1 はじめに 2 この卒業論文では、ゼミで使用しているテキストと他のゼミ生のノートを参考 にしながら、球面三角法と双曲三角法について勉強したこと、さらに双曲幾何学 を理論づけたうちの1人「ヤーノシュ・ボヤイ」についてまとめた。 双曲幾何学は、普通はありえないと思うような学問である。三角形の内角の和 が180度よりも小さかったり、平行な直線を無限に引くことが出来たりする。私 は、そんな世界の学問と出会い、興味がわき、少しでも勉強してみたいと思い、こ の卒業研究で触れることを決意した。また、ユークリッド幾何の第5公準を他の 公準から証明しようとする(結局証明できないことが証明されるわけだが)過程 で、何人もの人間が苦しみ死んでいった。そんな中で、第5公準が成り立たない と仮定するとどうなるのか、を研究し双曲幾何学を理論づけた人物がいた。私は、 その人物について調べ、卒業研究として載せることにした。 私は、双曲幾何学を理論づけたガウス、ボヤイ、ロバチェフスキーの3人の中で、 最も過酷な人生を送ったボヤイに注目した。そして彼の人生の中の輝きと苦しみ が伝わるように参考文献 [3] をもとに出来るだけ詳しく2章でまとめた。 3章では、ゼミ生の内野の発表と参考文献 [1],[2],[4] を参考にし、2つの双曲余弦 定理の証明と正弦定理の証明を勉強しまとめた。 4章では、ボヤイとは関係はないのだが、私がゼミを欠席し抜けてしまった部分 である、球面三角法について参考文献 [1],[2],[4] をもとに卒業論文の中に加えて載 せた。 最後に5章では、平面、球面、双曲面上での三角法を比較した。 3 ヤーノシュ・ボヤイ 最終的に第5公準の役割を明確にし、非ユークリッド幾何学を編み出したの は、ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777∼1855)、ニコライ・ イワノヴィッチ・ロバチェフスキー(1792∼1856)、ヤーノシュ・ボヤイ (1802∼1860)の3人である。私は、ヤーノシュ・ボヤイが生まれる前ま でさかのぼり、彼がどんな人生を送ったのかを調べた。 (非ユークリッド幾何学とは、ユークリッド原論の第1∼5公準のなかの第1∼4 公準はそのままとして第5公準を否定しても矛盾なく成り立つ学問である。ここ で、ユークリッド原論の第5公準とは「一つの直線が2直線と交わり、同じ側に つくる内角の和が2直角より小さいならば、これらの2直角を延長すれば、2直 角より小さい角のある側で交わること。」である。) ヤーノシュの父であるハンガリー出身のファルカシュ・ボヤイ(1775∼18 56)は、ゲッティンゲン大学でガウスと出会った。ファルカシュは、かつては裕 福であったが、いまは凋落の一途をたどる、トルコ人との長い戦い歴史を持つ家 系に生まれた。ファルカシュの父親はわずかな私有地にしがみついていたが、家 の金はとうに尽きていた。ファルカシュは12歳で学校をやめた。大学に通うこ とが出来たのは、ケメニ男爵の息子である8歳のシモン・ケメニの家庭教師として 雇われたからだった。ファルカシュはシモンの大親友になり、男爵はファルカシュ とシモンをゲッティンゲン大学に通わせた。ファルカシュとガウスは、第5公準 に大きな関心を抱いていた教授の講義に登録した。ガウスはそこで講義の内容が 簡単すぎるとして教授をからかっていた。このころからガウスは天才的な頭脳と 嫌味な性格を持ち合わせていたようである。講義が終わると2人はユークリッド の公理、平行線公準の独立性、その他の数学の問題について議論した。ファルカ シュは第5公準に魅せられ、一方、ガウスは第5公準に関する関心を一生抱き続 けることになった。 ファルカシュとガウスは1798年に大学を卒業し帰郷した。ガウスは小惑星 の軌道を自らの手法で計算し、実際に予測した場所と時間に小惑星が現れたこと によって、一躍有名となった。そして、ゲッティンゲン大学に就職し、結婚もし満 足な生活を送っていた。 それにひきかえ、ファルカシュの運命は過酷だった。支援者であった男爵は経 済的な苦境に陥り、息子のシモンにしか帰国の費用を送金することが出来なかっ た。一文無しになったファルカシュは、借金と友人に頼って1年間ゲッティンゲ ン大学に留まった。最終的には、友人からの送金で借金を返済し、徒歩でハンガ リーまで帰った。故国では、不本意ながら、薄給で長時間拘束されるが安定した 仕事に就き、大学で数学、物理、化学を教えることになった。1801年に結婚 し、翌年の1802年12月に息子のヤーノシュが生まれた。妻は極度の不安神 経症を患っていた。ファルカシュは少ない収入を補うために、いくつもの副業を 4 し、そのかたわら、暇を見つけては数学の研究を続けた。 