今日の分子病理診断 - 株式会社 江東微生物研究所

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学 術
今日の分子病理診断
( 株 ) 江東微生物研究所 微研病理研究所所長
東京大学名誉教授 森 茂郎
1 病理診断とは
Rosai and Ackerman の Surgical Pathology には胃
病理診断は、病変部から作製した組織標本を
の疾患として約 70 種類の病名があげられてい
検鏡することによってなされる、疾患診断のひ
ます。胃の病理診断をするにあたってはこれだ
とつの手段です。病理診断は一般的な臨床検査
けの数の病気を識別できることが必要です。抜
と2つの点で異なります。第一点は顕微鏡から
け落ちがあると、その病気の標本が来たときに
得られた情報(画像情報)を臨床情報、その他
誤った診断をしてしまうことになりますから、
の検査情報などと統合した「診断という行為」
ここは全部知っていなければなりません。しか
つまり医師法で規定された医師の業務である、
し難しさは病気の数だけではないのです。
という点、第二点は情報が画像という形で示さ
胃の病気の中で最も多いのは胃炎、また診断
れるため所見を正確によみとるために高度の修
にもっとも気をつけなければならないのは胃癌
練が必要である、という点です。
でしょう。胃炎は胃の炎症状態で、軽い場合は
病理診断は専門的修練を経た専門医である病
治療の対象になりませんが、ひどくなると出血、
理医が行います。病理医は放射線科の医師の立
びらん、潰瘍といった状態になり、こうなると
場とよく似ています。レントゲン写真とは違っ
治療が必要になります。胃炎という概念は、名
て病理の場合はカラー画像が提供されます。
前の上からは一つですが、実は単一の疾患では
病理標本のよみとりは易しくないのですが、
ありません。ピロリ菌によるもの、ウイルスや
これには理由があります。理由として、からだ
ピロリ菌以外の細菌、真菌、寄生虫によるもの、
の組織構造が複雑、ということもありますが、
自己免疫機序による胃炎、宿主対移植片反応
これはあまり決定的な理由ではありません。よ
(GVHD) による胃炎、などは原因がわかってい
り大きな理由はヒトの病気が多様であること、
るものです。その他まだ原因のわからない胃炎
またそのなかには未知/未解決であるが故の曖
が多数あります。これらは同じ胃炎という名称
昧さが含まれているためです。
でよばれていますが、実は別々の病気です。胃
炎は多様、ということになります。多様であっ
2 疾患の多様性について
ても、おのおのの胃炎が独自の組織像を呈する
病気の多様さということについて、日本人の
のであれば、診断はそれほど困難でないと思わ
病理検査でもっとも多い胃の疾患について考
れます。しかし現実にはこれに加えて、外的病
えてみます。病理学の代表的な教科書である
因の強さの差(たとえば原因菌の量の差、葉酸
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今日の分子病理診断
欠乏の度合いの差など)と、個人の反応性の個
考えてみたいと思います。H. pylori は、1983
体差という因子が加わります。このために組織
年、Barry Marshall と Robin Wallen により胃炎
像が著しく複雑になります。
の原因菌として同定されました。彼らはこの研
胃癌の場合も複雑です。この場合は上皮細胞
究でノーベル賞を授賞しました。H.pylori の発
の悪性腫瘍である胃癌と良性腫瘍である腺腫の
見の歴史は、彼らの発見の前にどのような研究
識別、また癌と腺腫を合わせた上皮性腫瘍とリ
があったか、多くの胃の研究者が Pylori をなぜ
ンパ腫や GIST などの非上皮性腫瘍との識別、
発見できなかったか、ということを含めて大変
これらを合わせた胃腫瘍と非腫瘍性の再生像の
おもしろく、一読に値するものです。彼らの発
識別などがポイントになります。上の教科書に
見の前の時代、胃炎の発生には多数の説があり
は胃腫瘍として約 40 項目が記載されています。
ましたが、この発見によって一挙に、菌がいる
しかし再度、胃癌の複雑さはこれだけではあり
かいないか、というもっとも単純明快な形で解
ません。近年の研究によって、胃癌の発生機序
決されました。pylori の発見は実に胃炎の半分
が少しずつ見えてきていますが、ここでわかっ
以上について、①その成り立ちを明らかにした、
てきている事は胃癌の発生機序が多様であり、
