第46回 矢場町一丁目:なつめ・住吉ビル

「住吉の
住吉の語り部となりたい」
となりたい」 シリーズ第
シリーズ第 46 回
料亭つたも主人・深田正雄
2015 年 1 月 22 日
矢場町一丁目:
矢場町一丁目:なつめ・
なつめ・住吉ビル
住吉ビル
住吉ビルの西隣、矢場町 1-17「バーラムール」は加瀬文恵さんが住吉町1・バー三姉妹か
ら蔦茂北の第 3 ビル「なつめ」を経て、独立した店舗を開業した場所です。
(写真1)
現在は 8 階建てのビルとなってクラブ、プール、ヘルスクラブ、料亭個室、フランス料理
店を併設した超高級会員制「夜の商工会議所??」となっています。
文恵さんは、話題多き女傑で現在 81 歳、名古屋では最も著名な女性経営者の一人といえま
す。昨春、平成 26 年 3 月 19 日吹上・いちやなぎ斎場で「宇津井健さん」の喪主を務めら
れ日本中がビックリしました。あるブログから、ご両人の素敵なラブロマンスを紹介させ
ていただきます。
-----------------------------亡くなる 2 週間ほど
週間ほど前
ほど前、宇津井さんは
宇津井さんは文恵
さんは文恵さんにこんなことを
文恵さんにこんなことを語
さんにこんなことを語り始めたという。
めたという。
「僕は君に喪主をやってほしい
喪主をやってほしい。
をやってほしい。名古屋で
名古屋で葬式をやりたい
葬式をやりたい。
をやりたい。だから正式
だから正式に
正式に籍を入れてほし
い。息子には
息子には僕
には僕から手紙
から手紙を
手紙を書くから。
くから。あなたは商売柄
あなたは商売柄、
商売柄、僕と結婚すると
結婚すると迷惑
すると迷惑になるかもし
迷惑になるかもし
れないけど、
」
れないけど、僕は、ぜひ君
ぜひ君と結婚したいんだ
結婚したいんだ。
したいんだ。
文恵さんにしてみれば
文恵さんにしてみれば、
さんにしてみれば、思いもかけないプロポーズ
いもかけないプロポーズだった
プロポーズだった。
だった。そして、
そして、宇津井さんが
宇津井さんが亡
さんが亡くな
った 3 月 14 日、長男も
長男も納得のうえで
納得のうえで、
のうえで、宇津井さんと
宇津井さんと文恵
さんと文恵さんは
文恵さんは正式
さんは正式に
正式に入籍した
入籍した。
した。亡くなる
5 時間ほど
時間ほど前
ほど前、宇津井さんは
宇津井さんは、
さんは、か細くなった弱
くなった弱々しい声
しい声でこう言
でこう言ったという。
ったという。
「籍も無事に
無事に入れて、
れて、よかった、
よかった、よかった…
よかった…」この言葉
この言葉を
言葉を最後に
最後に、宇津井さんは
宇津井さんは眠
さんは眠るよう
に安らかに、
らかに、この世
この世を去った。
った。
------------------------------南向かいのメリヤス問屋・寺沢商店(株)さんは、その後、大西社長の婦人既製服(株)
大繊をへて、現在は「なつめ」専用駐車場。角のカメラ材料問屋(株)S商会さんは、文
恵さんの実弟・加瀬英比古氏が経営する会席料理・加瀬となっています。京都の吉兆ご出
身で湯木オーナーの直弟子として「白吉兆」の看板を掲げている店です。
(写真2)
界隈では「なつめ」で文恵さんの薫陶をうけたママたちが、気の利いたクラブを経営され
ています。ピボットビル6F「みつこ」
、インペリアルプラザ「麻樹」などが代表格といえ
ます。
住吉ビルについては創業者の定政さんのご長男英樹氏の愛知学芸大学(現教育大学)附属名
古屋中学校時代に親しくしていた友人柴田正康さん(清須市・愛知登文会理事、旧町名復
活の会メンバー)から詳しくご説明いただきましたのでそのまま転記します。
――――――
住吉ビル
住吉ビルの
ビルの前身は
前身は、住吉通・
住吉通・最南端の
最南端の割烹として
割烹として三業地
として三業地に
三業地に相応しい
相応しい料理旅館
しい料理旅館「
料理旅館「清風荘」
清風荘」だ
った。
った。
現オーナー
オーナーの台湾で
台湾で教師だった
教師だった父
だった父、定政さんが
定政さんが戦後引
さんが戦後引き
戦後引き揚げ後、同地で
同地で清風荘を
清風荘を開業。
開業。中
学2年(昭和30
昭和30年
30年)の頃定政家を
頃定政家を訪問し
訪問し、天麩羅を
天麩羅を天つゆで食
つゆで食べる事
べる事に驚愕した
驚愕した覚
した覚えがあ
る。当時、
当時、一般家庭では
一般家庭では、
では、醤油か
醤油かソースで
ソースで食すのが普通
すのが普通だった
普通だった。
だった。
住吉ビル
住吉ビルは
