東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易

「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」高倉浩樹
東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易
7 月 25 日(水)13:00∼14:30 札幌会場
8 月 01 日(水)13:30∼15:00 東京会場
講師
高倉 浩樹
東北大学東北アジア研究センター准教授
初めまして。高倉と申します。ただ今、紹介いただき
現地調査についてですが、92 年、大学院修士課程の時
ましたが、私は文化人類、社会人類学を専門に研究して
にサハリンで調査を行いましたが、その後は、ほとんど
います。これまで、主にシベリアの先住民について研究
東シベリア、あるいはロシア極東と言われているところ
してきました。
で調査を行っています。調査地は、北極圏や亜北極圏に
ある 3 カ所です。
最近、アイヌ民族の歴史とシベリア先住民の歴史を少
し交差させて、あるいは比較して研究してきたという私
このような調査をしている人間が、なぜアイヌ民族の
なりの研究方法について、どのような方法なのか、従来
歴史なのかという疑問を皆さんは感じているかと思いま
の研究方法とどう違うのか、そういった方法論をめぐる
すが、そのことについてお話したいと思います。
アイヌ民族の歴史をどのように捉えるかという方法に
問題についてお話をして、その後、少し具体的な中身に
ついて、少し考えてみたいと思います。
ついてもお話していきたいと思っています。
この後、もう少し私の自己紹介をさせていただいて、2
まず、歴史とは何なのかということ考えると、過去の
番目に「アイヌ民族史をどうとらえるか」ということに
人間の営みに対する探求であるわけです。日本の歴史の
ついて、そして、3 番目に、今日のタイトルにもありま
場合、基本的には日本語で書かれた古文書を使って歴史
す「東北アジア海域史」、多分、こういう言い方をしたの
の探究、過去の人間がどういうふうにどういう暮らしを
は私が最初だと思うのですけれども、一言で言うと、東
してきたのかということを探求していきます。近現代史
北アジア海域史という形でしっかりとした蓄積のある研
になるとこれに、英語で書かれたものとか、例えば、日
究が十分になされていないので、こういう枠組みを使っ
露交流史の問題について調べる場合は、ロシア語の古文
て研究することで、これまでにないことが発見できるの
書なども使われます。
しかし、道具や技術というものの中にも人間の営みが
ではないかということです。この問題は今日お話しした
あり、そういったものの過去に対する探求を行うには、
いことの一つの目的です。
それから、4 番目に「三つの交易」ということで、ア
文書だけでは十分なアプローチはできません。そこで、
イヌ民族の歴史とシベリア民族の歴史を比較という具体
民具とか、あるいは絵画だとか、そういった物質的な素
的な中身について、5 番目に「19 世紀の東北アジア海域
材というものも歴史資料として使って、歴史の探求が行
の国際関係」ということで、よりマクロな視点からこの
われます。
あるいは、既に発表されている研究論文の中にも、歴
海域を見ていこうと思います。そして、最後に考察とま
史的な事実が書かれているので、そうしたものを二次資
とめという構成でお話していきたいと思っています。
自己紹介の続きですが、私の専門は人類学で、主にシ
料として使って歴史にアプローチしていく方法もあると
ベリアの民族を対象に調査をしております。実は、学部
思います。過去を探求する方法は多様であり、その歴史
の時には日本古代史で、東北地方のエミシの研究をして
もまた多様であるということが大きなポイントだと思い
いました。それから少しずつ北に関心が移っていき、修
ます。
ここで、アイヌ民族史について考える時に、どのよう
士論文の時にはサハリンの先住民の研究をして、そして、
な方法で探求できるのかということを考えてみたいと思
その後、シベリアの研究をするようになりました。
います。
シベリアでは、トルコ系のサハ人、ツングース系のエ
ヴェン人、エヴェンキ人という三つの民族を調査してい
一つは古文書を使った研究です。これは資料としてよ
ます。研究テーマの一つは、先住民とロシア、ソ連とが、
く知られたもので、多言語性ということが特徴としてあ
どういう形で関係があるのか、彼らの民族文化と、国家
げられます。アイヌ民族史をめぐって最も文書の量が多
の行った、いわゆる民族政策とは、どういうふうに関係
いのは、もちろん日本の古文書ですが、ロシア語や英語、
があるのかということです。もう一つは、先住民の伝統
オランダ語で書かれた古文書もあります。歴史を探求す
的な文化であるトナカイ飼育であるとか、牛、馬の牧畜
る場合には、こういったものを様々な形で駆使して研究
についてです。
していきます。
そして、最近、東北アジア海域史という形で問題提起
それからもう一つ、アイヌの口承文芸、あるいは口頭
をしています。この他、少し専門的になりますが、ロシ
伝承と言われるものも資料となります。ただし、これは、
アの主な人類学史についても研究をしています。
いわゆる記録のように、いつ、誰が、どのような形で書
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「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」高倉浩樹
いたのかということが明確になっていないことが多いの
在から過去を照査するというものです。過去へのアプロ
で、口承文芸の資料から、それがいつの時代ことなのか
ーチの仕方に違いはありますが、それぞれの方法に基づ
ということについては分かりにくいものになっています。
