(5) 朝鮮戦争と東アジアの「冷戦」

「韓国併合」100 年と向きあう(5)
朝鮮戦争と東アジアの「冷戦」
長谷川 了一
冷戦はどのようにして始まったか
る。48 年 1 月、アメリカ陸軍長官ロイヤルは、
第 2 次世界大戦で手を携えて、ファシズムの
これまでの非軍事化・民主化政策をやめて、「極
ドイツ、日本と戦ったアメリカとソ連の対立が
東の工場、反共の防壁」として日本を復興させ
表面化するきっかけとなったのは、東欧の動向
ると、対日占領政策の根本的な転換を宣言した。
とギリシア問題であった。東欧諸国は、ソ連軍
このように、東アジアにおいても、1947−48
の援助をえて1945年から49年にかけて人民民
年にかけて冷戦が本格化していった。
主主義革命を達成して、ソ連の影響下で社会主
ついに「熱い戦争」・朝鮮戦争が勃発
義をめざしはじめた。ギリシアではイギリスが
大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の2 つの
後押しする国王側とレジスタンス軍の内戦が
国家ができたのち、対立が続いていた朝鮮半島
戦われていた。47 年、トルーマン米大統領はソ
において、1950 年 6 月 25 日、朝鮮を分断する
連の影響を封じ込めるという「トルーマン・ド
38 度線を越えて共和国の朝鮮人民軍が武力解
クトリン」を発表した。
放をめざして南に進撃を開始し、全面的な内戦
この東西対立を決定的にしたのは 48 年のベ
が勃発した。
ルリン問題である。これによって 49 年にはド
朝鮮人民軍は、開戦 3 日後にはソウルを占領
イツ連邦共和国とドイツ民主共和国がつくら
し、8 月初めまでにほぼ朝鮮半島全域を占領し
れ、ドイツが分断された。また、アメリカを中
た。これに対してアメリカは直ちに介入し、空
心に西側諸国 12 カ国が、49 年に北大西洋条約
軍による爆撃を開始した。緊急招集された国連
機構(NATO)を結成し、これに対抗してソ連と
安保理事会で共和国の「侵略行為」が非難され、
東欧 7 カ国は、55 年にワルシャワ条約機構を
その決議にもとづいて朝鮮人民軍を 38 度線以
結成した。この 2 つの軍事同盟の対立に米ソの
北に撤退させるための軍事力行使を国連軍を
核兵器開発競争も加わって、「冷戦」という厳し
編成して行うことが決定された。このようなア
い緊張関係が発生した。
メリカ案が採択できたのは、当時ソ連代表が安
東アジアでも始まった冷戦
保理事会への出席をボイコットしていたから
戦後間もなくのアメリカのアジア政策は、国
である。こうしてアメリカは「国連軍」の名で朝
民党政権による中国の統一と安定、日本の非軍
鮮の内戦に軍事介入した。指揮権はアメリカが
事化・民主化を実現することにあった。しかし、
全面的に握り、「国連軍」の司令部は東京におか
この政策は、
46 年夏からの中国の内戦での国民
れ、日本駐留の米軍が第一線部隊として陸続と
党の敗北、49 年 10 月には毛沢東を主席とする
戦争に送りだされた。
中華人民共和国の樹立によって重大な痛手を
内戦が東西両陣営の全面戦争に
受け、アメリカは日本を中国にかわるアジア支
米軍の仁川奇襲上陸の成功によって形勢が
配の新しい拠点にする政策に転換したのであ
逆転し、米軍・韓国軍はソウルを奪回し、北上
を続け、10 月には中国国境に迫った。これに対
れに暮らすことを余儀なくされた。
して中国軍が「中国人民志願軍」の名で参戦す
経済の回復と米占領軍の民主勢力への弾圧
ると、米・韓軍は後退させられた。米・中の交
朝鮮戦争は不況に苦しんでいた日本経済に
戦によって、朝鮮戦争は内戦から、東西両陣営
「特需」と輸出の急増をもたらした。機械、金属、
の全面的な軍事衝突に発展し、第 3 次世界大戦
繊維を中心に生産は飛躍的に拡大し、1950 年
の恐怖が世界に広がった。
10 月に戦前水準を回復し、復興した。
劣勢の挽回に執着したマッカーサーは、原爆
一方、アメリカ占領軍は日本の民主勢力にさ
の使用や中国東北部の爆撃の許可を大統領に
まざまな弾圧を加え、日本国憲法に規定された
願い出た。26 発の原爆を投下する予定地には、
自由と人権を抑えた。デモと集会が一時、全国
ソ連のウラジオストーク、ハバロフスク、ナホ
的に禁止され、全国労働組合連絡協議会(全労
トカ、イルクーツク、チタ、サハリンや中国の
連)が解散命令を受けた。そして、朝鮮戦争の直
北京、大連、瀋陽、青島などが含まれていた。
前に、弾圧の矛先を日本共産党に集中した。中
しかし、イギリス政府の反対や原水爆禁止の世
央委員会全員の公職追放、「アカハタ」の発行禁
界世論の反発もあり、トルーマン米大統領はマ
止と政治活動の自由を奪われた。さらに重要職
ッカーサーを最高司令官から解任した。戦況は
場から、共産党員やその支持者ら 1 万 3 千人以
やがて、38 度線付近で膠着状態となった。
上を追放した「レッド・パージ」が強行された。
450 万人を超える死傷者
再軍備の命令と日本を米軍の基地国家に
1953 年7 月27 日にようやく板門店で休戦協
朝鮮戦争のさなかの 1950 年 7 月 8 日、マッ
定がむすばれた。だが、現在まで平和条約は結
カーサーは事前に何の相談もなく、書簡で 7 万
ばれていない。朝鮮戦争では、南は洛東江から
5 千人の警察予備隊の創設を指令し、吉田内閣
北は鴨緑江の間を、戦線が南下、北上を繰り返
は、8 月 10 日、警察予備隊令を公布した。こ
したため、人的・物的被害は甚大なものとなっ
れが現在の自衛隊の前身となった。改憲派は
た。また、米軍を中心とする「国連軍」の物量
「日本国憲法」をアメリカに押しつけられたと
作戦が被害をいっそう深刻なものにした。
論難するが、憲法の平和主義原則に反する再軍
戦争による犠牲者は、朝鮮人民軍の戦死者 50
備こそがアメリカによって押しつけられたの
万 8 千人・負傷者 10 万人、中国軍は死傷者合
である。また吉田内閣は、51 年には沖縄をアメ
わせて約50万人、
韓国軍の死傷者は約99万人、
リカの軍政下におき、千島列島の領有権を放棄
米軍は 39 万 7 千人、その他国連軍は 2 万 9 千
したサンフランシスコ条約と日本全土を米軍
人に達した。また、民間人の死者・行方不明者
の基地国家とする日米安保条約を締結した。
は、南北朝鮮合わせてすくなくとも 200 万人を
朝鮮戦争は東アジアでの冷戦体制をいっそ
超えている。
う強めた。今日、世界的には冷戦は終わったと
また、戦争に
いわれているが、朝鮮半島の分断や中華人民共
よって、約
和国と台湾の対立など、東アジアはまだ冷戦体
1000 万人以
制から抜け出ていないのは、この時代の東アジ
上の人たちが
アの歴史に原因が求められる。
家族離ればな
<写真(左)は朝鮮戦争中の38度線、ウィキペディアから>
(つづく)