3[10/10〜10/20]

パリ籠城期(1870 年 9 月 18 ⽇〜1871 年 1 月 28 日)におけるフランスとヨーロッパ-3[10/10〜10/20]
翻訳:横浜市立大学名誉教授
松井道昭
10月10日(月)
【77】(戦況)
ロワールで結成された軍隊は侵入軍によって占領された、いくつかの地点に姿を現わしはじめ
る。プロイセン軍大本営の所在地ヴェルサイユからの速報によれば、これらの軍隊のかなりの人
数の軍団が土曜日にエタンプの南方で潰走させられたと告げる。
同じ速報はある軍事的作戦について述べる。それはプロイセン騎兵隊の1軍団を急襲したかど
で1村落の住民を処罰するために命じられたものである。
【78】(ガンベッタの到着)
戦争への関心は薄れる。ガンベッタの気球の降下。その若き閣僚が示した精力と信頼、その存
在がいたる処で惹き起こした愛国的発揚にすべての者の関心が集まる。フランスの兵力を侵略者
の撃退という単一目的に向けるために鉄の意志をもつ統率者が必要であろう。陸軍を興し、それ
を訓練し、武装化し、パリの解放のためにそれを投入するためには勇敢かつ熱烈で強力な指揮官
が必要である。・・・
ガンベッタこそ、こういう人物になりうるのではないか。彼こそ、こうした人物になりうるの
ではないかと見られており、フランスのすべての魂はこの若き護民官の所業や身振りを心配気な
眼で追いかける。皆が彼の中に活力と情熱を、そしてツール派遣部が欠く穏やかなで落ち着いた
力を認めんと希望を込め追うのだ。
ガリバルディとガンベッタの到着についてツール発の電報が与える記事が数多く発表される。
【79】
(ローマ)
イタリア軍のローマ入城に対するピオ九世の抗議文を新聞が掲載。その文書は枢機卿に宛てた
書簡の形式をとり、教皇はそのなかでヴァチカンに閉じ込められていること、司教団との通信を
禁じられていること――なぜというに、郵便事業は彼の手中にないため――ことについて苦情を
述べる。
『イタリア』紙はこれに答えて曰く。もし教皇が捕虜であるとするなら、彼が良いと思った処
へ往来できる自由を持っていながら、彼が捕虜でありたいと願っているせいなのだ、と。同紙は
さらに付け加える。カドルナ将軍はその個人的必要のため郵便と電報の特別局を設置することを
申し出たが、教皇はこれを拒絶した、と。
(ティエール氏の旅行)
ティエール氏はウィーンに滞在。フォン・ボイスト首相と会談をもち、昨日正午にフランツ・
ジョセフ皇帝主宰の歓迎会を受ける。今日までこの著名な政治家に委託された使命の結果につい
てまったく疑義をいだいていた『タイムズ』紙は今日の記事では希望を色を示す。この態度変更
についてなんら説明することはなく、同紙は以下の評価を下す。フランス政府の特使とオースト
1
リア=ハンガリー帝国の大法官との会談は実りある結果にいたるであろう。フォン・ボイスト氏
は講和の成立のために全力を傾注するものと見られている。
(ブルバキ事件)
最も不可解なミステリーはブルバキ将軍がつねに往復していた事実を隠すものだと言われて
いる。それはメッスでの噂だ。ところで、ベルギーのアルロン Arlon 発の外電によると、この
町へ彼の通行を示唆、バゼーヌの代理官がリエージュへ向かった。
10月11日(火)
【79】(戦況)
ロワール川で新たに編成された仏軍団によって被った敗北の事実は仏軍司令官の電報によっ
ていくつかの詳報とともに確認された。その電報はツールの陸軍大臣に宛て、5 時間にわたる激
戦の後、森林に撃退され、そこでギリギリ状態にいたるまで死守すると決心したと伝える。
【80】サン=カンタンからはプロイセン軍からの新たな攻撃が切迫しているとの報道あり。
(パリの国防政府、諸県に対するガンベッタの宣言)
ツールにおけるガンベッタ氏の最初の仕事は諸県に対し、フランスの惨状を前にしてパリの英
雄的な態度と長期にわたる包囲戦の恐るべき現実を知らせることだった。
今日まで地方は優柔不断でためらいがちだった。増援行動の中核が欠けており、どこまでパリ
市民が敵と対決し、パリを襲う害悪と対決するのかがわからなかったのである。
パリがすでになしうるすべてのこと、フランスの完全さと恐怖を維持するのに企図するすべて
のことを想起することによってガンベッタ氏の弁論は、地方における国防の組織化に躍動、一致、
成功への自信――これらが欠けていたのだが――を与えるであろう。
パリは身を捧げ、その辛苦や献身が徒労に終わるだろうといった見込みにもかかわらず、それ
でもなお身を捧げて戦うのだ。パリの住民がこれほどの英雄主義、これほどの犠牲、この災厄を
省みずフランスの救済の一念で恐怖と対決しているとき、地方は後ろに退き、はらうべき辛苦を
拒絶するというのか。
10月10日発表の宣言が以下にある。これは、諸県の市民に宛てたものであり、そのなかで
臨時政府の雄弁な閣僚はパリがなしてきたこと、同政府がなしうること、地方がその首都の献身
や努力に応えるべくなさねばならない義務を示している。
【81】
(ケラトリ Kératry の到着)
ガンベッタの跡を追って、しかも同じ方法でド・ケラトリ氏(パリ警視庁長官)がツールをめ
ざし包囲下のパリを脱出した。彼もまた行動の人であり、その仕事も諸県においてより効果ある
ものとなるであろう。
(選挙の延期)
選挙の延期は一般に歓迎されている。保守派の機関紙のみが現状維持を攻撃する。これら機関
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紙は権力を他の者の手中に手放したくないがために選挙を延期した、と政府を攻撃するのである。
【82】
(パリ住民に関するイギリスの新聞の論調)
パリは長くもち堪えられないであろうというのがロンドンの各紙の見解である。この町からの
手紙によると、以下のごとし。[省略]
(フィレンツェ)
『官報』はローマおよびローマ国家のすべての州邦がイタリア王国の不可欠の一部をなすこと
を明記した法令を発布した。
(フィレンツェ)
『官報』はローマとローマ国家のすべての州邦がイタリア王国の不可欠の一部であることを明
記した法令を発布。
教皇は権威と宗主として個人的大権を付与された不可侵性を保持する。
領土の自主権、教皇の独立性、その精神的権威の自由行使を保証する法律が諸条件を明らかに
するであろう。
1法令はラ・マルモラ将軍をはローマおよびローマ国家の司令官に任命した。もう一つの法令
は、イタリア王国の法規がローマにも適用され、政治的犯罪と違反の罪科を問われている一定数
の個人に恩赦を与えることを定めた。
国王は近々、モンリス Monlis およびマレンゴ Marengo における軍事作戦を支援し、そこに1
0日ほど滞在することを伝える。
セルモネータ Sermoneta はアノンシアーデ Annonsiade 修道会を吸収する。
いくつかの新聞は、イタリアによるローマ占領に反対の態度を示す、フランス系新聞数紙の厳
しい論調を非難する。
ラ・マルモラ将軍は一昨日の夕方、ローマにむけて出発。幾人かの反対派代議士は、中央集権
化のために行政改革をおこなうという条件で、大臣と会見をもつよう宣言した。
新聞は言う。ガリバルディはニースの彼の友人に宛てて、あらゆる扇動を一時的に停止し、フ
ランスに障害を与えぬようにと勧める手紙を書いた。
国王は国民投票の実施を計画中。
【83】(ブルバキ事件)
ブルバキ将軍の往来の真相は未だ不明である。ベルギー発の電報によれば、昨日、将軍はリエ
ージュへの途次にあるという。メッスへの途中でアルロン Arlon に彼が居ることを伝える。本日、
『ベルギー独立』紙によってわれわれは以下を知る。同紙もベルギー発の電報と同じ情報を得て
いるようだが、ドイツ方向、メッス方向へ旅行した将軍は今、ブリュッセルに滞在中。
