特集 vol. 33 季刊 2014 秋 水と火の職人 くろ くわ しゅう おお の か じ 黒鍬衆と大野鍛冶 I N A X ラ イ ブ ミ ュ ー ジ ア ム は 、 01 [特集] LIVE くろ くわ しゅう おお の か じ 黒鍬衆と大野鍛冶 SCHEDU LE 06 これからの催し LIVE 07 水と火の職人 東 日 本 大 震 災 の 復 興 を 支 援 し て い ま す。 企画展 雨と生きる住まい― 環境を調整する日本の知恵 企画展 壁のパブリックアート vol. 季刊 2014 秋 表紙写真 RE PORT 窯のある広場・資料館で出 会った母子。浜松から知多 半島へ、夏休み最後の思い 出づくり。暗い窯の中に恐 る恐る入ってみたり、大きな 土管をくぐって遊んだり、元 気いっぱいの男の子でした。 開催報告 企画展 タイルが伝える物語 ―図像の謎解き 関連ワークショップ タイルに描かれた物語の朗読会 テラコッタパーク 夏の夜のコンサート 08 33 (2014.8.30) 企画展 手のひらの太陽 ― 「時を知る、位置を知る、姿を残す」道具 関連ワークショップ 撮影:加藤弘一 こもれびを食べる動物になろう!/自分の日時計をつくろう! フォトコンテスト2014「私の好きなライブミュージアム」 入賞・入選作品の決定 水と火の職人 くろ くわ しゅう おお の か 09 夏休み特別企画 どろの遊園地2014〜子どもは遊びの天才だ〜 光るどろだんご大会2014 inセントレア じ 黒鍬衆と大野鍛冶 知多半島は江戸時代、海運を背景に、 醸造業、窯業、木綿業など、大都市・江戸をターゲットにした 常滑から ※ ダイナミックな「ものづくり」を展開していました。 32 とう じ 杜氏、桶職人、陶工、絵付師、機織り職人、船大工…。 。 そこには、実に多様な職人たちがいました。 常滑の多賀神社 商品でなく技術を売り物にして他国に出て行った 「水を制する職人・黒鍬衆」 、そして 「火で道具をつくる職人・大野鍛冶」に迫ります。 竹 多 格 くろ ばさま 上左より 黒廻間池(知多市)黒鍬衆がつくった雨池 江戸期の書物に描かれた黒鍬( 『続保定記』1843(天保14)年 成田山仏教図書館蔵) 大野鍛冶が使った大槌と小槌 01 vol.33 ︵ 主 任 学 芸 員 ︶ く 響 い て い た と 思 わ れ ま す ︒ 夏 の 盛 り に は 蝉 し ぐ れ が ひ と 際 高 荘 厳 な 雰 囲 気 を 醸 し 出 し て い ま す ︒ っ そ り 佇 む 姿 は ︑ 小 規 模 な が ら も 美 し い 木 造 の こ れ ら の 社 殿 が ひ 桧ひ 茂 皮 わだ る 葺 ぶき 高 の 木 屋 に 根 囲 を ま 持 れ ち た ︑ 空 木 間 組 の み 中 に が ︑ み 尊 こと が 祀 ら れ て い ま す ︒ う っ そ う と が あ り ま す ︒ そ の 本 殿 に は 伊い 弉なざ 諾ぎの の 拝 殿 の 左 手 前 に は 祝 のり 詞と 殿 でん と 本 殿 ま ず 左 手 に 拝 殿 が 見 え ま す が ︑ そ 木 漏 れ 日 の 参 道 を 進 ん で い く と ︑ め ら れ た 境 内 が 現 れ ま す ︒ い く と ︑ 玉 砂 利 が き れ い に 掃 き 清 い ま す ︒ 道 路 か ら 石 段 を 上 が っ て 化 財 に 指 定 さ れ た 社しゃ 叢そう が 広 が っ て ノ キ と い う 樹 木 を は