美濃市歴史的風致維持向上計画(第2章)

第2章 美濃市の歴史的風致形成の背景
1.美濃市の自然と風土
美濃市は、濃尾平野の最北端に位置し、岐阜県のほぼ中央にあたる。中京経済圏の中心地名
古屋市から 40㎞圏にあり、東経 136 度 54 分、北緯 35 度 32 分を中心に、東西 12.5km、南
北 15.8km の幅があり、北は郡上市、東、西及び南は関市に囲まれている。
いまぶち
ふくべ
市の総面積は 117.05k㎡。市域の 80%以上が山林で、今淵ヶ岳、瓢ヶ岳、矢坪ヶ岳など千
m級の山々がそびえる。市の中央を南北に流れる長良川は、郡上市高鷲町に位置する大日ヶ岳
(標高 1,709 m)を源流とし、関市、岐阜市等を経て伊勢湾へと注いでいる。長良川の支流で
ある板取川とは市の中心部で合流し南下する。長良川沿いには河岸段丘が形成され、長良川左
岸の中心市街地一帯は中位段丘、長良川に向かって下位段丘が広がっている。
気候は、若干の内陸性であるが、寒暖の差が少なく年間の平均気温は 14.4 度、年間降水量
は 2,100mm 程度で、雨季や台風の季節には長良川や板取川の氾濫等が見られる。近年、内陸
性の盆地という特性から夏期の最高気温が 30 度を超える日も多くみられるが、年間を通じ穏
やかな気候に恵まれ、豊かな自然の多い風光明媚な地域である。
美濃市
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瓢
岳
ヶ岳
瓢ヶ
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(岐阜県)
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岳
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今淵
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美濃市の位置図
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矢
岳
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坪ヶ
矢坪
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板
板取
川
取川
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良川
長良
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美濃市の地形図
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-7-
2.社会環境(産業、交通、都市整備等)
こ う づ ち
明治 4 年(1871)の廃藩置県後、美濃国には 13 県が置かれたが、「上有知」は旧名古屋藩
領(江戸時代までの尾張藩領をいう)であったため名古屋県に属した。また、横越、笠神、生
櫛、極楽寺は旧幕府直轄領であったため美濃国の旧幕府直轄領を管理する笠松県となり、立花、
須原は郡上県に属した。その後、府県統廃合により岐阜県となり、明治 9 年(1876)の再統
合により飛騨国が岐阜県に編入され濃飛二国の岐阜県が誕生した。
明治 12 年(1879)、郡区町村編成法施行により、上有知、関、金山、菅田と周辺 27 村を
管轄する武儀郡が設置され、上有知には郡役所が置かれた。明治 22 年(1889)町村制施行
により上有知町が成立し、曽代村、前野村、安毛村は合併し安曽野村となり、須原谷村、四村
併合役場(後の下牧村)
、上牧村、藍見村、大矢田村、中有知村がそれぞれ成立した。明治 44
年(1911)には、武儀郡における商業の中心地として上有知の名称は読みにくいなどの理由
により、美濃紙の集産地であることから美濃をとり「美濃町」と改称した。当時、県議会では
美濃は旧国名であるため、多くの反対意見が続出し紛糾したとされている。
大正 14 年(1925)に安曽野村が美濃町に合併し、昭和 29 年(1954)の町村合併促進法
に基づき、1町6村が合併して美濃市が成立した。昭和 30 年(1955)に関市小野の一部を
編入し、現在に至っている。
人口は、市制施行以来減少傾向にあり、発足当時 32,769 人あった人口は現在 22,628 人(平
成 22 年国勢調査)である。
本市全域が都市計画区域(非線引き)で、用
途地域は 5.8%、農用地区域は 2.7%であり、
市街地の縁辺部で農業エリアが広がる。交通網
は、中京圏と北陸経済圏を結ぶ東海北陸自動車
道と、中部経済圏を環状ルートで結ぶ東海環状
自動車道があり、その結節点には美濃インター
チェンジが位置する。近年は、これら高速道路
網の進展により、インター周辺に新市街地エ
リアが形成されつつある。鉄道は、昭和 61 年
(1986)国鉄より民営化された第三セクター方
式の長良川鉄道で、美濃市駅が市の玄関口と
なっている。
主要産業は製造業や卸売業、小売業で、全体
の 6 割を占め、製造業の主な業種は一般機械
金属、プラスティック、製紙業などである。
美濃市の土地利用と交通環境
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美濃市の町村合併変遷図
高山藩
上牧村
郡上藩
上有知
(尾張藩領)
大垣藩 加納藩
苗木藩
岩村藩
高須藩
美濃市の町村合併図
江戸時代中頃の藩領分布図
-9-
3.美濃市の歴史・文化
美濃市の北部は山塊と河川、南部は平地や河岸段丘や沖積地が展開する。この地理的要因に
より、市内の歴史や文化は多彩な様相を呈し、地域固有の文化圏を形成してきた。
市北部にある長良川の支流板取川水系の牧谷地域は、古代から「美濃紙」の主産地として繁
栄したが、市南部の長良川右岸地域である大矢田地区一帯も美濃紙の生産地として発展し、中
世には大矢田紙市が置かれ繁栄した。この両地域は、古事記の「喪山神話」に由来する地名や
旧跡が多く所在する地域として知られる。市北部の長良川水系の須原、立花地区から牧谷地域
にかけては、洲原神社を中核に山岳信仰が栄えた地域である。
こ う づ ち
また、長良川左岸の有知郷、上有知と呼ばれた一帯は、後に美濃市の中核となる地域である。
ろくたん
長良川左岸の通称「六反」と呼ばれる一帯は古墳時代中頃から継続的に集落が営まれ、戦国時
代末には城下町上有知(古町)として繁栄した。
江戸時代には金森長近により高町六町といわれた新城下町上有知が形成され、現在の都市構
造の骨格が形成され、
「城下町上有知」、
「商家町上有知」、
「商家町美濃町」へと江戸時代から明治、
大正、昭和にかけて商業の中核地として発展した。
【旧石器時代〜縄文時代】
美濃市内最古の遺跡として知られる向中野遺跡
は、長良川左岸の松森地区に広がる丘陵地帯に位置
せきじんじょうはくへん
し、旧石器時代末の石刃状剥片等が出土している。
わたらいがわきた
縄文時代草創期の遺跡としては渡来川北遺跡や港
町岩陰遺跡など、移動から定住への過度期の遺跡が
あり、自然環境や社会環境の推移を探る上で重要で
ある。
縄文時代草創期の渡来川北遺跡出土石器
渡来川北遺跡は長良川右岸の大矢田、藍見地区の渡来川段丘面に広がる遺跡で、日本最古と
考えられる配石を伴う水場遺構や石器製作跡が確認された。平成 17 年(2005)には市指定
史跡として公園整備され、水場遺構が復元されている。
【弥生時代〜古墳時代初頭】
弥生時代に入ると、集落数は爆発的に増加する。
特に弥生時代後期から古墳時代初頭には、この地方
独自の文化圏がつくられたことを示す遺跡が数多く
調査されている。
長良川右岸の横越地区に所在した美濃観音寺山古
りゅうんもんほう
墳は、古墳時代初頭の前方後方墳である。流雲文方
かくきくししんきょう
じゅうけんもんきょう
格規矩四神鏡や重圏文鏡を副葬し、中濃地域一帯を
掌握した支配階級の王墓と考えられている。弥生時
- 10 -
美濃観音寺山古墳出土方格規矩鏡
代後期から集落の数も飛躍的に増加し、長良川両岸
くしじょうこんもん
の丘陵部には多くの集落が形成され、櫛 条痕文を
主体とした弥生土器文化圏を形成し、後期末には
ふるむら
「古村様式」が成立する。集落内からは北陸系土器、
美濃西部系土器、尾張低地系土器など他地域の弥生
土器が数多く出土し、水系を利用した活発な交流が
行われていたことを示している。
弥生時代後期末の古村式土器
【古墳時代~古代】
古墳時代から白鳳期にかけてこの一帯を支配した
む
げ
つ
牟義都国造は、大和朝廷と密接に結びついた勢力で、
平安時代に編纂された『延喜式』(康保 4 年 .967)
もいとりのつかさ
に見られる、宮廷内祭祀の一つである主水司を掌る
一族と推定されている。
大化の改新(645)後、朝廷支配による行政単位
む
げ
つ
である国郡里制が置かれ、当地には牟義都の名に由
来する武芸(武儀)郡が置かれた。壬申の乱(672)
丸山古窯跡(史跡)
で大海人皇子の舎人として活躍した牟義都君広は、
乱の功績により、長良川右岸の氾濫原盆地の下流部
ひょうが
に氏寺である弥勒寺を建立し、併設して評衙(後の
ぐんが
武儀郡衙)を造営した。この弥勒寺造営に際して、
大矢田地区の丸山古窯跡(史跡)では寺院瓦や須恵
器が生産された。
霊亀元年(715)、
「里」が「郷」に改められる。『和
名類聚抄』によれば、現在の岐阜県は美濃国と飛騨
御手洗比売命、天若日子命、下照比売命
を祀る真木倉神社(市指定文化財)
国の 2 国が置かれ、美濃国武芸郡は武芸九郷に分
みたらしごう
いくしごう
う ち ご う
かれ、その内の御佩郷、生櫛郷、有知郷の三郷が現在の美濃市に相当する。
まきだに
御佩郷は板取川流域の牧谷から関市洞戸や板取にかけての一帯で、牧谷には御手洗の地名が
今も残る。また、牧谷総社とされる真木倉神社が、この御手洗地区の中心に位置している。
