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講演録

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2002年(第13回)福岡アジア文化賞 市民フォ−ラム
東南アジア再発見歴史セミナ−
「交易の時代」の人々 〜食事・結婚・遊びから〜
アンソニー・リード
【日 時】2002年9月20日(金) 14:00〜16:30
【会 場】アクロス福岡イベントホ−ル(福岡市中央区天神)
【プログラム】
趣旨説明・出演者紹介
基調講演
パネルディスカッション
まとめ
石澤 良昭(上智大学アジア文化研究所教授)
アンソニ−・リ−ド(学術研究賞受賞者)
アンソニ−・リ−ド
石井 米雄(神田外語大学学長)
濱下 武志(京都大学東南アジア研究センター教授)
石澤 良昭
石澤 良昭
アンソニー・リード氏 基調講演
我々が生きている時代は、グローバルな圧力とローカルな反応との対立によって支配されているよ
うにみえます。世界貿易センタービル爆破と「テロリズムに対する闘い」の6年も前に、ベンジャミ
ン・バーバーはこの二分法を、著書『ジハード(聖戦)対マックワールド』の中に表し広めていました。
経済的グローバリゼーションと、それに抵抗する様々な反応との闘いであると表現したのです(1)。ジ
ハード、あるいはこの力の均衡を求めるネイティビスト(排外主義者)達の動きには、単にアルカイダ
のみならず、フランスで民衆がマクドナルドを焼き討ちしたことや、反 WTO(世界貿易機関)「シア
トル闘争」
、先住民による「第四世界」運動なども含めなければなりません。そしてそういった動き自
体も、組織化、広報宣伝活動やメディアへの応答という面では、もちろん相当にグローバル化してい
ます。多くの人々の目には、これらの2つの相対立する現象があまりにも互いに絡み合って見えるの
で、実際に何が起きているのかを表現するためには、グローバルとローカルを組み合わせた「グロー
カリゼーション」のような言葉が必要なくらいです。
我々の時代は、グローバルとローカル、コスモポリタニズムとナショナリズム、外部と内部との対
立に特に取り付かれ、
悩まされていますが、
それはそういった対立が我々すべての心を打つからです。
国際的な動きについていこうとすることと、自らのアイデンティティを守ろうとして闘うこととの相
対立する状況を免れることはできません。インドの政治家であるジャイラム・ラメシュが最近執筆し
た書籍の題名「ヤンキー・ゴー・ホーム(アメリカ人よ、出ていけ)、でも私を一緒に連れていってく
れ」(2)は、多くの人々が感じている魅力と怒りをうまく表現しています。
このグローバルとローカルの間にある緊張には、特に我々の時代に深刻になってきたとはいえ、一
方には孤立の危険性があり、他方には独自のアイデンティティを失う危険性があるということを、長
い歴史上で日本ほど意識してきた国はおそらく他にはないでしょう。日本の歴史は、外国のものを借
用し革新していこうとする情熱的な欲求と、それと同じくらい情熱的な確信をもって存続のためには
外国に対する障壁が必要だとする考え方との、継続的な闘いの歴史として読むことができ、実際疑い
ようもなくそう読まれてきたのです。
私の専門分野である東南アジアの歴史には、明治時代やマッカーサーの時代のように外国から体系
的かつ効果的に借用した例はほとんどみられないし、徳川幕府ほど明確な目的意識をもった鎖国の例
もありません。東南アジアは、単一目的の政策をもつにはあまりにも多様であり、そのほとんどの国
家がグローバルな交易のパターンにあまりにもさらされており、国家の力を維持するためにそれに依
存してさえいるために、
鎖国という一貫した政策を打ち出すようなことは決してできなかったのです。
それにもかかわらず、東南アジアの歴史においては、グローバリゼーションとローカリゼーションの
(1)
(2)
Benjamin Barber, Jihad vs. McWorld: How Globalism and Tribalism are reshaping the World (New York:
Ballantyne, 1995), p.6.
Jairam Ramesh, Yankee go home—but take me with you (New York: Asia Society).
- 1 -
相互作用として読みとれるリズム(動き)があったと私は信じています。本日は私のいくつかの著書に
触れ、
それに対する他の人々の反応を紹介しながら、
このテーマを取り上げてみたいと考えています。
「交易の時代」
おそらく、私の業績として最も知られているのは『大航海時代の東南アジア(1450‑1680)』
(出版:
1988年、93年)という2巻本でしょう。この著書の本質的な論点は、その時期に驚くべきグローバリ
ゼーションの時代があったということです。私自身はグローバリゼーションといった用語は使ってい
ませんが、東南アジアが外部からの力と思想によって大きく再構築された時代があったのです。この
ことを私は最近の著書で以下のように記しています。
「長き16世紀」のグローバルな交易拡張は、国際的需要のある多くの香辛料の供給源としての、
また、活気に満ちた貿易ルートに横たわる沿海地域としての[東南アジア]に対し、当然のこと
ながら即座に大きな影響を与えた。東南アジアは、15世紀初頭の中国による海上活動の爆発的増
加によって最も影響を受けた地域である。また、香辛料の供給源であり、特にスペイン人がアメ
リカやフィリピンへ、ポルトガル人がインドや東南アジアへと引き付けられるにいたった胡椒の
大供給源であった。商業の迅速化、取引の通貨決済、都市の発展、資本の蓄積、他の場所では資
本主義への変容の一部を形成した職能の分化などが、この時代に東南アジアでも疑いようもなく
急速に生じていたのである。信仰や文化体系に作用した変化は、さらに深いものだった。イスラ
ム教とキリスト教が島嶼地域や大陸各地において支配的な宗教となり、仏教はビルマ、シャム、
ラオス、カンボジアにおいて、中央集権的な国家と連携することにより変容をとげていったので
ある(3)。
上記の大きな宗教的変化に加えて、それ以前の時代には主として宗教的で宇宙論的な志向をもって
いたパフォーマンスや文学、芸術において、それらが世俗化へと向かう驚くべき文化的革新があった
ことを私は論じています。グローバリゼーションを図示するための最も簡単な要素はパフォーマンス
ですから、そのことに触れたいと思います。
「交易の時代」の文化的影響
文化的、宗教的、そして政治的分野でも、変化の主要な原動力となったのは、東南アジアにおける
「交易の時代」を完全に支配していた大規模な多民族の沿岸貿易都市でした。その規模を推測するの
は危険ですが、必要なことだと私は思います。そのために2組の数字を導き出しましたが、暫定的な
性格の数字であるにもかかわらず、反論されるよりは引用される頻度の方がはるかに多いのです。私
の推定では、16世紀のハノイ、アユタヤ、ペグー、マラッカ(1511年以前)は、人口が約10万人程度で
した。これは、後者3都市のすべてが16世紀の異なる時期に征服され荒廃する前の数字です。17世紀
初頭、つまり「交易の時代」の全盛期には、ハノイ、アユタヤ、そしてジャワの首都マタラムは一層
大規模になり、おそらくは人口15万人以上となりました。一方、アチェ、マカッサル、バンテン、ベ
(3)
Anthony Reid, Charting the Shape of Early Modern Southeast Asia (Chiang Mai: Silkworm, 1999), p.3.
