岸田劉生の美術史 沢山遼 KISHIDA Ryusei: His “Art History” by Ryo

岸田劉生の
岸田劉生の美術史
沢山遼
KISHIDA Ryusei: His “Art History”
by Ryo Sawayama
2004 年度 武蔵野美術大学芸術文化学科学士論文(初出『APM 叢書-10』、2005 年 3 月 18
日発行、発行所:武蔵野美術大学芸術文化学科)
A Thesis Presented to the Faculty of the Musashino Art University for the Bachelor’s
Degree, March, 2005.
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※ ここに掲載するのは、筆者が 2004 年 1 月に提出した卒業論文からの抜粋(全 4 章のう
ち 1~3 章、1 章のみ部分掲載)です。なお、掲載に際し、誤字・脱字の修正、表記・
語句の編集を行いましたが、内容等に及ぶ加筆修正は行っておりません。
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目次
第一章
自己形成
「後印象派」の受容と大正の「自己」
緑色の太陽
道路と土手と塀
第二章
美術史
ハインリヒ・ヴェルフリンの言説
デューラーの発見
ウィルヘルム・ヴォリンガーの言説
絵画の編成
内なる美
複製図版による絵画受容
サンプリング/コラージュ
第三章
絵画
デューラーと表現主義
リアリズムの約束
『白樺』と柳宗悦
1
児島喜久雄の批評言語
模倣と引用
静物画のトポロジー
文字の機能
第四章
日本回帰
日本回帰
Ⅰ.自己形成
道路と
道路と土手と
土手と塀
――第一章前半部中略――劉生の作品のなかでも代表作と見なされることが多い《道路と土手
と塀(切通之写生)》
(大正 4、1915 年)[図 1]
。そこには作品のサイズのわりに異様な緊張感
が漲っていることに、鑑賞者はまず気付かされるだろう。
その画面は、全体的な整合性に欠け、むしろ分裂しているかのような印象を与えている。それ
にはまず個々の要素を分析してみなければならないだろう。そしてここには特徴的な、それぞれ
に異なる以下の三つのマチエールが認められる。1: 道路や土手、そして塀のそれぞれの物質感
を露出させるまで緻密に描写された堅牢な表面。2: そして草木の表現主義とすら言えるような、
激しい形状を持ち、同時に文様的な同形のパターンが見いだされる筆致。3: そして最終的に、
それらすべてを飲み込んでしまうかのように、ぽっかりと口を拡げ平坦にあっさりと塗られた空
の青。
次にこの絵の題名、すなわち《道路と土手と塀》という題名が劉生自身によって付けられたこ
とを考えてみよう。よく指摘されるように、この絵には明確な遠近法による一点の消失点が失わ
れている。つまり、道路と土手と塀のそれぞれに異なった動線が導かれているのだ。そのため空
間は全体的な整合性を欠き、代わりに複数の方向性によって画面の求心力がばらばらに生起して
いるように感じられる。その結果、空間的な捩れがそこに渦巻いているようですらある。つまり、
遠近法的視点がそこに介在するとすれば、それはむしろ個々の物体、すなわち道路と土手と塀の
それぞれに内在している。そのため個々の物体が可変的に組み替え可能である、とさえ感じられ
るのである。それは劉生自身があえてこの題名を付けたこと、そして 1971 年に撮影された実際
の《道路と土手と塀(切通之写生)
》の現場写真[図 2、坂本明美氏撮影]1と比較したとき、絵に
は土塊の道路と塀とが隣接している最後の地点に亀裂のようなものが認められるのにたいし、写
真ではそのような亀裂は確認できないことから、道路/土手/塀の三者は別々の構成要素として
捉えられていたことが推測されるだろう。つまり、この亀裂は構成的な亀裂である。
しかしそのような分節は絵画表面だけに留まっていない。たとえば劉生はこの絵について「あ
の道のはしの方の土の硬く強い感じと、そこからわり出して生へてゐる秋のくすんだ草の淋しい
力とはある処迄よく表現されてあると思ふ2」と述べている。土に力強さを認め、草木に淋しさ
2
を認める、というように、二つの相反する感情がここでは喚起されるという事態が招かれている。
これは普通に考えるならば異常な事態ではないだろうか。二つの別々のマチエールの内部に潜む
複数の感情。そしてそれが流出するという事態。それは、別々の感情を喚起するほどに各々の構
成要素が独自の強度をもって存在しているということを示しているのではないか。
これは、ちょうど劉生が《冬枯れの道路(原宿附近写生・日の当った赤土と草)
》
(大正 5、1916
年)を描いたとき同じ場所でキャンバスをならべて描かれた椿貞雄の絵と比較検討してみること
でよりいっそう鮮明になるだろう。椿の描いた風景[図 3]には、劉生がそうしたほどの激しいデ
フォルメは加えられていない。したがってその画面に全体的な力学的緊張感にも欠けるところが
あるのは確かだが、しかしかといって椿の絵が劉生のそれより「写実的」であるわけでもないこ
とに気付かされる。それは草がまるで生き物のように生き生きとした動きのある描写によって支
えられていることによって確認されるだろう。これを劉生の同じ絵画に反映させてみれば、劉生
の絵ではそれほど目立ってはいない草の描写も、実は独自の存在感をもたされた表現であると感
じられてくる。つまり、草にあっては椿のほうがより激しい描写を推し進めてったということに
なり、彼が劉生と同じ問題意識を共有していたことがわかるのである。
しかしこのような個々の描写のあからさまな対比にもかかわらず、この絵は写実的風景画とい
う枠組みのもとに回収されることが多く、また劉生の写実時代を代表する傑作として、古典的な
“写実性”が昇華された事例として解釈されてきた。けれども、そこを一歩踏み止まり、詳細に
眺めれば、この絵の特質は、写実性だけによるのではなく、実はきわめて緻密に、かつシステマ
ティックに織りなされた多義的な要素間のせめぎ合いによるダイナミズムであり、そのすべてを
徹底させることでの構造的な力である。
このような事情に関しては、のちに述べてゆくように劉生にとって「写実」と「装飾」という
二つの領域がそれぞれ固有の状態を占めていたことを、押さえておく必要があるだろう。
「写実」
と「装飾」はそれぞれを補完するためのエッセンスとして取り入れられたものでもなければ、な
んらかのアクセントとして働く程の微妙な差異に奉仕させられるためのものでもなく、独立した
領域持つものである。ゆえにそれらはせめぎ合い拮抗しあっている。そもそも同じ平面上にそれ
らが並列させられるという事態こそ奇妙なことではないか。そうした「写実」や「装飾」が自明の
ものであるはずがない。劉生自身が語り、また多くの研究者たちが前提としてきた「写実」や「装
飾」とはそもそもいかなるものであるのか。これから問われなければならないのはそうした問い
であるはずである。それが彼の絵画にダイナミズムを与えている当の条件であるとしたら、目前
に常にあったその問いを不問に付すことは、その絵画の質そのものから目を背けることになるだ
ろう。
Ⅱ.美術史
ハインリヒ・ヴェルフリンの言説
ハインリヒ・ヴェルフリンの言説
3
劉生は、自身の古典絵画の影響として、デューラーをはじめ、マンテーニャ、ファン・アイク、
クラーナハなどの名を挙げている。そのような古典絵画の影響は、とくに、
《道路と土手と塀(切
通之写生)》
(1915 年)に代表されるような草土社時代の風景画において顕著に見て取ることが
できる。それは、景観のすべての部分に透明な照明効果が均等に振り当てられ、明晰にすべての
部分が見渡せる色彩明度と質感の明瞭な描写の備わっている描写に端的に表わされている。さら
にそのような描写はドイツの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』の記述
を思わせる。
クラシックの描写はいたるところで、形の完璧な説明と見なすことができた表現へ突進し
ていた。すべての形はその典型的なものを開示することを強いられる。一つ一つのモティ
ーフがはっきりしたコントラストをなして展開する。事物の寸法をすべて正確に測定する
ことができる3。
つまり、堅牢に構築された画面のすべての部分に均等に透明な照明と明瞭な描写がいき渡るこ
とで、物体が物体としての強度を持ち、あらゆる部分が質的に同じ強度と明晰さをもって観者の
側にせまってくる。劉生にとって、このようなルネサンス絵画の条件こそが、その時代の絵画に
描かれた物の物質感の明瞭かつ写実的な表現を用いて、近代的な感覚に即した「物質」の実在表
現を、絵画において転用させてゆくというアクロバティックな方法の転換をもたらすことを意味
していた。劉生は「近代はリアリズムの美、物質それ自力の美を昔よりもつとはつきり知つた。
しかしこの事は物をありのままに描かなければならなくなったといふ事ではない。美とは、現実
に表れた現実以上の感じである。物に即した美とは、物と、内なる美との一致のことである。そ
れは物質の美化である。近代は近代のままで深いクラシツクに到達しなくてはならないと、自分
は思ふ4」と言う。このことからもこのクラシックの形式性と物の実在性はたがいに補完しあっ
ていたことがわかるだろう。
さらにヴェルフリンは先に引用した箇所に続けてこう言っている。
バロックはこの明瞭性の極限を避けている。バロックは一つ一つのものが察知され得ると
ころでも、すべてのことを言うのを憚る。むしろ、美は一般にもはや完全に捕らえ得る明
瞭性に付随することをやめて、それ自体が捉えがたいものをもち、見る者からいつでも逃
げ出すかのように見える形の方へ移る。克明に描いた形に対する興味が薄れ、限界づけの
ない動的な現象に対する興味が増している。それゆえ、純粋な正面観と純粋な側面観とい
った基本的な観点も消え失せ、偶然的な現象の中に表現力に富むものを求める5。
この記述は、ちょうど岸田劉生の以下の言葉に対応する。
これはつまり、自分の性質によるが、又一面、自分の創見した「リアリズム」が、それ等
4
のフランドル風景画と共通する、いろいろの画図を持つからであつた。
かげ
つまり、蔭を少なくすることは、物の質の美を描くのに甚だ必要である。何となれば、
一抹の蔭のために物の質の美を暗くさせ、見えなくされる事は、レアルの美を追ふ僕にと
つて甚だ惜しいことだつた。
、 、
かくて僕は出来る丈かげをさけて、物をかいた。かくて僕の画面にはレムブラント風な
明暗はなくなつて、画面の形成は稍装飾的平面的な美を持つた。其処に余は、物質の美を
出来る限りの力で生かし、それを画面の装飾的又は非自然主義的美感の下に統一した6。
(傍
点原文)
これは、ルネサンスとバロックの様式の違いの一つの側面を、「明瞭性」と「非明瞭性」とし
て明解にとり上げてみせたヴェルフリンの説明にきわめて近いのではないだろうか。そしてバロ
ックの画家としてレンブラントを取り上げているところもなぜか一致する(ヴェルフリンにとっ
ては、おそらく当時のドイツで、レンブラントが真にゲルマン的な英雄として崇拝されていたと
いう事情が起因しているのかもしれない)
。
そもそも劉生にとって「写実」と「装飾」は欠かすことのできない二大要素だった。上記した
一文では、「画面の装飾的又は非自然主義的美感の元に統一した」とあるが、この「装飾」感や
「非自然主義的美感」は、おそらく、
《道路と土手と塀(切通之写生)》や《冬枯れの道路(原宿
附近写生・日の当った赤土と草)》
(大正 5、1916 年)[図 4]でも見られる、道路や土手や塀など
の堅牢な物質観の写実性とは対照的に描かれた、うねるように曲がりくねり、デフォルメされた
同じ定形パターンの繰り返しが確認される草木の描写のことを指していると思われる。劉生の言
葉で言えば「写実」と「装飾」の混合がここで果たされているということになるが、草木を「装
飾的又は非自然主義的美感」として捉える考え方は、ヴェルフリンの以下のような記述と対応す
るだろう。