生櫛郷は市域南部の生櫛地区、笠神地区、藍見地区、横越地区、極楽寺地区、大矢田地区が
含まれ、和銅5年(712)に太安万侶により編纂された『古事記』や、『日本書紀』に記載さ
れる喪山神話の伝承地がこの一帯と推定されている。
有知郷は曽代地区、美濃地区、松森地区のほか、関市下有知地区を含んでいたと考えられる。
この地区一帯は現在も、上条、上条下、六反、中之坪など、条里制に関連する字名が残る地域
である。 - 11 -
喪山神話の神々
古事記や日本書紀に記載される喪山神話とは、次
のような話である。
「 葦 原 瑞 穂 国 に 遣 わ さ れ た 天 津 国 玉 神 の 子、
あめのわかひこ
し た て る ひ め
天 若日子は大国主神の娘下 照比売と結婚し 8 年
経っても帰ることがなかった。天照大神は天若日子
きじなぎめ
が復奏しないため、雉鳴女を遣わしその訳を尋ねさ
せた。すると天若日子は天照大神から賜った弓矢で
雉を射った。その矢は雉の胸を射抜き、天河原に座
天若日子命を祀る喪山天神社
す天照大神、高木神の前に飛んできた。高木神は血
の付いた矢を取り、この矢は天若日子に与えられた
矢だと神々に示し、もし天若日子に邪心があったら
当れといって矢を放つ。すると矢は天若日子の胸に
あたり若日子は死んだ。天若日子の死を悲しむ下照
比売の泣く声が天まで聞こえたので、天津国玉神と
その妻は天から降りてきて共に嘆き悲しみ喪屋を作
り葬儀を行った。そこへ天若日子と容姿が似ていた
あじすぎたかひこねのかみ
阿遅鉏高日子根神が悔やみに来ると、天津国玉神と
その妻は、我が子は死ななかったと阿遅鉏高日子
根神にとりすがった。阿遅鉏高日子根神は立腹し
尾張藩主徳川慶勝により建てられた雉射田石碑
とつかのつるぎ
十掬剣を抜き、喪屋を切り伏せ足で蹴飛ばした。こ
れが美濃国藍見川の河上に積み重なり喪山となっ
た。」といわれるものである。
この伝承地については、『新撰美濃志』(明治 30
年 .1900)や国学者河村内郷の著した『美濃国喪
山考』(天保年間 .1830 - 1844)、尾張藩上有知
代官三浦千春の著した『大矢田神蹟図攷』(明治 7
かさがみ
天若日子命、下照比売命を祀る上神神社
年 .1874)において、長良川右岸の大矢田地区一
帯をその比定地として検証している。その伝承に
き じ い だ
かつらぎぼら
関連する地名や字名についても、雉 射田、杜木洞、
わたら
かさがみ
いくし
渡来、笠神、生櫛、矢落街道などが現在まで残って
いる。また、近代以前上有知を南北に貫流する長良
川は、藍見川と呼ばれていた。さらに喪山神話の神々
を祀る神社が、長良川右岸地帯に多数点在する地域
として知られる。
下照比売命を祀る青柳神社
- 12 -
【中世】 条里から荘園へ
う ち ご う
かみうちごう
しもうちごう
平安時代に入ると、有知郷は上有知郷と下有知郷に分かれ、上有知郷は近衛家の荘園領とな
こうづちのしょう
り上有知荘と称され、平安時代末から鎌倉時代にかけては美濃源氏の一族である上有知蔵人が
地頭職代官を勤めた。一方、生櫛郷では長良川本流が現在の松森地区と生櫛地区の間を流れ郷
境となっていたが、中世以降は生櫛地区と笠神地区の間に変わり、生櫛地区や志摩地区は上有
知郷に、長良川右岸から武儀谷にかけての大矢田地区や藍見地区は山口郷となり、美濃佐竹氏
の所領となった。
山岳信仰の広がり
洲原神社(本殿は県指定重要文化財、拝殿・舞
殿・楼門は市指定文化財)は、社伝によれば養老
2年(718)泰澄が創建したとされるが、康正2年
(1456)に火災により焼失し、長享元年(1487)
に再建されている。郡上市白鳥町の長滝白山神社と
ともに美濃国における白山信仰の中心地であり、
「白
山前宮」と称された。また、江戸時代には、神社の
御蒔土は豊作の奇端がある「濃国農耕の神、養蚕の
洲原神社本殿(県指定重要文化財)
神」として信仰され、全国から「お洲原まいり」、「洲原講」による参拝で賑わうなど、洲原神
社周辺は中世から昭和 30 年代にかけて多くの参拝者が集まり栄えた地であった。洲原神社の
所在する須原地区は当時郡上郡に属し、板取川流域の御佩郷一帯を含めた山岳地域には、白山
信仰から派生した山岳信仰により栄えた神社が多数点在する。瓢ヶ岳、高賀山などは修験道の
こ く ぞ う ぼ さ つ
地として、また、虚空蔵菩薩信仰と結びついた神仏習合の信仰として近世まで広く普及した。
金峰神社(片知)から滝神社(乙狩)一帯にかけては、藤原高光の妖魔退治伝説や猿丸太夫伝
説が今も伝えられている。
戦国争乱と佐藤氏
承久の乱(1221)後、上有知を支配したのは常
陸国から来た佐竹氏で、その後、美濃国守護職土岐
氏の一族である浅野氏が支配した。浅野氏は代々、
地頭職代官を世襲するが、応仁の乱(1467)後、
浅野氏に代わって佐藤氏がこの地を支配した。
佐藤氏は応仁の乱後、上有知七尾山(古城山)に
「藤城」を築城する。その子孫、佐藤六左衛門は天
上有知城跡 ( 鉈尾山城跡 ) 遠景
文9年(1540)に藤城を改築拡張して上有知城(鉈尾山城)を築く。六左衛門が没すると長
男の秀方(注)が跡を継ぎ、本能寺の変(1582)の後、天正 13 年(1585)に豊臣秀吉の命によ
(注)佐藤「秀方」の名については、元和年間(1615 - 1624)に記された『清泰寺由緒』では佐藤六左衛門「秀方」
と記される。岐阜県史料編古代・中世補遺に掲載された洲原神社文書『佐藤方秀書状』( 影寫本 ) では、「方秀」と記載
されている。本書では、『清泰寺由緒』に記載された佐藤「秀方」をもとに記述した。
- 13 -
り金森長近の飛騨攻略の援軍を務め、平定後には長
上有知城(鉈尾山城)
近が越前大野を出ることに難色を示したため、一時、
萩原諏訪城代として飛騨を管理した。その後、秀方
は従五位下隠岐守に叙任され、上有知尾沢山(以安寺
山)西麓に秀方の父であった佐藤六左衛門の菩提寺で
ほ ね い じ
ある保寧寺を移し、泰岑山以安寺と号して隠居した。
文禄 3 年(1594)、秀方没後は二男の佐藤方政
が跡を継ぐことになり、豊臣秀吉に仕え、秀吉没後
中世の城下町上有知(古町)
は岐阜城主の織田秀信の侍大将として補佐した。慶
長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいて、秀信は徳
中世の城下町と上有知城の位置図
川家康に味方するため会津への出陣を準備するが、石田三成との密約により西軍側となる。結
果、方政は東軍の岐阜城攻略により大敗を喫し、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わったことで、
西軍方の佐藤方政をはじめ美濃国諸大名は所領を没収され、上有知城主の佐藤氏は滅亡する。
【近世】
かなもりながちか
金森長近と小倉山城
関ヶ原の戦い後、徳川家康より上有知を含む武儀郡の領地一万八千石を加封されたのは、飛
騨を所領とした金森長近であった。上有知は当時交通の要衝で、ここを中継に飛騨や郡上へ分
岐し、郡上からは越前に通じていた。また、川湊の中継地として長良川下流の岐阜や桑名、名
古屋への水運も発達していた。
長近は佐藤家遺領である上有知を特に懇望した。「権現公様(家康)岐阜山へ御登山遊ばさ
れ候節の事法印様へ、信長在世に此の山へ来り候者も、今は法印(金森)と我等ばかりに成り
濃州尾倉山古城之図 ( 名古屋市蓬左文庫所蔵 ) に描かれる小倉山城跡
- 14 -
正秀
鉈尾山城主
佐藤秀方夫人
上有知代官
︵文化年間︶
市之進
一蘗
五代
宗和
四代
重近
三代
長則
二代高山城主
本能寺戦死
大野城主
高山城主
小倉山城主
女
金森氏祖
六代
七代
因んで「小倉山」と改名し、南麓に小倉山城を築城する。
宝暦騒動断絶
た長近は、尾崎丸山と呼ばれた独立丘陵を京の名勝に
頼錦
慶長 6 年(1601)、茶道に通じ千利休と親交のあっ
可寛
院に入り金森宗和となった茶の湯宗和流の開祖である。
頼業
慶長 19 年(1614)に家督を放棄し、大徳寺塔頭金龍
山ノ上城転封
郡上八幡転封
男の重近は、青年期に茶の湯に没頭していたとされ、
頼直
ありしげ
あった。長近は高山藩を養子可重に託した。可重の長
重頼
重光
徙純
関係にあり、上有知城主佐藤秀方の正室は長近の姉で
可重
金森家と戦国時代に上有知を支配した佐藤家は姻戚
重勝
は、流通経済上重要な位置を占めていた。
長近
長光
とあり、本領高山への入り口となる上有知(武儀郡)
二代小倉山城主
達しなされ候御事と申し伝え候。」(『上有知旧事記』)
五郎ハ
法印素玄
政近
騨の国の口郡を領知に成され候。市町御免許御上聞に
策伝
べしと仰され候節、上有知に御隠居御願い成され、飛
定近
候。相変らず味方致され満足と、何成り共好み申さる
金森家略系図 ( 岐阜県史より )
この小倉山城について、『濃州尾倉山古城之図』によれば、本丸、二ノ丸、三ノ丸は並設する
連郭式で東側に堀切りを挟み、帯曲輪が設けられている。また、絵図には小倉山北側に独立し
た出曲輪が描かれているが、戦国期の佐藤氏城館が梅山一帯の高台に築かれていたとされるこ
とから、それに関連した曲輪である可能性が高い。西側には大手門を挟んで出曲輪、並設した
2 段の小曲輪が置かれていた。城郭内の西には佐藤秀方の菩提寺であった以安寺を移築し、慶
長 10 年(1605)、安住山清泰寺と改称する。城郭の南側には長之瀬川が流れ、自然地形を利
用した堀溝が形成されていた。
上有知藩の改易後、小倉山城は武家諸法度により破却される。小倉山城の唯一の遺品である
梵鐘は破却後、美濃郡代により持ち去られ、現在は揖斐川町松林寺の梵鐘となっている。この
梵鐘は黄鐘調の鐘といわれ「奉鋳鐘、濃州武芸郡小倉庄館
置之。慶長十乙巳季九月十三日、金森兵部卿法印素玄」と
銘があり、最上段の本丸には庄館(居館)が造られたとさ
れている。
金森長近は慶長 11 年(1606)から京都伏見の別邸伏
陽邸で過ごし、慶長 13 年(1608)に 84 歳で没した。そ
の子長光は小倉山城主となるが、慶長 16 年(1611)に