『ベルギー独立』紙は最近の将軍の所行や振る舞いについて伝える。バゼーヌが素性も密命の
中身もさっぱりわからない密使の訪問を受けたとき、なぜ将軍はメッスにいたのか。この密使の
訪問ののち、元帥はブルバキ将軍にイギリスに行って皇后に会うよう促した。将軍が日々敵との
戦いで忙殺されているのに、将軍は上官の許を離れることにためらいを覚えた。
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しかし、元帥はなおも強請した。ついに書状によって形式的命令を発した。以下のごとし。
「ブルバキ将軍と会見したいとの願望を表明された摂政皇后は同将軍に対しただちに皇后陛下
の許に参上すべしとの命令を発せられた。」
したがって、医師という肩書で将軍は出発。元帥は彼自身の手で扮装に必要な衣類を支給した。
謎の密使はカムデン=プラース Camden-Place まで彼のお供をし、そこで彼の到着は最初は前
皇后に驚くべき興奮をもたらし、次いで少なからず苛立ちを掻き立てた。前皇后は政治の話を聞
きたがらず、当分のあいだあらゆる陰謀から離れ、息子といっしょに暮らしたいと述べた。
召喚されたのではないにせよ、少なくとも待ち受けられるか、または待望されていると思いこ
んでいた将軍はこの対応にびっくりした。何の役目も何の目的ももたないで自分の任務を離れる
ことは絶望的であり、最初のうちは己の上官(バゼーヌ)のかくも明瞭な責任放棄について捨て
置くことができないと考えた。しかし、気をとり直してヴィクトリア女王の許に行き、バゼーヌ
軍の許に戻れるようとり計らってほしいと願い出た。
【84】プロイセン軍当局に照会してみた。しかし、明瞭で決定的な返答が待ち受けていたため、
将軍はライン軍に復帰するのを断念した。
このようなわけで将軍は昨10日、ブリュッセルに到着し、そこから国防の仕事にとりかかる
ためツールに赴く予定でいるのだ。
『ベルギー独立』紙が暴露した詳細をみてもなお不可解なことは、9月24日にメッスを脱出
したブルバキ将軍が8月28日以降にフランスに生じた出来事を知らない点だ。
(病臥に伏すアレクサンドル・デュマ)
フランスは病に伏している!..フランスの物語作家アレクサンドル・デュマも病床に臥して
いる。彼は今、息子の田舎のディエップ近郊ピュイ Puy にいる。彼を見かけることはできない。
モンテ=クリストの著名な作者であり、非常に多数の作品を書いた彼は誰にも知られた人物だが、
今や全身麻痺の状態で、しかも耄碌している。この大作家はしたがって、今日のフランスを襲う
不幸についてつゆだに知らない! そのことを責めるべきだろうか?
(プロイセンの自由主義)
北ドイツ連邦の総督フォーゲル・フォン・シュタイン将軍は法令を発布した。それによれば、
民主主義党の人民集会の禁止を命じている。しかし、公的宣言によってフランスの抵抗を支援し、
そのことによって祖国の軍事行動を犠牲にして敵を利す危険性をもつ人物を監視するよう警察
に命じた。このような場合、特定の人物を戦争の全期間中、「害毒を流さない状態」にとどめく
ことを勧める。
「害毒を流さない状態にしておく」!...猿ぐつわ、要塞はなにがしかの弁論を思い出させるの
か!
これらすべてはプロイセンの血の匂いがする。
(スダンの男)
ブリュッセルでナポレオン三世に対する執拗な攻撃が現われたのはこのタイトルのもとにお
いてである。この仮綴本の著者アルフレッド・ド・ラゲロニエール Alfred de Lagueronnière
氏は実兄の帝政の執務官で弁護論者のこの精力的な帝政批判を向けて、『ベルギー独立』紙に次
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の書簡を送りつけた。[省略]
【85】
(南仏同盟)
アヴィニョンの新聞『南仏民主主義者 Démocrate du Midi』紙にマルセーユ発の速報によると、
アルフォンス・ガン Alphonse Gent 氏は23票のうち16票を得て南仏同盟の総代理人に任命さ
れた。因みに、同氏がツール発の上掲紙に宛てた速報がここにある。
「陸相に代替する委員に任命されたため、私はツールに残ります。同委員会は大きな責務、つ
まり国家の救済のポストを辞退させるのを許してくれません。 ツールにて 1870 年 10 月 4 日」
『ル・セマフォル le Sémaphore』紙は付言する。「もしわれわれが得ている情報が正しいと
するなら、同盟の思想はその主要な提唱者から放棄されたことになろう。」
10月12日(水)
【86】(戦況)
サン=カンタンへの再度の急襲のもようが明らかになる。敵はドルーで撃退された。ドイツ軍
団がモンディディエ Montdidier に現れる。そこには義勇兵と遊動隊が待ち構えている。
オルレアンから凶報、しかも絶望的な凶報が届く。普軍がアルトネーArthenay で仏軍の1分
遣隊を撃破し、3門の大砲と 2 千人を捕虜とした。仏軍は大潰走のもようで、オルレアンの占領
が切迫している。
(ローマ)
ラ・マルモラ将軍兼国王代理官がローマに到着。彼は群集によって大歓迎を受け、ローマ市民
に向け宣言を発した。
(ティエール氏の旅行)
ウィーンの『ヴァレンス通信 Correnspondance Warrens』によれば、オーストリアに滞在中の
ティエール氏は著名な政治家にふさわしい歓待を受けた。ティエールに委託された使命はオース
トリアがヨーロッパに平和回帰をどれだけ願っているかを彼に十分に認めさせるものであった。
(ロシア)
ロシアの新聞は軍隊の移動やロシアの戦争準備に関する報道を公式に否定した。
(ツールの国防政府)
ガンベッタ氏は陸相と内相の職を兼務することになるだろう。フリション提督は海軍大臣んと
して留任する。
(ガンベッタの気球旅行)
ガンベッタのルーアン通過と彼の気球旅行に関する興味深い記事を「ルーアン新報
Nouvelliste de Rouen」が掲載。
【87】~【89】
(ガンベッタ氏とカステラール Castelar 氏の演説)
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『ガゼット・ド・フランス』紙は 9 日午後 3 時半、県庁のバルコニーからおこなわれたガンベ
ッタ氏の演説とスペインの著名な共和派カステラール氏のフェザン Faisan ホテルでなされた演
説文を掲載。
(オリヴィエ氏)
《1 月 2 日の男》の久しぶりの登場である。この攪乱者の旅行に関するより完全にしてより詳
細な記事が出た。[省略]
【90】・【91】
(ド・ジラルダン氏の思想)
ツールの新聞はある上奏文の原文を発表。すなわち、フランスの37200のコミューンまた
はプロイセン国王に対し、名誉を損うことなく堪えうる講和を提案するために書き送る。このよ
うな思想の持主はジラルダン氏であり、彼がこれを起草した。しかし、ジュール・ファーヴルの
挫折以来、この計画はその実現がむりであることを彼が悟ったのである。
(ジョワンヴィル皇子)
憲法制定議会への候補者として自薦の書簡。
(ドイツの新聞と国防)
ドイツの新聞は、フランスが今日陥っている失敗から再起する可能性について絶望的とみる。
新聞は特に、すべての国の共和派の協力を受け入れたことでもってツール政府を攻撃する。
【92】プロイセンの新聞はひどい語調でこの点についてフランスをこき下ろす。
(フランスの城塞化された場所)
包囲され奪取されたフランスの要塞は以下のとおり。ストラスブール、ツール(Toul)、リュ
ッツェルシュタイン Lutzelstein、リヒテンベルク Lichtenberg、ウィサンブール Wissembourg.
