91 坂 井 聰 ク ラ ネ ウ ム と い った 町 が 、 一 千 数 百 年 に 亘 り ほ と ん ど 当 時 の 様 子 そ の イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 初めに 一帯は、イタリア半島の中でも古来風光明媚な地として名高く、ロー そ の 繁 栄 の 真 っ 只 中 に あ り 、 か つ ヴ ェ ス ヴ ィ オ 山 麓 を 包 む ナ ポリ 湾 岸 ートル程度の地域であったであろう。しかし、その当時ローマ帝国は ん だ の は 、 こ の 火 山 の 南 東 方 向 を 中 心 と し た せ いぜ い 数 百 平 方 キ ロ メ 火山災害の中では決して大きかったとは言えない。直接的な被害が及 まることとなった。噴火の規模そのものは、人類がこれまで経験した 数 多 く の 農 村 が 、 噴 出 し た 火 山 礫 や 軽 石 ・ 火 山 灰 の 厚 い 堆 積 の 下 に埋 南 に 聳 え る ヴ ェ ス ヴ ィオ 火 山 が 噴 火 し 、 そ の 麓 に 散 在 して い た 都 市 や た 、 ポ ン ペ イ遺 跡 は 、 上 述 の よ う に 文 献 に よ り 紀 元 七 九 年 と 明 確 に 確 古 学 的 な 問 題 の 上 に 展 開 され て き たの も 無 理 な か っ た と い え よ う 。 ま 工 芸 品 の 豊 か さ 故 に 、 ポ ンペ イ 考 古 学 に お け る 主 要 な 関 心 は 、美 術 考 り 、 ポ ン ペ イ は ギリ シ ア ・ ロ ー マ 考 古 学 の メ ッ カ と な っ た 。 こ の 美 術 きた。その間に出土した保存状態の良い壁画や優れた美術工芸品によ 掘が開始され、今日までの約二五〇年以上に亘り、連綿と続けられて ア 全 域 に 亘 る 領 土 を 持 っ て い た ナ ポリ 国 王 カ ル ロ 三 世 の 主 導 の も と 発 た 。 周 知 の よ う に ポ ン ペ イ は 公 式 的 に は 一 七 四 八 年 、 当 時 南 部 イ タリ 古 代 学 研 究 所 は 、 平 成 元 年 以 来こ の 遺 跡 の 調 査 研 究 に 取 り 組 ん で 来 ままに、厚い堆積物の下に埋まっていたのである。 マ都市文明の著しい発展を見せていたため、この噴火が歴史的に特筆 認し得る時点で、ほぼ瞬時にして都市としての生命を終えていること 西 暦 七 九 年 八 月 二 四 日 の 白 昼 に 、 イ タ リ ア 南 部 の 大 都 市ナ ポリ の 東 す べ き も の と な っ た ので あ っ た 。 こ の 噴 火 で 埋 没 し た ポ ン ペ イや ヘ ル 92 究 は 必 然 的 に ﹃ ポ ン ペ イ 最 後 の 日 ﹄ の 姿 を い か に忠 実 に 再 現 し 、 解 釈 保存されているといっても過言ではない。結果的には、ポンペイの研 灰・礫の堆積を取り除くならば、その時点の町の姿がそのままの形で る わ け で は な い 。 し か し こ こ で は 、 七 九 年 の 八 月 に 降 下 した 厚 い 火 山 とも、ポンペイにおけるように突如としてその都市生命が終わってい ば 、た と え そ の 最 終 段 階 が 戦 乱 等 に よ る 破 壊 と い う こ と で 印 され よ う も、考古遺跡としては例外的存在である。通常の都市遺跡であるなら 現地において毎年数カ月調査を遂行してきた︵図1︶。 研 究 補 助 金 の 助 成 を 受 け 、 平 成 五 年 以 来足 掛 け 一 〇 年 以 上 に 亘 っ て 、 部 を 発 掘 す る 許 可 を 得 た ので あ っ た 。 そ し て 一 部 は 、 文 部 省 国 際 学 術 と 言 わ れ て 来た 、 通 称 ﹃ カ プ ア 門 ﹄ と 呼 ば れ る 城 門 と そ の 周 辺 の 城 壁 ペイを取り囲む総延長約三・二キロメートルの城壁北端部に位置する と で あ った 。 こ の 学 術 的 観 点 か ら 発 掘 調 査 を 申 請 し 、 平 成 五 年 に ポ ン の都市としての起源から最終段階に至るまでの発展過程を研究するこ 歴 史 を その 起 源 か ら 終 末 に 至 る ま で 連 続 的 に 明 ら か に す る と い うこ と 的調査をポンペイの終焉した七九年以前の下層に拡大し、この都市の 年代より新たな展開が起こって来た。それを要約するならば、考古学 このようなポンペイ研究の主たる潮流に対しては、 しかし一九三〇 不可欠ではあるものの、七九年当時の遺構を出来るだけ破壊してはな 七 九 年 以 前 の 層 を 対 象と す る ポン ペ イ の 発 掘 は その 形 成 史 を 知 る の に 調 査 に よ っ て 明 ら か に す る と い う こ と 、今 一 つ は 、 上 述 の よ う に 西 暦 一 そ の 存 在 が 確 認 さ れ て い な か っ た ﹃ カ プ ア 門 ﹄ の 存 在 の 可 否を 発 掘 すなわち一つはポンペイ遺跡に八カ所あるとされてきた城門の内、唯 こ の 地 区 を 発 掘 の 対 象 に 取 り 上 げ た 理 由 と し て 以 下 の 二 つ が あ る。 であり、これはある意味では考古学という学問の性質からはむしろ正 らないという制約から、それを大規模に行うことができる場所が城壁 するかに重点が置かれて来たのであった。 統的であるともいえる所為である。その本格的な推進者は、ポンペイ ( いうポンペイにおける考古学のもつ宿命的な制約のため、この種の調 で あ った 。 し か し七九 年の 現状を 出 来る だけ忠実 に保 存すると Maiuri) を確定するために城壁をほぼ全域にわたって発掘した際に、それまで こで詳述することは出来ないが、一九世紀初頭にポンペイ遺跡の範囲 この﹃カプア門﹄という城門の所在に関しては、紙数の関係からこ などに限られているということであった。 査 は 限 定 さ れ ざ るを 得 な い 。 実 際 マ イ ウ ー リ に よ る 下 層 発 掘 調 査 の 主 知 ら れ て い た 唯 一の 城 門 で あ る エ ルコ ラ ー ノ 門 以 外 の 数 ヶ所 に 城 門 が 遺 跡 の 監 督 官を 四 〇 年 近く に 亘 って 務 めた A ・ マ イウ ーリ たる対象は、ポンペイ市街地の中心であるフォロ 公共広場 と城壁で あることが明らかになった過程で見つかったとされてきた城門である。 Amedeo あった。 しかしその後は、遺跡内の発掘に伴い搬出される土砂の処理場として ) か か る ポ ン ペ イ 考 古 学 の 現 状 に 照ら し 、 古 代 学 研 究 所 が 調 査 目 的 の 城 壁 外 部 の 空 間 が 利 用 さ れ た た め に 、 い く つか の 城 門 は 再埋 没 して し ( 一つとして取り上げたのが、ポンペイ都市形成史、すなわちポンペイ イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 93 っており、発掘前に測量及び地下探査を行うことで、この付近の城壁 ていたのであった。この付近において城壁はまったく地表の下に埋ま さ れ て いた が 、 た だ 一 つ こ の ﹃ カ プ ア 門 ﹄ だ け が 未 確 認 の ま ま 残 され の 後 城 壁 の 再 発 掘 が 進 み 、 発 掘 開 始 当 時 ま で に 計 七 カ所 の 城 門 が 確 認 まい、城壁のかなりの部分は地上からは見えなくなってしまった。そ こ の った。 で あ ら か は 明 こ と 塔 を の所在を大凡割りだした上で発掘に着手したのであった。 