わずか 10 歳で没し、金森上有知藩はわずか 11 年で改易
となり、領地は幕府直轄領となった。その後、元和元年
(1615)には尾張藩領となり、小倉山城跡には上有知代官
所が置かれ、武儀郡内を幕末まで支配した。
- 15 -
小倉山城唯一の遺品である長近の梵鐘
こ う づ ち
城下町上有知
慶長 7 年(1602)4 月、長良川の大洪水により城下
町上有知(古町)は甚大な被害を被り、慶長 11 年(1606)
に新城下町への移転が行われた。中世の上有知は現在の
長良川左岸の氾濫原に位置し、小者町、古城跡、古町、
保寧寺跡、下渡、金屋街道の字名が残る一帯に城下町が
形成され、水運の拠点として下渡に川湊が整備されてい
た。長近は新たな城下町を小倉山城の南東に広がる高台
(亀ヶ丘)に整備するとともに、新たな川湊の整備、街
道の整備、産業振興の保護を行った。
城下町は小倉山城を扇の要として見渡せる位置にあ
り、一番町通りと二番町通りを中心に六町が整備され、
中世の上有知
東西 250 間、南北 70 間の目の字型の地割りをもつ城下町であった。『上有知旧事記』には、
長近は四神相応の地として四神を配置したとされ、東の青龍に夕立岩、南の朱雀に松森山の神、
西の白虎に下渡山の神、北の玄武に打上坂(有知上坂)を配置した。
城下町に通じる街道は「町割りは水と云字と申し伝え候」(『上有知旧事記』)とあるように、
目の字型の城下町を中核に放射状に配置され、町の入口に赤岩口(岐阜街道)、美濃紙の生産
地へ通じる川端口(牧谷街道)、郡上口(郡上街道)、寺間口、金森家本領飛騨へと通じる津保
口(津保街道、飛騨街道)、せき口(関街道)が整備された。
慶長 11 年 (1606) 町割りができ、旧城下町上有知から住民が移転した記録が残る(『浅野家
武儀郡上有知村繪図(寛政 4 年 .1792)
- 16 -
系図』)。二番町中之町には願念寺と 6 軒が移転し、寛永年
間には家数が 12 軒に増えたとされ、中之町の中心には願念
寺が置かれた。後に、願念寺は享保 8 年(1723)の上有知
の大火により、浅野家下屋敷であった現在の加治屋町に移転
する。
明治 5 年(1872)の『上有知字絵図』には、短冊型の奥
行きが長い敷地割りが記録されている。こうした町割りを行
うと区画の中央に割り残し地が残るとされ、このような土地
の多くには社寺が置かれ会所地として利用された。願念寺
も当初の敷地割り計画から会所地として位置付けられ、長
上有知旧事記に記される街道口
近が戦国期に町割りを行った越前大野や飛騨高山の都市構造とは、相違があるとされ(小寺、
1995)、上有知が商業の中核地として当初から都市設計されていたと考えられる。
享保8年(1723)の大火災図や明治 6 年(1873)の相生町字絵図には、村方会所や御用
会所の位置が記されるが、これは寛政の改革により制定された七部積金を取り扱う事務所で(川
崎、1958)、享保の大火以降も二ノ中町周辺がまちの中核であった。
一方、城下町は当時土手と竹薮に囲まれ、関街道に通じる入り口には「石橋の堀あり」とさ
れる。安政元年(1854)に作られた『上有知村略図』
大工(19) 下駄屋(2)
焼師(1)
棉職(4)
にその状況が記されるが、薮と土手と堀溝に囲ま
左官(4) 油絞り(2)
瓦職(3)
石灰焼(1)
れ都市構造は城下町を守る防御的構造であり、中
黒鍬(5) 酒造り(3)
水車屋(2) 豆腐屋(10)
世の都市構造も持ち合わせていた。
籠屋(2) 味噌造り(6) 葬具屋(1) 質屋(11)
城下町上有知は寛政 4 年(1792)頃で人口は
畳屋(4) 傘屋(2)
提灯屋(2) 湯屋(1)
2,025 人、戸数 537 戸あり、商人の他、多くの
紺屋(3) 糸造り(2)
仕立物職(3) 医師(7)
職種の職人が住んでいた。明治 4 年(1871)の
船大工(3) 柄屋(1)
唐箕屋(1)
村艦には提灯屋、傘屋、籠屋、農具の柄を作る柄
桶屋(8) 鍛冶屋(3)
鋳掛け屋(2)
屋、唐箕屋、鋳掛け屋、焼師、紺屋等の 33 職種
木挽(2) 庭師(3)
髪結(4)
がみられ、商業の中心地となっていた。 計 33職
上有知の職種一覧 (明治4年 .1871)
御用会所が記される相生町字絵図(明治 6 年 .1873)
明治 5 年(1872) の上有知字絵図
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こ う づ ち
六斎市と上有知湊
金森長近は上有知を商業の中核地とするために、六
斎市を開設する。大矢田の紙市は戦国末期に衰退し、
「関の市を御上聞なされ上有知へ引かれ候」(『上有知
旧事記』)とあり、津保街道沿いの二ヶ所に番所を設け、
関の市へは物資を通さず、上有知の市へ出すよう仰付
けた。市は、「毎月三八の日並六斎市あり 穀物、糸、
上有知湊(明治中頃)
綿、木綿、楮、紙出類を初一切の諸色を商へり」(『濃
州徇行記』)と記され、この地方の物資はすべて上有
知を経由して商いが行われるようになった。
『上有知旧事記』には「金森町越之節は一ノ上榎市神、
二ノ中町六地蔵市神に御祭り」とあり、榎市神は一ノ
上町の郡上街道口に所在する宝勝院内に、六地蔵市神
は二ノ中町に祀られていたと考えられる。また、高札
場が二ノ中町にあったとされ、会所地であった願念寺
魚漁圖に描かれた上有知湊(年代不明)
を中核として市が執り行なわれていたと考えらる。
金森長近により水運拠点として整備された上有知湊の開港は、現在でいうロジステックの大
規模整備に相当し、地方物資の集散拠点となった場所である。湊には番船 40 艘が置かれ、船
株によりこれ以外の船による物資の積下しは許されていなかった。番船船株所持者は毎年船役
銭を納め、幕府や藩御用で中山道墨俣宿から長良川を渡る際、舟橋御用として出役が行われて
いた。また、幕末から明治初年の『上有知代官所北地総管出張所触書』には、前野村や曽代村
の鵜飼舟も舟橋の御用勤が行われた記録が残されている。
長良川には上有知湊の他、下流に山崎湊、上流には立花湊、佐ヶ坂湊があり、江戸時代には
牧川と呼ばれた板取川には長瀬湊があった。立花湊や佐ヶ坂湊では、上流の郡上郡で伐採され
た材木を問屋場で筏組され、下流の岐阜材木町へ運ばれた。立花、佐ヶ坂には筏乗を職業とす
る人が多く住み、筏頭は筏問屋を営み川並御用を勤めた。
飛
上有知湊からは美濃紙、曽代糸、津保茶 ( 敦賀茶 )、運上銀
騨
良
こうした長近によるまちづくりによって、上有知は数年で武
儀郡内における一大商業地へと変貌を遂げた。上有知藩廃藩後、
幕府直轄領、尾張藩領へと支配は代わるが、長近のまちづくり
の礎は変わることなく上有知のまちは繁栄を続けた。 金山
川
(『上有知旧事記』)とあり、京、大坂へは揖斐川に入り、大垣
で陸揚げされ中山道を通り、物資が輸送された。
川
長
等が運ばれ「岐阜、桑名、大垣、並びに名古屋迄川船通用仕り候」
揖
北方森前
斐
房島
島
川
大垣
佐ヶ坂
立花
下麻生
下渡
上有知
黒瀬
長良
小瀬 太田
鏡島
芥見
兼山 錦織
呂久
中川原
木
円城寺
墨俣
鳥江
栗笠
船附
今尾
北方
川
曾
起
川
内
庄
熱田
桑名
主要な川湊(尾張藩領)
主要な川湊(尾張藩領外)
木曽三川の主要川湊図 ( 岐阜県史より )
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金森長近のまちづくり(越前大野、飛騨高山、飛騨古川、上有知)
織田信長の武将であった金森長近は、生涯に4度
のまちづくりに携わり、それぞれのまちは今も都市
構造の中核となっている。
天正 4 年(1576)からまちづくりを行った越前
大野は、大野城の東に城下町を築く。南北六条(一
番町~五番町、寺町)と東西六条に区画して、主に
碁盤の目の町割りで、大通りの中央には水路が本来
あったとされている。また、大野城の鬼門には毘沙
門堂を配置したとされている。
大野市の城下町大通りは、かつて道路中央に用
水が流れていた。( 大野市歴史博物館所蔵 )
天正 14 年(1586)に飛騨を拝領した長近は、
旧天神山城の地に高山城を築城し、城下町は城の北
増島城
西宮川沿いに町割りを行った。一番町から三番町の
町人町と、その東に位置する空町といわれた高台一
高山城
大野城
八幡城
帯に武家屋敷群を配置する。
一方、天正 14 年(1586)8 月に長近より吉城 1
ありしげ
万石を与えられた金森可重は、古川に増島城を築き、
城郭から南の宮川沿いにかけて城下町を築く。一之
町から三之町を中心に碁盤目の町割りを行った。
小倉山城
苗木城
大垣城 加納城
岩村城
高須城
金森長近の居城分布図
長近のまちづくりは、これら 3 城下町と上有知
に共通した都市構造がみられる。城郭の周辺部一帯
には武家屋敷群を配置し、城下町の中核には大通り
を数本配置し、町割り形成が行われている。
割石積み水路と路地(殿町)
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現在の道路断面図(泉町)
四間道の旧一番町通り(泉町)
上有知の城下町は地形的制約から、二番町通りまで
しか町割りはされなかった。現在の一番町通りや二番
町通りは、割石積みの側溝が通りの両側にみられるが、
両側溝間は 7.4m で約四間幅である。この四間幅の通
りが、長近の町割り当初の道幅であったのかは、文献
史料や絵図に残されていないため、不明な点が多い。
享保の大火以降に一番町通り、二番町通りを現在の
道幅に拡張したと考える説と、当初から四間幅の道路
を町割りに採用したとする説がある。
長近がまちづくりを行なった中で、四間以上の道幅
を有したのは越前大野のみであった。長近が越前大野
の町割りに採用した大通りは、中央に水路を設ける構
常盤町内の番水が流れた用水路
造で、町家の防火対策として、また、町家の境には生
活排水用の「背割水路」が整備されている。
上有知のまちづくりにおいても、防火対策は当初か
ら町割りに取り入れられたと考えられ、「目の字」を
