インドでの発見―ル・コルビュジエ 1950 年代アーメダバードの仕事

インドでの発見―ル・コルビュジエ 1950 年代アーメダバードの仕事
齊藤祐子(建築家)
◎存在と時代の多様性
1999 年 8 月、私はル・コルビュジエがインドで、何に出会い、何を発見したかに興味を
持ってインドを訪れた。雨期の最後にあたる季節は、まだ暑さも厳しく、午後の気温は連
日 40℃近くまであがる。そして、夕方になると雲がわき、激しい雨が降る。瞬く間に、道
路には水があふれる。チャンディガール、ジャイプール、デリーをまわり、アーメダバー
ドでは、バルクリシュナ・ドーシ氏から、インドにおけるコルの仕事について貴重な話を
伺うことができた。
インドで多数の建築を設計しながら実務と教育の両面で活動を続ける建築家ドーシは、
1951 年から 54 年まで、
コルのアトリエでチャンディガール、
アーメダバードの計画に従事、
54 年から 57 年までアーメダバードでコルの現場を担当した。同じ時期に戦後第一回のフラ
ンス政府給費留学生として渡仏した吉阪隆正は、1950 年から二年間をコルのアトリエです
ごし、主にマルセイユ・ユニテの現場とストラスルブール、ナントのユニテの計画を担当
した。アトリエでは、ギリシャから来たクセナキス、コロンビアのサンペル、そして、ド
ーシとの親交を深めた。仕事だけではなく、食事や展覧会、音楽会に行き、自転車で長期
の旅行にも出かけている。
1952 年、マルセイユ・ユニテの竣工式を見届けて、吉阪はローマ、ギリシャ、イラン、
イラクを経由して、インド、チャンディガールの始まったばかりの現場を訪ね、日本へ帰
国する。最初はアメリカ経由で帰ることを検討していたが、最終的に中東、インド経由で
帰ってきた。フランスに残ることも考え迷いながら、
「ヒマラヤ、インドに惹かれて帰国し
た」と日記にはつづられている。コルのアトリエからの帰国ルートは、その後の吉阪の活
動方向に大きな影響を与えているはずである。
帰国後、吉阪は最初に、新宿・百人町の自邸の設計に取り組む。そして、西宮に建つピロ
ティを持つ浦邸の設計。それぞれ、コンクリート打ち放しの骨組みに、コンクリートブロ
ック、レンガの壁を組み合わせている。1956 年には、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館、
ヴィラ・クウクウの設計を次々と進めていく。そして、1955 年、上野・西洋美術館の計画
のために、コルが来日。坂倉準三、前川国男と共に設計を進め、1957 年に竣工する。
私は吉阪のアトリエ U 研究室で、吉阪からインドの話をよく聞かされた。登山家でもあ
った吉阪にとって、ヒマラヤの麓の土地には、特別の思いがあった。1977 年、私が最初に
担当した計画は、公園に建つ日時計の設計であった。なかなか実現されなかったチャンデ
ィガール「開かれた手」のモニュメントについて、また、ジャイプール、ジャンタル・マ
ンタル(天文台)の巨大な日時計の造形について、図版や写真を手に吉阪と設計の打ち合
わせを進めた。最晩年の仕事になった、栃木県立博物館の設計競技案では、アーメダバー
ドやチャンディガールの美術館や、無限発展美術館ムンダネウム案についてディスカッシ
ョンをした。
インド西部、グジャラート州、アーメダバードに、コルはチャンディガールと並行して、
サンスカル・ケンドラ美術館、繊維業者会館、そしてショーダン邸、サラバイ邸の二つの
住宅を設計している。また、ルイス・カーン設計のインド経営大学も 1974 年に竣工した。
また、コルとカーンと共に設計に携わった、ドーシ設計の建築が数多く建っている。アー
メダバードは、城壁に囲まれた旧市街の周りに大学都市や住宅の新市街が広がる活気のあ
る都市である。1800 年代から紡績業で栄え、同時にガンジーが独立運動の思想を育てた町