じ め ︑ 県 の 文 こ の 神 社 の 周 辺 に は ︑ オ ガ タ マ の 総 本 社 は 滋 賀 県 の 多 賀 大 社 で す ︒ を 持 つ 神 社 は 日 本 各 地 に あ り ︑ そ え ら れ て い ま す ︒ 多 賀 と い う 名 前 年 に 多 賀 大 社 か らか 勧 んじ 請 ょう さ れ た と 伝 ※ INAXが生まれ育った常滑のやきものや土に関わる人、風景、できごとなどを、INAXライブミュージアムのスタッフが伝えます。 わ れ ︑ そ の 創 建 は 元 和 7 ︵ 1 6 2 1 ︶ 社 は 旧 苅 屋 村 の 氏 神 で あ っ た と い 常 滑 市 苅 かり 屋や 洞 ほら ノの 脇 わき に あ る 多 賀 神 あこう くろくわしゅう つつみ ぶ しん る組織もあり︑民間にも存在しました︒ ら数十人の集団で出かけました︒近世職 仕事の依頼があると︑黒鍬衆は数人か も残されています︒ 塩 浜 の 堤 普 請 *を 請 け 負 っ た と い う 記 録 赤穂の 塩田も 築いた 知多半島の 黒鍬衆 ﹁黒鍬衆﹂とは︑土木作業を行う人たち 農地が狭い知多半島では︑農業だけで生 人史を研究する篠宮雄二さん のこと︒江戸時代には幕府や大名に仕え 活できなかった農民が現金収入を得るた め︑農閑期に土木作業の出稼ぎに出てい や が て︑体 力 だ け で な く︑彼 ら の 持 つ たのが始まりでした︒ とこ せ 土木技術の評価が高まります︒とくに水 を制する﹁床しめ * ﹂︑農地を広げる﹁畝ま 黒鍬衆は︑三河︑美濃︑伊勢をはじめとし し* ﹂と いっ た 技 術 は 有 名 に な り︑知 多 の て西は畿内︑東は遠州︑相模まで出かけ︑ 治 水︑新 田 開 発︑道 路 整 備 な ど に 従 事 す 乙川村 の黒鍬衆が赤穂 で るようになりました︒ 世紀初めには︑ あめいけ は︑ ﹁一つの決まった集団というより︑ 土木技術を持った親方が依頼された仕事 ごとに労働力を集めて出かける形だった 知多半島の黒鍬衆は︑高度な土木技術 と考えられます﹂と話します︒ * をどうやって習得したのでしょうか︒ から 得た 高度な 土木技術 ﹁雨池﹂ 降水量が少なく︑大きな河川がない知 つつみ 多半島は︑昔から水に苦労してきました︒ せ 農業用の灌漑は︑雨水が集まる谷を堤で 堰 き 止 め た﹁雨 池﹂に 頼 っ て い ま し た︒ 江戸時代前期までに千以上の雨池が築か れました︒ 雨池をつくるためには︑降った雨がど のように流れ︑どこに溜まるか︑地形を 読まなくてはなりません︒頑丈な堤を築 くには︑距離や水平を出す測量技術︑水 が漏れないようにする施工技術︑石垣を 組む技術なども必要でした︒農民の中で そうした技術に秀でた者が︑指導者的な 立場になっていったのでしょう︒ : * * * 黒鍬 ﹁竹の 根を 切るのは 豆腐を 切るごとき ﹂ ひらくわ つる じょれん 黒鍬が使う主な道具は︑土を掘り起こ す平鍬︑鶴はし︑土砂をすくう鋤簾の3 種︒知多半島の黒鍬衆が持つ平鍬は︑と くに﹁黒鍬﹂と呼ばれる独特なもので︑幕 末の農学者・大蔵永常が著した﹃農具便 ﹁大 黒 鍬﹂は 刃 先 の 幅 が ㎝ ︑重 さ は 利論 * ﹄でも紹介されています︒ 2 . ㎏ と︑普通の鍬の約2倍の大きさと 24 ﹁江 戸 中 期 以 後 も 新 田 の 開 発 な ど に よ り︑水の需要は大きくなりました︒それ に対して︑知多の黒鍬たちは︑一つの雨 