他方、自明のことであるが、クラシック美術でさえ、現象を形の隅々まで明瞭にする可能
性に常に依存するのではない。樹木をある程度離れて眺めれば、その葉の群れは常に単な
る塊の印象になるまで、一つに混じりあうであろう。しかし、これは決して矛盾ではない。
ここで明らかになるのは、明瞭性という原理を生の素材的な意味で理解してはならず、ま
ず第一に装飾的原理として捉えなければならない、ということだけである。決定的なこと
は、樹木についた一枚一枚の葉が可視的になるか否かではなく、葉の群れを特徴づける小
片が、明瞭で均質的に把握できる小片になっているか否かである。アルブレヒト・アルト
ドルファーの樹木の塊は、16 世紀美術の中では進歩的な絵画的様式を意味するけれども、
それとてもまだ実際に絵画的な性格をもつのではない。なぜなら、一つ一つの曲線模様は
相変わらず明確に把握できる装飾的図形を示すからである。それに対して、たとえばロイ
スダールのような人の樹木表現ではもはやそのようにならないのである7。
5
たしかに、劉生の風景画に見られる草木の誇張された曲線模様の連続パターンは、ヴェルフリ
ンが形容するところの「明確に把握できる装飾的図形」の質を明らかにそなえているし、道路な
どの現実的な写実性との対比を見せている。
ヴェルフリンがクラシック美術に見る「明瞭な」描写、すなわち「明瞭性は、まず第一に装飾
的原理である」と強調する言いかたにおいて表れる「装飾的原理」は、劉生においても写実に則
して描かれた物質(道路・土手・塀)を「装飾的平面的な美」とする議論に示される。つまりは
明瞭であるか否かにかかわらず、装飾なるものが二重の意味——―ある領域の細部の連続が装飾で
あるということと同時に、画面全体が装飾であるということ―——を引き受けているという点で、
劉生の「装飾」感に酷似している。
劉生がこのような画面把握のもとに一連の風景画を描き上げていったのは、《道路と土手と塀
(切通之写生)
》をはじめ 1915 年からのことである。一方で、コンラート・フィードラーの純
粋可視性の理論を敷衍して、ヴェルフリンがルネサンスとバロックを主題として、有名な、
「線
的」
「絵画的」区分を始め、美術作品に、その歴史的に付随する内容や、図像学的意味を考察の
対象から除外して、作品を構成する視覚的造形面での基本的要素への還元をおこなう形式分析の
方法で、美術史の明解な大系的方法論の基礎づけを成し、
〈様式〉のたえざる形式的発展として
近世美術を〈様式史〉としてとらえる記念碑的著作となった、
『美術史の基礎概念』がドイツで
刊行されたのは、同じく 1915 年のことだった。
デューラーの発見
デューラーの発見
そもそも線を「装飾」的要素として捉えていた劉生は、デューラーの素描やエッチングに描か
れた物質の輪郭線に、線=装飾的要素を捉えていた。それはデューラーの版画に的確に表されて
いるような物体の明瞭性を「装飾」的に表出することでもあり、劉生のデューラー観は、ヴェル
フリンの「デューラーでは強調された縁線をもつ塊が現われ、レンブラントでは強調されない縁
線をもつ塊が現われる、ということなのである8」という分析とも一致するだろう。さらに劉生
は、1914 年頃、ほとんどデューラーのコピーとなってしまうかと思う程のきわめて強い傾倒を
みせている。また実際にバーナード・リーチからエッチングの手ほどきを受け、その技法を学ん
だ。
デューラーの画面に劉生が見たものの一つは、おそらくそれが、構築的で堅牢な画面を造り上
げているにもかかわらず、同時にその物体性を構築する当の要素、すなわち輪郭が線=装飾とし
て解析/抽出できるという「写実」と「装飾」のないまぜになった二重構造にあったはずである。
それは劉生の目指していた、物体の「写実」性と線による「装飾」性との矛盾しない和合にぴっ
たりと一致したはずだった。そしてヴェルフリンがデューラーに託していたものも、おそらくそ
れと同じヴィジョンだった。
それは、そもそも美術史の言説が記述対象としたものが、古典芸術の写実性=模倣性とともに、
「装飾」
(あるいは抽象)なるものを近代的な位置づけのなかで自律した形式として定位したこ
とと無縁ではなかったのかもしれない。
6
たとえば、『美術様式論』
(1893 年)を著わしたウィーン学派の泰徒アロイス・リーグルは、
その著作での研究対象を〈装飾〉に限定した。そこで彼は、古代オリエントからギリシャ、アラ
ビアへと至る工芸品をはじめとする装飾物が、従来の学問領域で、地域によって個々に分断され
た閉塞的な状態での研究対象として個別に論じられるべきものではなく、それらを唯物的な生産
物として、視覚的な構成原理にまで還元し、その方法で抽出された形式的な共通項を〈様式〉と
して組織し、確定することで、そこに歴史的な発展形式があることを主張した。
〈装飾〉は、こ
の世界史的なパースペクティヴを確立することで内的な因果関係があることを証明したのであ
る。たとえば近東地方の文化とギリシャ文化との間には発展的な繋がりが存在する。したがって
ギリシャ文化は独立したものではなく、他の文化との相関関係において考えられなければならな
い。そしてそれは視覚に則した分析に史的契機を導入した〈様式〉論的方法によってしか確証で
きないのである。したがって、このパースペクティヴの拡がりにおいて古典様式も、周縁の地域
の様式も、等しく眺められることになったと言えるだろう。
リーグルの意図は、古典古代を芸術史の頂点に位置づける認識論的な布置を解体することに向
けられていた。彼が『美術様式論』を書き上げたとき、直接の攻撃の矛先を向けていたのは、当
時通説であったゴットフリート・ゼンパーの主張である。ゼンパーの学説は、装飾はおしなべて
原始的な土器などが造られる際の網目模様などの技術的な制約やその生産過程から発展し、文様
に至り装飾として発展したのだというものだった。
しかし、リーグルは、ゼンパーの言うように、もし技術から模様が発達し、装飾につながった
という理論を事実とするなら、世界中に溢れた多種多様な文様や装飾があるという事実を受け止
めることができない、ごく単純な技術から発展したとするにはあまりにも多くの模様や装飾のバ
リエーションが存在することの説明がつかない、と説明する。リーグルの課題はやがて、この膨
大な量の美術形式の起源に当たるものを探らなければならないという点に収斂するだろう。
彼が攻撃したのは、従来の西欧美学の世界で考えられていたようなギリシャ・ローマ美術を最
上位にみなすような従来の西欧美学の価値観である。彼はそれを転覆させようとした。であれば、
彼がなぜ〈装飾〉というマイナーな分野を開拓していったのかも理解できるだろう。つまりそこ
で投げかけられた問いは、芸術諸ジャンルのヒエラルキーを解体した結果、芸術全般をとりまい
ているジャンルを超越した(ゼンパーが言うような技術的な制約に確約されない)何らかの不可
抗力が、そこに存在しているとしか考えられないということだった。そこで彼は「芸術意欲
(Kunstwollen)」なる概念を導入したのである。それは人類に共通していかなる時代にも地域
にも存在する根源的欲求であり、美的形式はどのようなものであれ時代や地域に関わりない連続
体を成したものとして考えられる。この「芸術意欲」という精神的態度が存在する以上、どんな
美術様式も等しい価値を持つものとして検討されなければならない。それゆえこの「芸術意欲」
においてすべての形式が等価に眺められるようになるような視野が確立される。つまりここでは
じめて〈装飾〉も他の芸術形式と同じように自律した形式として定位されることになり、フラッ
トな平面の上に複数の形式が林立する状態が創出されたのである。
つまりここで〈装飾〉が自律した様式として逆行的に溯行して眺められるとき、そのまま絵画
7
平面にさえも、装飾性を概念的に投影することができるような視覚の様式が確立されるだろう。
衣服の線模様が髪の毛の線に連続して流れ込んでいるような描写や、非古典的プロポーションの
身体の輪郭線が、独特の神秘的な曲線を描くとき、盛期ルネサンスの絵とは異なった線的描写が、
装飾的次元にあるものとして透視される。デューラーやクラーナハなどの初期北方ルネサンスが
“発見”されるのはそのときである。
ウィルヘルム・ヴォリンガーの言説
ウィルヘルム・ヴォリンガーの言説
ヴェルフリンは当時の時代的必然として、ルネサンスとバロックのあいだに横たわるマニエリ
スムの様式を斥け(当時はまだマニエリスムに関する研究は進行していなかったと言われる)ル
ネサンスとバロックの二項対立の図式として近世美術を記述したが、たとえばデューラーとレン
ブラントの二項対立において美術史を捉えるような思考は、劉生のいうところの「写実」と「装
飾」との関係にもスライドすることができそうである。それはそもそも近代以降に成立した美術
史の記述が、対象とした芸術作品を、写実的なもの、つまり模倣の原理に則したものと、非写実
的なもの、つまり装飾的/抽象的なものの二元論的図式をその主だったモデルとして考えたこと
から導き出されてきたものであるだろう。とくにウィルヘルム・ヴォリンガーやフィードラーな
ど抽象美術を擁護する者の学説はまさにこの二つの対立的なモデルに基づいていた。
たとえば岡崎乾二郎は「装飾と写実を造形の欠かすことのできない二要素とする、こんな劉生
の考えは、ドイツ表現主義の後盾であるヴォリンガーの所説を思いおこさせる。とくにヴォリン
ガーなら「模倣」と「抽象」というだろうところの、写実と想像の両立を、装飾において果たそ
うとするところは、ヴォリンガーが北方ゴシック彫刻などの中世北方芸術の驚くべき特質を語っ
た記述に酷似している[……]ゴシック彫刻に対するヴォリンガーの次のような記述は、劉生の
《麗子像》以下の人物画へも、そのまま的確に適用できそうにも思える9」と言い、
『抽象と感情
移入』から、ヴォリンガーの次の一文を引用している。
このような写実主義はロマネスク芸術やゴシック芸術において、純粋に形式的な芸術意欲
と妥協した。そしてそれによって独特の両性的形成が生れたのである。特徴的な模倣運動
は精神的表現の座としての像の頭部に集中された。しかしあらゆる身体性を抑圧する衣文
は依然として抽象的な芸術衝動の占有地であったのである10。
前述のリーグルから大きな教示を受けていたヴォリンガーは、様式の並列的な状態を、あらか
じめリーグルに従って前提としているように思われる。ヴォリンガーは抽象美術の擁護者であり、
抽象美術を歴史的に位置づける役目も果たした。それはギリシャやルネサンスを頂点とする古典
上位の美学的大系にたいして、世界史的なアプローチの射程の広範さで、原始美術などに見られ
る幾何学的抽象性を美術史的な価値体系に組み込むものであり、抽象美術を、現実を喪失した時
代の史的必然として擁護した。ここで攻撃されることになるのは模倣=「感情移入」の形式を規
範とする芸術観である。
「人間の感情移入衝動から出発する代りに、人間の抽象衝動から出発す
8
るところの一つの美学を我々はかかる対極と見做すのである。美的経験の前提としての感情移入
衝動が、有機的なものの美のうちに自己の満足を見出すのと同様に、抽象衝動は自己の美を、生
命を否定する無機的なもののうちに、結晶的なもののうちに、一般的にいえば、あらゆる抽象的
な合法則性と必然性のうちに見出すのである11」つまり、ヴォリンガーは美術史を、ギリシャ美
術をはじめとする模倣の原理が支配的だった西洋美学のドグマを解体し、抽象は模倣芸術の下位
に属するものではなく、むしろそれらはまったく異なった形式であるとして、対立させたのであ
る。これらはそれぞれ、
「抽象衝動」と「感情移入衝動」の二つの「芸術意欲」によって規定さ
れた12。
岡崎乾二郎が示唆するように、劉生とヴォリンガーの相似はつまり、劉生が、まったく異なっ
た形式として「写実」と「装飾」の双方を考えていたことを意味している。ヴォリンガーが模倣
と抽象の対立を前提とした歴史的パースペクティヴを確保したうえで、北方中世美術に見られる
両義的な要素として取り出し、語ってみせることが可能なように、相容れない形式が同時に成立