中心に割石積み水路が残り、城下の武家屋敷が置かれ
た現在の殿町一帯にもこの水路が残されている。
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町割りに使われて割石積み ( 殿町 )
嘉永 5 年絵図 (1852) に描かれる人工池
上有知の城下町は高台に整備され、水の確保が困
難な場所であったとされるが、鉈尾山山麓には人工
池が造られ、番水といわれる用水網が整備されてい
た。
上有知に残される四間道が当初から計画されてい
たと考えた場合、越前大野と同様に防火対策として
道路中央に水路が造られていたと推定することもで
きる。
一方、名古屋城下町では、大火により四間道に拡
張された事例がある。堀江町、大船町、上納屋橋町
では、元禄の大火や享保の大火により道幅一間や二
間の拡張が行われている。上有知は享保の大火によ
り約3分の2が焼失し、町の中核にあった願念寺は
一ノ下町に移転するが、当時は尾張藩政下にあり、
名古屋城下で行なわれた防火対策のための道路拡張
が、上有知で進められた可能性も否定できない。
いずれにせよ、これらまちづくりの検証は史料的
制約により推定域をでないが、発掘調査等により検
証が可能ではないかと考えられる。 - 21 -
町割りに使われた割石積み ( 泉町 )
曽代用水
曽代用水は寛文 7 年(1667)から延宝 4 年(1676)にか
けて開発され、曽代村、上有知村、松森村、下有知村、関村、
小瀬村を流れる幹線水路 13㎞の用水である。総工費は 5,000
両を越え、八幡神社裏の立岩の掘削は、用水工事の中で最も難
工事であったとされている。百姓相対用水といわれ全国的にも
珍しい成立経過をもつ用水であった。
いがみ
当時、用水は「井」と呼ばれ、上有知、曽代は「井上」と呼ばれ、
いしも
用水の水利を受ける松森、下有知、関、小瀬は「井下」と呼ば
難工事の末にできた曽代用水立岩隧道
れ、しばしば対立し紛争が起きていた。
曽代糸 生糸の生産は古代より武儀郡内で行われてい
たが、江戸時代に入り上質な生糸の産地として
「井上」の曽代は全国各地に知られるようになっ
た。
曽代糸とは、『美濃明細記』に「曽代糸、曽
代絹、当国にては曽代村より糸引きはじめし故
に、武儀郡、郡上よりいづるよき糸を曽代糸と
美濃橋の架橋工事で新たに掘削された隧道
いい、この糸を以て織る絹を曽代絹という。曽
代糸を以て京都にて羽二重等を織る糸となるな
り」とあり、江戸時代中期頃から京においては
高級品の代名詞として取り扱われていた。文化
年間(1804 − 1818)には曽代村の繭糸商に
より年間 3,600 両の取引がされ、武儀郡一帯
で生糸は生産され、直接京に運ばれていた。
明治に入ると、製糸の機械化により美生館、
濃生社、円山製糸などの製糸会社が上有知周辺
江戸時代中頃までは生糸問屋を営み、その後酒造業に
転業した大糸屋 ( 西部家 )。明治から戦前には宮内省
御猟事務所を勤めた。
に多数設立された。明治末からの海外輸出の増
大により中小製糸会社は統合し、大規模製糸会
社である美濃製糸株式会社が大正 8 年(1919)
に設立され、第 2 次世界大戦後まで主要な地
場産業として栄えた。
曽代地区には、郡上街道沿いに曽代用水が流れている。
かつては、街道沿いに多くの生糸問屋が軒を並べていた。
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美濃紙と牧谷
正倉院文書として残る美濃国戸籍料紙は、肥前国や豊前国の料紙に較べて繊維は細かく良質
の紙であったとされる(寿岳、1970)。律令時代の紙生産は官営工房として中央に紙屋院、地
方に紙屋が置かれ公用紙が生産されていた。現存する美濃国戸籍料紙は、奈良時代に国府が置
かれた垂井周辺の紙屋で生産されたと推定されているが(弥永・早川、1971)、当地において
も奈良時代の武儀郡衙(郡府)跡が近年の発掘調査で確認されたことにより、紙屋が存在した
ことが想定されている。武儀郡における美濃紙の生産地は、板取川水系の牧谷と武儀川水系の
武芸谷(関市武芸川町)であるが、奈良時代からすでに生産が行われ武儀郡衙(郡府)に供給
されていたと考えられる。
室町時代に入ると、美濃国守護土岐氏により製紙産業が保護されたことにより、さらに発展
をし、以降、牧谷と武芸谷は美濃国における製紙の中心地となり、牧谷と武芸谷の中間に位置
する大矢田村には大矢田紙市が開設された。紙市の開設時期について詳細は不明であるが、応
仁元年(1467)相国寺僧侶万里は応仁の乱を避け、龍門寺に身を寄せていたが、この時百銭
を投じて求めたのは「岐之紙市」大矢田の「魚牋」であった。万里の詩文集『梅花無尽蔵』に
は大矢田紙市の記述があり、また応仁3年(1469)『京都御所東山御文庫記録』には毎月六度
運送とあり、すでに六斎市が開かれていたことがわかる。
大矢田紙市は上洛紙荷商人公事取立権をもつ京都宝慈院が本所として、本座である近江の枝
村商人により独占運営され、京に運ばれていた。
上有知を中心とした紙郷の分布図
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しかし、戦国争乱により社寺の権威は喪失し、座の特権も失われ
ることにより、枝村商人の支配力はしだいに衰えていくことになっ
た。
正平 11 年(1356)、美濃紙の主産地である牧谷に、市内最古の
禅寺である長蔵寺が建立される。覚源禅師により建立された鎌倉五
山派寺院で、開山堂内には長蔵寺舎利塔及び須弥壇(重要文化財)
が置かれ、鎌倉より招来の仏舎利が納められている。
美濃紙が全国に普及した要因としては、こうした禅宗寺院や歌
人が大きく関与したとされている。『鹿苑日録』(長享元年(1487)
-慶安4年(1651))には美濃紙を贈られた記録があり、また、
『実
大矢田紙市跡の六地蔵
現在は、太清寺に移されている。
天正 11 年 (1356) に建立された長蔵寺 ( 本堂 )
隆公記』(天文4年 .1535)の明応 4 年(1494)3 月 22 日
の条に飯尾宗祇が美濃紙十帖を贈る記載があり、五山僧侶や
歌人そして貴族の贈答用に多用された。
近世に入り、この地を所領した金森長近は紙漉生産者の保
護政策を行う。また、美濃紙が幕府御用紙となったことが美
濃紙生産の繁栄の礎となった。
関ヶ原の戦いで、徳川家康は御手洗村の彦左衛門等に軍勢
を指揮する采配の紙を申し付けた。東軍が勝利し幕府が開か
れた後も、この吉例を以て采配紙や障子紙も幕府御用紙と
なった。幕府御用紙を漉く紙漉生産者は「御紙漉屋」と呼ば
れ、生産者が直接御用改役を経て納入していた。御用改役と
は幕府御用紙を集め、笠松役所を経て江戸に送るのが役目で、
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長蔵寺舎利塔及び須弥壇(重要文化財)
御用紙を集積する蔵が笠松、山県郡三輪村に所在し
ていた。
こうした生産者直納は元文元年(1736)まで続
き、その後、御用紙納入権は紙商人に移るが、生産
者の特権や利益が少なくなったことから、御用紙直
納の嘆願が出され、天保 13 年(1842)にこの生
産者直納制度が復活した。しかし、天候不順等に
徳川家康の采配(和歌山東照宮所蔵)
より原料が高騰し御用納入ができなくなり、嘉永 7
年(1854)からは江戸商人により御用納入は独占
されることになった。
明治時代に入ると、紙の需要の増大により、それ
まで紙舟役により制限されていた紙漉業は増大し、
最盛期の明治 45 年(1912)前後には武儀郡内で
製紙戸数は約 3,700 戸あり、紙、原料を扱う問屋
須田製紙工場 ( 明治 30 年代)
も 26 戸へと増えた。
需要が飛躍的に増加したことにより、上有知には
全国の楮が集散した。「津保草」だけでは需要を賄
うことができなくなり、原料問屋は全国から楮を仕
入れた。美濃国の楮の中でも最上級の楮であった津
保草であったが、この津保草と繊維の質が近い常陸
(茨城)産楮のすべてが上有知に集散した。原料問
屋「松久家」(屋号ヤマジョウ)はこの常陸産楮を
町名改称願書
最も多く取り扱い、「松久の主人が茨城行きの切符を買うと楮の相場が大きく変動した」とい
われたほどであった。楮の産地は原料問屋にとっては企業秘密であり、常陸産楮は隣国栃木の
那須の地名をとり那須楮と呼ばれ、今日までこの呼び名が定着した(柳橋、1987)
。 明治 19 年(1886)の 旧戸籍法関連の政府通達では、戸籍用紙は美濃紙を用いることになっ
た。また、美濃紙の需要の増大は、改良書院紙、便利書院、謄写版原紙、東洋紙、床温紙など
の新たな生産品種を生むことになる。平安時代に記録の残る天具帳は薄紙で、海外需要の増大
により大量に生産され、タイプ原紙やコーヒーフィルターとして用途が変わっていった。
需要の増加は新たな製紙技術の改良へと進んだ。その中心となったのは幕末から紙問屋を営
んでいた須田家で、その当主が明治 27 年(1894)に衆議院議員となった須田万右衛門であっ
た。須田は流通市場からの粗悪品の排除や須田製紙工場を設立し、製紙マニュファクチャーを
実現させた。工場には百人前後の労働者を雇用し、各種工程を分担作業させることで、生産性
の向上とコスト削減を行った。また、原料の叩解作業や紙絞り作業の機械化を実施し、後に、
この機械は大正時代頃から紙漉き農家に普及した。
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【近代から現代】
水運から陸送・鉄道へ
明治時代に入り、政府は生糸を輸出振興の中核とし、また、和紙も海外に輸出され需要が増
こ う づ ち
大する。上有知では美濃紙の生産技術改良が進み、製紙工場の近代化が進んだ。一方で、物流
に係るインフラの整備が、岐阜県下では岐阜市に次いで着々と進められていった。
中世から物流の中心であった水運では、明治に入りさらに取扱量が増大する。岐阜県下四湊
は岐阜、上有知、笠松、大垣であったが、上有知