短期の抵抗ののち降伏開城した町。マルサル Malsal、スダン Sedan、ラン Laôn、ヴィトリ=ル
=フランセ Vitry-le-Français。
包囲中だが降伏していない町。メッス、パリ、ファールスブール、メジエール、ティオンヴィ
ル、ビッチュ、モンメディ。
攻撃は受けていないが包囲されている町。ヴェルダン、シュレトシュタット、ヌフ=ブリザッ
ク、ロンウィ、ソワソン、カリニャン.
包囲されていない町。ベルフォール、リール Lille、ジヴェーGivet。
10月13日(木)
【92】(戦況)
アルトネーArthenay の戦闘にひき続き、仏軍はロワール左岸に撤退。オルレアンが現在、あ
るいは近い将来に占領されるかどうかは未だ不明。
ヴォージュの状況はわれわれにとってさほど悪くない。ここでの戦闘はそれほど重要でないと
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はいえ、6 日以降、ひき続いている。10 日にブリュイエールで、すなわち 6 日、7 日の戦闘の
舞台となったすぐ近くで衝突した。ある至急報によれば、1 万5千人に及ぶバーデン軍がここで
は旗色が悪いという。
にもかかわらず、ドイツ軍はエピナル方面に進軍中。ブリュイエールで敗退後もヴォージュの
県庁所在地をめざし着実に前進しているもよう。
北仏での侵入軍の目的地はアミアンであり、その目的はフランスのこの地方の要塞間の連絡線
を切断し、それらのないところでもパリと外部との連絡の妨害に定められている。
ツール発の報道によれば、デュクロ Ducrot 将軍は 7 日、モンヴァレリアンとサン=クルーの
間で幸運な出撃をおこなった。
【93】プロイセン軍はその地点を放棄し、ヴェルサイユ方面に撤退したとのこと。ついに!..
成功したのだ!.. フランスのこの美しい地方を、それを穢し破壊する敵から解放したのだ。他
の町がこれに続くことだろう。
(ティエール氏の旅行)
ティエール氏は今、フィレンツェに滞在。当地で国王と大臣が接見。聖ペテルスブルクから『ベ
ルギー独立』紙に送られた通信は、この著名な歴史家ティエール氏がロシアの首都で受けた歓待
ぶりについてふれる。
(中立国)
イギリスの新聞は 10 月 7 日、ツール Tour 将軍の書簡を発表。彼は継戦責任をティエール氏
に帰した人物である。彼が言うには、《九月四日の人々》は摂政皇后に戦争終結と講和の締結を
許可しないというかたちで過ちを犯した。
彼によれば、講和のための恒久的基礎はプロイセンが賠償金のみを要求して引き下げることだ
ったという。
彼はまた次のような見解をもつ。すなわち、列強は勝利者の野心を妨げ、枷を嵌めるべきであ
った、と。
ツール将軍は名言を、とりわけ恒久的な唯一の講和の基礎に関する名言を語った。しかし、
【94】ビスマルク氏はかくも思慮深い評価や意見に耳を貸すだろうか。
(気球)
ツールネーTournai からの報道によれば、
『レコノミー』紙はファルコ Farco と他一人の人物
によって打ち上げられた気球がこの町の近くに降り立った記録を掲載する。
(ボナパルト派の論争、一文なし)
『シエクル』紙によれば、ヴィルヘルムシェーエのナポレオン三世の秘書ピエトリ氏に宛てら
れた手紙の写しが届けられた。この手紙は前皇帝の個人財産についてふれる。こうした陳述が正
確であるかどうか証明することはできない。しかし、ある程度は正確とみてよいだろう。それは
われわれを驚愕させ、おそらく読者も驚愕させるであろう。
1854年・・・バーリング Baring(ロンドン)
400万フラン
1855年・・・ヴィクトリア銀行(ロンドン)
600万
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1856年・・・ウィーンのキンドレット会社
小計
1860年・・・メキシコの J. P. Jecker
300万
1,300万
1,400万
1863年・・・テュニジア借款
300万
1864年・・・オスマン=トルコ帝国借款
500万
1866年・・・ブラウン Brown の抵当(N. Y.)