し、歴史的前提として眺められる位置は劉生にとっても事前に確保されていたのである。
ヴェルフリンやヴォリンガー、そして劉生は不思議なことに、ほぼ同時期にアルブレヒト・デ
ューラーという初期北方ルネサンスの画家に注目し始めている。それは、ヴォリンガーが強調す
るこの中世北方美術の特殊な精神が、そのままヴェルフリンによってデューラーそのひとに託さ
れることになったからであるかもしれない。というのは、ヴォリンガーの『ゴシック芸術形式論』
によれば北方芸術は、「抽象的な線表現を現実性の再現と結合しようとするところから発生する
13」からであり、その意味でデューラーは、ゴシックの最終段階で、古典主義とのボーダーに位
置するからだ。ヴェルフリンも、ヴォリンガーもともに、デューラーの特質とは端的にその“線”
にあると考えていたと言っていい。それは前述したように、様式史自体がそのような形式のさま
ざまな項の解析によって進行したからである。
その意味でデューラーの版画は決定的な意味を持っていた。「いかなる対象にも服従せずに、
ただ自分自身の固有の表現だけで活動している超現実的な、空想的な線の遊動14」への強い衝動
こそが、ゴシックの領域だったのだから。そして同時にここで古典的ルネサンスに連なる「模倣
衝動」が開始されたために、「古代的影響やイタリア的影響の時代に、有機的なものの美的=形
式的価値感情を生むことができた15」。デューラーを含む初期北方ルネサンスは、ゴシックの記
憶を濃厚に留めたまま、古典的整合性へと架橋する。つまり、この二つの段階の過渡的状況によ
って初期北方ルネサンスは形成されたのである。「現実性の契機は、そのすべてが完全に超現実
的な線の遊動のうちに引き入れられている16」。その特殊な状況を、――『抽象と感情移入』の
脚注でヴォリンガーが述べる言葉を借りるなら―——「
《北方人の夢見つつある生命感が、イタリ
アの諸々の模範的作品において、いかにして判然とした意識として作り上げられたか》という過
程を、デュラアの特殊な事例において実証している17」のが、『アルブレヒト・デューラーの芸
術』
(1905 年)のヴェルフリンだった。デューラーの線描では模倣と装飾は融和し、
「内的な結
合」
(ヴォリンガー)が与えられている。二元論は解消される。すなわちこのとき、デューラー
は「写実」と「装飾」を調停する。
9
「デューラーの線は全く内から生きて居ます。寂しいしかしどこ迄も強い線です。髪の毛なぞ
の線は時として、寒い空間を、孤独な力で突いて、しかも戦いて居る感じがします18」と、劉生
が語ってみせるとき、それはヴェルフリンらとほとんど同じ文脈を、彼が直視し、把握してしま
っていたことを示しているのではないだろうか。
自分は七八年前[1914、15 年]から漸時、デウエルから入つてだんだん古ドイツ、フランド
ル等の稍平面的な陰の少ない輪郭のはつきりした稍固い画面を好んだ。つまり、初期ルネ
サンスの形である。これがフアン・エツクに至つて頂点に達し、それを学んで去年の秋位
迄来た19。(括弧内は引用者による)
上記した劉生の一文での、デューラーやクラーナハなどの初期北方ルネサンスの強調も、彼が
「写実」と「装飾」との二重体をそこに認めることができたということの証左となる。このとき
劉生が同年代の美術史理論と同じパラダイムを共有していたことは間違いないと、断言できるの
ではないだろうか。
これまで多くの評者が語ってきたところによると、デューラー受容の契機として語られるのは、
劉生自身のピューリタン的な精神が、北方芸術の崇高な精神性や、高い宗教性への傾斜に同一化
されたというものであり、つぎに写実の傾斜への動機として説明されてきた。しかし、それらは
重要な二つの局面ではあるけれども、その核心に抵触するものではないはずだ20。
絵画の
絵画の編成
劉生は 1913 年頃から古典的な西欧絵画に傾倒し、自画像をはじめとする、写実性の高い作品
を描き上げていく。それらは大きく風景画と肖像画という二つの傾向に分類することができる。
人物画における写実の時代の初期作品には、人物の背景にも均等に照明が配されていたが、劉生
自身の実在への傾斜が強まってくるとともに、次第に背後の照明は明度を低下させてゆき、暗闇
のなかで人物がくっきりと浮かび上がってくるような効果を上げている。そしてこれは物体その
ものの実在の表出を目的とし、それを写実において実現しようとしていた劉生にとっては必然的
な帰結だったと思われる。
しかしそこで一つの問題が浮上する。彼を悩ませたのは、風景画においては画面のすべての部
分が均等な質感を保持するとともに、物質が観者の側に突出してくる効果を上げるのに成功して
いたのにたいし、肖像画において実在を求めようとすると、必然的に背後を暗くさせる必要に迫
られ、そこで不可避的に現れてしまう平坦な部分が、いかにも空疎な印象を与えてしまうという
ことだった。これは画面の全面に明瞭さがいき渡った古典絵画の原理にも反することだったので
ある。
又かくて内からのリズムが必然に画面に一つの装飾的リズムを生み出しては呉れますが、そ
して又、自分は自分の写実的欲求と倶に装飾的欲求の不満足を感じる材料は初めから選びま
10
せんけれど、何と云つても写実を主としたものには、一方の装飾的欲求は少しく休ませねば
なりません。これが風景画の様などこにでも自然の生々した感じに輝いた感じを与へる画面
であれば反つて効果をいためるからそのままにしておけますが肖像画等の或る物のバツクの
空地等は、如何に忠実に描写してもその顔面、手、等に比して一種の空地の感じを与へます。
かくて自分は其処に一方生かさずに置いた装飾的欲求を生かしたくなるのであります21。
このため、一時の静物画や肖像画においては、背景の布地がおそろしく肉感的な襞の集合とし
て描かれもした(たとえば《壺の上に林檎が載って在る》
(大正 5、1916 年)を参照)[図 5]。
けれども背景の布地の強調は、画面全体に拡がる均一な写実性によって窮屈な緊張感を強いてし
まう。むしろ彼はこのような写実の欠如された空間的な残余こそを積極的に拡張させ、画面の空
虚な〈地〉となる場所に多種多様な要素を投入し、多義的な生成を感受する次元の獲得に向かう
ことになる。写実と装飾の二元的段階による混合とその融和から、しだいに劉生の「装飾」概念
は拡大されていき、結果として「装飾」はそれらすべてを統合するもの、画面全体に拡散すべき
ものとして説明されることになる。
その「装飾」概念のほかにも、絵画はさまざまな要素の並列した多元的な構造を有することに
なると、そのためそれらを融和―解消するための統合的理念がいくつも劉生によって唱えられて
いた。「無形の美」もその一つである。
自分の行き方はやはり混合の方だ。主に写実を主としてゐるが、装飾を忘れた事はない。一
つの画面に装飾と写実と想像が混然としてゐる様なものが描き度い。自分の経験から云ふと、
写実の中に実に立派な装飾がある。深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する。それ
は「神秘」である。実在の感じの奥は神秘である。それは無形の美である22。
「無形の美」
「超現実感」「内なる美」「神秘なる感じ」
。これらはすべてそのような〈統合的理
念〉として表明されている。ゆえに劉生が、絵画の異種混合的段階から飛躍し、すべてを止揚し
てしまえる形而上的段階に到達することに、ほとんどオブセッショナルなまでの情熱を傾けてい
たことがわかるのである。
内なる美
なる美
この劉生の「内なる美」という有名な言辞は、ともすれば作家の自然発生的な内的欲求として
理解されてしまいかねない。一面にはたしかにそうであるし、実際にそうしたものとして論じら
れてきた。しかしそれは画家自身によって詳細に分析されている。
内なる美が、外なる美、即ち美術に表はれるのに大別して三つの道がある。自然物の形をま
るでかりずに直接に内から美が形づくられて生まれ出て来るもの、即ち只の線、形、色の美、
即ち装飾の美、次は自然の形の中に自己のすがたを見出し、それによつて生まれ出て来るも
11
の、即ち写実の美、第三は自然の形を記憶し想像し又は観念、心理等無形のものを形に想像
して、それを意のままに案配し、使駆して内なる美を生かす、即ち「想像の美」である。こ
の第三の場合は第一の場合にも第二の場合にも甚だ近い。それは自然を装飾的に見る、そこ
には装飾の美が或る程度までの写実によつて現はされる23。
と言い、次のように整理している。
|――全然直接に生れる場合―装飾美術、器具、建築
内なる美(装飾)|――自然の形を想像する道―想像の道
|――自然の形の美の記憶を対照(ママ)とする道―写実的装飾24
つまり、劉生の絵画とは美術史を参照しつつ、このように多彩に分析され、分割された個々の
要素を、きわめてシステマティックに構築したものだった。彼が「しかし絵画でも写実に於ける
クルベー、セザンヌの或る絵、想像に於けるブレーク、等は可なり代表的に純粋に生き方の上の
独立を保ってゐると思ふ25」と言うように、それはセザンヌやクールベから、「物―写実」を析
出し、装飾的要素を、「線―想像」としてウィリアム・ブレイクやピエール・ピュヴィス・ド・
シャヴァンヌから取り出してみせるというような、圧倒的な抽出—解析能力によって裏打ちされ
たものだった。そしてそれらの西欧絵画から還元的に摘出した要素間の、いわば建築化を遂行し
ていったのである。
その方法論は近代において生じた〈歴史学〉つまり、〈美術史〉と視座を共有するものだった
はずである。特権的かつ超越的な位置の確保によって、劉生がおこなっていたのは、ルネサンス
を基準においた美術史的パースペクティヴから解析した要素を雑駁にとりこみ、多種多様な要素
が混在する絵画の組織化を遂行し、またその統合を行うことであり、
『美術史の基礎概念』を著
わしたヴェルフリンは、視覚的原理に則して一つの時代を、特有の、あるいは共通する基本要素
に還元することで〈様式〉と、その交換の体系としての〈様式史〉を組織化したのだった。その
発展の可能性は「だれしもその時代特有の視覚的可能性に拘束されている」
(ヴェルフリン)と
いう規定によって推進されたと言えるが、当のヴェルフリン自身はそのような拘束の可能性を排
除し、そこから離脱する超越的な視座を確保することではじめて、
〈様式〉が〈様式〉たりえる
ように、劉生にとっても西欧絵画の位置づけとはどこまでも外的な指標でしかなかったのではな
いだろうか。
そのような精神と態度は、結局のところ、生涯西欧に行くことなくして生涯を終え、近代的な
美術館がまだ日本で組織される以前の時代に、本物の西欧絵画に接することなく、ほとんどがモ
ノクロに仕上げられた印刷物から享受する視覚しか得られなかったという事実に端的に示され
ているのかもしれない。
しかし、劉生とヴェルフリンやヴォリンガーなどの美術史形成期の言説に強い近接性がみられ、
時代的にも、いわば対位法的な関係を演じているとして、はたしてそれはたんなる偶然の一致な
12
のだろうか。
もちろん、劉生がこのような時代的潮流のなかで、ヴェルフリンやヴォリンガーの学説にふれ
ていた可能性や、劉生の画業が彼らの言説をパラフレーズするようにして発展していった可能性
も考えられるが、この場合、劉生が依拠していたかもしれないドイツの美術史家の言説が、いわ
ゆるフォーマリズムの理論だったということに注目すべきである。
複製図版による
複製図版による絵画受容
による絵画受容
劉生は 1911 年、20 歳のときに初めて雑誌『白樺』を手に取り、そこで目撃した多くの西洋
絵画のモノクロ図版に絶大な感化を受けている。富山秀男によれば、
『白樺』による美術作品の
紹介には以下のような特徴が備わっていた。
「白樺」が行ったヨーロッパ美術紹介の主対象は、大きく言って第一がゴッホやセザンヌ
らの後期印象派の芸術、第二がルネッサンスおよび近世の絵画、そして第三が中世やギリ
シャ、エジプトの彫刻といった、三つのポイントに絞られていた。しかもそれらは同時並
行的に紹介されたのではなく、最初の四年間にはロダンを含む後期印象派の作品が専らと