湊の取扱額は明治 16 年(1883)で移出入額 387,
478 圓で、岐阜、笠松に次いで3番目であった。
移出品は生糸、美濃紙、粗銅で、生糸の移出額が最
も多く 23 万圓を超えていた。
明治初年には岐阜で通運会社が設立され、上有知
川湊には通運取次所が置かれ、
「遠藤前」と称された。
上有知湊のゆうせん
上流の立花、佐ヶ坂、上河和や下流の笠神にも取次
所が置かれ、さらに立花発桑名行きの定期客船「ゆ
うせん」が運行されていた。
しかし、当時は上有知から岐阜まで 2 時間程か
かったとされる船便は、その後、陸路の整備や乗合
馬車の運行、明治末期の電車の開通等により次第に
乗客数が減少し、鉄道へと移り、その歴史に幕を閉
長良川発電所本館(登録有形文化財)
じた。
明治 43 年(1910)に名古屋電燈株式会社の長
良川水力発電所(登録有形文化財)が建設され、発
電された電気は主に名古屋へ送電された。また同
年、地元資本により板取川電気株式会社が設立され、
安毛第一発電所から武儀郡一帯に送電が開始され
た。明治 44 年(1911)2 月には、板取川電気株
美濃電気軌道「上有知停車場」 (明治 44.1911)
式会社から電力供給を受け美濃電気軌道株式会社が
設立され、上有知−岐阜間に電車が開通した。開業
当初の路線は岐阜駅前から今小町間 1.4Km の複線
と柳ヶ瀬から上有知間 24.9Km の単線で営業が行
われ、美濃電気軌道株式会社の取締役 7 名のうち、
松久永助、正木三郎四、須田清英の 3 名はともに
上有知の紙商人であった。
旧名鉄美濃町線美濃駅本屋、プラットホーム及
び線路 ( 登録有形文化財 )
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その後、大正 12 年(1923)には国鉄越美南線美濃太田駅-美濃町駅が開通し、市街地中
心部の俵町から美濃町駅まで新たな道として広岡町通りが開通することで、川湊を中心とした
物流の拠点や町の繁華街は、町の東南部に位置する駅前通りに移ることになった。
陸路の整備としては、長良川が最大の難所であった。当時、県内を南北に貫流する長良川に
架かる橋は、明治 7 年(1874)に架けられた岐阜の長良橋のみであり、美濃紙の生産地から
上有知へ物資を運ぶためには荷馬車により牧谷街道を通り、前野渡しを利用して川を渡り、再
び牧谷街道によって運び込むしか方法はなかった。こうした状況の中、明治 45 年(1912)
に美濃町議会は架橋申請書を県に提出し、いったんは許可されなかったが、大正 3 年(1914)
に再提出し許可された。大正 4 年(1915)8月に起工、大正 5 年(1916)8月に竣工し、
み の は し
美濃橋(重要文化財)と命名された。
牧谷街道に通じる美濃橋(重要文化財)
明治 45 年(1912)に県に出された橋梁架設起工申請書
下渡橋竣工式(昭和 6 年 .1931)
美濃橋竣工式(大正 5 年 .1916)
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小倉山城跡から小倉公園へ
明治 4 年(1871)の廃藩置県まで、小倉山城本丸跡には尾張藩の上有知代官所が置かれ、
二ノ丸跡には郷倉が、三ノ丸跡には郷宿が置かれていた。明治 9 年(1876)、城跡内に有知
学校が建設されると、明治 44 年(1911)の移転までこの地は文教の中心地となった。明治
16 年(1883)には三ノ丸と長之瀬川の間、旧武家屋敷跡に上有知役場が建設され、明治 32
年(1899)にはそれまで常盤町内にあった武儀郡役所が三ノ丸跡内に移転する。郡役場が城
跡内に移転されることで、昭和 48 年(1973)の市役所移転まで小倉山城跡は、武儀郡・美
濃町(市)の行政の中心地となった。
御料林であった小倉山は、明治 24 年(1891)の濃尾大震災で壊滅した岐阜のまちを復興
するため樹木の伐採が行われ、明治 27 年(1894)に町管理地となり小倉公園として開園する。
明治 33 年(1900)には政府からの払い下げにより正式に町有地となり、明治 44 年(1911)
から本格的な近代化改修工事が進められた。
公園の設計は、当時東京市の造園技師であった長岡安平に委嘱した。長岡の公園設計は当初
小倉山から東に流れる長之瀬川に至る広大な設計で、自然河川を利用した庭園と城跡内の本丸
跡には茅葺きの茶寮小倉庵、菖蒲池、猿舎、桜の植樹、小倉山山頂への遊歩道、長良川を見渡
す棧道等が計画されていた。工事は明治 45 年(1912)に完了するが、実際の整備は城跡に
集中し、長之瀬川を利用した庭園は実現されなかった。また、二ノ丸跡には草競馬場が造られ、
美濃電気軌道開通式典や美濃橋竣工記念式典の会場として使われ、大正、昭和と各種式典開催
の中心地として利用された。
昭和 60 年代には、市の公園整備により本丸跡には疑似櫓が、二ノ丸跡は駐車場として整備
され、今日に至っている。
小倉山城跡に建てられた有知学校
小倉公園内の小倉庵(大正時代)
小倉公園内本丸跡へ登る階段 ( 大正時代)
小倉公園入り口、現在の文化会館前(大正時代)
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長岡安平により設計された公園設計図(明治 44 年 .1911)美濃市教育委員会所蔵
< コラム > 長岡安平と小倉公園
長岡安平は天保 13 年(1842)に大村藩彼杵村に生まれ、独学で造園研究を行った明治から大正にかけて
の日本を代表する造園技師である。明治 11 年(1878)に東京府の公園係技術者となり、以後全国の主要な
公園設計にも携わり大正 14 年(1925)に没した。
長岡が設計に携わった公園には広島県厳島公園、東京都飛鳥山公園、芝公園、札幌大通り公園等があり、小
倉公園の設計は明治 44 年(1911)9 月に完了し明治 45 年(1912)造園工事は完了した。この造園工事により、
小倉山城跡北側にあった竪堀は埋められ二ノ丸跡は善光寺側と通じた。また北側の本丸石垣が一部削られ二ノ
丸跡から本丸跡に通じる坂道が新設されている。園内の東屋や遊具、ベンチ、公園内の棧道の設計も長岡によ
り行われた。設計段階では小倉山と麓の長之瀬川に庭園が計画されたが、造成工事は小倉山のみが行われた。
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公園内の遊具、ベンチ、東屋の設計図
小倉山西側の急峻な
崖部の棧道設計図
花街界隈
大正時代に入ると、小倉公園は桜の名所
として県内で名が高くなり、多くの花見客
が集うようになった。園内には料亭小倉館
や朝日楼が建てられ、公園から「うだつの
上がる町並み」に延びる御嶽新道界隈には、
多くの料亭、小料理屋が軒を並べた。また、
大衆歌舞伎、剣劇等が上演された小倉座や
検番があり、花街が形成され、一時新富町
と呼ばれた時期もあった。
大衆演劇が上演された小倉座
花街は、大正から戦前にかけて最盛期を迎え、その象徴として新民謡が製作された。作詞西
条八十、作曲中山晋平により「美濃町音頭」「美濃町小唄−ナントショ」の 2 曲がつくられ、
戦後まで夏の夜の盆踊り歌として市民に親しまれた。
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宮内庁御料場(御猟場)
長良川の鵜飼は、『倭名類聚抄』(937 年)に方県郡鵜飼郷との記載があり、この頃から鵜
飼が行われていたとされている。上有知一帯の長良川(藍見川)では近世のころから鵜飼が行
われ、尾張藩に毎年献上されていた。村瀬藤城の『観烏鬼捕魚記』(文化 10 年 .1813)には、
「香魚濃国諸水皆生為。而自吾藍水最美。~美極者不充王公供御。是藍水所以為最美。~自古
以為貢物。又献幕府及尾張藩云。」( 香魚は、濃国の諸水に皆生ず。而して吾が藍水最も美なり。
~美極まる者は、王公の供御に充てず。是れ藍水の最も美為る所以なり。~古より以て貢物を
為す。又は幕府及び尾張藩に献ずと云ふ。) とある。
明治 23 年(1890)、長良川では古津、立花、嵩田の 3 ヶ所が宮内省御猟場として編入さ
れ、ここで行われる鵜飼は御猟鵜飼となった。立花御猟場は長良川と板取川の合流地点から
上流 1.2km に位置する立花地内と定められ、関市小瀬の鵜匠が遡上して鵜飼を行っていたが、
明治末年頃には鵜飼を行う範囲は立花発電所下流から小倉山西側の美濃橋下流辺りまでに広が
り、大正時代から昭和 10 年代までは美濃橋周辺において観覧鵜飼が行われ、多数の遊船で賑
わった。
立花御猟場の南、曽代地区の旧郡上街道沿いには宮内省御猟事務所が置かれ、看守として代々
西部家がその職を受け継いでいた。西部家の屋号は「大糸屋」で、もとは曽代糸を扱う生糸問
屋で、江戸時代中頃から酒造業を営み、「白糸」、「名門」等の銘柄を醸造していた。
御猟鵜飼は毎年夏に一回行われ、宮内省主料官が西部家を訪れ、献上鮎の選別、発送を執り
行った。戦後、御猟場は、宮内庁の「御料場」として使用される以外は禁漁区となり、御猟場
看守は「式部」となり、平成 15 年(2003)まで西部家が式部を務めた。しかし、鵜飼舟の
遡上が困難なことなどから、現在、立花での鵜飼は行われなくなっている。
明治時代に上有知湊で行われた鵜飼
- 31 -
街道と町の変革
こ う づ ち
江戸時代、上有知を中心に五街道が放射状に延び、上有知は交通の要衝であった。
津保街道(飛騨街道)は御坂峠を越え、飛騨金山、飛騨高山へと通じ、金森家本領へ向かう
街道であった。街道沿いの津保川流域は美濃紙の原料である楮(津保草)やお茶の葉の栽培が
盛んに行われた地域で、金森長近はこの街道筋の氷坂に番所を設け、津保谷の物資が関へ流れ
ぬようにしたとされ(『上有知旧事記』)、最も重要な基幹街道として整備をした。津保街道は
江戸時代以前からの主要街道で、室町中期の連歌師飯尾宗祇の句に「関超えて爰も藤しろ御坂
哉」とあり、中世には既に飛騨へ通じる主要街道であったことがわかる。
