近年のプルースト研究の動向 津森圭一 本稿では主に 2012 年以降の

近年のプルースト研究の動向
津森圭一
本稿では主に 2012 年以降のマルセル・プルースト研究の動向を記したい。近
年のプルースト研究においてまず特記すべきなのは、フランス国立図書館の電
子テクストサイト Gallica において、Fonds Marcel Proust(マルセル・プルースト・
コレクション)の一般公開作業が完了しつつあることである。4 冊の「カルネ」
と呼ばれる創作手帳、75 冊のカイエ(小説執筆のための原稿帳)、20 冊の清書用
原稿ノートをはじめ、
『失われた時を求めて』のいくつかの巻のタイプ原稿や校
正刷りなどのファクシミレ版がウェブ上で閲覧できるようになった。さらには、
学生時代の作文や講義ノートをはじめ、『楽しみと日々』(1896 年)の草稿、未
刊の小説『ジャン・サントゥイユ』
(1895〜1899 年執筆)の執筆に使われた大判
のルーズリーフ、ラスキン『アミアンの聖書』(1904 年)および『ごまと百合』
(1906 年)翻訳のためのノートも最近になって Gallica にて公開された。
いっぽうで、フランス国立図書館およびベルギーの出版社ブレポルス書店に
よる 75 冊の原稿帳の出版が進んでいる1。2008 年にカイエ 54 が出版されて以
来、2010 年にカイエ 71、2011 年にカイエ 26、2013 年にカイエ 53、そして 2015
年になってカイエ 44 が出版されたところである。ブレポルス版の各カイエは 2
巻 1 組となっている。1 巻が草稿帳のファクシミレ版および各断章の執筆順序を
ヴィジュアルに提示した「ディアグラム」、もう 1 巻が草稿帳のレイアウトを忠
実に再現しながら転写したディプロマティック版と詳細な解説および注からな
っており、最重要の研究コーパスとなっている。日本からも、中野知律(カイエ
54)、黒川修司(カイエ 71)、湯沢英彦、和田章男(カイエ 26)、吉川一義(カイ
エ 53)、村上祐二、和田恵里(カイエ 44)が解読および編集に参加している。
2013 年は『失われた時を求めて』第 1 篇『スワン家の方へ』がグラッセ書店
から刊行されてから 100 周年であった。これを記念して数々のシンポジウムが
開催された。2012 年に前倒しで企画されたスリジー=ラ=サルでのプルースト・
コロック« Swann, le centenaire »2では、一週間にわたり、この巻をめぐり 20 件以
上の研究発表が行われ、その成果は 2013 年、エルマン書店より、Swann le
centenaire として出版された3。2013 年 7 月にはパリにてコロック« Du côté de chez
Swann ou le cosmopolitisme d’un roman français »が開催され、プルーストのテクス
1
Marcel Proust, Cahiers 1 à 75 de la Bibliothèque nationale de France, Paris, Bibliothèque nationale
de France ; Turnhout (Belgique), Brepols.
2 « Swann, le centenaire », organisé par Antoine Compagnon et Kazuyoshi Yoshikawa, Cerisy-LaSalle, 27 juin-4 juillet 2012.
3 Swann le centenaire, sous la direction d’Antoine Compagnon et Kazuyoshi Yoshikawa, avec la
collaboration de Matthieu Vernet, Paris, Hermann, coll. « Colloque de Cerisy », 2013.
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トがはらむナショナリズム、オリエンタリズム、反ユダヤ主義、多国籍性、コス
モポリティズムにつて討議された4。
『スワン家の方へ』出版 100 周年を記念する
シンポジウムは、そのほかアメリカ合衆国、イギリス、イタリア、オランダなど
でも開催されている。
2013 年には文芸雑誌におけるプルースト特集号の発刊も相次いだ。フランス
では Europe5、Genesis6、NRF7などでプルースト特集号が組まれた。また、パリ
第 16 区にあるサンジェ=ポリニャック財団では、« Proust et ses amis »と題され
たシンポジウムが 3 度にわたって(2008 年 11 月 7・8 日、2011 年 3 月 11・12
日、2013 年 6 月 7・8 日)開催された。これは作品中で疑問に付されている「友
情」の問題系を再検討する試みでもあり、プルーストの交友関係が作品にどのよ
うな影響をおよぼしているかが、作家自身と付き合いのあった人物を通して考
察された。各セッションの成果はすでに論文集として出版されている8。さらに
は、フランス文学情報サイト Fabula 上のウェブ雑誌 Acta Fabula では、2013 年 2
月にプルースト研究の書評特集« LET’S PROUST AGAIN ! »が組まれ、総勢 15 名
の研究者が近年出版された研究書や雑誌のプルースト特集号について論じた。
日本では 2013 年 10 月に、岩波書店『思想』が『スワン家の方へ』100 周年を特
集し、
「時代のなかのプルースト」というテーマで、13 名の研究者が「時代」を
テーマに歴史的、思想的、芸術的アプローチでプルーストを論じている9。
第一次世界大戦開戦 100 周年であった 2014 年には、周知のように数々の記念
事業が展開された。『見出された時』(1927 年)で戦時下のパリを活写したプル
ーストもこれら一連のイベントと無縁ではなかった。たとえば、2014 年には La
Guerre de Marcel Proust10と題された論文集が出版され、プルーストと第一次世界
大戦をめぐる 12 本の論文が収められた。プルーストと戦争をテーマに著書や論
文も数多く発表されている。中でも注目すべきは、2015 年 3 月に発刊の坂本浩
« Du côté de chez Swann ou le cosmopolitisme d’un roman français », colloque organisé par Antoine
Compagnon et Nathalie Mauriac Dyer avec le soutien du LabEx TransferS et du CNRS, 13-14 juin
2013.
