わたしと東京

[わたしと東京]
こと﹂でしたので、子供なりにドレスアップしてサンフラ
の時代。飛行機に乗って旅をすることはまだまだ﹁特別な
関は、現在の姿からは想像もできないほど小さい羽田空港
時でした。戦後目覚ましい勢いで発展を遂げた日本の表玄
は思い返せば今から四〇年も前。一九七二年、私が三歳の
の私にとっては初めての異国の都市。東京に降り立ったの
日本人の母にとっては初めての里帰り。アメリカ生まれ
合。連日の大歓迎会はまさに﹁狭いながらも楽しい我が家﹂
家でした。よくある下町の古くて小さな家に親戚が全員集
のいる新富町の実家はいつも人の出入りがあるにぎやかな
です。祖父は母が二〇歳のころに亡くなりましたが、祖母
て里帰りしたということで、祖母は本当に嬉しかったよう
単身で行った末娘が四年ぶりに、しかもハーフの孫を連れ
物心ついたころからずっと育ったところでした。渡米時は
堀江の家は戦前に新橋から新富町に住まいを移し、母が
ヨーコ
ゼッターランド
ンシスコから搭乗したのを覚えています。まだ見ぬ﹁To
そのものだったと思います。アメリカの家は絨毯にドア。
To ky o 、トーキョー、東京
ky o ﹂は私の中でいろんな想像をかきたて、質問攻めに
セントラルヒーティングに食洗機。当然のことながら洋式
てが当たり前のようにあった良き時代でした。バブル崩壊
ほとんど見られなくなった大家族と、地域ぐるみでの子育
わりでやってきては面倒を見てくれました。今の都心では
離れた従姉妹たちがいる叔父一家や近所の皆さんが入れ替
ぶりのチビッコ登場ということで叔母たちをはじめ、年の
で上を下への大騒ぎ。手がかかるとはいえ、それでも久し
すわってお尻がすっぽりキンカクシにはまってしまうわ、
障子に触って紙を破くわ、はてはトイレに入れば逆向きに
ショックを覚えました。家に入るのに靴は脱ぎ忘れるわ、
トイレ。私にとっては、日本で見るものすべてにカルチャー
あった母にとっては疲労困憊の旅の始まりでした。
母は一九六八年に渡米し、サンフランシスコでスウェー
デン出身の父と結婚。翌年に私が生まれました。五人兄妹
の末っ子である母に子供が誕生したことは、堀江家にとっ
て一五年ぶりにチビッコがやってきたと祖母や叔父、叔母
たちがとても喜んでくれました。子供のいない叔母の一人
などは母が送った私の写真を見て﹁かわいい、かわいい﹂
と一日も早く私と会うことを楽しみにしてくれていました。
航空券がとても高かった頃でしたが、会いたい一心でその
叔母が母に航空券を買ってくれたそうです。こうして私に
とって初の東京行きが叶ったわけです。
左から おじ、おば、私、いとこ
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来たころには花柳界の雰囲気がまだまだ残っていました。
後にすっかり様変わりしてしまった新富町ですが、初めて
てきたりと今で言う﹁B級グルメ﹂もいつも身近にありま
おでん屋さんが屋台を引っ張ってきたり、チャルメラがやっ
乗せて町内をまわってくれました。魚屋のじいのほかにも
鉄砲州神社でのおさらい会
日本舞踊の師匠 花柳千寿緑先生と私
日でした。現在、京華小学校は少子化で廃校となり、建物
の生活は、自分のアイデンティティー探しで迷子になる毎
多く な りまし た。 楽しか っ たはず の 大都市﹁ トー キョー﹂
子供は正直なだけにけっこう厳しい現実と向き合うことが
との会話もとんちんかん。大人は理解してくれましたが、
校区制限もなかった︶
。学校では日本語に四苦八苦し、友達
国籍だったため、日本での義務教育権利はなく、そのため
堀にある京華小学校に行くことになりました︵※当時は外
ことです。新富町の家で祖母と暮らし始め、越境して八丁
母と共に日本に移住することになったのが一九七五年の
とになろうとはこの時夢にも思っていませんでしたが⋮。