いて明らかにできることがあります。考古学者の場合で
しかし、一定の過去において、人々がどのようなことを
すと、やはり考古資料の意味を明らかにしたいという研
考えていたか、どのようなものに意識を持っていたのか、
究者の気持ちがありますので、そういうものにしたがっ
世界観とか、あるいはどのような出来事があったと理解
て歴史研究が進んでいくのだと思います。
されていたのか、というようなことについては復元が可
近世アイヌ史における従来型アプローチの特徴は何か
能ですし、幾つかの歴史的な事実についてもそこから導
と言うと、日本の古文書にのみ依拠するという方法をと
き出すことができます。いわゆる文書資料を比べると、
ったところがあり、日本史の中で完結したアイヌ民族史
多少難しい操作というか、いろいろな方法論上の手続が
というものを捉えようとする傾向があったと思うのです。
必要になりますが、こうした資料を使う方法もあります。
これまでお話ししてきた方法論に基づけば、近世アイヌ
この他に、先ほど二次使用についてお話しましたが、
史を構築する方法と、その枠組みというのは、このよう
な形で規定されるのです。
歴史に絡む研究論文に書かれている歴史的な事実を使っ
それが、近年いろいろな形で変わってきました。近世
て歴史にアプローチするという方法もあります。
ここで改めて、アイヌ民族史について、従来の研究が
史の中で、重要なキーワードとして「交易」という言葉
どのような形でアプローチしてきたのかということを、
と「越境性」という言葉があります。交易というのは、
三つの視点で見ていきたいと思います。
文字どおり貿易であり、人々が自分たちの生産物を他の
一つは、アイヌ民族史を考える上でこれまで非常に大
人間集団、あるいは他の人たちと交換するということで
きな貢献というか、蓄積を残してきたのは、恐らく「近
す。越境性というのは、例えば日本国とかロシアという
世アイヌ史」といわれる分野だと思います。これは、日
国境を越えたり、あるいは文化的な境を越えるというこ
本近世史の資料と方法を使って、アイヌ民族の過去の営
とです。こうしたところに着目して日本近世史を考えて
みというものを明らかにしていこうとするものです。方
いこうというアプローチが、ここ 15 年から 20 年ぐらい
法論的には、日本語の古文書、そして日本の近世史に絡
前から積極的に行われてきたと思います。
む研究論文から重要な研究を導いくというものです。こ
そうした中で明らかになってきたことがあります。一
こでは、日本史の古文書に則した歴史理解がなされてい
つは、北海道を起点にして、サハリン、そして大陸へ抜
ると思います。私は、これを「過去から過去へ」という
ける交易網が存在していたということです。それから、
アプローチとして整理しておきたいと思います。
もう一つは、千島列島からカムチャッカまで広がってい
く交易網というのがあったということです。こうした北
もう一つは、考古学の方法を使ったものです。考古学
では、いわゆる先史、文書の残っていない時代の過去を、
海道を起点として広がっていく二つの交易網というのは、
発掘された遺跡資料から復元していきます。考古学には、
東アジア史の中の蝦夷地ということで捉えられるように
そうして復元された先史時代と歴史時代、具体的には中
なってきたのです。主に古代から中世において、こうし
世史や近世史とをつなげる役割があります。
た交易網が存在していたということが指摘されてきたの
です。
私の専門は社会人類学、文化人類学です。ここでは同
じものと考えていただければと思いますが、この分野の
近年、1995 年ぐらいからの研究史の流れ中で、近世ア
研究方法の大きな特徴は、現地調査によって民族史資料
イヌ史においても古代とか中世と同様に、事実的な経済
を集めるということです。こうしたアプローチの方法が、
活動が存在していて、その鍵となるのは彼らの交易活動
なぜ歴史に関わるのかいうと、現代に生きる民族集団、
なのだという指摘がたくさん出てくるようになりました。
人間の社会とか文化を規定する要因として、やはり過去
従来の日本近世史の研究は、文書資料がたくさんある
を捉えておきたいからです。当り前のことですが、過去
ので、その文書を読み解くだけで歴史研究が終わってし
を捉えないと現代の様子が分らないのです。
まうという状況だったと思うのです。それが、最近にな
って、口承文芸を用いて歴史資料の価値、あるいは意味
文化人類学に根差した資料というのは、現在生きてい
を再解釈していこうという流れも出てきました。
る人たちからの聞き取りとか観察、あるいは質問紙によ
る調査によるものです。そのため、考古学の場合の考古
そうした中で、古代から中世において、東アジア史の
遺跡や歴史学の場合の文書資料などのように、自分たち
中で蝦夷地は決して閉じた空間ではなく、広い交易世界
自身の歴史に関わるオリジナルな資料を持っているわけ
とつながっていた場所であったという位置づけがあった
ではないのです。そこで、文化人類学では、むしろ歴史
のです。そして、この古代から中世における位置づけと
に関わるあらゆる資料を用いて過去を復元しようととり
いうのは、近世以降も変わらないのではないかというこ
くむのです。
とが新しく出てきたのです。
歴史学は過去から過去を明らかにするというアプロー
ただ、ここでの問題点では、東アジア史、あるいは東
チ、考古学が先史から歴史的な過去に、文化人類学は現
北アジアの国際関係論と、この蝦夷地がどのように関わ
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「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」高倉浩樹
ってくるのか、あるいは、アイヌ民族の近代史とどのよ
史では、あくまでも文書に書かれている存在、松前藩な
