シマフクロウとアイヌ民族

「シマフクロウとアイヌ民族」長谷川充
シマフクロウとアイヌ民族
〜アイヌの人びとはシマフクロウとどのように関わってきたか〜
7 月 26 日(水)13:00〜14:30 名古屋会場
8 月 2 日(水)13:00〜14:30 札幌会場
講師
1
長谷川 充
苫小牧市博物館館長
てカムイチカフとも云ふ」と記述し、アイヌの人々はシ
マフクロウを神の鳥として相尊ぶとともに忌み遠ざけ、
恐れ崇めると説明し、さらに、享保年間には江戸幕府の
命によってシマフクロウを生きたまま、(松前藩が)幕府
に献上したと記しています。
また、クン子レキという言葉も、同じくシマフクロウ
を意味する言葉として本草書や禽類図譜に記述されてい
ますが、シマフクロウよりもふつうのフクロウ、本道の
場合はエゾフクロウ、を意味する言葉として広く使われ
ており、クン子レキというアイヌ語がシマフクロウを指
すという例は多くありません。
明治期に入ってからですと、アイヌの父といわれてい
る ジ ョ ン ・ バ チ ラ ー が 自 著 の 『 The Ainu and Their
Folk‑lore』で、シマフクロウを意味する言葉として、次
のような5つの言葉を列挙しています。
シマフクロウのアイヌ語による名称・呼び名
ただ今、ご紹介いただきました長谷川と申します。ど
うぞよろしくお願いいたします。
シマフクロウという、北海道にしか生息していない大
型のフクロウに惹かれ、この鳥に関することをいろいろ
と調べております。今回はこの鳥とアイヌの民族との関
係についてお話ししたいと存じます。
まず、最初にアイヌの人々がシマフクロウをどのよう
に呼んでいたのか、アイヌ語によるシマフクロウの呼び
名や名称について、説明したいと思います。
アイヌの人々は文字を持たない無文字社会に生きてい
たため、シマフクロウをどのように呼んでいたのか、彼
ら自身の記録もなく、また、言い伝えの記憶も次第に薄
れてしまい、詳しいことはわからないのが実情です。
そこで、江戸時代に著された禽類図譜や物産志、蝦夷
地の探検録や紀行文などからシマフクロウを意味するア
イヌ語を拾い出してみました。
フムフム・オッカイ・カムイ humhum okkai kamui(フムフ
ムと啼く神聖な男)
カムイ・エカシ kamui ekashi(神々の祖先)
メナシチカフ(東の鳥)『松前志(松前廣長)』1781・『蝦
カムイ・チカッポ kamui chikappo(神聖な小鳥)
夷嶋奇觀補註(松前徳廣)』1863
ヤ・ウン・コントュカイ ya un kontukai(世界の召使)
カムイチカフ(神鳥)『松前志(前同)』1781・『蝦夷嶋奇
ヤ・ウン・コッチャネ・グル ya un kotchane guru(世界
觀補註(前同)』1863
の仲介者)
カモイチカプ(神鳥)『蝦夷方言藻汐草(上原熊次郎)』1792
『The Ainu and Their Folk‑lore』 1901. The Religious
カモイカッフ(神鳥)『蝦夷日記(木村謙次)』1798
Tract Society.London.
訳書『アイヌ人とその説話』
1925・『アイヌの伝承と民俗』(安田一郎訳)1995
カムイカル(神鳥)『東蝦夷物産志(渋江長伯) 』発行年
バチラーがどの地方に居住するアイヌの人々からこれ
らの言葉を採集したのか、詳細な記録がないので不明で
すが、フムフム・オッカイ・カムイやヤ・ウン・コント
ュカイ、ヤ・ウン・コッチャネ・グルなど、バチラーの
著書にのみ記載がある言葉も見受けられ、興味深いと思
います。
また、彼自身がアイヌ民族の出身であり、言語学者で
あった知里真志保(1909‑1961)は、シマフクロウを意味
するアイヌ語として 12 の言葉を採集しています。
これらは彼の死後に刊行された『分類アイヌ語辞典・
動物編』に収録されておりますが、未完成のままカード
で残されたものをそのままのかたちで収録したものです。
実際に知里が採集したものもあるのですが、姉幸惠の
『アイヌ神謡集』からの引用や、バチラーの『The Ainu and
Their Folk‑lore』からの引用もいくつかあります。日本
語及びローマ字の表記は原文どおり(以下、同様)。
不明
チカフカムヰ(鳥神)『蝦夷廼天布利(菅江真澄)』1791
クン子レキ(夜啼く鳥)『蝦夷方言藻汐草(前同)』1792・
『観文禽譜(堀田正)』1794・
『重訂本草綱目啓蒙(小野蘭
山)』1806・
『水谷氏禽譜(水谷豊文)』1810・