り上げられ、その後ルネッサンス絵画を中心とする巨匠連の仕事に主点が移り、最後にな
ってギリシャやエジプトの彫刻が脚光を浴びるという風に、順次時代を遡ったところに特
色があった。要は彼ら文学者たちが感激した折々の作品を、手当り次第自由にとり上げた
のであって、異質文化の所産であるヨーロッパ美術を理解するには、例えば時代順に沿っ
て系統的に紹介した方がいい、などという配慮は殆どなかったのである26。
劉生にとって西欧美術とは、すべてのヒエラルキーを排斥したところで等価に並べられ、伝統
的文脈や社会史的背景、それに付随する内容や意味性を排除し、ひたすら形式的に、まったき平
面の上に脈絡なく散在するものだったと言えるのかもしれない。ゆえにそれらは徹底的に形式と
して解析されるしかない。
『白樺』の同人とも目されることのある劉生の絵画観は、このような
『白樺』的環境独自のメディア的属性に付随する絵画受容に孕まれていたとみることも可能であ
る。
では、そこで参照された絵画が、その原作ではなく、複製に依るものであった事実にいっそう
の検討を加えるべきだろう。おそらく、個々の作品のスケールはもちろん、色彩がそこから排除
されたモノクロ写真であることがその等価性を強化する。この複製技術によって、絵画はその固
有の特権的領域を離脱し、併置され、それぞれ比較検討されることが可能になる。さらに写真装
置が本来的に孕むその客観性によって、細部や表面性は明晰に浮き彫りになり、知覚的判断は多
様な裁断を受ける。そこでさまざまな形式的な解析がなされ、あらたに分類されなおすことにも
なるだろう。ヴォリンガーやヴェルフリンらフォーマリズムの理論家の行っていた方法論もそれ
と同様のところがあったし、劉生がモノクロ図版によって西欧古典絵画に傾斜していったことは、
たとえば「クラシックの絵画を白黒写真にした場合、たしかにオリジナルには匹敵しないであろ
13
うが、それと矛盾することはないであろう。それに反して、バロックの絵画の場合には白黒写真
は、ほとんど常に、事実の歪曲を意味するのである27」と潔く言ってのけるヴェルフリンの古典
絵画にたいする白黒写真の関係と立場を共にするものだっただろう。この発言の裏には、他でも
ないヴェルフリン自身の研究が、白黒写真であっても構わず、支障を受けないような方法論によ
って遂行されていたことが裏打ちされている。それにはしばしば本格的な美術館制度の整備とし
て遂行されたカタログ・レゾネの作成が、美術史の〈様式史〉を準備したとして語られることを
思い返してみてもいい28。するとそこで一つの事実に行き当たることができる。すなわち、画像
を記憶する際の認識論的な構造がそこで形成されるとき、ともに印刷メディアが関与していたと
いう事実である。
サンプリング/
サンプリング/コラージュ
劉生は、その独自の美術史的解釈を絵画的方法論に畳み込んでいった。その方法とは端的に言
って、現代に比べれば決して網羅的とは言えない大正期の西洋美術の情報から取り込み形成され
た、いわば図像的アトラスから、形式的な解析―分類をおこない、平面的に解体された西洋絵画
から析出した諸要素を、いくつもの手持ちのカードとして使用するように、現代的に言えば、サ
ンプルとして取り出したものをコラージュしていくという方法である。
劉生は、上記の図式中「直接に生れる場合」と分類したところに関して、
「かくてこの意志の
一番直接に表はれた、第一の道は、どうしても純粋に装飾するための美術になる。建築、器具、
衣装、図案、にそれは表現されてゐる29」と言う。これは、「もし描写芸術のうえに建築や装飾
が加えられないとすれば、叙述は常に一面的で、バランスを欠くことになるであろう30」とルネ
サンス絵画に関して述べるヴェルフリンの記述と対応することになるが、劉生の絵ではこの、建
築におけるヴォールト(アーチ)がたびたび見いだされる。ヴォールトもそのような一つの美術
史的引用であると指摘できるだろう。この建築的な描写は、ルネサンスに特有の、たとえばピエ
ロ・デラ・フランチェスカなどを思わせもするが、東京国立近代美術館所蔵の《麗子肖像(麗子
五歳之像)》
(大正 7、1918 年)[図 6]にもそんなヴォールトが確認できる。これは直接的な装飾
として、想像的装飾とは区別され使用される。
この絵を例に、美術史的引用から集められた諸要素を平面内に引き入れ、コラージュする方法
を分析してみよう。まず絵の最上部には赤く彩色されたアーチが嵌め込まれてあり、その硬質な
素材性を分かりやすく主張するために、亀裂が数本描き込まれる。またモデルとなっている五歳
の麗子の顔面と首筋は、幼児特有の肉の丸みを持った物体的な盛り上がりとして描かれ、それは
キャンバス下のラインに並行する幼い指の、節々に沿った肉の盛り上がった描写に対応している。
またそれと対照的に、纏っている濃紺の着物に表された布地の装飾感はそのまま麗子の、跳ね上
がり、クセだった髪の毛の線的な強調に対応して描かれることになる(髪の毛はちょうど、風景
画の草木の描写部分に呼応するだろう)。
つまり、人物像では、顔面と手の指が写実的領域の占有する場となり、布地や髪の毛は装飾的
領域の占める場となる。ここでそれぞれ固有の場所である写実と装飾の領域が、
「人物像」とい
14
う単体フレームのもとに接合されるのだ。人物とヴォールトの間に現れた空間的な残余はゴシッ
ク風の「文字」
、つまり装飾的な線によって埋められる。この部分には、
「千九百十八年八月擱筆」
「画家之娘麗子・五歳・娘の父寫す」と書かれてあり、それ自体にはたいした意味のあるもので
はないと言えるだろう。つまり、純粋に文字は「装飾」として書かれ、それ以外の意味は期待さ
れていなかった。そしてその下の中央部分には「劉」の一文字が、刻印される。
Ⅲ.絵画
デューラーと表現主義
デューラーと表現主義
くりかえせば、デューラーの線描にあると思われたものは、模倣の原理と装飾の原理の二元論
的段階からの飛躍と融合であり、またその内的な結合だった。ここでいま一度ヴォリンガーの所
説を援用し、岸田劉生の画論に重ねあわせてみることが可能かもしれない。
「しかし形式的価値
が内的価値の的確な表現として理解されるようになり、形式と内容についてのあらゆる二元論が
解消することになってこそ初めて、本来の意味での様式心理学は興るのである31」
。内的欲求と、
それが表出されるところの形式との一致。形式と内容の融合を説くこうした態度はいかにも表現
主義のそれを思わせるものである。それはおそらく、表現主義美術の前段階であるポスト印象主
義の勃興を通過しなければ成立しないものだったのかもしれない。ここから逆行的に歴史的遡行
がおこなわれたとき、その歴史的前例としてデューラーのいる地層が復活する。
ドイツ表現主義の雑誌だった『デア・シュトゥルム(嵐)
』誌上に、1911 年 8 月、ヴォリンガ
ーは「現代絵画の発展について」というエッセイを掲載している。彼はそこで、マティスの用い
た「表現」(expression)という語を使用し、新しい動向にたいして「表現派のひとたち」と命
名した。ここでヴォリンガーのいう「表現派」とはセザンヌやゴッホ、マティスなどの、いわゆ
る後期印象主義やフォーヴの画家たちを指している。それを彼らに先行していたマネやルノワー
ル、モネらに区別して使用したのである。ここでヴォリンガーはウィーン分離派からブリュッケ
の画家たちまでを念頭に置きながら、彼らが従来の伝統から逸脱した、まったく新しい芸術を創
造していることを指摘した32。
ヴォリンガーのなかで表現主義は、ちょうどゴシック芸術に対応させられるものとなった。現
世との調和的関係が有機的芸術、つまり模倣の芸術を産み落とすものだとすれば、この現実を喪
失し、
「形而上学的な不安」に直面しているために、
「抽象衝動」によってこの現実を克服しよう
としているのがゴシック芸術である。
劉生が画家として初期に経験した様式とは、ヴォリンガーの言うところの「表現派」——―つま
りマティスやゴッホなどの後期印象主義である。そこからデューラーへの移行には、ある一貫し
た内的な連続性が流れ込んでいたと言えるだろう。ヴォリンガーが現代の「表現派」とゴシック
およびデューラーなどに「抽象衝動」の成果として同等な評価を下すのに理論的な矛盾が生じな
いように。つまり、劉生の後期印象主義の様式からデューラーなどの北方ルネサンス様式への移
15
行は、ある種の切断の身振りとしての「回帰」でもなければ、石井柏亭の言うように「進歩と言
うより出戻り」と言うべき事態でもありえない。劉生が「内心の欲求」の必要を説くとき、デュ
ーラーに託していたのは、そのような主客の一致した精神的様式だったのである。デューラーの
線は「全く内から生きている」と感嘆し、
「内から生きる感じ」を彼が物や風景を捉えて言い、
実際にそのような表出をデフォルメして画面に定着させようと苦心するとき、それはすなわち北
方的な抽象的線芸術の成果が浮上する様態をも巻き込みつつあったことはもはや疑い得ない。つ
まり写実は、そこで一度「想像」の力による変形作用を受ける。物質性は内面性に裏打ちされる。
それを彼は「物質の美化」と呼んだのである。
すると、近代におけるデューラーの存在の可能性、あるいは価値は、ある意味で、古典的な表
現主義としての原理的存在として据えられることにこそあったのかもしれない。近代にとって、
デューラーこそは最初の表現主義者である。
そのため劉生は内在的にはつねに表現主義者であったと言っていいのではないか。なぜなら、
彼が想定し、期待されていた地平であるところのものも、
「実在」と「内なる美」との一致、つ
まり内容と形式との一致だったのだから。しかしあるときから外面的形式として選択されたもの
が、
「リアリズム」という形式であることは、つきつめるといったいどのような要請によるもの
なのか。
リアリズムの約束
リアリズムの約束
ヴォリンガーが『デア・シュトゥルム』に「表現派のひとたち」を掲載した同じ年の 1911 年
(明治 44 年)の 7 月に『白樺』の前身となった『麦』が創刊された。そこには、その後『白樺』
の中心的な同人として美術評論を始めとする執筆活動を展開し、作品図版の解説から翻訳までを
担当した美術史家の児島喜久雄(虎耳馬)が、
「ルードウィヒ・フオン・ホオフマン」と題され
た文章を寄せている。そこでは以下のようなことが記述されていた。劉生のリアリズムを考える
うえで、この児島の見解は示唆的である。
然しながらあらゆる点、殊に空間描写に於て絵画を無数の光の印象によつて描くことにな
、 、
、 、
、 、 、
つた為に特に印象主義を基礎とする理想派の芸術を解するに重大なる意味を有する疑問が
起りました。夫は広大な空間を写し出して其の前面に理想派の絵画に多く見るやうに実大
の人物禽獣若しくは神などを描かうとする場合にはどうしたらいいかと言ふ問題です。此
場合遠方の物体並に遠景其物は光に充ちた空気の種々の色調によつて比較的単純に写し出
す事が出来るのは明かです。然し光を含んだ空気の各色調のみによつて空間の深味、前面
の人物の厚味を十分に表すことが出来るかどうか。空気の性質は夫程迄精細に区別して感
じることは出来ないのです。夫ならばどうしてかう言ふ人物を描くか。前面の人物の厚み
を表す為にはやはり本来の補助手段則ち素描によるより外良い方法は見出せないのです。
そこで此種の芸術にはなほも昔の描写法を用ひることを免さなければなりません。言い
換へれば技巧上新芸術の光の印象の区別はまだ此問題を完全に解く丈の程度に達して居な
16
いと言ふことです。しかし茲で(たとへ軟らげて極自然な新芸術に近いものと化してにし
ろ)昔の芸術の要素が用いられると言ふのはまた新芸術の立場から言つて略々本来の要求
を充たす則ち之を類化し、理想化する一要素が興へられたと言ふことにもなります。茲に
注目す可き過渡期の理想派の芸術の可能性が含まれて居るのです。発展史上ミレーの藝術
もまたフォイヤーバツハ、ボエツクリン、トオマ、クリンガー等の芸術も茲に其の根源を
有つて居ります33。(傍点原文)
つまり、印象主義は、個人の視覚の網膜に写りこむ光の印象によって、視覚に写るすべての物