うに関わってくるのかということが十分に明らかになっ
り江戸幕府が残した文書を前提にして物を考えていくの
てされていないのです。古代から中世における東アジア
ですが、海域をどのような形で、どのような人たちが利
史という枠組みで北海道史、蝦夷史を理解することは十
用していたのか、その利用する人間には政治的な力があ
分に可能なのですけれども、近世以降になると、ロシア
ったとか、なかったという違いはありますが、そこを利
やアメリカをはじめとする欧米諸国とのいろいろな形で
用する人間集団を個別に扱うことによって物を考えてい
の交流が出てきます。そのことを踏まえなければならな
こうとする視角だということです。
い、単に東アジア、中国とか韓国とか朝鮮半島という枠
当然ながら一国史、いわゆる一つの国家の中で物を見
組みの中で蝦夷地を理解するだけでは十分ではないとう
るという考え方にはなりません。ここで定義した、オホ
問題が明らかになってきたというのが現状だと思います。
ーツク海、ベーリング海、そして日本海という領域とい
一方で、文化人類学によるアイヌ民族史の研究方法に
うのは、一つの国が占めている世界ではないのです。従
は次のような特徴があります。一つは、比較民族史と言
って、国家を中心としないさまざまな人間集団、これは
われるものです。文化人類学では、民族の文化を比較す
支配的な関係も含みますが、そのさまざまな人間集団、
ることによって、そこで行われている慣習とか行為の意
例えば先住民と、後にその先住民を政治的な支配下に置
味を読み解こうというアプローチをします。そういった
くようになる国家に関わる人間集団はどのような形で交
方法論で、アイヌ民族史をサハリン、沿海州、アムール
流していたのか、それらを比較する方法を考えていこう
川下流域の先住民の歴史と比較していこう、あるいは、
ということになるのです。
より広くシベリア全体の先住民の歴史と比較する中で、
もう少し具体的に言うと、海域に暮らす先住民の沿岸
何らかの研究ができるのではないかというアプローチが
適応というような経済活動、生業として漁労、あるいは
一つあるということです。
海獣狩猟とか採集活動という沿岸適応という問題と、国
家という政治体制を背景に持つ人間集団の企業的な活動、
それからもう一つは、これは国家と先住民関係論とい
うことです。これは現地調査を行っている人類学者にと
あるいは軍事的な活動という政治支配との関係性に焦点
っては、必ず出てくる問題です。つまり、自分たちが現
を当てるような研究ができないだろうかというのが、こ
地調査を行う時に研究対象となってもらっている人たち
の東北アジア海域史ということをめぐって私が考えた大
は、国家の中で先住のマイノリティという位置づけを持
きな一つの柱になります。
っているということです。私の場合でしたら、シベリア
従来、近世アイヌ史という中で構築されてきた、ある
先住民の文化を理解しようとする時、ロシア、あるいは
いは蓄積されてきたアイヌ民族の歴史を、より広い文脈
旧ソ連の民族政策がどのようにこのシベリア先住民の生
に位置づけてみることができないだろうかということを
活とか物の考え方、あるいは教育というものに影響して
考えたのです。こういうことを言うと、研究者同士の話
いるのかということを考えなければ、研究は始まらない
の中で、歴史像の見直しをするということか、あるいは、
ということです。そうしたことから、国家と先住民の関
従来の日本近世史の方法による古文書の実証的研究を批
係を考えるというアプローチの仕方で、アイヌ民族の歴
判するということかという意見が出てくるのです。しか
史を理解していこうという考え方になるのです。
し、私はそういうことを思っているわけではなく、もち
文化人類学の研究方法には問題点というか弱点とも言
ろん、実証的研究そのものを否定するつもりはないので
える特徴があります。それは、歴史学者や考古学者のよ
す。古文書に基づいて明らかにできる研究の枠組みとい
うに歴史資料そのものを使った論議になりにくいという
うものがあり、その研究の重さというものも同時にある
ことです。研究論文など二次資料を使って歴史を明らか
のです。むしろ、従来のように文書に依拠する方法とは
にしていくというアプローチになりがちな点が、マイナ
異なる方法と、視座を得ることによって、新しい研究方
ス面の特徴になるのではないかと思います。
法へと還元するための研究の枠組みをつくっていきたい
こういったことを踏まえて、私なりにアイヌ民族の歴
と思っているのです。ある実証的な資料に基づく研究を
史を捉えようとした時に頭に浮かんだのが、東北アジア
するためには、いくつかの研究の枠組みとか視角、視座
海域史という枠組みを使って、その中でアイヌ民族の歴
というものがないと、なかなか新しい研究展開というも
史を見ていこうというアプローチだったのです。
のは出てこないのです。言いかえると、日本近世史によ
東北アジア海域の地理的な区域は、北海道からカムチ
るアイヌ民族史と、文化人類学によるシベリア民族史と
ャッカ半島、そしてその上のチュコトカ半島にまたがる、
いうものを融合させることができないのか、完全な融合
日本海、オホーツク海、ベーリング海といった広い海域
というのは難しいと思いますが、それぞれ方法論上の特
のことを意味しています。
徴があって、それぞれが面白い、あるいは優れた研究蓄
積があるのです。それをうまく結びつけることによって、
そして、視角は、海域を中心的な視座として、これを
利用する人間集団の活動とは一体何なのかという見方を
新しい従来なかった研究の枠組みというものをつくって
しようと思うのです。従来の日本近世史におけるアイヌ
いきたいということが、最近考えていることであります。
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「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」高倉浩樹
