ムハンマドによる予言 説明: 預言者ムハンマドの予言はその存命期と死後において、実現しました。これらの予言は、ムハンマ ド(彼に神からの祝福と平安あれ)の預言者性に対する明白な証拠であると言えるでしょう。 より IslamReligion.com 掲載日時 30 Aug 2010 - 編集日時 30 Aug 2010 カテゴリ:記事 >イスラームの真実性を示す数々の証拠と奇跡 > ムハンマドの預言者性に関する証拠 カテゴリ:記事 >預言者ムハンマド > 彼の預言者性の証拠 ある人物の預言者性を証明する方法の一つとして、 過去の出来事にせよ日常生活にせよ、あるいは未来に 起こることにせよ、的確に真実を述べるということが 挙げられます。クルアーンに加え、ムハンマドが口に した多くのことには、近い未来、あるいは遠い未来に 関する、彼の存命中に成された複数の予言が含まれて います。そしてその内の一部は既に実現し、他のもの はその成就を待っているのです。預言者ムハンマドの 弟子の一人フザイファは、こう言っています: 「預言者はある時、私たちの前で説教を行なった。彼はその中で、最後の時までに起こる全ての予 兆について、余す事無く言及した。しかし私たちのある者はそれを記憶し、ある者は忘れてしまっ た。その説教の後、私はその説教の中で言及された出来事が起こるのを見たものであったが、それ らが起こる前にはそのことを忘れてしまっていた。そして私は、人が不在であった者を目にして認 識するように、それらの出来事を認識するのであった。」(アル=ブハーリーの伝承) 預言者ムハンマドの存命期とその後の第一世代の間に実現した彼の予言は、知られ、確 証されているだけでも、少なくとも160に上ります。[1] ここでは、その内の一部を取り上げるだけに留めます: (1)預言者ムハンマドがバドルの役に先駆けて、マッカの不信仰者たちからなる各戦士の戦死する 場所を的確に言い当てたこと。バドルの役は西暦623年、ムスリムたちがマッカからマディーナへと 移住した翌年に起きた、マッカの不信仰者たちとの最初の重大な決戦でした。[2] (2)「部族連合の役」が、クライシュ族(マッカの不信仰者たち)からムスリムたちへと向けられ る最後の軍事的遠征となることを予言。この戦いは626年、ムスリムたちがマッカからマディーナへ と移住してから5年目に起き、そして事実これが両軍にとっての最後の軍事衝突となりました。そし てその数年後、全マッカ市民はイスラームを受容することになります。[3] (3) 預言者ムハンマドがその娘ファーティマに、彼女が彼の没後、彼の家族で最初に死ぬであろうこと を予言したこと。この中には2つの予言が含まれています:つまりファーティマがその父親よりも長 く生きることと、彼女が彼の没後、彼の家族で最初に死ぬ者となることです。そしてそのいずれも 実現しました。[4] ムハンマドによる予言 1 of 4 www.IslamReligion.com (4) 彼の死後にエルサレムが併合されるという予言[5] 。この予言はブリタニカ百科事典によれば、638年にムスリムのカリフであったウマルがエルサレム 入城した際に、実現を見ました。[6] (5) ペルシャ征服の予言[7] 。これは、ウマルの指令官サアド・ブン・アビー・ワッカースによってなされました。ブリタニカ 百科事典には、こうあります: 「…マディーナにおけるムハンマドのカリフ、あるいは代理人であるアブー・バクルと ウマル・ブン・アル=ハッターブによって、ササン朝ペルシャ領域への攻撃が迅速に行なわ れました…。636年から637年にかけてのカーディスィーヤでのアラブの勝利に続き、ティグ リスにおけるササン朝ペルシャの冬の首都クテシフォンが略奪されます。そして642年のニハ ーヴァンドの戦いで、ササン朝の敗北は完全なものとなりました。」[8] (6) エジプト征服の予言[9]。ブリタニカ百科事典には、こうあります: 「アムル…は639年、約4000名(後に援軍が加わります)の小さな軍と共に、征服を行な いました。そして驚くべき速さでビザンチンの勢力は根こそぎにされ、彼らは642年にエジプ トから撤退しました…。この征服が遂行された速さに関しては、多くの説明がなされていま す。」[10] (7) トルコとの対決に関する予言[11] 。最初の衝突はヒジュラ暦22年、ウマルのカリフ期に起きました。[12] (8)ムスリムによる最初の海戦が、海洋遠征に参加した最初の女性であるウンム・ハラームによっ て目撃されるということの予言。また彼は、コンスタンティノープルへの最初の襲撃に関しても予 言しました。[13] ムスリムの歴史上初の海戦は、ヒジュラ暦28年のムアーウィア統治下で起こりました。 そしてそれは預言者ムハンマドの予言通り、ウンム・ハラームによって目撃されました。