日本古代史におけるユダヤ民族渡来説

第297回平成27年3月月例会 ①ー② 日本古代史におけるユダヤ民族渡来説 島口 健次 明治時代から日本人とユダヤ人は同じ先祖を持つ兄弟民族である
という説、即ち「日ユ同祖論がある。古代、日本には大陸や朝鮮半
島からの渡来人がやってきたのは事実である。特にヤマト王権には
彼等がさまざまな知識や技術を日本に伝えている。 私は神道と古代史を五十年間研究していますが、日本の神社と古
代ユダヤ神殿の再現図をみると驚くほど共通点が多い。また日本の
正月行事もユダヤの祭りに酷似している。 一方、山伏の姿もユダヤ教徒と似ている。渡来人に秦氏がいたが、
秦氏が神社創設や文化技術を多く日本に伝えている。この秦氏はユ
ダヤ人の可能性がある。また、天皇の祖先もユダヤ人であったであ
ろうと思っている。 ユダヤ関係の書籍を紹介します。どうか関心のある方は一読して
ください。 ○「日本人のルーツはユダヤ人だ」小谷部全一郎・たま出版 ○「天皇家とユダヤ人」篠原央憲・光風社出版 ○「日本固有文明の謎はユダヤで解ける」ノーマン・マクレオド・ 久保有政、徳間書店 ○「日本・ユダヤ封印の古代史」ラビ・マーブィン・トケイャ―、 久保有政・徳間書店 ○「失われた大和のユダヤ王国」中原和人、松重楊江・たま出版 日本・ユダヤ同祖説 (日本ミステリー研究会「日本古代史」 竹書房 2014.2.27発行抜粋) 古代日本にユダヤ人が渡来して 日本民族の祖先になった!? 日本人とユダヤ入は同じ先祖を持つ兄弟氏族であるという説が、
「日本。・ユダヤ同祖説(または日ユ同祖論)」だ。荒唐無稽な偽歴
史だと一笑に付すのは簡単だが、日本では明治時代から唱えられて
きたもので、ユダヤ人側にもこの説を主張する人たちが存在する。
「旧約聖書によれば、かつてのイスラエルには12支族があった。
ダビデ王によってエルサレムを都とする統一イスラエル王国が樹立
されたが、その子のソロモン王の死後、南北に分裂。10支族から
成る北王国と2支族から成る南王国に分かれる。
その北王国はアッシリアによって滅ばされるが、10支族の民の
足取りが歴史上からプッツリと消えてしまうのだ。
南王国を構成したユダ族、ベニヤミン族は、ユダヤ民族の直系の
祖となった。しかし行方がわからない他の10支族については、
「失
われた10支族」となった。
古代の日本に来たのは、この10支族の一部だ。かつての日本に、
大陸から多くの人々が渡って来ているのは歴史的な事実である。
中国の春秋時代やその後の戦国時代にかけての戦乱を避けて、彼
らは日本にやって来た。そして、後に大和政権に仕えてさまざまな
知識や技術を日本に伝えた。
そうした中に、イスラエルからの長い旅路を経て極東の島国へた
どり着いた人々がいたというのである。
驚くほど共通点が多い日本の神社と
古代ユダヤ神殿
古代ユダヤ神殿の再現図を見ると、私たち日本人は奇妙な既視感
に襲われるはずだ。
入口の両脇に置かれている2頭の獅子の像があり、それが日本の
神社の狛犬そっくりなのである。
神殿に一対の獅子を据える風習が、古代ユダヤ世界にはあった。
日本では狛犬と呼んでいるものの、どうみても犬よりもライオンの
姿に近い。
日本の神社とユダヤ神殿との共通点はこれだけではない。
古代イスラエルの神殿には水が張られた洗盤があり、人々はここ
で手や足を清めてから礼拝した。神社では手水舎で手や口をすすい
でからお参りするが、ユダヤ教でも教徒は入口に設けられた手水舎
で手を清めてから礼拝する。
日本の神社と古代ユダヤ神殿との共通点は、まだある。
古代ユダヤ神殿の入り口には、2本の柱が立てられていた。ヘブ
ライ語の方言で入口のことを「トリイ」という。
また、古代ユダヤ神殿の前には献金箱が置かれ、イスラエル人た
ちは喜んでその箱にお金を投げ入れた。まさしく賽銭箱だ。
古代ユダヤ神殿には、祭司だけが入れる「聖所」とその奥のやや
高くに神が宿る「至聖所」があったが、この位置関係は神社の「拝
殿」と「本殿」の関係に酷似している。
特別な形式がなかった日本の神社に、古代ユダヤ人が自分達の神
殿の形式を持ちこんだのかもしれない。
ユダヤの祭りが伝わって
日本の正月が生まれた!?