郡上街道は長良川沿いを北上し、郡上八幡、郡上白鳥そして金森家のかつての所領越前大野
へと通じている。中世以降は白山信仰で栄え主要街道であった。
岐阜街道は長良川沿いを南下し、志摩、小瀬、芥見を通り岐阜町や中山道の通る加納宿へと
通じた。牧谷街道や武芸街道はともに美濃紙を運んだ道で、上有知と美濃紙の生産地を結ぶ重
要な街道であった。
牧谷街道には長良川を渡る「前野の渡し」、板取川を渡る「長瀬の渡し」があり、武芸街道
には長良川を渡る「下渡の渡し」があり、それぞれ交通の難所であった。こうした主要街道が
延びる上有知のまちは、幕末まで長近が町割りを行った当時と大きな変革はなかった。
明治に入り、美濃紙の需要増大により商業の中核地として発展をした商家町上有知は、しだ
いに拡張を続け、道路の整備も急速に発展した。小倉山城跡一帯には小学校や村役場等が建設
され、文京地区となったため、明治 15 年(1882)には小倉山と本住町(旧一ノ中町)を結
牧谷街
道
上有知湊
郡上街道
前野の渡し
打上坂(有知上坂)
小倉山城
津
保
総門
下
城
有
上
町
知
)
(小野街道
関街道
街道
岐阜街道
武芸
江戸時代の主要街道図
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街
道(
飛
騨
街
道
)
御坂
峠(飛
騨へ
)
ぶ新道が整備され、御嶽新道と呼ばれた。明治 20 年(1887)から 30 年代には旧城下町南部
に道路が新設される。それまで岐阜街道へと通じる赤岩口は狭く急な坂道があり、交通の障害
となっていた。そのため清泰寺の塔頭円通寺から南へ延びる新たな岐阜街道が建設された。こ
の道路の完成により、明治 30 年頃から上有知−岐阜間の乗合馬車が運行を始め、現在の米屋
町一帯には乗車場が整備された。
明治 44 年(1911)にはこの乗車場を起点に、岐阜まで美濃電気軌道が開通する。乗車場
は上有知電車停留所となり、関街道沿いが電車軌道となった。大正 12 年(1923)には国鉄
越美南線美濃町駅が開設され、それに伴い広岡町通りが新設され美濃電気軌道の停留所も国鉄
美濃町駅よりに移設され新美濃町駅と改称した。こうした新たな交通機関の出現により、町の
中核地は駅前通りの広岡町や隣接する俵町(旧二ノ下町)に移り、多くの商店が軒を並べるこ
とになる。
一方、明治 40 年(1907)から大正にかけては、武儀郡全体で製紙戸数は 3,500 戸を越え、
製紙業の最盛期であった。上有知と美濃紙の主産地牧谷を結ぶ牧谷街道の間は長良川があり、
天候の変化により、しばしば交通は遮断される状況下にあった。そのため、それまで街道を結
んだ前野の渡しの上流に大正 5 年(1916)美濃橋(重要文化財)が架橋された。この架橋に
より美濃紙の生産地と上有知の交通は飛躍的に改善し、美濃紙の需要供給と生産は増大するこ
とになった。また、牧谷街道沿いの板取川には大正 6 年(1917)長瀬橋が、長良川の上流に
は大正 9 年(1920)立花橋が、長良川の下流には昭和 6 年(1931)下渡橋が架橋され、美
濃町と周辺地域の交通網が整備されていった。
郡上街道
牧
谷
街
道
美濃橋
道
新
嶽
御
津
保
街
道)
(小野街
武芸
関街
道
新岐阜
街道
旧岐阜街道
街道
新美濃町駅
美濃町駅
大正時代の主要道路図
- 33 -
道
町組組織、当本組組織
現在、市の中核である「うだつの上がる町並み」を中心とした旧美濃町(上有知)地区には、
町組や当本組と呼ばれる組織が今も残されている。
町組は太平洋戦争時代(1941 - 1945)に作られた地縁的な自治防災組織とされるが、明治、
大正時代にこうした組織が既に存在していたと考えられる。現在 11 町内に町組が残り、1つ
の町組は 10 から 15 戸で構成され、泉町には最も多く 16 組がある。
一方、各町内には美濃まつりに係る当本組制度が残っている。当本組は明治以降に創られた
制度と考えられ、戦前までは町費を多く納める家が親当本となり祭礼を支えていたとされている。
「地方」といわれる上条、西市場、東市場、「町方」といわれる 11 町内には、1戸の当本が
祭当本となり町内の祭礼運営の中心となるもの、複数の当本で祭礼運営を行うもの、複数の町
組で祭当本を構成し祭礼運営にあたるもの、1つの町組が祭礼運営の中心となるものがあり、
各町内によりその形態は異なっている。当本運営は経済的負担や時間的負担がかさむため、当
本組制度が本来の形態から変容していく傾向がみられる(小寺、1995)。
町方の町組現況図
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【現代】
昭和に入り、美濃町はこの地方の政治経済の中心地として活況
をみせ、主要地場産業であった製紙、製糸の最盛期を迎えたが、
次第に戦時統制による輸出の減少により、製紙戸数は減少し、製
糸業も減少した。戦後一時、活況を呈したが、機械漉きや障子紙
需要の減少、戦前戦後を通じて全国一位の生産額であった鉄筆
原紙は、コピーやタイプに変わり、需要は減少した。昭和 21 年
(1946)には手漉き製紙戸数は 801 戸あったが、昭和 50 年(1975)
大正時代の町章
には 77 戸へと減少した。
昭和 29 年(1954)、美濃町は周辺の 6 ヶ村と合併し美濃市となり、小倉山麓にあった旧美
濃町役場を市庁舎として発足した。市章は、大正時代すでに使われていた亀甲形三つを組み合
わせた美濃町章が引き続き使われた。この市章は、
「美濃(三の)」を図案化したものであり、
「の」
の字を亀甲形にしたのは、金森長近により造られた城下町上有知が、亀の甲の形に似た小高い
丘で中世には亀ヶ丘と呼称されていたことに由来するといわれる。
美濃和紙を後世に
日本の伝統文化の一つである和紙文化を歴史遺産として再認識し、美濃和紙を後世に伝える
様々な取り組みが、毎年市内で行われている。また、江戸時代以来の伝統的製作技法を伝承す
る「本美濃紙保存会」や「美濃手漉き和紙共同組合」の活動とともに、さらなる和紙文化のグ
ローバリズムの推進を図っている。
美濃和紙の里会館
美濃和紙の主産地である牧谷地区に平成 7 年
(1995)開館した美濃和紙の里会館では、毎年和
紙に関連する各種企画展、紙の芸術村作品展等を
開催している。また、将来和紙職人を目指す人々
を対象に、手漉き和紙基礎スクールを 3 月と 11
月に実施し、手漉き和紙の後継者育成を図るとと
もに、館内は来館者が気軽に紙漉き体験ができる
美濃和紙の里会館
施設となっている。
美濃和紙あかりアート館(旧美濃町産業会館、
登録有形文化財)
平成 17 年(2005)に 登録有形文化財となっ
た旧美濃町産業会館は、美濃和紙あかりアート館
として活用されている。施設は美濃和紙あかり
アート展を再現し、一年を通して幻想的なあかり
アートの世界を楽しめる空間を提供している。
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作品が常時見学できる「美濃和紙あかりアート館」
美濃・紙の芸術村
美濃・紙の芸術村は、市民ボランティアを中心
に美濃・紙の芸術村実行委員会が組織されている
のが特徴で、毎年世界各国からアーティストを募
集し 5 名程度を選出して、美濃市に招聘してい
る。選考者は約 3 ヶ月間市内のボランティア宅
にホームスティをしながら、美濃和紙を素材とし
て創作活動等を行い、小中学校でのワークショッ
プの開催や製作工房の公開、美濃和紙あかりアー
うだつの上がる町並みで、アーティスト
と共に創作活動を行う小学生
ト展での作品の展示などを行い、市民との交流が幅広く行われている。
美濃和紙あかりアート展 毎年 10 月の体育の日前の土曜日及び翌日に開催される美濃和紙あかりアート展は、美濃和
紙を用いたあかりのオブジェを全国から公募し、その作品を「うだつの上がる町並み」に展示
している。作品は商家の軒先に並べられ、美濃和紙とうだつの上がる町並みの幽玄な温もりを
醸し出し、情緒ある風情をみせている。開催期間
には約 10 万人の観光客が訪れている。
美濃和紙あかりアート展を見学する人々
うだつの上がる町並みに、幽玄な輝きをみせる「美濃和紙あかりアート展」
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紙の国際交流
中国で発明された紙は、朝鮮半島を経由し
大宝 6 年(610)に日本に伝えられた。これ
と同じ流れをもつ韓国の紙は「韓紙」と呼ば
れ、その産地である韓国原州市と美濃市は友
好交流を進めている。
平成 20 年(2008)10 月、原州韓紙文化
祭実行委員会の委員が、美濃和紙あかりアー
ト展の作品を韓国国内での紙のイベントに出
韓国原州市での協定締結式
展要請したのを機に交流がはじまり、平成
22 年(2010)10 月に紙文化の交流を目的
とした協定を締結した。原州市韓紙博物館に
は美濃和紙の常設展示室が設けられている。
なお、韓国ではトレース紙のような薄い紙
をミノンジといい、日本の美濃紙が語源と伝
えられている。
美濃和紙の里会館で開催された原州韓紙特別展
- 37 -
4.指定等文化財の分布
美濃市の国指定等文化財
美濃市には、国指定文化財 9 件、選定文化財1件、
記録選択 2 件、登録文化財 12 件が所在する。国指
定文化財の内訳は、建造物 5 件、史跡 1 件、無形
文化財(工芸)1 件、天然記念物 2 件である。
建造物は中世の「長蔵寺舎利塔及び須弥壇」、「鹿
苑寺地蔵堂」、近世の「小坂家住宅」
、
「大矢田神社
み の は し
附棟札」、近代の「美濃橋」で、各時代、各地域
を象徴する歴史遺産が残る。
長蔵寺は覚源禅師を開山として正平 11 年(1356)
に創設された美濃市内最古の禅寺である。覚源は下
総の名族千葉氏の出で、鎌倉円覚寺で修行した名僧
で、美濃国守護土岐氏の援助で長蔵寺を開いた。覚
源は円覚寺の仏舎利を分け、長蔵寺舎利塔に安置し
