新潟大学人文学部 英米文化履修コース 2005 年度 卒業論文

卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
新潟大学人文学部
英 米 文 化 履 修 コース
2005 年 度
卒業論文
<英語学>
田部 麻夕子 ......On Middle Constructions in English
2
長谷川 愛美
On Scopal Phenomena in English
3
茂木 冬美
On Verb-Particle Combinations in English
4
山岸 光
Notes on Multiple Wh-questions in English
5
<イギリス文化>
五十嵐 莉乃
Jane Austen 研究 ―Anneに見る新たな理想的女性像―
6
清田 恭子
Bernice Rubens 研究 −円滑な親子関係に必要なこと−
7
齋藤 仁美
Joanne Harris 研究 —VianneとReynaudの対立構造から見たChocolat—
8
佐藤 麻理
A Study of Oliver Twist ―主人公としてのオリヴァーの意味―
9
須田 香織
E.M.フォスター研究
10
『ハワーズ・エンド』−マーガレットとヘレンの人物像に影響を与えたもの−
小林 千春
『チエンチ家』研究 —ベアトリーチェの「親殺し」—
11
瀧澤 萩子
アニータ・ブルックナー研究 ―Hotel du Lacにおける孤独―
12
宮島 智子
クリスティーナ・ロセッティ研究
13
―Goblin Market and other poems における「愛」の追求―
森田 渚
D.H.ロレンス研究 ―“the conflict of love and hate”から“blessedness”へ―
14
<アメリカ文化>
遠藤 幸恵
F・スコット・フィッツジュラルド研究
15
―“Winter Dreams”とThe Great Gatsbyの比較―
清野 理子
ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』について
16
—精神分裂から回復への取り組み—
田中 あや
A Study of Edna St. Vincent Millay ―詩を生む原動力―「美」への追求心―
17
土沼 麻衣
ウォルト・ホイットマン研究 —“Song of Myself”にみる自己探求の旅—
18
齋藤 千賀子
正義の国アメリカとキリスト教国アメリカ —同時多発テロ後のアメリカをみる—
19
田中 康子
シオニズムから見たアメリカ合衆国 ―シオニズム発生からイスラエル建国まで―
20
冨田 佳奈
ギャングから平和活動家へ −CARL UPCHURCHの内面的変化−
21
2005 年度卒業生
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
田部 麻夕子
On Middle Constructions in English
本来他動詞である動詞が、その目的語が主語として表され、一見自動詞のように用いられる現象がある。形式は
能動態で、意味的には受動態であることから、このような文を中間構文と呼ぶ。例えば、“The onion slices easily”
(Matsuse & Imaizumi 2001)のような文である。この論文では、どのような動詞が中間構文に用いられるのかを考
える。まず、中間構文に現れる動詞についての Fagan (1992)と Matsuse & Imaizumi (2001)の説を見ていく。そ
して、Matsuse & Imaizumi (2001)の中間構文に現れない動詞のリストと Kaga (2001)の中間構文に現れない動
詞のリストから、中間構文に現れる動詞と現れない動詞のペアをいくつか作り、それらの動詞の違いを説明しようと
試みた。英英辞典を使ってそれらの動詞の意味を調べ、違いを Matsuse & Imaizumi (2001)の説によって説明し
た。
Matsuse & Imaizumi (2001)は、2つの条件を提起している。1つ目は、中間構文に現れる動詞はその意味に、
対象物への働きかけ、(対象物の)状態変化、そしてその結果状態までのすべてを含まなければならないことである。
2つ目は、Fagan (1992)と同じく、中間構文の主語は、その動詞によって表される出来事の進行に対して何らかの
責任を持つことである。上記の1つ目の条件によって、いくつかのペアの違いを説明した。
例として、transport と send のペアを挙げる。これらの動詞は意味が似ているが、transport だけが中間構文に現
れる。英英辞典には、transport は「品物や人々を、輸送機関によって、ある場所からもうひとつの場所へ持ってい
く(連れていく)こと」、send は「何かを、ほかの場所へ行く、または持っていかれるように手配すること、特に郵便によ
って」とあった。send は対象物への働きかけのみをその意味に含むのに対し、transport は結果状態までの過程も
含意する。この違いは、Matsuse & Imaizumi (2001)の説によって説明できる。もう1つ、obtain と get の例を挙げ
る。obtain は get の持つ意味に加えて、「特に自分自身の努力や技術、仕事を通じて。」という意味がある。このよう
に過程を含意するので、obtain は get と違って中間構文に現れると考えた。
この論文では、Matsuse & Imaizumi (2001)の説によって、中間構文に現れる動詞と現れない動詞のペアの違
いを説明し、その説が中間構文に現れる動詞の特徴をより説明できると結論づけた。
2005 年度卒業生
2
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
長谷川 愛美
On Scopal Phenomena in English
英語では、1 つの文に2つの数量詞が現れた場合、その文の解釈が多義的になることがある。例えば、”Someone
likes everyone.”という文には、「ある人が全員を好きだ」という解釈と、「全員の 1人1人に対して、その人を好きな人
が少なくとも1人いる」という解釈の2通りある。また、2つの数量詞が1つの文に現れても、解釈が多義的にならない
場合もある。このような多義性、一義性には、数量詞の作用域関係が関わってくる。
この論文では、このような作用域関係を捉えるために提案された、QR(Quantifier Raising)分析と、格照合のた
めの A 移動分析を比較する。
まず、QR 分析であるが、これは May(1977)によって提案された分析で、IP 内から数量詞を繰り上げ、IP に付加
するという移動操作である。上記の例文にこの操作を適用すると、次のような構造が得られる。
a. [IP someonei [IP everyonej [IP ti likes tj]]]
b. [IP everyonej [IP someonei [IP ti likes tj]]]
(a)では、’someone’ が ‘everyone’ を構成素統御しており、(b)では、’everyone’ が ’someone’ を構成素統御して
いる。そのため、互いに他方よりも広い作用域を持つことになり、解釈の多義性が生じることになる。
次に、Kitahara(1992)や Hornstein(1995)などによって提案された格照合のための A 移動分析である。この分
析のもとでは、数量詞の作用域というのは、格照合のために移動した位置で作用域が決定される。移動後の構造は
次のとおりである。