ビルは日本でも
日本でも最初
でも最初の
最初の住宅供給公社資金を
住宅供給公社資金を導入した
導入したビル
したビルだった
ビルだった
返済後の
返済後の所有権を
所有権を巡って、
って、定政父が
定政父が公団と
公団と長期に
長期に亘り係争していた
係争していた。
していた。その後各地
その後各地で
後各地で頻発し
頻発し
た所有権返還抗争の
所有権返還抗争の嚆矢といわれ
嚆矢といわれ住吉
といわれ住吉ビル
住吉ビルに
ビルに関する係争
する係争は
係争は、住都公団にとって
住都公団にとって大
にとって大きな事件
きな事件
でしたので、
でしたので、公団に
公団に記録があると
記録があると思
があると思われます。
われます。
先代は
先代は係争に
係争に備えて名大法学部
えて名大法学部に
名大法学部に聴講生として
聴講生として入学
として入学したと
入学したと聞
したと聞いています。
いています。
ビルは
ビルは次男が
次男が相続し
相続し、私の同級生である
同級生である長男
である長男・
長男・英樹は
英樹は弟から賃借
から賃借し
賃借し、喫茶「
喫茶「いよ」
いよ」を営ん
でいた。
でいた。喫茶には
喫茶には近隣
には近隣の
近隣の店主が
店主が出入りし
出入りし、
りし、特に「加瀬」
加瀬」の主人が
主人が、4時頃酒を
時頃酒を持ち込み、
店から料理
から料理を
料理を出前させて
出前させて和
させて和んでいました。
んでいました。度々ご相伴に
相伴に与かったのが思
かったのが思い出。
先代は
先代は奥さんも大柄
さんも大柄な
大柄な人で、英樹君も
英樹君も大柄でした
大柄でした。
でした。喫茶「
喫茶「いよ」
いよ」(最愛の
最愛の奥さんの名前
さんの名前)
名前)は
奥さんが足
さんが足を悪くして廃業
くして廃業、
廃業、優雅な
優雅な引退生活を
引退生活を過ごしていましたが、
ごしていましたが、がんに侵
がんに侵され平成
され平成 22
年 7 月 3 日逝去(
逝去(71才
71才)されました。
されました。
私は英樹君と
英樹君と学大附属中学で
学大附属中学で3年間同クラス
年間同クラス、
クラス、明和サッカー
明和サッカー部
サッカー部で3年間共に
年間共にボールを
ボールを蹴り
ました。
「いよ
ました。大学は
大学は英樹君が
英樹君が遠く鹿児島へ
鹿児島へ、名古屋へ
名古屋へ残った私
った私と離れ離れになり、
れになり、
「いよ」
いよ」開業
後交友が
後交友が復活しました
復活しました。
しました。
因みに西脇君
みに西脇君(
西脇君(末広町内会長・
末広町内会長・西脇光彦氏)
西脇光彦氏)も附属の
附属の同期生ですが
同期生ですが、
ですが、当時の
当時の附属は
附属は3年間
クラスと
クラスと担任が
担任が持ち上がりで、
がりで、私と英樹君は
英樹君はB組、西脇君
西脇君はA組で、余り交流がありませ
交流がありませ
んでした。
んでした。
英樹君と
英樹君と西脇君は
西脇君は、近所という
近所という事
という事もあり、
もあり、ゴルフ友達
ゴルフ友達(
友達(共にシングルプレーヤーでした
シングルプレーヤーでした)
でした)と
して、
して、親しくしていたようです。
しくしていたようです。
以上、柴田さんコメント引用:
喫茶「いよ」はビル1Fにあり、蔦茂の料理人やら近所の方々の憩いの場であり、夕刻に
は西脇さんが碁盤を持ち込み囲碁会所でもあったようです。現在は、シルバー装飾品ブテ
ィックと変貌しています。私の思い出は1Fバー「ロダン」で花柳美洲さん踊り稽古の後、
森島先代社長や西脇光彦さんの叔父さんに良くご馳走になりました。昨年 2014 年春には京
都・大阪で大評判のパンケーキELKがビル南側にオープン、連日若い女性の席待ちの長
蛇の列が話題です。
(写真3・奥の高いビルが「なつめ」
)
先代の定政さんはとても大柄な方で、南筋向い森島の洋服仕立て部門(株)冨久屋商店(小
生が最後の社長・モリシマと合併)の常連でビッグサイズ仮縫いにテーラー職人が苦労し
ていたことが思い出されます。
最近はお付き合いがなくなりましたが、現オーナーは矢場町1丁目町内会にも属さず地域
とのコミュニケーションがなく、ゴミ処理や清掃管理など近隣への課題が多いようです。
写真1:なつめ開業時の加瀬ふみえさん、ラムールより花輪とマッチ灰皿
写真2:日本料理「加瀬」全景、右に住吉ビル、奥に「なつめビル」
写真3:現在の住吉ビル:1F3軒目がパンケーキELK、上階は集合住宅でした。
地図:昭和34年頃の住宅地図より住吉ビル周辺
写真 1
写真 2
写真 3