長蔵寺舎利塔及び須弥壇(重要文化財)
た。舎利塔は宝塔の形式をとり、方格の屋根を円形の軸部で受ける変化に富んだ形で、屋根の
上には相輪を上げ組物は四手先、軸部の扉の透かし模様も美しく、貴重な建造物として重要文
化財に指定されている。昭和 50 年(1975)に全面的に修理を行い、その時に天文年間(1532
- 1555)の修理銘が確認されている。
重要無形文化財は「本美濃紙」で、古代からの製作技法を継承する伝統工芸である。そのほ
かに、史跡「弥勒寺遺跡群丸山古窯跡」、天然記念物「楓谷ヤマモミジ樹林」、「洲原神社ブッ
ポウソウ繁殖地」がある。 重要伝統的建造物群保存地区である「美濃市美濃町伝統的建造物群保存地区」は、美濃紙を
中心に商った商家が立ち並ぶ、江戸か
ら明治にかけての「うだつの上がる町
並み」である。
登録有形文化財は「長良川発電所本
館」他 8 件、
「旧美濃町産業会館」(あ
かりアート館)、「旧名鉄美濃町線美濃
駅本屋」、「旧名鉄美濃駅プラットホー
ム及び線路」で、近代美濃町 ( 上有知 )
の繁栄を物語る遺産である。
記録作成等の措置を構ずべき無形の
旧名鉄美濃町線美濃駅本屋 ( 登録有形文化財 )
民俗文化財は、「大矢田のヒンココ」
- 38 -
と「美濃流しにわか」がある。大矢田のヒン
ココは、大矢田ヒンココ保存会により毎年春
の大矢田神社祭礼と秋のヒンココの舞が行わ
れ、御旅所のある小山の中腹で演じられる人
形劇である。
美濃流しにわかは、美濃まつりの試楽祭と
本楽祭の夜に各町内で行われ、落語と漫才の
中間的性格を持つ落しのつく話芸である。伝
統的「流しにわか」の形態をよく保ち、庶民
が楽しむ大衆芸能として貴重な存在である。
洲原神社楼門 ( 市指定文化財 )
美濃市の県、市指定文化財
県指定文化財は 31 件、市指定文化財は
82 件である。
県指定文化財としては「洲原神社本殿」、
「洲
原神社社叢」等があり、洲原神社御山の「鶴
形山暖地性植物群」は県指定天然記念物に指
定されている。貞享 2 年(1685)に尾張藩
主により洲原神社に寄進された「商船之図絵
馬」は県指定有形文化財に指定されている。
拝殿、舞殿、楼門、長柄銚子、釣灯籠、木製
商船之図絵馬
狛犬等は市指定文化財に指定されている。
また、県指定有形民俗文化財として美濃まつり「祭
礼 」6 輛が指定されている。
禅定寺梵鐘(県指定文化財工芸品)は明応3年
(1494)の銘があり市内最古の鐘である。
大矢田神社の大般若写経(市指定文化財)は、も
と禅定寺に所蔵されていたもので、総巻数は 135
巻 で、 応 永 年 間(1394 − 1428)102 巻、 永 享
年 間(1429 − 1441) 2 巻、 文 明 年 間(1469 −
1487)31 巻があり、応永年間のものには筆者浄順
とあり、中に願主源氏重と記されている。
市指定文化財の建造物は 8 件あり、伝統的建造
物群保存地区内の「卯建連棟家屋」、
「旧今井家住宅」、
「旧有知学校」などで、伝統的建造物群保存地区の
- 39 -
禅定寺梵鐘
中核をなしている。旧有知学校は、明治 9
年(1873)に小倉山城跡に建てられ、明治
43 年(1910)に宝勝院庫裡として旧有知学
校校舎の南側正面部分が移築されたものであ
る。
無形文化財は、「美濃手漉和紙用具製作技
術」を本美濃紙と一体として後世に伝えるべ
き重要な技術ととらえ、指定している。
「上野の虫送り」、「御手洗の虫送り」(市指
定無形民俗文化財)は、牧谷の上野地区と御
旧有知学校 ( 市指定文化財 )
手洗地区で行われる豊作祈願の行事である。
夏の土用の三日目は土用三郎といい、この日
に各集落の氏神様に集まり、藁で馬に乗った
武将と、その奥方に侍女の三つの人形をつく
り、行列の先頭に齋藤別当実盛公と大書した
旗を掲げ、次いで三体の人形が続き、田畑を
回り、農作物の豊作を願い手にする小枝で作
物をなでながら、隣村の境まで行き、そこで
般若心経を唱え、持ってきた人形をその場に
御手洗の虫送り
立て置き帰ってくる民俗行事である。
指定等文化財件数一覧
建造物
美術工芸品(絵画)
美術工芸品(彫刻)
有形文化財
美術工芸品(工芸品)
美術工芸品(古文書)
美術工芸品(考古資料)
無形文化財 工芸技術
有形民俗文化財
民俗文化財 無形民俗文化財
国指定 県指定 市指定 国選定 国登録 国選択
5
1
8
12
3
3
15
31
6
11
3
2
1
1
1
2
3
記録作成等の措置を
講ずべき無形の民俗文化財
史跡
名勝
天然記念物
重要伝統的建造物群保存地区
合計
2
1
1
2
2
15
1
2
9
29
82
記念物
- 40 -
1
1
12
2
美濃市美濃町伝統的建造物群保存地区
中世末期から近世初頭の京の町を描いた『洛中洛外屏風』には、多くの町屋が板葺屋根に板
葺うだつや草葺うだつとして描かれている。これらは隣家との区切りや小口を保護するためで
あったとされる(川島 1992)。江戸時代に入ると、「うだつ」は次第に防火壁としての機能が
大きくなり、漆喰で固められたものへと変化していった。うだつは京を中心に中山道沿い、北
陸道沿い、東海道沿い、西は山陰道沿い、山陽道沿いへと全国に波及していった。最北端は北
海道函館まで広がり、特に中山道沿いに濃密に分布しているとされ、現在、うだつの分布する
地域は明治初期まで京文化の影響下にあった地域だとされている(中西、1990)。
上有知は近世以来、美濃紙の商いで多くの商人が京、大坂と上有知を往来し、上方文化が浸
透したと考えられるが、鬼瓦や鳥衾付拝巴瓦を掲げる豪華なうだつは他の地域には見られず、
上有知の特徴であった。徳島県脇町や長野県海野宿などの下屋根庇にうだつが設けられたもの
も、明治以降に殿町界隈や上有知銀行等に作られたが、これらは大坂の商家を中心に流行した
ものといわれる(中西、1990)。
上有知は亀ヶ丘と呼ばれた丘の上につ
くられた町で、水害や地震には強かった
が、水利に乏しいため、火災が一旦発生
すると惨事となった。火災は幾度か発生
したが、とりわけ享保 8 年(1723)の
火災は、町の 4 分の 3 を焼失するとい
う大火であった。
明治時代の上有知銀行のうだつ
函館
盛岡
長野
信濃大町
小諸
名古屋
和田
南木曽
中津川
大津
京都
津島
津
彦根
近江八幡
草津
下久手
美濃太田
関
長浜
高島
美濃
岐阜
大垣
松本
長久保
奈良井
海津
今庄
和田山
舞鶴
宮津
今津
下麻生
郡上八幡
鯖江
豊岡
伊根
八鹿
村岡
竹田
武生 勝山
海野
高山
川越
妻籠
飯田
恵那
有松
松阪
小豆島
脇町
つるぎ町
宇陀松山
内子町
日田
全国のうだつの分布図 ( 中西、1990 より一部加筆 )
- 41 -
防火対策として屋根の両端に防火壁のう
だつを上げたり、屋根上に秋葉様(屋根神
様)が祀られるなど、町民の防火に対する
願いが今でも町並みの随所に色濃く残って
いる。伝統的建造物群保存地区は度重なる
火災によりその多くを焼失したが、町割は
変わることなく現在に受け継がれ、商家の
町として近年まで栄え、当時の面影が残さ
れている。特に、美濃の町並みを語るとき
にうだつをなくしては語れない。うだつが
これほど多くまとまって残っている町は全
国的にも珍しく、現在 19 棟のうだつ家屋
平田家のうだつ ( 伝統的建造物群保存地区内 )
明治初年に建てられたうだつ家屋で、江戸時代の町家に比べ
2 階部分が高くなっている。
が保存されている。
うだつ家屋
美濃市伝統的建造物群保存地区内うだつ分布図
名 称 美濃市美濃町伝統的建造物群保存地区
所在地 岐阜県美濃市教育委員会
区 域 魚屋町の全域並びに相生町、泉町、加治屋町、俵町、
常盤町及び本住町の各一部
面 積 約9.3ヘクタール
(官報告示 平成11年5月13日付け文部省告示第112号)
- 42 -
歴史的価値の高い建築物
旧今井家住宅・美濃史料館
旧今井家住宅は「うだつの上がる町並み」の代表
的商家で、市の施設として、平成7年(1995)か
ら一般に公開されている。旧今井家は江戸時代中頃
から昭和 16 年(1941)まで紙問屋を営んだ紙商で、
間口 12 間、奥行 80 間の敷地に建坪 96 坪で中二
階を持つ、市内最大規模の間取りである。紙商人の
全盛期を今に残し、うだつの上がる町並みの中核施
設として多くの観光客で賑わいをみせている。
旧須田万右衛門邸
旧今井家住宅・美濃史料館 ( 市指定文化財 )
明治時代から戦前にかけて紙商を営んだ今井兵四郎紙店
旧須田万右衛門邸は、雁行する三棟が並ぶ市内で
は珍しい形で、塗籠造りである。
須田家は、万右衛門を襲名する素封家で、上有知
一番の大地主といわれていた。戦後の農地解放によ
り多くの田畑を失ったが、現在でも多くの土蔵を残
し、広大な屋敷構えは往事をしのばせる造りとなっ
ている。明治 27 年(1894)
、当主が衆議院議員に
選出されると、金鉱山の試掘や地元の有力者たちと
旧須田万右衛門邸
有知銀行を開業し、紙業会社須田商会を設立するな
どこの地方の経済発展に大いに貢献した。
紙漉家屋
牧谷地区で見られる伝統的な紙漉家屋は「紙屋」と呼ばれ、住居と製紙作業場が一体となっ
た建物である。
建物外観は、板干し(天日乾燥)を行うため南に面して広い庭が設けられ、原料の水晒しや
ちり取りを行うための井戸や、通常は共同で設置する川屋と呼ばれる小屋が敷地内に設けられ
る場合もある。内部は、玄関を入り右側が作業場として仕切られ、漉き舟が中央に配されてい
る。作業場へは蔀戸を通して外からの光を取り込むようになっており、住居とは玄関から真っ
直ぐ続く土間で仕切られている。土間の左側にある座敷は来客用で、土間の先には台所が設け
られている。また、建物の 2 階部は当時、生業として行われていた養蚕用の作業所として利
用されていた。 - 43 -
清泰寺
清泰寺は、臨済宗妙心寺派(特例地)で金森家の
菩提寺である。寺は正保元年(1664)に焼失した
とされ、現在の本堂、書院、勅使門、鐘楼は明和 4
年(1767)の再建で、庫裡は天保年間(1830 -