『禽譜(堀田
正敦)』1830・『蝦夷嶋奇觀補註(前同)』1863
コッコチカプ(不明)『蝦夷廼天布利(前同)』1791
シマフクロウを意味するアイヌ語のなかで、もっとも
古く文字として記録された言葉は、『松前志』に登場する
メナシチカフという言葉のようですが、不思議なことに
『松前志』と『蝦夷嶋奇觀補註』にしか記述されていま
せん。
「松前志」は、松前藩の五代藩主松前矩広の五男松前
廣長が著したもので、シマフクロウについて次のように
記述されています。
「夷人これをメナシチカフと云。メナシは東方、チカ
フは鳥を云。是極東の鳥と云こと也。夷人又此鳥を相尊
カむイチカプ kamuychikap(神である鳥)
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「シマフクロウとアイヌ民族」長谷川充
はないということを理解しておく必要があると思います。
このほか、アイヌ文化の研究者であった吉田巌(1882‑
1963)の『北海道あいぬ方言語彙集成』1952 や『愛郷譚
叢 』 1957 、 ま た 、 言 語 学 者 と し て 有 名 な 服 部 四 郎
(1908‑1995)の『アイヌ語方言辞典』1964 など、アイ
ヌ研究者の著書にもシマフクロウを意味するアイヌ語が
いくつかみられます。
ただ、吉田も服部も鳥類、特にフクロウ類に関した知
識が十分でなかったせいか、フクロウ類をフクロウとミ
ミズクの 2 種にしか分類して調査しておらず、データと
しては不十分だったので、ここでは詳しく取り上げませ
んでした。
カむイチカッポ kamuy cikappo(敬愛する神鳥)
カムイエカシ kamuy‑ekasi(神・翁)
コタンコッチカプ kotan‑kot‑cikap(村を守護する鳥)
コタンコホチカ ハ kotan‑kox‑cikax(不明)
コタンコロチカハ kotan‑koro‑cikax(不明)
コタンコルカムイ kotan‑kor‑kamuy(村を守護する神)
モシリコルカムイ mosir‑kor‑kamuy(国土を所有する神)
エと°ルシ eturus(不明)
ニヤシコルカムイ niyas‑kor‑kamuy(木・条・もつ・神
B
説*)
ya‑un‑kontukai(日本語表記無し B 説)
ya‑un‑kotchange‑gusu(日本語表記無し B 説)
『分類アイヌ語辞典 第二巻 動物篇』1962・ 『知里真志
保著作集・別巻Ⅰ・分類アイヌ語辞典』1976
2
口承文芸に登場するシマフクロウ
一般にアイヌの口承文芸は、三つのジャンルに分類さ
れるといわれておりますが、シマフクロウが登場する口
承文芸は、カムイユカ ラ とかオイナ、或いはトゥイタ ク
といわれているものです。日本語では神謡と呼んでいま
す。
カムイとはご承知のように神様を指す言葉ですから、
神のユカラ 、つまり、神の物語という意味になります。
アイヌの人たちは動物や植物をはじめ、自然現象などに
も神が宿ると考えており、これらのさまざまな神様が自
らのことを語るのが、カムイユカラです。
シマフクロウのほか、キツネ、ウサギ、谷地、海など
の神様が自らのことを語っている物語となります。
また、カムイユカラ は、短く繰り返されるメロデイー
に乗せて語られ、サケヘという折り返しを持って語られ
ます。 カムイユカラ 以外の口承文芸は、英雄叙事詩と
散文説話といわれるもので、英雄叙事詩は、ユカラ 、サ
コロ ペ、ハウキといわれており、超人的な少年英雄の冒
険物語が多く、語り手は、レプ ニという拍子棒で炉縁を
叩きながら、節をつけて語ります。
もう一つは、ウエペケ レ 、トゥイタ ク 、イソイタッキ
とアイヌ語でいわれている散文説話で、節も折り返しの
言葉もなく、また日常会話に近い言葉で語られ、勧善懲
悪の結末が多く、アイヌ社会のルール、規範、倫理観が
述べられているものです。
シマフクロウの神様が登場するカムイユカラ は、私が
確認しただけでも約 30 篇ほどが確認されましたが、なか
でも特に有名なのが、知里幸惠の「梟の神の自ら歌った
謡・銀の滴降る降るまわりに」だと思います。
このカムイユカラ は、彼女が遺した『アイヌ神謡集』
に収録されているものですが、日本語で聞いても、非常
に涼やかな響きを持った秀逸な作品だと思います。少し
長くなりますが、あらすじを説明します。
フクロウの神様(カムイチカップカムイ)である私は、
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」
