都市の記憶を継承する ―イタリアに学ぶ修復型都市再生(2) - Junro Tamioka, Oriental Consultants Co., Ltd PARTE Ⅰ ANTICHITA /MODERNITA 古代から近代へ オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 1 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 2 古代、中世から近代への流れ 近 代 バロック ルネッサンス 古典復興 18世紀後半/19世紀前半∼ パリ改造、田園都市、コルビュジェ PARTE Ⅱ 16世紀末∼18世紀初頭 反宗教革命、植民地、ローマ改造 TRASFORMAZIONE DI PARIGI 14∼16世紀 理想都市 パリ改造 中 世 476年∼1400年代(15世紀)末 古 代 ∼476年(西ローマ帝国滅亡) 1000年間、持続・発展 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 3 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 4 「パリ改造」とは? 「パリ改造」の目的 19世紀初頭、ジョルジュ・オスマンが取 り組んだフランス最大の都市整備事業 9 オスマンは1853年から1870年までの17年間、セー ヌ県知事を務め、ナポレオン3世の構想に沿って 大規模な都市改造を実施 9 都市整備により経済を活性化するとともに、しばし ば騒乱のもとであったスラムを排除 9 産業革命後の経済界の要請にも沿うプロジェクト オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 5 「パリ改造」の政治的背景 9 産業革命後の都市にふさわしい環境の創出 9 中世以来の複雑な路地を一新、交通網の整備 により、物流機能を大幅に改善 衛生の充実 9 上下水道、病院・学校の整備、学校教育の普及 により、当時流行していたコレラの発生を抑制 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 6 ジョルジュ=ウジェーヌ・ オスマン 9 ナポレオン1世の甥、1852年に皇帝即位 (Georges-Eugène Haussmann 1809/3/27-1891/1/11) 支持基盤を得るための政策の ひとつ:「フランスの栄光」の回復 国内産業(製鉄、紡績工業)の育成 万博を2回、パリで開催(1855、1867年) 公共慈善事業の推進(病院、孤児院の建設) 戦争での勝利(対ロシアのクリミア戦争:1853‐56年、対清朝 9 フランスの政治家。1853年から1870年まで セーヌ県知事 9 知事在任中に皇帝ナポレオン3世とともにパリ 市街の改造計画を推進 9 現在の都市パリはこのときにほぼ完成 のアロー戦争:1856‐60年、インドシナ出兵でベトナム侵略:185 8年、イタリア統一戦争でサルデーニャ王国を支援:1859年 など) オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 経済の活性化 推進者オスマン 号令を出したのはナポレオン3世 9 9 9 9 産業革命によって、パリは中世都市の構造のまま人口 が急拡大。1866年には人口200万人を突破! 7 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 8 「パリ改造」の理念:バロック パリに先立つ「ローマ大改造」‐1 バロック(仏:baroque)とは、16世紀末∼18世紀初頭にヨーロッ パ各国に広まった美術・文化の様式。 9 ルネサンスからバロック初期はイタリアが中心。バロック後期に中心はフランスへ。 ■サン・ピエトロ大聖堂。中世∼ルネッサンスと増改築 が重ねられてきたが(右)、バロック時代に建物(16 26年)、広場(1667年)ともに刷新された(下)。 ■広場は求心性と軸線を持つ典型的なバロック様式。 バロックは、秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試み。 9 17世紀初頭、ヨーロッパ全土で宗教戦争などが激烈を極め、国家や社会が分裂。 9 その不安な時代において、連続的な運動と永続的な秩序との間に関係を見出そうと する努力がなされ、そこから生まれた独特な心情的表現。 バロックとは、小さな個人に、「巨大な世界へと接続し得た」と いう認識(錯覚)を与えるための装置。 9 バロック建築は、そのために仕組まれた、巧妙な空間装置。 9 バロック的都市計画とは、その装置を都市スケールに拡大したもの。 9 ルネッサンスの「理知的な直交グリッド」に対して、バロックでは、その静的な直交性 に風穴を開けるべく、「斜交性」を導入。 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 9 パリに先立つ「ローマ大改造」‐2 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 10 「パリ改造」の内容‐1 ■中世都市の路地はボルゴと呼ばれ、1779年の地図(左)、1880年の水彩画(右 上)にも描かれているが、1936∼50年に解体され、大通りとなった(右下)。 