私は、エジプト取材後、ある市民集会で、エジプト革命の中心に

ウルトラスの革命 エジプト民衆革命への−視点
私は、エジプト取材後、ある市民集会で、エジプト革命の中心にウルトラスがいたことを話
しました。すると、話を聞いて怒り出す人がいました。「サッカーの応援団と言うのは右翼
じゃないか、右翼の話を聞くために来たのではない」
「ウルトラスの革命」と聞いて狐につままれたような気持ちになる人がいるかもしれません
が、エジプト革命は、右とか左という従来の政治的な枠を超えています。その革命の本質を
分析していきたいと思います。
1、「4月6日運動」と左翼運動
「アラブの春」は「フェイスブック革命」とも呼ばれています。「フェイスブック革命」と
いう言葉を最初に使ったのはニューヨークタイムズの記事で、それは革命の2年前の2009年
1月に掲載されました。この記事は、エジプトの若者たちによる、労働者のストライキを支
援する運動をリポートしたもので、そのストライキの日にちが4月6日だったことから、こ
の若者グループの名前は「4月6日若者運動」と言います。「4月6日若者運動」は、ファ
イスブックを使ってストライキの支援を呼びかけました。この運動を取材した記者は、ネッ
トが政治や社会を変えるという意味に注目し、記事に「レボリューション・フェイスブック
スタイル」という題名をつけました。
「フェイスブック革命」をテーマにした「アラブの春」のリポートがBBCでつくられまし
た。BBCのリポートでも、「4月6日運動」の指導的な若者が出て革命のプロセスを話してい
ました。
「4月6日運動」は、エジプトの左翼運動の歴史の中で生まれました。
エジプトでは1970年代に学生政治運動の高揚があり、それを担った人々が70年代世代とよ
ばれています。70年代世代というのは複数の思想集団で構成されており、共産主義者など
の左翼、またナセル主義と言う民族主義者、そしてムスリム同胞団員が、お互い協力したり
反発したりして行動していました。70年世代が中心となって、2003年のイラク戦争反対運
動が行われ、2004年からはキファーヤ、これは「もうたくさん」という意味ですが、「キ
ファーヤ運動」という、ムバラク独裁政権に対する反対運動が続いていました。
「4月6日若者運動」が2008年に始まります。「フェイスブック革命」を起こしたのは、70
年代世代左翼の息子たちにあたる世代で10代から20代の若者たちでした。ビデオリポート
でゴウダさんが、タハリール広場の活動家の目的として「食料が容易に入手できること、社
会正義、エジプト人の尊厳」という要求を述べていました。これが「4月6日若者運動」の
政治目標で、左翼的政治運動を、ネットという新しいツールを使って実現しようとしたわけ
です。
ゴウダさんは、裕福な家庭の息子です。英語も自由にあやつれ、大学卒業後ドイツ系企業に
勤めていましたが、今は弁護士をしています。彼は、「4月6日」の活動家の典型です。こ
の革命運動は、裕福で高学歴の若者や学生が中心なのです。
「4月6日若者運動」は、革命を起こす事には成功しましたが、左翼運動は革命の主導権を
握ることができませんでした。革命を通じてエジプトの労働組合は、ストライキやデモなど
活発に行いましたが、革命後の議会選挙で、左翼運動の政党、労働者たちは存在感を示すこ
とができなかったのです。
2、ウルトラス
アラブの国々では、サッカーの人気が高く、国民的なスポーツです。そして、その熱狂的な
ファングループがウルトラスで、10代から30代の男性の若者で構成されています。大き
な組織と広範な支持層を持っており、年少の子供たちも戦闘現場に集まり年長の若者たちと
一緒に戦っています。
ウルトラスは、サッカーの試合時、警察隊と衝突する事件がたびたび起きるので、警官との
戦いになれていました。戦闘現場では、警察の催涙ガスを防ぐガスマスクを100円程度の実
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ウルトラスの革命 エジプト民衆革命への−視点
費で売っています。買って使ってみると眼を覆えないので、眼は保護できません。しかし、
ガスの中でも呼吸することができ、短い時間であれば、現場にいることができました。これ
なしでは、呼吸ができず、一瞬たりとも現場にいることはできません。ガスマスクをした若
者が、逃げないで催涙ガス弾を拾い投げ返していました。ガスを洗い流す水の提供や、催涙
ガスを吸ったり、散弾銃で撃たれたりした負傷者の救出など、戦闘の後方支援も整然と行わ
れていました。ウルトラスは、戦闘方法を確立していたので、権力の暴力と持続的に戦うこ
とが可能でした。
なぜ、ウルトラスは、革命に登場したのでしょうか?