1,000万
1867年・・・ファンダー商会によるロシア借款
600万
1869年・・・サンタンデルの不動産
300万
1870年・・・
200万
・・・アムステルダム
700万
合計
6,300万
(メントノン Maintenon…の消防士)
メントノンにおいてプロイセン軍の捕虜となり、その地方の国民衛兵によっても守られなかっ
た消防士仲間をシャルトルの遊動隊が解放した。
【96】10月14日(金)
(戦況)
オルレアンが占領された。国王がプロイセンの王妃にその旨を電報で伝えた。
・・・
パリの守備隊が 7 日におこなった幸運な出撃戦に関する詳報は不明。プロイセン発の電報は
ふつうは雄弁なのだが、ひと言も述べていない。
ソワソンの包囲、ヴェルダンの包囲が始まる。この事実を伝えるベルリンの速報はこれら2都
市は、火力がありよく指揮された砲兵隊を擁していると付言。
バーデン軍はヴォージュの州都エピナルを制圧。
【97】ツール経由でバゼーヌから吉報が届く。元帥は幸運な出撃戦をおこなったもよう。その
作戦行動に一つで仏軍は26個歩兵大隊と 4 個騎兵連隊の包囲軍を殲滅したという。
(ストラスブール)
この町の包囲に関する通信を集めた詳細を以下に示す。これはわれわれがすでに確認したこと
を再確認するもの。軍民の英雄的抵抗のすばらしい勇敢な精神が見られる。[省略]
【98】
(ツールの臨時政府)
フランスの臨時首都のようすを描写した1通信。[省略]
(マルセーユ)
軍備のためこの町が借り受ける1千万フランの公債が売り出され、うち600万フランの引き
受けがあった。
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南仏の大きな都市は共和政の宣言以来、それらの都市がとらわれてきた扇動から抜け出そうと
必死になっている。とりわけマルセーユは元の静寂さをとり戻していないし、最初、躊躇の態度
を示したのち、市当局はその正反対の極に走ってしまった。県の高官のエスキロス氏は自由主義
政策の措置をとったため困難が増幅した。彼はイエズス会を解散させ、正統王朝派の機関紙『南
仏新報 Gazette du Midi』までを一時発行停止処分にした。
『ベルギー独立』紙の言うところでは、イエズス会の解散はある点においてフランスでこの教
団を禁止する法律を正当化するところとなった。エスキロス氏は帝政政府がけっしてほっしなか
ったか、あるいは敢えてつくろうとしなかった法律を実施したのだ。じっさい、ある新聞――そ
の政敵に対し非常に挑戦的な新聞――に対する発行停止処分は純粋な意味で違法であるばかり
か、単に一時的便法でしかない。
【99】この種の法律の理念および各人の自由の尊重の仕方をわ
れわれは信じることができない。
(現下の戦争と合衆国)
交戦国双方のために合衆国において組織された遠征隊に関し、最近流れている噂はあながち根
拠のないものではなかった。グラント将軍の宣言は、兵員登録がフランスともドイツともはっき
り指示することなくおこなわれたことを確認する。その宣言は次のことを想起させる。それは中
立国の法に悖る行為であり、その首謀者を連邦法によって想定された処罰に曝すものとなろう。
しかし、その宣言は合衆国の官僚が友邦国に対するその国の義務への違反という手段によって防
げる命令を含んでいる。
(帝政の金箱とグラニエ・ド・カサニャック Granier de Cassagnac 氏)
『ベルギー独立』紙はド・カサニャック氏と、帝政の金庫たるカサニャック父との頻繁な交渉
を証明する秘密資料の一部を明らかにした。同紙は彼に次のような書簡を送る。[省略]
【100】
(ヴェルサイユの征服者)
ビスマルク氏はジェッス Jesse 氏の屋敷に住み、カール王太子はモスコヴァ Moskowa 皇子
の館に住んでいる。
この2つの参謀本部は何らの障碍もなく設立された。国王の本部は西の角にあり、王太子のそ
れは東の角にある。北ドイツ連邦の宮廷はゴランス Grance 通りにある。
10月15日(土)
【100】(戦況)
プロイセン軍が北仏を脅かし、アミアンは果敢な抵抗を準備する。一方、いっさい仔細
を明示することなく、バゼーヌが勝利をおさめたという噂がしきりに飛び交う。しかし、
プロイセンの至急報はバゼーヌが 9 月 26 日に普軍による敗北を告げる。その日はカンロベ
ール元帥が軍隊を指揮していたようだ。
ツール派遣部はオルレアンを放棄せざるをえず、ロワール以南に退却した軍司令官から
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簡単な報告を受け取った。それによると、電報はパニック状態を伝える。その報告によれ
ば、軍隊敗北の原因は敵砲兵隊の優勢な火力のせいであり、その退却はバイエルン軍に脅
かされることなく沈着かつ秩序正しくおこなわれたという。
プロイセン軍の出撃戦に関する独軍発の電報はパリ軍の6個大隊の小規模な出撃戦につ
いて伝える。この作戦は失敗に終わったという。速報によれば、仏軍はサン=クルー城を
焼き討ちにしたと付け加え、メジエールは至近距離からの攻撃を受けたという。
【101】ガリバルディはブザンソンに到着。ブルバキ将軍がツールに到着し、当地において
県庁の中庭で熱烈な歓迎集会が催された。
(ローマ)
ローマ発の外電によれば、10 月 11 日、
『オセルヴァトーレ・ロマーノ Osservatore romano』
紙が発刊停止処分を受けた。ヴァティカンに教皇専用の郵便・電報局が設立された。
強制的にカトリック教徒として養育するためその両親からとりあげられた若いユダヤ教
徒は政府の命令によって家族の許に戻された。
3 人の教会参事会員がわずか 1 日のうち街頭の真只中で短剣により負傷させられた。
(ティエール氏の旅行)
ウィーン発の報道によれば、ティエール氏はこの首都滞在中に大歓待をうけた。
七月王政のかつての首相はフランツ=ヨゼフから熱烈に歓迎された。ティエール氏はく
り返しフォン・ボイスト伯爵やハンガリー首相アンドラシー、フェスティク氏、さらにロ
シアおよびイタリアの代表とも会談した。彼は一昨日の夕方は帝国大法官のところで、昨
夕はロートシルト男爵の館で晩餐会に招かれた。
外務大臣邸で彼の名誉のための晩餐会でアンドラシーとポトッキの両首相、外交官フォ
ン・ノヴィコフ・ミニゲッティ、モスブルク伯爵、ホフマン課長、オルツィ男爵、ロート
シルト男爵らと夕食を共にした。
だが、ティエール氏は果たさなければならない使命を帯びていた。この報告書は彼の愛
国的努力の結果を称賛するにはあまりに乏しいものとなった。皇帝とフォン・ボイスト氏
はフランスにいたく同情の意を示し、ティエール氏に、もし可能ならば迅速な講和締結の
ために尽力したいとの希望をもっているにもかかわらず、オーストリア=ハンガリーの置
かれた状況と諸事件のせいで態度保留の立場から一歩も踏み出せないと宣言した。
ほぼ同一の内容の返答がロンドンや聖ペテルスブルクのティエール氏にもなされたらし
い。ヴィットーレ=エマヌエーレとその助言者たちも他の中立国と同じ事情によりその局
外中立の立場をとり続けることに疑いを入れる余地はない。
(バゼーヌの弟の抗議)
バゼーヌの弟は新聞を使って、流布している噂に対し猛然と抗議した。【102】その噂と
は、ライン軍を指揮している元帥は共和政を承認せず、引き続き帝政政府に仕えると宣言
したという噂である。
ほとんど大部分の新聞がこの抗議行動を掲載する。しかし、それらの論調は、最近の事
10
実によればバゼーヌ自身がボナパルト支配下のもとでのフランスの救済を求めていること
を信じさせることを嘆いているのだ。それにもかかわらず、国防政府はフランス全体にお
いて暗黙裡に承認されている。したがって、諸新聞は以下の希望を表明する。すなわち、
今後、ボナパルト派の陰謀に関するいかなる疑いも元帥にはかけられないこと、元帥は勇
敢にフランス国旗を握り、スダン以降は下りっぱなしの仏軍の名誉を再興すべきこと、―
これである。
(ツール臨時首都)
『ベルギー独立』紙に宛てられた手紙はツールのようすや、ガンベッタの振る舞いに関
する興味深い記事を掲載。[省略]
(ウーリック将軍とストラスブールの防衛)
いくつもの新聞といくつもの私信が、降伏開城する前に防衛のためのありとあらゆる手
段を講じなかったという理由でウーリック将軍を非難する。
同将軍は両親の一人に書簡を宛て、そのなかで彼に向けられた非難に抗議する。[省略]
【103】
【104】(パリ国防政府とガンベッタの宣言)
ツール住民に対するガンベッタの宣言は、言語に表しがたい喜びをもって受け取った 10
月 12 日パリ発のニュースを伝える。[省略]
(ロンドンでの講和の動き)
陸軍大臣カードウェル Cardwell 氏はオックスフォードで宣せられた演説のなかで、「講
和の好機が訪れたなら、それを注意深くとらえ、われわれが消すことを欲している炎に油
を注ぐようなことは止めよう」、と言った。
戦争終結のために『タイムズ』紙はアルザス=ロレーヌの要塞の防備を取り壊すことを
提案。イギリスは一方的な攻撃を仕掛け、その攻撃の理由が正当化できず、また調停に応
じないのであれば、他方に与するであろうこと、かくて、両交戦国との条約を用意する態
度をあらわにした。
(ドイツの寛大さ)
プロイセン政府は、将校によって指揮された正規軍に所属せざるすべての義勇兵を銃殺
するよう命じた。
(派遣部の電報)
アナトール・ド・ラ・フォルジュ Anatole de la Forge 氏に宛てられた政府の電報。[省
略]
(プロイセン王のヴェルサイユへの入城)
ルッセル Russsel 医師は 10 月 5 日、ヴェルサイユからプロイセン王のこの町への入城の
ようすを送った。
11
【105】10月16日(日)
(戦況)
オルレアン防衛にあたったロワール軍に対し多くの苦情が寄せられた。戦列歩兵隊、騎
兵隊、遊動隊のすべての連隊が弱みを見せた。兵卒は指揮が悪かったと弁解する。事実は
こうだ。将軍たちは何らの威信ももたず、彼らが勝利に向かって導くべき軍隊に対する支
配力をもっていなかった。ありとあらゆるところで教練と軍旗への恭順を再構築するため
精力的な措置が要請されている。
パリ軍の総出撃およびあらゆる点での完全な勝利というセンセーショナルなニュースを
知らせる速報は正確さを欠き、この意味で情報に日付を与えていない。思うに、日付とい
うのは今いちばん枢要な点である。
ガンベッタ氏の宣言は 10 月 12 日に発った気球によってパリから運ばれたニュースに頼
っており、11 日およびそれ以前の日々の情報しか扱っていない。ところで、10 日、11 日に
はなんら重要な事件は発生していないのであり、ガンベッタの宣言の説明が待たれる。
【106】プロイセン王(ヴェルサイユ)の大本営発の速報はこの資料によって宣言された主
要な事実を完全に否定する。同速報は、独軍がこの時 9 月 19 日に占めたすべての地点を占
拠しつづけていることを確認。
このことから次のことが明らかになるだろう。すなわち、包囲以来、おこなわれた戦闘
で真に重要なものは 29 日のヴィルジュイフとショワジ=ル=ロワ以外にほとんどないとい
うことだ。
パリでは 14 日も 15 日も干戈は交えられなかった。
さほど重要なものでない戦闘に関し、プロイセンの速報が先日報じたソワソン要塞の抵
抗は長続きしなかった。3 日間の砲撃ののち、同市は降伏した。
ツールの政府派遣部の政令はガリバルディに対し、ヴォージュの義勇軍の指揮を委任し
た。同軍に正規軍が編入されるであろう。
(気球)
14 日パリを発した若い飛行士アルベール・ティサンディエ Albert Tissandier は『モニト
ゥール』で自分の旅行について談話を発表。[省略]
【107】
(パリおよびフランスに対するプロイセンの傲慢)
プロイセン軍のある将校はナポリ滞在の友人に手紙を送った。以下は訳文である。これ
は考慮するにふさわしい内容をもつ。[省略]
【108】(マルセーユ)
『南仏新報 Gazette de Midi』紙の発禁処分とイエズス教団の追放に関し知事とツール派
遣部とのあいだで発生した紛争が話題にのぼる。件の知事エスキロス氏は彼の所行がツー
ルで出会った反対を前にして辞任した。しかし、すべてのマルセーユ市民は彼の味方であ
り、辞任したエスキロス氏の後任として、ガンベッタによって臨時行政官として指名され
12
たデルペック Delpech 氏が従順な行政官であるかどうか気遣われている。
さらにマルセーユのある紛争についての記述。[省略]
【109】(ド・ショドルディ De Chaudordy 氏からの 2 つの省令)
外務大臣から 2 つの省令が出された。
最初の省令は、フランスがドイツの統一を邪魔したことがないことを示すものである。
第二の省令はフェリエールの談判に関して、フランスは第二級の国家になるべきだ、と
いうビスマルクが放った発言に関し、ツールの宣言の残念な不正確さを正当化することを
めざすもの。ド・ショルディ氏はドイツが要求した条件はフランスを第二級の勢力に引き
下げる結果を必然的に伴うという。支持することのできるのはこの命題であって、他のも
のではない。
人がそこに見出すことのできる表現の適切さがなんであれ、ビスマルク氏によって表明
されたひとつの意見、ひとつの威嚇としてそれが与えられたことは理解に苦しむ。
