429.【アンディ・ウィリアムス「ある愛の詩」】 心を軽くして癒すヴェルヴェット・ヴォイス DIAMOND Online 2012.10.4. (傍線:吉田祐起引用) 2012年9月26日23時05分、時事通信の号外速報が流れました。 「CNNによると、米歌手アン ディ・ウィリアムスさんが死去した。84歳。」 アンディ・ウィリアムスは米国を代表するヴォーカリストでした。生涯一歌手として現役のまま永眠 しました。膀胱癌でした。最近の米国人男性の平均寿命が75歳余ですから、84歳は長生きの部類 です。それでも、もっともっと歌い続けて欲しかった、というのがファンの願いでしょう。 と、言うわけで、今週の音盤はアンディ・ウィリアムス「ベスト・オブ・ベスト」(写真)です。アンディ は実に膨大な録音を残していますが、厳選された代表曲16曲に加えて“ある愛の詩”と“ゴッドファ ーザーの愛のテーマ”は日本語ヴァージョンも収録していて聴き所満載です。 アンディ・ウィリアムスと言えば、その端正なルックスと甘い歌声で、日本でも相当な人気を博しま した。ヴェルヴェットのような声と確かな歌唱力。ヴォーカリスト中のヴォーカリストで、その実力は 折り紙付きです。 でも、日本のファンを魅了したのは、声と歌唱力に加えてあの人柄だったのかもしれません。結 局、内面は外見に反映します。誰とは言いませんが、イケ面だけど腹に一物がありそうな不実な感 じの人っています。でも、今週の音盤のジャケット写真を見てみてください。アンディの笑顔には、 彼の純朴さとか誠実さが溶け込んでいるようです。心の中かは誰にも見えませんが、彼の笑顔と 歌声が伝える暖かさは、本物だと皆が確信していたのです。 日本で流れた味の素のCMソング 時は昭和40年代。歌謡曲全盛で、海外の音楽へのアクセスは非常に限られていました。どんな 街にもあった普通のレコード屋さんには、「洋楽」なるコーナーがあって、ビートルズもフランク・シ ナトラもシルヴィー・ヴァルタンも同列に扱われていたのです。YouTube もインターネットもMTVも なかった時代です。テレビは歌謡曲ばかり。「洋楽」はラジオの深夜放送で聴くものと、相場が決ま っていた時代です。 しかし、そんな時代に(昭和41年から43年まで)NHK総合テレビは「アンディ・ウィリアムス・ショ ー」を放映していたのです。さすが公共放送、NHKの慧眼と勇気には敬意を表するべきでしょう。 が、同時に、アンディ・ウィリアムスの人気がそれほど凄かったということでもあります。 -1- 当時のアンディ・ウィリアムスがいかに日本のお茶の間で愛されていたかを示すのが、味の素の コマーシャル・ソングです。昭和44年(1969年) 当時、日本津々浦々で流れていました。後に“マ イファミリー「味の素」CMコレクション”(写真)としてCD化されましたが、現在では、そのCDも入手 困難です。 しかし、YouTube にアップされているので、しっかり見聞できます。当時を憶えている方にとって はとても懐かしいものです。巨匠・小林亜星の作詞作曲。米国ロサンジェルスで録音されました。 …… 「いつでも、どこでも、忘れない、あの頃、明日も、変わらない、マイファミリー・味の素…… ……」ととて も流暢な日本語で歌っています。きちんと発音練習したに違いありません。そのコミットメントこそ、 アンディの人柄の一端を表しているとも言えます。 多くの映画の主題歌をカヴァー アンディ・ウィリアムスの略歴です。 1927年12月に米国中西部のアイオワ州ウォール・レイクで、音楽好きの両親の下に誕生しまし た(ちなみにアイオワ州は“アメリカのハートラン ド”の異名を持つ大平原の農業州、大統領選挙の 際に全米で最初に党員集会が開かれる州として有名)。アンディには 3人の兄がいて皆な歌が上手 かったそうで す。 アンディにも光るものがあり、兄弟4人でコーラス・グループを結成。ウィリアムス・ブラザーズとし て地元でプロとして活動します。評判が評判を呼ぶ一方、中西部の片田舎では満足できず、一家は カリフォルニアに移住を決意します。カーペンターズも東部コネチカット州から一旗揚げるべくカリフ ォルニア に移住しています。やはり夢のカリフォルニアには、全米の才能を引き付ける魔力があ るということでしょうか。 カリフォルニアでは機会に恵まれ、17歳の時には人気絶頂のビング・クロスビーのバック・コーラ スを担当します。ケイ・トンプソンのヨーロッパ公演にもコーラス隊で参加しますが、アンディは他人 の後ろでコーラスを歌うだけでは満足しません。が、このバック・コーラス時代に実に多くを学びま す。音楽 の基礎、観客をいかに惹きつけるかということ、ショー・ビジネスのこと、全ては後のアン ディの肥しになっています。 