社会教育における「市民教育」の可能性

社会教育における「市民教育」の可能性
― 「正義感覚」の役割と育成の問題を中心に ―
小
林
建
一
市民教育は市民的資質の訓練を目的とし、民主的社会の運営の基礎になるものである。市民的資
質の重要な構成要素は「正義感覚」であり、ロールズによると正、不正の道徳的判断能力として、
学習を通じて段階的に発達するものである。この感覚を十分身につけることによって民主主義の学
習と実践が可能となる。また、この感覚は市民社会の市民の共通感覚として、正義の規範的な意味
や方向性を認知し、かつ実践するという行動に向けられた心的傾向という意味で実践的性格をもつ。
この意味で、正義感覚の育成にとって市民教育は有効であり、
「行動的シティズンシップ」や市民的
不服従、人権学習、ボランティア活動などの実践のなかでそれは育成されていく。このような市民
教育は社会教育においても可能であり、今後の市民社会の行方に影響を及ぼすが、正義感覚は他の
民主主義的心性との統合や政治と社会の多様な場での育成が課題となる。
キーワード:市民教育、市民的資質、正義感覚、市民社会、民主主義
はじめに
一般に、市民教育(
)は「市民のことは市民が決める」という民主主義の理念の
実現に不可欠な知識・技術と、それを実践する力を身につけさせることを意味するといわれる。こ
のことは、民主的社会の運営の基礎として市民教育が要請されることを示唆している。
しかし一方、古くから欧米はもとよりわが国において、公民教育(
)の理念と実
践が跡づけられてきた。教育学関係の事典の項目をみてもわかるように、市民教育と公民教育は個
別に掲載されているが、内容的にはこれらの概念を厳密に区別するのではなく、ほぼ同義に扱って
であり、内容的に
いるように思われる。なるほど、市民教育、公民教育はともに
も重なる部分があることはたしかである。にもかかわらず、教育研究においてあえて一方の概念を
用いて主題を設定するからには、双方の概念の相違を明らかにして一方を選択する理由が存在する。
この意味で、本論文ではまず社会教育研究における市民教育の意義と必要性を明らかにしなければ
ならない。
そのうえで、市民教育のめざすところは、自由・平等などの価値意識および自治・共和などの行
東北大学大学院教育学研究科
成人継続教育論コース
博士課程後期
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社会教育における「市民教育」の可能性
動規範の形成という民主主義を支える市民的資質の訓練にあるという命題に応える必要がある。こ
のようなレベルにおいては、政治教育(
)という概念を意識せざるをえない。
わが国の場合をみても、政治教育は教育基本法にも規定されているように、
「良識ある公民」として
必要な政治的教養の尊重という趣旨のもとに、学校教育では公民分野の各教科教育や生活指導など
において、また社会教育では公民館等の政治学習の機会への参加などによって行われている。しか
しまた、政治教育の政治が必ずしも民主主義の理念の実現ではなく、反民主主義的な権力支配を許
してしまうことがあるというイメージを払拭できず、むしろ公民教育や市民教育の一環として語ら
れることが多い。したがって、市民教育においても政治教育の位置づけは必要と考えられる。
さらに、欧米においては、むしろわが国よりも盛んに市民教育、公民教育、そして政治教育が論
)が強調されるように
じられてきたといえるが、最近では「市民権」教育(
なっている。これらを同一視すべきか、明確に区別すべきかどうかをあえて論じる研究は見あたら
ない。市民権の概念は複雑であるが、概括的に市民として活動する権利と義務を指すとすれば、こ
れを実現するための教育は市民教育よりも市民権教育という用語法がふさわしい。このように、市
民権教育が市民権の内容や行使の方法を教える教育であるとすれば、市民を対象とする民主的な市
民社会の質的充実をはかるための教育とされる市民教育に包括されてもおかしくはない。また、市
民権教育が市民権実現のために権利意識の形成の役割を教育に委ねるというものであれば、今日の
「シティズンシップ」論の分析検討にもとづいてシティズンシップの概念を基軸に市民教育を論じ
ることも可能となる。
わが国においては、市民社会の成熟度の問題もあり、このようなシティズンシップの概念を中心
に市民教育にアプローチする研究は多くはなかったと思われる。しかし、民主的社会の運営の充実
をはかるには市民権にもとづく行動が不可欠であり、シティズンシップ論から学ぶことは決して少
なくはないはずである。そして、今後の民主的社会の運営を考えるならば、多様な生き方や幸福観
をもつ個々人が社会諸制度のもとで共生するための正義の原理を提起しようとする、ロールズなど
の現代リベラリズムのシティズンシップ論の検討が必要である。このようなリベラル・シティズン
シップに対してはトータルな批判もあるが、評価すべき部分からは学ばなければならない。
そこで本論文においては、市民教育を社会教育に位置づけるために、考察のキーワードとしてと
くにロールズの正義論で扱われている「正義感覚」を取りあげる。ロールズは、正義感覚をその発
達を促されるべき道徳性と捉え、そのための道徳学習の重要性を提起しているが、この感覚は政治
の主人公あるいは主権者である市民の能力として、学習により獲得されながら一定の役割を果たす
ものであることから、これを育成することができると考えられるからである。
このような市民教育は、生涯学習の視点に立つならば、子どもから成人までが対象となり、また
教育の場も家庭にはじまり学校や地域のみならず、さらには職域にまで広がるという文脈を考慮に
入れ、よりトータルなものとして捉えることができる。しかし、
ここでは社会教育という領域に限っ
て、成人を中心に必要に応じて子どもを対象とした市民教育の可能性を追求することとしたい。
以上のような考察により、本論文の目的が達成されるならば、市民教育は学習の主体と政治の主
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第53集・第 2 号(2005年)
体が融合し、市民の自由な学習実践を可能とする概念としても確認されることとなる。
1 . 市民教育と正義感覚の位相
市民教育が民主的社会の運営の基礎となるためには、市民的資質の訓練を目的とすることが求め
られる。ここで民主的社会というのは、福祉国家ないしポスト福祉国家とのかかわりで問題とされ
る現代の市民社会である。このような社会においては、公民教育という名称で公民的資質の訓練を
目的とすること自体が特別な意味をもっているが、それは市民教育によって克服されるべきものと
して位置づけられる。そしてまた、市民的資質の重要な構成要素と考えられる正義感覚が学習を通
して発達させられるべきことが市民教育の課題となる。
市民社会と市民教育
国家と市民社会が分裂した社会では、国家からの自由を確保した市民層、つまり「ブルジョア」
としての市民が社会の主人であると同時に、政治の主体としての公民であり、自由な市民の教育は
また自由な公民の教育であった。市民教育は、このような支配階級の自己教育にすぎなかったの
である。しかし、資本主義の展開とともに階級対立が激化し、支配関係の維持のために市民社会の
論理を転換させ、すべての階級を国家のもとに公民として包摂することとなる。ここでいう国家
は、いわゆる近代国民国家であり、
市民教育と概念的に区別されるべき公民教育の歴史的源流となっ
たものである。そして、この延長上にある今日の市民社会に対応する現代の国家は分配的正義を原
理とする福祉国家といわれる。
公民教育は、欧米、わが国を問わず、このような福祉国家における社会教育のなかにも位置づけ
られている。しかし、わが国に限っていえば、公民教育こそは国家主導の近代化によって戦前から
行われたと認められるが、市民教育は成立しなかったといわれる。これに対して、市民教育は民
主主義を原理とするものであり、公民教育の内容・方法を導く規範的な概念であると同時に、公民
教育は階級を超えた一般性としての市民社会の公共性の原理をふまえているから市民形成をめざ
し、この意味で公民は「シティズン」としての市民と称してよいとの反論が展開された。このよ
うに、公民=市民というシェーマが成立するならば、あえて公民教育と市民教育を区別する必要は
なくなっていくが、公民教育はともすると国家権力への親近性のイメージを容易に解消することが
できない。このようななかで、福祉国家や「小さな国家」の問題性が論議され、市民社会の現代的
再生が模索されていることにかんがみると、市民教育の概念の脱構築が課題とされてよい。
ところで、社会教育における公民教育は、わが国では市民教育を確立するための反面教師の機能
を果たしてきたといえる。それはつまり、次のような経緯から帰結する。戦後、社会教育の中核施