1844)の改築とされている。
本堂は奥行き桁行7間、梁間 13 間で 6 室に区
切った方丈形式の入母屋造で、軒先は吹寄せと言わ
れる珍しい形をし、奥に開山堂を付す大規模な禅宗
建築である。本堂西側には書院庭園があり、金森宗
清泰寺本堂
和作と伝えられている。本堂裏には、佐藤一族、金
森長光の墓、幕領時代の代官石原氏一族の墓がある。
円通寺
たっちゅう
寛永 3 年(1626)に清泰寺塔頭として建てられ
た臥龍山円通寺は、清泰寺四世北州祖秀により建立
され、以安寺山北裾に位置する。寺内には漢学者村
瀬藤城、太乙の村瀬一族や国学者河村内郷の墓がある。
本堂は桁行 6 間、梁間 4 間の入母屋造、2 間幅
の破風屋根の玄関を持つ。円通寺は城下町入り口の
旧岐阜街道に接している。
清泰寺塔頭として建てられた円通寺
願念寺
願 念 寺 は 浄 土 真 宗 大 谷 派 の 寺 院 で、 永 禄 年 間
(1558 - 1570)に三河より移り、当初は、現在の
殿町旧須田万右衛門邸あたりに所在した。金森長近
の新城下町建設により二ノ中町に移り、大門は魚屋
横町の中程に開けていた。この一帯は、中世に土
岐氏の一族浅野氏により建立された竹林庵があり、
願念寺はこの時から山号を竹林山と改めた。享保 8
年(1723)に上有知の大火により願念寺も類焼し、
その後、浅野氏下屋敷のあった一ノ下町に移った。
本堂の再建は延享 4 年(1747)、山門の再建は
文化 3 年(1806)である。その後、昭和 27 年(1952)
に本堂と庫裏は焼失し、山門、宝蔵は焼失を免れた。
現在の本堂は昭和 38 年(1963)に再建され、庫
裏は曽代村の町家を移築したものである。
- 44 -
かつては、二ノ中町にあった願念寺
教泉寺
教泉寺は浄土真宗本願寺派で、越中聞名寺末教了
が鵜沼に建立し、その後、上有知村上野に移り、金
森長近の新城下町建設により慶長8年(1603)に
現在の地に移された。四脚門左に鐘楼、本堂は桁行
7間、梁間7 間の入母屋造、右手に庫裏が接して
いる。四脚問は上有知代官所の門を移築したものと
されている。
住吉神社
教泉寺
金森長近の新城下町建設により、港町には上有知
湊が開かれた。住吉神社は水運を担う人々が航行の
安全を願って勧請したとされる。神社前には船着き
場跡があり、文化 11 年(1814)に寄進された石
灯篭と幕末に建設された上有知湊灯台がある。また、
鳥居を潜り曽代用水に架かる太鼓橋、その横に残る
手水鉢には元治元年(1864)の銘が残り、水運で
栄えた当時の繁栄を今に残している。
水運の安全を見守る住吉神社
洲原神社
奈良時代に創建されたとされる洲原神社は、中央
と東西の本殿、拝殿、舞殿、楼門の6棟から構成さ
れる。中央本殿は桁行 3 間、梁間 3 間の入母屋造
の檜皮葺で、前面に向拝がある市内でも最大規模の
大きい本殿である。東西の本殿は三間社流造の檜皮
葺で、中央本殿と並び三神殿並列の姿は勇壮である。
社殿は火災による焼失等により長享元年(1487)
洲原神社本殿(県指定重要文化財)
に再建されるなど、創建当時のまま現存するものは
なく、寛文 10 年(1670)に再建された舞殿が最
も古い社殿とされている。
真木倉神社
貞享 3 年(1686)に建てられた真木倉神社は、
一間社流造の小さな社殿であるが、向拝の正面を唐
破風とし、その奥には千鳥破風を乗せるなど複雑な
社殿構造となっており、妻飾りも複雑で大矢田神社
本殿と同様の構成となっている。
真木倉神社(市指定文化財)
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美濃の文化を支えた人々
むらせとうじょう
村瀬藤城(1791 - 1853)
村瀬家は金森長近の上有知領有以来の名家であ
り、名字帯刀を許された家柄で、屋号十一屋と称し
商家を営み、上有知村庄屋でもあった。
村瀬藤城は幼い頃から善応寺住職禅知和尚に学
び、文化 8 年(1811)、大坂に遊学し、篠崎三島
の梅花塾において混沌詩社に加わる。ここで頼山陽
と初めて会い山陽に師事し弟子となり、京の山陽塾
や郷里からの郵筒請正により教えを受けた。文政元
年(1818)、藤城は梁川星巌らと白鴎社を結成し、
美濃文壇の盛行につとめた。文政 8 年(1825)、上
有知の藤城山山麓に梅花村舎を建て、講儒を行い多
村瀬藤城肖像 ( 白鴎社集会図・江馬家所蔵 )
くの門下生が集い、梅花村舎は若い人々の学びの声
に充ちた。天保年間(1830 - 1844)には犬山藩
校要道館、郡上藩潜龍館の藩校に招かれ講義を行う
が、「閭師を以て、自らを任ず。」とし藩儒を断り、
終生一閭師、一学究として自由を求めた。
藤城は旅を好み、山陽と会返した旅以来、京阪の
地を幾度となく訪れ、嘉永 6 年(1853)、城ノ崎
にて生涯を閉じた。
頼山陽(1780 - 1832)
頼山陽は広島藩儒頼春水の長男として生まれ、
12 歳の時に『立志論』を書く。その後、江戸にて
尾藤二洲、柴野栗山に歴史学を学び、『日本外史』
22 巻を文政 9 年(1826)に完成する。これは後
城崎温泉東山公園の藤城詩碑
の尊王攘夷運動に多大な影響を与えた。山陽は京で山陽塾を開き、村瀬藤城を最初の弟子とし
た。藤城は京に住むことができなかったため、書簡を山陽に送り教えを請い、藤城から山陽へ
の策門『二家対策』上巻、また山陽から藤城への七つの策門『二家対策』下巻が残り、下巻は
山陽が藤城に課した卒業試験だといわれている。文化 10 年(1813)7月、山陽は美濃に東
遊する。山陽は藤城宅に足をとどめ作詩をかわし、また、善応寺住職禅知和尚を訪れ一詩を賦
した。山陽と藤城の子弟交情は次第に深まっていった。
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またまたいちらくちょう
〈 コラム〉亦復一楽帖
頼山陽は天保 3 年(1832)に 53 歳で生涯を閉じるが、山陽が枕元に置き愛してやまなかっ
た一楽帖が高弟村瀬藤城に形見分けされた。一楽帖は南画家田能村竹田により描かれた画帳で、
はつぶん
竹田が山陽に跋文を依頼するが、山陽はこの画帳に心を奪われてしまう。山陽は竹田に「没骨
設色牡丹図」他 2 図を追加してもらい一楽帖は 13 画となり、篠崎小竹の題字を付けて『亦復
一楽帖』と名付けた。
形見分けされた亦復一楽帖は藤城にも愛蔵され、藤城の死後、村瀬家で秘蔵されるが、大
正年間(1912 - 1926)に売却され数々の人の手に渡り、数奇な運命を辿った。そして現在、
重要文化財として奈良寧楽美術館に保管されている。
佐藤一斎(1772 - 1859)
佐藤一斎は美濃岩村藩の出身で、幕府昌平校の教官として林述斎大学頭を補佐した漢学者で
あった。その祖は上有知城主佐藤六左衛門秀方の弟信清の子孫で、一斎の曽祖父から岩村藩主
に仕えていた。一斎は村瀬藤城と親交深く、文政4年(1821)、祖先の地上有知に来遊する。
清泰寺の墓に詣で、上有知城に祖先を偲び、長詩を賦し墓前に捧げた。
この時、村瀬藤城は一斎を我が家に歓待し、その
教えも受けた。一斎が上有知を去る日に、上有知湊
に見送るが惜別し同舟してしまい、共に養老に遊び
観瀑した逸話が残っている。
藤城は天保 3 年(1832)に曽代用水事件で、江
戸にある一斎の愛日楼に長らく滞留し、評定が勝訴
となり藤城が帰郷するとき、一斎は送別の詩を送っ
ている。
佐藤一斎像(恵那市教育委員会所蔵)
〈コラム〉小泉純一郎と佐藤一斎
平成 13 年(2001)5 月 29 日、時の総理大臣小
泉純一郎は教育改革関連 3 法案の審議が行われた
衆議院本会議において、佐藤一斎の『言志四録』の
一節を引用して、自身の教育観を述べている。
「少にして学べば、即ち壮にして為すことあり、
壮にして学べば、即ち老いて衰えず、老いて学べば、
即ち死して朽ちず。」
小泉総理は「政治や教育において、自らの役割を
見いだすことができる社会の実現が重要である。」
と説いた。 村瀬藤城が佐藤一斎に送った書簡に、一斎が
返信した書〔3 段目〕
(美濃市教育委員会所蔵)
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村瀬太乙(1804 - 1882)
漢学者、村瀬太乙は村瀬藤城の従兄弟の子にあたる。
23 歳の時に山陽塾に入門し、山陽塾の中心的存在であっ
た。山陽亡き後梅花村舎で教授するが、弘化元年(1844)、
藤城の後任として犬山藩藩儒となり、経史を授けた。『幼
学詩選』『太乙堂詩鈔』等の著書がある。
こうむらうちさと
河村内郷(1792 - 1858)
天保年間(1830 - 1843)の曽代用水事件で村瀬藤
城と共に尽力した国学者である。上有知二ノ上町に生ま
れ、文政7年(1824)に本居春庭の門下となり、後に『古
事記』の喪山神話伝承地について論証した『美濃国喪山
考』を著した。
武井助右衛門(1777 ー 1836)
武井助右衛門は、近世における岐阜県を代表する商人の一人である。
村瀬太乙
七代目となる武井助右衛門は、安永 6 年(1777)に長瀬に生まれ、代々、助右衛門を襲名
する頭分百姓の家柄で、農業のほかに製紙業も営んでいた。文政 8 年(1825)に、当時の生
産技術では難しいとされた尾張藩御用紙の大量生産を請負った際、御用紙抄屋と呼ばれる特別
な抄き屋を設け 20 人余りの人が交代で抄紙にあたる大量生産のかたちを完成させた。当時と
しては類例が無く、製紙における工場制手工業の先駆けとなった。その後、3 回にわたって尾
張藩御用紙を請負った助右衛門は大いに財をなし、御用商人として名字帯刀を許され、天保 7
年(1836)、61 歳で没した。
その後、十代目助右衛門(1855 - 1908)が、美濃紙の輸出による製紙業の発展を図り、
抄紙試験場を造り研究を重ね、大幅連紙や透明雁皮紙をつくることに成功し、牧谷における製
紙業界の大革新、大躍進をもたらした。
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