- 2 -
トナム南部の首都キムロンでは、短期的にせよ約10万人に達したと思われます。全体として、私の推
定では17世紀初頭には東南アジアの人口の少なくとも5%は、人口3万人以上の大都市に居住してい
ました。
これは、
(おそらくインドと中国よりは低いですが)当時のヨーロッパよりも高い数字であり、
20世紀に東南アジアが再びその数字に達する前よりも、高い数字となっています(4)。
東南アジアの文化と宗教を再構築する上で、これらの都市が果たした役割に関しては、以下の3つ
の要因をあげる必要があります。
(ⅰ) これらの都市は多民族都市で文化的に非常に多様であり、数十の異なる集団が際立った居住
区をもっていた(5)。
(ⅱ) 祭礼や大規模な機会ごとに数千人もの人々が集まるほど人口密度が高かった。
(ⅲ) これらの都市には、(良好で温暖な環境により)かなりの資源をパフォーマンス芸術に費やす
ことができるほど、十分に裕福で時間に余裕のある人々がいた。
彼自身の栄誉を讃えた劇場公演が数時間に及んだのを我慢しきれなかったニキタ・フルシチョフが
スカルノを憤慨させたのは有名な話ですが、フルシチョフは、東南アジアの文化生活の豊かさによっ
て困惑させられるヨーロッパ人という長い伝統的存在の一例を示しました。エレディアは16世紀のマ
レー人について「上流階級は音楽や闘鶏に余暇やレクリエーションの時間を費やしている」と不満を
述べています(6)。それ以前でさえも、トム・ピレスは「ジャワは、無言劇の役者と様々な種類の仮面
とにあふれた土地であり、男女ともにこれを行っている。舞踊と物語の余興があり、彼らの舞う様は
とても優雅である。ベル(つまり、銅鑼)の音楽を奏で、夜には多様な形状の影絵を作り出す」と記し
ています(7)。ビルマでは、行列をなして宮廷へと向かったイギリスの使節団が、演劇的音楽的パフォ
ーマンスが夜中まで続くので疲労困憊したとされています。そのパフォーマンスは「ほとんど中断も
なく毎日続いた」のです(8)。バンテンでは、
「ダンスは夜通し続いた。夕方には銅鑼や楽器がやかまし
く鳴り響き」(9)、パタニでは、使節団や賓客が女王の宮廷で舞踊や演劇でもてなされたが、それは「非
常に楽しいものであり、他では見たこともないものだった」のです(10)。
1500年代前半、タイのラーマティボディ王は、すでになんらかの方法でタイの娯楽を世俗化してい
ました。彼は後の時代の人々に最も愛された王ですが、それは「大規模な宴会と試合の日」を設けた
(4)
(5)
(6)
(7)
(8)
Anthony Reid, Southeast Asia in the Age of Commerce: Vol. II: Expansion and Crisis (New Haven, 1993),
pp. 68-77.
“In the port of Melaka very often eighty-four languages have been found spoken, every one distinct, as the
inhabitants of Melaka affirm”, The Suma Oriental of Tome Pires, ed. Armando Cortesao (London: 1944
[1515]), p. 269.
Godinho de Eredia, Malaca, Meridional India and Cathay, trans. J.V. Mills (MBRAS Reprint 14 (1997),
p.39.
Tome Pires, p.177.
R.B. Pemberton, "Journey from Munipoor to Ava, and from Thence across the Yooma Mountain to Arracan",
1830, ed. D.G.E. Hall, in Journal of theBurma Research Society 63, ii pp. 43-4. Also Symes I (1827),
p..208-9; Shway Yoe (1882), p. 285.
(9)
Willem Lodewycksz, "Weerste Boeck", 1598, in De. eerste schipvaart der Nederlanders naar Oost-Indie onder Cornelis
de Houtman 1595-1597, ed. G.P. Rouffaer & J.W. Ijzerman, Vol. I (The Hague, 1915), p. 30.
(10)
Peter Floris, his Voyage to the East Indies in the "Globe", 1611-1615, ed. W.H. Moreland (London, Hakluyt,
1934), p. 87, also-62-3.