設として公民館が設置された。公民館は名称からわかるように公民教育を強く意識したものである。
しかし、戦前の公民教育は国家に服従し、その政治活動に自主的に奉仕する国民を育成しようとし
た。このため、公民館構想の背景となる公民教育の思想には戦前的思考をのり超える役割が期待
されることになるが、歴史的にも理論的にも現実はそれに反していたと評価されている。すなわち、
公民教育の目的は戦前の国家の再建を自己の課題と考え、それを自発的・創造的に遂行する公民を
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社会教育における「市民教育」の可能性
育てることにあり、権利や民主主義という観念についても義務性や全体への奉仕性を強調するもの
であった。このように評価されるがゆえに、社会教育に位置づけられる公民教育についての検討
は必ずしも活発に行われたわけではなかったが、ようやく公民教育が戦後の社会教育の盛衰を握っ
ているという認識で「公民」の脱構築の試みもはじまっている。それは、個人から出発し、公共的
な領域にも積極的にかかわる公民の自己形成をはかる公民教育の提起にあらわれている。いいか
えると、これは自立した個人による市民社会の空間を創造し拡大していくという意味であるから、
市民社会の再生の問題とも連接していく試みでもある。
このような意味からすると、市民社会における公民を市民と呼ぶのは、むしろ社会教育に市民教
育を明確に位置づけるうえで必要と思われる。市民は市民社会と国家とのせめぎあいのはざまに存
在する社会の主人・政治の主体と認められるからである。それは、私的個人として市民社会に、ま
た社会的個人として国家にかかわる新たな「公共性」や「協同性」の担い手としての市民と捉える
こともでき、公民と市民の分裂を克服するうえで必要な人格概念である。したがって、ハーバー
マスのように、非国家的・非市場的な領域として市民社会を再構成し、そこに公共性を位置づけ、
その形成の担い手として市民を考える必要はなくなる。むしろ、概念の混乱を避ける意味でも、現
代の市民社会の公共性形成の担い手としての市民が市民教育の対象であり、市民は現代国家の構成
員としての公民という人格的要素をあわせもつことを前提しておきさえすればよい。このことは、
先述のような、公民が市民社会を創造する役割を担っているとする論理の裏返しでもある。
「秩序ある社会」の運営と正義感覚
市民社会(
)の概念については、現時点でこれを正確かつ厳密に定義することは不可
能に近い。ただ、市民社会の基本的な枠組みとしては、市民革命期に成立し、まもなく国家の陰に
隠れてしまった市民社会ではなく、その後、国家から自立し成熟化した民主主義の前提として注目
される市民社会であることがあげられる。それは新しい市民社会の概念であることには間違いない
が、歴史認識や規範的意味の捉え方の差異などが概念の多義性やあいまい性を帰結している。し
かし、ハーバーマスの市民社会論においてさえも社会の運営は民主的な自由な討議とそれに基づく
行為によって担われるのであり、市民社会の自立を掲げつつ国家との関係を考慮に入れるような市
民社会論では双方の民主化が課題とされる。このように、今日の市民社会においては、リベラル
なものであるにせよ、あるいはラディカルなものであるにせよ、
「デモクラシー」
(民主主義)がキー・
コンセプトになっている。現代リベラリズムを代表するロールズの正義論は、万人が同意しうる正
義の原理が成立する社会としてはすなわち秩序ある民主的社会を想定しているが、そのような社会
の民主主義的な運営にとっては社会的諸制度や一定のルールが必要でかつ正義に適ったものでなけ
ればならない。
ロールズが前提する民主的社会の構成員は、
「自由かつ平等な道徳的人格」である。ここでいう
民主的社会とは、正義の諸原理によって基本的な社会制度が満たされているという「秩序ある社
会」であり、カント的な人格概念であるそのような道徳的人格として正義感覚をもつとされる。
すなわち、正義感覚とは道徳的人格の基本的側面としての能力である。それは、相手の立場に立っ
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て行為することを望む安定した道徳的な心的傾向性を特徴とする。ロールズによると、
「正義の公
共的感覚によって規制される社会は本来安定的である。
」つまり、公に認められ、広く共有されて
いる正義の諸原理に賛同するような正義の感覚によってコントロールされる社会はもともと安定し
ているのである。したがって、そのような道徳的人格であることを期待される秩序ある社会の構成
員としての市民が、各自の目的や関心にもとづいて行動するにあたっては、一定のルールに従おう
とする正義の感覚をもちあわせていなければならない。しかしまた、正義感覚はこのようにルール
に従うだけでなく、ロールズにいわせると、
「愛や好意、信用や相互信頼という自然的態度」ないし
「私憤や公憤を感じる」能力(「正義感覚の能力」)である。このような能力は、構成員が正義の
諸原理が要求するように行為しようと願い、社会の諸制度が正義に適っているならばそれを維持し
ようとする感覚であり、それら諸原理をふみにじるか、あるいは諸制度が正義にもとるように運営
もしくは破壊されるならば、
「不正義」に立ち向う性向と捉えられる。
以上の検討から、ロールズのいう正義感覚は秩序ある民主的社会の維持運営に不可欠であると考
えられる。このような社会を市民社会といいきることができるならば、その構成員=市民の市民的
資質として正義感覚を捉え、市民教育の目的をこの正義感覚の育成とすることは整合的な論理的帰
結といえる。市民社会の定義については先述のように容易なことではないが、少なくてもデモクラ
シーが政治システムの原理とされ、その安定性が保持されている社会においては正義感覚の育成を
重要な教育課題と位置づけることができる。
正義感覚の発達と学習
すべての人々は正義感覚の能力を原初的にもっているというのが、ルソーの主張である。ロー
ルズは、
「言語能力をもったあらゆる人間が正義感覚をもつのに必要とされる知的活動の能力をもっ
ている」が、これは「人間がその原初的な自然的能力の一部として所有している」
、
「正義感覚の発
達のための必要最小限度」であると述べている。すなわち、このような原初的な能力が必要とさ
れるのは、正義感覚の能力が発達の帰結でありながら、あたかも原初的に所有されているかのよう
に実現されるからである。ロールズはこのことをふまえて、原初的な能力を適切に発達させること
『正義論』において秩序ある社会で成長するとともに、正義の原理を理解
ができることを示唆し、
するようになり、それに愛着をもつようになる主要な段階を「権威の道徳性」
「連合体の道徳性」
「原理の道徳性」という道徳的発達段階として示している。権威の道徳性は親子の関係を、連合
体の道徳性は仲間内の関係を、そして原理の道徳性は社会の見知らぬ人々の間の関係を規律する道
徳原理として説明されており、これらは正義感覚の発達の基底として捉えられている。 このような
正義感覚の発達段階は、ピアジェにヒントをえた罪責感情の発達段階であるだけでなく、コール
バーグの提起した道徳的発達段階とも連接するものである。ピアジェの道徳的発達段階論は思春
期から成人期にかけて到達する抽象的思考の可能な段階で終結しているが、コールバーグのそれは
この段階を再分化しようとするもので、成人期のより進んだ道徳的発達への視野を開いている。す
なわち、多くの研究によって明らかにされているように、コールバーグは人間の生涯にわたる道徳
的発達過程を 6 つの段階に分けて説明し、最終段階を普遍的な原理により正義の判断ができる段階
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として措定する。このように、道徳判断において正義を考慮し、正義を普遍的な道徳原理と位置づ
ける道徳発達理論は、原理の道徳性を最終段階とするロールズの道徳発達理論ときわめて親和的で
あることがわかる。このようなことからも、生涯にわたる道徳的発達過程の一環としての成人期の
道徳的発達を問題にしたコールバーグの理論は、幼児期から成人期までの正義感覚の発達、さら
に成人期の正義感覚の高次の段階への発達の視点がロールズの理論においても可能となることを示
唆している。
発達が学習によって促されるとすれば、正義感覚の発達にとっても学習論は重要である。ロール
ズの『正義論』においては、道徳学習の理論を経験主義と合理主義の伝統にもとづくものと捉え、
いずれをも評価し、また両者を結合しようとする試みにも賛同している。しかし、ロールズは道徳
学習の理論の完結をめざすことを目的にしていないため、思想、行為、感情のすべての要素を含む
道徳性が多くの種類の学習を通して構造化されていくことを認めながら、公正としての正義の原