[AGRsP someonei AGRs [TP T [AGRoP everyonej AGRo [VP ti likes tj]]]]
この構造では、’someone’ が ’everyone’を 構成素統御している。一方、’everyone’ は直接 ’someone’ を構成
素統御してはいないが、その痕跡を構成素統御している。したがって、互いに他方の数量詞よりも広い作用域を持
ち、文の解釈が多義的になる。
しかし、数量詞を含む全ての文の解釈が、上記のように、どちらの分析でも説明可能なわけではない。一方の分析
でしか説明できない解釈や、どちらの分析を用いても説明できない解釈もある。現段階ではどちらも完全な分析とは
言えず、研究が続けられているが、どちらが優勢かと言えば、私は格照合のための A 移動分析を支持する。何故な
ら、この分析のもとでは、格照合のために必ず起こる移動によって作用域が決定されるため、QR のような、数量詞
の作用域関係を捉えるためだけの規則を設ける必要はないからである。このように、A 移動分析の方が適していると
思われるので、この分析を採用した研究を続けていくべきであると思う。
2005 年度卒業生
3
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
茂木 冬美
Verb-Particle Combinations in English
この論文では、英語における動詞と不変化詞の結合から成る構文を取り上げる。不変化詞と呼ばれるものは、前
置詞や副詞と似た性質を持つ。そのため、不変化詞と前置詞、副詞の違いを述べることによって、それらの含まれる
構文の持つ特徴や課せられる制約について検討する。
不変化詞と前置詞は、“The child put away the plate.”や“They looked at the picture.”のように、いずれも動
詞と名詞句の間に置くことができる。しかし、“away”が名詞句の右側に移動することができる一方、“at”はできない。
さらに、右端の名詞句を強勢のない代名詞に置き換えると、1つ目の例文においては不変化詞の前に位置しなけれ
ばならないが、2つ目においては前置詞の直後に現れなければならない。したがって、前置詞は目的語を持つが、
不変化詞はそれ自体では目的語を持たないことが分かる。
不変化詞と副詞は、目的語を持たないという点では同じである。しかし、位置または状態の変化を表す語は不変
化詞に含まれるが、時・様態・方向を表す副詞は除外される。また、動詞が他動詞で、その目的語が固有名詞ある
いは決定詞+普通名詞のとき、不変化詞は動詞と目的語の間に位置することができるが、副詞はできない。ただし、
目的語が複雑で長い場合は、その位置に副詞を置くことができる。
次に、不変化詞と前置詞を含む構文を比較する。「動詞+不変化詞+名詞句」の構文においては、動詞と不変化
詞が結合して1つの動詞として働くので、その間に副詞を入れることはできない。「動詞+前置詞+名詞句」では、
動詞と前置詞の間に切れ目があり、前置詞は名詞句と結合して前置詞句をなしている。したがって、動詞と前置詞
の間に副詞を入れることができる。「動詞+不変化詞+不変化詞」では、相を表すものが動詞の直後に置かれ、位
置の変化を表すものはその後に動作の行われる順序で並ぶ。したがって、動作の結果としての位置・状態を表すも
のは最後に置かれる。結果または完了を表す不変化詞は、並列することはない。そして、「動詞+不変化詞+前置
詞」の構文では、前置詞の目的語のみ存在する場合と、二重目的語をとり、2番目にあるものが前置詞の目的語とな
る場合がある。後者においては、能動文での直接目的語のみが受動文の主語となることができる。
不変化詞と前置詞、副詞を区別することで、それぞれが課せられる制限によって現れることのできる位置が決まる
ことを示した。
2005 年度卒業生
4
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
山岸 光
Notes on Multiple Wh-questions in English
多重 wh 疑問文は、"Who bought what?”のように、2 つ以上の wh 句を含む疑問文である。この論文では、英語
の多重 wh 疑問文にかかわる現象について議論する。
2 節では、Clause Mate Constraint について考える。疑問節の初めに疑問の指標 Q があると主張する
Baker(1970)の提案を採用すると、この条件は、2 つの wh 句を含む疑問文において、同じ Q に束縛される wh 句
は同じ節になければならないとする。ここでは、この分析が多重 wh 疑問文の説明としては不十分であるということを
示す。
3 節では、Superiority(優位条件)について議論する。多重 wh 疑問文は特徴として優位効果を示し、”*What did
who buy?”のように優位でない wh 句が優位な wh 句を越えて移動すると、その文は非文法的になる。この優位効
果を説明するために Chomsky(1973)によって提案された優位条件と、それに関連した ECP 分析と束縛分析を取り
上げる。また、多重 wh 疑問文には優位効果が消失する場合がある。例えば、wh 句が which N タイプの場合にそ
のような現象が起こり、Pesetsky(1987)は、これは which N が who/what とは異なる scope(作用域)の表示を割り
当てられるからだと主張する。この分析から、wh 句の scope を表示する方法として、wh 句と疑問の指標 Q の同一
指標付けを用いる Baker と、LF での wh 移動を用いる Chomsky のどちらの提案を採るべきかという問題が生じる
ことを指摘する。
4 節では、ある要素が 2 つ以上の境界節点を越えて移動することを禁じる Subjacency Condition(下接の条件)
について考える。英語の S 構造における wh 移動は下接の条件に従うが、この条件は LF には適用されない。さら
に、英語とは対照的に、LF での wh 移動に下接の条件が適用される日本語の wh 疑問文についても論じる。ここで
再び、wh 句の scope の表示の問題に戻る。3 つの wh 句を含む疑問文に対する答え方は 2 通りあり、その解釈は、
S 構造で移動しない wh 句が scope を主節に取るか従属節に取るかで決定される。この wh 句が which N である
か what/who であるかにかかわらず、LF で下接の条件が適用しないことを考慮すると、Chomsky の提案を採用
するのが適切であると結論づけた。
5 節では、wh 句の CP の SPEC への移動に焦点を当てる。S 構造でどのような wh 句が CP の SPEC に移動し
やすいかということを考えると、一般に CP の SPEC により近い場所にある wh 句ほど、その位置へ移動する傾向が
あるということがわかる。この分析をもとに、いくつかの多重 wh 疑問文を調査したところ、CP の SPEC に移動する
性質が強い wh 句が何らかの理由でその位置に移動しないとき、この文は非文になるという結論に至った。
2005 年度卒業生
5
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
五十嵐 莉乃
Jane Austen 研究 ―Anne に見る新たな理想的女性像―
Jane Austen(1775-1817)の作品に登場するヒロインは、大きく2つのタイプに分けることができる。タイプ は自制
的な性格を持つヒロインであり、タイプ は欠点を持つヒロインである。しかし、長編6作品のうち最後の作品である