池を上・中・下に分割して大きくしたり︑ 既存の水利権を守りながら用水や排水路 をより複雑化させて︑新田に水を引きま した︒こうした試みが︑彼らにより高い 技術を習得させたとされています﹂と︑ 篠宮さん︒知多半島の自然条件や水利権 などの社会的な制約が︑黒鍬たちの高い 技術を育んだといえるでしょう︒ 床 し め / 粘 土 質 の ﹁ ハ ガ ネ 土 ﹂ を 突 き 固 め ︑ 粘 り を 出 す こ と で 水 漏 れ を 防 ぐ 技 術 ︒ 畝 ま し / 山 野 か ら 大 き な 畑 を つ く っ た り ︑ 段 々 の 畑 や 田 を な ら し て 一 枚 の 田 畑 に つ く り か え る 技 術 ︒ 塩 浜 の 堤 普 請 / 潮 の 干 満 を 利 用 し て 海 水 を 引 き 込 む 塩 田 授 ︶ 重 さ が あ る と し︑ ﹁尾 張 国 知 多 郡 よ り こ の鍬を使って土木工事に従事する人のこ とを黒鍬と呼ぶ﹂ ︑その威力は﹁竹の根を 切るのは豆腐を切るごとき﹂﹁池など新し く掘るときはほかの鍬の 3挺分の働きを 江戸時代は︑農民が鉄製の農具を持て する﹂と書かれています︒ るようになり︑生産力が飛躍的に増加し た時代です︒生産用の道具は︑生産者が 現場で身につけた知識や︑こうあったら いいという工夫をすぐに形にしていくこ とで発展してきました︒黒鍬も︑黒鍬衆 おお の か じ の注文を反映して生まれたに違いありま せん︒つくったのは︑ ﹁大野鍛冶﹂と呼ば れる鍛冶職人でした︒ 02 vol.33 vol.33 03 郡黒 道鍬 工衆 事の の 様 子 ︵ 写 真 提 供 知 多 市 の 堤 を つ く る 仕 事 ︒ 黒 鍬 衆 の 作 業 着 姿 ︵ ﹃ 有 脇 の 黒 鍬 ﹄ 有 脇 公 民 館 発 行 ︶ 歴 史 民 俗 博 物 館 ︶ 25 ︵ 兵 庫 県 ︶ 19 ︵ 中 部 大 学 教 鶴 鋤じ ょ 黒 は 簾れ ん 鍬 し︵ 衆 ︵右 ︶ 左と の 道 ︶ 具 ﹃ 農 具 便 利 論 ﹄ 1 8 2 2 ︵ 文 政 5 ︶ 年 刊 ︒ 明 治 期 に な っ て も 刊 行 さ れ 続 け た 農 業 技 術 書 の ベ ス ト セ ラ ー ︒ 広 く 普 及 す る 価 値 が あ る と 考 え ら れ る 農 具 を 紹 介 し て い る 実 用 図 鑑 ︒ ︵ 半 田 市 ︶ で か じ を中心とする一帯には︑多くの 江戸時代︑知多郡大野谷 が 認められた 特権的鍛冶職人 ﹁出鍛冶﹂ 独自の技術で地域の農業を 支える とく い ば 大野鍛冶の多くは農業との兼業で︑農 閑 期 に﹁得 意 場﹂と い う 他 国 の 村 の 自 分 の縄張りに出かけました︒そこには仕事 つち しばしも休まず打つ槌の音と飛び散る 場があり︑道具も置いてありました︒ 火花| これが鍛冶屋の風景でした︒﹁けん かと鍛冶屋は一人じゃできぬ﹂と言われ かな どこ 農 鍛 冶 =大 野 鍛 冶 が 集 まってい ま し た︒ その背景には︑大野湊が伊勢湾の港湾都 市の一つとして繁栄していたこと︑材料 の鉄が入手しやすかったことなどがあり ます︒ ゆい 大野鍛冶は︑戦国期に伊勢から大野に を 持 っ て い ま す︒ 渡ってきて大名の保護を受けたという由 しょ がき 緒書 そ こ に は︑﹁徳 川 家 康 の 命 令 に 従 い 駿 府 城 築 城 に 参 加 し た﹂﹁家 康 か ら 尾 張 藩 内 に限らず︑他の地域に出向いて鍛冶仕事 