理が実現されている秩序ある社会で生ずる道徳的発達の過程を説明するにとどまる。要するに、権
威の道徳性から原理の道徳性までの段階の全体を通じて学習されることになる、正義の概念に結び
つけて道徳的発達を説明できればそれでよかったのである。そのため、ロールズの考察の視点は学
習論よりも発達論に重点をおくものとなった。これ以上、学習論を追求しようとすれば、必然的に
今日の道徳教育論との対話が必要となる。とくに、成人の道徳的発達との関連では成人の道徳学習・
教育という困難な問題に直面する。このような点をロールズが考慮したのかどうかは定かではない
が、規範理論という性格からみると、学習の理論の構築よりも、社会的実践ないし政治的行動とし
ての学習実践の場面を想定し、その構造と役割の分析構成に向かうのも当然であった。
2 . 市民教育における政治学習と正義感覚
市民社会の存立が政治における民主主義の実現に大きく依存し、民主主義を支える市民的資質の
要素として正義感覚が位置づけられるとすれば、正義感覚の育成を課題とする市民教育にとっては
政治学習を無視することはできない。また、正義感覚は公共の事柄に関するいきどおりとしての公
憤を感じる能力であり、認知的性格をもつだけでなく、あるべき行為や実践を促すという意味で規
範的性格をもつといえるから、市民教育において政治学習を位置づけるうえできわめて大きな役割
を果たすと考えられる。にもかかわらず、公権力がすすめる政治教育はともすると自己矛盾に陥り
がちであり、市民教育の可能性を否定的に捉えさせかねない。逆に、政治学習を通じた正義感覚の
自己育成が市民の権利意識を高め、シティズンシップの形成とそれにもとづく政治的・社会的実践
の可能性を開くと考えられる。
政治教育の自己矛盾と市民教育の正当性
政治教育の歴史は、自己矛盾の歴史といえる。教育が私教育ならまだしも、公教育として公権力
が関与する以上は政策の影響を受けざるをえない。わが国においては、戦前の政治教育の目的は
「臣民」教育であり、戦後は「主権在民」の主権者を形成することにあった。教育基本法の政治
教育条項は、民主政治の担い手としての主権者が政治的教養を身につけるべきことをうたっている。
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このような教養とは、民主制度の知識、現実政治の理解力・批判力、主権者として必要な政治道徳
や信念を指している。そして、戦後の政治教育はこのような主権者育成の教育としてスタートし
たが、間もなく政治的転換により現実政治に適応する主権者教育へと変化していった。
政治教育の自己矛盾の第一は、このような現実政治による権力的支配の手段と化し、民主主義の
理念の実現をめざしながら民主主義を否定することさえあるということである。また、教育基本法
の教育の政治的中立条項にみられるように、政治教育の内容・方法は政治の思想や理念に関わるた
め政党・党派的な立場を超えることができず、政治的中立の名のもとに自己の立場を擁護してしま
うおそれがあることが政治教育の第二の自己矛盾ということができる。自己教育・相互教育を本質
とする社会教育の分野においては、学習主体の自主的・自発的学習を社会教育施設などの公的機関
が支援し、もしくは学習の機会を提供するにあたって、行政権力や政治権力による干渉や排除など
が行われる場面で自己矛盾は姿をあらわす。いわば、政治教育へ積極的に取り組むことによっては
じめて自己矛盾が認識されるのである。
このような社会教育における政治教育の自己矛盾構造は、その矛盾の露呈を自主規制しようとす
るため、政治教育への消極性を帰結している。わが国の社会教育史をひもどいてみても、社会教育
行政はもちろん公民館などの社会教育施設はどちらかといえば、政治教育を回避してきたきらいが
ある。このような歴史的経緯のなかで、社会教育実践としての「憲法学習」は異彩をはなっている。
憲法は国家像と国民像、すなわち主権や人権、統治の原理・原則を規定したものであり、これを学
習することによって「政治に対する能動的な主体たりうるための政治的教養」の中核を担うことが
できる。そして、今日の社会教育における人権教育や平和学習の位置づけは、このような憲法学
習としての人権保障および平和の理念の学習と密接に関連しているといえる。
しかし、以上の憲法学習が政治学習にとって代わるということではない。政治的教養は、憲法規
範や国民国家という枠組みにおける政治の学習という限定された領域の学習にとどまらないからで
ある。それゆえに、この次元においては政治教育の正当性を主張できる。けれども、政治教育が先
述のような自己矛盾を克服することはすこぶる困難であり、また公権力が支配・抑圧のための露骨
な政治教育を隠蔽するために、それを公民教育という名で行ってきたという過去のわが国の教訓か
らも学ぶ必要がある。この意味では、社会教育において政治教育が「公民教育」として行われたの
が戦前のことであり、戦後はむしろそれが「市民教育」として行われてきた、といいきることも
できない。くりかえすように、市民教育は公民教育という概念を浮上させないほど、安定的で一貫
性をもつ概念として用いられてきたわけではなく、今日の市民社会でこそ市民教育の構築・再構築
が課題とされているからである。
たしかに、市民教育のめざすところは民主主義を支える市民的資質の訓練にあると先述したが、
しかし訓練すべき内容として民主主義のシステムやプロセスを理解し、実践的に用いることのでき
る知識・技術に重点がおかれるにしても、すべてが政治という概念に包摂されてしまうのではない。
たとえば、ボランティア活動、・活動などは、民主主義の実現や政治的解決にまったく
無関係ではないが、社会参加活動あるいは社会的実践として政治活動を超えた市民の行動である。
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社会教育における「市民教育」の可能性
したがって、市民的資質とは民主主義の学習と実践の能力に狭く限定して解釈すべきものではなく、
道徳的に自由・平等な人格としての市民に共通した教養とそれにもとづく社会的実践力というよう
に、広く捉える必要がある。そして、このような教養には政治的教養ではなく、
「市民的教養」とい
うことばがあてはまる。一定の文化的理想のもとに個人が身につけた創造的な理解力や知識とい
う教養の本来の意味から考えても、このような広い理解が必要である。まさに、市民的教養は地域
社会、自治体、国のレベルに至るまで共和と自治の創造を可能とするような、認識と実践の主体の
形成の基礎となるものであるが、主体的な文化的理解を内在させているのである。そこからは、政
治的無関心の問題の克服のみならず、市民社会の文化的創造の方向を読みとることができる。した
がって、市民的教養の視点で民主主義の学習実践を導く市民教育の概念が、社会教育としての市民
的資質の訓練にふさわしいといえる。この点で、市民教育が正当化されるのである。
市民の正義感覚とシティズンシップ
市民的資質の重要な要素である正義感覚は、このような市民教育における民主主義にかかわる学
習・実践によってもっとも鍛えられる。正義感覚には、社会的諸制度の構築や運営が正義に適って
いるかどうかを判断し行動する社会的実践力が必要であり、それは市民的教養という広い基盤のう
えに市民的資質の一つとして育成されるものだからである。また、このような正義感覚は市民社会
の市民の共通感覚でもある。これは、デカルトなどに見られるような、良識として万人が共有し真
偽を識別する真理感覚を意味するといってもよい。
市民社会論は市民としての成員資格、あるいは市民のあるべき姿という意味で規範的なシティズ
ンシップの概念を提起してきたが、正義感覚はこの概念を構成するにふさわしい要素である。なぜ
ならば、シティズンシップは市民社会と国家とのせめぎあいの関係構造において、市民権の行使を
通しての民主主義の実践の主体に求められる市民的資質ともいうべきもので、正義感覚にもとづく
判断力や実行力を欠いては機能しないからである。この意味からすると、市民教育における正義感
覚の育成という課題は、シティズンシップの概念を媒介にしてより明確なものとなる。
シティズンシップ論において、近代的シティズンシップの概念はマーシャルによって明らかにさ
れたが、シティズンシップの主体は国民国家の成員としての「ネーション」であると同時に、市民
社会の成員としての「シティズン」を意味していた。このような両義性に対して、現代リベラリズ
ムを代表するロールズの正義論では、ネーションは正義に適った国家に帰属している成員の意味に
にすぎず、正義に適った社会で自尊心をもちながらお互いに尊重し合うことによってシティズンの
メンタリティとしてのシティズンシップが育まれると解されている。しかし、それはあくまでも
現実の国家内におけるシティズンの共存である。シティズンシップ概念における正義感覚もこれに