ウルトラスの構成員の多くは、末端の若年労働者です。社会の一番下層の労働者が、労働組
合員としてではなくてサッカーフアングループ・ウルトラスとして革命に参加しました。ム
バラク政権は、日本と同じようにアメリカに追従し、新自由主義的な経済政策を進めまし
た。その結果、日本で派遣や契約労働が増えたように、エジプトでも非正規雇用の労働者が
増え、若い労働者たちが、労働組合にも入れない無権利状態におかれています。そんな社会
的に孤立した若者たちが、ウルトラスに結集しているのです。
ウルトラスは、革命への参加を決めたとき、「ウルトラスは政治党派とは無関係で、政治的
立場は個人の自由だ」と宣言します。
革命は、組織政党や政治思想と無関係な無数の個人が、自分の体で権力の暴力と戦って実現
しました。また、従来の政治は階級、各種利益集団、政治政党などの利益をめぐる権力闘争
として理解されてきましたが、ウルトラスは権力を握るという考えがありません。
革命後、政治権力を掌握して、国をどのようにしていくのかというアイデアが無いのです。
政治権力を手にしたのは、ムスリム同胞団でした。
3、ムスリム同胞団
1月25日起きた革命を見て、ムスリム同胞団が革命に合流します。
ムスリム同胞団は、イスラームを基にした国をつくる目的で1928年、結成されました。
同胞団は、慈善事業をはじめ幅広い社会活動をしていて、広範囲な社会階層の支持を得てい
ます。私は同胞団員とつきあってみて、とても常識的な人が多いと感じました。同胞団は、
広範囲な社会活動を続ける中で、イスラームの思想団体というよりは大衆の互助組織という
意味が強くなっているようです。また、同胞団の作った自由公正党は、コプト教徒=キリス
ト教徒も党員として迎えました。これは、イスラームを基にした国を目指す同胞団の原点か
ら離れています。彼らの主張を良く聞くと、独裁反対以外の政治目標が曖昧で、はっきりし
ない点ではウルトラスと変わらない。そんな自由公正党が、議会の多数派になり大統領も、
自由公正党のムルシー氏が選らばれ、エジプトの政治権力を手中にしました。
しかし、エジプトは、軍の独裁支配が長く続いたため、軍を中心に産業が営まれています。
軍の利権の一つに、マスコミ産業があります。
タハリール広場の真ん中に直径50メートル程度の円形の場所があり、革命派市民がテント
を張っていました。周囲の歩道に、円形広場には決して入らないという市民たちが行き来し
ていました。彼らに聞くと、「テントのある円形広場には、恐ろしくて入れない。テレビな
どのメディアが、タハリール広場は無法地帯で、暴力集団の根城だから危険だ、と報道して
いる」と言うのです。大手マスコミは、革命後も引き続き旧政権を守るための報道をしてい
たようです。
「アラブの春」は民衆革命とも言われています。カイロではアラビア語で、「シャーブ、ウ
リード、サウラ=民衆は革命を望む」、と人々が叫んでいましたが、革命を望む民衆とは、
ウルトラス、女性や子供、そしてムスリム同胞団を構成する一般の人々のことです。
民衆は、マスコミに影響されやすく権力は、大手マスコミを支配しています。
そして、革命が起きた原因の一つは、テレビの影響でした。
アラブ世界には、権力側の道具ではないマスコミが生まれていたのです。カタールの衛星放
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ウルトラスの革命 エジプト民衆革命への−視点
送、ニュース専門チャンネル・アルジャジーラ。この局はテレビ報道に革命をもたらし「ア
ラブの春」を先導しました。
その話をする前に、テレビ報道とアルジャジーラの歴史のおさらいをしたいと思います。
4、アルジャジーラ
私は、テレビの世界で働き始めた1980年代から、テレビ報道の歴史を見てきました。
1980年、ニュース専門チャンネルのCNNがアメリカで創立されました。私は、CNNの番組
を編集しなおし日本のテレビ局で放送する仕事から報道に関わるようになります。CNNが、
テレビ局として成功したのは湾岸戦争がきっかけでした。CNNのピーター・アーネット記者
が、湾岸戦争時、唯一バグダッドに留まって実況中継し注目されたのです。
そして、1996年、アルジャジーラが誕生します。
高遠さんたちが、イラクのファルージャで拉致されたとき、アルジャジーラは、彼女たち
が、のど元にナイフを突きつけられている映像を入手し放送しました。私はバグダッドのホ