5 Europe. Revue littéraire mensuelle, « Marcel Proust », no 1012-1013, août-septembre 2013, sous la
direction de Gennaro Oliviero et Philippe Chardin.
6 Genesis, « Proust 1913 », no 36, sous la direction de Nathalie Mauriac Dyer, 2013.
7 La Nouvelle Revue française, « D’après Proust », sous la direction de Philippe Forest et Stéphane
Audeguy, no 603-604, mars 2013.
8 Proust et ses amis, sous la direction de Jean-Yves Tadié, Paris, Gallimard, « Les Cahiers de la NRF »,
2010 ; Le Cercle de Marcel Proust, sous la direction de Jean-Yves Tadié, Paris, H. Champion,
« Recherches proustiennes », no 24, 2013 ; Le Cercle de Marcel Proust II, sous la direction de JeanYves Tadié, Paris, H. Champion, « Recherches proustiennes », no 31, 2015.
9 『思想』
「時代のなかのプルースト-『失われた時を求めて』発刊 100 年-」岩波書
店、第 1075 号、2013 年 11 月.
10 Proust écrivain de la Première Guerre mondiale, sous la direction de Philippe Chardin et Nathalie
Mauriac Dyer, avec la collaboration de Yuji Murakami, Éditions Universitaire de Dijon, coll.
« Écriture », 2014.
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也『プルーストの黙示録』である11。この著作では、戦争文学として『失われた
時を求めて』を読む試みであり、表象文化史の立場から当時の文脈を見渡し、プ
ルースト作品と第一次世界大戦との関係の特異性が浮き彫りにされている。
プルースト友の会会報 Bulletin Marcel Proust の各号に記載されている書誌によ
ると、プルーストに関する著作、論文、書評の年間発表件数は、ここ数年 200 を
下回ることはなく、プルースト研究熱はいまだ衰えを見せない。アニック・ブイ
ヤ ゲ に よ っ て 編 集 さ れ て い る オ ノ レ ・ シ ャ ン ピ オ ン 書 店 の « Recherches
proustiennes »叢書からは、2000 年以来現在までに 30 点以上の著作や論集が出て
いるし、リュック・フレスが編集する« Bibliothèque proustienne »叢書からは 2011
年以来、すでに 9 点の専門書が世に出ている。また、上記のカイエ出版事業を進
めるブレポルス書店の« Le Champ proustien »叢書からは、フランスと日本で行わ
れたプルーストの草稿をめぐるシンポジウムの成果が 2011 年に Proust aux
brouillons12として発刊された。同叢書から 2014 年にはソフィー・バッシュの
Rastaquarium : Marcel Proust et le « Modern Style »13が発表されたが、この著作は
プルーストにおける装飾芸術を、当時の政治問題と結びつけて論じた画期的な
研究として着目を集めている。
近年とりわけ話題となった研究として、リュック・フレスによる 1,300 ページ
を超える大著 L’Éclectisme philosophique de Marcel Proust14を挙げておこう。この
著作は、プルーストが受けた哲学教育を、学生時代の講義録等から洗いざらい調
査し、プルーストの作品における 19 世紀フランスの哲学の影響を網羅的にまと
めた大著である。リュック・フレスは現在『失われた時を求めて』の新たなる校
訂版を準備しており、2015 年 3 月現在までに、第 5 篇『囚われの女』が発刊さ
れている15。
日本国内に目を向けると、まず翻訳に関しては、2014 年 6 月に『失われた時
を求めて』
(岩波文庫・吉川一義訳)の刊行が第 4 篇『ゲルマントの方』まで完
了し、折り返し地点にさしかかったところである。また、プルースト全集(筑摩
書房)所収の『楽しみと日々』
(岩崎力訳)が 2015 年に岩波文庫から再版となっ
た。研究書としてプルースト研究者のみならず、広く日本の文学研究者の注目を
坂本浩也『プルーストの黙示録-『失われた時を求めて』と第一次世界大戦』慶應義塾
大学出版会、2015 年.