即して捉えられるだけである。
このような国民国家の枠組みにとらわれるシティズンシップ論については、多民族・多文化の共
生の視点に立つ多文化主義(マルチ・カルチュラリズム)やジェンダーの視点に立つフェミニズム
から、ネーションである少数民族や女性、障害者などに対して、シティズンとしての十分な市民権
を認めていないという批判が可能である。加えて、グローバル化の進展に伴い、地球市民のシティ
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ズンシップのあり方を提起するグローバル・シティズンシップが注目されている。市民の正義感
覚そのものについては、これらの新しい視点からのシティズンシップ論によってその自己育成の主
体の多様化、それに応じた育成方法の差異化が提起されることとなる。
しかし、近代的シティズンシップの概念においては、すべての者が市民権、すなわち市民的・政
治的・社会的権利を与えられ政治・社会参加が可能となる以上、そこに民主主義の原理が貫かれて
いることが不可欠である。これをムフにならって「民主主義的シティズンシップ」ということがで
きるならば、
「世界市民主義(コスモポリタン)的なシティズンシップの可能性を創造することは危
険な幻想である。」その理由は、民主主義がメンバーシップを限定することなしには考えることがで
きないからである。ゆえに、ムフにあっては、民主主義的な統治は国民国家を前提にする。しか
し一方、グローバル化に対応して異なる国民国家の連合、さらに別々の国民国家の一部分から形成
されたユニットにおいて、メンバーの参加能力を飛躍的に向上させるシティズンシップが可能とな
るという論理が導かれるのもムフの特徴である。
このような意味でのポスト国民国家の論理は、ロールズの「諸民衆の法」の構想にも見られる。
これは国民国家を超えて世界各地に生活している自由で民主的な市民の間で妥当する正義を論じた
ものであるが、市民権の主体としてのシティズンの差異の承認を自文化中心主義(エスノセントリ
ズム)の排除と人権の擁護に結びつけるものである。このようにみてくると、ロールズの正義論
は多文化主義やフェミニズムからの批判やグローバル化の問題に対して十分な回答を与えるもので
はない。しかし、少なくともムフと同様、民主主義のメンバーシップを国民国家内に限定しつつも、
シティズンの民主主義の訓練に不可欠な共通感覚としての正義感覚の育成を、その平等主義的な観
点から求めるものであると再評価することができる。
3 . 正義感覚の実践性と育成の視点
ロールズが正義感覚の段階的発達を展望するにあたっては、正義感覚が最終段階の原理の道徳性
のレベルに到達すべきであり、またそれが民主主義の実現に生かされるべきであるという規範的視
点に立っている。このような感覚は民主政治の主人公である市民がもち合わせていなければ無意味
であり、この点で正義感覚の市民教育における育成が有効であり、
正当化されるのである。したがっ
て、あるべき行為や実践を促すという意味で規範的性格をもつ正義感覚そのものが育成されるべき
という視点に立つことができるが、同時に正義感覚が実践性をもたなければそれは正、不正を認知
的に判断する能力にすぎず、民主主義を望ましい方向へと導く推進力とはならない。この意味で、
正義感覚の実践性とは正義の規範的な意味や方向性を認知し、かつ実践するという行動に向けられ
た心的傾向という側面を表現している。
それでは、このような実践的性格をもつ正義感覚は具体的にどのように学習されるべきか。社会
教育の場においては、公民館等の公的社会教育の施設はもとより、民間の教育産業の場でも知識と
して学び、またそれらを拠点とした実践活動のなかで学ぶことも可能である。そして、それらのプ
ログラムの編成が社会教育の課題となることはいうまでもない。しかし、本論文はこのように学習
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社会教育における「市民教育」の可能性
の場を狭く限定して正義感覚の育成について考察しようとするのではなく、その育成がより広く民
主政治に関わる実践のなかでどのように可能であり、市民教育にどのように位置づけられるか明ら
かにするものである。
そこでまず、今日、広がりをみせている「行動的シティズンシップ」
(
)の概
念と成人の学習に焦点をあて、つぎに民主主義の具体的実践の形態の一つである市民的不服従とい
う行動における学習実践について、最後に民主主義の実践力が日常的な人権学習やボランティア活
動などの学習実践を基礎に成り立ちうることを理論的に明らかにしたい。
行動的シティズンシップと正義感覚
「成人教育は行動的シティズンシップの結果であるとともに、社会への十分な参加にとっての条件
である」と、1997年の第 5 回ユネスコ成人教育国際会議の宣言(ハンブルク宣言)は述べている。
成人教育と行動的シティズンシップはこのように密接な関係にあることが認識され、今日では民主
主義的な市民社会を目指すにあたっても重要な課題として位置づけられている。そこで、行動的
シティズンシップを要約的に定義することが許されるとすれば、それは権利の主体である市民が個
人として自立しながら、集合的な実践者として社会的に行動することであり、民主的社会の重要な
構成要件をなすものである。市民はこのような実践者へと発達を遂げることによって、民主主義
の価値や制度を理解し、あるいは批判することができるだけでなく、社会・政治参加を通して社
会・政治変革を促すこともできる。先述したように、正義感覚は正、不正に関する道徳的判断能力
でもあるから、これを十分に発達させることがそのような実践的行動を実効的なものにすると考え
られる。
民主的社会の実現と発展にとって、その構成員に必要な資質や能力を育てることは重要な課題で
ある。シティズンシップ教育は、このような要請に応えて継続的に展開され、充実に向けての努力
もはらわれてきた。しかし、民主主義と一言でいっても国家や体制、政治的立場によって理解が異
なり、それゆえにシティズンシップ教育も多様に組織化されている。たしかに、ヒーターがいうよ
うに、複雑多様でかつ絶えず解釈・再解釈の対象とされてきた市民権は、必ずしも「市民共和主義」
と「自由主義」という二つの伝統にもとづいて内容を普遍的なものとして整理できるものではなく、
今後も追求していかなければならないほど時代に即して変化し続けている。それにもかかわらず、
民主的社会の市民となるためには民主主義のルールやプロセスを理解し、政治を正しく認識するこ
とを教えるのがシティズンシップ教育の基本的枠組みであることには変わりがない。このような言
い方は抽象的であるが、シティズンシップ教育の出発点はここにあると考えられる。したがって、
学習されなければならないシティズンシップの内容は多様に分類することができる。それゆえに、
市民としてのアイデンティティと、シティズンシップを行使する能力としての市民的徳性とに大別
することも可能となる。
市民の正義感覚の育成を問題とする視点においては、後者の市民的徳性を育てるための学習の内
容と方法をとくに追求することが必須である。ギャルストンは市民に要求される徳として、一般的
徳、社会的徳、経済的徳、政治的徳をあげている。このうちロールズのいう正義感覚と関連をも
― 114 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第53集・第 2 号(2005年)
つのは、一般的徳である勇気・遵法精神・忠誠と、政治的徳としての他者の権利を尊重する能力・
公務の遂行を評価する能力・国家に過大な要求をしないよう自己規律する能力・公的な討議に参加
する能力である。前者はすべての徳の基盤にあるものと解されるため、正義感覚の基盤にもなって
いるが、後者は正義感覚を媒介にしなければ発達が望めない能力であり、逆にこれらの発達を通し
て正義感覚の発達もさらに促される。とくに、この政治的徳のなかで公的な討議に参加する能力に
注目しなければならない。参加民主主義の実践において対話にもとづく意思決定は不可欠の要素で
あり、ハーバーマスがいうような対話に必要なコミュニケーション能力はシティズンシップの重要
な内容をなすものである。このようなコミュニケーション行為の過程では、正、不正の道徳的判断
が行われて理性的な対話が成立しているとみられる。したがって、シティズンシップ教育のなかで
コミュニケーション能力の発達をはかることは、同時に正義感覚を育成していることにもなる。
以上のように、行動的シティズンシップの概念の分析構成により、正義感覚の育成がシティズン
シップ教育の中心課題となりうることが明らかになった。そこでつぎには、この教育がどのような
学習内容と学習方法において具体的に実践されているか、ないしは実践されるべきかについては、
その対象を市民の日常生活や労働においてはもちろん、ボランティア活動や・活動など