としても知られる。インドの歴史と伝統的な建築の中で、モダニズムの建築を見直すこと
ができる。
ドーシのアトリエ、サンガトは半地下にレベルを下げて、屋上はアプローチから緩やかに
連続する土をのせた屋上庭園になっている。ヴォールト屋根から集められた雨水は屋上の
水路を流れて冷却の役割を果たしながら敷地を巡回する。インドの伝統的な建築のシステ
ムを生かした計画である。当然、機械的な空調の設備は設けていない。
ドーシは、インドでのコルの仕事は、それまでのヨーロッパの仕事と全く違っていたと語
る。はじめてインドを訪ね、人間と牛と鳥と猿、蛇、等々、文字通り総ての生き物が何の
区別もなく共存する世界と出会ったことが、コルに強烈な印象を与えたという。同時に、
光を発見し、陰を発見し、水を発見し、風を発見した。牛も鳥もクジャクも蛇も一緒に生
きている。太陽と月、人間と自然も全て一つになった宇宙との出会いであった。それまで、
頭の中で考えていた世界が、現実のものとして目の前にある。そして、コルは、インドで
出会った宇宙観をチャンディガールの議場の扉に描いた。大きな扉いっぱいに、インドの
町で出会った生き物と自然、カラスの下にはコルのサインを見ることができる。
事実、現在のアーメダバードの町でも、人と車と共存して驚くほどの多くの種類の生き物
と出会う。誰もが皆、堂々とした表情で生きている存在感が、強烈である。多様な日常の
生活と存在が混在するアーメダバードの町には、現在の生活の変化、市街地の拡大、車が
新しい要素として加わっている。けれど、コルが訪れた 50 年前どころか何千年も変わらな
い世界を、今も同じように経験することができる。
また、インド・サラセン様式のモスクや階段井戸、寺院、伝統的な住居、旧市街の建築な
どが、混在しながら現在へと継続して活動を続ける場所でもある。そこでは 1950 年代、コ
ルの建築が多様性の幅を大きく広げる役割を果たしている。存在の多様性と時代の多様性
を同時に見いだすことができる。
◎50 年代コルのアトリエ
1950 年、セーブル街 35 番地、インドで始まったチャンディガールのプロジェクトは、コ
ルだけではなく、アトリエのメンバーにとっても特別の意味を持っていた。吉阪は、留学
中の日記にコルの言葉、アトリエの空気、そして、日常の細かな行動を記録している。
「コルの印度への旅行、印度での仕事は、コルに新しい道を開いたと私は信じる。もし彼
が 30 年若かったら、それこそもっとすばらしいものになったかも知れない。だが 63 歳に
して、はじめて印度に接したのも又悪くはない。西欧文明への批判を殆ど徹底的にやって
のけて、それに代わるべき姿を探求してもうこれ以上進めまいと思ったところへ、印度の
問題がでたのであった。
」と、吉阪は書いている。
当時進めていた計画はロンシャンの教会、ストラスブールのユニテ、ナントのユニテ、
ジャウル邸、ラトゥーレットの教会をはじめ、15から16項目になっていた。アトリエ
では、フランスのミシェル、ガルディアン、メゾニエ、ルマンシャン、マソン、元イタリ
アのアンドレア、元ポーランドのオレク、ギリシャからクセナキス、サキニデイスの二人、
コロンビアからサンペル、インドのドーシ、そして日本からタカの12名に主任のヴォジ
ャンスキーというメンバーが活動していた。
日記からは、数多くのプロジェクトを抱えながら、コルだけではなく、全てのメンバーが
インドの計画に惹きつけられてゆく様子が伝わってくる。チャンディガールの進行が、ア
トリエの空気を動かしていく。吉阪は担当しているストラスブール、ナントの計画を進め
ながらチャンディガールの設計に参加していた。
チャンディガールの計画について、具体的に吉阪の日記に記されるのは 1950 年 11 月。イ
ンドからの来客にスライドでマルセイユ・ユニテなどの作品を見せる準備をしている。