という歌をうたいながら流れに沿って人間の村にやって
きたところ、昔金持ちだった家の今は貧乏な家の子ども
が、昔は貧乏だった家の今は金持ちの子どもに馬鹿にさ
れていました。
*B 説:ジ
ョン・バチラー説
また、知里真志保とも交流があり、アイヌ文化研究家
であった更科源蔵(1904‑1985)の著作にも、シマフクロ
ウに関した記述があります。
コタン・クル・カムイ(部落を守る神様)
ニヤシ・コロ・カムイ(木の枝に居る偉い神様)
『コタン生物記』1942
コタン・コル・カムイ(村を支配する神)
コー・チカッポ(不明)
モシリ・コトロカムイ(大地の胸板の神)
コタンコル・トリ(村を支配する鳥)
コタンコル・クル(村を支配するお方)
ニヤシコル・カムイ(木の枝を支配する神)
アノノカ・カムイ(人間の姿をした神)
コタンコル・チカプ・カムイ(村を支配する鳥の神)
『コタン生物記Ⅲ 野鳥・水鳥・昆虫篇』更科光共著 1977
コー・チカッポやアノノカ・カムイなど、更科の著作
にしか記述されていない言葉も、バチラーと同様に見受
けられます。こうした言葉の出自がどこで、どの地方の
言い伝えなのか、詳細を知りたく思っています。
更科の出身地である弟子屈町の教育委員会に彼のアイ
ヌ関係の調査資料が保管されていると聞いておりますの
で、そうした資料の整理が進むにつれ、こうしたことも
次第に解明されると思います。
更科はオニグルミを材料にシマフクロウのオモチャ
(民芸品)を作ったり、シマフクロウを主題とした詩を
書いたり、また、年賀状の版画の画題とするなど、個人
的にもシマフクロウが好きだった思われ、折に触れてシ
マフクロウとアイヌ文化について述べています。
「神様のなかでシマフクロウが一番偉い神様である・
飼育中のシマフクロウフに間違いがあると悪い災いが起
こる(コタン生物記)。フクロウ送りに婦女子は参加しな
い・フクロウ送りをした後、1 年間はクマ狩りをしない・
シマフクロウに不敬な振る舞いをすると罰がくだる(コ
タン生物記Ⅲ)」
更科が指摘するようなシマフクロウと濃密な関係にあ
ったアイヌの人々は、一部の地方のコタンであったとい
う認識にとどめ、すべてのアイヌ民族に共通したもので
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「シマフクロウとアイヌ民族」長谷川充
私は、貧乏な家の子どもが不憫になり、私を射落とそ
うとした金持ちの子の矢はわざと外し、貧乏な子の矢に
射落とされて、その子の家に招かれていきました。(運ば
れていきました)
私はそこの家の人たちが、今は金持ちの家の人から馬
鹿にされたり、いじめられたりしていることを知りまし
た。そして、質素であったけれども、心のこもったもて
なし(フクロウ送り)をそこの家で受けたので、みんな
が寝ている間に、そのお礼にとその子の家の中を宝物で
一杯にしてやりました。
家の人たちはビックリするとともに感謝の気持ちに満
たされ、今まで仲たがいしていた金持ちの家の人たちも
招いて、村の人たちと酒宴を開き、これからも皆で仲良
く暮らしていこうと約束し合いました。
それからその村はあの貧乏な子が成長して村長となり、
お酒を造ったときは、いつも自分にイナウやお酒を捧げ
てくれるので、こうして、その村を守っている。
良い行いをすれば、必ずそれは報われる、といった内
容のカムイユカラです。
知里幸惠のこのカムイユカラ のほかにも、シマフクロ
ウの神様が主人公として登場するものはいくつかありま
す。
旭川に在住していた杉村キナラプ ク は、カムイユカ ラ
など 130 編以上の口承文芸の物語を残しておりますが、
このなかに8編ほどシマフクロウが主人公のカムイユカ
ラ があります。
そのなかの一つ、「人里を荒廃させた幼いシマフクロ
ウ神の物語」は、次のような内容です。
シマフクロウの神というのは、常に人里の安全に気を
配り、特に魔物が侵入しやすい夜間は、巨大な眼を見開
いて、人里を巡回する役割を担っていますが、このシマ
フクロウの神の幼い神が、こともあろうに軽率な振る舞
いを起し、人里を目茶苦茶にしてしまい、その行いを両
親のシマフクロウの神から強く叱責され、戒められる内
容の物語です。
平取町の平賀エテノアや旭川の砂沢クラ、白糠町の四
宅ヤエなども残しています。
アイヌの人々のこうした口承文芸の作品にふれること
は、自然の恵みを享受し、自然とともに生きてきたアイ
ヌの人々の精神世界を知る重要な手がかりになるもので