- 3 -
王として知られているからです(11)。王はまた、仮面舞踊の踊り手に神聖な影絵芝居の人形の真似をさ
せ、実演を導入して伝統化したことでも知られています。このような驚くべき世俗化のステップが、
これほど早く実現したことを疑わしいとする者もいます。それよりも記録が確かな変化は、シャムで
雨期の終わりに行われる「水を追いやる」儀式です。ナライ王の宮廷で観察をしていたフランス人の
語ったところによると、きらびやかに装飾した数十隻のガレー船を従えて王が水上に壮麗に登場する
ことは、河のナーガ(龍神)の霊を体現すると古くから信じられていました。それは、洪水がおこらな
いように水を戻すために必要な手段だったのです。しかし、
この王子(ナライ)は、いくら祭礼をやっても河が時々は増水することがあることを、長年の経
験によって理解したのである。それで今年はこのくだらない儀式をやめて、パゴダ(寺院)へ凱旋
行進をし、自分のこの宗教に対する熱意を示せば十分であろうと考えたのだった(12)。
この行事は本質的に魔術的かつ宇宙論的目的をもち、外国人と自国民の両方に対して、王の壮麗な
姿を見せる手段となりました。それは寺院の僧侶にお布施をするという仏教の正統な儀礼であるカチ
ナ儀礼の名称で行なわれました。王の行進はいずれも、王権の壮麗さを目もくらむ眩さで披露したも
のであり、それは少し以前のフランスの宣教師による記録が下記のように描写するとおりです。
200隻以上の船が、世界にまたとないような素晴らしい装飾で飾られており、それに宮廷の官吏
や王族が乗り込んでいた。その中に、美麗さも豪華さもひときわ抜きん出た一隻の船が見えた。
四方を金襴で覆っており、まるで船全体が黄金でできているかのようだった。おびただしい宝石
類を燦然と身につけた王がそこにおり、シャムに居住するすべての国民の目に、そして川沿いの
土手や家屋や庭から眺める群集の目に、王はあたかも太陽のように映ったのである(13)。
パフォーマンスから世俗的分野へというこの種の移行のより幅広い事例はジャワにおいて見られま
すが、それはジャワが「交易の時代」にイスラム教を受け入れたからです。少なくともピゴーの見解
によれば、素晴らしい影絵芝居の伝統は、仮面劇やその他の形式とともに、もともとは「宇宙的社会
的秩序を視覚的に表現する手段」だったのであり、神々や祖先の霊魂を目に見える形で示すためのも
のだったのです。ジャワ人の伝統において、ワヤン・クリ(影絵芝居)とワヤン・トペン(仮面劇)の両
方が、16世紀、主にジャワにイスラム教を導入した聖者ワリによって創造されたと(ありそうもないこ
とながら)主張する理由は、おそらくイスラム教が「古来の神聖なワヤンのパフォーマンスと、祖霊崇
拝と古い信仰との結びつきをゆるやかに解釈したためであり、それによって一般大衆への普及と世俗
化が可能になった」からでしょう(14)。北部沿岸のコスモポリタン都市(パシシール)では、ワヤンの物
語はヒンズー教の神々にもとづいたものであり、正式な意味合いでの宗教活動は、もはや行なわれな
かったので、それらの物語は、ある種の「娯楽」になっていきました。また、バンテン、マラッカ、
(11)
(12)
(13)
(14)
Jeremias van Vliet, (1640), p.69.
Guy Tachard, A Relation of the Voyage to Siam Performed by Six Jesuits, trans. A. Churchill (1688, reprinted
Bangkok, 1981), p.187. Also Reid, Age of Commerce II (1993), p. 179.
Relation… des evesques, 1672-75 (1680), p. 129.
Th.G.Th. Pigeaud, The Literature of Java (The Hague: 1967), I: 287.
- 4 -
パタニなどの多民族都市においては外国人に見せるものとなり、多くの文化が競い合う音楽の演目の
中で、
「ジャワ」の演目として導入されるようになっていきました。
劇場国家
17世紀の宮廷に関する東南アジア関連の文献を読むにしろ、外国人の記述を読むにしろ、王族の行
列や舞台演劇や余興にいかに多くの時間と努力が費やされてきたかを知って驚くばかりです。17世紀
の東南アジアにおける偉大なる宮廷は、シャムも、ビルマ、カンボジア、バンテン、パタニ、マタラ
ムも、行列や余興の壮麗さを互いに競い合っていました。フランスのルイ13世やイギリスのジェーム
ズ1世、ペルシャのシャー・アッバス帝、インドのアクバル帝やジャハンギール帝も、同様に王を壮
麗なドラマの中心として見せることに腐心していました。自らを、権力のみならず、富や活力、信仰
心や寛容さおよび啓発を顕現するものとして示そうとしたのです。これは興味深い重なりを見せてい
ますが、ヨーロッパとアジアのあらゆる地域において、これら公の宮廷での壮観な見せ物は、同じ時
期の17世紀後半までには急速に衰退してしまったのです。
宮廷生活と国家にとって重要な行事には、行列や音楽、舞踊、余興を常に伴っていました。そのよ
うな行事の中でも最大のものは重要な宗教的祭礼であり、王族の通過儀礼、つまり割礼や結婚式や葬
儀でした。外国の使節を歓待することも大規模に行列や宴会を行なう機会であり、その中には1686年
のフランス大使を歓待したのも含まれます。東南アジアの宮廷への外国の賓客は、我々にとって、こ
れらの王族の行列や装飾の豪華さを伝える最良の情報源ですが、彼ら自身もまた行列の参加者だった
のです。アチェ、シャム、ペグー(ビルマ)、バンテンでは大使や貿易商人の交流がおこなわれ、イン
ドのモグールや(南インドの)ゴルコンダ、ペルシャ、イギリス、オランダ、フランスからも訪問を受
けました。これらの外交使節たちは劇場国家において役者として登用され、崇敬の念をもって取り扱
われたのです。また、彼らの書簡は地元の王族への贈り物とみなされました。外交使節のためにも大
規模なパフォーマンスが催されましたが、
最終的には彼ら自身も演じることが期待されていたのです。
シャムとビルマで最も華麗な行進は、河の上を進んでいきました。数百もの壮麗に並んだガレー船
が地元や外国の賓客を王宮へと運びます(15)。一方マラヤとスマトラでは、さらには野生の象が生息し
ていないジャワのトゥバンといった地域でさえも、象の行進が最も印象深い王の行列を構成し、重要
な賓客を宮廷へと運んだのです。
『セジャラ・メラユ』によれば、マラッカのスルタンの王宮では、十
分に高い位の人々の場合は象に乗せて王宮へ運ぶことが典礼となっていました(16)。
王族の結婚式や(イスラム教国家での)割礼のような通過儀礼の際は、常に豪華な行列や見せ物や舞
踊が用意されていました。葬儀はずば抜けて壮麗なものでした。1641年2月にアチェのスルタン・イ
スカンダール・タニが亡くなったときの祭礼をオランダの観察者は下記のように記録しています。
葬儀の行列は壮麗な王族たちによるものだった。王子たちや諸侯、貴族たちが続き、260頭の象
すべてが高価な絹や金襴緞子や刺繍布で飾られて行進した。象の牙は、黄金や銀で装飾されてお
(15)
As a general Southeast Asian phenomenon, these processions, festivals and contests are described in
Anthony Reid, Southeast Asia in the Age of Commerce: The Lands below the Winds (New Haven, 1988), pp.