(遺憾な措置)
ロワールの知事はサンテチェンヌのある新聞を無期限の発行停止処分にし、同時にそれ
を裁判所に付託した。2 週間前から保守的な政策を推奨したというのだ。
この措置はあらゆる党派が活発に論議するところとなり、いくつもの新聞が「市民のあ
らゆる権利の侵犯においてその名誉を穢すある制度への伝統的回帰」に対して抗議した。
(ベルギーにおけるプロイセンの自由主義)
噂によれば、『ベルギー独立』紙はプロイセン宰相がベルギー首相のアヌタン Anethan
男爵に送った苦情から攻撃を受けた。【110】同紙の大罪状とは、アルザス=ロレーヌはそ
の意志に反してドイツに戻るべきではないことを熱心かつ正当に主張したことである。
今一度、「プロイセンの自由主義」とはたいしたものだと言わざるをえない。
(ロンドンにおける和平を求めるデモ)
現状において取るべき行動を検討する目的での大集会がこの町で開催された。ここでな
された提案は以下のとおり。・・・[省略]
すべての中立国と同様に、イギリスでは富裕階級が自己満足し腕組みし、成り行きを見
守っている。ただ人民階級のみが野蛮にして非人道的な決闘な終結を導くために可能な措
置を取り、そのための動をとる。
(シャンボール伯の表明)
ブルボン王朝派の諸新聞は次のようなプロパガンダを挙げた。それによれば、ド・シャ
ンボール伯は公然と王位就任を表明した。
【111】
(ヴェルサイユにおける勝利者)
ヴェルサイユの大本営から『タイムズ』紙に書き送った書状によれば、国王、王太子、
およびその参謀を集めての大宴会が催された。
(ストラスブールの故意の敗北)
13
包囲期間中になされた故意の敗北に関してこの不幸な町に関する記事。
(タンベルリック Tamberlick、モスクワで野次られる)
【112】10月17日(月)
(戦況)
メッスから来たある議員がヴェルサイユに到着したこと以外に今日は示すべき重要な事項は
何もない。
パリ包囲にとり組むプロイセン軍は 10 万の増強要員を受け取った。
ソワソンの奪取によりプロイセン軍は 4 千の捕虜と 132 人の大砲を取得した。
(バゼーヌ氏の書簡)
バゼーヌ氏の弟の書簡。[省略]
【113】
(防衛に関する法令)
ツールの政府派遣部は一連の政令を発令したが、それによれば、国防工事および侵入軍に対抗
するための軍隊の組織化について広範な権限を軍当局に付託する内容だった。そのうち最も重要
な2政令は、敵軍が100キロメートル以内に肉薄している全県は戦時宣言を発すべきこと、40
才までのすべての国民衛兵を召集すべきことを可能にした。それ以後、彼らは軍体制のもとにお
かれる。
(スパイ)
スパイ組織が戦時に張り巡らされることはよく聞く話だ。こうしたもとでプロイセン軍が知る
べきものは何もないし、また、自ら咎めることは何もないだろう。彼らのスパイはあらゆる場所
であらゆる扮装のもとで驚くべき機能を果たす。大胆に、かつ危険も顧みないで ―。・・・『エ
コー・デュ・ノール Echo du Nord』紙は報道面でのスパイ行為についてふれている。
(スペイン)
ベルリンからの速報によれば、アオスタ公のスペイン王位への立候補問題は予備談判の局面か
らまだ進んでいないようだ。それはチアルディーニ Ciardini 将軍によって推薦されているが、
公式の交渉はまだ始まっていない。
(リール)
『メモリアル・ド・リール Memorial de Lille』紙はエーヌ、ソンム、パ=ド=カレー県など北
仏における国防政府の代理長官テストラン Testlelin 氏によって 1 か月間の発禁処分を受けた。
その理由は、リール県庁でおこなわれた軍法会議がサン=カンタンは防御されないであろうとい
う報道を流したためである。【114】このニュース報道が軍規に抵触したのである。
(賢者は贅言を要せず)
ボナパルト派が祖国防衛者の地位から追放された、とだれが言ったのか? 彼らのうちの一人
ピナール Pinard 氏は自分の外国への出国についての噂を否定した。かつてボナパルトの大臣だ
14
った彼は故郷オータン Autun の第8大隊に自ら志願し、「故国の土地の外敵によって侵略され
るかぎり、この地位に留まる」と書く。
『シテュアシオン』紙の主幹およびボナパルト派全員に忠告したいことは銃を手にすることだ。
(叛逆者)
戒厳本部で裁きを受けるためブザンソンからリヨンに送られる前に2人の人物について報道
された。1 人はランベルヴィリエ Rambervilliers のユダヤ人、もう 1 人はシャルム Charmes(ヴ
ォージュ県)の校長であり、日給 100 フランでプロイセンのためにスパイ行為をはたらいた。山
中のあらゆる山道を知悉している彼らは斧を携帯し、松明の光で前進した。その道すがら木の皮
に目印を入れ、次いで木を切り倒し、ある時は「A」またある時は「B」と刻んだ。「A」とは
「進め Avancez」の意、「R」とは「退却せよ Retirez」の意である。このようにしてプロイセ
ン軍は迷うことなく進軍することができたのだ。
(プロイセン軍の寛容さと中庸)
ツールからのハバス社に関する通信文。[省略]
(米国人外交官のビスマルク氏への書簡)
【115】(ド・モルニー氏の立像)
『フラン=パルルール・ノルマン Frac-Pareur Normand』紙はドーヴィルでド・モルニー公爵
の立像の撤去工事の始まったことを告げる。
(戦争犠牲者)
プロイセン王太子の参謀部における『タイムズ』紙の通信員によれば、独軍はパリを前にして
1 日当たり 20 人ずつを要塞からの攻撃によって失っているという。7 日、副官エレウィン、中尉
ヴァイスがパリを眺望できるところからある葬列を眺めているとき、モンルージュの森から飛ん
できた砲弾が十字架のすぐ近くに落下し、これら 2 人の将校を殺害した。砲弾は反対側のカベを
突き抜けて窓から飛び出し、中庭に落ち、そこで幾人かの兵士をなぎ倒した。
10月18日(火)
(戦況)
この日の事件と関心事はメッスから来たフランスの議員がヴェルサイユに現れたことだ。バゼ
ーヌがビスマルク氏とのあいだに始めた交渉がいかなる種類のものかについてすべて者が自問
する。【116】ある者は講和の予備会議だと言い、またある者は、バゼーヌを摂政として元帥が
その魂であり、その軍隊が道具であるところのボナパルトの皇帝復位の企てであろうと言う。
それが何であれ、バゼーヌ元帥の副官たるボワイエ将軍と件の議員はすでにビスマルク氏との
二度の会見をもっている。
気球によるパリからのニュースでは、パリ軍がクラマールとバニュー方面でおこなったと見ら
れる大出撃戦を伝える。この出撃戦は期待すべき結果をもたらすであろう。それは 13 日におこ