Persuasion に登場する Anne だけは、タイプ 、タイプ の性格を合わせ持っている。つまり、Anne は Austen の
描いてきた従来のヒロインたちとは異なる新しいヒロインなのである。では、なぜ Austen は Anne のような新しいヒロ
インを生み出したのだろうか。Austen にとって Anne とはどのようなヒロインであるのだろうか。
Anne と Austen 作品に登場する他のヒロインたちとを比較すると、Anne は、その基本的な性格はタイプ に属し
ているが、タイプ のように成長を遂げ、「情熱的」な面も持っている。さらに、専門職階級である海軍軍人と結婚する
というタイプ とも とも異なる特徴を持っていることが明らかになった。
また、そうした特徴と当時の時代背景とを比較すると、Anne のタイプ に共通する特徴は、「知性」を除き、当時の理
想的女性像に一致する。しかし、タイプ に共通する特徴である「情熱」は、理想的女性像とは一致しない。そして
「海軍軍人との結婚」は、当時の新しい社会の習慣と一致するということが分かった。
こうして Anne が、Austen 作品中の従来のヒロインたちや当時の時代における常識との間に、それぞれ共通点だ
けでなく相違点が認められる、新たなヒロインであることを明確にした。その上で、現存する書簡などを手がかりに作
者 Austen 自身の女性観や結婚観についての考察を行い、Austen がこの Anne というヒロインを生み出した動機を
追及した。その結果到達したのが以下のような結論である。
伝統的な社会の理想的女性像に「知性」が加わったタイプ に属するヒロインは、Austen 自身がずっと理想として
きた女性像であり、「情熱」などの欠点を持つタイプ のヒロインは、Austen そのものである。また、タイプ 、 に当
てはまらない特徴である「海軍軍人との結婚」には、Austen の結婚に対する新しい価値観が表れている。Austen
にとって、彼女が生んだ最後のヒロイン Anne とは、ずっと求めてきた理想的な女性像と Austen 自身が絶妙なバラ
ンスで融合した、来るべき社会に向けて新たに求める理想的な女性像なのである。Anne という新たなヒロイン像の
完成は、同時に Austen 自身の新たな理想的女性像の完成を意味していたのであった。
2005 年度卒業生
6
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
清田 恭子
Bernice Rubens 研究−円滑な親子関係に必要なこと−
Bernice Rubens バーニス・ルーベンスという作家は奇抜な発想、展開で知られる作家である。今回扱った作品は
Sunday Best、Spring Sonata、A Solitary Grief の三作品であるが、これらもそれぞれ同様の評価を得ている。そ
して彼女の作品には破綻した、もしくは破綻しかけた親子関係を題材に描かれることが多い。彼女の作品から今回
のテーマである円滑な親子関係に必要なことを考えていった。
それぞれの作品の中心はいつも親子である。一人の人間が親の立場になったり子供の立場になったりするが、ど
ちらの場合においても親との関係、子供との関係について問題を抱えている。現実の世界においても、どんな親子
でも多少の問題はあるものだが、その問題を解決しようと思ったときに何が必要なのだろうか。そして子供と親の両
者に必要なのは何なのかということを考察した。
一章ではルーベンス自身の考える親について考察した。彼女の描く親の姿というのは、子供のよきモデルとなるよ
うな親ではない。反対に子供に反面教師として見られている親の典型として描かれている。しかしこの見方は悪いモ
デルであると同時に、子供が親を受け入れる一つの方法であると見ることができる。つまり親を反面教師として見るこ
とで、子供は親の嫌な面を直視せずにすみ、均衡を保つことができているのである。しかしそれは親との対峙を否
定するものでもあり、関係改善にはならないのである。次に二章では「親」になるために必要なことは何かということを
考えた。「親」とは子供を一人の個人として認め、子供の人生を親とは別の人生だと認めることができる存在をいう。
よって干渉の強い親や、期待を押しつける親は「親」とはいえないのである。そして三章では親の内面に焦点を当て、
なぜ子供に対して支配的な態度をとるのかということを考えた。先に述べた三作品の中では皆、親が子供を支配し
ようとする傾向が見られる。そしてその原因として考えたのが親の見栄と孤独感である。見栄というのは、親が子供に
心の弱さを知られたくない、そして隠しておきたいと思うために子供に対して強い態度で出てしまうのである。そして
親の孤独というのは、子供を失ってしまうという恐怖感や、親自身が他人との関係をうまく築くことができない時に抱く
不安感を埋めるために子供を必要としており、この気持ちを孤独と位置づけた。したがって子供は親のこのような気
持ちを理解しようと試みる必要があり、よい親子関係を築くきっかけともなりうる。
このように子供を力ずくで支配しようとする親、子供を理解しようとしない親とその子供が円滑な親子関係を築くた
めには、親が子供を一人の個人として認めると同時に子供も親を認めて初めて、親子はよい関係を築くことができる
ということができる。子供は親に変化を求めるだけでなく、自分でも変わる努力をしなければならない。そして親は子
供の人生を自己満足のために犠牲にしてはならないのである。
2005 年度卒業生
7
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
齋藤 仁美
Joanne Harris 研究
—Vianne と Reynaud の対立構造から見た Chocolat—
2001 年に公開された映画 Chocolat は、原作者 Joanne Harris の生い立ちを反映させた作品である。彼女はお
菓子屋の娘として生まれ、曾祖母はフランスで魔女と呼ばれていた。そのため主人公 Vianne はチョコレート店を経
営し、魔女として描かれている。Lansquenet という村にやってきた Vianne は、Reynaud というカトリック司祭と激し
く対立する。そこで私はこの Vianne と Reynaud の対立関係に注目して、Chocolat を単なるファンタジーとしてで
はなく、人間の本質に迫った作品として読みたいと思う。
まず第1章では、魔女とキリスト教の対立の歴史的事実である「魔女狩り」を取り上げる。Chocolat の本文中でもキ
リスト教による迫害の例として the witch hunts という記述が見られる。魔女狩りはキリスト教教会が私利私欲を貪る
ために社会的弱者を迫害した事件であるため、魔女である曾祖母を持つ Joanne Harris でなくとも、誰がキリスト教
に対して反感を覚えたとしても不思議ではない。しかしこの現代において、Joanne Harris が魔女を含めたアウトサ
イダー達とキリスト教との表面的な対立構造のみをメインテーマとして Chocolat という作品を書こうとしたとは思えな
い。
そこで第2章では、Vianne と Reynaud の内面に迫った。Joanne Harris はインタビューで、私はキリスト教の存
在そのものを否定しているのではなく、他の思想を受け入れようとしない不寛容さを非難しているのだと語っている。
そのため Vianne は独自の宗教観を持ち、自分の感情に素直になって happy でいることが一番大切だと考えてい
る。しかしだからといって、必ずしも Vianne がいつも正しい存在として描かれているのではなく、Reynaud は