173-91.
(16)
C.C. Brown (ed.), "Sejarah Melayu or'Malay Annals'. A Translation of Raffles MS 18," JMBRAS 25 (1953), p. 56.
- 5 -
り、背中に小さな四角い家やテントを背負っているものもいた。それらは金銀で装飾された数多
くの垂れ幕をぶら下げて歩いていった(17)。
アチェの宮廷における宗教的祭礼のうち、犠牲を捧げる祝宴(イドゥル・アダ)は最も壮観な規模で
祝われるものでした。
『アダット・アチェ』は行列を構成する30の集団のリストを記していますが、そ
のうちの最後の3つだけでも110頭の象と15,000人以上の武装兵士が含まれていたとされています(18)。
この宮廷業務に上げられた数字には、ある程度詩的な誇張表現があると思われます。実際に、王宮か
らモスクまでの約500メートルの間に、
どうしてそれほど多くの人々や象が並ぶことができたのか理解
しがたいからです。にもかかわらず、この行列の描写の概要はピーター・マーデーによって確認され
ています。彼は王宮からモスクまでのこの驚くべき行列を1637年に目撃した人物です。最善を尽くし
て描写してスケッチをした後で、彼は下記のように書き加えています。
行進は非常に混乱しており、盛り沢山のものであった。行列の秩序を維持するには場所も時間
も十分ではなかった。しかし、多数の巨象がいくつかの様式で装具をつけ、武器や装飾品や高価
な家具をまとっている有り様は、めったに見られない奇妙なものであった。(場所が足りないため
に一緒に行進できない)数多くの象が、同様に行進のための装具をまといながらも、他の象が通り
過ぎていく間、種々雑多な場所に立たされていた(19)。
17世紀前半のほとんどの期間において、このような大規模な行列は宮廷生活で常時行なわれていた
ものであり、それは金曜日の祈祷ごとに行なわれてさえいたくらいです。これが都市の生活を支配し
ていたにちがいありません。概してこういった催しは、公開で動物の闘技を見せるときに最高潮に達
し、外国人の賓客は常に特別席を用意されていました。
動物の闘技
このような方法で外国人が宮廷生活を垣間見て、それを書簡や仕事の報告書として記録しているこ
とは、歴史家にとって幸運なことです。特に、彼らは頻繁に宮廷の余興を目撃することを許されてい
ました。最もささやかでしたが人気があったのは闘鶏です。その場合、常に王の鶏が勝つことが期待
されていました。しかし17世紀前半のアチェでは、主要な余興は常に象や水牛や雄羊などの大型動物
の壮観な闘技であったようです。ジャワの宮廷での試合(月曜日、つまりセネンに開催されたので、セ
ネナンと称される)では、貴族が馬上試合をします。ついで虎が放たれて、虎が水牛や槍で武装した兵
士団と闘いました。17世紀のシャムやラオスでも同様に、王が象同士の公開闘技や、1頭の虎と数頭
の象との闘技を開催しました。象は虎を何度も空中へ高く放り上げ、常に虎を殺すようになっていま
した。
ちょうどジャワでバンテン(水牛)が必ず虎を殺すようにしくまれていたのと同じです。
虎と象、
(17)
S. de Graaf
Adat Atjeh dari satu Manuscript India Office Library, romanized by Teungku Anzib Lamnyong (Banda Aceh,
PLPIS, 1976).
(19)
The Travels of Peter Mundy in Europe and Asia, 1608-1667 ed. Sir Richard Temple Vol. III, part i (London,
1919), pp. 121-3. In this and subsequent English quotations I have modernized the English spelling.
(18)
- 6 -
あるいは虎と水牛といった同様の闘技が、現在のベトナム南部やマラヤでも支配者によって行われて
いたのです(20)。
これらの闘技を行う主な理由は、戦争と王の勝利を象徴することに関連があると考えられます。象
は重要な王権の象徴とみなされていたので、象の闘技を開催することは、おそらく王の威力を顕現す
るとともに、象や象使いにとっての訓練を意図していたのでしょう。虎が(シャム、カンボジア、ベト
ナム南部において)象に敗れたり、(ジャワにおいて)水牛に敗れることは、国家のよき秩序に脅威を与
える力の敗北の象徴でした。したがって、虎が負けることが必要不可欠であるため、虎は杭につなが
れて一度に4頭の象と闘わされたり、(ベトナムでは)爪を抜かれたり、口を縫い閉じられたりといっ
たハンディキャップを負わされていました。ラッフルズは彼のいた時期、ジャワ人は虎をヨーロッパ
人と同一視しており、自分達自身とみなした水牛が繰り返し勝利すると、彼らは大喜びしていたと指
摘しています(21)。
17世紀におけるグローバル化されたコスモポリタニズム
他の分野と同様に、文化の面でも「交易の時代」は東南アジアにおいてグローバリゼーションとコ
スモポリタニズムが盛んになった時期でした。あらゆる分野において積極的な文化的借用を指摘する
ことができますが、これは一方では商業エリートと王宮の間で、他方では外国と地元の芸術様式の間
で生じた、ある程度の競合を伴った借用でした。パフォーマーは、もともと各集団の宗教的祭礼を祝
うために導入され、のちに結婚式を祝うようにもなったのですが、港で競合的に商業が営まれる環境
の中で、すぐに個人の余興に雇用されるようになっていきました。中国の演劇がその良い例です。バ
ンテンの中国人は宗教的祭礼のときだけでなく、彼らの船が中国から到着した際や、中国へ向けて出
発する際にも、感謝や祈願のために演劇を催したとスコットは述べています。しかし、彼より少し後
の時期に同じ都市にいたイギリス人商人は、キウィとして知られていた町の中国人商人が商談の際に
行った演劇について、
「我々の眼前で演劇が行われたが、その発音と身振りは素晴らしかった」と述べ
ています(22)。
さらに、1605年にスコットはバンテンでの少年王の割礼儀式の余興を詳細に描写し、下記のように
記しています。
彼らの国のやり方では、
いかなる王が新たに戴冠するときでも、
あるいは王の割礼のときでも、
できるかぎりの者が王に贈り物をしなければならなかった。贈り物は公開で捧げねばならず、彼
らはそれを大いなる見せ物としていた。
また、
自分で贈り物を捧げることができない者も参加し、
外来の者も他の者も一緒になって余興をすることになっていた(23)。
そのような祭礼のための野外劇や歴史劇、曲芸、花火などすべてを描写した後、スコットは「これ
(20)
(21)
(22)
(23)
Reid, Age of Commerce I (1988), pp. 183-201
Thomas Stamford Raffles, History of Java (London, 1817) 1: 347.