をする特別な権利を許された﹂と書かれ ているそうです︒ ﹁その由緒ゆえに︑尾張藩も﹃出鍛冶﹄ を認めていた可能性があります︒実際︑ 大野鍛冶の活動範囲は尾張東部のほか︑ 美濃の一部や三河のほぼ全域にわたって い ま す﹂と︑篠 宮 さ ん︒つ ま り︑他 の 地 い しょく で しょく 域 の 鍛 冶 屋 は 自 宅 で 営 業 す る﹁居 職﹂で あ っ た の に 対 し︑大 野 鍛 冶 は﹁出 職﹂が 認められた特権的集団だったのです︒ 知多半島の 風土が 生み 出した 職人 海に囲まれた知多半島は︑海運を通じ て外部とつながっていました︒日本中の 新しいものや情報がいち早く入る地域で す︒人々は︑旺盛な好奇心と探究心を持 ﹁近 世 は 農 業 が 中 心 で す が︑実 は そ れ って経済活動を営んでいました︒ 以外の多様な産業があり︑職人たちがい て︑初めて成立する社会です︒近世の縮 図のように︑それがいちばんよく見える のが知多半島だと思います﹂と︑篠宮さ 独特の技術を武器に︑他国と関係を持 んは言います︒ ちながら知多半島で暮らしていた黒鍬衆 と大野鍛冶︒彼らもまた︑風土が生み出 したオリジナリティあふれる職人でした︒ 鍛 神常 冶 明滑 職 社市 人 西 の 之 信 口 仰 の の 対 象 と な っ た 金 山 彦 命 が 祀 ら るように︑親方と職人が息を合わせて︑ 金床の上の真っ赤になった鉄を槌で打ち ます︒鉄の温度は1000度〜1200 度︒それ以下でも以上でも︑でき上がっ た製品が割れやすくなります︒火をいか ゆ ざき に上手く扱うかが本領でした︒ はがね ま た︑大 野 鍛 冶 は﹁湯 先﹂と い う 独 自 の技術を持っていました︒高価な鋼を使 わず︑使い古した鍋などを利用して鍬の 刃先の補修をするもので︑鋼よりも耐久 : ︒ 力があると喜ばれたそうです︒出先のお 百姓さんの要求に応じて道具をつくり︑ 大野鍛冶はその地域の農業を支えていた のです︒ ︵ 常 滑 市 北 部 ・ 知 作大 業野 風鍛 景冶 の 平 成 に な っ て 大 野 04 vol.33 vol.33 05 っ 大 た 野 鋤す き鍛 と 冶 鍬く わが つ く 毎 縁 年 起 ︑ 仕 物 事 始 め に 金か な 大 山や ま 野 彦ひ こ 鍛 命の み 冶 をこ た と 祀 ち っ が て つ く っ た 刀 ︒ ︵ 起 源 を 記 し た も の ︶ の株︵ 鍛 館式映 冶 ︶会像 は 提 社供 姿 ・ を 鍛愛 消 造知 技製 し 術鋼 た れ て い る ︒ 撮 印 印 影 協 知 愛 力 多 知 市 製 歴 鋼 史 株 民 式 俗 会 博 社 物 ・ 館 鍛 造 技 術 の 館 多 市 南 部 ︶ 金か な 道 大 床ど こ 具 野 ・お 鍛 大お 冶 槌づ ち の ・ 小こ づ 槌ち 農大 鍛野 冶鍛 職冶 の 鑑 札 固 定 的 な 組 織 を 持 た な か っ た 黒 鍬 衆 と ち が っ て ︑ 大 野 鍛 冶 は 仲 間 ︵ 同 業 者 組 合 ︶ を 形 成 し ︑ さ ま ざ ま な 決 ま り を つ く っ て い た ︒ 篠 宮 雄 二 さ ん 中 部 大 学 人 文 学 部 教 授 ︒ 専 門 分 野 は 日 本 近 世 史 ︒ 研 究 テ ー マ に 職 人 史 ︑ 社 会 集 団 論 ︑ 地 域 社 会 論 な ど ︒
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