12 Proust aux brouillons, sous la direction de Nathalie Mauriac Dyer et Kazuyoshi Yoshikawa,
Turnhout, Brepols, « Le Champ proustien », 2011.
13 Sophie Basch, Rastaquarium : Marcel Proust et le « Modern Style ». Arts décoratifs et politique
dans À la recherche du temps perdu, Turnhout (Belgique), Brepols, « Le Champ proustien », 2014.
14 Luc Fraisse, L’Éclectisme philosophique de Marcel Proust, Paris, Presses de l’université ParisSorbonne, 2013.
15 Marcel Proust, La Prisonnière, édition critique par Luc Fraisse, Paris, Classiques Garnier, 2014.
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集めたのが、2013 年に発表された中野知律『プルーストと創造の時間』16であっ
た。作家における「読む」、
「書く」、
「生きる」それぞれの行為の関係性を、第三
共和政における高等教育をめぐる論争や、大学での文学教育・研究のあり方から
説き起こし、プルーストによる証言の有無にかかわらず、同時代の文学作品を見
渡したものである。また、プルーストの独創であるとみなされがちであった『サ
ント=ブーヴに逆らって』が当時の文芸批評の趨勢に沿ったものであるという
解釈が説得的な根拠とともに示されている。
最後に国内外のプルースト研究の近年の動向をまとめたい。1970 年代より盛
んとなった草稿研究が、カイエ出版事業とリンクするかたちで続けられるいっ
ぽうで、若い世代の研究者は歴史学的アプローチに向かい、必要に応じて資料体
としての草稿にも注意を向ける傾向が強くなってきている(村上祐二によるプ
ルーストにおけるドレフュス事件と反ユダヤ主義に関する博士論文がその代表
例として頻繁に言及されている17)。また、プルースト自身が享受した文学的あ
るいは芸術的遺産のあり方を、作家と同時代の文献を広く渉猟しつつ、時代的文
脈の中でより精密に捉えなおし、先行研究とは異なった視点を提示する研究も
多くなっている。たとえば 2012 年に出版された論文集 Proust face à l’héritage du
XIXe siècle18はこの方針に貫かれている。いっぽうで、プルーストの後世が作家か
らどのような影響を受けたかに焦点を当てた研究がにわかに盛んとなってきた。
ミナール書店より出ているプルースト研究叢書« Revue des Lettres Modernes.
Série Marcel Proust »の第 8 号および第 9 号では、プルーストと近現代の思想家、
小説家との関係を論じる特集が組まれた19。日本では、2014 年 5 月 10 日に明治
学院大学で開催されたコロック「プルーストと 20 世紀」20で、国内の 20 世紀文
学や現代思想の専門者が、みずからの研究対象(ブルトン、ヴァレリー、サルト
ル、バタイユ等)におけるプルーストの存在について論じ合った。2015 年 3 月
にはその成果が『言語文化』特集「プルーストと二十世紀」として出版されたと
ころである21。
(一橋大学特任講師)
中野知律『プルーストと創造の時間』名古屋大学出版会、2013 年.
Yuji Murakami, « L’Affaire Dreyfus dans l’œuvre de Proust », thèse de doctorat dirigée par A.
Compagnon, Université Paris-Sorbonne IV, 2012.
18 Proust face à l’héritage du XIXe siècle. Tradition et métamorphose, sous la direction de Nathalie
Mauriac Dyer, Kazuyoshi Yoshikawa, Pierre-Edmond Robert, Paris, Presses Sorbonne Nouvelle, 2012.
19 Marcel Proust 8 : Lecteurs de Proust au XXe siècle et au début du XXIe 1, Caen, Lettres Modernes
Minard, 2010 ; Marcel Proust 9 : lecteurs de Proust au XXe siècle et au début du XXIe 2, Caen, Lettres
Modernes Minard, 2012.
20 「プルーストと 20 世紀」主催:明治学院大学文学部フランス文学科、企画コーディネー
ター:湯沢英彦、吉川佳英子、2014 年 5 月 10 日、於明治学院大学.
21 『言語文化』
「プルーストと二十世紀」明治学院大学言語文化研究所、第 32 号、2015 年
3 月.
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