そして、半年後の 1951 年 4 月、はじめてチャンディガールを訪問してパリに戻ったコル
の言葉が記されている。
(以下は、吉阪の日記から、プロジェクトの進行についての引用)
4 月 3 日(火)晴れたり、降ったり
午後 Corbu 帰巴。印度の印象を少し語る。
シムラ(インド北部パンジャブ州の都市)の田園地に新都市―サンジェルマンか
らエトワール位の直径―をつくる。ここは全くバイブルの時代に生きている。牛
と一緒に寝ている人々。外へ寝台を出して寝ていること。自分もそれをした。朝
起きたら塀に猿がいた。めがねが蚊帳の外に落ちていたが、もう少しで原始林に
近眼者がもう一人できるところだった、と、
アメリカ式の都市計画が行われているのを止めさせたこと。一時間に一台自動車
が通る所へ、歩行者のことを考えないそんな計画は何のためにもならない。印度
人の生活をもとにして、考えたので、工事を一ヶ月ストップさせたこと。アメリ
カ人はアメリカ人の生活だけが、近代生活だと思っていて、その生活をする世界
をつくることしか考えていないと。
4 月 4 日(水)小雨、降ったり止んだり
ゼネストがやっととけた
Corbu 印度のチャンディガールの計画に没頭していて以前の仕事はほったらかし
なのですることがないので、模型をつくって一日が過ぎる。226 が如何に小さい
かがよく感じられる
4 月 5 日(木)晴れ、花曇り
印度計画、800M×1200M のブロックをつくったが、大きさを検討しろ。
4 月 11 日(木)
チャンディガールの計画はスケールが問題で皆してそれを検討している、どうも
新京的存在になりそうである。ダダッピロイ、アジアの平原はそんな気持ちにさ
せるのだろうか?
4 月 16 日(月)快晴
印度の計画について Corbu 曰く
我々は貧乏なのだ、どこでもそうだ、自然のなり行きをうまく利用しなくてはい
けない
4 月 26 日(木)
チャンディガールの中心部の設計
こんな自由な設計は今までやったことがないと Corbu、他の人なら自由はかえって
人を困らせるだろうと(配置のスケッチ)
4 月 27 日(金)曇り、寒い、雨で外套の必要な天気
Corbu、ナントのファサードの設計、建築はこれから始まるのだと、機能は大枠を
決めるが、これから Chanter(歌う)するかしないかが決まる
5 月 1 日(火)雨時々晴
午後はアトリエでサンペルと二人で最高裁判所の設計をしていたら Corbu も来て、
デザインを決定する。少し始めと変わって、面白くなくなってしまった。
(チャンディガールのスケッチ)
5月2日
Corbu のアトリエでは、いよいよチャンディガール大詰め、議論なしに描くだけ。
そして、翌年 1952 年 3 月 15 日、コルが図面を持って現地へと出発する。
いよいよ Corbu 出発の最後の日。アトリエで一時半頃まで皆して図面のとりまと
め。クセナキス、ドーシ、メゾニエ等と昼食を共にす。
「コルは印度へはじめて来て一ヶ月滞在し、チャンディガールの計画をすすめて帰ったと
き、その印象をのべた最初のことばはこうだった。
〈貧乏は一つの富なり〉
La pauvrete est une richesse はじめ私は本能的な反駁を感じて、
〈貧
乏とはいっても切りがある。そんなことをいうのは金持ちのいうことだ〉と貧乏人のひが
みみたいなことをいいたかった。だが次によく考えてみると、コルはこの言葉を今度印度
ではじめて発見したのではない。それは既に 1910 年頃に東欧諸国を行脚したときのもので
はないのだろうかと思いかえした。そして、彼が今までいろいろとやって来たことも、こ
の貧乏が富であったという証明をすることにあった様にも思えてくるのである。
」と、帰国
後に執筆した『ル・コルビュジエ』の中で、吉阪はコルの言葉を記している。そして、吉
阪は敗戦後の日本の生活を思い、最初は反発を覚えたとも書いている。けれど、私は新宿・