なわれたとのことだ。
15
この件に関し注意すべきことは、プロイセンのいかなる速報もこの事実についてふれていない
ことだ。これらの事実はトロシュ将軍の署名入り保証のもとで明らかになっているのだ。プロイ
セン発の電報は昨日になっても 9 月 30 日以降にパリでおこなわれた軍事行動はなかったと伝え
る。
この矛盾、この脱漏は世論を困惑させずにはおかない。だから、人々はプロイセンの速報を信
用しないようになったのだ。その情報はしばらく前から正確さと公平無私の点で多くを欠いてい
る。
ツールからブザンソン、ヴォージュへ向けてのガリバルディの出征は敵軍のリヨンに対する軍
事行動を妨げるため、これらの地点で近い将来に戦闘が始まる見通しを示唆する。陸相の任を臨
時的に帯びた内部大臣自身が同道するであろう。同時に、ガンベッタ氏の不在の動機を知らせる
コミュニケが今朝、そのことを伝えた。不在は 5 日間しか続かないであろう。県の職務代理執行
はクレミュー氏に付託されている。
『デイリー・ニュース』のある速報は、独軍によってかなりの地域ですでに占領されたと見ら
れるロワール以遠で近々戦闘が始まることを予告する。
(パリのプロイセン軍)
ヴュルテンベルクのある軍人はパリ兵営の生活についていくつかの情報を伝える。
(イギリスでのパリ向け補給)
【117】
『サン』紙は慈善心の発揚の名にふさわしい博愛主義の意向を紹介した。おそらくは
少々時期尚早と思われる助言である。
(マルセーユ)
マルセーユの共和派は明瞭に異なった2つの陣営に分裂。一方はツール派遣部と緊密な協調と
あらゆる自由、たとえその敵手を利することになる可能性をもつ自由すらも尊重することを希望
する。とりわけ、社会主義者から成る他の側は、共和政を救うための精力的にして急進的な施策
を主張。この意見に与する人物はしたがって、一時的にあらゆる王党的・宗教的反対派を禁圧す
ることを欲する。彼らはエスキロをその首魁・扇動者としていただく。
見解のこうした違いはある手紙が次のように示唆している紛争や仲たがいの因となる。
【118】
(カンブリエル将軍)
上記将軍の略歴。
(またもや、かの市長が)
モンディディエ Montdidier 市長ボードロック Baudelocque 氏はソンム県知事によって、その
住民に抵抗しないよう助言することで同市をプロイセン軍に引き渡したかどで更迭された。
(イギリスにおける王侯の年金)
ルイーズ皇女のド・ロルン De Lorn 侯爵の婚儀に対し、クリスチャン・シュレスヴィッヒ=ホ
ルシュタイン Christian Schleswig-Holstein 公と結婚したエリーヌ Héline 皇女のそれと同類の
16
寡婦資産、すなわち 3 万リーヴル(6 億5千万フラン)と 6 千リーヴル(1 億 5 千万フラン)の
終身年金を議会が与えるよう要求した。
(ある推薦状)
ガンベッタがガリバルディの到着を知らせる書簡。
(イタリアでのある放免)
ガエタから『サン』紙に 10 月 15 日付でマッツィーニが放免されたという寄稿記事が掲載され
た。
10月19日(水)
(戦況)
地方でのドイツ軍の軍事作戦はオルレアンで阻止されたようだ。少なくともロワール方面での
交戦に関する速報をわれわれは受け取っていないし、ツール派遣部はその安全について心配して
いないもようだ【119】。これに反し、フランシュ=コンテのヴェズール Vésoul がエピナルから
南下してきたバーデン軍によって占領され、ディジョンがまもなく砲撃を受けるであろう。
北仏ではアミアンの南東に位置するモンディディエが攻撃され、砲兵隊を含め800人よって
奪取された。しかし、アミアンにせよサン=カンタンにせよ、なんら新しい動きはない。リール
ではもし敵軍が再出現するならば、これらの町を救援すべく措置がとられるであろう。北西諸県
の抵抗を組織するためブルバキ将軍の登場が仏領フランドルの首都で待望されている。
パリについていえば、ロンドンの新聞『スダンダード』が入手した速報によれば、いかなる場
合においても 10~15 日前は砲撃がなかったという。
(和平に向けての交渉)
「和平!!…決定的な和平」が取り上げられた!!…外交界はそれを懼れているのか! メッ
スの投降をとり扱う使命 ― それはまったくありえないことだが ― を帯びたのはド・ボワイエ
将軍のようだ。
彼こそがバゼーヌ氏が合意に達するよう交わされた交渉の仲介をしたと言われる。
彼らがこの談判にいたったのか? 彼らが到達しうるのか? なんとまあ! 解きほぐすのが難
しい問題であることか! バゼーヌに和平をなす権限があるのか? 彼はフランスの委任者であ
るのか? だれのため、だれの名において彼が交渉するというのか? 共和国政府は、己に背いて
の行動あるいは敵対的な行動をとるならば、この前皇帝の将軍の行動や振るまいを承認するだろ
うか?
(ティエール氏の旅行)
ティエール氏は遅ればせながらツールに到着した。彼は昨日、幾人かの要人によって駅まで見
送られフィレンツェを去った。それに先んじて彼は国王ならびに閣僚たちと会談した。
(ローリエ Laurier 氏の使命)
『ガゼット・ド・フランス』紙の記事。(ツールの資金不足)
17
(ドイツの統一)
『ヴュルテンベルク官報 Moniteur Wûrtembourgeois』紙は以下のごとく報道する。【120】
大臣ド・サックノウ De Sucknow Mittacht 氏は前日、国王から依命され、ヴェルサイユのヴ
ィルヘルム王の大本営に向け出発した。この使命は明らかにドイツ問題に関するもので、フラン
スとの講和に劣らず重要な関心をもって解決を急がせる内容を含む。というのは、ドイツ連邦の
再建は 1870 年戦争の最重要の成果であるべきだからだ。ミュンヘンでの談判ののち、原則とし
て連邦国家のかたちでドイツの統一行政にすでに合意したこの 2 人の人物は早期解決でないま
でも、少なくともドイツ連邦の基本原則について一致を予想させるように思えた。
(軍官の昇進)
ツールの法令は昇進について通常の条件を定める法律を一時停止にする。その結果、例外的な
昇進が通常規定の外で承認されることになる。
(ドイツにおけるフランスの虜囚)
『プロイセン官報 Moniteur Prussian』紙が発表した最新の抜書きによれば、負傷していない
仏人兵士でドイツに拘留されている虜囚の数は開戦以来、ツール(Toul)およびストラスブール
の開城にいたるまでに 123,700 の兵卒と 3,577 の将校に達した。あらゆる口径の青銅砲の数は
2,100 門にのぼる。
(Tu la troubles !..)