体を、色彩の粒子の集合体に解消してしまった。遠景であれば、印象派の描写方法である色調に
よってすべてを曖昧模糊とした形象に還元したとしても支障はない。しかしその前面に人物や神
を描く必要にせまられたとき、その方法であれば、人物や神さえも光/色調の粒子の渦に巻き込
まれて平坦な色面に解消されてしまうだろう。人間の形象を立体的に浮かび上がらせることは困
難になる。このため印象主義のプログラムは完全なものではないと、ここではされる。そのため
に「昔の芸術の要素」である「素描」が復権する。新しい理想派の芸術にはその素描的要素の復
権がある。児島はその新しい芸術の到来をクリンガーやホフマンに託していたのである。
ではいったいなぜ人物の形象に、素描的要素の必要が生じるのか。これはいわゆるモダニズム
のながれに離反するものである。けれども、これは児島の独断的な意見というよりは、そもそも
白樺派的な環境が素描の復権、つまり、リアリズムを要請するものだったことを意味しているの
ではないだろうか。
児島はほかの場で、おそらくはヴェルフリンによる、ルネサンス期に新しい感情が芽生えたた
めに新様式が発生したという所説を援用しながら、つぎのように述べている。
実在の生活感情を表現するために於いてすべての芸術は皆写実主義である。
(……)現実の相
に伴う生活感情に比すれば夫から遠いものは暗示的であつても結局単純である。夫自身とし
て元始的若しくは装飾的である。此までに写実主義の重大なる芸術的意義がある。芸術の
、 、 、
倫理的意味を宗とする物はどうしても写実主義に赴かざるを得ないのである34。(傍点引用
者)
ここで言われている「実在の生活感情」とは、すべての人間に共通して行き渡るべくしてある
ような感情のことであり、直裁に、それは宗教的な意義を持たされた感情であると言っていい。
写実主義とは、この宗教的な精神を民衆の下部構造の隅々にまで浸透させるための高度な技術で
あるとされるのである。逆に、個々の主観的な感情に終止する様式は、宗教的な心情を浸透させ
ることや伝播させる能力に劣っている。ルネサンスにおいて写実主義が発展していったのは、宗
教が伝達されるため、いかにこの〈感情〉が共有され得るか、に賭けられていたからであるとみ
なすこともできるかもしれない。つまり写実主義は、個々人の視覚的な教養や能力、主観によっ
て分裂をきたすことなく解消させてしまえるような地点を創出しなければならなかった。
17
たとえばファン・アイク兄弟によって開発された油彩画の顔料や技法は、この伝達能力におい
て捉えなおされなければならない。油彩画においては、色彩が何層にも重ねあわされ、その結果
まるで色彩が描かれたもの自体から発光しているように見える。現実の視覚効果により近いこの
技法が開発されたのは偶発的なものではなく、まさにこの写実主義のもつ浸透圧(伝達能力)の
追求によって必然的に創出され、いっきに伝播したのだとみることも可能であるからである。
結果、この新技法によってさらにまた新しい感性(精神)が創造されるだろう。新たな技術が
精神を、精神の伝播を促進する。あるいは、メディウムが、すなわち感情形式があらたな精神を
促進する。だからこの宗教と技術との相互進行によって様式は進行するのである。この場合〈リ
アリズム〉つまり写実主義とは様式の徹底、またそのための技術の問題だった。つまりは宗教と
いうものが根源的に孕む「この感情はどうすれば共有されるのか」という問題を解消させるため
の装置として、
〈リアリズム〉というシステムは招聘されたのではないだろうか。
先に引用した文章で児島は「現代の如く背景となる可き萬人共通の宗教若しくは世界観のない
時代には一般に観念理想派と目す可き芸術家の現れることは稀としなければなりません35」と言
う。つまり彼が名を挙げている画家は、すでに記述したような「感情」を表出する現代における
希有な例として措定されるのだ。
児島にとって日本の画壇における岸田劉生とは、そのようなリアリズムを継承する存在として
断定されることになる。また児島はその精神を体現しようとしている数少ない画家の一人として、
劉生のデューラーへの傾斜を、たんなる形式的な模倣ではなく、そこには必然的な、あるいは内
的な動機がみられるとして擁護した36。児島はしばしば劉生の批評をおこなったが、児島の劉生
にたいする批評はつまり、そこに宗教的心情が内包されているという点で、北方ルネサンスの画
家たちに投影され得るものだった。
しかし、児島の岸田劉生評価にある誤解が伴っていたということには、さしあたって注意して
おかなければならない。それは児島が期待したようには、劉生がけっして現代における徹底した
リアリズムの体現者ではなく、前にみてきたように、劉生が実行しようとしていたのが「写実」
と「装飾」の双方の実現だったということによる。つまり、児島は劉生の絵画に写実的要素とい
うその一面しか認知することはなかった。そのため児島は劉生一派の画面に装飾や文字が散見さ
れることにたいし、写実の必然性を損なうとして危惧を漏らしている37。後にはこのすれ違いが
劉生と児島との間を巡って「装飾文字」についての論議として闘わされることになるだろう。こ
のとき児島は劉生の絵画に介入する「文字」を造形的に見て末節である、としたが、劉生にとっ
て文字は「装飾」
、つまり、
「装飾文字」であったというわけである38。
劉生は父岸田吟香の勧めもあって、わずか 13 歳でキリスト教に入信した。彼は数寄屋橋教会
で洗礼を受け、またその教会の牧師であった田村直臣の教えを受けながら、日曜学校の教師をす
ることになる。しかし間もなくして宗教者になることを挫折し、画家の道を選択した劉生にとっ
て、白樺派という場所は宗教と芸術が一体化して昇華してしまえるようなところであったに違い
ない。つまり彼にとっての宗教と芸術には、同じ命題が共有されていたはずだ。白樺派に内村鑑
三のピューリタン的精神が下地になっていたことをもちだすまでもなく、武者小路実篤の文章に
18
感激して『白樺』を欠かさず購読するようになった劉生にとって白樺は「二度目の入信」と述べ
る程のものだったのである39。劉生らによって結成された「草土社」は、神の力が草木の一つ一
つにまで浸透しているという意味から発して付けられたものだったとも言われているし、ちょう
どそのとき、つまりデューラーに傾倒してゆくようになった 1915 年に「人類の肖像が描きたい
40」と宣言している。したがって、このような普遍的な力を、絵画はいかにして獲得するのか、
という問いがそこには内包されているとみてよいだろう。つまり、宗教的心情に根ざした普遍的
な像をいかにして創出するか、という問題設定によって、それはリアリズムに連なる(劉生のリ
アリズムが開始されるのは草土社時代からである)
。
ここで、劉生の「リアリズム」と児島の言うそれとは相同的であり、それは『白樺』の言説的
環境からともに発生したものであることが了解されるだろう。彼らは共通の命題を所有していた
がゆえに、リアリズムを招聘したのである。
『白樺』
白樺』と柳宗悦
『白樺』は文芸誌でありながら、国内での美術受容においては創刊当初から水際立っていた。
たとえば明治 43 年 4 月 1 日発行の第一号では、すでにベックリン、クリンガーといった画家の
絵画が掲載され、第二号では有島壬生馬による「画家ポール、セザンヌ(ママ)」
、児島喜久雄に
よる「独逸新理想派の画家」といった美術評論も開始される。
『白樺』の目次を俯瞰してみると、
まずおおまかに分けて第一期と呼べるであろう時期には、クリンガー、ベックリン、ビアズリー、
フォーゲラー、ホドラー、シャヴァンヌ、ムンク、ルドン、ロダンなどといった世紀末象徴主義
的な芸術家たちの名が散見される。次の段階に入ると、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、マティ
スなどのポスト印象派が紹介されることになり、次いでレオナルド、ミケランジェロ、レンブラ
ントなどのルネサンス期の芸術家の名が入ってくる。ちなみにデューラーが初めて『白樺』で紹
介されることになるのは大正 4 年の第 6 巻第 4 号からであり、劉生のデューラー受容のほうが
時期が若干早いとはいえ、相同的なものとみても構わないだろう。そして大正 8 年頃に入ると
誌面上に古今のビックネームたちが入り乱れるという状況がつくられる。
なかでも『白樺』の美術受容において決定的な影響を及ぼし、ゆえに『白樺』的な浸透がなさ
れ、その精神を体現することになったのがポスト印象主義からの影響だった。そのきっかけとな
ったのはロジャー・フライが 1910 年に企画した「マネとポスト印象主義」展である。この展覧
会でフライはセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティスらを「印象 In-pression」とは真逆の「表
現 Ex-pression」の画家たちとして紹介し、フライはそこでポスト印象主義の画家たちの方法は
感情の発露、つまり「自己表出」であると主張することになった。
この展覧会から「ポスト印象主義」の名は一般化してゆくことになる。1912 年(明治 45 年)
1 月の『白樺』ではさっそく柳宗悦の「革命の画家」が掲載され、「後印象派」として紹介される
ことになる。ここで展開されることになる柳の主張は「芸術は人格の反映」であり、また「個性
の表現」であるというものだった。柳の主張するところによれば、芸術とは「自己の為」の芸術
であり、
「自己」の表し方が画面に表現されるということになる。それはほとんどフライがポス
19
ト印象主義を形成するコンセプトと見解を一致するものである。
白樺派はそもそもトルストイの人道主義の絶大な感化を受けた武者小路実篤を中心に形成さ
れたグループだったが、そこには個人の生を絶対的なまでに止揚しようとする思想が存在してい
た。ここから、セザンヌやゴーギャン、ゴッホなどの画家も、その芸術と画家の生き様とが一体
となって形成されたという理解が導かれる。その結果しばしば『白樺』ではその画家の画面の形
式的な理解よりもむしろ人格や人生のほうに基調が置かれることが多かったという。絶対的な精
神の自由を保持した「天才」と宗教的感性が結びついた、ある種の崇高さを持った芸術への信奉
が『白樺』を覆っている。つまり芸術において宗教的精神の意味を認めるという態度はまず、世
紀末の画家から、ゴッホやセザンヌなどの天才的な個人の生にたいする感情移入から生じたと言
ってもいい。だからこのとき、つまり『白樺』が「後印象派」の受容を経験したときにこそ、そ
こに『白樺』的精神が完成したとみてよいのかもしれない。つまり、
「後印象派」の受容には、
白樺派の人格主義とフライのポスト印象主義の「自己表出」論を展開させた柳の「後印象派」理
解が巧妙にフィットしたことが重要な契機となっているとみても間違いないだろう。その意味で
「革命の画家」という論考は決定的である。またこの論考自体武者小路に献げられたものだった。
「革命の画家」で続けて柳は「芸術とは公衆の眼を喜ばす可きものに非ずして自己を充実す可
き為である」とまで言い切っているが、これは、われわれが知っている民藝運動の推進者の柳宗
悦のイメージとは大きくくい違っている。なぜなら民藝運動とは、周知のように、名もなき工人
たちの創りだす「工藝的なもの」の「美」を認めるというものだったのだから。昭和 17 年(1942
年)に出版された『工藝文化』で柳は「非個人的な作にしばしば見られる自由性は、実に非個人
的なそのことに由来する。個人が個性の自由に執着することは新な不自由ではなかったろうか
41」と、むしろ「個人」を否定するような見解を示している。
「個人」から「非個人」へ。その移行のあいだにはやはり、柳の中でなにかしらの転回が起っ
たとみるのが妥当であるだろう。
『白樺』誌上においてルネサンス期の画家を始め、中世ゴシック美術などのキリスト教美術の
紹介が次第に拡大していくのは「後印象派」をめぐる一連の影響が通り過ぎた後のことになる。
ここで『白樺』での美術にたいする宗教的な意味合いは、さらに強化、あるいは拡大された。宗