百人町の焼け跡に建てたバラックを訪ねてきた今和次郎が、写生をしてから、
「小さいと皆
苦心して工夫するね」と、語っていたエピソードを思い出す。U 研究室でも、工業製品が少
なかった時代こそ、工夫をしながら時間と手間をかけて特徴のあるディテールと形をつく
りだしている。
コルの言葉について、ドーシは、
「少ししか物をもたなければ、創造的になっていくとい
うことをコルはここで発見した。印度は、経済的には貧しいが、文化では豊かである。イ
ンドの人々は乏しい物からいろいろなことを発見する。人々の住居は土でつくられ、適応
性に満ち、豊かで、コルを非常に惹きつけた」と、語る。
「私が本当に建築のことを知ったのは、アクロポリスに於いてではなく、あの周辺にある
名もない民家を尋ね歩いたときである」というコルの言葉につながっている。チャンディ
ガールの現場では、新都市の建設さえも、人の手の積み重ねで実現されていくのを見るこ
とができる。そのような建築の原点を、あらためて確認させる言葉である。
◎土着的なモダニズム建築
コルの作品は時代によって特徴を分類することができるが、63 才からのインドの仕事は、
アジアの風土を初めて経験し、向き合うことで、特別な意味のある仕事になったといえる。
「インドでのコルの建築は非常に力強く、開放的である」と、ドーシは語る。コンクリー
トとガラスの閉じた箱は消え、内部空間は外部へと開放されていく。
繊維業者会館は新市街のアシュラムロードに面して、深い緑の木立の中に建っている。イ
ンドの強い光と、激しい気候のもとで半世紀近くを経たコンクリートは、独特の存在感を
持っている。土の感触を思わせるぼそっとした打ち放しコンクリートのブリーズソレイユ
は陰を抱え込んだ奥行きのあるフレームで陰影を刻む。立方体は、内部と外部のはっきり
とした輪郭をなくしていく。奥行きの深い、建築の構成に組み込まれたブリーズソレイユ。
完全に風や雨が通る外部として開放された共用空間。壁とガラスで区画された内部空間を
最小限のヴォリュームに押さえ、屋根のかかった半外部空間が大きな構成要素となってい
る。
アプローチから真っ直ぐにのびたスロープをのぼると、二階のホールは、南北の面をレン
ガ積みの壁に守られ、西側はサバルマティー川に向かって、より開放的な表情をもつ。
最近訪ねたフランス、ポワッシーのサヴォア邸とは全く違ったコンクリートの表情である。
光も風も緑も、全てのコントラスト、重さは対照的である。サヴォア邸は軽やかな緑の向
こうに、大地に持ち上げられた明快な白い箱。内包された斜路、細い柱。輝くような透明
な光を受ける真っ白な箱は、石造建築への挑戦的マニフェストとして、訪問者を魅了し続
ける。けれど、マルセイユ、ユニテの巨大な塊としてのコンクリート打ち放しの柱を経て
計画されたインドでは、ファサードの土に近い感触のコンクリートが、人と自然との間を
つなぐ形と場所をつくる。コンクリートの素材感は、木と金属の型枠を注意深く使い分け
て表現している。
繊維業者会館を訪れたとき、ゆっくりとスロープを上りながら、既に取り壊され、姿を消
したお茶の水、日仏会館のアプローチ階段を上る時の感覚、手摺の高さのバランスがよみ
がえってきた。仕事をとおして身につけた形とディテールが遠く離れた日本でのコルビュ
ジエ体験をひろげていく。
ショーダン邸とサラバイ邸の二つの住宅は非常に対照的な形態である。この二つの住居
は、周りを深い樹木に囲まれ、長いアプローチによって街路の喧噪と隔てられた静かな環
境に建っている。そこにも、猿やクジャク、鳥たちが静かに共存する、どこでも同じ光景
に出会う。
ショーダン邸はコンクリートのフレームが、閉じた内部空間だけではなく、解放された
外部空間までも内包しているかにように膨らみを持ったキューブをつくりだしている。
ドーシは「ショーダン邸は、大きな傘の下に、日除けとたくさんのバルコニーがつくられ