ら三年後に再び日本にやってきて、新富町に住み始めるこ
身近な﹁トーキョー﹂に変わりました。もっとも初来日か
とっては遥か遠い国にある﹁To ky o ﹂でしたが、少し
か月の滞在でずいぶん日本語も覚えました。それまで私に
ことがたくさんあることが子供には大きな刺激でした。四
も車移動のアメリカに対して、徒歩圏内でこんなに楽しい
ローショー。昭和時代の子供の天国でした。どこに行くに
売り場と食堂のお子様ランチ。そして屋上の乗り物とヒー
場へ。母は三越へ。私の目的は、両デパートの五階おもちゃ
りました。
﹁銀ブラ﹂しながら祖母は松屋の地下食料品売り
したが、しだいにその人混みに心地良さを覚えるようにな
行けることですね。初めての銀座は人の多さに目を回しま
気のある築地市場が近く、そして華やかな銀座まで徒歩で
新富町のいいところはのんびりした小さな町ですが、活
した。
近所には黒塀の料亭もありましたし、お向かいには新橋の
芸者さんも住んでいました。いつも三味線と長唄のお稽古
をしている様子が聞こえてきて、のんびりとした風流な町
でした。そんな地域でしたから日本舞踊を教えてくれるお
師匠さんも多く、日本にいる間だけでもと花柳流の踊りに
通わされました。初めて教わったのは﹁さくらさくら﹂だっ
たと思いますが、慣れない浴衣に帯を締めてのお稽古は本
当に窮屈なものでした。正座は足が痺れましたし、お稽古
の順番を待ちつつ、ゆっくりとしたテンポの音楽を聴きな
がら眠ってしまったこともしばしば。かなり不真面目な弟
子でしたが、帰りにはお菓子を持たせてくれるなどしてお
師匠さんにはとても可愛がっていただきました。
今の新富町と築地は隣り合わせですが、昔は近辺に小田
原町という地名があったり、銀座との間に木挽町があった
りしました。今は交番の名前として残っているぐらいです
ね。近ごろ、
街を歩いているとマンションの名称に﹁銀座東﹂
とついているのをよく見かけます。確かに銀座の東側に位
置していますが実際には﹁銀座﹂ではありません。合理的
な合併には賛成するところもありますが、粋な名前がだん
だん少なくなって残念です。築地が近ければ食卓には当然、
新鮮な魚がよく並びました。祖母は海の近くで育った人で
したから、大の魚好き。河岸からは毎日のように﹁魚屋の
じい﹂が自転車にリヤカーをつなげて魚を運んできました。
チリン、
チリンとベルを鳴らし﹁さかーなーやーでございー、
まいどー﹂とやってくると家々から夕飯用の魚を求めに人
が出てきました。アメリカでは大型スーパーに車で買い出
しに行くことに慣れていましたから、人が直接食料を運ん
は残したまま民間が活用しています。町の印刷工場はビル
に変わり、小学校の同級生もほとんど住んでいないようで
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でくる光景は本当にセンセーショナルでした。じいは仕事
がひととおり終わると荷台の木のふたを閉め、子供たちを
エッセイ
が支えになりました。六本木に住んでいた叔母を訪ねて、
んだりしない、明るく前向きな下町家族の存在とスポーツ
小学校生活は苦い思い出もありましたが、一緒に落ち込
域に遠い懐かしさが少しの痛みと共によみがえります。
と時間をかけて﹁東京﹂に溶け込み始めた自分を感じた地
す。時々その前を通りますが、
﹁トーキョー﹂からゆっくり
も﹁これだ!﹂と思うものに出会えなかった中での巡り合
言えない衝撃でした。東京に来てから﹁自分探し﹂をして
たのは初めてでした。外から見ているのとは違う。何とも
ルがつながり、チームとしての達成感みたいなものを感じ
それまでスポーツといえば個人競技ばかりでしたので、ボー
お母さんより上手いんじゃないの?﹂と褒めてくれました。
もいいプレーをしたら﹁いいねぇ。陽子ちゃん、
上手いねぇ。