Vianne にはない冷静で公平な視点を持っている。つまり Chocolat において、Vianne は本能を、Reynaud は理
性を象徴する存在だと考えることができる。
第3章では、Vianne と Reynaud の人物像の背景となっている Vianne の母と mon pere について考察した。そ
の結果、キリスト教という確固たる精神的支柱を持っている Reynaud は秩序、世界中を放浪して思想的・身体的に
何者にも属さない Vianne は自由という対立構造を見ることができる。
Chocolat は Vianne を善、Reynaud を悪とした単純な勧善懲悪の物語ではなく、それぞれに長所、短所を持た
せて公平な視点で対立させていると考えられる。人は本質的に秩序ある安定した生活を求め、時に自由になりた
いと思いつつも多くの人は秩序を捨てることはできない。だからこそ Vianne は魔女という少数派のアウトサイダー
なのである。Vianne と Reynaud はそういった人間の葛藤を表していて、お互いにバランスを取り合って共存して
いき、永遠に対立を繰り返すという構造が Chocolat の世界観であるといえるだろう。
2005 年度卒業生
8
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
佐藤 麻理
A Study of Oliver Twist
―主人公としてのオリヴァーの意味―
『オリヴァー・トゥイスト』はイギリス小説史上初めて子どもが主人公となった小説として名高いが、決して生来の純真
無垢さを失うことのない主人公オリヴァーに対し、あまりに不自然で平面的であり、面白味に欠けるといった批判は
少なくない。しかし、彼が「イギリス小説史上初の子どもの主人公」であることは忘れてはならない事実である。本論
文では、オリヴァーがそのような存在になり得たことに対する意味を見出すことを目的としたい。
劣悪な世界の中に身を置かれるとは言っても、オリヴァーはディケンズが経験したような過酷な労働を強いられた
りせず、また最終的にはディケンズが憧れたような女性と血縁関係で結ばれる。これらはオリヴァーにとって、その純
真無垢さを貫くための下地となっていると言って良い。そして当時の時代背景と合わせて考えても、当時の過酷な
時代背景のもとで犯罪等に手を染めるような子ども達が多い中、彼らにはオリヴァーのように純真無垢さを貫いて欲
しいというディケンズの願いが感じられるのである。
また、『オリヴァー・トゥイスト』には、あまりにもはっきりと分かれた善悪の世界が存在している。善の世界の人々は
オリヴァーへの永久的な愛情の提供者としての役割を負わされ、その世界は無垢なオリヴァーが当然いるべき場所
である。一方悪の世界の人々は、オリヴァーがその無垢を示すために乗り越えなければならない、彼を堕落させよう
とする罠を用意する。最後には善は栄え悪は滅び、無垢なオリヴァーの完全勝利が描かれる。ここからも、ディケン
ズが子どもの純真無垢さを礼賛し、彼らに生来の純真無垢さを貫いて欲しいという彼の願いを感じることができる。
しかしオリヴァー本人に目を向けると、彼が体現するものはディケンズのそういった願いだけでないことが分かる。
オリヴァーが純真無垢さを貫き通せる素養を持った子どもであることに違いはない。だが彼が『デイヴィッド・コパフィ
ールド』や『大いなる遺産』の主人公と共通して持っているものとして、慈悲深い愛情を渇望する姿を挙げることがで
きるのである。ディケンズは3つもの作品において、孤児のこういった姿を描いている。ディケンズはオリヴァーを描く
ことによって、子ども達に純真無垢さを貫いて欲しい思いにも増して、彼らが周囲の慈悲深い愛情を渇望する姿を
示そうとしたのではないだろうか。
このように、オリヴァーはディケンズの子ども達に純真無垢さを保ち続けて欲しいという願望を体現する存在である。
そしてそれ以上に、まだ子どもへの注目がそれほど大きくない時代に彼らが周囲の愛情を渇望する姿を反映してい
る。オリヴァーはこのような2つの意味を持ち、子どもへの注目を喚起するために大いに意味のある存在であると言
えよう。
2005 年度卒業生
9
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
須田 香織
E.M.フォースター研究
『ハワーズ・エンド』−マーガレットとヘレンの人物像に影響を与えたもの−
E.M.フォースターは、『ハワーズ・エンド』という作品を、かつて彼が母と住んでいた家をモデルに書いた。それは
彼の思い入れの強い家であった。
フォースターには、マリアン・ソーントンという父方の大伯母がいた。彼女は、『ある家族の伝記』の中心人物である。
彼女の金銭的援助によって、彼は作家人生を歩むことができた。この伝記において、フォースターはマリアンをモデ
ルに『ハワーズ・エンド』のシュレーゲル姉妹、マーガレットとヘレンを描いたのではないか。では、作家はなぜ彼女
をこの作品に登場させたのだろうか。彼は、幼い頃マリアンに対して批判的であったが、次第に彼女に感謝するよう
になる。よって、無意識のうちにマリアンを『ハワーズ・エンド』に登場させたのではないだろうか。現実に生きたマリ
アンをヘレンに投影し、本当はこうであって欲しかった作家の理想のマリアンをマーガレットに投影したのではない
だろうか。
第一章では、マリアンとヘレンの類似性について論じた。マリアンのヘレンに投影されている短所は4つある。それ
ら4つの短所がヘレンに投影され、へレンの驚きの行動を引き起こしていた。
第二章では、マーガレットの性格について論じた。第一章で明らかにした短所がマーガレットには無いということを
示し、マリアンの長所はそのままマーガレットに投影されていることを明らかにした。マーガレットに投影されている
長所2つある。それらは、フォースターが好きだったマリアンの性格である。
これらをふまえて、作家がマリアンを『ハワーズ・エンド』の姉妹のモデルにしたのは、彼がマリアンを直接の批判
することを避けるためであり、それと同時にマリアンへの感謝の気持ちを表わすためだった。また、彼の理想の大伯
母像マーガレットであると言えるのは、当時の理想の女性像と作家の理想が組み合わさった人物だからだ。完全な
当時の理想の女性像ではないのは、作家の望んだマリアン像だからであろう。マーガレットはマリアンと違い結婚し
ているが、大伯母の意志は引き継がれている。マリアンの短所がヘレンに影響を与え、マリアンとフォースターの理
想が合わさった人物がマーガレットである。つまり、マーガレットは、E.M.フォースターの理想のマリアン像として描
かれている。
2005 年度卒業生
10
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
小林 千春
『チェンチ家』研究
—ベアトリーチェの「親殺し」—
シェリーの五幕詩劇『チェンチ家』は、父によって不当な暴力と近親相姦(インセスト)を加えられた娘ベアトリーチ
ェが、謀ってその父を殺害しその結果死刑を宣告されるという、一人の娘の姿を描いた作品である。彼女は才色兼
備の称賛されるべき女性であったが、一度父によって性的暴行を加えられると、その性格は一変し冷酷な殺人者へ
と変貌する。本論文では、彼女の性格の変化とその変化を誘発したインセストに着目し、それらを検証した上で、ベ
アトリーチェは何のために父親を殺し、そしてその殺害によって何を得たのかを考察する。
第一章では、インセストが行われる以前のベアトリーチェの性格を考察する。第二章では、フェミニズムの観点から、
彼女にとってインセストがいかに重大な事件であったのかを考察し、その事件後の彼女の心の変化と父殺害までの