②胃炎という病気群のなかから一つの明確な疾
多数の遺伝子異常が関与している、そして大部
患群を切り出してそこに新しい疾患単位として
分の胃癌の発生にかかわるような普遍的な胃癌
の H. pylori 性胃炎という概念を確立した、③
責任遺伝子は見つかっていないし、そのような
治療の立場から言えば、H. pylori が認められた
普遍的な胃癌に特有の遺伝子異常はおそらくな
者に対しては、病原菌の多少といった外的要因
い、ということです。ここに5例の胃癌がある
も生体の反応性の差などということも問題では
と、それらは別々の遺伝子の失調(変異)によっ
なく、除菌する、すれば病気は良くなる、とい
て生じています。成因が違うわけですからその
う一点に集約された、ということになり、実に
組織像も臨床動態も一人一人が違います。極論
インパクトが高い研究でありました。胃炎の病
すれば別の病気という事になります。胃癌の組
理診断では H. pylori 菌が認められるか認めら
織像が多様である原因はここにあります。腺腫、
れないかが、決定的な決め手となりました。私
非上皮性腫瘍についても、これと同じように多
たちは毎日、ギムザ染色や免疫組織化学的染色
様です。胃癌を含めた胃腫瘍の形態はこれら遺
で、この決定的な決め手であるピロリ菌を見て
伝子の多様性を反映して、実に多様なのであり、
いるわけです。
これがあれば診断を確定できる、という決定的
それでは胃癌、胃腺腫、非上皮性腫瘍などに
な決め手がないのです。病理医は胃炎について
は決定的な決め手はないのでしょうか。上に私
も、胃腫瘍についても、多様な組織像を経験し、
は「大部分の胃癌の普遍的な責任遺伝子は見つ
また経験の深い先輩や専門家の見方を学ぶこと
かっていない、そして普遍的な遺伝子異常はお
によって技量を深めてゆくしかマスターする方
そらくない」と書きました。これはこのとおり
法がない、というのが現状なのです。
だと思っていますが、ここではあらためて、
「胃
癌の一部の症例(一部のグループ)に共通な、
3 診断の決めてとなる所見
癌の発生や進展を決定する遺伝子変異が発見さ
これまで、胃の病気の診断には決定的なもの
れる可能性は充分にある」と書く事になりま
がない、と言ってきましたが、以下は 180 度
す。ここで言う遺伝子がどのようなものなのか
変わって、決め手を見つける事が必要だ、とい
はまだわかりませんし、その責任遺伝子が胃癌
う話をします。H. pylori 胃炎の場合を例にして
の1%に特徴的なのか5%か 30%かは、予測
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がつきません。上では 100%を期待するならば
ります。この場合××は遺伝子変異であっても、
それは望めない、ということを言っていたわけ
そのために発生した蛋白質異常でもよいわけで
ですが、下では、それが 30%でも大成功である、
すが、このような決め手××を見つけることが
1%であってもそれは年間数千人を救う事にな
現代の癌研究の主流です。この成果は胃癌では
り、大成功である、ということになります。再
うまくいっていないですが、他の癌では××が
び上の文章を借りれば、
「××の発見はわれわ
見つかってきています。慢性骨髄性白血病にお
れが経験する胃癌の約5%の症例についてその
ける Bcr-Abl 遺伝子異常(転座,慢性骨髄性白
成り立ちを明らかにした;胃癌という得体の知
血病の 2/3 以上)
、一部の悪性リンパ腫や肺癌
れない病気群のなかから一つの明確な疾患群を
における Alk 遺伝子の異常(5%以下、図1)
切り出してそこに新しい疾患単位としての××
などがこの典型的な例です。軟部腫瘍、白血
性胃癌という概念を確立した;医療の立場から
病、悪性リンパ腫などの領域ではこのような研
言えば、×× が認められた者に対しては、癌
究が特に進んでいて、腫瘍全体を責任遺伝子の
の大きさ、進展度といった要因も生体の反応性
違いで分けることが試みられるにまで至ってい
の差などということも問題ではなく、○○すれ
ます。前立腺癌でも研究が進んでいます。胃癌、
ば治癒が望めるようになった」ということにな
肺癌、肝臓癌、膵臓癌、腎臓癌などについても
図1 A L K 陽性リンパ腫
1- 1 H E 染 色
1- 3 A L K リンパ腫の染色体像
1- 2 ALK 免 疫 組 織 化 学 的 染 色
ALK リンパ腫は悪性リンパ腫のうちの一つの亜型で、全悪性リンパ腫の3- 5% を占めます。ALK リンパ腫の臨