人の娘とはいえ、小生意気な小学生に皆さんはちょっとで
母﹁電車で二〇分ぐらいかな。
﹂全国大会に出るようなチー
私﹁うちから近い?﹂
、母﹁近いわよ。
﹂
、私﹁どれくらい?﹂
、
どこにあるの?﹂と聞くと﹁文京区よ﹂と教えてくれました。
﹁文京十中︵東京︶
﹂となっていたので、母に﹁ここの学校、
ログラムを見ていたら準優勝チームの一回戦の対戦相手が
館であるから観に行こう。
﹂と連れて行ってくれました。プ
六年生の夏に母が﹁中学生の全国大会の決勝が東京体育
した。
もんもんとしながら家の前の駐車場で一人練習をしていま
ちがありましたが、近所には小学生バレーのチームがなく、
どころ﹂にもなりました。毎日でも練習したいという気持
夢中になれるものを見つけられたことは同時に﹁心のより
それからは寝ても覚めてもバレーボールのことばかり。
じ取ったのか、母はついに折れました。
誰に何を言われても絶対にやる!という娘の固い意思を感
意志で何かをしたいと思った事は生まれて初めてでした。
決意は変わりませんでした。それほどまでに強く、自分の
誰でもなれるもんじゃないんだから﹂と言われましたが、
んた ! 隣にいるおばちゃんが金メダリストだからと言って
りたいと思います。よろしくお願いします。
﹂母には、
﹁あ
んのおばちゃんのようにオリンピックに出て金メダルを取
習後の食事会で私は次のように挨拶しました。
﹁私も河西さ
いでした。すっかりバレーボールの虜になったその日、練
少しアメリカのにおいがする明治屋で買い物をしてアップ
知ってるおじちゃん、おばちゃん﹂でしかありません。知
手だった母を知らない私にとっては、その仲間は﹁昔から
西昌枝︵現・中村︶さんはじめ、往年の名選手ばかり。選
ました。コートには東京オリンピックの金メダリストの河
いということで引っ張り出され、しぶしぶコートに向かい
に触ろうとしませんでした。そんなある日、人数が足らな
だったんですね。ですから何度誘われても頑としてボール
のものが本当に嫌いでした。今考えれば﹁子供のやきもち﹂
発見し、そんな母の一面を引き出すバレーボールの存在そ
を見ていると、自分が全く知らない楽しそうな母の一面を
連れて行かれるように。バレーボールに夢中で取り組む母
んで食事会というパターンだったのですが、いつしか私も
集まって九人制ゲームを楽しんだ後、両国のちゃんこ屋さ
の縁もあって体育館を借り、母は昔のバレーボール仲間と
の一人と母は同校バレーボール部のOGでもあります。そ
えました。バレー部も創部八〇年と歴史があります。叔母
洋戦争で二度焼失しましたが、復活して創立一〇〇年を超
れました。江東区清澄にある中村高校は関東大震災と太平
後の母校となる中村高校でバレーボールの魅力にとりつか
動半径を少しずつ広げていましたね。小学校五年生の時に
小学生のわりには一人で地下鉄や国鉄︵JR︶に乗って行
ススクールに出かけたりと子供なりに忙しい毎日でした。
ころにアルバイトにいったり、母にくっついて晴海のテニ
ルパイを作ったり、千駄ヶ谷で花屋を営んでいた叔母のと
初めてバレーボールに触れた日(小学3年生頃)
38 ●
は﹁ここに行ってバレーする。
﹂と進路を即決し、母に言い
ムがうちから通えるところにある⋮と思ったと同時に、私
行くことにしました。センターコートで試合している選手
二年生八人だけで自分たちが敗れた全国大会の決勝を観に
技術も未熟で、チームもベスト一六止まりでした。そこで
中3での全国大会優勝
トランタ五輪では7位入賞。
の街は、今でも私の原点です。
その後、高校、大学時代もずっと暮らすことになる東京
でした。
大切さを教えてくれたのです。文京十中の校訓は
﹁自主協調﹂
ルは自立の精神を与えてくれたと同時に、仲間との協調の
割を見つけることができました。東京で始めたバレーボー
としてするべきこと、チームのために自分の果たすべき役
