 不審 とい え ば ︑ 不 審 だ っ た が ︑ ナ ブ ・ ア ヘ・ エ リ バ は ︑ そ れ も 文 字 いほど ︱ 霊の犠牲者の第一に数えた︒ただ︑こうした外観の惨め ︱ だが︒ナブ・アヘ・エリバ博士は︑この男を︑文字の精 なら︑彼は︑五つの異った国の字で書くことが出来るの 分 が 傴 僂 で あ る こ と を 知 らな い で あ ろ う ︒ 傴 僂 とい う 字 のくっつきそうな傴僂である︒しかし︑彼は︑恐らく自 せむし 文字の精は︑また︑彼の脊骨をも 蝕 み︑彼は︑臍に顎 せ ぼね 鼻 の 先 は ︑ 粘 土 板 と擦 れ 合っ て 固 い 胼 胝 が 出来 てい る︒ 18 び やく かん かつ ま りょく かか の霊の媚薬のごとき奸猾な魔 力 のせいと見做した︒ い たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病に罹られ じ た︒侍医のアラッド・ナナは︑この病軽からずと見て︑ 大王のご衣裳を借り︑自らこれをまとうて︑アッシリヤ ふん お のれ 王に扮した︒これによって︑死神エレシュキガルの眼を あざむ 欺 き︑病を大王から 己 の身に転じようというのである︒ こ の 古 来 の 医 家 の 常 法 に 対 し て ︑ 青 年 の 一 部 に は ︑ 不信 の眼を向ける者がある︒これは明らかに不合理だ︑エレ だま せきがく シュキガル神ともあろうものが︑あんな子供瞞しの計に ら 欺 か れ る は ず が あ る か ︑ と︑ 彼等 は 言 う ︒ 碩 学ナ ブ ・ ア 19 いや デイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った︒歴史とは何ぞ ある日若い歴史家︵あるいは宮廷の記録係︶のイシュ のは︑疑もなく︑文字の精霊である︒ 義を一種の病と考えた︒そして︑その病をはやらせたも 人間の地位をわきまえぬのじゃ︒老博士は浅薄な合理主 せん ぱく そういうおかしな所が︒彼等は︑神秘の雲の中における 例えば足の爪先だけ︑無闇に美しく飾っているような︑ かざ おかしな所がある︒全身垢まみれの男が︑一ヶ所だけ︑ あか く︑何事にも辻褄を合せたがることの中には︑何かしら つじ つま ヘ ・ エ リ バ は こ れ を 聞 い て厭 な 顔 を し た ︒ 青 年 等 の ご と 20 や? あき と︒老博士が呆れた顔をしているのを見て︑若い 歴史家は説明を加えた︒先頃のバビロン王シャマシュ・ さい ご シュム・ウキンの最期について色々な説がある︒自ら火 ひとつき に投じたことだけは確かだが︑最後の一月ほどの間︑絶 いんとう いの 望の余り︑言語に絶した淫蕩の生活を送ったというもの けっさい もあれば︑毎日ひたすら潔斎してシャマシュ神に祈り続 ひ まき けたというものもある︒第一の妃ただ一人と共に火に入 ひ しょう ったという説もあれば︑数百の婢 妾 を薪の火に投じて から自分も火に入ったという説もある︒何しろ文字通り けむり 煙 になったこととて︑どれが正しいのか一向見当がつ 21 かない︒近々︑大王はそれらの中の一つを選んで︑自分 こと がら ちんもく 在った事柄をいうのであろうか? うき ぼ り 文字をいうのであろうか? がり で 言 え な い の で ︑ 次 の よ う に 答 え た ︒ 歴 史 と は ︑ 昔 在っ この問の中にある︒博士はそれを感じたが︑はっきり口 獅子狩と︑獅子狩の浮彫とを混同しているような所が それとも︑粘土板の い歴史家は︑次のような形に問を変えた︒歴史とは︑昔︑ 賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て︑若 けんめい 、ん 、 にそれを記録するよう命じたもうであろう︒これはほ 、一例だが︑歴史とはこれでいいのであろうか︒ の 22 しる た事柄で︑かつ粘土板に誌されたものである︒この二つ ね 冗 談ではない︑書かれなかった事は︑ じょう だん と歴史家が聞く︒ は同じことではないか︒ かき も 書洩らしは? 書洩らし? た 無かった事じゃ︒芽の出ぬ種子は︑結局初めから無かっ たのじゃわい︒歴史とはな︑この粘土板のことじゃ︒ 若 い 歴 史 家 は 情 な さ そ う な 顔 を し て ︑ 指 し 示 さ れ た瓦 せい とう こう を見た︒それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シ す ざくろ ュヌ誌す所のサルゴン王ハルディア征討行の一枚であ は る︒話しながら博士の吐き棄てた柘榴の種子がその表面 23 き たな めしつか それは︑ 彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかっ の ら れ て い な い 星 は ︑ な に ゆ え に 存 在せ ぬ か ? わねばならぬ︒太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げ に触れなかったものは︑いかなるものも︑その存在を失 ふ 不滅の生命を得るのじゃ︒反対に︑文字の精の力ある手 ふ めつ て︑これを己の姿で現すとなると︑その事柄はもはや︑ 知らぬとみえるな︒文字の精共が︑一度ある事柄を捉え とら 精霊共の 恐 しい力を︑イシュディ・ナブよ︑君はまだ お そろ ボ ル シ ッ パ な る 明 智 の 神 ナ ブ ウ の 召 使い た も う 文 字 の に 汚 らしくくっついている︒ 24 くだ 、界 、の 、牧 、羊 、者 、︵オ たからじゃ︒大マルズック星︵木星︶が天 いかり こうむ みな リオン︶の境を犯せば神々の 怒 が降るのも︑月輪の上 しょく 部に 蝕 が現れればフモオル人が禍を 蒙 るのも︑皆︑古 書に文字として誌されてあればこそじゃ︒古代スメリヤ けも の 人が馬という 獣 を知らなんだのも︑彼等の間に馬とい う字が無かったからじゃ︒この文字の精霊の力ほど恐ろ 、し 、ら 、が︑文字を使って書きもの しいものは無い︒君やわ しも べ 、し 、ら 、こそ彼等文字 をしとるなどと思ったら大間違い︒わ ずい ぶん の精霊にこき使われる下僕じゃ︒しかし︑また︑ 彼等精 もたら 、し 、は 今 そ れ に つ い て 研 究 霊の 齎 す害も随分ひどい︒わ 25 中だが︑君が今︑歴史を誌した文字に疑を感じるように あた も厭になったこ とがある︒ あ ぶ り にく そこな 頭分も平らげたが︑その後当分︑生きた羊の顔を見るの 先日博士は生来の健啖に任せて羊の 炙 肉をほとんど一 けん たん えって文字に疑を抱くことは︑決して矛 盾 ではない︒ む じゅん おうとしていることを悲しんだ︒文字に親しみ過ぎてか おしばらく︑文字の霊の害毒があの有為な青年をも 害 ゆう い 若い歴史家は妙な顔をして帰って行った︒老博士はな 霊の毒気に中ったためであろう︒ どっ き なったのも︑つまりは︑君が文字に親しみ過ぎて︑その 26 おさ 青年歴史家が帰ってからしばらくして︑ふと︑ナブ・ ちぢ アヘ・エリバは︑薄くなった縮れっ毛の頭を抑えて考え こ さん び いまいまし 込んだ︒今日は︑どうやら︑わしは︑あの青年に向って︑ い りょく 文字の霊の威 力 を讃美しはせなんだか? いことだ︑と彼は舌打をした︒わしまでが文字の霊にた ぶらかされておるわ︒ 実際︑もう大分前から︑文字の霊がある恐しい病を老 博士の上に齎していたのである︒それは彼が文字の霊の くら 、っ 、と 、睨み暮 存 在 を 確 か め る ため に ︑ 一 つ の 字 を 幾 日 も じ し た 時 以 来 の こ と で あ る ︒ そ の 時︑ 今 ま で 一 定 の 意 味 と 27 も しっ くい こつぜん ぶん せき う︒どうして︑こんな恰好をしたものが︑人間として通 かっ こ う 意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしま き かい 判 ら な く な る ︒ 人 間 の 身 体 を 見 て も ︑ そ の 通 り ︒ み んな からだ う︒これがどうして人間の住む所でなければならぬか︑ 木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしま れん が 、っ 、と 、見ている中に︑その家は︑彼の眼と頭の中で︑ 家をじ あらゆるものについても起るようになった︒彼が一軒の けん だが︑それ以来︑それと同じような現象が︑文字以外の 直 線 ど も の 集 り に な っ て し ま っ たこ と は 前 に 言 っ た 通 り 音とを有っていたはずの字が︑忽然と分解して︑単なる 28 っているのか︑まるで理解できなくなる︒眼に見えるも のばかりではない︒人間の日常の営み︑すべての習慣が︑ 同じ奇体な分析病のために︑全然今までの意味を失って こん てい しまった︒もはや︑人間生活のすべての根柢が疑わしい ものに見える︒ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそう になって来た︒文字の霊の研究をこれ以上続けては︑し まと まいにその霊のために生命をとられてしまうぞと思っ こわ ただ た ︒ 彼 は 怖 く な っ て ︑ 早 々 に 研 究 報 告 を 纏 め 上 げ︑ こ れ けん をアシュル・バニ・アパル大王に献じた︒但し︑中に︑ 若 干 の 政治 的 意 見 を 加 え たこ と は も ち ろ ん で あ る ︒ 武 の 29 国アッシリヤは︑今や︑見えざる文字の精霊のために︑ か およ さん ぎょう しゃ うん ぬん し ふ ブ・アヘ・エリバでなかったら︑恐らく︑生きながらの は即日謹慎を命ぜられた︒大王の幼時からの師傅たるナ そく じつ きん しん る大王にしてみれば︑これは当 然のことである︒老博士 た︒ナブウ神の熱烈な讃 仰 者で当時第一流の文化人た ねつ れつ ブ・アヘ・エリバの報 告は︑いたく大王のご機嫌を損じ き げん 文字の霊が︑この讒謗者をただで置く訳が無い︒ナ ざん ぼう し ゃ ん ば ︑ 後に 臍 を 噬 む と も 及 ば ぬ で あ ろ う 云 々 ︒ ほぞ はほとんど無い︒今にして文字への盲目的崇拝を改めず もうもく てきすうはい 全く蝕まれてしまった︒しかも︑これに気付いている者 30 かわ はぎ がく ぜん ふく し ゅ う 皮剥に処せられたであろう︒思わぬご不興に愕然とした かん けつ 博士は︑直ちに︑これが奸譎な文字の霊の復 讐 である さと ことを悟った︒ おお じ しん しかし︑まだこれだけではなかった︒数日後ニネ おそ かべ ヴェ・アルベラの地方を襲った大地震の時︑博士は︑た ︱ しょ か たお お びただ しょせき 数百枚の重い またま自家の書庫の中にいた︒彼の家は古かったので︑壁 くず の ろい が崩れ書架が倒れた︒ 夥 しい書籍が すさ 粘土板が︑文字共の凄まじい 呪 の声と共にこの讒謗者 む ざん ︵昭和 十七 年二月 ︶ の上に落 ちかかり︑彼は無慙にも圧死した︒ 31
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