1.街路整備 2.公共設備 3.公共施設 4.公共輸送機関 5.近隣市町村 の合併 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 11 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 12 「パリ改造」の内容‐2 「パリ改造」の内容‐3 1.街路整備 2.公共設備 シテ島の切開 パレー大通り、貧民街の撤去 パリの十字路 リヴォリ通り(コンコルド広場−バス ①公園 小公園(square):家屋取り壊しでできた辻公園。計24ヶ所。旧市 内で現存する小公園のほとんどが第二帝政期につくられた。公園(parc): ティーユ広場)・セバストポール大通り(東駅−セーヌ 川)。密集街区アルシス街区の一掃。 パリ中央「シテ島」の切開 セーヌ左岸 セバストポール大通りとパレー大通り ②森(bois) ブーローニュの森:ロンドンのハイドパークを模す。ロンシャン競 の延長=サン=ミッシェル大通り、サン=ジェルマン大 通り(コンコルド広場−バスティーユ広場)、ポール= ロワイヤル大通り・サン=マルセル大通り(環状路) 馬場。ヴァンセンヌの森。 9 ナポレオン3世は都市自体を人間の身体に見立て酸素を供給する両肺として、 西にブーローニュの森を、東にヴァンセンヌの森を配した。 鉄道駅への連絡 パリ北駅へのラ・ファイエット通 ③水道 上水道:金持ちの住宅には直接水道が引かれ、家庭風呂が流行。 下水道:第1下水管:歩道下に埋設され、高さ230㎝以上、幅130㎝以上。第 りの延長:オスマン式斜行路の代表格。 ロータリーとしての広場 マドレーヌ広場。オペラ 座。シャト=ドー(現レビュグリック)広場。エトワール広 場(凱旋門)。 ビュット=シューモン公園。モンスーリ公園。モンソー公園。 9 ナポレオン3世は緑地と公園の整備は伝染病を防ぐ手段として有益と確信。 こうした空間で中産階級を中心に社交場として人を集める効果を期待。 エトワール広場と凱旋門 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 2下水管:高さ240∼390㎝、幅150∼400㎝。第3下水管(アニエール集合管): パリの下水をすべてコンコルド広場下に集め、北西郊外のアニエールで放流。 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 13 「パリ改造」の内容‐4 14 「パリ改造」の手法‐1 3.公共施設 1.超過収用 区役所の新築・増改築 市場 ラ・ヴィレット:屠殺場・家畜市場 中央市場(パリの胃袋):鉄とガラスの建築物 街路の整備にあたって超過収用の手法が取られた。 当時の法令によれば、道路建設で土地収用(公共事業に必 要な土地を、補償を行ったうえで強制的に公有化すること) が認められるのは、道路に必要な部分のみ。 ところが、パリ改造では道路に加え、(条件付きではあるが) その沿道の土地も収用できる規定を適用。 そして街路や区画を整備した後、資産価値の上がった沿道 の土地を売却し、事業資金に充てた。 すなわち、「開発利益を還元する手法」。 4.公共輸送機関 乗合馬車 市内環状鉄道:市内に散らばった鉄道駅をつなぐ。最初は貨物用。 5.近隣市町村の合併 20区体制:1859年、パリは12区から周辺11の市町村を編入し、現在 の20区体制に。 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 15 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 16 「パリ改造」の手法‐2 「パリ改造」がもたらしたもの 1.建設ラッシュによる移民:地方からの移民、外国人移民。 2.家賃高騰:70∼80%前後。賃金20∼30%上昇。 3.セグレガシオン:ségrégation (階層別棲み分け) 。貧民は立ち退き、家 2.景観ルール 市街地がシンメトリーで統 一的な都市景観になるよう、 様々な手法を適用。 例えば、(道路幅員に応じ て)街路に面する建造物の 高さを定め、軒高が連続す るルールを適用。 また、屋根の形態や外壁の 石材についても指定。 賃上昇によって市の北東に追いやられた。新興ブルジョワは西部に居住。 4.ブルジョワ化:オスマンの都市改造は、貧民、貴族・上流階級にとって 益は少ない。勃興しつつあったブルジョワにとってメリット。→パリ中心部に 富裕な層が住み、北東部に貧しい層が住む構造は、今日も残存。 5.交通中心の街路:これまでの街路が近隣の生活に中心を置いたもの だったが、新しい街路は交通のために整備。 オスマンの都市改造は、第3共和政にも継承:ボンマルシェ 新館(1872)、エッフェル塔(1889)、グランパレ(1900)、プチパレ(1900)、オル セー駅、シャイヨ宮(1937)。 他国の都市へも波及:ブリュセル、ミラノ、バルセロナ、アントワープ、 オスマン‐ラファイエット大通り ドレスデンなどでも、パリに倣った都市改造が行われた。 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 17 オスマンのパリ改造@武蔵工業大学_080509 18
© Copyright 2024 Paperzz