54年、満を持してニューヨークに進出。そして56年、28歳の時、やや遅すぎるレコード・デビュー を飾ります。が、その後は快進撃です。 アンディのヒット曲には、映画の主題歌をカヴァーしたものが多くあります。“酒とバラの日々”に 始まり、オードリー・ヘップバーン主演の「ティ ファニーで朝食を」から“ムーン・リバー”“野生のエ ルザ”“シャレード”などです。名うての作曲家が書いた親しみやすく素晴らしい旋律が、アンディの ヴィロードの声で歌われます。決して自己主張し過ぎず、無理はせず、水が高いところから低いとこ ろに流れるように歌が流れていきます。 「世界残酷物語」というアフリカを題材にした過激なドキュメンタリー映画がありました。それでも、 アンディ・ウィリアムスが歌えば、映画の呪縛は解かれ、主題歌は極上のラブ・ソングになりまし た。それが“モア”です。 疾風怒濤の時代を生き抜く そんなアンディ・ウィリアムスの実力と人気を証明するのが、NBCのテレビ番組「アンディ・ウィリ アムス・ショー」です。1962年から9年間も続きました。生き馬の目を抜く米国のエンタテイメント業 界で、9年間も己の名を冠した番組を持っていたことは特筆されるべきです(このダイジェスト版が 既述のとおりNHKで放映されていた訳です)。 -2- 印象的なプログラムの1つが68年のサイモン&ガーファンクルのゲスト出演です。サイモンの生 ギターだけの伴奏で、アンディも参加した3重唱で“スカボロー・フェア”をほぼ完璧に再現していま す。アンディの底力が分かります。 考えてみれば、62年から71年は、米国にとっても世界にとっても激動の時代です。ケネディ政権 の誕生から暗殺、ベトナム戦争、公民権運動、マーチン・ルーサー・キングの暗殺、反戦運動、ニク ソン登場、愛と平和のヒッピーとウッド・ストック、アポロ11号の月面着陸等々が現代史に刻まれる 疾風怒濤の時代。既存の秩序への疑問が呈され挑戦され、 新しい価値観が生まれました。 アンディ・ウィリアムスはそんな時代を生き抜いたのです。「歌は世につれ」とも言うけれど、アン ディの歌には、世の中に起こる様々な事件とは全く別次元に存在する普遍的な何かが含まれてい るようです。国籍、肌の色、性別、世代を問わず、喜びの時、怒りに震える時、哀しい時、楽しい時、 誰もが歌を求めます。アンディのヴェルヴェット・ヴォイスと、その声を最大限に生かす歌唱法に は、心を軽くして癒す効用が含まれています。 一家に一枚的な人気を博したアンディ・ウィリアムスですが、映画の大ヒットもあって、日本での最 大のヒット曲は「ある愛の歌」です。当時の代表的な洋楽チャート番組だった文化放送のオール・ジ ャパン・ポップ20(パーソナリティーは、みのもんた)では、1971年(昭和46年)3月から半年以上 も トップ40に滞在し、6週間にわたり首位に君臨していました。もちろん作曲はフランシス・レイ、知 らぬ人なき名旋律ですが、シンプルな歌詞がアンディの声で運ばれるとき、魔法がかかったように 音楽に深みが出ます。 公演のための訪日も数多く、91年には紅白歌合戦に出演して“ムーン・リバー”を披露していま す。最後の訪日は2006年、78歳のときでした。 何事に限らず、継続はチカラです。照る日も降る日もアンディ・ウィリアムスは歌い続けました。授 かりもののヴェルヴェット・ヴォイスは鍛えられ磨かれて、輝きを増して来ました。永遠に上手くなっ ていくはずでした……。 合掌。 (音楽愛好家・小栗勘太郎) 吉田祐起のコメント: アンディーさんの誕生日は1927年12月3日。9月25日の他界で、満8 5歳を前の2か月余。かくいう私とは4歳上のお兄さんの年齢。 左の写真はウィキペディアで拾った2006年のものですので、当時は7 9歳のアンディーさん。端正な顔立ちは終世の魅力です。 英語の好きな私だけに、アンディーさんの歌はよく真似たものでした。で も、現在でも空暗記して歌える「My Way」はアンディさんを真似たもの でなく、フランク・シナトラです。本気で覚えようとした時に偶然、シナトラ さんのものに接したからでした。 正直な話ですが、甘いトーンの声は憧れ。でも、残念ながら私の声は 「だみ声」。到底、アンディさんのあの優しいトーンは真似出来っこありま せんから・・・(笑い)。 アンディ・ウィリアムス(2006 年) 「決して自己主張し過ぎず、無理はせず、水が高いところから低いところ に流れるように歌が流れていきます・・・」という本記事著者の弁に敬意 を表します。合掌 No.1(1-300) No.2(301-400) -3- No.3(401-500)
© Copyright 2024 Paperzz