ている。それは、インドの絵画に見られる、張り出したバルコニー。たくさんのテラス。
人の姿。伝統的な住居の持つアイデアとスケールを取り入れて、自然との関係を参考にし
ながら構成されている」と、語る。
また、閉じた内部空間と開放されたバルコニーが一体化する構成をもつために、日本の民
家の四角い直線的な柱が独立したり、壁に組み込まれているのを雑誌で知り、丸柱を四角
い柱に変える提案をしたという。
サラバイ邸は連続したヴォールト屋根と、壁を切り取られた連続した空間が外部へとつな
がっている。屋上に土をのせ、水平の風の動きをつくりだす。ただ一つ、大地とのつなが
りをもつ構成である。同時期のロンシャンの教会堂、ブラジル学生会館では、一階、グラ
ンドフロアーの床は、文字通り、大地の起伏のまま仕上げ、部分的に水平の床をつくって
いる。床は大地の表現である。
サンスカル・ケンドラ美術館は、純粋でシンプルな閉じたレンガの立方体である。チャン
ディガールの美術館、上野の近代美術館と兄弟のように見えるが、構成はそれぞれ特徴が
ある。チャンディガールの美術館は、規模も一番大きく、一階、二階の展示室を斜路でつ
ないでいる。一つ一つが明確に静謐な場をつくりだしている。アーメダバードの美術館は
立方体の中心に囲まれた中庭とヴォイドを配置し、屋外のスロープで展示室へ上がる。常
に外部を意識しながら迷路のような展示スペースをまわる。外部の中庭と、内部の展示室
が対比的な場所をつくる。現在は利用されていないが、第三の場所として、屋上庭園が計
画されている。
一番小さな上野の西洋美術館は、トップライトのあるホールにスロープが設けられ、展示
室へとアプローチする。スロープの運動が作品に向かう空間との出会いを表現していた。
けれど、新館が増築された現在は、主な動線からはずれたホールは、付属施設のような位
置づけで空間の意味も変わってしまい、コルの建築の空間構成を経験することはできない
のが残念だ。
アーメダバードに建つ建築のそれぞれ特徴は、コルが 1929 年に分類した四つの形態論の
実践である。ドーシは、
「全てのコルの理論を実現したのはアーメダバードにおいてだけで
ある。他のどこの場所でも、どこの国でも起こらなかった。歴史的にも非常に重要なこと
である。
」と、語る。
◎風土と建築―風を通す布、風を遮る布
コルのインドでの発見は、閉じた箱を、解きほどいていくように開放された箱に変えて
いく。風を通し、陰をつくるコンクリートのフレームから、一枚の布へと思いをひろげる。
インドの独立運動を描いた映画「ガンジー」のなかで、ガンジーの服装が思想を明確に
表現しているのが強く印象に残っている。最初に弁護士としてイギリス人と同様スーツ姿
で描かれるガンジーが、南アフリカでの人権運動で投獄されたあと民衆の服を着てインド
へ帰国する。そして、独立運動を進める中では、自分たちの手で織った手紡ぎの布と竹の
杖だけを身につける。カディと呼ばれる手紡ぎ布は、インド独立への姿勢を象徴している。
カディの糸を紡ぐ糸車は象徴的に扱われ、イギリス製の布を買うことで貧しくなることか
ら、自らの手で糸を紡ぎ布を織り、自分たちの手でつくった布を身につける。自給し自立
することを説き、独立建国への道を築く。自らの手でつくることを選択して、独立を獲得
したインドの原点を見ることができる。
また、粗い織り目の布カディは、吸湿性、速乾性に優れ、強い日を遮りながら風を通し、
湿度の高い暑さの中でも快適にすごすことができる。冬は空気を含み暖かく感じられる。
映画の中、独立前にイギリスを訪問したガンジーはカディを身につけている。記録フィル
ムの中で、
「北国に不向きの服装」と形容されているが、確かに、冷たい風を受ける場所で
は風を遮る布を身につけることが必要になる。
カディは、硬質なコンクリートに比べ、土の感触に近い表情をもつ、アーメダバードのコ
ンクリート打ち放しを想起させる布である。