りました。チームが日本一を目指して進む中、自分が個人
出会って選手になり、文京十中バレーボール部の一員にな
う﹂と答えを求めていました。そんな中でバレーボールと
六歳で日本に移り住んでからずっと﹁自分は何者なんだろ
文京区立第十中学校﹂と体育館中にアナウンスが響きました。
しかったですね。表彰状が読み上げられた時、
﹁東京都代表、
ました。その声援に後押しされ、念願の初優勝。本当に嬉
方や父母会の先頭に立って、大声援をみんなで送ってくれ
に学ランに鉢巻姿で急造応援団を結成し、駆けつけた先生
と一緒に応援に来ました。男子バレー部は真夏だというの
めったに試合を見に来られなかった母は休みをとり、祖母
対に優勝するよ!﹂と声を掛け合いました。普段は仕事で
試合前には﹁やっと東京体育館の一面だよ!決勝だよ!絶
実現できるところまで来ていました。いよいよ決勝の日、
筆頭に上がるようになり、一年前に同級生で立てた誓いが
一九八三年の夏が近づくにつれて文京十中は優勝候補の
誓い合いました。
は絶対に自分たちがあの場所でプレーをするんだと八人で
ました。果たして入学が可能なのかどうかなどまったく考
ボール以外の分野でも活躍している。
がいるのに自分たちは観客席でそれを見ているだけ⋮来年
ケットボールリーグの理事を務めるなどバレー
92年バルセロナ五輪で銅メダルを獲得、96年ア
えておらず、段取りもまったくお構いなし。決めたのだか
日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)や日本バス
ナルチーム入り。
ら必ず叶うと信じて疑いもしませんでした。プロになって
動。
早稲田大学卒業後、単身渡米し、アメリカナショ
から何度も新しくなった東京体育館で試合もしましたし、
現在はスポーツキャスターとして、各種メディア
今は解説で通ったりしていますが、行くたびにその日の事
日本のVリーグでも活躍し、99年6月に現役引退。
表選手
を思い出します。競技者としての最初の一歩を踏み出した
スポーツキャスター・元バレーボールアメリカ代
ところです。何の迷いもなく、決断できた理由が何だった
1969年3月24日アメリカ生まれ。
のか今でもわかりません。ただ、あの時に決めたことは人
生最良の選択だったということは間違いありません。
少し春の暖かさを感じるようになった頃、中学の入学に
合わせたかのように有楽町線の駅がひとつ増えて新富町ま
で延びました。
﹁なんかラッキーだね!﹂と我が家では盛り
上がっていました。ある日の朝七時頃、中学校へ行くため
に駅の階段を降りようと思ったらビルの間からぱぁーっと
朝日が差し込んできて、その光を受けながら何とも言えな
い明るい気持ちになりました。
﹁新しい環境で、新しい仲間
と 好 き な バ レ ー ボ ー ル が で き る! 良 か っ た な ぁ! 嬉 し い
なぁ!﹂と、どんなことでも頑張れるエネルギーが体の中
からあふれ出てくるような感覚は一生忘れないと思います。
とんどは小学生バレー経験者でしたから、私は怒られてば
入学してからはまさにゼロからのスタート。同級生のほ
かりでした。とはいえ
﹁いつかオリンピック選手になりたい﹂
という私に、恩師である石本星二先生は真剣に向き合って
下さり、厳しくも将来を見据えた指導をして下さいました。
選手として技術がうまくなればいいと言うだけでなく、社
会の一員としてどうあるべきかを常々、おっしゃっていま
した。先輩に恵まれ、応援してくれるクラスメイトや学校
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の先生方にも本当に恵まれたと思います。
中二の夏に全国大会に出場しましたが、この時は個人の
エッセイ
ヨーコ ゼッターランド(日本名:堀江陽子)プロフィール
へ出演するほか、後進の指導、講演など幅広く活