床像は特徴的、また独自の分子標的治療が試みられることから、診断を正確につけることが必要です。このリンパ
腫は染色体 2;5 転座 ( 図1- 3) によって正常リンパ球ではほとんど発現していない ALK タンパク質が過剰発現す
ることが原因で発生します。診断には、伝統的な HE 染色(図1- 1) に加えて、免疫組織化学的染色で ALK タン
パク質を同定することが決め手となります。この例では ALK タンパク質の明らかな過剰発現が証明されています
(図1- 2)。
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今日の分子病理診断
全世界で決め手探しの研究がおこなわれていま
る免疫組織化学的染色をおこなうことによって
す。これが今日の状況であり、この先どれくら
原発巣の推定が出来ます。結果が、A 陽性、B、
いの成果が出るか、大変たのしみな状況です。
C、D は陰性ということになれば、胃癌であり、
大腸癌、膵臓癌、肺癌ではないらしいというこ
4 分子病理診断
とになります。この場合の検査の対照は「原因
ここで本日の主題である分子病理診断の話に
物質」といった性格のものではなく、
「胃の細
なります。分子病理診断は、標本の上にこの×
胞に特異であり大腸、膵臓、肺にはない物質」
×、すなわち疾患の発生の原因になる物質を同
であればよいのです。現実には、胃、大腸、膵
定する診断です。原因物質には、蛋白質の場合
臓の細胞に特異的な蛋白質はまだ見つかってい
と核酸(DNA や RNA)の場合があり、蛋白質
ませんが、肺については TTF1 という物質が発
を同定する為には免疫組織化学の技術が、核酸
見されていて、このような目的に使用されてい
の場合には分子交雑法(ハイブリダイゼーショ
ます。TTF1 は腺癌のうちで肺癌に特異性が高
ン)が用いられます。この2つの技術が分子病
い物質として利用されているのです。甲状腺の
理診断の基本技術です。あらゆる技術がそうで
サイログロブリン、横紋筋のミオグロビン、前
あるように、これらの技術にも正しい陽性対照、
立腺の PSA などもこれにあたります。特にリ
陰性対照をもとにした経験の積み重ねが必要で
ンパ球系腫瘍を筆頭とする血液腫瘍や間葉系腫
すが、いったん修得してしまえばあとは抗体を
瘍においては、実に多数のこのような、細胞
かえる、あるいは交雑のプローブをかえること
系統に特徴的な分子が発見されており、日常
だけで実に多様な物質を特異的に染めだすこと
診断に使われています。B リンパ球に特異的な
が出来ます。これらは汎用性が高い技術であり、
CD20、Tリンパ球に特異的な CD3、顆粒球系
基本技術といわれる所以です。以下、分子病理
細胞と血管内皮細胞に特異的な CD34、リンパ
診断の標的についてすこし入り込んで考えてゆ
管内皮に特異的な D2-40 などが有名で、これ
きます。
らは白血病の種分けや癌が管内浸潤を示してい
ここまでの文章では、疾患の発生原因となる
る場合に、それがリンパ管浸潤か血管浸潤かを
物質についてだけ述べてきましたが、診断にお
決める場合などに汎用されています。また癌の
いて使用できる物質はこれだけではありませ
進展の早さを示す指標となる蛋白質(Mib1)
、
ん。以下、例をあげて考えてみます。頚部リン
抗がん剤の有効性の指標となる蛋白質(MDR)
パ節に腺癌が見つかり、その原発巣がどこなの
なども病理診断に利用されています。これらも
か、が問題になっているとします。現在われわ
広い意味での分子病理診断です。私たちの研
れがやっているもっとも基本的/古典的な診断
究所が分子病理診断において標的として現在
法は、胃癌、大腸癌、膵臓癌、肺癌が呈する組
利用している蛋白質と核酸の一端は以下に掲
織像を思い浮かべ、リンパ節にある癌がどれと
載しております:http://www.koutou-biken.co.jp/
一番似ているかを考える、という方法です。こ
pathological/。
れには経験の積み重ねが必要であり、また経験
があってもいつも正解が得られるというわけに
5 分子病理診断の限界
はいきません。ここでもし、胃、大腸、膵臓、
以上、病理診断における分子病理の意義を解
肺に特異的な蛋白質 A、B、C、D がみつかっ
説してきました。病理診断における分子診断の
ていて、それに対する抗体が用意されているな
有効性はいまさらいうまでもないところです
らば、リンパ節に対して A、B、C、D に対す
が、この先、医学研究の進歩、新しい抗体の開発、