以下年度別に、この発掘調査の内容を簡単に概観していく。 そ の の 壁 外 側 平成 五年 九月 、古 代学 研究所は 本格 的な発掘 調査 に着 手した。 調査 ︵ 北 第一次調査︵平成五年九月一五日∼一二月二四日︶ 対 象 地 区 は 、 一 九 世 紀 初 期 に そ の 一部 が 発 掘 さ れ た と い う 古 記 録 が あ 壁 ︶ 第一節 る も の の 、 現 況 は 農 地 と な って お り 、 地 表 に は 構 築 物 は 全 く 認 め ら れ っ た に 沿 調査に先立ち、電磁波、電気、地下レーダーの三種の計測器を使っ 部 分 なかった。 た地下探査や測量調査を行い、この城門が位置づけられてきた場所で ある、ポンペイ城壁の最北端部で城壁が方向を変えている地点を推定 し、その付近に発掘地区を設定した︵図1︶ 。発掘の結果、この方向を 変えている地点を含めて城壁の外郭が検出されたが、城門があると想 定 され て い た 場 所 に は そ の 痕 跡 は 無 く 、 ポ ン ペ イ 城 壁 上 の 各 所 に 見 ら れる防御用の塔︵楼櫓︶と思われる構築物の一角が確認された︵図2︶ 。 これはカプア門とともにその存在が想定されてきた第Ⅸ塔であること は 明 ら かで あ っ た 。 こ の 塔 を そ の 外 側 の 壁 ︵ 北 壁 ︶ に 沿 った 部 分 で 、 ポンペイ遺跡全図および発掘調査地区 図1 94 城壁屈曲地点平面図 図2 塔の東に続く城壁は凝灰 口部は認められなかった。 突出する部分の壁にも開 等は無く、東西の城外に る北壁には明り取りの窓 下げた。城壁外側に面す 塔床面のレベルまで掘り 目 ら し い 兆 候 が 確 認 され た の を 受 け 、 発 掘 を 東 に延 長 し た 。 そ の 結 果 先 立 っ て 行 った 地 下 探 査 の 詳 細 な 検 討 の 結 果 、 こ の 部 分 に 城 壁 の 切 れ 凝灰岩の城壁が直線状に続いていくことが確認されたが、発掘調査に き の 発 掘 に よ る も の と同 定 さ れ た 。 城 壁 の 曲 が り 角 か ら 南 東 側 へ は 、 られているが、これらの痕跡のうち最も深くまで届く堀跡が、このと とを目的とした大規模な発掘が、一九世紀の初期に行われたことが知 上記のように、ポンペイ城壁が市街地を囲む範囲を明らかにするこ 第二節 第二次調査︵平成六年九月一日∼一二月三日︶ 切れ目と思われた原因であった。 判明した。地下探査の検出領域を超える深い落ち込みであったことが、 この部分でも城壁上端部が深く落ち込みつつも、連続していることが Opus quadratumと 呼 岩 の 切 石 ︵﹃ 切 石 積 み 工 法﹄ ばれる︶からなるポンペ イ城壁に通常見られる形 態で あったが、塔および 幅一メートルほどの範囲に ていた。また城壁に沿って 呼ばれる建築技法で作られ と Opus incertum モルタルで固めた﹃乱石積 城壁は溶岩の割栗石を天然 あることが判明した。控壁間のスペースには、土砂と共に大量の石材 いずれも外側の城壁を強化するために、土盛りの間に陥入された控壁で るのかどうかが大きな問題であった。発掘の結 果、これらの構築物は しているが、これらの壁の間がそれぞれ独立した居住空間を構成してい ば 、 城 壁 の 背 後 に 積 まれ た 土 盛 り に 鋸 歯 状 に 壁 を 食 い 込 ま せ た 形 状 を る 発 掘 を 行 った 。 塔 の 西 側 に 続 く 乱 石 積 み 構 築 物 は 平 面 的 に 見 る な ら 塔およびその西側の乱石積み構築物を中心に、その全容を明らかにす この結果を受けて平成六年に実施した第二次調査においては、この 過去の発掘による掘跡と思 や 漆 喰 が 塗 ら れ た 建 築 資 材 が 充 填 され て い た 。 そ の 上 層 は 前 記 の 一 九 その西側に続く一角で は、 われるいくつかの痕跡を検 世紀の調査により発掘された撹乱層であった。さらに一九世紀の発掘 み工法﹄ 出した。 ( ) イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 95 19 世紀初期の発掘による堀跡 図3 調査の及んだ範囲を 平面的に把握した ︵ 図 3 ︶。 ま た 発 掘 範囲を塔周辺部に拡 大し、前年度に検出 され た塔の周壁を平 面的に明らかにする と共 に、塔の南壁に 沿った空間を 床面ま で 掘 り下げた。 その 結 果南壁の中央部に、 床面とほぼ同じ高さ に敷居がある出入口 が確認された。この 出入口の高さは約二 メートル、幅は八〇 セ ン チ メ ートルで 、 その 頂部にはアーチ 工法を用いた壁が確 認されたが、アーチ の要石部分は崩落し て いた。 出入口の外 塔南壁内側立面図 図4 96 た塔内南東隅の一角に方形の落ち込みが認められたのでこの部分を発 イ城壁上のその他の塔とは形態を極めて異にすることが判明した。ま た城壁外側の北壁に窓がないということと合わせて、この塔はポンペ れる建築工法とは異なっている︵図4︶ 。前年度の調査で明らかになっ れ る ︶で 構 築 さ れ て い る が 、こ れ は 通 常 ポ ン ペ イ 城 壁 上 の 塔 に用 いら と呼ば Opus mixtum 埋 没 後 再 利 用 さ れ て いた こ と が 判 明 し た 。 塔 の 周 壁 は そ の 四 角 に 煉 瓦 た が 、 そ の 上 に は 後 世 の 活 動 に よ り 人 為 的 に堆 積 し た 層 が 認 めら れ 、 は七九年の火山噴出物である降下軽石︵パミス︶の薄い層が認められ 出 入 口 が 機 能 し て い な か った こ と は 明 ら か で あ った 。 ま た 床 面 直 上 に 側 は 土 砂で 塞 が れ て お り 、 ポ ン ペ イ の 埋 没 した 七 九 年 の 時 点 で は こ の 城壁は確認されなかった。西地区での知見と併せて、当調査により発 切れ目なしに連続していることが明らかになったが、ここでも内側の した発掘調査地区においても、外側では通常の凝灰岩切石積み城壁が 地側を面取りして整形していることも確認された。一方、東側に延伸 ている︵図5︶ 。またこの城壁はその北面ではなく、南面すなわち市街 反 し 、 こ こ で は 数 列 に 積 み 上 げ た 石 積 み の 最 上 部 石 列 に 凝 灰 岩を 用 い と考えられる。しかしこの古拙な城壁は通例石灰岩を壁材とするのに むしろ現在見ることのできる城壁に先行する古拙な城壁の一部である 部 分 が 現 わ れ た 。 そ の 形 態 は 通常 の 切 石 積 み 工 法 と は 異 な っ て お り 、 ︵南側︶の部分を掘り下げたところ、土盛りの中から内壁と思われる 分の 石 積 みが抜 き 取 られて いたこ と がわ か る。 切石 積み 城 壁 の内 側 の部分では深く落ち込んでおり、一九世紀あるいはそれ以前にこの部 積み壁を伴う溶岩を用いた乱石積み︵ ﹃混合工法﹄ 掘したが、これは建築構造の一部ではなく、ローマ時代の掘跡である 掘 され た 城 壁 に は 、 ポ ン ペ イ 城 壁 に 通 常 見 ら れ る よ う な 形 態 の 内 外 二 第三次調査︵平成七年九月一一日∼一一月二四日︶ 結 果 明 ら か に な った こ の 地 区 の 城 壁 構 造 は 、 ポ ン ペ イ 城 壁 に 関 す る 通 重の城壁構造が認められなかった。塔の特異な形態と並んで、発掘の ことがわかった。 第三節 らは、城壁を乗り越える火砕流の動きを明瞭に捉えることができた。 でも城門は検出されなかった。乱石積み構築物の北側で行った発掘か 心に東西八〇メートルに亘って掘り進むことになったが、この範囲内 広い範囲で城壁を掘り進み、城門の検出を試みた。