過程を見ていく。第三章では、ベアトリーチェが父を殺害した理由と、その殺害によって彼女が得たものを明らかに
する。
ベアトリーチェはインセストを被ることによって、女性にとって最大の名誉である純潔を奪われ、その名誉を二度と
奪回できない状況に陥ったことを知る。しかし名誉への執着心の強い彼女は、自身の人間としての高潔さを投げ捨
て心を無感覚にしてまでも、その名誉回復の望みを託して父を殺害するのである。しかし彼女がその「親殺し」によ
って得られたものは、一時的かつ偽りの心の平安にすぎず、結局は自身の名誉奪回はもはや不可能であるという現
実に直面する。
ベアトリーチェが自身の名誉回復を期待して「親殺し」を行ったことが彼女の道徳的誤算であったとしても、彼女が
自身の名誉のために奔走するこの物語は、彼女の死によってようやく不名誉から解放されるという、まさに“sad
reality”を映し出す物語なのである。
2005 年度卒業生
11
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
瀧澤 萩子
アニタ・ブルックナー研究
―Hotel du Lac における孤独―
アニタ・ブルックナー (Anita Brookner)(1928-)は作家になる以前、コートールド美術研究所の教授として知られ
ていた。50 歳を過ぎてから執筆活動を始め、ブルックナーの作品は美術研究者ならではの細かい心理描写がなさ
れ、登場人物たちは共通して人生に対して何らかの孤独や倦怠感を抱えていることが多い。本論文では彼女の代
表作であり、ブッカー賞を受賞した 『ホテル・デュ・ラック』 (Hotel du Lac )を取り上げて孤独をテーマに論じた。主
人公イーディスは恋愛小説家であり、婚約者との結婚を放棄したことを咎められてホテルへやってきた。そこで出会
う宿泊客たちも同じようにそれぞれ秘めた事情と孤独を抱えて滞在している。同じように孤独を抱えた同士でありな
がら、イーディスだけが最後には精神的な成長を遂げてホテルを去っていく。精神的な孤独“loneliness”を癒すた
めには社会からの孤立“solitude”が必要なのではないかという仮説を立て、イーディスと他の滞在者との共通点と
違う点を検証し、イーディスだけが成し得た理由を考察した。まず第1章では、主人公イーディスをはじめ登場人物
が「孤独である」とはどういうことを意味するか考え、イーディスもほかの滞在者も、孤独である状態は皆共通している
ということを述べた。次に第2章では、なぜイーディスだけが変わることが出来たのかということを、それぞれの孤独
の種類を比較し、イーディスの家庭環境や職業を通して考えた。そこから、他の人物は自分自身と向き合うことを避
けていたが、イーディスだけは自分が孤独であるという自覚を持っており、冷静に自分の境遇を分析していたという
ことがわかった。そして第3章では、宿泊客の一人で、イーディスに変化をもたらしたと考えられるネヴィル氏の役割
を考察した。そしてイーディスの孤独から生まれるものは何であるか、イーディスは孤独であることによって何を得る
のかについて考えた。ネヴィル氏も一見冷静に自分の置かれた状況や周囲の人間を客観視しているように思われ
たが、実際は彼自身も孤独であり、そんな自分と向き合うことから逃げていたということがわかった。ネヴィル氏に裏
切られたイーディスは自己愛“self-love”に目覚め、これからは自分自身のために生きることを決意する。孤独を癒す
ためには世間から自分を「孤立」した状態“solitude”に置くだけでは足りず、孤独を自覚することが必要であると考え
られる。“loneliness”「精神的な孤独」とは自分が社会から疎外されていると恐怖を感じ、欲求を満たせない自分や
傷ついた自分から目を背け、自分の人生を愛することの出来ていない状態である。その孤独を乗り越えるためには、
まず自分の中にある“loneliness”を直視し、あるがままの自分を受け入れなければならない。そして結論としては、
自分の置かれた境遇を理解し疎外感を埋めるためには、今の自分の存在を認めて愛し、自分のために生きるという
「自己愛」に目覚めることが必要であり、そのことに気付いた時、人は孤独から解放されると考えられる。
2005 年度卒業生
12
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
宮島 智子
クリスティナ・ロセッティ研究
―Goblin Market and other poems における「愛」の追求―
クリスティナ・ロセッティは、ヴィクトリア朝に生きた詩人である。彼女の詩の特徴として挙げられるのは、「純愛の詩
人」と言われる程ほぼ全ての作品のテーマが「愛」であることである。その「愛」は様々な形として見られるが、それら
は全てロセッティが感じたものであり、それは「人間からの愛」「自然からの愛」「キリストからの愛」の三種類に分類さ
れる。そして、「愛」をテーマとしたロセッティが求めていた「愛」は、詩での描写から永遠の「愛」であったと考えられ
る。彼女は、その求める「愛」を人生の中で見出すことができたのか。それぞれの「愛」について検証していく。
まず、「人間からロセッティへの愛」であるが、人間から受けているとロセッティが感じているその「愛」は彼女にとっ
て可変性に満ちており、いつか失われてしまうことが必至であった。ロセッティは自分の経験や周りの人々の「愛」を
通して、現実世界で誓い合った二人の「愛」に永遠性がないことを確信していたのである。
次に「自然からロセッティへの愛」を見ると、ロセッティはその「愛」を感じる際は必ずその喪失を考えていたことが
わかるが、その喪失とは完全なる喪失ではない。喪失の次には誕生があり、その二つは途切れることなく交互にや
ってくる。彼女はここに「愛が生み出される過程の永遠性」を感じていたのだ。しかし、彼女が求めるのは永遠の
「愛」であるから、この「愛」には満足を見出せず、求める「愛」を見出すことができなかった。
最後に「キリストからロセッティへの愛」であるが、ここではすぐにその「愛」における永遠性を見出すことが出来た。
「キリストからの愛」とは、永遠の「愛」であるからである。これこそロセッティが求めていた理想の「愛」であるはずだっ
た。しかし、彼女は「死への願望」を作品に描き、また修道女にもならなかった。よって、ロセッティは永遠の「愛」であ
る「キリストからの愛」にも満足を見出せなかったと考えられるのである。
以上のことから、三つの「愛」全てに満足を見出すことは出来なかったことが結論として導き出される。単なる永遠
の「愛」であるならば、「キリストの愛」の永遠性を見出すことができたはずだが、彼女は人生を苦しみに感じていた。
それは、彼女の求める愛が単なる永遠の「愛」ではなく、「人間からの愛」の永遠性であったからではないだろうか。
しかしそれは、得ることのできないと確信しているロセッティは、その他のものからの「愛」を感じ、表現することで「人
間からの愛」の永遠性の欠如から目をそむけようとしたのだ。
したがって、ロセッティは、「自然からの愛」の一部の永遠性と「キリストからの愛」の絶対なる永遠性を感じながら、
永遠性を得ることのできない「人間からの愛」に、永遠性を生涯求め続けていたのである。ここに、ロセッティが主と
なるテーマとして「愛」を選んだ理由が導き出される。
2005 年度卒業生
13
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
D.H.ロレンス研究
森田 渚
―“the conflict of love and hate”から“blessedness”へ―
D.H.ロレンスは詩集 Look! We Have Come Through! の解題で後に妻となるフリーダとの関係において彼女と