教はここに至ってはじめて民衆と接続されることになる。この回路を堅実な執筆活動によって造
りあげた主要人物は他ならない柳宗悦だったが、饗場孝男は柳宗悦の中世キリスト教美術への開
眼が、朝鮮の「民藝」への共感へと連なっていたことを指摘している42。饗場の紹介するところ
によると、柳はフランスの美術史家エミール・マールの影響下に、大正 11 年 11 月号の『白樺』
に「ゴシックの芸術」と題した論考を寄せ、そこで中世キリスト教芸術における民族と宗教の理
想的な共存状態を語っている。そこから彼はその現在的な結実として朝鮮の工人たちのつくり出
した民芸品を見いだすことができた。つまりは芸術と〈民衆〉とを接続する方法としての民衆的
工藝、つまり「民藝」こそが、中世美術から続く伝統に直結する、非個人芸術の復権としてのち
に接続されてゆくことになる。その契機となるものがこの時期すでに胚胎されていたのである。
それゆえに天才や超人的な個人がつくりだす作品にたいして、
「美」とは無名の工人たちの手仕
20
事の中から自動的に、つまり「型」と呼ばれる定型的なプロセスに沿って産出されるものでなく
てはならなかった。
『工藝文化』の中で彼は、近代以前の宗教芸術にはジャンルの区分けといったものがなく、教
会建築の内部空間がそうあったように、さまざまなメディアが入り乱れた混成状態にあったと強
調している。近代に至り、それらが美術や工藝といった個々の分野として分岐させられてゆくよ
うになるのだが、その分離同様に、それらを包括するものとしての「芸術」という理念もまた消
去されなければならなかっただろう。そこで彼は近代的な「芸術」というメタレベルの存在を、
手仕事や生活圏での必要性から生まれてくる唯物的な、オブジェクトレベルでの「工藝性」に引
き下げることでそれに成り代わるものに置き換えようとしたと考えられる。これは個々のジャン
ルの成立と住み分けをその背後から概念的に投影することで保証し、またそれゆえにそのそれぞ
れを有機的に関連させる芸術という大きな理念を、ただ目の前に存在する物質性に還元せよ、と
いう過激な方法上の転換である。
当時、工業生産の脅威によって解体されつつあったマージナルな生産圏にあった工芸の分野に
こそ、柳は民衆のすがたを見いだしていた。つまり芸術諸ジャンルが、いまだ多種多様に総合さ
れた状態は「工藝性」という手仕事的な生産体制に連結され、裏打ちされているのであって、民
衆存在こそが、それらをすべてカバーしてしまうことが可能な下部組織、巨大な網状組織のよう
な装置として前提されているからである。もちろん、この関係は相互補完的である。
〈民衆〉は
このとき産出する装置であると同時に、受容する装置でもあった。たとえばそれを証明するもの
として、民族固有の趣味としての「渋さ」が柳によって挙げられている。工藝という限定された
分野だけに留まらず、絵画であれ、彫刻であれ、その専制的かつ特権的な枠組みを解体されたと
ころで〈民衆〉が待ち受ける「無名性」という平たい場所へ帰ってゆくことが求められていた。
すべてのジャンルが、あるいは固有名が溶解するための巨大な受容器としての民衆存在。そこに
は柳の通過した宗教体験がいまだ残像しているのかもしれない。彼の理論はまず対資本性機械工
業としてあったが、
『工藝文化』において、宗時代の磁州窯は美しい、六朝の彫刻はさらに美し
いと加えた上でこう述べる。
仏教の文化がその深さや美しさを保障したのである。西洋でいえば丁度ロマネスクの時期
に当ろう。信心が文化の隅々まで染み渡っていたのである。美術などいう(ママ)特別な
ものがあって、個人が勝手に作ったというようなものではない。あの六朝のまたロマネス
クの驚くべき彫刻は、大勢の石工の仕事だったに過ぎないのである43。
宗教と芸術が一体となるような回路がこの柳の中世観に端的に表明されている。ウィリアム・
ブレイク研究によるキリスト教体験を通過したのち、近代以前の中世的理想はなによりこの宗教
性に媒介され、工藝を理論化する際にもこのようにさりげなく援用されている。とりとめのない
無数の存在が蠢くその圏域が〈生活〉であったとすれば、極言するならば、民衆も宗教も、あら
ゆる主体を包みこむメタ主体に過ぎないという点において、同様である、という事さえ言えるの
21
かもしれない。
劉生は 1911 年頃に描き上げた《街道(銀座風景)
》[図 7]について後年「露骨にゴオホ風な描
き方をした」と回想することになる。そのきっかけとなるのが、
『白樺』との出会いであり、ちょ
うど初めての『白樺』を手にしたのと同じ年に葵橋の洋画研究所で一緒にキャンバスを並べてい
た清宮彬を介して柳宗悦宅を訪ね、そこで多くの西洋絵画、とくに後期印象主義の複製図版を目
撃した(劉生が目にしたと語っているのはゴッホ、セザンヌ、ゴーガン、マティス)44。
劉生の「後印象派」からの影響は『白樺』そしてなによりも柳を通じて決定的なものとなった。
その時代からゴッホあるいはフォーヴ風の作品に続けてセザンヌからの影響が画面には顕著に
見いだされる。そこから一気に古典絵画に傾斜してゆくのは 1913 年からのことである。
このように、劉生の絵画をさしあたって二つの様式に分割してみた場合、そこから読み取れる
のは、その絵画形成はつねに『白樺』の内部に見いだされる「精神」に寄り添いながらなされて
いったということにほかならない。そのことは『白樺』を代表する言論人であった柳宗悦の主要
な歩みに併置させてみるだけでも明らかである。白樺派的「精神」の転回(あるいは展開)は、
つまるところ「自己表出」から「民衆」存在への指向であると要約的に言うことができるだろう。
したがって劉生の画業と『白樺』の動向は年代的にみてもパラレルに進行している。
『白樺』に
代表される、あるいはなかば白樺派によって形成された感のある大正期の「精神」にこれほどま
でに忠実であったがゆえに劉生とは、その意味でも大正的「精神」の体現者であったと言えるの
ではないか。こうしてみたとき劉生とは、孤高の天才というより、むしろ愚直なまでに『白樺』
的である。
もっとも、リアリズムの時期に突入したときも、彼を支配し続けたのは自分自身にたいしての
天才の自負である(それゆえにまずキリスト教徒であることを徹底することに挫折しなくてはな
らなかった)
。むしろ初期のフライや柳の「自己表出」論によって裏打ちされた自己によって形
成された「天才」が芸術的実践によって〈民衆〉に媒介するものが、劉生の場合宗教的な意味を
もった〈精神〉だった。
いずれにせよ『白樺』的環境が芸術における〈民衆〉存在を浮上させたのである。それは彼ら
にとって芸術活動が精神的な意味と結合していたからであり、そこで芸術と宗教とが結合すると
き、
『白樺』は基本的には反自然主義だったとはいえ、
〈リアリズム〉を許容する余地も備えてい
たと言えるだろう。児島喜久雄や岸田劉生といった人物は、この白樺派のなかの言説的環境から
ともに出現してきたのである。
児島喜久雄の
児島喜久雄の批評言語
ヨーロッパに留学した際に、ヴェルフリンとも交流することになる児島喜久雄は、日本画壇の
インテレクトウアリスムス
傾向を「主知派」と「絶対派」が画壇の二つの主潮であるとして、そのうち劉生を「 主
マーレイ
知
派 」
ツアイニング
としている45。彼は劉生の絵画について「彩画と言ふよりは寧ろ 素 画 である46」と言い、ある
ゼーエンインリニーエン
いは「 線 的 観 照 47」が見られるというように、ヴェルフリンの批評言語を用いてその絵画を
批評している。
22
あるいはべつの場所で、ヴォリンガーの分類法を使用しながら「投感(感情移入)と抽象48」
のうち、劉生を「毫も特殊なる抽象を加へざる自然の有機的生命である49」とするような批評も
みられる。
このようにヴェルフリンやヴォリンガーの批評言語が散りばめられた児島の批評から伺い知
ることができるのは、劉生の絵画もこうしたドイツ美術史学の強い影響下にあった大正期の言説
的環境と同調するようにして発展していったということではないだろうか。つまり、劉生の画業
および記述と、ヴェルフリンやヴォリンガーとの奇妙な相同性がみられるのは、当時の環境から
言ってもたんなる偶然というわけではない。ドイツの美術史家たちの著作が本格的に翻訳される
のは、かなり後のことであるにしても、それには当時ヨーロッパに留学し、その学説を吸収して
日本に導入することになった児島喜久雄や美術史家の澤木四方吉(澤木梢)のような存在が劉生
の画業に、影のように背後から浸透していることを見逃してはならないだろう。
ちなみに、児島が留学したのは文部省在外研究員として渡欧した 1921 年から 26 年にかけて
であり、澤木は大正初年にミュンヘン留学中にヴェルフリンの講義を聴いている。澤木は「美術
史家ヴェルフリン」という文章を大正 15 年 1 月号、4 月号の 2 回に分けて『思想』
(岩波書店)
に連載した。その初編の発表と同じ月には深田康算が雑誌『美』(芸艸堂)に『美術史の基礎概
念』の概要を紹介し、さらにその後出版された大西克禮の『現代美學の問題』
(岩波書店、1927
年)の中でもかなり詳しい説明が試みられている。澤木はまた「ヴェルフリンの美術史上の基礎
概念」と題した論文を『思想』昭和 2 年 11 月号と 12 月号の 2 回にわたって連載し、精力的に
ヴェルフリンの学説を紹介する事を惜しまなかった。断片的にではあれ、それは流入していたの
である。
模倣と
模倣と引用
児島喜久雄は岸田の同時代的な理論的な擁護者であったとはいえ、それは写実を復権しつつあ
る者としての認識に基づいていた。現在まで続くような、劉生を写実の復権者としてみなすよう
な評価はその当時からすでにあったわけである。前述した椿貞男の絵画から推測されるように、
劉生を中心にした「草土社」が基本的には写実表現の集団であり、またその堅牢なマチエールに
よってさまざまな対象をなぎ倒してゆくような威力があったがゆえに同時代的な影響力を持っ
ていたからである。その様式は次々に伝播していき、一時はこの「草土社風」のスタイルが二科
を席巻してしまうほどのありさまだったという。しかし劉生は写実だけを徹底していたわけでは
なかった。彼は自分にたいするそんな無理解に遭遇し、そしてひとりの理論的な理解者をもたな
いことを認識していたために、画家としては膨大な分量の著述をなしたとも考えられるだろう。
その劉生が、自分は写実表現によって「近代的傾向」から離脱していると感じ始めていたとき、
しかしそれは狭義の「近代」
、抽象化に向かう近代絵画のことをさしていたのである。すなわち、
抽象へと傾斜してゆくこと、自己純化を強めてゆくことを近代的とするならば。
自分の今の自然の見方は、後印象派の人によりて呼び醒されたものだ。それが段々複雑に
23
微細になつて来たけれど意義に於ては後印象派を知つた当時も今のものも全く同じだ。只
進歩と生長があるばかりだ。しかし、後印象派を知らぬ以前の無自覚な製作(ママ)は如
何に外見微細に描いたものであつても意義に於て、全く異つて居る50。
ここで、「後印象派」の影響が写実表現へと内在的に連続していることが語られていることに
注意しなければならない。近代絵画を経由することなくして、写実、そしてその段階を準備する
ための古典絵画からの影響もありえない。それはすでに劉生との比較において触れてきたように、
近代以降に成立した美術史、ないし様式史というものが、そもそも近代的なパラダイムを内包し
ていたのである。絵画のモダニズムは自己批判によって次々に接続されていく文脈においてのみ
ならず、美術史論的布置も視野において捉え返さなければならない。したがって、劉生の古典絵
画、特に北方ルネサンスからの影響も近代的なものであり、かつその限りにおいて積極的な意味
を担っていた。くりかえせば、劉生の語る「近代的傾向」とは狭義の「近代」のことである。
けれどもすでに大正期にはこんなモダニズム観は形成されていたのである。劉生の孤立――す
くなくとも彼はこう自覚していた――は、こうして強まっていったのかもしれない。たとえば彼
はカンディンスキーと自分とは置かれた立場がまったく違うということをはっきりと表明して
いる。