その結果、塔を中 りとなっており、その上には浅い溝状の轍跡が残されていたことから、 出された。また城壁と家屋との間の地面は上部が水平に造成された土盛 南壁︶とは余り距離の離れていないところから市街地内の家屋の壁が検 の七九年当時の形態を調査した。この地区では、予想に反して城壁︵塔 続いて塔の南側、すなわちポンペイ市街地側を発掘し、塔出入口付近 説的理解では解釈できない点が数多く見られた。 塔西側の乱石積み構築物は塔西壁より二〇メートルほど続くが、そこ ポンペイの埋没した七九年当時はこの部分が道路として使われていた 平成七年の第三次調査では、発掘地区を東西に延伸することでより からは城壁は再び切り石積みに形態を変えている。切石積み城壁はこ イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 家屋は計 た南側の った。ま らかにな ことが明 わっていたが、ここには土器片・獣骨等の生活廃棄物と思われる遺物 の で あ る。 家 屋 と 土 盛 り の 間 に は 幅 一 メ ー ト ル ほ ど の 狭 い 空 間 が 横 た 上 げ さ れ て い た 。こ の 嵩 上 げ に よ り 、 塔 南 壁 の 開 口 部 が 塞 が れ て い た 面 と の 間 に は 約 一・ 五 メ ー ト ル ほ ど の 高 低 差 が あ り 、 土 盛 り 部 分 が 嵩 比定される︶の先端部分が確認された︵図6︶ 。その道路面と土盛り上 を 乗 り 越 え て き た 七 九 年 の 噴 火 に よ る 火 砕 流 が ポ ン ペ イ 市 街 に流 れ 込 二 軒 あ り 、 が散乱していた。この部分に設定したトレンチの南北断面には、城壁 家屋と家 屋の間に は市街地 から塔へ と向かう 道路︵ポ ンペイ市 内の﹃マ ルクス ル クレティ = ウス フロ Vicolo ントー小 路﹄ di Marcus Lucretius Frontoに 塔と市街地間の土盛り上に残された轍跡 図6 第 10 トレンチ検出の直立壁北側立面図(上)および平面図(下) 図5 = 97 98 トルほど離れた地点まで押し流されていたことであり、七九年の火山 でいた囲壁の一部と思われるものがこの火砕流により倒壊し、二メー んでいく様子が明瞭に観察できた。特筆されるのは、住宅を取り囲ん 壊した木材が残したと見られる︵図7︶ 。さらに焦土層からは一二∼一 中央部を東西に横切る形で溝状の落ち込みが検出されたが、これは倒 厚さで一面に拡がる焦土層を確認した。またその焦土中から塔のほぼ いた出入口が機能していた時の道路面を確認することであった。その 前 年 度の 第三 次調 査か ら 持ち 越 され た 大 き な 問題 は 、 塔の 南壁 に開 り床面に崩落することでできた跡と推定される。 る。上記の溝跡はその当時の天井を支えていた木製の梁が、火災によ から、恐らくは塔内をこの時代に再利用していた痕跡であると思われ 五世紀にかけて使われていた陶器と見られる土器片も見つかったこと 第四次調査︵平成八年一〇月七日∼一二月一三日︶ 災害のすさまじさを物語っている。 第四節 城門 は言 うまで も 無く 、市 街地 から 続く 道路 が城 壁と 交差 する 部分 に位置する。前年の調査でこの交差地点が検出されたが、この地点に Via dei Gladiatori は城門ではなく塔が存在した。これを受け平成八年の第四次調査では、 この道の一筋東の道路︵ポンペイ市内の﹃剣闘士街﹄ に 比 定 さ れ る ︶ の 延 長上 に 城 門 が 存 在 す る 可 能 性 を 考 え 、 そ の 交 差 地 点 と想 定 さ れ る 場 所 に新 た な ト レ ンチ を 設 けた 。 し か し 発 掘 の 結 果 、 こ の 区 域 に お い て も 、 凝 灰 岩 の 切 石 積 み 城 壁 が 直 線 状 に 切れ 目 無 く 続 いて お り 、 城 門 は 検 出さ れ な か っ た 。 また こ の ト レ ンチ か ら 東 側 、 す な わ ち ノ ー ラ 門 方向 へ は 、二 重 に な っ た ポ ン ペ イ城 壁 の 内 壁 が 現 地 表 面上に確認できるが、このトレンチより西側では地表から見えなくな っている。そこで内壁が地表から姿を隠す地点を掘り下げたところ、 ここで壁が完全に途切れていることが確認された。上記のように第Ⅸ 塔 周辺 の 城 壁 に おいて はこ の タ イ プ の 内 壁 が 確 認 さ れ な か っ た が 、 そ のことに繋がる大きな所見であるといえよう。この調査と並んで第Ⅸ 塔 の 建 築 構 造を 解 明 す る た め に 塔 内 に 残 さ れ た 堆 積 土 を 完 全 に 除 去 し 、 床 面 ま で 掘 り 下 げ た 。こ こ で は 塔 床 面 直 上 に 約 〇 ・ 五 ∼ 一 メ ー ト ル の 塔内に残された塔再利用の痕跡 図7 イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 99 と続く道路付近の二箇所において断割り調査を行った。その結果、七 表 面 を 検 出 す る 必 要 が あ った 。 そ こ で 出 入 口 付 近 お よび 南 の 市 街 地 へ ためにはこの出入口を塞いだ土盛りを断割り、出入口と対応する旧地 メートルにわたる発掘調査の範囲内で、少なくともポンペイの埋没し 果この部分においても城壁が連続していることが判明し、東西一二〇 掘区を発掘し、そこに城門の痕跡が無いかどうかを調査した。その結 た 一 番 東 側 の 第 一二 ト レ ン チ と 、 既 に 発 掘 され て い た 地 区 と の 間 の 未 こ の 調 査 に は 、 カ プ ア 門 の 所 在 の 確 認 と い うこ と 以 外 に ポ ン ペ イ 城 九 年 当 時 の 地 表 面 下 約二 ・ 八 メ ー ト ル の 地 点 か ら 上 面 が 緩 い カ ー ブ を が、発掘面積が限られていたため、遺構の性格の特定は次年度に持ち 壁 の 建 設 の 過 程 を 解 明 す る と い う も う 一 つ の 目 的 が あ っ た 。 その た め た 七 九 年 当 時 に は 、 城 壁 上 に 城門 が 存 在 し な いこ と が 最 終 的 に確 認 さ 越された。この断割り調査からは土器片、獣魚骨、建築資材等の夥し に は ポ ン ペ イ の 埋 没 した 七 九 年 以 前 の 土 層 の 断 割 り が 必 要 と な る が 、 描 く モ ル タ ル が 塗 ら れ た 硬 化 面 が 検 出 さ れ た 。 形 状 お よ び 出 土レ ベ ル い遺物が出土したが、これらはローマ時代の廃棄物と見られる。当時 それは第四次までの調査では十分に行うことができなかった。第五次 れたのである︵図8︶。 の 生 活 の 様 相を 知 る 貴 重 な 手 が か り と な る こ の 層 を 細 心 に 精 査 す る た 調査では、この城壁建設過程の解明のため、 の深さから出入口と関連する道路面であると考えるのは困難であった め に 、 排 土 を 層 毎 に 五ミ リ メ ッ シ ュ の 篩 に か け 、 微 細 な 魚 骨 や 種 子 の ︵ 三 ︶ 塔 の 西 側 に 続 く 城 壁 の 建 築 形 態 が 乱 石 積 みか ら 切 石 積 み に 変 わ ︵二︶塔の東側に続く城壁が方向を転じ折れ曲がる地点 ︵一︶塔の床面および出入口付近の塔外側の地点 第五次調査 類をサンプリング調査した。 