の社会参加、投票行為を含む政治参加、さらに市民運動や社会運動と称するものにまで拡大しなけ
ればならない。このような視点での分析検討の成果は成人教育の分野においても明らかにされてい
るが、それらはシティズンシップ教育の実践をきわめて広く捉えたものであり、個別の問題につ
いては別の機会に委ねていると考えられる。このようなことからも、本論文においては正義感覚の
育成の問題について、シティズンシップ教育の概念との関わりでも、またより広く市民教育の概念
でも取りあげられている問題視角から追求を試みたい。
市民的不服従・良心的拒否と正義感覚
民主的社会の政治システムは、複雑かつ精巧であるといわれる。それは憲法体制と一体化してい
るという意味では、立憲民主制と呼ぶことができる。そこでの基本的な原理は選挙制度にもとづく
議会制民主主義であり、法や政策の意思決定は多数決ルールの手続きに従ってなされる。もっとも、
政治学の分野で分析されているように、民主政治はこのような多数決のルールにもかかわらず、
「多
数派支配型と合意型」とに区分されている。このことは、多数派支配が必ずしも正義に適ったも
のとは限らず、必要に応じて少数派の合意をえなければ民主政治が成立しないことを示している。
多数派は法を制定する立憲的権利をもつということが正当化されるが、しかし制定された法が正義
に適うものであるということを意味しない、とロールズがいうのも、このように多数派による法
や政策の選択が正義論の一部を構成している理想的手続きにおいて行われるとは限らないと少数派
から批判される可能性があるからである。この少数派による批判としての多数派の決定に服従する
ことを拒絶する行動こそ、
「市民的不服従」にほかならない。
ロールズによれば、この市民的不服従とは、
「
(勿論完全にとはいわないでも)かなりの程度正義
にかなっている民主政体においてそれが正当化される場合、通常、多数者の正義感覚に訴えて、異
議の申し立てられている措置の再考を促し、反対者達の確固たる意見では社会的協同の諸条件が尊
― 115 ―
社会教育における「市民教育」の可能性
重されていないことを警告するという政治的行為として理解することができる。
」そして、民主政
治との関連において市民的不服従の実践をあげるとすれば、現代アメリカにおける人種差別との闘
いである「公民権運動」をあげることができる。これは、キング牧師を代表とする非暴力主義者の
抵抗運動が「不正な法」に従わないという道徳上の責任を根拠に展開されたものである。ロール
ズはこのような時代の潮流に対応して市民的不服従の正当化の理論を鍛えあげていくが、
『正義論』
に至って正当化の説明に明確さを欠き、現実から離れようとする姿勢がうかがわれると指摘されて
いる。しかし、民主政治における市民的不服従の意義を明らかにし、その正当化を市民の正義感
覚と関連づけた点で、ロールズは市民教育として正義感覚を育成する問題を民主主義の学習実践に
帰着させたと評価することができる。この市民的不服従に関する理論については、ロールズ以後に
理論的水準がさらに高められ、現代リベラリズムの系譜では、ドゥオーキンは少数派を尊重する多
数派の約束が権利を擁護する社会の要請であり、市民的不服従に多数決原理にもとづく法の妥当性
を判断する役割を求めている。
さて、先述のようなロールズの市民的不服従の定義をふまえて、その行使が正当化される不正義
の条件としてあげられるのは、「平等な市民権の自由あるいは機会均等に対する明らかな侵害であ
り、正常な政治的反対にもかかわらず、長期間にわたって、多かれ少なかれ故意になされてきた侵
害である。」このような条件が存在し市民的不服従の行使がなされる場合でも、選挙民全体として
の市民の政治的な正義の要求についての十分な合意がある限り、無政府状態の危険はない。明らか
に正義にもとる法や政策を保守するために、権威や権力の濫用を行うことこそが責任を問われるの
である。また、ロールズの『正義論』では市民的不服従に新たに「良心的拒否」が加えられてい
るが、良心的兵役拒否のように、一国内ではなく諸民衆間の正義原理にもとづき国家の戦争行為へ
の加担を拒否することである。良心的拒否は多数派の正義感覚に訴えるものではなく、市民的不服
従とは区別されているものの、拒否行動の主体の良心的信念の発露であり正義感覚のあらわれに違
いはない。
市民的不服従・良心的拒否の例として、よくあげられるのは先述のアメリカの公民権運動の一連
の行動、ベトナム反戦運動などである。わが国では、反戦自衛官運動、指紋押捺拒否闘争などにみ
られる。さらに、韓国における2000年総選挙での市民グループによるブラック・リスト公開に示さ
れる、現行選挙法への不服従があげられる。これは、民主主義的シティズンシップ教育のケースと
して、成人教育の立場においても追求されている。これらの行動ははじめに正義感覚による正、
不正の判断にもとづいて行われるが、正義感覚はまた行動という学習を通してより発達したものと
なる。すなわち、市民的不服従・良心的拒否という行動の発端はそれまでに育成された正義感覚の
能力いかんに関わり、行動過程においては政治的行為のもつ意味や正しさ、あり方などの学習の機
会と場を提供する役割を果たし、行動主体の正義感覚がこのような学習過程を経て高次のものに育
成されていくと同時に、行動に対応する多数派の正義感覚においても民主主義における譲歩や寛容
の大切さが考慮される。この意味では、少数派と多数派の正義感覚は相互依存関係にあり、相互学
習によって発達させられるといえる。ロールズはこのようにして力を発揮する正義感覚について、
― 116 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第53集・第 2 号(2005年)
とくに多数派のそれに焦点をあてながら、正義感覚は正義に反する諸制度を支持しようとする意志
をくじき、その優越的権力にもかかわらず譲歩させることもあり、それゆえに少数派を不正義に服
するように強制する態勢にはないと捉える。このように、消極的に機能するものとして正義感覚を
理解するならば、それは民主政治の中心的要素として承認されるという。
市民的不服従に関わる正義感覚の性格を捉えようとする以上の検討を認識論ということができる
ならば、市民的不服従の行動の公共的で非暴力的な方法に着目するのは実践論である。ロールズに
よれば、市民的不服従の非暴力的な性格は、多数派の正義感覚に訴えかけるための確信にもとづい
た言論の一形態である。それゆえに、その行動に対する処罰が受容され、抵抗が企てられない。こ
の意味での非暴力は宗教的、平和主義的な原理としての非暴力と区別される。というのは、市民的
不服従は公共生活の道徳的基礎へ訴えかける政治的行為であり、人々の共通の正義原理に向けられ
るものだからである。さらに、不正義に反対する訴えが否認され続けるなら、多数派が少数派の抵
抗を惹起する意思を表明したことになり、力ずくの抵抗が民主政体においても正当化される。この
ような非暴力的な抵抗は、法への忠誠の範囲内での法への不服従として、自分の良心にもとづく行
動であり、自分の誠実さを示すことができる。したがって、ロールズの規範的な実践の理論は政
治的行為を対象としたものである。
ロールズがいうこのような意味での非暴力主義の不服従の源流を探ると、それはキング牧師の実
践を経てインド独立運動の父ガンディーの実践に行き着く。キングに触発されてガンディーの非暴
力不服従の論理と実践に心理歴史的分析のメスを入れたエリクソンは、この非暴力の本質を「戦闘
的非暴力」という実践概念によって追求している。戦闘的非暴力は暴力に対して戦闘的に立ち向か
うが、それは暴力を手段として用いないことをいう。しかしそこには、非暴力の力は暴力のそれを
上回るべきものという意味が込められている。エリクソンがいうには、ガンディーの非暴力は「真
理の力(サティヤーグラハ)
」を意味する。すなわち、真理は相対的なものであるから、真理の力
の行使としての実践においては暴力を使用しない手段に訴えることが選択されるべきであり、この
ような実践は敵対者のなかにひそむ真理を尊敬し、かつ救済しようとする行為である。このような
非暴力性は、敵対者の側に公平無私な洗練された感覚の存在することを前提にしている。そこに
は、自己否定の論理として、政治的・教育的な戦闘と宗教的な超越との緊張関係のなかで真理の実
践を求め続けた「宗教的アクチャアリスト」
(
)の姿を見ることができる。こ
のアクチャアリストの位置づけには、エリクソンの深い成人期理解が込められているように思われ
る。エリクソンは成人期の心理・社会的危機を「生成力対停滞」と捉えているが、この生成力の停
滞が成人期の中心病理としての「拒絶性」を帰結する。それは、敵対者への攻撃や抑圧となってあ
らわれる。このような成人期の危機をのり超えるために、
「共有された現実を展開していく力」こそ