光の弱い、風の冷たい場所では、光を存分に取り入れながら、風を遮る素材としてガラス
が多用される。それでも空調の必要はない。けれど、高温多湿の地域では、風を動かし、
湿気を吸収する素材で、何よりも、日陰をつくることが要求されている。それは、モダニ
ズムの建築として実現された、インドのコルの建築にも共通である。
◎初原的な形態と出会う場所
また、コルはインドの歴史的な建築や伝統的な絵画、細密画からも多くの発見をした。ム
ンバイ、デリー、南インドの寺院、そしてアーメダバードとチャンディガールを訪れたコ
ルは、サルケージ、ファティプリ・シークリー等の遺跡や、旧市街のマネク・チョークを
訪れている。そこで、光と影、風と雨。平面構成と空間の装置。建築を映しこむ水、空気
を冷却する水。人のスケールでつくられた旧市街の曲がりくねった道と住居の工夫等を見
いだしていく。
ドーシは、
「クリシュナと恋人のラーダの一体化を描いた細密画を何枚も描いていたのを
憶えている。全体がねじれていながら一体化している構図を写しながら、定義しきれるよ
うな規則は無いということを理解した」と、語る。
コルは、人々がものをつくるために使うミニマルアート的な方法も発見したという。光、
影、太陽、水、そして風について語り。季節の変化、自然、天候、そして全宇宙と関わり
ながら生きていると語っていた。
私がアーメダバードで訪ねた階段井戸は、階段と水という象徴的な形態だけで構成され
た場所である。大地を彫り込んだ地底に降りていくと、水と光と風を純粋な存在として身
体全体で感じることができる。砂漠の乾燥地帯に近いアーメダバードでは、近郊に多くの
階段井戸がつくられている。地上に現れる形態は最小限にとどめ、地中深く、ひたすら下
って行く階段。無限に地底への旅を続けると思わせる階段だけが続き、光も音も空気も少
しずつ変化していく。そして、水だけがたたえられる外部とは隔絶された場所に行き着く。
神聖な場をつくりだす象徴的な造形は、貴重な水を汲む井戸や貯水池として日常の生活を
支える施設であった。現在は、暑さをしのぐ場所として使われている。
同じように、天文台の施設も象徴的である。天体や太陽の計測や日時計という明確な機能
から生まれた形態は、宇宙の秩序を映し出す装置である。また、火力発電所の冷却塔を応
用して、コルが議事堂の形を決めたのは、よく知られている。一つの目的を明確に形に表
現していくことで宇宙とのつながりを感じ取る場所が生まれている。
インドの町や建築、生命の循環、宇宙観、そして建築の初源的な形に触れると、あっとい
う間に役割を終えさせられて姿を消し、時間を経過したものが壊されていく、日本の建築
が直面している社会状況が特異なものに思われてくる。新しいものだけがつくられ、時代
を経たものは壊され、失われてしまう。半世紀の時を重ねるモダニズムの建築も例外では
ない。一世代を待たずに、日常での共通の経験か失われてしまう現実に、物や社会や風景、
環境の経験の可能性の幅が加速度的にどんどん狭く短くなっているのを痛切に感じさせら
れる。
私がインドで発見したものは。1950 年代の建築が現在進行形で生きている社会である。
新しいものが入ってきても、何百年、何千年も決して変わらない生活や環境、風習がある。
それ以前の町並みも寺院も生活の中で生きている。時代を重ねるごとに、経験の幅は豊か
になり広がって行く。
インドのコルの建築は、
環境と人をつなぐ装置として、
初源的な力を持っている。
そして、
伝統と歴史の中に、近代を位置づける大きな役割を果たしていく。アーメダバードでは、
モダニズム建築さえも長い時間をかけた人の営みの中でゆっくりと経験する時間をもつこ
とができる。建築はつくられた場所、時間、人、技術、記憶、様々な要素の複合的な結晶
である。建築を訪ねることで、1950 年代のコルと直接会話をすることさえ可能である。