Saris, cited by Blusse, ‘The Chinese…in western Java’.
Edmund Scott, ‘An Exact Discourse…of the East Indians’ [1605], in The Voyage of Sir Henry Middleton to
the Moluccas, 1604-1606, ed.Sir William Foster (London: Hakluyt, 1943), p.153.
- 7 -
らのすべての創案は以前に中国人から教わったものであり、中にはグジャラート人、トルコ人や他の
貿易国の人々から学んだものもある」と書き加えています(24)。
大勢の外国人居住者がいるような大きな港町では似たようなやり方が営まれていました。例えば、
17世紀のアユタヤでは、シーテのインド人イスラム教徒が、インドの音楽や舞踊や大規模な行進を特
徴とするハッサン・フセイン祭に魅了され、常に大勢で押し寄せていました。これは中国人が結婚式
や祭に押し寄せたのと同様です。1688年にヨーロッパのイギリスとポルトガルで、ふたつの戴冠式が
あったことを讃えて、首都で大規模な公の祝祭が行われたことをフランス人が記述しています。しか
しながら、戴冠がハイライトだったわけではなく、むしろインドの人形劇や、シャムの舞踊、中国の
演劇、驚くべき曲芸、そしてシャム人やビルマ人、ラオス人、マレー人などによるオーケストラがハ
イライトだったのです(25)。
グローバリゼーションに対する17世紀の反応
国際貿易に対する依存が増加した傾向は、17世紀半ばの危機において劇的に減少したと私は論じて
いますが、その当時はグローバリゼーションが拒絶された時期でもありました。オランダ東インド会
社(VOC)は、島嶼地域の最も利潤の高い輸出業に独占的支配を確立し、一方でコスモポリタンの生活の
商業的中心地は(ブルネイで1578年に、ペグーで1599年に、トゥバンで1619年に、スラバヤおよびグレ
シクで1625年に、
パレンバンで1659年に、
マカサールで1669年に、
バンテンで1684年に)破壊されるか、
あるいは重要な貿易を失うことによって衰退していったのです。ジャワの首都は1600年頃に商業地域
の北部沿岸から内陸部の(ジョクジャカルタ近郊)マタラムへと移されました。ビルマの首都も同様に
大きな海運都市ペグーから(現在のマンダレー近郊)アバへと移され、1635年、そこに永久に根をおろ
すことになりました。シャムの首都で港町のアユタヤは、国際貿易において主要な役割をになった東
南アジア最後の首都でしたが、
「1688年の革命」以後は、ほとんどの西洋およびイスラム教徒との貿易
に背を向け、かなり減少した交易を中国人とオランダ人の手にゆだねたのです。(リード1990b、1993a)
この時期、東南アジア交易に最も深刻な衰退がもたらされたのは、この地域の最も活動的な海運交
易業者の海運が破壊されたためです。ジャワ人とマレー人の海運に真っ先に打撃を与えたのは、1509
年に到来したポルトガル人でした。彼らの船舶は少数でしたが比較的操舵しやすく、海上戦闘行為に
は効果的でした。彼らはジャワ人とマレー人の扱いにくいジャンク船を破壊しましたが、それらの船
舶の中には500トンの大きさのものもありました。これらの船は、平時には食料やかさばる商品を運ん
で利益をあげることが証明されていました。
しかし、
ポルトガル人との交戦で多くの船が失われた後、
東南アジア人は長い移行期間を経て、よりリスクの少ない小型で高速の船舶を用いるようになってい
きました。
しかしながら、
海運における最大の厄災は、
東南アジア人自らの手によってもたらされたのでした。
ナンダバイン王の破滅的な統治に続く1599年に、ビルマの帝都ペグーの破壊により、モン族の船乗り
と交易業者は東南アジアの海上から駆逐されてしまったのです。多くのモン商人がシャムやラオス、
(24)
(25)
Ibid., pp.156-57.
Tachard (1688), pp. 184-86.