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プローブの開発と相まって、ますます有効性が
まりに微細である場合には抗体の識別限界をこ
高まることが予想されます。ではこれらの技術
えてしまって識別できない場合があるという問
に問題はないのか、この点について最後に考え
題もあり、免疫組織化学的染色で使用できる抗
てみます。ここは研究の限界、抗体開発やプロー
体の開発には現状ではある程度の限界がありま
ブ開発の限界を論じる事にもなります。まず、
す。たとえばこの方法ではパピローマウイルス
研究が進んだ所だけが利用可能となる、という
があるかどうかは識別できますが、陽性であっ
ことがあります。胃癌の発生原因も、また胃の
た場合にそれが腫瘍発生の頻度が高い型か低い
細胞にのみ特異的な蛋白質も、まださほど解明
型かの区別は出来ていません。パピローマウイ
が進んでいません。胃癌という領域では分子病
ルスの亜型の決定には PCR 法など、病理の技
理診断はあまり有効には機能しておらず、胃の
法とは別の技法が必要です。また、分子交雑法
診断においてはまだまだ古典的な病理診断に頼
は遺伝子の配列を組織上に染め出す方法で、お
らざるを得ないのです。これに対してリンパ系
おまかな遺伝子の有無、およびありよう(増幅
腫瘍や軟部腫瘍ではこれと逆に、分子病理診断
があるかどうか、転座があるかどうかなど)は
がすでに診断の主流を形成しており、これがな
示す事が出来ますが、微細な変異(点突然変異、
ければ診断できない、という状況が生まれてい
微細な欠失など)は示す事ができません(図3)。
ます。乳癌についてもこれに近い状況になりつ
これらの同定には Direct sequencing 法 など別の
つあります(図2)。
分子生物学的技法が必要になります。これら病
抗体については、抗体はそもそも立体的な
理組織標本上以外での技術は古典的病理組織学
分子構造の差をもって分子を識別するわけで
と分子病理診断と相補関係にあり、これらをす
すが、ここに異なる分子間の相似性にもとづく
べてうまく使いこなす事が求められています。
抗体の交差反応という問題が一つ、また差があ
図2 H E R 2 増幅乳癌の診断
2- 1 H E 染 色
2- 2 HE R 2
免 疫 組織化学的染色
2- 3 FI SH 法による
HER 2 遺伝子増幅の証明
HER2 (Human erbB2) は癌遺伝子の一種で、乳癌の 1/3 において遺伝子が増幅し、タンパク質が過剰発現してい
ることが知られています。またこのような HER2 増幅乳癌においては、
HER2 に対する抗体が治療上有効です。従っ
て乳癌の症例では HER2 が過剰発現しているか否かの判定が治療を選択するために重要となります。図には、
HER2 の過剰発現を示した乳癌の HE 染色像(図2- 1)
、免疫組織化学的染色による HER2 タンパク質過剰発現
の証明(図2- 2)
、および DNA レベルでの HER2 遺伝子の増幅(図2- 3)を示します。
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今日の分子病理診断
図3 腫瘍細胞における E p s te i n B ar r vi ru s(E B V) の証明
3- 1 E B V 陽性悪性リンパ腫の H E 像
3- 2 EB vi ru s R NA の I SH 法による証明
Epstein Barr virus (EBV) はヒトの代表的な腫瘍ウイルスで、悪性リンパ腫などさまざまなヒト腫瘍の発生原因
となります。EBV の同定には免疫組織化学的染色では不十分で、この方法では感染していても陰性となることが
多いです。これに対して EBV の産生する RNA (EBERs) を ISH で証明する方法は、感染細胞をほぼ 100% 同定す
るので、診断に益するところが大きいです。図3には EBV 陽性悪性リンパ腫の HE 像と EBERs ISH (in situ
hybridization 法)を示します。
6 結語
患者さんの病変組織から採取した検体につい
て最高の診断をするためには、豊かな経験に基
づいた的確な古典的病理組織診断、新しい知識
に基づく分子病理診断、およびこれらの方法で
はできない、その他の相補的診断技術がうまく
統合されることが必要です。これが今日の病理
診断です。
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