が「アクチャアリティー」
(
)にほかならない。アクチャアリストとは、そのような力を
形成しつつ、敵対者との相互交渉を創造していく存在である。とすれば、エリクソンの成人発達の
理解は、相互交渉の現実のなかでの自己洞察を通して自らのあり方を展開し、同時に相手方の発展
を促す可能性にかけられていたのである。エリクソンはガンディーの非暴力を「人が一つの選択
― 117 ―
社会教育における「市民教育」の可能性
をするときにはいかなるときでも、自分自身と同様に相手の人間の発達の可能性を高めるように、
行動を選択すべきであることを示唆して」いると語るが、非暴力不服従に成人期の発達の課題を
解決する重要な役割を見いだしていたものと理解することができる。
ロールズ、エリクソンのいずれもガンジーを経てキングにいたる非暴力不服従の実践から学び、
ロールズがその実践を政治的行為と捉えるのに対して、エリクソンが政治的行為と宗教的行為の両
面をもつものと捉える違いはあるが、これらの実践は手段の面からみた非暴力不服従であるのだか
ら、実践の動機づけの役割はほかの要素に求めなければならない。この役割を果たすものは、ロー
ルズにおいては正義感覚であり、エリクソンではしいていえばアクチャアリティーということにな
る。しかし、本論文では正義感覚という概念に焦点をあてているので、アクチァリティーとの交流
やより統合的な概念の可能性については追求しないこととするが、以上の検討によっても戦闘的非
暴力を鍵概念とする市民的不服従の実践が市民教育の学習実践として重要な位置を占めることが明
らかになったといえる。このような意味からも、非暴力不服従の行動は民主主義の学習と実践をう
らなうものである。民主政治においては、少数派と多数派はつねに交替可能な地位にあるのだから、
市民的不服従の学習と実践は相互に不可欠なものとして市民教育に位置づけられてよい。
人権学習と正義感覚
先述のように、ロールズのいう道徳的人格は平等に正義感覚をもつだけではない。同時に、自ら
の善き生き方の観念にもとづいて幸福を追求する能力をもっている。これはリベラリズムの核心を
なす考え方であり、権利の概念と結びつくことによって「平等な尊重と配慮を受ける権利」=抽象
的な道徳的権利をもつという権利基底的な道徳理論=正義論が導き出される。ドゥオーキンはこの
ような正義論を個人の権利や人権を究極の価値とする権利論的な正義論へと発展させたといわれ
る。世界人権宣言をはじめとする各種人権宣言や人権保障論は、このような個人の人権や権利の尊
重と擁護にウェイトをおいて展開されてきたとみてもよい。社会教育における人権教育も反差別や
人権擁護の観点から重要な位置づけがなされてきたことはいうまでもない。権利や人権を尊重し擁
護することは民主主義的な国家や社会の構築につながり、その主体形成の基盤となるものだからで
ある。したがって、人権教育は市民教育の重要な一環を構成するといえる。
権利や人権は、もともと公正とか正義を基礎に成立している概念である。ロールズとドゥオーキ
ンの権利概念に照らし合わせてみても、人権教育における学習主体=市民としての各人は相互に尊
重し合うのみならず、配慮し合う道徳的人格であり、このことが正義論の帰結であることを確認で
きる。この意味で、権利・人権は尊重・配慮されることを前提としているだけでなく、市民によっ
て学習され擁護されるならば正義感覚の自己育成と民主的社会の発展に寄与するということができ
る。まさに、人権学習は他者への尊重と配慮としての権利・人権の擁護と侵害の排除の認識・実践
を通して、正義感覚の発達を促す役割を果たすのである。このように、他者を尊重し配慮すること
を学ぶ過程で正義感覚を発達させる人権学習は「配慮への学習」と呼ぶことができる。
人権学習は現代社会教育において重要な位置を与えられている。それだけに、現代的人権の構造
を捉え、教育・学習の内容と方法について広汎にわたる問題の解明と問題提起がなされている。
― 118 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第53集・第 2 号(2005年)
このような背景のもとで人権学習を語る場合、現代的人権の内容を学習することにより自覚的に人
権意識・感覚を高めると同時に、人権を擁護し人権侵害を排除する行動や実践を通して逆に学習を
深めるという視点が重要である。この過程は正義感覚によって媒介されるというのが本論文の主張
であり、現代的人権をめぐる具体的な攻防に応じた分析が必要になると考えられるが、今後の課題
としたい。
ボランティア学習と正義感覚
市民社会論との関連で市民の学習活動としてもっとも注目されるようになったのが、ボランティ
ア学習である。これは、欧米のみならずわが国においても市民教育の重要な一環として位置づけら
れている。一般に、社会教育の分野においても、ボランティアは自立した市民が自発的に公共的な
サービスを無報酬で行うことと捉えられ、ボランティアのための学習・ボランティアを通した学習
に市民社会の創造の役割が期待されている。このような市民の形成に有効なボランティア学習の全
体にわたり検討を加えることはここではおくとして、ボランティア学習における他者への志向性・
共感性に注目してみたい。
ボランティアは自発的な行動であるが、その結果が主体自身を窮地に追い込むという意味で「自
発性のパラドックス」に陥る。ボランティアとは、このようなパラドックスを受容しながら、
「困難
な状況に立たされた人に遭遇したとき、自分とその人の問題を切り離して考えるのではなく、相互
依存性のタペストリーを通じて、自分自身も広い意味ではその問題の一部として存在しているのだ
という、相手へのかかわり方を自ら選択する人である。
」こうした理解をふまえると、ボランティ
ア活動は顔の見える他者のために献身することが結局自分に還ってくるという意味で、市民の形
成に重要な役割を果たすことができるといえる。この点でまず、市民教育に位置づけられるボラン
ティア学習の他者志向性は明らかである。つぎに、ボランティア学習は他者への共感性を通じて市
民教育の新たな位相を開示することを明らかにしたい。
さて、ボランティアが自ら自発性のパラドックスに陥ることは、
すなわち自分自身を「ひ弱い」立
場に立たせることを意味する。このような立場は「他から攻撃を受けやすい」ないし「傷つきやす
い」状態として、
「バルネラブル」
(
)なものである。それゆえ、自らをあえてバルネラ
ブルにするボランティアは、相手や問題にオープンに関わることで、与えるよりも多くのものを受
け取るような関係性を望んでいる。ここで思い出されるのは「ケア(世話)」(
)の倫理であ
る。ケアとは、もともと子どもなどの弱者への世話・配慮にみられるように、他者のニーズに応じ
て行動することである。ケアの倫理学を提起したギリガンのいうケアとは、他者は自己の可能性を
支援してくれるものであるという。とすれば、あえて自己をバルネラブルにするボランティアが
多くを受け取るために他者に与えるとしても、その他者は自己の可能性を支援してくれるものと捉
え直すことができる。しかし、このことは必ずしもボランティアの問題がすべてケアの倫理学で解
決されることを意味しない。ボランティアが弱い他者を世話し、他者に配慮する場合において、と
くにバルネラブルとケアは融合するのである。自己をバルネラブルなものにしてまで、ケアとして
の他者への世話・配慮を実践するには、他者への共感がなければ不可能なことである。したがって、
― 119 ―
社会教育における「市民教育」の可能性
このようなボランティアを学習論から特徴づけるとすれば、
「世話への学習」ということができる。
たしかに、
「正義」の倫理と「ケア」の倫理は異なっている。そして、これまでは前者が男性的な
倫理で、後者が女性的な倫理とみられてきた。しかも、ロールズの正義論のように「正」の倫理を
「徳」の倫理に優位させる場合は、徳に属するケアは正義に劣ることになる。しかし、市民社会を
形成する意義をもつボランティアが世話を必要とする他者を志向するときには、正義の倫理のみな
らずケアの倫理をも求められる。この限りで正義とケアの統合がはかられなければならない。この
意味で、人権学習が正義の倫理をもつことによって市民教育に位置づけられるのに対して、ボラン
ティア学習は正義、ケアの双方の倫理を必要とする。すなわち、ボランティア学習を市民教育に位
置づけるには、正義感覚はケアの道徳感情を重要な構成要素とする感覚へと昇華させられたもので
なければならない。
ボランティア学習が市民教育の発展に有用であることについては、イギリスのシティズンシップ
教育の導入や(
)の取り組み、さらにはアメリカのサービ
ス・ラーニングの実践の事例からも明らかにされている。わが国においても、このような関連性
を追求する取り組みが成果を発表している。これらは、いずれも次代の担い手である子どもに体