具体的には、古代からの話ではなく 17 世紀から 19 世
正当化するような歴史をひたすら書いてきたのです。事
紀初頭の東北アジア海域史を明らかにしていこうと思っ
実に基づく歴史研究とはいえない側面をもっていたので
ています。なぜ、17∼19 世紀という時間設定にするのか
す。ところが、冷戦崩壊後、イデオロギーではなく事実
というと、近世アイヌ史の中で構築されてきた時間軸が
に基づいたサハリン史の研究を彼ら自身が行うようにな
この時代なのです。この近世アイヌ史の中で蓄積されて
ったのです。その中で、日本の研究者の研究成果が引用
きた研究の成果を違った視点で見るために、あえてこう
されたり、研究所同士での交流というか対話が始ってい
いう時代設定をして異なる研究方法をドッキングさせる
るのです。
それから、アメリカの方ではどういうことが起きてい
ということを考えているのです。それは、まさにこの 17
∼19 世紀の中で、アイヌ民族と類似するような政治的、
るかというと、特に北米の先住民、エスキモー、あるい
あるいは経済的に、国家が先住民に対して接してくる、
はイヌイット、そして北米先住民、インディアンと言わ
支配してくるという先住民の歴史を比較することによっ
れる人たちについてです。彼らの考古学的な歴史がどう
ていくつかの示唆が得られるのではないのかと思うよう
いうものかというと、1 万 4000 年∼1 万 5000 年くらい前
になったのです。
に、ベーリング海峡を渡って古モンゴロイドと言われる
ここで、具体的に見えてきたのが、東北アジア海域に
人間集団が北米大陸に移住してくるのです。現在、残っ
おける三つの次元での「先住民・国家関係」です。一つ
ている北米先住民の人たちはその子孫にあたるのです。
は蝦夷地の問題で、アイヌ民族、和人、そして後にロシ
アメリカの歴史で文書があるのは植民地になってからな
ア帝国が絡んできます。二つ目つまり比較の対象にした
ので、その歴史は文書のある歴史ではなく、考古学的な
のが、樺太沿海州の先住民の世界です。ここに関わって
歴史になります。この移住の歴史を復元するため、環太
くるのは、アイヌ民族、樺太沿海州先住民、そして、当
平洋の先住民を比較しようというアプローチが出てきた
時この地域を支配していた清朝、それから日本の江戸幕
のです。それは、ベーリング海峡の太平洋の西側、北西
府、ロシア帝国ということになります。
側、チュコトカ半島とかカムチャッカ半島、オホーツク
さらにもう一つ、アイヌ民族の歴史を考えるときに比
海沿岸からサハリンの先住民の歴史と、アメリカ北西海
較したら面白いと思ったのは、ベーリング海峡をめぐっ
岸の先住民の歴史を比較しようという壮大な研究プロジ
て行われた先住民と国家の関係です。ここでなぜベーリ
ャクトなのです。
ング海峡かというと、17∼19 世紀には、チュコトカ半島
20 世紀初頭に、こうした研究をすべきではないかとい
とアラスカの北西部の先住民の世界に、アイヌ民族の場
うことが提起されていたのですが、その研究が十分に進
合と同じように、ロシア帝国が入ってきます。そして、
まないうちにアメリカとソ連が冷戦体制になってしまっ
アメリカ合衆国、イギリスなども入ってくるようになる
たのです。そのため、このアメリカ人の人類学者や考古
のです。そして、先住民との間で交易を始めているので
学者がロシア側に入って調査することができなくなった
す。この先住民と国家の関係を考える時に、まず交易が
のです。私たち日本の文化人類学者も、かつてのソ連で
出てきて、それがどのような形に収れんされていくのか、
現地調査を行うことは不可能だったのです。それが、冷
どのように政治的な支配の中に交接されてしまうのかと
戦崩壊後、調査ができるようになり研究が大きく進展し
いうところに共通点があるのです。
たのです。自己紹介の中でお話しましたが、私は東シベ
そこで、アイヌ民族が行ってきた交易を包括的に「蝦
リアで現地調査を行っています。その調査もソ連の崩壊
夷地交易」、サハリンとアムール川、沿海州の間をめぐっ
がなければできなかったものです。もし、ソ連の崩壊が
て行われてきた交易を「間宮海峡交易」、そして、ベーリ
なければ、私は違う人生を歩んでいたのではないかと思
ング海沿岸の先住民たちが行ってきた交易を「ベーリン
うくらいです。このような形で、ロシアとアメリカで従
グ海峡交易」と呼んで比較してみようと考えたのです。
来とは異なる研究が大きく進展しています。
この三つの交易を比較することで、それぞれ交易で先住
この 10 年、15 年の間に日本において、研究の進展が
民と国家がどのような働きをしてきたのかということを
どのようにあったかというと、一つは日本近世アイヌ
比較することによって、広い文脈の中にアイヌ民族史を
史におけるアイヌ交易論が出てきたことです。それか
位置づけ、日本近世史という枠の中で位置づけられてき
ら、二つ目は、文化人類学において樺太沿海州の先住民
た歴史的な背景を、少し異なる文脈に移して物を考えて
交易史とシベリア先住民の交易史の研究成果が少しずつ
いこうと考えているのです。
蓄積されてきたということです。つまり、私が東北アジ
私が、このようなことを考えるようになった背景には
ア海域史をめぐって、ベーリング海峡交易、間宮海峡交
いろいろなことがあるのですが、一つは冷戦崩壊後のソ
易、そして蝦夷地交易という三つの交易を比較していこ
連、ロシア、そして北米におけるさまざまな歴史学、文
うと思った背景には、ロシア、アメリカ、そして日本で
化人類学の研究の進展があります。ロシアに関して一言
の冷戦崩壊前後からの研究の大きな変化、変更、あるい
で言うと、かつてのソ連の研究者は、サハリンとか沿海
は進展というのがあったということです。
文化人類学の研究分野があり、歴史学の研究分野が
州の歴史を、イデオロギーに基づいてサハリンの領有を