第五節 には発掘現場を埋め戻し考古監督局に返還して欲しいとの要請があり、 区も含めて城壁沿いに遊歩道を敷設し遺跡整備をするので、一〇年春 遺 跡を 所 管 す る ポ ン ペ イ 考 古 監 督 局 よ り 、 古 代 学 研 究 所 が 発 掘 中 の 地 間的にも規模的にも最大の調査となった。調査開始に先立ちポンペイ 平 成 九 年 秋か ら 翌 一 〇 年の 冬 に か け て 実 施 さ れ た 第 五 次 調 査 は 、 期 塔東壁に沿って北壁に突き当たる。一方塔から南へはポンペイ市街地 の暗渠は塔の南壁東寄りの部分で塔南壁を突き抜け、塔内の床面下を ルタルで留めた壁体で造られた暗渠の上面であることが判明した。こ いたが、この断割り調査の結果、これは地下に埋設された小石材をモ 塔 出 入 口 付 近か ら 南 の 市 街 地 に向 か って 続 く 硬 化 面 が 一 部 確 認 さ れ て の三箇所において、七九年の下層を調査した。塔外側では既に前年に る地点 そ れ に 応じ 調 査 洩 れ が な い よ う に 発 掘 調 査 内 容 を 慎 重に 吟味 し 、 調 査 へ と向 う マル ク ス ル クレ テ ィ ウ ス フ ロ ン ト ー 通 り の 道 路 下 へ と 続 い ︵平成九年一〇月六日∼平成一〇年一月三〇日︶ 計画を立案したためであった。第五次調査では、第四次調査で発掘し = = 100 て い る 。 北 壁 を 突き 抜 け 城 壁 の 外 側 に 続 い て い く か ど う か は 、 塔 北 側 の一帯が未発掘のため不明であるが、暗渠の破れ目より小型カメラを 入れ、中をのぞいてみたところ、暗渠の天井部分近くまで土砂に埋ま っ て い た 。 こ の 天 井 部 分 に は 、 板 を 当 て つ つ モ ル タ ル を 整 形 した よ う な 跡 が 確 認 さ れ た 。 ま た 塔 内 の 床 面 下 で 行 った 発 掘 の 結 果 、 塔 の 現 床 面の下に旧床面らしき痕跡が認められた︵図9︶ 。さらに南壁および東 壁に沿って塔周壁より幅が薄い︵厚さ約七〇センチメートル︶壁が現 床面下に埋もれていることが判明した。塔壁との間は幅が約九〇セン チ メ ー ト ル 程 の 空 間 を 形 成 し て お り 、 南 お よび 東 壁 沿 い に 設 置 さ れ た 通路を仕切っていた壁である可能性が高い。もしそうであるならばこ れ は ポ ン ペ イ城 壁上 の 他 の 塔 と同 じ 建 築 構 造 、 す な わ ち 塔 の 天 井 付 近 から階段で一階床面に達し、さらにその階段下に設置された南壁およ び東壁沿いの通路によりさらにもう一つ下の階に下りていくという建 築構造をもっていたことになる。前記の旧床面の検出と並んで、この 塔が少なくとも一度大幅に改築されたことを示唆する証拠であるとい え よ う 。 塔 西 、 南 、 東 壁 沿 い に 数 箇 所 で 断 割 り を 入 れ た が 、 いず れ も 海抜三三・五メートル付近で不整形な接合面が見られるので、この面 より上の部分が建て替えられたと見られる。 ( 塔以外に、西側の乱石積み構築物が切石積み城壁に変化する地点 第 ) ( 一 〇 ト レ ンチ 、 お よ び 塔 東 側 で 城 壁 が向き を 変 え る地 点 付 近 第二 ト ) 、図 ) 。 い ず れ の 地 点 に お いて も 現 行 の 切 石 積 み 11 レンチ の計二箇所で更に断割りを行い、城壁建設の過程を解明する調 査 を 行 った 図 10 発掘調査地区全体図(第5次調査終了時) 図8 ( イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 塔南壁および南壁平行仕切壁間の土層断面図 城壁の下層に、それに先行すると見られる古拙な 城壁が残存していた。両方の発掘区域から、最古 の段階としてパッパモンテ ( ) Pappamonteと呼ば れる軟質の凝灰岩で造られた城壁が確認された。 これ はポンペイ都市形成の第一段階と想定され る 時代に用いられた石材であり、この石材で造られ た城壁の存在はポンペイ城壁南部では周知されて いたが、城壁北部で石列としては初めて確認され たのである。とりわけ第二トレンチでは、この城 壁上にエトルスキ時代の遺物であるブッケロ すると見られる切石積み城壁︵イタリアでは一般 過程で第一〇トレンチから検出されたこの期に属 とははっきりと区別される。しかし第四次調査の 法や構築方法の違いにより、現行の切石積み城壁 岩の切石積み工法による城壁であるが、石材の寸 またこのパッパモンテ城壁に続く段階は、石灰 であった。 当︶との共伴によりそれが直接的に実証されたの 年 代 が 特定でき る遺 物︵ 前 六 世 紀 第三 四 半 期 相 城壁とエトルスキ人との関連が主張されてきたが、 き知見であった。この調査以前にもパッパモンテ Bucchero陶 器 が 共 伴 し て い た こ と は 特 筆 す べ ) 図9 ( 101 た 内 側 の 城 壁 石 積 み は 認 めら れ ず 、 第 一 〇 ト レ ン チ 付 近で は こ の 旧 式 ポンペイ城壁の基本構造ともいえる二重の壁のうち、通常の形態をし 第 10 トレンチ断割り調査断面図 と呼ばれる︶は、前述のようにその上部 Muro di ortostato に﹃直立壁﹄ に こ の 期 の 建 造 物 に は 未 だ 使 わ れ て い な か った 石 材 で あ る 凝 灰 岩 を 使 一方、第二トレンチで行った断割り調査からも、この時期の石灰岩 の城壁が内壁の代用として使われ続けていたと考えられる。 可能性が高い。既に繰り返し強調してきたように、この発掘地区では 用しており、現行の城壁が建設されたときにも引き続き機能していた 図 10 102 イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 第2トレンチ断割り調査断面図 直 立 城 壁 の 一 部 と 見 ら れ る 構 築 物 が 検 出 さ れ た 。 こ の 地 点で は 城 壁 は 基礎壁から二石程度を残して、その上は殆ど抜き取られていたが、こ ︶。通常この城壁も内外の二重壁で構成されて おり、こ の城壁の南に積まれた土層上に、石材抜き取りの跡がはっきりと認め られた︵図 と呼ばれる土盛りを伴わないとされてきた。第二、第一 Agger は、ポンペイ遺跡の他の地点と大きく異なることはない。すなわち最 うに内壁を欠くことを除けば、当発掘地区のこの段階の城壁について 形 成 す る 石 灰 岩 お よ び 凝 灰 岩 か ら な る 切 石 積 み 城 壁 で あ る。 上 記 の よ この石灰岩直立城壁に続く段階は、現行のポンペイ城壁の大部分を りで城壁を補強する必要があったのではないかと考えられる。 礎 部 分 の 侵 食 に よ り 石 積 み 全 体 が 不 安 定 な 状 態 に置 か れ た 場 合 、 土 盛 か 持 た な か っ た こ と が 挙 げ ら れ よ う 。 こ の よ う な 基 礎で は 雨 に よ る 基 らな薄い基礎石を地中に埋め込んで作っただけの極めて脆弱な造りし 理由としてこの直立城壁の基礎が地中深くに掘り込まれておらず、平 り が な か っ た と す る 通 説 と は 異 な る 所 見で あ る 。 土 盛 り が 構 築 さ れ た 壁 建 設 後 そ の廃 用 ま で の 期 間 に 土 盛り が 構 築さ れ た こ と に な り 、 土 盛 盛りにこの石材の抜き取りの跡が見られるということは、この旧式城 の 面 は 地 表 に 露 出 して い た と 見 ら れ る 。 