験を通して民主主義の学習を与えようとするものである。そこには、民主主義が国家などによる権
力的支配によってではなく、市民の自発性という意味でのボランタリズムに支えられるという考え
方が通底している。このため、自発的な行動への意欲や態度などの育成が政治や社会への参加、連
帯性の形成をめぐって重要視されるが、制度や政策の正、不正を判断するに必要な正義感覚という
ような道徳的心性にまでは視野が開かれていない。たしかにリスマンのように、道徳的発達を促し
社会意識を高めるサービス・ラーニングを正義モデルにする視点も存在するが、やはり正義感覚
には言及がなされていない。したがって、サービス・ラーニングがボランティア学習として正義感
覚を育成できる市民教育となりうるためには、リスマンのいう道徳的発達にケアの道徳感情と正義
感覚の発達を含ませ融合させなければならない。
このように、ボランティア学習における正義とケアの統合は課題といえるが、しかし新たな学習
のプログラム開発がこの課題を解決に導くこともまた予想できる。すでに、アメリカにおいては、
世代間のサービスやケアを通じた青少年と高齢者の相互発達・教育のためのプログラムが開発され、
市民教育として実践されつつある。このようなプログラムをどのようにボランティア学習に生か
していくかがさらなる課題となるが、課題解決を通して正義感覚の育成の使命を担うボランティア
学習がケアの倫理を媒介にして世代間正義を実現するという可能性も生まれると思われる。
おわりに
市民教育として正義感覚を育成することが社会教育においても可能であり、このことが今後の市
民社会の行方にとって大きな影響力になることは明らかになったといえる。しかし、正、不正の道
徳的判断能力である正義感覚が適切に機能することによって民主的な市民社会の運営が可能になる
というほど、ロールズのいう正義感覚が唯一絶対の認知と実践のよりどころになるとはいえないの
― 120 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第53集・第 2 号(2005年)
が、政治・道徳理論の帰結である。たとえば、ガットマンは民主的社会における民主主義に関わる
心性の育成を市民教育の目的とし、具体的な心性として「誠実さ」(
)、「寛容」(
)、
「相互尊重」
(
)などをあげている。ガットマンはリベラリズムの系譜
に属するといえるが、リベラリズムのなかでも論者の視点によって取りあげる道徳的心性にも差異
がみられる。ましてや、現代リベラリズムに対峙してきたコミュニタリアニズムの立場においては、
市民社会を「コミュニティ」を基盤とした公共圏と捉え、
「われわれ」という共同意識の育成に市民
教育の目的を収斂させる考え方も見られる。さらに、フェミニズムの立場からは、ジェンダー構
造化された家族や社会において正義感覚が平等に育成されうるのか、また正義感覚の心理構造的な
差異が承認されるべきかなど、男女間の不正義にもとづく諸問題が提起される。これらの理論や問
題をさらに検討することによって、ロールズのいう正義感覚の育成の市民教育における位置づけを
より明確にすることができると思われる。また、正義感覚と他のさまざまな民主主義的心性という
道徳的能力との融合ないしは統合が必要となるかも知れない。このような困難な作業は今後の課題
である。
つぎに、ロールズの提起する正義感覚の育成に限っていえば、民主的社会で生活し行動している
と自然に培われるものか、あるいは民主的社会であるどうかを問わず、意図的・組織的な教育によっ
て育成されるべきものかが問題である。正義感覚と民主的社会の実現が相互依存関係にあるという
のが本論文の帰結であり、市民的不服従や人権学習、ボランティア学習への取り組みなどを通じて
正義感覚が育成されるという論理が導かれる。しかし、社会教育における学習実践としてみるなら
ば、人権学習とボランティア学習はプログラム化されているといえるが、市民的不服従については
実践や行動そのものが政治の生の舞台で行われるため、プログラム化は不可能に近い。不服従の実
践の歴史や理論構造を系統的学習によって学ぶ機会は用意できても、実践は現実的な体験学習によ
らなければならないが、このような体験の機会はいつでも存在しているわけではない。また、不服
従は政治的な危機状況における市民教育の学習・実践であるのに、人権学習とボランティア学習は
日常的な生活世界における学習・実践が主となる。正義感覚の育成の場はさまざまであり、一面的
な場のみではその育成の完結をみることはできない。したがって、正義感覚は政治と社会のさまざ
まな場での学習・実践を通じて育成され、それをふまえて統合的な視点から再構成されるべきこと
も課題となる。
注
たとえば、細谷俊夫ほか編集代表『新教育学大事典』第一法規出版、平成 2 年、183-4頁、527-8頁、奥田真丈ほ
か監修、安彦忠彦ほか編集『現代学校教育大事典』ぎょうせい、1993年、132-3頁、472頁参照。
これらの教育制度の思想史的意味を明らかにした研究として、堀尾輝久『現代教育の思想と構造』岩波書店、昭
和46年、3-148頁参照。
たとえば、岡野八代『シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判―』白澤社、2003年など参照。
堀尾・前掲書、50-2頁参照。
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社会教育における「市民教育」の可能性
堀尾・前掲書、54-7頁参照。
堀尾輝久『天皇制国家と教育―近代日本教育思想史研究―』青木書店、1987年、215-6頁参照。
松野修は、欧米諸国、わが国ともに公教育制度が確立した時期や経緯はさほど異なっていなく、わが国の公教育
制度のスタートと同時に公民教育は成立したと認識したうえで、公民教育は一定の国家における市民形成をめざす
ものであり、この意味で市民教育は公民教育によって実現されるという勝田守一の見解をふまえて、本文の結論を
導き出している。この点につき、松野修『近代日本の公民教育―教科書の中の自由・法・競争―』名古屋大学出版
会、1997年、4-5頁参照。
大串隆吉・笹川孝一「戦後民主主義と社会教育」碓井正久編『日本社会教育発達史』講座・現代社会教育Ⅱ、亜
紀書房、1980年、254-5頁参照。
大串・笹川、前掲論文、253-262頁参照。また、小川利夫も公民館構想としての、いわゆる寺中構想が戦前的な社
会教育施設構想と公民教育の日本的ナショナリズムの遺産を継承したものであり、戦後の民主化の産物とはいえな
いことを克明に跡づけて批判している。小川利夫 『社会教育と国民の学習権』勁草書房、1973年、275-308頁参照。
このような試みとして、黒沢惟昭「社会教育とボランティア・ネットワーキング」日本社会教育学会『ボランティ
ア・ネットワーキング―生涯学習と市民社会―』日本の社会教育第41集、東洋館出版社、平成 9 年、20-3頁参照。
なお、黒沢のこの着想は、寺中構想における私的な人間であると同時に公共社会に献身するという公民の捉え方か
らえられたものという。
このような着想は、鈴木敏正の「近現代の人格」の理解から導き出したものである。鈴木敏正『生涯学習の教育
学―学習ネットワーキングから―』北樹出版、2004年、102-3頁参照。なお、鈴木は公民館の存立根拠をこのような
分裂を克服した、形式的ではなく内実のある「真の公民」を育成することに求めている。
ハーバーマスは、その著『公共性の構造転換』において市民社会=市場社会と描いたが、その後、同著の「新版
序文」等においてこのような市民社会像を描くこととなる。詳しくは、齋藤純一『公共性』岩波書店、2000年、302頁参照。
この点については、千葉眞「市民社会論の現在」『思想』2001年第 5 号、岩波書店、1-3頁参照。市民社会論は幅
広い分野において盛んに展開されており、著作も多数にのぼっている。たとえば、ジョン・エーレンベルク著、吉
田傑俊監訳『市民社会論―歴史的・批判的考察―』青木書店、2001年は現代的市民社会論批判を目的とする市民社
会論史であるが、国家権力や市場を規制するため国家的機能を媒介する市民社会の民主化を基本的な立場にしてお
り(訳者あとがき)、すぐれた業績の一つに数えられる。やがて、これらを統合した市民社会論が確立されることが
期待される。
詳しくは、千葉・前掲論文、 3 頁参照。
(邦訳:矢島鈞次監訳『正義論』紀
伊国屋書店、1979年、15頁参照。)
(邦訳:同書、357頁参照。)
(邦訳:
岩倉正博訳「正義感覚」田中成明編訳『公正としての正義』木鐸社、1979年、251頁参照。
)
(邦訳:同書、388頁参照。)
ロールズの正義感覚は正義に適っているかどうか基準にするが、不正義として受けとめるかどうかを基準として
(邦訳:前掲『正義論』、382-7頁参照。
)
(邦訳:前掲「正義感覚」、247-250頁参照。
)
