近松と鯖江 浄瑠璃作家としての出発 歌舞伎作者としての活躍

近松門左衛門
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井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者“近
松門左衛門”は、物心ついたころから多感な少年時代までの人間形成に大切な時期を鯖江で過ごしています。 劇作家とし
て大成するうえで、幼少期を過ごした越前鯖江の豊かな自然や人情は、彼の生み出した作品に大きく影響したことと思いま
す。
近松と
近松と鯖江
承応 2 年(1653)、越前(現在の福井県)の武士の家に次男として生まれた近松は、本名を杉森信盛(すぎもりのぶもり)とい
います。小さい頃は次郎吉(じろきち)と呼ばれ、成人後の通称は平馬、作者となってからは筆名を近松門左衛門としまし
た。父・杉森信義は福井藩分家の吉江藩士でした。母は福井藩に勤める医師・岡本為竹の娘・喜里との説がありますがは
っきりとはしていません。近松 2 歳(数え年で 3 歳)のとき、一家揃って吉江(鯖江市吉江町)に引っ越してきました。10 年余
りをこの吉江で過ごした後(1664 以降)、父・信義は吉江藩を辞め、一家は京都へ引っ越しました。
浄瑠璃作家としての
浄瑠璃作家としての出発
としての出発
京都に移った近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治嘉太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始めます。
天和 3 年(1683)、嘉太夫に書いた「世継曾我」が世評を得、嘉太夫の門下にあった竹本義太夫とも提携するようになりまし
た。貞享元年(1684)、大坂に竹本座を創設した義太夫を祝って書いた「出世景清」を契機として、現実的、個性的描写によ
る浄瑠璃の新生面を開き深化を遂げました。
歌舞伎作者としての
歌舞伎作者としての活躍
としての活躍
元禄期後半の約 10 年間は、上方の名歌舞伎俳優坂田藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作に主たる情熱を注ぎま
した。代表作として「傾城仏の原(けいせいほとけのはら)」があります。
歌舞伎から
歌舞伎から浄瑠璃
から浄瑠璃へ
浄瑠璃へ
藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると大坂に移住し、義太夫の竹本座専属となって浄瑠璃の創作に専念しまし
た。元禄 16 年(1703)「曾根崎心中(そねざきしんじゅう)」で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していきました。
近松の
近松の最期
享保 9 年(1724)11 月 22 日、大坂天満で没し、約 40 年に渡る作家生活を終えました。大坂谷町法妙寺、尼崎広済寺に葬
られています。
近松作品
近松略年譜
近松作品
浄瑠璃作品
時代物(
時代物(じだいもの)
じだいもの)約 80 作
歴史上の事件や伝説、説話を取材したもの。武士道や義の精神を主張している。
【国性爺合戦(こくせんやかっせん)】
日本に生まれた和藤内(後の国性爺)が明に渡り、異母姉、錦祥女とその夫等の助けを得て、明国の再興を図る物語。日
本人を母とする和藤内の武士的精神や義理人情の悲痛な絡み合いが、当代の好みにあって 3 年越し 17 ヶ月興行した傑
作。
【出世景清(しゅっせかげきよ)】
源氏に敗れた平景清は、一族の恨みを晴らすため、源頼朝を討とうとするが失敗し処刑されることになる。しかし信仰する
清水寺の観音様に命を助けられ、九州日向(宮崎県)に下る。近松が竹本義太夫に書いた最初の作品。
世話物(
世話物(せわもの)
せわもの)24 作
現代物の意で、現世町人の社会的な悲劇を 3 段の簡潔な形式と流麗な文章で綴ったもの。
【曾根崎心中(そねざきしんじゅう)】
大坂平野屋の手代徳兵衛は、天満屋お初と愛し合い、主人の妻の姪との結婚を断る。その結納金を友人油屋九平次に騙
しとられ、そのうえ恥をかかされる。窮地に立った徳兵衛は、お初と曾根崎天神森で心中する。世話物のジャンルを確立し
た最初の作品。
【心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)】
八百屋の養子に行った半兵衛とその妻お千世は半兵衛の養い親から離縁を強制される。姑を悪者にできない養い親への
孝と、離縁しないと約束したお千世の親への義理との板ばさみから夫婦で心中の道を選ぶ。最後の世話物作品。
歌舞伎作品 約 30 作
【けいせい仏の原】
越前の大名梅永刑部の子、文蔵・帯刀兄弟を主人公としたお家騒動もの。三国(福井県)の遊郭を舞台に展開される。歌
舞伎作品の中でも最高傑作のひとつ。
用語解説:
元禄 16 年 曾根崎心中 国性爺合戦 近松門左衛門 宝永 3 年
用語解説:
源頼朝 平景清 清水寺 天満屋
近松門左衛門略年譜
近松の
近松の生涯
承応 2 年(1653)
越前で生まれる
明暦元年(1655) 2 歳 吉江に移住する。
(寛文 4 年以降)
京都へ移住する。公家に仕える。
寛文 11 年(1671) 18 歳 俳句集「宝蔵」に入集する。
天和 3 年(1683) 30 歳 宇治座で「世継曽我」を上演する。
貞享 3 年(1686) 33 歳
(元禄期後半)
「佐々木大鑑」にはじめて作者名“近松門左衛門”と署名する。浄瑠璃作者として活躍す
る。
歌舞伎作者として活躍する。
元禄 16 年(1703) 50 歳 「曾根崎心中」が大当たりとなる。
宝永 3 年(1706) 53 歳 京都から大坂へ移住する。浄瑠璃で多くの傑作を生み出す。
正徳 5 年(1715) 62 歳 「国性爺合戦」が長期公演される。
享保 9 年(1724) 71 歳 「関八州繋馬」を上演する。辞世文を書く。
11 月 22 日
大坂で亡くなる。