し か し 直 立 城 壁 を 被 覆 す る 土 地側から見える面が整形されており、このことから建築当初はこちら 〇トレンチでの断割り調査の結果、いずれの地点でもこの城壁は市街 ッゲル 石 積 み 城 壁 と 異 なり 、内 側の 壁の 背 後 す なわ ち 市 内 側 に ラ テ ン 語で ア こで検出されたのは内壁の方であるが、この期の城壁は後の段階の切 11 ) 図 11 ( 103 104 ︶。また先行する直立城壁とは異なり、この城 背 後 に 積 ま れ た 土 層 は 全 体 的 に よ り 均 質で あ り 、 短 期 間 で の 工 事 の 可 行った断割り調査から、凝灰岩積み増しに対応する段階において城壁 が行われるという順序は遵守されている。第二トレンチ外壁の背後で 初に石灰岩が石材として使われ、次に凝灰岩によりその上に積み増し 築物も、塔西壁との接合部が一体的に整形されていることから、同時 う 混 合 工 法 に よ る 壁 体 の 編 年 か ら 推 定 で き る。 西 側 に 続 く 乱 石 積 み 構 ば頃であることが、塔床面下の発掘から出土した遺物および煉瓦を伴 えていると見られるので、現在の形状となったのは紀元前一世紀の半 述 の よ う に 、塔 は そ の外 壁の か な り の 部 分 を 少 なく とも 一 回 は 建て 替 能 性を 伺わ せ る ︵ 図 石灰岩とその上に積み増しされた凝灰岩の切石積み城壁には相当の時 列 ︵ 高 さ 約 一・ 六 メ ー ト ル ︶ しか 地 表 に 現 れ て い な か っ た 。 通 説 で は な基礎が構築されている。従って第二トレンチでは石灰岩の城壁は4 一 般 公 開 さ れ る こ と に な っ た ので 、 落 差 の あ る 現 地 表 面 と 遺 構 面 と の 区を残して埋め戻されるに至った。しかし埋め戻されなかった部分は 壁 沿 い 一帯 の整 備事 業 の た め 、発 掘 さ れ た 遺 構 は 、 塔 と その 周り の 地 第 五 次発 掘 調 査 は 平 成 一 〇 年 一 月 に 終 了 し た が 、 上 記 の ポ ン ペ イ 城 期のものであったと考えられる。 期 差︵ 百 年 以 上 ︶ が あ る と さ れ て い る が 、 こ の よ う な 高 さ し か 持 た な 間にひな壇を造成して土壁の崩落が起こらない様に安全対策を講じる と共に、塔の周壁および出入口付近の壁の補強修復工事を調査終了後 に行った。 第六節 第六次調査 層 序 と りわ け 火 砕 流 の 堆 積 の 様 子 か ら 、 既 に 七 九 年 の 噴 火 当 時 に は 石 ︵平成一〇年一〇月二七日∼一二月一七日︶ こ の よ う に 発 掘 地 区 は 大 半 が 埋 め戻 され る に 至 っ た が 、 調 査 自 体 は れたことである。一般的にはこの改築は同盟市戦争︵前九一年∼八七 が、乱石積み工法を用いて塔およびその西側に続く構築物へと改築さ こ の 発 掘 地 区 に お け る 城 壁 の 最 終 的 な変 化は 、切 石 積 み城 壁の 一部 と市街地との間の空間の利用形態の変遷を解明することであった。幸 ることで第二トレンチの断割りでは十分明らかにならなかった、城壁 に東に続いていくかどうかを確認し、さらにこの地区の下層を発掘す 度調査において城壁後背地で検出された轍の痕跡を残した道が、さら ま だ い く つ か の 解 明 す べ き 課 題 を 抱 え て い た 。 その 一 つ は 、 平 成 七 年 年︶に備えての城壁の強化・改修の結果であるといわれる。しかし前 史料からも伺える。 時にはこの部分が相当深く落ち込んでいることが、当時描かれた地図 材 が抜 き 取 られ て い た 可 能 性 が あ る が 、 い ずれ にせ よ 一 九世 紀 の 発 掘 七九年当時の地表面近くまでほとんど抜き去られていた。城壁周辺の 第一 〇ト レ ン チ に おいて は 、前 述の よう に切 石積 み城 壁の 石 材 は、 うかは疑問である。 い石灰岩切石積み城壁が、百年以上城壁として十分機能していたかど 壁 で は 石 灰 岩の 切 石 五列 ︵ 高 さ 約 二 メ ー ト ル ︶ を 地 中 に 埋 め 込 み 頑 丈 11 イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 105 薄い降下軽石層を取 未掘 のままで あった 掘 調 査を実施 した。 成一〇年に第六次発 拡張区と命名し、平 第七/八トレンチ東 で 、こ の調査地区を 地が残されて いたの 調査を行うだけの余 た 地 区 に はこ の 発 掘 い埋 め戻され なか っ が 検 出 され た ︵ 図 西端で塔南壁後背地の暗渠が敷設された区域へと向って落ち込む堀跡 的な証拠であるといえよう。その下層を更に掘り下げると、調査区の の可能性を指摘していた、第Ⅸ塔の建て替えということに関する決定 崩 落 して 、 こ の 地 点 に 放 置 さ れ て いた と 考 え ら れ る 。 第 五 次 調 査 で そ な い。 こ れ ら の こ と か ら 、 塔 の 建 て 替 え 以 前 の 古 い 段 階 の 壁 の 一 部 が 飾 に 酷 似 す る。 しか し 調 査 区 で 検 出 し た 塔 に は こ の 装 飾 が 施 され て い ま たこ の 装 飾 は 、 調 査 区 の 東 に 隣 接 す る 第 Ⅷ 塔 外 壁 表 面 に 描 か れ た 装 らかにポンペイ壁画編年でいうところの第一様式に属する装飾である。 明 ら か で あ った 。 壁 の 表 面 は 漆 喰 で 装 飾 が 施 さ れ て い た が 、 こ れ は 明 盛り上に浮いており、崩落した後、この地点に放置されていたことが ルの乱石積み工法で造られた壁体が出土した。この壁は城壁背後の土 ︶。この層を覆う土層には土器片や獣骨など、暗 り除くと、七九年当 この層を除去しさら されて いなか った。 は異なり轍は殆ど残 の塔南壁後背地区と た が 、 そこ に は 西 側 時の地表面が現われ 土している。この壁の上からは犬の骨が検出された。 造構築物が、第五次調査の過程で第一〇トレンチの城壁後背地から出 目 的 に 作ら れ た も の と 見 ら れ る。 こ れ と 同 じ 機 能 を 持 つ と 思 わ れ る 石 斜しつつ造成される土盛り構築の過程で、土の崩落を防止することを こ れ は 極 め て 粗 雑 な 乱 石 積 み 工 法で 作 ら れ て お り 、 市 街 地 に 向 って 傾 ま た そ の 東 側 に おいて は トレ ンチ 南 壁 沿 い に石 造 構 築 物 が 出 土 し た 。 渠 埋 設 時 に 土 砂 と 共 に 投 棄 さ れ た と 見 ら れ る遺 物 が 大 量 に 出 土 し た 。 次いでこ の 調 査地 区 に おけ る、 城壁 後背 地の 最も 古 い 建設 段階を 解 明 す る た め の 断 割 り 調 査 を 行 った ︵ 図 ︶。調査の結果、以下のよう 区中央北よりの地点 な特筆すべき所見が得られた。一つは、城壁背後に構築された石灰岩 った とこ ろ 、調査地 に下 層面の発掘を行 12 から 、幅約一メート 11 第 7/8 トレンチ東拡張区平面図(左)および断面図(右) 図 12 106 の掘り込み にピット状 との境界面 れた土盛り 階に造成さ り新しい段 積まれたよ その上部に う土盛りと、 直立壁に伴 直立壁の基礎の脆弱さに求めることができる。すなわち降雨による基 で あ る と 推 測 さ れ る 。こ の 溝 が 掘 ら れ た 理 由 は 、 上 記 の よ う に 石 灰 岩 なして堆積していたので、恐らくは雨水を処理するために掘られた溝 よ り 更 に下 方 に 掘 り 込ま れ て おり 、 溝 の 中 に は 細 か い砂 の 粒 子 が 層を 掘 ら れ た と 見 ら れ る 溝 が 検 出 され た 。 