― 122 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第53集・第 2 号(2005年)
「不正義感覚」の問題が提起されてよい。シュクラーの見解をふまえてこの問題について検討しているものとして、
大川正彦『正義』岩波書店、1999年、40-64頁がある。
これはロールズからの再引用である。
(邦訳:前掲「正義感覚」
、221頁
参照。)
(邦訳:同論文、247頁参照。)
(邦訳:同論文、247-8頁参照。
)
(邦訳:前掲『正義論』、362-375頁参照。
)
川本隆史『ロールズ―正義の原理―』講談社、1997年、99頁参照。
塩野谷祐一は、ピアジェ、コールバーグ、ロールズの道徳的発達理論を一連の系列として捉えている。この点に
ついて、塩野谷祐一『経済と倫理―福祉国家の哲学―』公共哲学叢書①、東京大学出版会、2002年、189頁参照。
コールバーグの成人の道徳的発達にかんする理論に焦点をあてた研究は必ずしも多くはないが、コールバーグの
最新の見解を明らかにして、認知発達理論における成人期の道徳性発達の問題を提示したものとして、たとえば梁
貞模「青年期以降における道徳性発達」佐野安仁・吉田謙二『コールバーグ理論の基底』世界思想社、1993年、248271頁があげられる。
(邦訳:前掲『正義論』
、360-2頁参照。)たしかに、ロールズ
は「強化や古典的な条件づけから、高度に抽象的な推論や範例の精密な知覚に至るまで」の学習の役割に注目して
いるが、これ以上の言及はしていない。
わが国の政治教育の歴史を概観したものとして、伊ケ崎暁生「政治教育の歴史」永井憲一編『政治教育・宗教教
育』教育基本法文献選集7、学陽書房、1978年、50-70頁があげられる。しかし、この論文は1970年代に著されたも
のであり、その後の歴史については他の文献を参照する必要がある。
伊ケ崎・前掲論文、51頁参照。
藤岡貞彦「政治教育と社会教育」前掲『政治教育・宗教教育』、234-4頁参照。
藤岡・前掲論文、233頁参照。
教育研究、とりわけ社会教育研究においては、市民的教養という概念について論じることはきわめて少なかった
ように思われる。これに対し、
「国民的教養」については突っ込んだ論究がなされている。堀尾輝久は、国民教育の
課題として国民全体の教養の形成をあげ、文化を同化させることを通してそれを支配する能力を教養と規定する。
詳しくは、堀尾輝久「国民教育における「教養」をめぐる問題」前掲『現代教育の思想と構造』、344-380頁参照。
また、南里悦史は社会教育に関連して、教養を生活現実を科学的に明らかにする広い視野をもった認識力と自己形
成力と捉えている。この点につき、南里悦史「社会教育実践の課題」島田修一・藤岡貞彦編『社会教育概論』青木
書店、1982年、228-231頁参照。いずれの場合も、国民とは国民国家の構成員を意味していると解される。なお、さ
らに広い「教養」の概念について検討しているものとして、沼田裕之・増渕幸男・安西和博・加藤守通『教養の復
権』東信堂、1996年参照。
このようなロールズ解釈については、岡野・前掲書、74頁参照。
批判の詳細については、岡野・前掲書、113頁以下参照。
成人学習の問題との関連については、高橋満「地球時代に求められる教育改革の原理」日本社会教育学会編『現
代教育改革と社会教育』講座現代社会教育の理論①、東洋館出版社、2004年、92-6頁参照。
シャンタル・ムフ著、石田雅樹訳「グローバル化と民主主義的シティズンシップ」
『思想』 2001年5月号、岩波
書店、33頁参照。
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社会教育における「市民教育」の可能性
なお、ロールズの「諸民衆の法」の構想のわが国おける解釈については、川本・前掲書、240-4頁、渡辺幹雄
「ロールズ正義論の行方―その全体系の批判的考察―」(増補新装版)春秋社、2000年、409-460頁があげられる。
このことについては、不破和彦編訳『成人教育と市民社会―行動的シティズンシップの可能性―』青木書店、2002
年参照。
このような定義は、不破和彦「成人教育とシティズンシップ―その関連性と論点―」前掲書、12-3頁を参照して
再構成したものである。
デレック・ヒーター著、田中俊郎・関根政美訳『市民権とはなにか』岩波書店、2002年、293-299頁参照。
(
)
前掲『成人教育と市民社会―行動的シティズンシップの可能性―』の各論文を参照。
佐々木毅『政治学講義』東京大学出版会、1999年、161-166頁参照。
(邦訳:前掲『正義論』、277頁参照。
)
(邦訳:平野仁彦訳「市民的不服従の正当化」前掲『公正としての正
義』、197頁参照。
)
この点につき、川本隆史『現代倫理学の冒険―社会理論のネットワーキングへ―』創文社、1995年、169頁参照。
川本・前掲書、171頁参照。
(邦 訳:木 下 毅・
小林公・野坂泰司訳『権利論』木鐸社、1986年、243-298頁参照。
)小泉良幸はこのようなドゥオーキンの市民的不
服従の考え方を「道徳的共同体」の調和を維持するための、市民各人が相互に負うべき「政治的義務」の行使のな
かに位置づけられるべきであるという。小泉良幸『リベラルな共同体―ドゥオーキンの政治・道徳理論―』勁草書
房、2002年、152頁参照。
以上の点につき、
(邦訳:前掲『正義論』、291頁参照。
)
(邦訳:前掲「市民的不服従の正当化」
、218頁参
照。)
詳しくは、ヒョーチョン・パク著、内藤隆史訳「韓国における民主主義的シティズンシップ教育―が成人の
シティズンシップ教育に及ぼした影響―」前掲『成人教育と市民社会―行動的シティズンシップの可能性―』、173196頁参照。
p.188.(邦訳:前掲論文、216頁参照。)
pp.181-3.(邦訳:前掲論文、206-8頁参照。)
(邦訳:星野美賀子訳『ガンディの真理 1 ・ 2 』みすず書
房、1973年、1974年参照)
エヴァンズ著、岡堂哲雄・中園正身訳『エリクソンは語る―アイデンティティの心理学―』新曜社、1981
年、94頁参照。
このようにガンディーを理解するエリクソンの論脈を分析評価する研究として、西平直『エリクソンの人間学』
東京大学出版会、1993年、153-159頁参照。
柳沢昌一「
エリクソンの心理―社会的発達理論における「世代のサイクル」と成人の発達」社会教育基礎
理論研究会編『叢書生涯学習Ⅶ 成人性の発達』雄松堂、1989年、161頁参照。
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第53集・第 2 号(2005年)
柳沢・前掲論文、163頁参照。
エバンズ・前掲書、90頁参照。
たとえば、日本社会教育学会は創立50周年記念事業として、『現代社会教育の理論』(全 3 巻)を刊行したが、そ
の第 2 巻は『現代的人権と社会教育の価値』であり、現代的人権の学習の全般にわたる研究成果を収録している。
金子郁容『ボランティア―もうひとつの情報社会―』岩波書店、1992年、103-111頁参照。
黒沢惟昭・前掲論文、25頁参照。なお、黒沢のこの論文の結論は、ボランティア活動を基礎に公民の形成、つま
り個人の自立による共同態=市民社会が創造されるという。(26頁参照。)
以上の点については、金子・前掲書、112頁参照。
このように、ギリガンのケアの倫理を理解するものとして、塩野谷・前掲書、298頁参照。
子どものシティズンシップ教育の事例を検討したものであるが、
阿久澤麻里子
「ボランティア活動・奉仕活動を検
討する視点―イギリスにおけるシチズンシップ教育導入に関する議論から学ぶ―」日本社会教育学会編『子ども・
若者と社会教育―自己形成の場と関係性の変容―』 日本の社会教育第46集、
東洋館出版社、2002年、210-222頁参照。
この事例については、長沼豊『市民教育とは何か―ボランティア学習がひらく―』ひつじ書房、2003年、56-71頁
参照。
たとえば、長沼・前掲書があげられる。
このような事情を分析検討した研究として、中川恵理子「米国の世代間プログラムの理論と方法―青少年・高齢
者への対応と市民教育の可能性―」日本社会教育学会『日本社会教育学会紀要№38』2002年、89-99頁参照。
コミュニタリアンのエッツィオーニやバーバーなどの理論はこれである。このようなコミュニタリアニズムの視
点から市民教育にアプローチした研究として、坂口緑「市民教育としての生涯教育―コミュニタリアニズムの取り
組み―」日本生涯教育学会『日本生涯教育学会論集20』1999年、13-20頁参照。
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社会教育における「市民教育」の可能性
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