正月は日本の風情を感じさせる風習だが、実はこれも古代イスラ
エルに起源を持つものかもしれない。
ユダヤ教では、毎年3月か4月に「過越祭」を行う。これは、奴
隷にされていたイスラエル人たち(後のユダヤ人)が、指導者モー
ゼに率いられてエジプトを脱出したことにちなんでいる。
エジプト人の家には死の天使が訪れて、その家の長男を死なせた
が、子羊の血を家の入口に塗っていたイスラエル人の家は、死の天
使が「過ぎ越し」ていったという。古代のユダヤ暦では、この過越
祭を行う時明が「正月」とされていた。
過越祭には、パン種(酵母)を入れずに焼いたパンが食べられる
が、これはイスラエル人が急いでエジプトを脱出したために、発酵
させる時間がなかったことにちなむ。
このパンは、日本の鏡餅と同じように重ねて食卓に供される。過
越祭の前には家の中からパン種を一掃するために大掃除が行われる
のが通例で、これも日本の年末の大掃除を思わせる。
しかし最も驚かされるのは、この種なしパンが「ハ・メッチ」
「ハ・
モチ」とも呼ばれることである。
「ハ」は英語の「The」に当たり、
「ハ・モチ」は「この餅」という意味になるのだ。
なお、日本の正月には七草がゆを食べる習慣があるが、ユダヤ数
でも1月15日に数種類の葉っぱを種なしパンに添えて食べるなら
わしがあった。
いずれも、とても興味深い一致だ。
山伏のホラ貝を吹くユダヤ教徒たち
日本の山伏の装束を見ると、ユダヤ人は一様に驚く。ユダヤ教徒
の装束とあまりにも似ているからだ。
代表的なものが、山伏が頭に乗せる黒くて丸い「兜巾」だ。帽子
と呼ぶにはあまりに小さいこの巾の中には、お経の一節が入ってい
る。これを入れて前頭部に着用していると、修業中の山の中で悪い
病にならないのだという。
エルサレムの嘆きの壁やシナゴーグ(ダヤ人教会)で見かける敬
虔なユダヤ教徒も、同じように黒く小さな箱を前頭部によく乗せて
いる。こちらは四角い形をしているが、中には旧約聖書一節が入っ
ており、正式な祈りを捧げる際には身につけるのだという。
さらに驚くのは、山伏が吹くホラ貝に似たものを、ユダヤ教徒も
使うという事実だ。貝ではなく山羊の角笛だが、それを吹く姿はま
さしく山伏そのものだ。
また、修験道の山には必ずといっていいほど天狗の伝説が伝わっ
ているが、これもユダヤの影響によるという説がある。
天狗の顔を思い出してほしい。日本人とは似ても似つかぬ顔なの
ではないだろうか?
むしろ、ユダヤ人が揶揄されて顔を描かれるときの鷲鼻で彫りの深
い顔つきに似ている。
しかし最も注目すべきは、天狗配下の烏天狗の顔である。烏天狗
は大きなクチバシを持つ姿で描かれるが、ユダヤ教の聖典では予言
者の顔を、クチバシをもつ鳥の顔に描く習慣があるのだ。
日本に新たな技術、文化を伝えた
秦氏=ユダヤの民説
秦氏は、紀元3世紀末に朝鮮半島から渡ってきて、日本の政治、
芸術や文化など多くの分野に多大な影響を与え、日本に新しい時代
をもたらした一族だ。
この秦氏がユダヤ人であったとする説がある。失われた10支族
に属する一族として古代イスラエルを出発し、中央アジアを通って
古墳時代の日本に来たというわけだ。
この時代、応神天皇陵、仁徳天皇陵と伝えられる陵墓など巨大古
墳が造られるようになったが、これは秦氏が伝えた大陸の優れた土
木技術あってのものだったという。
前方後円墳を生み出したのも彼らといわれるが、なぜあのような
形になったのか。
墳丘はカギ穴のような形をしているが、逆さまにすると壷の形に
見える。よく見れば、それらしき泣置には取っ手状の形すら認めら
れる。
古代イスラエルでは、壷は王権のシンボルだ。イスラエルから来
た秦氏が、王の権威を示す巨大古墳に、王権の象徴であるデザイン
を取り入れたと考えられるのだ。
秦氏は、自らの拠点を京都の太秦に置いたが、
「ウズマサ」という
変わった地名は、ヘブライ語の「ウズ・マーシアハ」が変化したも
のだともいわれる。ウズは「力、栄光」の意味で、マーシアハはメ
シアすなわち「救世主」だ。
キリスト教の母体となったユダヤ教においても、メシアは理想世
界を造る者として登場する。日本に理想の土地を造ろうとした秦氏
に、「太秦」はまさにふさわしい名前なのである。