石 灰 岩 直 立 壁 の 基 礎 部 分の 高 さ う 。 ま たこ の 断 割 り の 最 下 部 で は 、 城 壁 の 走 行 方 向 と 平 行 し て 東 西 に 解釈されるので、遺物の年代決定が今後の重要な課題であるといえよ る。従ってこれらの遺物が示す年代は、現行の城壁構築年代の上限と ル︶が構築される以前に、このピットに投げ入れられていたことにな て いた ならば、こ の 一群の遺 物は現 行の城 壁 に 伴う土盛り︵ アッ ゲ 第 六 次 調 査 の 最 後 に 第 七 / 八 ト レ ン チ 内 の 塔 南 出 入口 部 分 の 発 掘 を 礎部分の浸食という事態に対して、基礎部分より更に低い場所に雨水 土器その他 行った。既に前年の調査において、塔南壁の東半分では地山まで下層 があり、そ の遺物が出 を 調 査 した が 、 塔 出 入 口 が 機 能 し て い た と き に 塔 外 部 に 作 ら れ た 道 路 を 強 制 的 に 排 水 す る た め の 溝 を 設 け 、 浸 食 を 防 ぐ工 夫 が なさ れ た と 考 土したこと 面は暗渠の敷設/埋設に伴って破壊されていたので、この調査からは こからまと である。前 明 ら か に は な ら な か った 。 そ こ で こ の 道 路 の 痕 跡 を 探 る た め に 発 掘 調 えられるのである。 述のように 査 地 区 を 西 に 拡 張 し 、 塔 出 入 口 付 近 に 長さ 二 メ ー ト ル 、 幅 二 メ ー ト ル まった数の 石灰岩直立 でトレンチを設定して断割り調査を行った。 区 の 基 本層 序 は 以下 の よ う に 整 理で き た ︵ 図 ︶。まず七九年当時の 前回の調査と合わせて、塔南壁出入り口と市街地の間に横たわる地 壁の時代に 既に土盛り が構築され 13 図 13 第 7/8 トレンチ西断割り調査区断面図 イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 107 これらの層を除去して、塔出入口の敷居とほぼ同じレベルまで掘り て合理的であるからである。 れ て い た こ と は 明 ら かで あ る 。 そ の 下 約 三 〇 セ ン チ メ ー ト ル の と こ ろ 下げると、そこから漆喰が多く含まれる白色のやや密に締まった面が 地 面 に は 上 述 の よ う に 車 輪 が 残 し た 轍 の 跡 が あ り 、 道 路 と して 使 用 さ にもう一面硬化面があり、やはり表面に溝状の落ち込みが数多く確認 現われ た︵ 図 ︶。これは出入口から塔外へ出入りがあったときの生 されることから、この面もかつては生活面で車両が往来していたと見 ら れ る 。 更 に三 〇セ ンチ メ ー ト ル 下 に 第 二 の 硬 化 面 が 現 わ れ た 。 その 表面にも溝状の窪みが見られ、これも車両往来の跡と推測されるもの で あ る 。 し か し こ の 第 二 硬 化 面 は 、 第 七 / 八 ト レ ン チ 内 で 行 った 一 連 の 下 層 発 掘 調 査 の 結 果 と 照合 す る な ら ば 、 調 査 地 区 全 面 に は 拡 が ら ず 、 一 時 的 な 使 用 に よ り こ の 部 分 に の み 形 成 さ れ た も の と 考 え ら れ る 。こ の 層 よ り 下 に は 暗 渠 埋 設 に よ る掘 跡 と 目 さ れ る 斜 面 の 上 に 斜 め に 堆 積 する地層が確認されることから、あるいはこの暗渠埋設の際の工事に 伴うものである可能性もある。その下に斜めに堆積する層は上部に行 くにつれて傾斜が緩やかになり、第二硬化面の直下においてほぼ水平 になる。暗渠埋設に当たって傾斜した地形を均しつつ、次第に水平化 し て い く 過 程 が 読 み 取れ る 。 こ こ で 検 出 さ れ た 暗 渠 へ 向 か っ て 斜 め に 傾 斜 す る 掘 跡 は 、 第 七 / 八 ト レ ン チ 東 拡 張 区で 検 出 さ れ た 掘 跡 と 対 応 す る も の と 見 ら れ る が 、 東 拡 張区 の 掘 跡 は 暗 渠 の 敷 設 に よ る も の と い 第 7/8 トレンチ西断割り調査区平面図 図 14 うよりも、塔が建て替えられた時、新たな出入口を当時の市街地生活 面 と 対 応 す る 低 い 場 所 に 設 置 した た め に 、 塔 と 市 街 地 と の 間 に 積 ま れ ていた城壁背後の土盛りを除去したときにできたものであるとも考え ら れ る 。 暗 渠 自 体 は 出 入 口 部 付 近 に 既 に 広 く 開 口 し て い た 空 間を 利 用 し 、 そ れ を 更 に 掘 り 込 ん で 構 築 さ れ た と 考 え る の が 、 工 事 手 順か ら 見 14 108 骨 格 が 検 出 され た 。 骨 の 周 り の 掘 跡 か ら 見 て 、 意 図 的 に 埋 葬 され た と 落ち込んでいるが、その落ち込みの中から頭部を南に向けた犬の全身 る 。こ の 白 色 の 漆 喰 面 の 西 北 部 、 塔 南 壁 沿 い の 一 角 は 漆 喰 面 か ら 更 に い に 車 両 が 往 来 す る よ う な 道 路 は 、 未 だ 存 在 し て い な か った と 思 わ れ て いた 時 代 に は 、 後 の 時 代 の よ う に 城 壁 背 後の 空 間 を 利 用 して 城 壁 沿 壁 背 後 の 土 盛り 上 面 と は か な り の 落 差 が あ るの で 、 出 入 り口 が 機 能 し 面 上で の 往 来 は あ ま り 見 ら れ な か った よ う で あ る 。 こ の 面 と 東 西 の 城 活 面 と 思わ れ る が 、 道 路 と 考 え る に は 余 り に も 脆 弱 で あ る た め 、 こ の あるはずであると仮定し、その道路の痕跡を追及することにした。 であったので、城門があるならばそれを通って市外に通じる街路が 部 分 の 発 掘 調 査 か ら は 、こ の 改 築 が 実 際 行 わ れ た か ど う か は 不 明 れ て い る の で 、 こ の 仮 定 に は 一 定 の 根 拠 が あ っ た 。 しか し 、 城 壁 門 間 の 距 離 と し て は ポ ン ペ イ 城 壁 の 他 の 部 分 に 例を 見 な い ほ ど 離 所 在 す る ヴ ェ ス ヴ ィ オ 門 と 東 に あ るノ ー ラ 門 と の 間 の 距 離 は 、 城 物が建てられたということが考えられた。実際調査地区の西側に 存在していたが、ある時期に城門は廃絶され、そこに新たな構築 考えられるが、その目的は不明である。 上記︵三︶に述べる改築が行われた可能性がある箇所として、これ て こ の 構 築 物の 前 面 に 調 査 地 区 を 設 定 し 、 上 記 の 道 路 の 痕 跡 を 追 及 す ま で の 調 査 で 既 に 検 出 さ れ て いた 、 城 壁 上 に紀 元 前 一世 紀 初 頭 に 付 加 補足発掘調査 上述のように古代学研究所は、平成五年以来六年間に亘り、﹃カプア る こ と と し た 。 城 壁 直 下 の 部 分 は しか し 、 伐 採 を 許 可 さ れ な い 二 本 の 第七節 門 ﹄ と 呼 ば れ る 城 門 が 実 際 に 存 在 した か ど う か を 確 認 す る た め の 発 掘 松 の 木 の 他 、 ポ ン ペ イ 遺 跡 の 火 災 に 対 処 す る た め の 非常 用 水 の 水 道 管 さ れ た と 見 られ る 塔 お よ び そ の 西 側 に 続く 構 築 物 が 考 え られ た 。 