もあり、大変興味深いものだと思います。
また、カムイユカラ に登場するシマフクロウのアイヌ
語の呼び名も一様ではありませんので、次に紹介します。
カムイチカップカムイ kamuichikapkamui「 梟の神の自ら歌
つた謡・銀の滴降る降るまはりに」知里幸惠(1903‑1922・
登別/旭川)
コタンコロカムイ kotan‑kor kamui「村主の梟神の妹神の
自叙」平賀エテノア(1880‑1960・平取/門別)
コタンコロカムイ kotan kor kamuy「人里を荒廃させた幼
いシマフクロウ神の物語」杉村キナラプク(1888‑1974・深
川/雨竜/旭川)
カムイチカップカムイ kamuy chikap kamuy「シャチの悪童
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をこらしめるシマフクロウ神の物語」杉村キナラプク
コタンコロカムイ kotan‑kor‑kamuy「 集落を見守る(シマフ
クロウ)神の自叙伝Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」四宅八重(1904‑1980・白
糠/阿寒)
チカップカムイ cikap kamuy「フクロウの神に育
てられ
た少年」白沢ナベ(1905‑1993・千歳)
カムイチカップカムイ kamuy cikap kamuy「シマ
フクロ
ウ神のカムイユカラ」白沢ナベ
また、アイヌのエカシの記述にも次のような言葉がみ
られます。
モシリコットリカムイ(国を司る鳥の神)『八重九郎の祈
詞』八重九郎(1895‑1978・鶴居)
コタンコロカムイ(村を守る神)八重九郎
カムイチカプカムイ(神である鳥の神)八重九郎
パセカムイ(尊い神)八重九郎
ピリカチカッポ(美しい鳥)八重九郎
カムイチカッポ(神の鳥)八重九郎
モシリ・シカマ・カムイ(国を守る神)『オッパイ山』山
本多助(1904‑1993・釧路/阿寒)
ニテッコカイ(木の枝とともに折れるもの)『アイヌの古
老に訊く』葛野辰次郎(1910‑2002・静内)
以上、旧記類からここ最近に至るまでの出版物のなか
からシマフクロウを意味するアイヌ語を拾い出してみま
した。予想を超えるシマフクロウを意味するアイヌ語の
数に驚いています。
ただ、地方やコタンによるアイヌ語のニュアンスの多
少の違い、聞き取りを行う側の日本語化、あるいはロー
マ字化をする際の表記の違いなどがあり、実際の数はこ
れよりも少ないのかもしれません。
これらの言葉を大雑把に括ると、三つくらいのグル−
プに分類されるのではないかと思います。
一つ目は、シマフクロウを自分たちの守り神、守護神
とみている言葉の呼び名です。
コタン kotan(村)とかモシリ mosir(国土)、カムイ
kamuy(神)という単語で構成されています。
コタンコロカムイ(村を守る神)、コタンコルチカップ
カムイ(国を司る神)、モシリコルカムイ(国土の神)、
モシリコットリカムイ(大地の神様)などがそれらに該
当するのではないでしょうか。
二つ目は、シマフクロウを神様とみる言葉で表現され
ているもので、一つ目とは違って、シマフクロウそのも
のをカムイ kamuy(神)としてみている呼び名です。
チカプカムイ・カムイチカップ(神の鳥)、ニヤシコロ
カムイ(木の枝にいる神様)、アノノカカムイ(人間の姿
をした神)、フムフムオッカイカムイ(フムフムと啼く神)
などがそれに当たります。
三つ目は前述のグループに当てはまらない言葉で、メ
ナシチカフ(東の鳥)、ヤ・ウン・コントュカイ(世界の
召使)、ヤ・ウン・コッチャネ・グル(世界の仲介者)、
コー・チカッポ(不明)などです。
アイヌ語でもこれほど多種多様な呼び名で呼ばれてい
る鳥はほかに例がなく、また、他の生き物にも見当たり
「シマフクロウとアイヌ民族」長谷川充
コタン
ません。その理由はわかりませんが、それぞれのシマフ
クロウの呼び名には、名付けられた理由と意味があるわ
けですから、その分だけシマフクロウとアイヌの人々の
間に、両者を結び付けるものがあったということではな
いでしょうか。
3
フクロウ送りについて
アイヌの人々には送りの儀礼という、彼らの自然観や
動物観に由来した儀礼があります。彼らはこの世界には、
アイヌモシ リ とカムイモシ リ という二つの世界があると
考えています。
アイヌモシ リ というのは人間の世界のことで、カムイ
モシリ というのは神々の世界のことです。アイヌの人々