この「事」の世界といふものが果して厳密な美術上の要素となり得るか否かには多少の議
論もあらうが、私は、美術には「事」を形象美に化へ得る一境があるのであつて、彼のカ
ンヂンスキー一派の言ふ如き、美術は単に色と形とを以て主観を表現するものであるとの
考へにはこの一境を忘れた欠陥があるのである51。
劉生がここで言っている「事」とは絵画の多元的構造のことであり、繰り返し述べてきたよう
に「写実」はそのなかの重要な一要素である。
劉生と草土社に向けられた誤解と非難、それはこんなモダニズムの連続性を断ち切ってしまっ
たことに、実は向けられていた。
それゆえ劉生の置かれた場所を近代性と反近代性のないまぜになったアンビバレントな位置
づけから理解しようとする批評にもこれは内在している。しかしそんな劉生の身振りが反近代で
あるはずがない。写実表現が同時代的にセンセーショナルであったのは、それがデューラーに、
あるいは描写の緻密さがあまりにファン・アイクを思わせるものだったからだった。それは劉生
以下の草土社の画家たちにも伝播している。草土社は、そんな「模倣」を意にもかけない集団と
して形成されていたのである。これはそもそも劉生自身が「影響」や「模倣」にたいし積極的な
意味を認めてきたことに依っている。その「模倣」が、近代的な位置づけから見いだされ、さら
に写実的形式が古典絵画の形式を導入することで多元的な絵画は結実されるということにおい
て、そして「模倣」にこそ近代的な絵画が実現されるというこの思考は、現代ならばむしろ肯定
的に〈引用〉と呼ばれるべき行為だったのかもしれない。
24
その可能性を押し拡げるなら、劉生の画業は徹底して〈引用〉の連続であると言えるだろう。
「後印象派」の影響下では、それが色彩や筆触であるために、たんなる模倣とみなされても仕方
がないほどにゴッホやセザンヌに依っていた。それは写実表現に本格的に取り組み出したころか
ら、もっと微細な、さまざまな様式的抽出として本格化されていったのである。劉生の美術史的
記憶はおそろしく抽象化されており、かつ鋭利にポイントを見極め、切り込んでゆける鋭さを兼
ね備えていた。さらに言えばこの〈引用〉の絵画史は後期の東洋画にまで連続する。
そこにおいて劉生の「写実」は徹底している。それは 1915 年に頂点を迎える一連の肖像画に
顕著に見て取ることができるだろう。この徹底された実在表現から北澤憲昭は、劉生の「人工意
識」は、すこし時代が下った後の大正アヴァンギャルド、特に村山知義による絵画を物体そのも
のとして捉える姿勢、そしてその表面に現出される物体性が露になったマチエールへの意識と相
同的だったとしている52。しかし実在表出は劉生の「写実」という一つの側面に過ぎない、とさ
しあたって批判しておくことはできるだろう。また北澤は、劉生の絵画表現にみられる「人工へ
の意志」と村山知義の「造形意識」との近接性を指摘したうえで、劉生が『初期肉筆浮世絵』
(大
正 15、1930 年)という著書の中で、
「美術」は「写物」から「写事」に至って完成され、また
「写事」の「事」とは「合一感」を求めた結果表れるものだとしていることを受け、そこから劉
生が同時代の「写事」を表現しているものの例として「彼のダダイズムやマヴォの作品の中に、
実物の布や、ペーパーをはりつけたりしてあるのは」
(「美術雑感」)
、彼の描写と同じ「ぴたつと
合つた鍵」の感じを求めたものだと言っている箇所を指摘し、それは劉生が、現実世界に参入し
た結果導かれたダダやマヴォへの共感であり、劉生と「「芸術」のデカダンス」
、そして社会に積
極的に参入していった大正アヴァンギャルドとの近さを証明するものであるとしている53。だが、
その言葉は決して劉生の「人工意識」や「実在」表出、そして大正アヴァンギャルドと同じよう
な積極的な社会進出的気質から導かれたものではない。それはすでに触れてきたように、劉生に
よる、美術史的な配置がなされた図像を解析し、構成するという方法自体が、(ダダのコラージ
ュのように)そもそも構成主義的だったのである。ゆえにここで劉生が示したダダやマヴォ(の
コラージュ)への共感は、彼自身が「写実」や「装飾」といったさまざまな形式の対立と止揚を
経験していたがゆえに示されたものだし、村山との近似を指摘するならば、むしろお互いが採用
していた構成的手法において修正されなければならない。村山の構成主義批判として表明された
「意識的構成主義」なるマニフェスト、そして東京国立近代美術館に収蔵されている彼の《コン
ストルクチオン》
(大正 10、1925 年)[図 8]という作品は、むしろ構成主義の内在的な超克とし
て制作されたのである。村山はドイツ留学から帰国後、表現主義的な絵画スタイルから一転し、
コラージュを採用した「意識的構成主義」として知られる作品群を制作しはじめる。それは髪の
毛やガラクタ同然の針金、ブリキ、新聞紙、木片などを貼り合わせることで成立していた。あえ
て現実的な感覚を惹起するような、あくまで具体的な生活臭のする物を使用したのも、その具体
的事物によって引き起こされる現実的な生々しい感覚としての「意志」の(ロシア構成主義の無
対象の「構成」ではなく)対立を促すためであり、またそれを弁証法的に乗り越えるものが「構
成」であったからだった。だから「意識的構成主義」には都市生活の断片や屑のようなものたち
25
を積極的に参入させ、構成主義的に構築するということにおいてダダ的な要素と構成主義的な要
素が混在している。帰国後からこれらの制作が開始されたことは示唆的であり、シュヴィッター
スやカンディンスキーの仕事を実見できた村山のヨーロッパ生活が反映されていると同時に、そ
のとき吸収してきたものを全部ひっくるめた母体のようなものとして構想されたのが「意識的構
成主義」だったのかも知れない。母体であれば、構成主義的ではあれ、二次元平面では間に合う
はずもない。その「意識的構成主義」の方法がやがて三次元化するのは必然だった。
「意識的構
成主義」は自身のアトリエの作品化やバラック装飾の仕事を通じて建築へと浸食してゆく。そし
て彼は建築こそ純粋な芸術であると主張することになった。構成的絵画を批判して最後に残され
た究極の純粋芸術としての建築を目指す。やがて「建築を実用芸術とする考へを排するのみでは
なく、建築こそ新時代の芸術であり、究極最上の芸術だとする主張54」を村山は唱えることにな
るだろう。こうした方向性は表現主義絵画から表現主義建築へと生成されてゆく一連の流れや、
その結晶としてのブルーノ・タウトのユートピア建築思想を連想させる。いずれにしても、ダダ
と構成主義が出会う場を準備さえしていた村山と劉生がどこかで交通するのは確かだろう。劉生
の絵画理論がどこか建築的であるのと、村山がいつしか純粋かつ究極の芸術としての建築へと没
入してゆくのは、たんなる類似であるというよりは、むしろ近代的な「建築への意志」のような
ものがそこに介在していたからなのかもしれない。それは劉生の場合で言えば、絵画形式の意識
的な対立を退け、構成的手法に終止することのない絵画的統合を果たすこと、あるいはそのすべ
てをデューラーのように調停してしまうことだった。
このことは、しばしば劉生がレオナルドの《モナリザ》に示した共感と重ねあわせてみること
で理解されるかもしれない。《モナリザ》には、前面の肖像画的要素と背景の風景画的要素が分
裂することなく併置されているからだ。本来まったく無関係であるはずの人物の肖像の迫真的な
描写と、後景の非現実的な風景の描写との合一が、ここで西洋絵画史上はじめて実現されている
からこそ(劉生の言葉を使用するなら)
「合一感」
「ぴったり合った鍵」がそこに認められるので
ある。たとえば、「モナリザ等は、この写実と、写実の欠除とが各々極み迄行つている。よき一
例であると思ふ55」という劉生の一文を抜き出すことができるだろう。
静物画のトポロジー
静物画のトポロジー
そこから、一連の静物画で、それを鑑賞するものが皆漏らすであろう――静物と静物とのあい
だに、なぜあのように正確な間が保たれているのか――という問いへの解決の糸口が見いだされ
るだろう。いわゆる鵠沼時代から開始される油彩画におけるほとんどの静物画においてその厳密
な構図は一貫している。そしてそれは劉生の絵画においてだけ見いだされる固有の現象だと言っ
ていい。ほかの草土社のメンバーの絵ではむしろ静物はランダムに配置されているからである。
たとえば、横長のキャンバスの、構図を縦に三分割したとして、その下方二割を占める平面的に
設置された机と、上一つ分を占めている青系統の色彩を持つカーテンによって区切られた簡潔な
画面を基盤として、その机の上に等間隔で、個々の大きさも均等であるばかりか、「へた」の向
きさえ同じ方向を指している青林檎が三個並んでいる《林檎三個》
(大正 6、1917 年)[図 9]や、
26
画面左右を大きく対比させる青赤二色のカーテンによって分割され、カーテンが画面両側を大き
く区切ることによって生まれた中央の隙間に、ここでもまた等間隔で向きも大きさも同じ複数の
林檎が配置され、さらに画面正面の台の上には林檎が一つ置かれた陶器の器が配置され、その底
部から数珠の装身具が、台の上の林檎の隙間をぐるりと囲い込むように置かれた《静物(手を描
き入れし静物)
》(大正7、1918 年)[図 10]などがそれに相当する。それらは、劉生の採ってい
たコラージュ的手法が静物配置への強力な意識をともなって形成された作品群であると言える
だろう。巧妙かつ、まったく恣意性の隙間もない静物の正確な位置づけはこうして生まれた。も
っともそれは劉生自身が「装飾的リズム」と形容するような効果を上げていたし、その空間構成
自体が装飾的なものでもあったわけである。有名な《壺の上に林檎が載って在る》
(大正 5、1916
年)は劉生にとって最初期の静物画にあたり、その謎めいた構図はそれゆえにある種の不当な沈
黙をともなって受容されてきたと言ってもいい。けれどもそれは空間的な位相を飛び越えた平面
的配置が実現する「物体」と「物体」との構成の妙であり、その意味で、それ自体オブジェのよ
うな強さを持っている。それゆえこの絵にはある不可解な非現実性が漂っている。壺の上に乗る
りんごと壺との関係は整合性に欠け、りんごは壺の口辺からまるで浮遊しているようにも感じら
れる。しかしそれは劉生にとって現実的な整合性など意にも介されていなかった、ということを
示しているのかもしれない。つまり、構成する(あるいはもっと直接的に言えば貼り付ける)と
いうこと自体が平面的な行為なのだから、である。
だから、劉生の《林檎の上に壺が載ってある》や《静物(手を描き入れし静物)》を指し示し
て、その空間を性急に「神秘的」「秘教的」などとすぐさま判断してしまうことに賛成すること
はできない。それは非現実的な配置づけがなされる限りにおいて“非現実的”であるからである。
けれどもそんな劉生理解が増幅されると、たとえば北澤憲昭のように《二人麗子図(童女飾髪図)》
(大正 11、1922 年)[図 11]などの、麗子を二人同時に描き入れた絵を指して、
「自己の分裂と
いう事態の投影と理解することができるのにちがいない56」と、芥川龍之介などに比較されるよ
うな「自己分裂」として語られることになる。そういった心理学的な読解もあるいはできるのか
もしれないが、ここでは切り取られた同じパターンをサンプリングするように、むしろ軽やかに
自分の娘の図像を配置してみせたという見方も可能であるかもしれないという点は、強調しても
よいだろう。
文字の
文字の機能
この方法は、1912 年から開始されるキュビスムのパピエ・コレ、あるいはコラージュのそれ
を想起させるものがある。キュビスムのコラージュでは、いくつもの切り取られた平面が貼られ、
その平面は視覚の面を直接代補するものとして考えられた。つまり、複数の対象同士がその方法
によって矛盾することなく併置されるとされたのである。この時期のコラージュ作品には同時に
新聞紙などの印刷物の断片、つまり文字の介入が確認される。これはすでに絵画作品で頻用され
ていた文字や記号の使用を継続させるものと考えてもよいだろう。ではこの文字、あるいは記号