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「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」高倉浩樹
あるという中で、研究分野のタコ壷というか、一つの
には自立的な側面を持っていたという主張がされるよう
研究分野の中で一つのことを研究していて、他の研究
になっています。ある研究者のまとめによると、この時
分野のことは知りませんという傾向は今でも強くあり
代の蝦夷地アイヌ社会の経済活動は三つに分けることが
ます。そのため私は、それぞれの分野の新しい研究を
できると言っています。
統合していく、あるいは専門分野を横断するような形
一つは、場所請負制の中で行われた、主に漁業を中心
で新しい研究領域を創造していく必要があるのではな
とする雇用労働です。これは、アイヌ民族が和人商人に
いかと感じてきたのです。そうした新しい研究をつく
雇われる形での労働です。もう一つは、自分稼ぎと言わ
っていく上で、一つの考えとして東北アジア海域史と
れるもので、交易を行うための生産活動、シャケ漁やナ
いうことが言えるのではないかと思うに至ったのです。
マコなどの特殊海産物の生産、あるいは毛皮獣猟、アッ
私自身は、主にシベリアの先住民の研究をしています。
トゥシなどの手工業品生産などです。これは、和人と交
このシベリアの先住民交易史、主にベーリング海峡をめ
易するためのもので、あくまでも雇用されたものではな
ぐる先住民の交易史の研究には蓄積があるのす。私は、
くて、自分達で自立的に行ってきたということです。こ
シベリア最大の川であるレナ川やヤナ川、コリマ川、イ
のことを日本の古文書の資料の中では、自分稼ぎという
ンディギルガ川といったところで現地調査をしているの
形で記録されていて、その研究者は、この交易を行うた
ですが、ここは従来のシベリア先住民の交易史の場所と
めの生産活動を自分稼ぎという形でカテゴライズして呼
は違う場所なのです。しかし、隣接した研究領域なので、
んでいます。それから、三つ目は飯料稼というふうに言
面白いと思って従来の交易史の研究を読んでおいたので
われるような、いわゆる自分たちが食べるための漁労狩
す。また、日本のアイヌ民族史の研究も面白いと思い、
猟活動です。雇用があったことや、いろいろな収奪があ
少しつまみ食いをするような形で読んできました。そう
ったことも事実なのですが、資本主義下の労働者のよう
いう中で、新しい枠組をつくってみたいと思うようにな
に、雇用されてすべてを雇用主に依存するというような
ったのがこの研究の背景です。
体制ではなく、自分稼とか飯料稼といったような、比較
的自立的な活動というのがあったということをもう少し
これから、具体的な先住民の交易について、その交易
評価すべきではないかということです。
がどのような形で終わったのか、終わった意味は何なの
従来の研究アプローチでは、この場所請負制という広
かということをお話していきたいと思います。
まず、はじめに蝦夷地交易と言われるものです。北海
い体制にのみ焦点が当てられていて、異なる経済的な活
道の近世アイヌ史をめぐっては、従来、二つのアプロー
動の側面ということが見えてきていなかったのではない
チがあったと言われています。一つは開拓史といわれる
かという問題提起なのです。このことを論証する研究者
アプローチで、主に戦前に蓄積された研究です。もう一
が何人かいます。北海道教育大学の谷本先生は代表的な
つは、戦後、開拓史というアプローチではなく、収奪さ
一人です。彼は、交換の相手は限定されており、、具体的
れる蝦夷地、収奪されるアイヌ民族という形で実証研究
には、場所請負制下の和人の商人だったが、相体交易を
をするというアプローチです。
軸としたアイヌの自立的生産活動が存在しており、この
そういう中で、蝦夷地がどのように位置づけられるの
ことの意味を評価すべきだと言っています。生産量とし
か、特に交易に限っていうと、16 世紀から 17 世紀初頭
ては少ないかもしれないけれども、この自分稼とか飯料
までアイヌ民族が自立的な形で和人と交易をしていたと
稼というような、自立的なアイヌの経済活動を評価する
いうことが想定されます。これは一般的に城下交易と言
ことが、どういうことに繋がるかというと、明治初期の
われるものです。それから、1630 年代から 17 世紀末ぐ
漁業権、狩猟権の禁止ということと大きく絡んでくるわ
らいにかけて、松前藩による交易の支配という状況が出
けです。
てきます。これは、商場知行制と言われるものです。そ
つまり、近世においては、場所請負制下でのさまざま
して、18 世紀から明治維新までの間は、和人商人による
な条件があったにしても、彼らの伝統的な生業というの
漁場の経営が行われました。これは、場所請負制と言わ
が残っていた、それが明治初期に大きく転換していくと
れる制度です。その後の、明治政府により漁業権の剥奪
いうことなのです。なぜ、明治初期の漁業権、それから
と、「北海道旧土人保護法」のレジームと言われるアプロ
狩猟権の禁止ということがアイヌの伝統的な生産活動に
ーチです。
大きな影響を与えたのかを十分理解するためには、近世
従来は自立的なアイヌ民族の経済的な活動が、特に和
期の 18、19 世紀中頃まで、彼らの間に事実的な生産活動
人との関係で存在しました。それが、だんだん支配され
があり、それがこの明治期に大きな影響を受ける、つま
るようになり、最後には自立性が完全に無くなってしま
り、この飯料稼と自分稼の位置づけを少し考え直さない
うというアプローチが、戦後の近世史の中で蓄積されて
と理解できないのではないのかということが指摘される
きた研究の見方だと思います。
ようになっているのです。
これに対して、近年、18 世紀、19 世紀の場所請負制の