共に“the conflict of love and hate”から“blessedness”へと到達したと述べている。愛と憎しみの葛藤とは如何なる
ものか、それをどのようにして乗り越え、そして到達した祝福とは如何なる状態であるのかを検証していくことで、人
生の危機を乗り越えてロレンスが自負するに至ったものは何であるのかを明らかにする。
彼の言う愛と憎しみの葛藤とは、相互に支配し支配されまいとするロレンスとフリーダの間に生じた精神の争いで
ある。ロレンスがフリーダに憎しみを抱くその根底には彼が母親によって束縛され真に自己のために生きることがで
きなかった過去がある。母親の支配下にあり続けたロレンスはフリーダを支配することで自己を完成させようとするが、
彼女は自由な精神の持ち主でありそれを受け入れなかった。ここに葛藤が生じるのである。
そしてロレンスは遂にフリーダを支配し得なかったことで自らの思考を変化させざるを得なかった。彼女を支配す
ることではなく支配できずにいる自らの本質を認めることによって自己の完成を果たしたのである。自己の認識は他
者の発見をもたらし、フリーダの中に支配し得ない異質性を発見することに彼は喜びを見出すようになる。ロレンス
は支配することは真に相手の生命と向き合うことではなく自分にとっても真に生きるということではないとし、主従の
関係ではなく「星の均衡」という対等な関係を理想とするようになる。
「星の均衡」の関係とは、相互が自らの本質を認識し相手が自分を超越した存在であると意識することで互いに独
立した別個の存在となり、相手の異質性を求め合うことを引力として結合するという状態である。彼は相互間に一定
の距離を保つために葛藤もまた不可欠であるとする。母親との関係において愛情は所有欲を内包するものであるこ
とを無視することができなかったロレンスは「星の均衡」の関係を築くことで自由を得られると考えたのであった。この
ような関係が彼の言う祝福の状態である。
以上のことからロレンスが“Look! We have come through!”と自負するに至ったものは自己の完成と理想とする
「星の均衡」の関係を彼自身の思考の変遷によって見出したことであるという結論を導き出すことができる。しかしもう
一つ言わざるを得ないことはロレンスとフリーダとの実際の関係は何ら変化していないのであって、ロレンスは「星の
均衡」という理想的な男女の恋愛関係をフリーダと共に築きあげたのではなく、ロレンス自身がその思考を変化させ
ることで従来の二人の関係を理想化しただけだということである。だがそのようにフリーダとの関係を深める中で彼が
獲得していった思想がその文学作品に影響を与えていることは否定できず、ロレンスその人にとっては自負すべき
功績であったと言える。
2005 年度卒業生
14
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
遠藤 幸恵
スコット・フィッツジェラルド研究
―“Winter Dreams”と The Great Gatsby の比較―
F・スコット・フィッツジェラルドの短編小説“Winter Dreams”(1922)は、後に発表された、彼の代表作である The
Great Gatsby (1925)の習作であるという位置づけがなされている。これは批評家たちだけでなく作者自身も認め
ていることだが、はたして本当にそうなのであろうか。本論では The Great Gatsby には見られない“Winter
Dreams”が持つ作品の魅力を探っていく。
まず語り手の問題に注目したい。The Great Gatsby では語り手ニックとギャッツビーが完全に分けて描かれて
いる。一方“Winter Dreams”ではフィッツジェラルド自身が語り手となり、主人公デクスターと一体化していると認め
られる部分が多い。語り手の視点が曖昧であるということは欠点とみなされてしまいがちだが、“Winter Dreams”で
は作者と登場人物が重なって見えてしまうことが作品に現実感を与える効果となっている。
次に、デクスターとギャッツビーの夢の違いについて比較する。デクスターの夢である “winter dreams”は、ジュ
ディという女性を自分の想像力で理想化することである。デクスターは彼女に対して、自分が求める「理想の女性」と
いう幻想を抱いているのだ。
ギャッツビーの夢はかつての恋人デイジーを取り戻すことだ。しかし彼にはもともと、「ジェイ・ギャッツビー」という理
想化された自分があり、人生において成功することを目的としている。そのため、彼の夢は恋人を取り戻すことでは
なく、彼女と出会った頃の自分に戻り、過去をやり直すことである。「ジェイ・ギャッツビー」として、成功する人生を歩
むはずだった昔の自分を取り戻すことが、ギャッツビーの夢の本質である。
デクスターは実際に存在するジュディという実像に対して夢を見ているが、ギャッツビーの夢は「ジェイ・ギャッツ
ビー」という形のないものに向けられている。さらに結末において、デクスターの“winter dreams”は消えてなくなり、
彼は夢から覚める。ギャッツビーは何一つ夢を叶えることが出来ぬまま死を迎え、夢から覚めることはない。
“Winter Dreams”における語り手とデクスターの夢の結末は、作品に現実感を与える効果をもたらす。The Great
Gatsby は完成された作品ではあるが、過去の出来事についての「作られたもの」としての作品という印象が強い。
“Winter Dreams”が持つリアリティは The Great Gatsby には見られないものである。ここに The Great Gatsby
の習作として終わらない、“Winter Dreams”独自の意義、魅力がある。したがって、The Great Gatsby の単なる習
作という位置づけだけでは不十分であると言える。
2005 年度卒業生
15
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
清野 理子
ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』について
ジャック・ケルアックは、小説『オン・ザ・ロード』でビート・ジェネレーションを代表する作家となった。ケルアックがこ
の作品を書くことは何を意味していたのだろうか。本論文では『オン・ザ・ロード』に込められた彼の思いや書く目的
について、作品の内容を考察しながら考えていく。
まず注目したのは作品が書かれた時期である。彼は confession letter(告白手紙)を書いた後に、『オン・ザ・ロー
ド』の大規模な編集作業を行っている。ケルアックは厳格なカトリックの母親の影響を受けており、キリスト教において
「告白」は「新しい人」になることを意味するので、この作品を書くことにも「新しい人」になるという目的が含まれてい
ると考えられる。つまり、彼は、兄の死に対する罪悪感のため現世に生きる意味を見出せないという精神分裂で苦し
んでいたのだが、そうした人生と別れて自己のアイデンティティを確立させたいということである。これは作品中でケ
ルアックを反映していると一般的に言われるサル・パラダイスという登場人物が、精神的な癒しを求めて旅に出るとい
う設定になっていることからも想像できる。
彼の精神は、兄の死だけでなく、第二次世界大戦にかけての当時の社会背景(「社会」が「個人」に優先している
状況)によって打ちのめされていると思われる部分もある。よって、「社会」よりも「個人」を優先することでアイデンティ
ティが確立できるのではないかという考えにつながる。これは「社会」に所属しないアウトサイダーという立場にある