従 っ 調査を行ってきたが、第六次調査終了時点で、以下のことが結論とし 等があり、発掘が不可能であったので、ポンペイ遺跡を囲う防護柵の ︵平成一四年九月二三日∼同一五年二月一四日まで︶ て得られていた。 外側に発掘地区を設置し発掘調査を始めた。この地区の現況は農地で した。ポンペイの埋没した七九年の地表面に達するまでの深さ これまでの調査で用いていたグリッドの基準ラインに整合させて設定 調 査 ト レ ン チ の 設 定 の た め 現 地 形 の 測 量 を 行 った 上 で 、 ト レ ン チ を ができた。 あったが、ポンペイ考古監督局の理解により発掘調査を実現すること ︵ 一︶ 一九 世紀 以 来 あ る と いわ れ て き た 場 所 に は 、 少な く と も ポ ン ペ イの埋没した七九年当時には城門は存在しなかった。 ︵ 二 ︶ 一 九 世 紀 の 史 料 に は 記 載 さ れ て い な い 場 所 に あ る 可能 性を 考 え て 調 査 区 を 東 西 に 拡 げ 、 最 終 的 に 一二 〇 メ ー ト ル の 範 囲 に わ た っ て掘り進んだが、城門は確認されなかった。 ︵三︶残された可能性としては、城壁上のこの付近にかつては城門が イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 109 補足発掘調査地区全体図 図 15 が相当あることが予想されたので、安全対策のため途中に適当 な段差をつけつつ掘り進むことが必要であった。従って七九年 の地表面に到達したときに調査面積が縮小することを予め想定 した上で、現地表面では調査面積をやや広く取り、グリッド基 準軸上の東西二八メートル、南北一一メートルに発掘調査範囲 ︶。 を設定した。この新たなトレンチは第一四トレンチと命名され た︵図 ち城壁の方向へ向かっての顕著な地形の傾斜が確認された︵図 れた火砕流層の最上部では、トレンチ全体で北から南、すなわ 表土層ではあまり明らかではなかったが、表土を除去し現わ 形成されていた。 その上部は広義の火砕流層、下部は降下軽石︵パミス︶層から 掘削機械の使用が許可された。この層は大別して二層に分かれ、 もあり、これもポンペイ考古監督局の特別の配慮を得て、小型 発掘は通常は人力での除去となるが、全体的な調査期間の問題 続いて七九年の火山噴火堆積物層の発掘を行った。この層の トルの深さまで掘り下げようやく火砕流の面に到達した。 想定していたが、予期した以上に表土が深く、平均二・五メー は七九年の層に至るまでの堆積の深さを一・五メートル程度と ては、一部機械力を使った掘削を行うことができた。調査以前 許可を得て七九年の火山噴火堆積物層に至るまでの地層につい 発掘調査を一〇月七日に開始したが、ポンペイ考古監督局の 15 110 ︶。 こ の 傾 斜 方 向 は 現 地 表 面 に お け る 地 形 と は 正 反対で あ り 、こ のこ と か ら 七 九 年 当 時 の 地 面 が 城 壁 に 向か って 落ち 込 んで い るこ とが 予想 され た。 事 実 火 砕流 層 の 下 面 で あ る 降下 軽石層は 、トレンチ 東北角部において最も浅いところから現わ れた。この東北角部における火砕流層の厚 さは約一・八メートルであったが、トレン チ東壁の反対側すなわち東南角においてそ れは四メートル以上に達した。その結果、 この東南角における降下軽石層までの深さ 、図 ︶。 は、地表から七・五メ ートルを 測るに至 った︵図 17 さ れ た 。 一 体 は 男で 両足 首に 奴 隷 の 標 章 火砕流の最下層面から二体の人骨が検出 ト レ ン チ 東 壁 南 端 部 分 の 発 掘 過 程で 、 個の石膏型を作成した。 た ので 、空 洞の 中 に 石 膏 を流 し 込 み 計 二 ぎ倒 され た樹木の 痕跡で あると想 定され され た が 、これ は 七 九 年の噴 火の 際 に 薙 こ の 火砕流 中か ら は空 洞が 数多 く 検 出 16 で ある鉄製の足輪、および右上腕部に青 第 14 トレンチ東壁土層断面図 図 16 16 も う 一 体 は 女 性で 身 長は 約 一 五 五 セ ン チ メ ート ル 、 左 手 指 に 鉄 製 の 指 銅製の腕輪をつけており、身長は約一七〇センチメートルであった。 この人骨の検出に関してはイタリアおよび日本においても新聞等で報 遺 骸 の 方 は 石 膏 型 上 に 、 ベ ル ト お よび 衣 服 の 襞 等 が 明 瞭 観 察 で き た 。 空洞部を清掃しそこに石膏を流し込んで型取りを行った。特に女性の 第 14 トレンチ南壁土層断面図 人骨 の取 り上 げと 相前 後して 、 トレ ンチ 東北 角で 検出され た降 下 軽 輪を嵌め、青銅製バックル留めのベルトを装着していた。残念ながら る砂礫が流れ込んでおり、良好な状態で石膏型を取ることが不可能と 石 層 を 掘 り 下 げ 、 七 九 年 の 地 表 面 に 達 す る こ と を 試 みた が 、 そ の 一角 道された。 判断されたので、ポンペイ考古監督局の助言により空洞を上下に半切 で七九年当時の廃棄物が混在した土層を一部検出できたにとどまり、 人 骨 周 辺 に 残 さ れ た 火 砕 流 が 洞 と な っ た 空 洞 部 に は 、 火 砕 流 に 含 まれ し、現況にできるだけ忠実な形状を保持したまま人骨を取り上げた後、 図 17 イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 111 112 現状のまま発掘を続け七九年の地表面をトレンチ全域で検出すること レンチの深さは現地表面から十メートルを超えることになったので、 九年の地表面が、深く落ち込んでいることが判明した。この時点でト そ の 部 分か ら ト レ ン チ 南 側 に か け て は 、 垂 直 に 近 い よ う な 急 角 度 で 七 ︵図 部で 一三条の南北方向 に伸び る畠の 畝と思われ る地表面が 出土した ル 程掘 り 下 げ る こ と で 七 九 年 当 時 の 地 表 面 に 到 達 し た 。 地 表 面 に は 全 の下にある降下軽石層も二・五メートル程度であり、総計約五メート 一 ・ 二 メ ー ト ル お よ び 一 ・ 三 メ ー ト ル 程 度 で あ った 。 ま たこ れ ら の 層 ︶。畝の南端部では畝間の溝が閉じられていたが、これはこの は 安 全 性 の 面 か ら 不 可 能 で あ る と 判 断 され る に 至 り 、 別 の 観 点 か ら 発 植えられていた作物の種類が特定できる可能性があり、発掘の過程で 溝 に 湛 水 す るた め の 工 夫 で あ る と 考 え ら れ る。 こ の こ と か ら こ の 畠 に 前述のようにトレンチ北壁から南へ向かっては地形の著しい傾斜が ︶。 されているので、これらのことからこの溝状の落ち込みも城壁とほぼ チ の 東 北 角 で 検 出 さ れ た の と 同 じ よ う な 、 廃 棄 物の 堆 積 に よ り 形 成 さ この畝の南端部すなわち溝状の落ち込み土肩部では、第一四トレン 定する研究を現在進めている︵図 サ ン プ リ ン グ し た 土 壌 の 分 析 デ ー タ と 照 ら し合 わ せ て 、 こ の 作 物 を 特 ︶。本トレンチの東西軸は城壁とほぼ平行になるように設定 平行に横たわっていると考えられた。また北壁東端の部分で七九年当 最後にこの溝状の落ち込みが自然地形なのか、人工の掘割であるの れ た と 見 ら れ る 脆 弱 な 土 層 が 認 め ら れ た 。 