ファルカシュは、頭脳明晰な息子を数学者にすることを目論み、息子の教育に力 を注いだ。ヤーノシュが9歳になるまで大学の教え子を家庭教師につけて教育し、 大学進学のための予備校に入ってからはファルカシュ自ら数学を教えた。ヤーノ シュは、13歳のころにはプロ並みにバイオリンを弾きこなし、微積分と解析力 学に精通し、数ヶ国語をマスターしていた。しかし、ファルカシュには、ヤーノ シュを一流大学に通わせるだけの金がなかった。1816年にガウスの家で数学 を勉強させてほしいとファルカシュは頼んだが、ガウスは聞き入れなかった。し かたなく、ヤーノシュはウィーンの王立工科大学にすることにした。7年間の工兵 学の課程を4年で卒業した後、11年にわたって、ハンガリー帝国陸軍に勤務し、 剣術とダンスの腕前にかけては帝国陸軍で右に出る者がいないと評判をとった。 しかし、ヤーノシュは陸軍で勤務しながらも数学を勉強し続け、1820年に、 自分は第5公準を研究していることを父に伝えた。それを知って心配した父は、研 究を思いとどまらせようと次のような手紙を書いた。 「平行線の理論を究めようという試みは是非とも断念してほしい。一生を棒に振 ることになるぞ。お前の言っている方法でも、他のいかなる方法でも、試みては いけない。すべての光を呑み込み、人生のあらゆる喜びを奪ってしまうその深い 闇を私自身が通ってきたからこそ、そう言えるのだ。一生のお願いだから、なん としてもあきらめてくれ。このテーマは、肉欲と同じくらい恐ろしいものと心得 よ。すべての時間を奪い、健康も、心の平安も、幸福な人生も損ねるおそれがあ るからだ。」 この強い言葉には、長年第5公準を研究しても明らかにできないという苦い経験 からきている。 しかしヤーノシュは、当初、ユークリッドの公準を他の公準から導き出せる別 の記述に置き換えようと試みた。その試みは1年以内で諦めたが、父の懇願を無 視した。次に、第5公準が成り立たないとするとどうなるかを真剣に考え始めた。 ヤーノシュのノートは、現在の「双曲幾何学」と呼ばれている理論をその時彼が 考え始めたことを示している。1823年に、ヤーノシュは父への手紙に、 「まったく新しい別の世界をゼロから作っている最中です。」 と書いている。1824年にはその研究が完了したものと思われる。 当初やや懐疑的だった父も最終的には息子の研究の価値を確信した。父は183 1年に出版する自分の著書の付録で研究成果を発表するように説得した。そして 父はその付録をガウスに送った。ガウスの返事を要約すると、 「その論文を称賛することはできない。なぜなら自分自身を称賛することになる からだ。私が30∼35年前に発見した結果と一致しているのである。死ぬ前に まとめて書き残そうと思っていたが、息子さんが発表してくれたおかげで面倒な 作業をやらなくて助かった。」 である。ファルカシュはこの返事に満足したが、ヤーノシュは立ち直れないほど の衝撃を受けた。ヤーノシュの精神状態は悪化し始めた。苛立ちやすくなり、精 神の安定を失い始め、1833年には軍隊を退職した。さらに、まだ苦しみが足 りないとでも言わんばかりに、ヤーノシュに先駆けて同じ研究成果を発表したロ バチェフスキーという人物がいることがわかった。 ヤーノシュは1833年に引退し、父方の祖母が一家に遺した屋敷で暮らし始 めた。その後、ヤーノシュは父が交際を認めなかった女性と婚約し、父と子の関係 は悪化した。ヤーノシュは引き続き数学の研究を続けたが、数学の主流からは遠 いところにあった。ガウスから父にロバチェフスキーの1829年に発表された 論文を知らされて、その影響で1846年にヤーノシュもロバチェフスキーの論 文の存在を知った。そのときのヤーノシュの苦悩の想いがメモとして残っている。 「ロバチェフスキーなどという人物は存在せず、すべてガウスがヤーノシュの功 績を横取りするために仕組んだ茶番だ」 いかにロバチェフスキーの論文を高く評価していたか、苦しんでいたかを物語っ ている。ヤーノシュは、ハンガリー独立宣言後、婚約していた女性と1849年 に結婚したが、1852年に離婚した。その頃、彼の関心の対象は、数学から一 般認識論の確立へ移っていた。そして、ヤーノシュは1860年1月27日、肺 炎のため57歳で亡くなった。父親の著書の付録以降、ヤーノシュが論文を発表 することはなかったが、2万枚を超える数学の草稿を残した。その後、非ユーク リッド幾何学は脚光を浴び、ボヤイの業績は数学の主流に組み込まれていった。 5 6
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