人びとの生き方にあらわされている。ケルアックは『オン・ザ・ロード』において、アウトサイダーである人びとから
authenticity(真正なもの)を見出すことによって、社会で打ちのめされ、精神分裂の状態から脱するための手がか
りを見出そうとしているのである。作品では、物質社会(アメリカ社会)の産物である「時計」の支配から逃れることに、
ケルアックの求める精神分裂からの解放、自己アイデンティティの確立の手がかりがあることが示されている。
ケルアックを反映しているサルは、作品で、アウトサイダーが崇高であることを認めてはいるものの、彼のもつ
white ambition(白人であるが故の野心)を捨てることはどうしてもできない。これはケルアックが完全には精神分
裂から立ち直れないことを意味する。しかし、精神分裂から逃れられないといっても、作品を書くことで精神分裂から
逃れられない自己を受け入れたと考えられる。また、“Go moan for man”という作品中の言葉に代弁されるように、
現世における自己の役割を見出したことは、「現世に生きる意味を見出せない」というケルアックの精神状態に変化
があったことを意味しているのである。
2005 年度卒業生
16
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
田中 あや
A Study of Edna St. Vincent Millay
——詩を生む原動力―「美」への追求心——
Edna St. Vincent Millay は、20 世紀のアメリカに現代女性のシンボル的存在として、その名を残した詩人であ
る。彼女の詩における研究では、恋愛詩、フェミニズムの精神、ソネットの形式という観点から扱われることが多いが、
本論文では、彼女の詩に絶えずあらわれてくる‘Beauty’(美)というキーワードを出発点として、詩人 Millay のあり方
を捉えようとする新たな試みを行う。この「美」という概念に関して、Norman A. Brittin は「美に対する感性も、彼女
の作品における価値のひとつである」と認めているが、その詳細を提示していないことから、Millay が「美」を追求す
る姿勢とその意義を明らかにすることを目的として、本論文を展開する。
まず、第1章では「美」と「死」の概念の関連に注目して、Millay が何をもって「美」と捉えているのかを論証した。
「美」と「死」の概念は関わり合っているが、「死」よりも「美」の存在が強調されており、「死」という概念が鏡のような役
割を果たして、「美」という言葉で語られるものを映し出しているのである。これは、「死」を印象付けることによって、
それとは相対する「生命力」「活力」が吹き込まれたものを「美」として捉えているという証拠である。彼女は「美」をこ
のように理解し、必要としているのだ。
次に第2章では、Millay を語る上ではなくてはならない「恋愛」というテーマにおいて、「美」を求める彼女の姿を
検証した。詩において、彼女が愛するのは容姿の「美しい」人物であると判明する。留意すべきは、「美しい相手」を
愛しているのではなく、「美」そのものを愛しているということだ。これが彼女の「愛」の形であり、いかに彼女が「美」を
求めているかが明白となる。相手ではなく、「美」の存在に依存していることからは、恋愛において相手に支配される
ことを拒絶する Millay の独立心をも垣間見ることができる。
最後に第3章では、「美」を追い求める Millay の姿勢を最後まで辿り、どのように「美」を追求したのかを考察した。
前章まででは、実際的・現実的な場面から「美」を見出してきたが、ここではさらに違う次元で「美」を追求する彼女の
..
姿を見て取ることができる。Millay は「美」を理論的に頭の中で模索し、「美」を追究したのだ。「美」とは何かを思考
した結果、「美」への価値観は人それぞれ異なるものであり、その人にとって「美」であると認めるものが紛れもない
「美」なのだと彼女は示してくれたのである。
以上の論証によって、Millay の「美」に対する深い洞察力と強い追求心が明らかになった。詩人でなければ、ここ
まで「美」を見つめ、追求し続けることはなかっただろう。彼女にとって、「美」の存在は詩人としての「原動力」だった
のである。「美」の存在によって、その洞察力と追求心が培われ、詩が生まれてきたのだ。彼女にとってそうであった
ように、「美」の存在は私たちにも何らかの力を与えてくれるものである。私たちはそれぞれの価値観によって「美」を
見出し、それを生きる力に変えていくことができるのだ。
2005 年度卒業生
17
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
土沼 麻衣
Walt Whitman 研究
—“Song of Myself”にみる自己探求の旅—
Walt Whitman(1819-92)の詩人としての生涯における唯一の詩集 Leaves of Grass (1855)の初版の巻頭詩で
あった“Song of Myself”「ぼく自身の歌」は、題名の通り「自己」をテーマにした作品であると言われている。
Whitman はその“Song of Myself”においてさまざまな物象を描き出しているが、その視線はとりわけ「自然」と「人
間」へと向けられる。そしてその描写は、常に対象に寄り添い一体化(化身 embody)する“I”の姿を通してなされるも
のである。わたしは、“Song of Myself”におけるこの「化身」の過程に Whitman の考える「自己」の姿を見出せるの
ではないかと推測し、詩人にとっての「化身」の役割、そしてそこから導き出される「自己」のとらえ方を考察する。
第1章では、Whitman の「自然」への化身を考察した。Whitman は「自然」と一体となることによって、万物のあり
のままの価値と「自然」の母胎としての役割という二つの要素を見出している。「自然」の中に生命を持つ万物は存在
そのものが完璧さをそなえているものであり、また彼らは同じひとつの「自然」から生を得ている。「自然」は万物の母
体、起源としての役割を持ち、そこから生まれ出た万物はみな平等に完璧な存在なのである。Whitman はそこに
万物の「共通性」を見出している。
第2章ではさらに、Whitman の「人間」への化身を考察した。そこには自然界の中に見られた「共通性」とは別に、
「多様性」の価値という概念が見とめられた。Whitman は、多種多様な「人間」に化身していくことによって存在の
「共通性」を感じながらも、個々人がそれぞれにそなえている多様な素質を自らの内に吸収し、そしてその「多様さ」
を讃えている。ここに個々が持つ世界の価値を尊重しようとする詩人の姿勢が見られる。Whitman は「共通性」と
「個別性」という二重の観念を、「自然」と「人間」へと化身することによって見出していると言える。
Whitman にとっての「化身」とは、他者と自らを向き合わせることによって自分を知るという自己探求の行為その
ものであり、その過程の中に「自然」と「人間」、両者を貫く「共通性」と「個別性」という二重の思想を見出している。こ
れが、Whitman が「自然」と「人間」への化身の末にたどり着いた「自己」の姿である。詩人の「共通性」の賛美は「共
感 sympathy」を生み出す。そして「個別性」の賛美は「多様性 diversity」の受容を生み出す。「共感」と「多様性」を
併せ持つ存在、それこそが詩人が「自己」に求めた姿だったのである。
2005 年度卒業生
18
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
齋藤 千賀子
正義の国アメリカとキリスト教国アメリカ