の機能とはなにか。おそらく、キュビストたちにとっての文字は、複数の平面同士を結節する楔
27
のようなものであり、文字は概念的なものでもあるため、ある一定の次元に属さないがゆえに分
裂的な空間を表面的につなぎ止める、つまり、キュビスムの「パサージュ」――複数の面を暫進
的にドライヴさせてゆく運動性を可能にする機能を担っていたのである。
このキュビスムにおける平面上での文字の介入は、劉生の絵画を考えるうえでも示唆的である。
劉生の画面において、彼が文字の使用に固執したのも、それがコラージュ的手法において現れる
複数の構成要素を、文字ほんらいに備わる機能、つまりいかなる次元にも属さず平面上を浮遊し、
それらをつなぎ止める文字の機能を捉えていたからかもしれない。それはとくに《麗子弾弦図》
(大正 12、1923 年)[図 12]などにおいてはあからさまに示される。劉生にとって「文字」は前
述したように「装飾」の領域に属すものだった(したがって文字自体にはなんらかの意味内容を
含むものはほとんどない)
。それは画面全体を「装飾」として捉えるようになった後期の劉生に
とって、特定の領域を跳躍し、装飾的に拡散してゆく力を保持するものであるがゆえに、欠くこ
とのできない重要な構成要素の一つになっていたのである。
註
1青木茂、坂井忠康監修、責任編集田中淳『新思潮の開花:明治から大正へ(日本の近代美術 4)
』大月書店、1993 年、
39 頁より転載。
2岸田劉生「自分の踏んで来た道」
『劉生画集及芸術観』聚英閣、1920 年、
『岸田劉生全集』第二巻(以下『全集』と略)、
岩波書店、1979 年、523~524 頁。なお場合に応じて旧字体は新字体に改めた(以下同)。
3ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念―近世美術における様式発展の問題』海津忠雄訳、慶応義塾大学出版会、
2000 年、286 頁。
4岸田劉生「クラシツクの感じ」
『劉生画集及芸術観』聚英閣、1920 年、『全集』第二巻、456〜457 頁。
5ヴェルフリン『美術史の基礎概念』海津忠雄訳、慶応義塾大学出版会、2000 年、286 頁。
6岸田劉生「個人展覧会に際して」
『全集』第三巻、岩波書店、1979 年、140 頁。
7ヴェルフリン『美術史の基礎概念』海津忠雄訳、慶応義塾大学出版会、2000 年、287~288 頁。
8ヴェルフリン『美術史の基礎概念』海津忠雄訳、慶応義塾大学出版会、2000 年、31 頁
9岡崎乾二郎「シュールな日本」河合隼雄、横尾忠則編『現代日本文化論 11(芸術と創造)
』、岩波書店、1997 年、191
〜192 頁。
10ウィルヘルム・ヴォリンガー『抽象と感情移入―東洋芸術と西洋芸術』草薙正夫訳、岩波書店、1953 年、156 頁。た
だし草薙訳ではヴォリンゲルと表記。
11ヴォリンガー『抽象と感情移入』草薙正夫訳、岩波書店、1953 年、18 頁。
12ところで劉生はこう言っている。
「模倣又は迫真の欲望は、むしろ模倣のための模倣、迫真のための迫真にある。
」
(「初
期肉筆浮世絵」
『全集』第四巻所収、122 頁)模倣は模倣の欲望に依る、とするこの自同律。すなわち模倣への意欲が形
式を決定する。よって形式の自律はこの欲望、つまり「芸術意欲」
(リーグル)によって成立することができる。劉生に
はもともと模倣本能が備わっていた、とする彼の伝記作者たちは、自律的な様式が、さかさまに模倣の本能を見いだす、
という転倒を見逃している。
13ウィルヘルム・ヴォリンガー『ゴシック芸術形式論』中野勇訳、岩崎美術社、1968 年、69 頁。
14ヴォリンガー『ゴシック芸術形式論』中野勇訳、岩崎美術社、1968 年、72 頁。
15ヴォリンガー『抽象と感情移入』草薙正夫訳、岩波書店、1953 年、156 頁。
16ヴォリンガー『ゴシック芸術形式論』中野勇訳、岩崎美術社、1968 年、72 頁。
17ヴォリンガー『抽象と感情移入』草薙正夫訳、岩波書店、1953 年、157 頁。
28
18岸田劉生「手紙」
『全集』第一巻、岩波書店、1979 年、531 頁。
19岸田劉生「個人展覧会に際して」
『全集』第三巻、岩波書店、1979 年、140 頁。
20ヴェルフリンは、意外にも「明瞭性は、まず第一に装飾的原理である」と言い、また、
「絵画の歴史は付帯的意味に於
いてのみならず、本質的にも装飾の歴史である」とさえ言うのだが、この装飾性重視の思考は、ヴェルフリンが、ある
ところで同じパラダイムをリーグルやヴォリンガーと共有していたことを意味しているのではないか。リーグルやヴォ
リンガーが未踏の領域を開拓していったのに比較して、ルネサンスやバロックを主題とすることに終止したヴェルフリ
ン自体は“良き趣味”の持ち主として、彼らと区別されることが多い。だが両者を貫通しているものについては、もっ
と確認されていいはずだ。
21岸田劉生「装飾文字に就いて児島氏に」
『全集』第二巻、岩波書店、1979 年、96~97 頁。
22岸田劉生「内なる美」
『劉生画集及芸術観』聚英閣、1920 年、『全集』第二巻、376 頁。
23岸田劉生「内なる美」
『劉生画集及芸術観』聚英閣、1920 年、『全集』第二巻、岩波書店、1979 年、370 頁。
24岸田劉生「装飾論(想像及装飾の道)
」『劉生画集及芸術観』聚英閣、1920 年、
『全集』第二巻、岩波書店、1979 年、
397 頁。
25岸田劉生「内なる美」
『劉生画集及芸術観』聚英閣、1920 年、『全集』第二巻、岩波書店、1979 年、376 頁。
26富山秀男『岸田劉生』岩波新書、岩波書店、1986 年、56 頁。
27ヴェルフリン『美術史の基礎概念』海津忠雄訳、慶応義塾大学出版会、2000 年、第1版序
28たとえば、マイヤー・シャピロ、エルンスト・H. ゴンブリッチ『様式』細井雄介、板倉寿郎訳、中央公論美術出版、
1997 年、142 頁などを参照。
29岸田劉生「内なる美」
『劉生画集及芸術観』聚英閣、1920 年、『全集』第二巻、岩波書店、1979 年、372 頁。
30 ヴェルフリン『美術史の基礎概念』海津忠雄訳、慶応義塾大学出版会、2000 年、第1版序
31ヴォリンガー『ゴシック美術形式論』中野勇訳、岩崎美術社、1968 年、21 頁。
32早崎守俊『ドイツ表現主義の誕生』三修社、1996 年、15〜16 頁参照。
33児島喜久雄「ルードウィヒ・フオン・ホオフマン」
『美術批評と美術問題』小山書店、1936 年、238 頁。
34児島喜久雄『現代の絵画』岩波書店、1934 年、6〜7 頁。
35児島喜久雄「ルードウィヒ・フオン・ホオフマン」
『美術批評と美術問題』小山書店、1936 年、242 頁。
36児島喜久雄「洋画私観」
『美術批評と美術問題』小山書店、1936 年、420 頁。
37児島喜久雄「洋画私観」
『美術批評と美術問題』422 頁。
38岸田劉生「装飾文字に就いて児島氏に」
『全集』第二巻、岩波書店、1979 年 94~98 頁。ちなみに 1920 年(大正 9 年)
の 6 月 7 日の劉生の日記には、児島に会ったときの心情が「きらひなれど仕方ないからあいさつした」として記されて
いる。
『全集』第五巻、355 頁。
39高島直之氏のご教示により、ジャン=クレ・マルタン『物のまなざし——ヴァン・ゴッホ論』
(杉村昌昭、村沢真保呂訳、
大村書店、2000 年)を読む機会を得た。マルタンはゴッホの《馬鈴薯を食べる人々》の画面中に逆光の位置に置かれ、
暗くなっているはずの人物の背後からスカートにかけての部分に服の襞が確認できる、という逆説について語っている。
マルタンはそれを「画家のランプ」と呼び画家が物に霊的な神性を感じ、なおかつそこに画家の自己が内在することに
よってこの「画家のランプ」が可能になると指摘する。それは劉生の《切り通しの写生》において前もって指摘したよ
うに、個々の構成物が、物そのものからあたかも発光されているかのように、透明な緊張感をもって存在しているとい
うことに類似しているだろう。ゴッホが宗教者になることに幾度も挫折して画家を志したように、劉生にとっても芸術
と宗教とは切り離せない関係にあった。劉生もまた「物」に神性を感じ、そこに自己を投影していたことは明らかであ
る。たとえば一章でも引用したが、彼は草木に「寂しさ」を感じ、道路に「力強さ」を感じると記述している。そこに
は「物」に投機された複数の感情がある。劉生は幾度も「物体の美」、
「在る事の神秘」について語ったが、それは宗教
にたいして宿命的なつながりをもっていると強く自覚していた劉生とゴッホとを結ぶ結節点になるのかもしれない。た
とえば劉生がゴッホによって芸術の道へ導かれたと語る以下の記述はそのようにして読まれるべきである。
「自分が最も
ゴホオに引かれた(ママ)のは、それではなかつた。自然を自己の眼で見る事を教へられた事であつた。それから肉眼
で見るもの以上の美がある事を教へられた。それは宗教的な感じを自分に興さした。さうして芸術によつてそれにふれ
る事の出来る事を教へられた。芸術によつてそれに触れる事が自分をより深く生かすよき道である事を教へられた」。
「自
分はゴオホによつて「芸術は宗教の様なもので興味ではない」
(その当時自分はかういふ意味の感想をかいた)事を知つ
た。
」「才能及び技巧と内容に就て」『全集』第一巻、岩波書店、1979 年、540 頁。
40岸田劉生「断片」
『全集』第一巻、岩波書店、1979 年、493 頁。
41柳宗悦『工藝文化』岩波文庫、岩波書店、1985 年、83 頁。
29
42饗庭孝男『日本近代の世紀末』文芸春秋、1990 年、47 頁。
43柳宗悦『工藝文化』岩波文庫、岩波書店、1985 年、237 頁。
44ちなみに、武者小路は『白樺』1911 年 12 月号に「Y(柳)の処でセザンヌ、ゴーガン、ゴオホ、マチスの絵を見」
たと書いているが、その複製図版はルイス・ハインドの『The Post-Impressionists』に掲載されていたものであること
が分かっている。劉生が目にしたものもハインドのこの本だったのかもしれない。
45児島喜久雄「洋画私観」
『美術批評と美術問題』小山書店、1936 年、419 頁。
46児島喜久雄「洋画私観」
『美術批評と美術問題』小山書店、1936 年、423 頁。
47児島喜久雄「洋画私観」
『美術批評と美術問題』小山書店、1936 年、418 頁。
48児島喜久雄「今秋の二科会」『美術批評と美術問題』小山書店、1936 年、357 頁。
49児島喜久雄「今秋の二科会」『美術批評と美術問題』小山書店、1936 年、362 頁。
50岸田劉生「自分が近代的傾向を離れた経路」
『劉生画集及芸術観』聚英閣、1920 年、
『全集』第二巻、岩波書店、1979
年、464 頁。
51岸田劉生「春陽会第二回展覧会所感」
『全集』第三巻、411 頁。
52北澤憲昭『岸田劉生と大正アヴァンギャルド(シリーズ精神史発掘)
』岩波書店、1993 年、105~151 頁参照。
53北澤憲昭『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』岩波書店、1993 年、202~203 頁。
54村山知義「芸術の究局(ママ)としての建築」
『国民芸術』1924 年 7 月号。ほかに五十殿利治『大正期新興芸術運動
の研究』スカイドア、1995 年、400〜406 頁、および 500〜514 頁参照。
55岸田劉生「写実の欠除の考察」
『全集』第三巻、岩波書店、1979 年、129 頁。
56北澤憲昭『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』岩波書店、1993 年、182 頁。
謝辞
本論文は主査、岡部あおみ教授、副査、高島直之教授の指導のもと書かれたものです。岡部先生
はもとより、学科への着任間もない副査の高島先生にも、論文の構成などにおいて厚いご指導や
ご助言を賜りました。両教授に記して感謝いたします。
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