が生活して生きている世界、私たちの言葉で言えば現世
に当たる世界と考えてよいと思いますが、そうした世界
に存在する動物とか植物、全部のものではないのですが、
それから自然現象などに神が宿っていると考えており、
その神々はカムイモシ リ からアイヌモシ リ に、動物や植
物の姿にかたちを変えて遣わされてきていると考えてい
ました。
そうした神々をカムイモシリ の国へ返してあげる儀式
を送りといい、送り儀礼のなかで、特に有名なのはクマ
送りの儀礼です。カムイモシリ からアイヌの世界に遣わ
されたクマの神様(霊魂)を再び天上に送り返すといっ
た意味を持つ儀礼で、アイヌ語で、イオマンテとかイワ
ク テ、オプニレといわれています。
クマ送りの様子については、『蝦夷見聞誌(秦檍麿)』
1798 や『蝦夷国風俗人情之沙汰(最上徳内)』1790 に詳
細に記載されていますし、実際に行なわれた様子を撮影
した映像記録も存在しております。
クマ送りは大きく分けて二つの方法があります。
捕獲した山中の現場か若しくは近くの送り場で送る
「山グマ送り」というのと、産まれて間もない子グマを
引き取り、コタンで成獣になるまで飼育して行う「飼い
グマ送り」にわけられます。
フクロウ送りは「飼いクマ送り」にかなり類似してお
り、山中でヒナを捕獲し、大きくなるまでコタンで育て
あげ、コタンコルカムイイオマンテとかモシリコロカム
イオプニレといって、送りを行っていました。
シマフクロウの生息数が少なくなったためか、また、
シマフクロウを飼育するという習慣が廃れたせいなのか、
あるいはフクロウ送りを司ることができる古老がいなく
なったのか、この儀礼は長い間、行われておりせんでし
た。
そのため、シマフクロウの送りに関連した文献資料は
少なく、映像資料にいたっては写真 1 枚もありません。
前述の『蝦夷廼天布利(菅江真澄)』1791 に、
「軒の高
さほどもある太い虎杖の柵を作って、チカフカムヰとい
う、シヤモが島梟とよぶ大鳥を、鳥の神として養ってお
く。アヰノ(アイヌ)は8、9月にもなると、飼ってい
た鳥でも獣でも、さき殺して、これを肴に酒宴をおこな
う。1年に
77
1度のアヰノ 国 の大祭であり、饗宴で、たいへん賑わ
う
という。シヤモのことばでこれを送るといい、アヰノは
これをヨマンという」という記述があります。
また、『三国通覧図説(林子平)』1785 や『蝦夷漫画(松
浦武四郎)』1859、『アイヌ夫婦梟飼養の画(千島春里)』
1800 年代に、アイヌの人々がシマフクロウを飼育してい
る様子を描いた図があります。
『蝦夷漫画』の図は「東西蝦夷の土人好て鴞(フクロ
ウ)を飼ふて朝夕喰を与へ尊敬する故に、其儀を問ふ哉、
太古、蝦夷人に交合の道を教えしハ此鳥なりと、故にエ
ナヲを削りて是を建、祭るといへり、下に敷たるはチタ
ラベといへる小さきアヤギナなり」という添え書きがあ
ります。
送りについては言及されてませんが、シマフクロウら
しい形態のフクロウが2羽描かれています。
また、『三国通覧図説』では、アイヌの婦人が子熊に自
分の乳を与えている姿の後方に、天井に置石がある檻が
描かれており、「鷲、嶋鴞(シマフクロウ)ノ類ヲ養テ箭
羽(矢羽根)ヲ取也」と添え書きがあり、こちらは矢羽
根をとる目的のため飼育してことがうかがわれます。
こうした旧記類の記述から、当時のアイヌの人々はシ
マフクロウを神として敬虔に崇め、かつ大切に飼養し、
送りを行っていたことがわかります。
4 西川北洋の「フクロウ送り」について
『アイヌ風俗絵巻』という 1800 年代末頃に西川北洋が
描いたものの第 5 巻に「フクロウ送り」という図があり
ます。現物は、函館中央図書館に所蔵されており、フク
ロウ送りを描いた貴重な図といわれています。
「フクロウ祭リ(アイヌ風俗絵巻)」西川北洋
函館中央図書館
「此フクロ祭は熊祭程大仕掛の物にあらざれ共、誠に
興味あるもので、先ず細丸太を十文字に結び、其結び目
にフクロの足を結び付け、正面祭壇は簡単に飾り、メノ
コが其周囲を円形に列び、手を打ちて唄ひ出すと、倶に
土人は集りて、フクロの結び付けてある十文字の細丸太
を図に示す如く、多人数にて掛声面白く上下すると、フ
「シマフクロウとアイヌ民族」長谷川充
壇)で、現在は、北海道大学北方生物圏フィールド科学
センター植物園の博物館に展示されています。
樺が再現したフクロウ送りの詳細な記録は残念ながら
残っておらず、『アイヌ民族誌』1969 にその1部が記述
されている程度です。