ま たムアーウィヤの息子のヤズィードは、ヒジュラ暦52年に最初のコンスタンティノープル襲 撃を指導しました。[14] (9)626年の部族連合の役という非常に過酷であった状況において、ローマとペルシャとイエメンが 征服されることを予言したこと。[15] クルアーンには、その時の様子がこう描写されています: -彼らがあなた方の上方から、またあなた方の下方からやって来た時(のこと を思い起こすのだ)。そして(余りの恐怖によりあなた方の)眼が定まらず、 心臓が喉もとまで達し、あなた方が神に対して悪い疑念を抱いてしまった時 のことを。信仰者たちはそこで試練にかけられ、激しく動揺した。また、偽 信者たちと心に病を宿す者たちが、こう言った時のこと(を思い出すのだ) :「神とその使徒が私たちに約束したものは、虚妄以外の何ものでもなかっ たのだ。」,(クルアーン 33:10 12) (10)ムハンマドの存命期に、神の御名において語ると自称する詐欺師が、一人の正しい男によっ て殺されるという予言。[16] て事実、アル=アスワド・アル=アンスィーというイエメンの自称預言者が、彼の存命期にファイ ルーズ・アッ=ダイラミーによって殺されています。[17] ムハンマドによる予言 2 of 4 www.IslamReligion.com またその他にも更に、最後の時に関して実現が待たれている、少なくとも28の予言があ ります。 これら信頼性の高い記録による予言の数々は、ムハンマド(彼に神からの祝福と平安あ れ)の預言者性に対する明白な証拠です。これらの出来事に関する知識は、神による啓示以 外のものをもって彼が習得出来たようなものではありません。そしてその全ては、ムハンマ ドが詐欺師などではなく、むしろ人類を地獄の業火から救い出すために神から遣わされたの だ、という彼の信憑性を証明するためのものだったのです。 Endnotes: [1] Dr. Muhammad Wali-ullah al-Nadavi in his Master’s thesis entitled, ‘Nubuwwat al-Rasul,’ from al-Azhar University, Cairo, Egypt. [2] Saheeh Muslim, Abu Ya’la. [3] Saheeh Al-Bukhari, Bazzar, and Haithami. [4] Imam al-Nawawi ‘Sharh’ Saheeh Muslim,’. [5] Saheeh Al-Bukhari [6] “Jerusalem.” Encyclop dia Britannica from Encyclop (http://www.britannica.com/eb/article-61909) dia Britannica Premium Service. [7] Saheeh Muslim. [8] “Iran.” Encyclop dia Britannica from Encyclop (http://www.britannica.com/eb/article-32160) dia Britannica Premium Service. [9] Saheeh Muslim. [10]“Egypt.” Encyclop dia Britannica from Encyclop (http://www.britannica.com/eb/article-22358) dia Britannica Premium Service. [11] Saheeh Al-Bukhari, Saheeh Muslim. [12] Ibn Kathir’s ‘al-Bidaya wal-Nihaya.’ ムハンマドによる予言 3 of 4 www.IslamReligion.com [13]Saheeh Al-Bukhari, Saheeh Muslim. [14]Ibn Kathir’s ‘al-Bidaya wal-Nihaya.’ [15] Saheeh Al-Bukhari, Saheeh Muslim. [16] Saheeh Al-Bukhari. [17] Encyclopedia of Islam. この記事のウェブアドレス: http://www.islamreligion.com/jp/articles/379 Copyright 2006-2011 www.IslamReligion.com. All rights reserved. ajsultan ムハンマドによる予言 4 of 4 www.IslamReligion.com
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