次に、間宮海峡交易ということで、特に 18 世紀から
中にあっても、蝦夷地アイヌ社会の経済活動は、総体的
19 世紀を中心にお話していこうと思います。私がここで
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「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」高倉浩樹
間宮海峡交易と呼ぶのは、アムール山丹交易、特に樺太
もう一つは、江戸幕府の交易所、もともとは場所請負
の中にいるアイヌ民族が行ってきたことを中心に、その
制下における宗谷の場所と、白主、樺太の南部にも置か
状況をお話していきたいと思います。
れた会所が間宮海峡での交易を支えるのです。これが
ここでサンタン人とか、スメレンクル人という名称が
1867 年に会所が廃止されるまで続きました。このような
出てきます。このスメレンクル人というのは、間宮林蔵
形で国家が先住民と交易するという体制は、ほぼ 16、17
の記録の中に出てくる樺太の先住民です。また、19 世紀
世紀から 19 世紀半ばまで続いたということです。
こうした先住民と清朝、江戸幕府との間の交易は 19
にシュレンクというロシアの人類学者が残した、樺太の
世紀半ばに終わってしまうのですが、先ほどお話しした
民族史、記録にも書かれている人たちです。
このシュレンクは、ニブフという民族名称を用いてい
スメレンクル交易だけはずっとその後も続いています。
ます。一方、間宮林蔵は樺太アイヌがこのニブフを呼ん
間宮海峡交易というのは、先住民同士の交易であると同
できた名称を使ってスメレンクル人と呼んだというふう
時に、先住民と国家との交易であり、この国家との交易
に考えられています。この人たちが間宮海峡交易に従事
が 19 世紀半ばに終焉していくという時に、このスメレン
した先住民の人たちです。
クル交易だけはずっと継続していたという大きな特徴が
あります。
アムール川下流域には清朝の出先機関があり、そこで
間宮海峡交易が行われていました。この間宮海峡交易と
最後はベーリング海峡交易ということです。これも、
いうのは一体どういうものなのかということについて、
やはり考古学的な資料を用いていろいろな解釈がされて
二つの視点から考えていきたいと思います。
います。ベーリング海峡をめぐって、おそらく 15 世紀く
一つは、先住民間交易と言われるもので、先住民同士
らいまでには、シベリアのチュクチとアラスカのエスキ
の間で交易があったということです。樺太アイヌとサン
モーと言われる人たちが交易をしてきた状況があったの
タン人、現在の民族名ではウリチ人と言われる人たちと
だろうと言われています。ここで、どういったものが交
の間での交易です。具体的には何を交易していたかとい
易されていたかと言いうと、シベリアチュクチ側のトナ
うと、クロテンなどの毛皮と蝦夷錦といわれる清朝の官
カイ毛皮と、アラスカエスキモーの木材やアナグマの毛
服です。つまり、樺太、あるいはアムール川の流域でと
皮です。このチュコトカ半島というのは、ツンドラの地
れる資源を清朝の物と交換するということをやっていた
域なのでほとんど森林資源のないところなのです。
ここで大きな転換があるのは 17 世紀後半です。それは、
のです。一時期、樺太アイヌはアムール川の清朝の出張
所へ朝貢のために出かけています。後に、この朝貢やめ
ロシアによる植民地化が始まったからです。しかし、チ
てしまって、むしろ交易関係の中で樺太アイヌはサンタ
ュコトカ半島、これはアラスカ側に飛び出た半島ですが、
ン人に対して大きな経済的な借金をしていくような体制
そこの先住民であるチュクチはかなり抵抗をしました。
になってきます。そのことを、19 世紀初頭に間宮林蔵と
このチュクチの抵抗は約 100 年間続いたため、チュクチ
ともに樺太探検を行った松田伝十郎が知り、その借金に
はロシアに抵抗していた民族としてよく知られています。
介入していくのです。その結果、樺太アイヌとサンタン
しかし、1789 年、ロシアとチュクチは平和条約が結びま
人の交易が消滅したと言われています。
す。そのことによって、アニュイ交易所というのができ、
もう一つ、間宮海峡をめぐって行われた先住民間の交
定期市が開かれるようになります。そこでは、ロシア側
易のもう一つというのは、スメレンクル=ニブフ交易と
からお茶とかたばことか鍋などを、チュクチ側からはア
言われるものです。これは、間宮海峡を挟んでアムール
カキツネの毛皮を出すというというふうな交易が行われ
川の下流域とサハリンの西海岸の両方にいたニブフの商
ました。ここには服属儀礼が伴っていて、チュクチが「ロ
人が、中間商人のような役割を果たすなど、多面的な活
シア皇帝を尊敬します、その支配下にあります」という
動を行っていたのです。彼らは、中国からの蝦夷錦、日
服属儀礼を行った後、実質的な交換、経済的な商売活動
本、それからロシアの漆器物とか鉄、鉄器、鍋といった
が行うという状況がずっと続くようになったのです。
このベーリング海峡交易が非常に面白いのは、例えば、
ものと、先住民の毛皮とを交換してくるというふうな交
日本の鎧がカムチャッカ半島を経てチュコトカまで上っ
易活動を行っていたことがわかっています。
間宮海峡交易でもう一つ重要なのは先住民と国家の間
ていったり、アメリカの猟銃がアラスカ側からベーリン
の交易が顕著に見られるという特徴があります。一つは
グ海峡を経てシベリア側にもたらされているという、非
清朝とのやりとりです。「毛皮貢納管轄役所」という清朝
常にダイナミックなモノの移動があったということが見
の出先機関があるのですが、そこでは、いわゆる朝貢が
られることです。
行われると同時に、実質的な交易が行われていたという
ベーリング海峡交易が 18 世紀以降どのように変わっ
ことです。この役所は 16 世紀後半から 1860 年ぐらいま