- 8 -
アラカンへと逃げ、彼らの偉大な海上交易の伝統は途絶えてしまいました(26)。コスモポリタンな北部
沿岸地域のジャワ人は、その多くが中国系やインド系その他の出自をもっていましたが、東南アジア
においては交易業者として活発で、
(1511年のポルトガル人による征服までは)マラッカやパレンバン、
バンジャルマシン、バンダ、テルナテ、パタニ、プノンペンなどの港に商業都市を形成しました。彼
らの母港であったスラバヤと、その近隣のグレシク、トゥバン、デマク、ジャパラは新たなコスモポ
リタン文化の中心地であり、商業的エリートによって財政支援を受け、現在我々が知るところのジャ
ワ文化が再構築されたのです。しかし、内陸部の稲作中心のマタラム政権は、1615年から1625年の間
に、王にとっての脅威とならないよう、これらの港をすべて破壊し、1655年にジャワ人の海運を禁止
してしまいました。こういった衰退は、ヨーロッパ人の交易業者との競合による弱体化という商業的
要素がなければ起こらなかったかもしれません。しかし直接破壊に手を下したのは東南アジア人自身
だったのです。
このように17世紀に存在した国際的渉外に背を向ける姿勢について、どこかで聞いたことがあるよ
うな気がするとすれば、それはもちろん1630年代に日本で徳川幕府が行なった鎖国のプロセスと共鳴
しているからです。東南アジア大陸部のベトナム、ビルマ、シャムも、それよりは規模が小さくはあ
りましたが島嶼地域のアチェ、バンテン、マカッサル、パレンバンも、日本のように17世紀半ばには
海運交易の危険な要素から意識的に距離をおこうとしていました。これらの国家は、初期のヨーロッ
パ人の歴史家や、自国の多くのナショナリストやマルクス主義者から、グローバリゼーションに背を
向けたことによって日本のように重要なチャンスを失ったのだと考えられていたのです。しかし、よ
り新しい歴史学ではこのプロセスにむしろ力を見出す傾向にあります。これによって東南アジア社会
は、日本の徳川時代のように自らの近代化への道のりをヨーロッパとは異なる速度で歩むことを選ぶ
ことができたのです。
東南アジアが世界市場への依存に背を向けたのは、17世紀における全世界的な危機が、東南アジア
にことのほか強い影響を与えたためであるという私の議論には多くの批判があることを、ここで私は
付け加えておくべきでしょう。本日のようなめでたい機会こそそういった批判にお答えし、この本を
私が出版して以来我々が学んできたことを検討するにふさわしいと思います。
17世紀の危機について最も効果的な批判をしているのはヴィクター・リーバーマンです。彼は、1995
年に私の著書を丹念に検討した上で、
「17世紀における転機の理論は、
根本的に大陸部にはあてはまら
ないと私には思える。ビルマ、タイのみならずベトナムでも、15世紀に始まった基本的な政治的社会
的変化は、18世紀まで続いたばかりでなく、植民地支配の直前にいたるまで19世紀の間も加速された
のである」と論じています。ここで彼が例証し、他で詳細に論じている継続的傾向は、海運、国内交
易、都市化、主要な国家の領土保全、民族的文化的標準化、そして外部によって確認された宗教的正
統性です(27)。リーバーマンはさらに、(ベトナム、シャム、ビルマ、ロシア、フランス、日本の)ユー
(26)
(27)
Reid, Age of Commerce II (1993), pp.281-3.
Victor Lieberman, ‘An Age of Commerce in Southeast Asia? Problems of Regional Coherence—A Review
Article,’ JAS 54, no.,3 (August 1995), pp.801-04. Similar ideas had earlier been outlined in his
‘Secular Trends in Burmese Economic History, c.1350-1830, and their Implications for State Formation,’
MAS 25 (1991), i, pp. 1-31.
- 9 -
ラシアすべての政体が、15世紀から19世紀に存在した統合の潮流によっていかに影響を受けたかを示
すため、丁寧な分類表を作成してさえいます(28)。
東南アジア近代初期のような研究が十分でない分野では、このような実り多い議論は積極的に歓迎
すべきものであり、学生に対して実際の討論における分析的な能力を磨くための貴重な機会を提供す
るものであります。この評論で私が有用とみなす部分を指摘するとすれば、18世紀後半から19世紀初
頭にかけての交易拡大と都市化というもう1つの時期を示している点です。
彼と私は互いに協力の上、
この現象を研究プロジェクトで取り上げ、
よりよい理解を得るにいたりました。
このプロジェクトは、
トヨタ財団の資金援助のもとに、私がコーディネートし、1997年の著書『アジア方式の自治の最後の
抵抗』に成果が結実したものです(29)。その著書の中で私が遺憾の意を表明しているのは、
「1400年か
ら1650年の「交易の時代」についての私の論文において、(植民地時代以前には変化がなかったという)
静的な思いこみを否定したいという意図があった一方で、17世紀半ば以降の事象すべてが、交易の衰
退と政治的分裂であったと示唆してしまうような意図せざる影響を与えたかもしれない」ということ
です(30)。
また、私は幸運にも、1990年代に東南アジアの経済史についての研究プロジェクト(ECHOSEA)をコー
ディネートする機会があり、その資金の一部を、長距離輸出からの収益といった、長期にわたる地域
交易に関する最も計測可能な指標の定量化に割り当てました。そして、クローブ、胡椒、砂糖、コー
ヒーという東南アジアの4つの主要輸出品について、6世紀以上にわたって集計した指標が示したの
は、
「長き16世紀」における輸出ブームの驚くべき重要性と、1660年から1740年までの輸出収益の大幅
な減少(17世紀の危機)、1780年代から1840年代の間の(収益ベースでの)第2の持続的輸出成長期の存
在でした(31)。本書は、不安定な1800年以前のデータを自由に使いながら可能な限りの定量化を進めて
いますが、興味深く信頼性の高いパターンを表しています。
リーバーマンが、東南アジア大陸部においてさえも、人口や交易や国家支配が1800年代初期になっ
て再び高い水準になったと示すことによって、17世紀の危機を矮小化して考えていると推断するのは
間違っています。
「全般的危機」概念のいかなる提唱者であろうとも、その危機から1世紀程度の期間
内に経済や人口が回復しなかったなどとは示唆してはいません。人口増加と交易拡大が歴史の主流で
あったたために、数十年間にわずか20%の減少であっても、それは重大な損傷となったのです。リー
バーマンがビルマについて、「1815年までに海運交易と造船の経済規模全体に対する比率はおそらく
異なっていただろうが、絶対量としては確実に1590年の水準と同等になっていた」と述べました(32)。
彼は17世紀の劇的な衰退について確認したのであって、逆のことを示したわけではありません。彼の
(28)
(29)
(30)
(31)
(32)
Victor Lieberman, ‘Transcending East-West Dichotomies: State and Culture Formation in Six Ostensibly
Disparate Areas,’ in Beyond Binary Histories: Re-Imagining Eurasia to c.1830, ed. Victor Lieberman (Ann
Arbor: University of Michigan Press, 1999), pp.19-102.