テルで、それを見て、パレスチナホテル近くにあったアルジャジーラの支局に行きました。
支局長に質問すると、丁寧に取材先の情報を教えてくれました。教えてもらった取材先に行
くと、それはすべて実在していてアルジャジーラのニュースソースに嘘はありませんでし
た。この放送局は、本当の調査報道をしているのです。
私たちが、最初にアルジャジーラの仕事を見たのは、アルカイダやオサマビンラディンのイ
ンタビュー映像で、この局が取材したものか、入手したビデオでした。アフガニスタンやイ
ラクで戦争が始まった時、爆撃される現地から実況中継したのも、世界中でこの放送局だけ
でした。アルジャジーラは、戦争を起こすアメリカ側では無く、その反対側からの報道が重
要だと考え、実行したのです。
この局のポリシーは、事件の当事者の双方に取材するという原則です。アルジャジーラが、
そういう原則を守れた理由の一つは、アラビア語放送だったということにあると思います。
日本は、衛星で国を超えて放送するテクノロジーは持っています。しかし、日本語は日本人
しか理解できないので、日本語の放送は、国を越えて視聴者を持てません。ところがアラビ
ア語は、27の国で2億3000万人に話されている言語です。アルジャジーラは、カタールの
国営テレビなので、カタールの権力に歯向かうことはできませんが、カタール以外の国の権
力に対する忠誠は必要ありません。アラブ世界全体に視聴者が生まれたアルジャジーラは、
中立的な立場での報道が可能となりました。
それまで、どの国にも政府のプロパガンダ放送しかありませんでしたが、双方の言い分を放
送する原則のアルジャジーラは、反政府側の言い分を放送し、常に権力や戦争の被害者側の
立場に立ちました。このことがアラブ世界に情報革命をもたらし、アラブの民衆に、独裁政
権を倒したいという願いを育てていきます。エジプト革命において、アルジャジーラやCNN
などの外国のテレビは、タハリール広場で起きていることを、世界中に実況中継しました。
市民は、アルジャジーラに、自分たちが撮影したビデオを競って提供します。アルジャジー
ラは、スタジオにキーパースンを呼んで厳しい議論を行い、革命の方向を整理、革命の羅針
盤としての役割を担っていきます。
ウルトラスは、革命の重要な主役の一つでしたが、特別な革命理論を持っていません。です
から、世論の動きや、報道を見て政治的な意味を理解し、自分たちの行動を合理化、あるい
は反省する必要がありました。革命を機関車に例えるとウルトラスがエンジンなら、アル
ジャジーラなどのテレビは、それが走るためのレールをしいたと言えます。
5、双子の革命とテレビ報道の未来
アラブ世界で始まった革命は「アラブの春」と名づけられました。1968年、チェコスロバ
キヤで起きた変革も「プラハの春」と呼ばれています。「プラハの春」は、東欧の革命につ
ながり、共産党体制を崩壊させる出発点でした。私には東欧の革命と「アラブの春」は、双
子の革命のようにみえます。東欧の革命にも、テレビが重要な役割を果たしました。衛星放
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ウルトラスの革命 エジプト民衆革命への−視点
送などで国境を越えて映るテレビを見て、東欧の民衆は、自国の報道の嘘を見抜き、テレビ
に映し出される西側世界の豊かさに憧れ西側への脱出を試みました。そして、ついに革命が
起きたと言われています。
東欧革命や「アラブの春」は、テクノロジーの発展により情報が国境を越え、自由に行き来
する時、政治や社会は変わらざる得ないことを教えています。
革命後のエジプトで、ONTVというテレビ局が24時間ニュース専門チャンネルとして、リ
ニューアルし、革命を支持する意欲的な報道番組を制作放送するようになりました。
革命がエジプトのテレビ放送を変えることになったわけです。 「アラブの春」は、新しい時代の始まりでした。どんな時代が来るのか知るため、タハリー
ル広場には、イギリスやフランス、アメリカの記者たちが、毎日取材に来ていました。しか
し、日本人は私一人でした。日本には、ニュース専門チャンネルが無いだけでなく、世界に
通用する報道を担おうという意欲すらないのかもしれません。
私は、日本でもテレビ放送の革命が起きる日が来ることを夢見ています。
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