ベルリン発の電報によれば、プロイセンはベルギーの新聞に対しなんら文句をつけていない。
ただ、プロイセンは以下のように述べさせただけだという。すなわち、ベルギー紙の遣う用語
がドイツの対ベルギー感情を損なうであろう。その感情は戦前には非常に活発であったが
…Alter または troubler それはひとつことではないか。
(ガリバルディの宣言)
東部諸県の組織化と指揮の任を帯びたガリバルディ将軍は義勇兵に対し、次の宣言をなした。
[省略]
【121】(フォン・ホルシュタイン大佐に対するある執達吏の手柄)
フランスの活気は未だ死んでいない。その証拠として『Independent du Loir-et-Cher』紙の
抜粋は次のような記事を掲載。[省略]
(誰が戦争を欲したか? ミシュレ氏の見解)
普仏戦争とそれが導いた領土割譲要求はドイツの哲学とフランスの哲学を喧嘩させた。すなわ
ち、シュトラウス Strauss とテーヌ Taine 氏がそれである。この聡明な相手のドイツ人の言説
に抗議しつつ、後者はフランスの戦争が欲していなかったことを主張した。ミシュレ氏はその増
援に駆けつけるのが適当と考えた。『ベルギー独立』紙に宛てられた書簡。[省略]
【122】
【123】(フランスに仕えている外国人)
フランスの利害は一般に文明および進歩の利益と見なされる。中立国における崇高にして寛大
な多くの精神はわが軍の成功のための声を公然とする。ある国は人をよこし、わが軍に入って戦
18
うことさえ申し出ている。
10月20日(木)
(戦況)
パリの城壁の内側では何もニュースはない。プロイセンは少々長引く凱旋の予備交渉を見出し
はじめる。まず第一に、彼らは厳粛な入城は 9 月 14 日におこなわれるだろうと言った。次に、
彼らは 10 月 18 日、ライプチッヒ戦闘の記念日におこなうと言った。そして、今では彼らは日
付も敢えて言おうとしない。さらに、パリをプロイセン軍に抵抗を与えずに引き渡すべき降伏に
ついて彼らは何の展望ももたない。
地方からニュースは常によくない。
パリからツールへの直線上に位置するシャトーダンの町が 18 日、精力的な抵抗ののちドイツ
軍によって占領された。ゆえに、この軍団の前進はツール臨時政府の直面する攻囲に直接に威嚇
を与えるように思われた。したがって、プロイセン軍はツールの左方を明ける準備のため、マン
とアンジェに到る道を辿る準備をする。
(ローマ)
『オプセルヴァトワール・ロマーノ』紙は教皇のインスブリュック Insprück へ向けての出発
の噂はまったく根拠のないものだと言う。
同紙はまた教皇の健康状態は良好と伝える。
【124】 伝聞によれば、教皇は何があってもローマを離れてはならないという見解をヴァティ
カンに対し表明したという。
(フィレンツェ)
ガリバルディ軍のフランスに向けての出発に対してプロイセンが妨害したという噂はまった
くデタラメであることがわかった。
イタリア政府が厳正中立を維持しつづけていることをプロイセンを認めている。イスパニア王
位の継承候補者に関してイタリアと他の政府との間で意見交換がなされていたことについて、証
拠を挙げて否認した。そのイニシアティヴをとったスペイン政府はこの問題について他政府と交
渉をもった唯一の政府である。
ローマ地方の選挙法に関する法令。議席数は40と決められる。
イタリア国王は軍事作戦に加わるためジララーテ Gilarate に金曜日に行くだろう。
(ケラトリ氏の使命)
マドリードにおけるド・ケラトリ氏の使命はスペイン政府からフランスに向けての武器・弾
薬・馬・他の軍事物資の移送を禁止令の撤廃を求める目的だった。サゴスタ Sagosta 氏の不在
中にフランス人使節がその願いを提出しなければならなかった。プリム Prim 元帥はスペイン
の中立義務と両立しないゆえをもってそれを拒否した。ド・ケラトリはツールに戻るべくマドリ
ードを出発した。
19
(気球)
昨日 9 時、パリを発った気球「普遍共和国 République universelle」が 11 時にメジエールと
ロックロワの間のロミーLomy でドイツ兵器の銃撃を受けて落下した。
この気球はそれよりちょっと前に槍騎兵の進撃を危うく免れたばかりで、政府の派遣委員ガス
トン・プリュニエール Gaston Prunières とデュボスト Dubost を乗せていた。
彼らが口頭で伝えたニュースによると、プロイセン軍は一昨日の夜、オート=ブリュイエール
Haute-Bruyères とビセートル Bicêtre に対して猛撃を加えるであろうとのこと。夕方 8 時か
ら 11 時までと午前 1 時から 4 時まで交戦。
プロイセン軍は撃退される。
(オルレアン)
プロイセン軍による占領に関するいくつかの情報。
【125】
(プロイセンの自由主義)
ケーニヒスベルヒで逮捕されレッツエン Lœtzen に抑留されているヤコビーJacoby 氏は公共
集会において併合に反対したかどで抑留されたが、彼はド・ビスマルク氏の許に自分が犠牲であ
るところの措置に抗議するため自身で出頭した。
10 月 3 日、フェリエール発の書簡によって彼に返答した法務官は儀礼的にはバカ丁寧ではあ
ったが、あらゆる決定を引き延ばした。彼曰く。大権を帯びる総督としての行為は自分の権能を
外れる事柄であり、この高官は国王に宛てた報告を待っていること、調査ののちヤコビー氏の釈
放のために行動する権限をもてれば幸いなり、と。
(アオスタ公)
イタリアの新聞はスペイン王位への候補者としてアオスタ公が名乗りを上げたことについて、
極めて真剣で十分ありうることだと論じる。『ラ・ナツィオーネ』紙はイタリア王朝の王族の一
人がスペイン王位への就任を両国の最終的な紛糾の源になるだろうと見なす。
(ドイツ)
18 日に予定されていたパリ奪取を告げる情報が入らないため、この日に発刊されたすべての
ドイツ紙はそのトップ記事にライプチッヒの戦い(1813)の思い出に紙面を割く。
【126】
(クリュズレ将軍の民主社会綱領)
クリュズレ将軍は軍事・政治・行政・社会の再編計画を公刊。以下が要点である。
1.
国防政府のメンバーによって人民によって選出され、喝采された等しい数の者(12 人)
を付け加えるべきこと。
2.
フランスの異なったコミューンを基礎に自律的に組織されるべきこと
3.
コミューンが主権者であること
4.
徴兵制は廃止すべきこと 19~30 才のすべてのフランス人は民兵の一部となり、30~
45 才は駐屯軍の一部となるべきこと
20
5.
正規軍、遊動隊、義勇兵、志願兵、衛兵は将来、国民軍 Milice nationale の名をもつ
単一の組織に編入されること
・隊は廃止
・旅団は 8 個大隊と 16 個小隊をもって構成
・可能であれば、各戦術部隊は徴兵された場所の名をもつ
・階級は選挙に拠るべきこと
・帝政に奉仕した経歴をもつ連隊長および将軍は選出されてはならないこと
7.
戦争費用は累進課税にもとづくこと
・・・
金融証券、株券は課税さるべきこと
政治的大罪および違反に関するあらゆる法律は廃棄さるべきこと
9.
亡命者・崩壊した制度の高級官僚、皇族に帰属する土地あるいは耕作されざる土地 ―
それが可耕地であるとしても ― 没収され、コミューンに移譲され、ただちに農民に分与
されるべきこと。
・・・
(次
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/maquest4.pdf)
(c)Michiaki Matsui
2014
21