Anthony Reid (ed.). The Last Stand of Asian Autonomies: Responses to Modernity in the Diverse States of
Southeast Asia and Korea, 1750-1900 (Basingstoke: Macmillan,1997).
The Last Stand of Asian Autonomies, p. 57.
D. Bulbeck, Anthony Reid, Tan Lay Cheng and Wu Yiqi. Southeast Asian Exports since the 14th Century:
Cloves, Pepper, Coffee and Sugar (Singapore, ISEAS for ECHOSEA, 1998).
Liberman, ‘An Age of Commerce’, p.801.
- 10 -
データと1688年以降のシャムの交易に関するディラヴァットナ・ポンベイジラのデータは同じことを
示しています。それは1688年以後に国際交易が大幅に減少したことを否定してはいません。18世紀に
は中国人の商業組織によってそれが回復されたと主張しているだけです。
より中心的な議論は、17世紀半ばにおける疑いようもない交易の衰退と、多くの地域で継続した貧
窮状態が、いかに長期的な影響を及ぼしたかということです。東南アジアが19世紀に世界の他の地域
との競争に敗れたことを、この衰退のせいにしてよいのでしょうか、あるいは権力のバランスと生産
性の重要な変化は、1800年以降にのみに発生したのでしょうか。この問題を力強く取り上げたのが、
アンドレ・グンダー・フランクであり、彼の著書『リオリエント』(1998年)は近代世界の起源をヨー
ロッパではなく、むしろアジアに中心をおいて検討する上で強力な議論を提供しました(33)。ヨーロッ
パを資本主義の源泉とみなし、
ヨーロッパがなぜ例外でありえたのかを解明すべき主要な論点とする、
非常に影響力をもったマルクス主義学派とポスト・マルクス主義学派こそが、フランクが特に正体を
暴きたいと願っている対象です。彼の見解によれば、中国は、1800年当時も優勢な経済力を世界的に
維持しており、それ以前の世界システムはヨーロッパ中心のものと見るべきではなく、相互依存的で
あったとみなすべきであり、
どちらかというとアジア中心であったと見るべきなのです。
したがって、
19世紀におけるヨーロッパ優勢の源泉は、
世界全体のシステムを均等に検討して求めるべきであって、
初期の資本主義形成のルーツ、すなわち「ヨーロッパの奇蹟」を探し求めることのみによるべきでは
ないのです。以下に説明するように、17世紀にアジア、特に東南アジアが被った損失を、彼は余りに
も過小評価していると私は考えます。
フランクの議論の一部を支えているのは、17世紀の危機はヨーロッパを後退させた上で重要であっ
たと同時に、
「それでもほとんどのアジア地域は無傷のままだった」という彼の見解です(34)。ここで
彼の関心が集中しているのは、1644年に中国の明朝に没落をもたらした危機の性質に関するより幅広
い議論であり、東南アジアに関する私の論証にはほとんど注意を払っていません。残念なことに、彼
はその議論のごく一部しか取り上げておらず、大規模な東南アジアの危機を全体的に提示した私の
1993年の著書には触れていないのです。彼が断言できているのは、17世紀半ば、島嶼地域でインドの
布を輸入する際に、単にインド人交易業者がヨーロッパ人に取って代わったということです(35)。これ
はルールジェ・ラールホーベンが丹念に収集したものを始めとする数々の反証についての無知のなせ
るわざであります(36)。実際に、オランダ東インド会社が島嶼地域にインドの布を供給する上であまり
にも優勢な立場を確立したので、グジャラート人とコロマンデル人の船は、1600年頃に東南アジアの
港に来航したときと比べて、1640年代にはその約3分の1しか来航しませんでした。その世紀最後の
30年間にオランダ東インド会社自体の輸出が劇的に減少すると、オランダ人は、競争相手であるイン
(33)
(34)
(35)
(36)
Andre Gunder Frank, ReOrient: Global Economy in the Asian Age (Berkeley: University of California Press,
1998). Frank generalized and extended an argument being prepared with some care for China by Ken
Pomeranz, whose major book appeared later – Kenneth Pomeranz, The Great Divergence: China, Europe,
and the Making of the Modern World Economy (Princeton University Press, 2000).
Ibid. p.353.
Ibid., pp. 233-5.
Ruurdje Laarhoven, 'The Power of Cloth: The textile trade of the Dutch East India Company (VOC)
1600-1780), Ph.D. dissertation, ANU, 1994..
- 11 -
ド人ではなく、ささやかな衣料を自ら生産するしか選択の余地がなくなってしまったインドネシア人
の貧困化のせいにしました(37)。
部分的グローバリゼーションの別の段階、1780年‑1840年
私の考えでは、東南アジアにとって長距離海運交易の価値が減少したのは17世紀の半ばであり、そ
れは東南アジアのグローバリゼーションからの後退を示し、文化教養面でのローカリズムへの方向性
をもたらしました。1993年、この危機について私は大胆にも次のように述べています。
この危機は方向の変化を示したのであり、それは20世紀半ばに別の危機が訪れるまでは逆転し
なかった。かつて、あるいはそれ以降そうであったように、17世紀後半から20世紀半ばまでの間、
コスモポリタンの交易都市は、人口分布の面でも、経済的にも文化的にも、東南アジア人の生活
を支配しなかったのである(38)。
これは現在でも本質的に正しいと私は信じていますが、一方で、この記述は東南アジアにおける18
世紀後半の非常に重要なグローバリゼーションの別の段階を隠蔽しているともいえます。現在私は、
交易拡大には3つの段階(おおまかにいって、1480年‑1650年、1780年‑1859年、1950年‑?)があったと
考えています。政治的、文化的生活に対するコスモポリタン的影響の重要性がより大きくなり、より
内向的に統合とローカリゼーションへ向かった時期と交互に出現したのです。しかしながら、中間の
拡大期には、他の2度の時期よりも知的可能性の範囲がより制限されていたと言えます。
リーバーマンが正確に指摘しているのは、交易の収益が増加した第2段階は、大陸部と島嶼地域では
異なる政治的結果をもたらしたということです。このグローバリゼーションの第2段階においても、
第1段階のときと同様に恩恵を受け、十分な団結と自治権を維持していたのは、ほんの少数の島嶼国
家でした。それができたのは、アチェ、ブルネイ、リアウ、パレンバン、スールー、トレンガヌ、ス
ラカルタ、カランガセンまたはロンボク、ボネですが、大陸部の「より安定した政治体制」よりもそ
の根は浅く、人民に対する掌握もより弱いものでした(39)。したがって、衰退の中から台頭することが
できたのは主に、ビルマ、シャム、ベトナムという3つの大陸部の国家であり、それら各国が18世紀
後半を通じて、リーバーマンの評価基準となるところの領土の保全や行政の中央集権化、文化的統合
を推進していくことができたのです。
私の現在のテーマであるグローバリゼーションとローカリゼーションは、この中間段階における経
済的グローバリゼーションの文化的帰結という魅惑的ですが危険でもある分野へと一時的に私をいざ
なっています。リーバーマンと私が強く合意する点は、
「交易の時代」の影響により、外部的に認めら
れ、グローバルに機能している宗教システムの魅力が増したということです。各諸島と同様に大陸部
でも、グローバリゼーションの第2段階の結果は、第1段階の結果に比べてより公然としたものでは
(37)
(38)
(39)
Reid, Age of Commerce II (1993): 28-29, 301-2.