また、萩中美枝や久保寺逸彦北大教授、河野本道らが
北海道教育委員会の依頼を受けて、八重九郎の聞き取り
を 1965 年以降に行ってます。この聞き取りのなかにフク
ロウ送りについても語られています。これは北海道教育
委員会からアイヌ民俗文化財口承文芸シリーズ、『八重
九郎の伝承 1〜9』1993〜2001 として刊行されています。
佐藤直太郎は釧路市の図書館長だった人ですが、釧路
の春採や阿寒のエカシである秋辺福松や八重藤吉から同
地方のシマフクロウの送りを聞き取り、『釧路アイヌの
縞梟送り(モシリコロカムイオブニレ)』1961 としてま
とめています。
永田洋平はシマフクロウの生態研究者の第 1 人者とい
われている人ですが、フクロウ送りについても述べてい
ます。
更科源蔵の弟分のような人で一緒に行動をとったこと
もあり、更科の記述と重なる記述もみられます。
また、最近の調査では、慶応大学の佐藤孝雄助教授の
研究成果、『虹別シュワン熊送り場跡の動物遺体』歴博研
究報告第 107 集 2003 があげられます。
道東の標茶町、虹別地区にある3ヵ所の送り場の一つ、
シュワンの送り場といってますが、ここからシマフクロ
ウの遺体、といっても骨の1部ですが、が発見されまし
た。
この送り場は、榛孝太郎(1884‑1931)というアイヌの
エカシの送り場だったのですが、佐藤助教授らの調査の
結果、ヒグマやシマフクロウのほか、大型のワシ類、キ
ツネ、ウサギ、カワウソ、クロテン、シカ等 14 種類の動
物の遺体が出土しています。
実際にここの送り場でシマフクロウの送りが行なわれ
たかどうかはわかりませんが、ヒグマの頭骨が祭られた
ヌササンを背にした榛孝太郎エカシの写真がありますの
で、おそらくヒグマの送りとともにシマフクロウの送り
も行なわれたと考えて間違いないと思います。
その時期は、明治の末の 1900 年を境に前後 20 年位の
間ではないかと思われ、今から 100 年位前の頃だと思い
ます。出土した骨の内容から少なくとも 3 羽は送られて
いるということでした。
この虹別の送り場から目と鼻の先にシマフクロウが飛
来する孵化場や養魚場があり、現在もこの周辺にはシマ
フクロウが生息しています。
以上の人たちのほか、佐々木利和(国立民族学博物館)、
池田透(北海道大学大学院)、藤村久和(北海学園大学)、
大塚和義(前国立民族学博物館)、宇田川洋(前東京大学)、
竹中健(シマフクロウ研究者)らの著作にもシマフクロ
ウの送りの記述があります。
クロは驚いて羽をひろげる。土人は喜び盛んに上下する
ので、之れも面白きものである。」
これはこの図に添えられたフクロウ送りの様子を伝え
た説明文です。
この『アイヌ風俗絵巻』は、旭川の業者から「天然生
活と資源の活用 アイヌ風俗絵巻」として市販もされお
り、アイヌ関係の文献などにこの絵巻の図がよく引用さ
れています。同書の編者の序文(1940)によると、西川
北洋は旭川にゆかりの深い人物のようで、晩年になって
からアイヌの風俗の研究に取り組み、日高や釧路、根室
のアイヌの家に数年間、起居して古老から話を聞いて、
この風俗画を描いたとされています。
この図について、フクロウ送りに関心を持つ研究者た
ちは、口をそろえて「フクロウ送りの様子をよく伝えて
いるアイヌ絵である」と高く評価しています。
フクロウ送りを世に伝える絵画が、今のところ、この
図しかないためか、高い評価を受けていますが、私にい
わせれば、描かれたシマフクロウが全くシマフクロウら
しくないため、西川北洋が本当にフクロウ送りを見て描
いたものか、極めて疑わしいと思っています。
さらに、同じ巻には「クマの枠出し」などクマ送りの
図が4枚も描かれているのに,フクロウ送りを描いたも
のが、この1枚だけというのも不自然だと思っています。
それと、西川北洋という人の出自や来歴が不明、一説
には明治の後期から大正にかけて活躍した人物との説も
あり、なことも気にかかります。
この絵についていえば、アイヌの古老たちからシマフ
クロウ送りの話を聞き、その様子を想像して描いたもの
ではないかと思われます。
ご覧のとおり、絵は下手系で、決して上手なものとは
思えません。まして、このフクロウといったらシマフク
ロウとは、似ても似つかぬフクロウで、本当にシマフク
ロウを見て描いたものか、疑わしい限りです。参考まで
に実際のシマフクロウと並べてみましたので見比べてく
ださい。
屈斜路湖畔での「フクロウ送り」のシマフクロウ(左図)