—同時多発テロ後のアメリカをみる—
2001.9.11.アメリカ同時多発テロをうけて、アメリカはすぐに報復攻撃へと走った。アフガニスタン攻撃、イラク戦争、
と2つの大規模な攻撃をしかけた。なぜ、アメリカは他国を攻撃したがるのだろうか。なぜ、アメリカは自国の正義を
信じて疑わないのだろうか。
それは、アメリカが世界一の超大国であることの自信とキリスト教の力が影響していると思われる。アメリカが世界一
の超大国であることの自信とは、アメリカのやり方が正しいから世界一の大国になれたのだという自信をうみ、自国を
省みることをしなくなってしまった。キリスト教の力はアメリカ大陸を自分たちの力で開拓し、合衆国を作り上げたとい
う力の源であり、神のもとにある国という選民思想的なものをうみ、自分たちは正しいと思い、自国を省みることをしな
くなってしまった。アメリカが自国を省みることをしなくなってしまったことが、大きな問題だ。アメリカの持つ自信が戦
争をしかけ、他国の批判を受け入れない力になってしまっている。省みるということが必要だ。
そして軍事力だけを強化していけば、アメリカの世界一の地位は保たれ、世界も平和になると思っているのが、ブ
ッシュ大統領とその側近である。しかし、軍事力だけでは平和は保たれないどころか、テロリストをさらにうむことにな
る。テロリストはアメリカに対する敵意や自分たちの貧困はアメリカが戦争をしかけてきたせいだと考えるから、テロリ
ストの思うつぼだ。ここで大切になるのは、他人を引きつけるような魅力をアメリカが見せるということだと思う。例えば
映画、ハリウッドの映画は世界各国でみられている。アメリカの文化に憧れる人も多い。こういった他人を引きつける
ような魅力をソフト・パワーと呼ぶのだが、この力も大切にしていくことが今のアメリカに必要なのではないかと思う。ソ
フト・パワーは魅力的であれば自分たちからそれを真似る。無理やり従わせるのではなく、他人が真似したくなるよう
な魅力が今のアメリカには必要なのだろう。
2005 年度卒業生
19
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
田中 康子
シオニズムから見たアメリカ合衆国
―シオニズム発生からイスラエル建国まで―
現在、世界中の関心ごとである中東問題に、アメリカが深く関わっていることは周知の事実である。中東問題の発
端は、パレスチナにユダヤ人国家イスラエルを建国したことであり、そしてそれはシオニストにとって長年の夢であり
目標であった。また、イスラエル建国以来アメリカは、親イスラエル的な政策を採っている。ユダヤ人国家建国を目
指す運動シオニズムの歴史を通して、遠く離れたアメリカがどのように中東に関与することになっていったのかを考
察するのが本論の目的である。
第一章では、シオニズムの発生までを述べている。シオニズムとは、1897 年にテオドール・ヘルツルによって始め
られた世界的な政治運動とされている。当時、世界のユダヤ人の約 90%がヨーロッパに住んでいた。彼らは長い間
差別され続けていたが、19 世紀中頃からキリスト教社会に同化していき、平等を獲得していった。しかしヘルツルは、
ユダヤ人は完全に同化することはできないとして、自分たちだけの土地を見つけなければならないとして、運動を広
げていった。
第二章では、二つの大戦下でのシオニズムについて述べている。ここでは、大きな世界勢力の一つとして見なさ
れるようになったシオニズムが、二つの大戦のために各国の利益によって振り回され、進展や後退を繰り返している
様子、そして彼らに対する世界各国の対応ついて描いている。
第三章では、アメリカのシオニズムに焦点を絞って述べている。二つの大戦を経て、アメリカは世界政治の中心地
となったと同時にシオニズムの中心地にもなっていた。シオニストたちからの圧力に対してのアメリカの反応、そして
イスラエル建国に至るまでを描いている。
以上のように、アメリカがシオニズムに積極的に関与していくのは第二次世界大戦後という、イスラエル建国のほん
の三年前である。それまでに何度もアメリカのシオニストによる影響はあったが、政府がシオニズムのため動いたこと
は一度もなかった。そして、アメリカがシオニズムの中心となったのも、自ら望んだのではなく、二つの大戦により疲
弊しきったヨーロッパから押し付けられたというところが大きい。
しかしその時をユダヤ人たちは見逃さなかった。すでにアメリカの国民として受け入れられているユダヤ人たちは、
国民として政府に影響を及ぼすだけの力を持っていた。そして彼らは、ユダヤ人国家を要求したのである。過去に
何度も獲得しては失うということを繰り返していた彼らにとり、ユダヤ人国家建設以下のものでは満足できなかった。
アメリカが大国へと成長を遂げたとき、シオニズムの最低限の要求はユダヤ人国家建設であった。そしてアメリカ
は、国民としての彼らの意見を無視することはできなかったのである。
2005 年度卒業生
20
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
冨田 佳奈
ギャングから平和活動家へ
—CARL UPCHURCH の内面的変化—
カール・アップチャーチ(1950-2003)はアメリカのフィラデルファ南部に生まれ、ドラッグ・アルコール・売春などが
当たり前となっている地で、窃盗や暴力を繰り返しながら幼少時代を過ごしてきた。小学校を中退し、ギャングのメン
バーに入り、罪を犯しては刑務所に送られるという生活をしていた。このようなアップチャーチであるが、後に平和活
動家へと転じていった。
本論文の目的はカール・アップチャーチの人生経験において、変化の要因となったものを検証しながら、彼の内
面的変化や平和思想を明らかにすることである。
1章では、彼の自伝の中で度々用いられる‘nigger’ という言葉の意図を考察しながら、幼い頃を過ごした生活環
境や、家族・隣人が彼にもたらした影響、当時の彼が感じていた社会の様子を探っていく。2章では、彼にとりわけ
強い影響を与えたと考えられる、『シェイクスピアソネット』と『ジョージ・フォックスのジャーナル』という2冊の書物に重
点を置き、これらの書物によって、彼がどのように感化されたかを明らかにする。3章では、彼が中心となり、運動し
た Progressive Prisoners' Movement という刑務所や、囚人らが抱えている問題に対して、不正を訴える活動。
The National Urban Peace and Justice Summit という人々の暴力を止めるために、当時のギャングのリーダー
や、平和活動を行っている元ギャングリーダーらを集め、都市郊外の問題を包括的に議論したサミット。これらの活
動を通し、彼が社会にもたらした影響について、ジム・ウォリスをはじめとするメディアの評価を考慮に入れながら、
検証していく。
アップチャーチは、広い行動範囲で講演し、多くの時間を費やして人々と対話してきた。この草の根運動を通して
彼は自身の目や耳で現状を把握し、弱い立場に苦しむ人々の声を聞いてきた。この彼の真摯な態度が人々の信頼
を集めたと思われる。元ギャング、元受刑者という自身の立場を利用し、彼だからこそわかる社会の問題点を指摘し
て、自身の経験をポジティブなものに変えて見せた。書物によって将来に希望を抱き、孤独から解放されたと感じた
思想の変化。クエーカー思想に感化され、自己を価値のある存在と認められ、聖書を学んだ経験や信仰への目覚
め。これらの要因による内面的変化と自身の経験によって彼の平和思想は構築された。子どもが安心して暮らすこと
のできる社会を目指し、他者を愛し、平穏な精神状態で神を信仰する状態が彼の理想とする平和思想である。
2005 年度卒業生
21