ていったのかというと、定期市の制度が整えられるにし
で置かれていて、その場所は、徐々に寧古塔、三姓、デ
たがって、チュクチ人はロシア製品への依存度を高めて
レンとアムール川下流域で間宮海峡に近づくように移っ
いったと言われています。そうした中、先住民間の交易
てきたということがあります。
でアラスカからビーバーの毛皮がチュクチ人にもたらさ
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「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」高倉浩樹
れます。逆にチュクチ人はアラスカにロシア製品を送り
な伸びを示しています。1589 年、16 世紀の末には毛皮税
出すというモノの動きになるのです。
による収入は 3.8%だったのですが、1644 年には 10%を
18 世紀のヨーロッパでは、ビーバーの毛皮は毛皮の中
占めています。国庫の収入の 10%をシベリアの毛皮税が
で最も重宝されていました。このベーリング海峡交易で
占めていたのです。つまり、そうした形でロシアはシベ
アラスカから得たビーバーの毛皮は、ロシア側に送られ
リアを植民地化したのです。こうした中で、清朝との交
たので、ロシアは相当な経済的な利益を得ていたことに
易は非常に重要な役割を示しています。例えば 18 世紀の
なります。この時点で、従来のトナカイの毛皮とアナグ
対清貿易におけるロシア側からの輸出品の 85%から
マの毛皮という、毛皮と毛皮の交換が中心だった交易か
100%が毛皮だったのです。このことから何が見えるかと
ら少し変わってきたということが分かると思います。
いうと、シベリアで行われた毛皮の乱獲の歴史です。
さらに、19 世紀半ばになると、ベーリング海峡にはア
ところが、非常に不思議なのですが、ロシアが太平洋
メリカの捕鯨船が来航するようになります。そのことに
を南下してくる 19 世紀半ばには、間宮海峡貿易はほぼ終
よる影響の一つとして、アメリカのマスケット銃がシベ
焉しているのです。つまり、この時点で帝政ロシアはも
リアにもたらされたということがあります。
う毛皮を求めていないのです。これはなぜなのかという
このあと、今度は非常に興味深いのは、アメリカの捕
問題になります。従来であれば、間宮海峡で交易されて
鯨船はチュクチだけではなく、エスキモーとも交易をし
いるものは毛皮ですから、ロシアもまた毛皮を求めても
ています。当然、地理的に近いエスキモーとの交易の方
不思議ではないのです。このことは、国際関係というか、
が多くなります。そうすると、今度はアラスカ側から欧
大きな歴史を見ることによってその理由が明らかになっ
米製品がチュコトカ側に入り、チュコトカ側から毛皮が
てきます。
一つは、欧米での毛皮市場が大幅に縮小したため、ロ
流出していくというふうな状況になっていくのです。
ベーリング海峡交易は冷戦が始まるまで終わりとなら
シアが従来のように毛皮税に基づく国家の経営ができな
なかったと言われていて、このチュクチとエスキモーと
くなったということがあります。それからもう一つ、か
の間の先住民間交易の終焉は 1940 年代です。すでにソ連
つてアラスカは、ロシア領アメリカと呼ばれるロシアの
もできていて、アメリカの捕鯨船も 19 世紀の終わりには
領土だったため、ロシアはアラスカの植民者の食糧を確
捕鯨をしなくなっています。また、ロシアの毛皮に対す
保する必要があったのです。その食糧となる穀類をアラ
る需要も 19 世紀前半ぐらいにはほとんどなくなってし
スカに運ぶために、ロシアは南進し日本と貿易をしたい
まいます。それにも関わらず、先住民間交易は 20 世紀半
と求めたのです。それから、19 世紀の初期にサハリンで
ばまでずっと継続していたという大きな特徴があるので
石炭が発見されたことがあります。要するに、かつてシ
す。
ベリアを植民地化した時には、毛皮は大きな経済資源だ
ベーリング海峡交易では、先住民の間での交易と、毛
ったのですが、彼らがサハリンに来た時点では、毛皮の
皮を求めて入ってくるアメリカの露米会社やカナダのハ
収益は少なくなっていて、むしろ、石炭を含めて軍事的
ドソン湾会社などの、国家を背負った企業的な活動が絡
な意味の方が大きくなっていたということになります。
み合って複雑な交易活動が展開していくということがお
それから、先ほど説明した中国との貿易の関係でも、19
分かりいただけたと思います。
世紀の初めになると、ロシアでは綿織物の工業が発展し
ていて、中国への輸出品が毛皮から工業製品になります。
私が今回述べているベーリング海峡交易にしても、間
宮海峡交易にしても、蝦夷地交易にしても、先住民同士
工業化による産業構造の変化によってロシアが毛皮を求
での交易と、そして国家を背負った企業家の活動がパラ
めない体制にもなっていたということもあるのです。こ
レルに展開していくということに大きな特徴があるのだ
うしたことを踏まえて三つの貿易を比較していきたいと
と思います。
思います。
次に、なぜ東北アジア海域というものにロシアなりア
元来、存在している先住民間の交易の中に、18 世紀以
メリカが入ってくるのかということを少し整理していき
降、国家が入り、やがて植民地化していくという形態が
たいと思います。
あります。この初期の形態というのは、先住民と国家の
この問題については、従来、日露関係史という中で研
間で交易を行い、そのうちに政治的な支配を進めていく
究されてきました。日本史の中では、ロシアが南下する
という状況です。この時に先住民側から流出する財とい
ことによる蝦夷地の支配の問題、あるいは北海道の問題
うのは、毛皮などの現地の自然資源で、そのかわりに流
と位置づけられています。この中で、なぜロシアが南下
入する財というのは、主に日常雑貨とか金属といった中
するのかという理由が明確にされないまま、南下したこ