こ の 土 層 も 南 側 に 向 って 切 こ の 土 肩 部 お よ び そ の 北 に 広 が る と 思 わ れ る 平 坦 部 分を 調 査 す る こ と か を 検 討 す る た め に 、 畠 の 畝 の 一 部 断 割 り を 行 った 。 そ の 結 果 畝 の 下 時の地表面が確認されたということ、および北壁沿いの表土や火砕流 に し た 。 し か し 一 方 で 発 掘 期 間 お よび 費 用 の 面 か ら で き る だ け 効 率 的 層面の層序は以下のように整理された。 り立った崖のような形状で溝底へと落ち込んでおり、七九年当時は恐 な掘り方をする必要があったので、既に降下軽石層をある程度除去し ︵一︶ローマ時代の耕作土層群 の 堆 積 は ト レ ン チ の 南 側 に 比 べて 薄 く な っ て い る と い う こ と は 、 ト レ ていたトレンチの東側幅一〇メートルの範囲は除外して、トレンチ西 ︵二︶先ローマ期の積み土 ら く 土 肩 に沿って 植 え られて いた 植 物︵ そ の 痕 跡が 明瞭 に 認 めら れ 側で東西幅一八メートルの範囲で北側への拡大を行い、この部分を一 しない層 ︵ 三 ︶ 地 山 と 思 わ れ る 溶 岩 お よび そ の 風 化 し た 層 か ら な る 遺 物を 包 含 こ の拡 張部分においては表土、火砕流とも堆 積は薄く 、それぞれ 四トレンチ北拡張区と命名した。 ンチ北壁からさほど離れていない箇所にこの溝状の落ち込みが始まる 19 た︶により、土砂の崩落を防いでいたと思われる。 た︵図 認 めら れ た が 、 東 西 方 向 に は こ の よ う な著 し い 傾 斜 は 認 めら れ な か っ 掘の継続を検討することにした。 18 土肩部分があることを示唆していた。そこでトレンチを北側に拡大し、 17 イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 113 このうち最下層 の溶岩性地層は 北から南にかけ て傾斜しており、 断割り調査を行 った区域の南端、 すなわち最も低 くなった部分に おいて、二段に なった明瞭な掘 り跡が検出でき た。これは明ら かに人工的な掘 り方であると判 第 14 トレンチ北拡張区:畠平面図 図 19 断されるので、 この所見からこ の溝状の落ち込 みが人工的な掘 割である可能性 ︶。 が高くなった ︵図 冒頭に述べた 20 第 14 トレンチ北拡張北壁土層断面図 図 18 114 第 14 トレンチ断割り調査区東壁土層断面図 図 20 よ う に 、 調 査 の 主 た る 目 的 は 城 壁 を 横 切 り 城 内 か ら 郊 外 に向 か う 道 が ないかどうかを確認することにあったが、今回調査した範囲において は 七 九 年 当 時 の 地 表 面 に は そ う い った 道 の 痕 跡 は 認 め ら れ な か っ た 。 今回の調査で初めて明らかになった特筆されるべきことは、ポンペイ 城壁外に相当深い掘割が存在していることであった。平成九年の第五 次 調 査で は 、塔 の 西 に位 置 す る 乱 石 積 み 構 築 物 の 西 端 部 付 近 の 北 、 す な わ ち 城 外 に 向 か っ て 三 メ ー ト ル ほ ど の 地 点で 、 今 回 検 出 し た 溝 の 反 対側の土肩と思われる部分が検出されたが、この地点から今回検出し た反対側の土肩までの幅は約三〇メートルを計る。また今回の調査で は掘割の底を明らかにすることはできなかったが、深さは恐らく八メ ートル以上掘られていたと想定される。このような大きな掘割を横断 する道をつけることは非常に困難であると思われるので、やはりこの 部分において城外と城内を結ぶ道は存在しなかったと考えられる。 こ う い っ た 掘 割 に つ い て ポ ン ペ イ 城 壁 の 他 の 部 分で 知 ら れ て い る 例 としては、ポンペイの南に位置するノチェラ門外の地形に若干その痕 跡が認められるが、今回明らかになったこの掘割のような深さを持つ ものではない。そもそもポンペイは東、南、西の三方において城外に 向って地形が落ち込む台地上に位置しており、城壁はその台地の辺縁 部 を 取 り 囲 み 、 地 の 利 を 最 大 限 利 用 して 構 築 さ れ て い る 。 し か し 北 に おいては少なくとも現地形を見る限りはこのような外に向っての傾斜 は 観 察 され ず 、 そ の た め 市 北 部 に お け る 城 壁 は 、 特 に エ ルコ ラ ー ノ 門 とヴェスヴィオ門間において他の部分よりも頑丈に構築されている。 イタリア・ポンペイ遺跡の発掘調査 丈 に 作 る 必 要 は な か っ た ので は な い か 。 こ の 掘 割 が 完 全 に 人 工 的 な も よ う な 深 い 掘 割 が あ った こ と に よ り 、 城 壁 自 体 を こ の 区 間 に お い て 頑 よ り 、 あ る い は 説 明 で き る の で は ない か と 考 え ら れ る 。 す な わ ち こ の 一 帯 に 見 ら れ る こ の 脆 弱 さ は 、 今 回 明 ら か に な った こ の 掘 割 の 存 在 に る こ と は 、 既 に 繰 り 返 し 述 べ て き た 。 防 御 を 強 化 し な け れ ば なら な い までは、城壁の構造は他の部分に見られるよりもむしろ脆弱でさえあ 一方ヴェスヴィオ門からいわゆる﹃カプア門﹄想定所在地付近に至る られた責務であるといえよう。 掘 調 査 全 般 に 関 す る 最 終 報 告 書 を 刊 行 す る こ と が 古 代学 研 究 所 に 課 せ いものが増えている。これらの学術上の関心に応えるためにも、当発 つ あり 、 近 年 出 版 さ れ る ポン ペ イ の 案 内書 等 に は カ プ ア 門 を 表 示 し な せ よ 城 門 が 実 は 存 在 し な い と い う 新知 見 は 現 地 で も 次 第 に 認 知 さ れ つ てきたかという問題に関しては、現在別稿を準備している。いずれに 九世紀以来のポンペイ研究の歴史において、存在すると広く流布され 果となった。この城門の所在問題、すなわちなぜ存在しない城門が一 ︹追記︺ この論考は平成一三∼一五年度科学研究費補助金基盤研究C 研究代表 者 坂井聰 による研究成果の一部を反映している。 の で あ るか 、 自 然 地 形を 利 用 し つ つ 構 築 さ れ た も の で あ るか の 見 極 め は困難であるが、このことについても七九年以前のポンペイ周辺の自 然地形に関する研究を進めることで、今後の課題として解明していき ( たい。 ) 終わりに 以上 概観 した よう に古 代学 研究 所の ポン ペイ遺 跡 ﹃カプア門 ﹄想定 所在地付近における発掘調査は、平成一四年をもって一応終了した。 その間平成一二年度にも塔壁を中心として修復工事を行い、遺構を整 備 した 上で ポ ン ペ イ 考 古 監 督 局 に 対 し 最 終 的 に 発 掘 調 査 地 区 を 引 き 渡 Lungo le Mura di し た 。 現 在 は 城 壁 周 囲 に め ぐ ら さ れ た 遊 歩 道 沿 い の 見 学 場 所 と して 、 ポンペイ考古監督局が近年刊行した案内書 ( ) Pompei﹃ポンペイ城壁周遊﹄ にも、﹃日本人による発掘地区﹄とい う 表 現 で 紹 介 さ れ て い る 。 当 初 か ら の 調 査 目 的 で あ った カ プ ア 門 に 関 し て は 、 少 な く と も 調 査 した 範 囲 内 に お い て は そ の 存 在 が 否 定 的 な 結 : 115
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