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その他の「フクロウ送り」について
このほかにも、フクロウ送りに関する資料があります
ので、簡単に説明します。
1937 年、これは樺勘太郎が、北海道大学の犬飼哲夫教
授や名取武光教授に依頼をされて同大学の植物園でシマ
フクロウの送りを再現したときに作製したヌササン(祭
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「シマフクロウとアイヌ民族」長谷川充
が委員長を務めました。
弟子はこのイオマンテの祭司を務め、「今、このイオマ
ンテを行っておかなければ、このまま消えてしまうのは
眼に見えている。我々は9年前から構想を持って準備し
てきた。恐らくこれがこの世の最後のイオマンテになる
だろうが、祭りの記録は永久に残る」と語っています。
(朝日新聞 1983.10.29)
送りは、しきたりどおり、宵祭り、本祭り、後祭りと
3日間にわたって行われ、主役のシマフクロウは釧路市
動物園で飼育されている個体を借りてきました。
この送りの様子は、NHK総合TVのNHK特集「幻
のイオマンテ 〜75 年目の森と湖のまつり〜」というタ
イトルで全国放映されたほか、教育TVでは教養セミナ
ー「75 年目のイオマンテ」として2夜連続で放映されま
した。
このフクロウ送りを再現するために、実行委員会の人
たちは各種の文献を調べたり、古老から聞きとりをした
りして、送りを行ったと語っています。
送りが終わってから、このイオマンテの準備から終了
までをまとめたものや、報告書か写真集が作成されてい
ないか、関係者に確認してみたのですが、内部の資料と
してもそうしたものはないようでした。
クマ送りについては、そうした記録が何種類か作成さ
れており、学術的にも貴重な資料として残されています。
また、NHKが作製した番組は、主催者が記録として
残ることを希望した内容の番組とはいいにくく、送りを
行なったアイヌの人々の心の有り様に迫ったドキュメン
タリー風の番組に仕上がっていました。
この番組を担当した桜井均ディレクターは、当初から
イオマンテの記録を残すための番組を制作することを企
画しておらず、アイヌの人々をテーマにしたドキュメン
タリー番組を作成するのを意図していたと、自著『テレ
ビの自画像』2001 で語っています。
NHKは実行委員会のメンバーとして積極的に参加し
ており、それなりの資金協力もしていたようです。イオ
マンテに参加した人の話では、自分たちに都合のよい映
像を取るため、NHKは自由にカメラを回し、参加者に
指示を出すなどしていたとのことでした。
現在のところ、このイオマンテの映像(ビデオ)資料
はNHKが撮影したものしか残っておらず、
「イオマンテ
の映像を記録として後世に残したい」という主催者の目
的は達せられないままになっています。
また、実行委員会は、このイオマンテの撮影を2人の
写真家に依頼したと聞いています。1人は西浦宏己とい
う大阪の方で、もう1人は北海道に住む掛川源一郎です。
掛川は、北海道の土門拳とも称されるくらいの実力の
持ち主で、文部省の地域文化功労者や北海道の開発功労
者にも選ばれており、『バチラー八重子の生涯』や『若き
ウタリに』といったアイヌ関連の写真集を上梓していま
す。
以前、このイオマンテのことを掛川に尋ねたことがあ
るのですが、記録写真を委員会から依頼されて担当する
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フクロウ送りの手順について
フクロウ送りがどのような内容で執り行われたのか、
詳しいことはわかりませんが、過去の資料や飼いグマ送
りの資料を参考にして作成したものが次の日程表です。
飼いグマ送りは宵祭りを入れると、都合4日間行われる
ようですが、フクロウ送りは宵祭りを入れて、3日間と
なっているようです。
送りの前日まで
酒づくり(神酒・宴会用)酒漉しのカムイノミ
供物(団子・煮物・干魚)の用意
用具(幣・花矢・弓)の用意
送る前日(宵祭)
チセでの準備(供物・用具の搬入)
祭司らによるシントコサンケ(酒あらため)、カムイノ
ミ、ウポポ
シマフクロウのセツ(檻)の周りでのウポポとリムセ
チセでの酒宴
送り日当日(本祭り)
チセでのシントコサンケ、カムイノミ、ウポポ
ヌササン(祭壇)の飾り付け
祭司らはカムイノミ(チセコロカムイノミ(家の神)・
サケヌサノミ(お酒のへの祈り))を行う