国、日本、あるいは欧米の製品です。そうしたモノが、
とによってどういうことが起きたのかということが議論
先住民の文化の中に大きな影響を与えていくということ
されてきました。そこを少し違う視点から見ていきたい
になるのです。
それから、もう一つの共通点は、国家との対応の中で
と思います。
服属儀礼があるということです。それは、蝦夷地のウイ
帝政ロシアの毛皮税による収入を見ると、非常に大き
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「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」高倉浩樹
マム儀礼、清朝との関係では朝貢儀礼というものです。
民に関与してこないという状況になったのです。そのた
ベーリング海峡交易の中でアラスカにおいても服属儀礼
め、先住民間の交易が継続してきたということが言える
が行われたのです。その服属儀礼を行って、実質的な交
と思います。
易をするというパターンをとっているのです。こうした
最後のまとめになりますけれど、海域史というのは人
パターンで、文化的他者にあたる先住民を清朝、あるい
と海との関わり、境界性、国境の不在という中で人が文
はロシアという国家が支配していく過程に大きな共通点
化、あるいは経済、軍事的な利用をしてきたということ
を見出せると思うのです。
になるわけです。こうした視点で、もう一度これまで行
われてきた研究を見直してみると、先住民の交易という、
その一方で、この三つの交易で異なっている点がある
のです。どのように異なっているかというと、蝦夷地交
先住民及び国家のエスノネットワークということができ
易は先住民交易を先住民−国家間交易が包摂していくよ
ます。それは、地元の産物を交易のために行う捕獲、加
うなパターンをとっています。城下交易で自由に行って
工、輸送の過程においてさまざまな民族集団が関わるあ
いた交易を、商場知行制そして場所請負制という形で先
り方、これはもちろん先住民であり、日本人であり、あ
住民−国家間交易が包摂していくのです。そして、19 世
るいはロシア人でありという中で交易が進んでいったと
紀半ばには交易そのものが終わってしまうのです。それ
いうことです。
に対して、ベーリング海峡交易というのは、先住民交易
こうした視点に立つと、18、19 世紀の東北アジア海域
と先住民−国家間交易の並立があった後、19 世紀末に先
世界というのは、三つのエスノネットワーク、つまりベ
住民−国家間交易がなくなっています。これは、先ほど
ーリング海峡交易と間宮海峡交易、そして蝦夷地交易と
説明したような経済的な背景から、毛皮が必要なくなっ
いうエスノネットワークの中で変容して関わり合い、そ
たという状況から、先住民−国家間交易もなくなったの
れが資本主義的な開発と政治支配によって、そのエスノ
です。しかし、先住民交易は 20 世紀半ばまで継続してい
ネットワークが終焉していくという過程であると言える
たという状況があるのです。
のです。
もう一つは、東北アジア海域という枠組みをつくるこ
最後の間宮海峡交易というのはこの中間型で、先住民
間交易の中の樺太アイヌ−サンタン交易は 19 世紀初頭
とによって、アイヌ民族を含む歴史的世界というものを、
に終わってしまいますが、スメレンクル交易は 19 世紀末
ある種、連関するという状況をお見せすることができた
まで継続しています。そして、先住民−国家間交易、清
のではないかと思います。
最後に残された課題なのですが、こうした研究を私は
朝や江戸幕府との交易は 19 世紀半ばに完全に消滅して
歴史の一次資料ではなく、従来の研究論文に書かれてい
しまうのです。
なぜこのような違いができたのかということを考え
る二次資料を使って研究の枠組みを開発できるのはない
ると、交易で流出した財の性質によると言えます。ベー
かということを考え、今回のような議論をしています。
リング海峡交易で流出した財は毛皮です。間宮海峡交易
逆に言うと、果たしてこういった東北アジア海域史、そ
で流出した財は清朝や江戸幕府に対しては毛皮ですが、
してエスノネットワークという枠組みの中で、日本の古
帝政ロシアは毛皮に重点を置いていなくて、むしろ、石
文書、ロシアの古文書、アメリカの古文書という、それ
炭とか軍事拠点をそこに置くということに大きな意味を
ぞれの一次資料を使った実証分析ができるかどうかとい
見出したのです。ところが、蝦夷地交易で流出した財は、
うことが今後の課題になってくるだろうと思います。
サケ、マス、ニシンといった水産資源なのです。流出し
駆け足でお話ししてきましたが、「東北アジア海域史
た財がどのような経済的な意味を持っていたのかという
の中のアイヌ民族とシベリア先住民の交易、新しい民族
ところに、大きな理由があると思うのです。
史の研究の視角と方法をめぐって」というお話は、これ
でおしまいとなります。
毛皮というのは、ある研究者が「忘れられた世界商品」
御静聴ありがとうございました。(拍手)
と言っていますが、19 世紀までは、砂糖とか胡椒と同じ
ように、世界を駆けめぐる、植民地化を促進する商品と
して大きな役割を果たしていたのです。
それに対して水産資源は、日本の資本主義発展の重要
な要素の一つになっているのです。つまり、蝦夷地の水
産資源というのは毛皮のように忘れられていくのではな
く、先住民との間の交易を完全にカットして、国家がそ
れを利用するように位置づけされたのです。そのことに
より、蝦夷地交易では 19 世紀半ば以降、先住民間交易そ
のものが無くなってしまったのです。一方で、同じよう
な状況にあるベーリング海峡交易では、国家にとって商
品としての毛皮に意味が無くなり、国家はそれほど先住
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