セツからシマフクロウを出し、タプカラニ(踊り木)に
結わえ、上下に動かしながら広場を回り、花矢(チロシ)
の式のあと、レクチヌンバ(絞木)で絞殺する
その後、カムイノミを行いイリ(皮剥ぎ)とオシケサン
ケ(解剖)を行う
骨と内臓を取り除いたシマフクロウのなかにチメシイ
ナウ(欠木幣)を埋め、ピンニ(カムイワク)に飾り付
け、再び花矢(チロシ)を射る
ヌササンの供物や飾りものをチセに移し、アベフチカム
イ(火の神)に神酒を供えイオマンテの終了を報告し、
酒宴に入る
送り日の翌日
チセのなかで刻んだ肉を食し、アベフチカムイへの祈り
酒宴を行う
フクロウ送りは、送りになかでも特に厳粛に執り行わ
れていたようです。
過去に 1 度だけ、今から 23 年前の 1983 年になります
が、このフクロウ送りが再現されていますので、次にそ
のお話をしたいと思います。
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75 年ぶりに再現されたイオマンテ
この送りは、1983 年の 11 月 12 日から 14 日までの3
日間にわたって弟子屈町の屈斜路湖畔のアイヌコタン広
場で行われ、75 年ぶりに再現されたといわれている送り
です。
当時、弟子屈町の屈斜路コタンアイヌ民族資料館の館
長であった弟子豊治らが中心となり、弟子屈町、阿寒町
に居住するアイヌの人たちが参加し、実行委員会形式で
実施されました。実行委員会の名称は「コタンコロカム
イイオマンテ実行委員会」といい、阿寒町の四宅豊次郎
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「シマフクロウとアイヌ民族」長谷川充
ことになったにも関わらず、撮影中はシャッターの音が
入るのでシャッターは押すな、ストロボはたくな、とN
HKからいわれた。さらに撮影したフィルムは全部プリ
ントして提供するように委員会からいわれ、さんざんな
目にあったと語っていました。
その後、自分が撮影した写真が何かに使われた形跡も
なく、別な人間が撮影した写真が市中に出回るなどして
おり、自分が依頼されたことは何だったのかと、苦情を
呈していました。
何ともあと味の悪い話ですが、もう少し、しっかりと
した体制で実行委員会はこのイオマンテを執り行い、後
世に残す仕事をして欲しかったと思っています。
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おわりに
以上、雑駁ですが、シマフクロウとアイヌの人々との
関係を述べてきました。
アイヌの人たちだけではなく、北海道に住む人々にと
ってもシマフクロウは遠い存在になってしまったといえ
ます。これはシマフクロウが自由に空を飛び回り、安心
して生活していける場所が少なくなったからで、豊かな
自然が残っているといわれている北海道でさえ、シマフ
クロウが生息できる自然環境はきわめて少なくなり、知
床半島をはじめ数カ所が残されているばかりです。
その結果、シマフクロウの生息数は、現在のところ 130
羽程度といわれています。
1971 年には天然記念物に、1992 年には国内希少野生動
植物の指定を受け、1984 年からは国の保護増殖事業の対
象となっています。
現在、北海道の自然の生態系はバランスを崩し続けて
おり、ここ近年の例としては、エゾシカの爆発的な増加
やアライグマやウチダザリガニの生息範囲の拡大、セイ
ヨウオオマルハナバチの野生化など、深刻な問題が噴出
しています。
シマフクロウはヒグマとともに、北海道の豊かで貴重
な自然を象徴する生き物の代表的な存在といえます。
シマフクロウの将来を考えるためにも、かつてアイヌ
の人々がシマフクロウに抱いた崇敬や畏敬の念が何であ
ったのか、アイヌ民族とシマフクロウの繋がりや結び付
きについて、もう 1 度見つめ直し、問い直す必要がある
のではないかと私は考えます。
そうした作業に取り組んでいくなかで、シマフクロウ
の保護活動のあり方やアイヌ文化の再生に取り組む際の、
手掛かりやヒントが得られるのではないかと思っていま
す。
まとめというようなものではありませんが、今日の講
演の締め括りといたします。拙い話を長時間、ご清聴い
ただき、誠にありがとうございます。
付記 本原稿は講演録をもとに長谷川が加筆補正してお
り、人名は敬称を省略しています。
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