Reid, Age of Commerce II (1993), p.329.
Victor Lieberman, ‘Mainland-Archipelagic Parallels and Contrasts, c.1750-1850,’ in The Last Stand of Asian
Autonomies, ed. Anthony Reid (Basingstoke: Macmillan, 1997), pp.27-38; Lieberman, Beyond Binary
Histories, pp.23-52.
- 12 -
なかったと思います。厳密な意味での交易の時代は、
「絶え間ない改新、新しい考え方を、繰り返し取
り入れて結合させていくことにより特徴づけられ」ています(40)。東南アジアのエリートは、ある時期、
新しい衣服や動物、機械装置、あらゆる種類の発明などに夢中になりましたが、それは彼らが新たな
宗教や文化的思想に対して開かれた姿勢をもっていたのと同じです。17世紀半ばまでに彼らが行なっ
た適応とは、農民の生活を支配していたアニミズム的な地元の精霊信仰ではなく、イスラム教やキリ
スト教、小乗仏教に体現された、より近代的でコスモポリタン的かつ合理的にみえる世界観を受け入
れることだったのです。
その後1世紀以上にわたって、以前よりも国際的交易の価値が減少した時期が続き、多くの支配者
は、戦争や抑圧の原因となる胡椒やクローブを栽培することを禁じました(41)。経済がより自給自足的
になり、各政権が交易や国際的な交易業者に対する依存度を弱めるにつれて、外国の文化・知的モデ
ルもまた魅力を大いに失うにいたったのです。オランダ人とスペイン人による交易の独占が18世紀後
半に支配力を失い、新たなる貿易の興盛期が生じると、東南アジア人は再びグローバルな市場で効力
を有する聖典や合理性にもとづく一連の価値観によるプレッシャーにさらされることになりました。
しかし、選択肢の幅は、以前より制限されたものでした。ヨーロッパのモデルは、以前にもまして権
力の傲慢さを伴っていたため魅力的ではなく、以前の「交易の時代」に選択されたイスラム教、カト
リックのキリスト教、小乗仏教は、ヨーロッパ人の啓発という考え方を求める熱意とは反対の姿勢を
生み出しました。この時期の過激な思想的実験は、新伝統主義的傾向をもち、ある種の聖典の正統性
をグローバル化に対抗する武器として強いたものでした。スマトラのパドリ派の厳格なワッハーブ教
義や、ミン・マン(1820年‑41年)のベトナム(42)で適用された中国儒教モデルの「不屈の決意」は、こ
のグローバリゼーションの第2期において「近代化」をめざすものだったのです。しかし、地元の伝
統のみならずグローバリゼーションのプロセスがもつダイナミックな動きそのものにさえ過激に反対
したこの種の「発育阻止された」近代化や、あるいは「制限された」近代化については、我々は別の
表現を必要とします。
植民地時代のローカリゼーションと現代のグローバリゼーション
植民地時代の最盛期(おおまかに1870年‑1930年)は、
多くの面で東南アジアの民衆にグローバリゼー
ションとは逆の影響がもたらされた時期でした。植民地都市は、主にヨーロッパ人と中国人による飛
び領土となり、先住の人々は過去数世紀に比べてずっと地方在住が多くなり農民らしくなっていきま
した。ギアツの表現によれば、オランダの支配はジャワの産物を世界市場にもたらしましたが、ジャ
ワ人を世界に知らしめたのではありませんでした。植民地行政では、支配下の人民が変化を体験する
よりも、むしろヒエラルキーにもとづく安定性をもつように奨励したのです。もちろん多くの面で西
洋のモデルがまさにこの時期に世界的規範となっていきますが、結局は植民地主義が人種や国籍や言
語を厳格に区別することによって、よりローカリズムを促していったというのが私の見解です。
(40)
(41)
(42)
Reid, Age of Commerce II (1993), p.328.
Ibid., pp. 298-302,
the phrase is John Whitmore’s, in Lieberman (ed), Beyond Binary Histories, p.241.
- 13 -
植民地時代後期の混合物で真のグローバル化の要因となったのは、西洋式の教育機関とシラバスが
東南アジアで強制されたことです。1920年代から1930年代までに、ほとんどの国で(フィリピンでは少
し早く)、完全に西洋式の教育を受けた新たな実質的エリートが出現しており、彼らは自らの権力の弱
さに対する過激な解決策を模索したのです。植民地主義が一般的にローカル化されていたとしても、
その中での教育は確かにグローバル化されていたと言えます。
後からの解釈として我々にいえるのは、
これらの新エリートたちがとったアプローチの特徴は、1945年以前の独立計画においても、その後の
実行においても、マルクス主義と西洋化とナショナリズムを組み合わせた要素をもった(ジェームズ・
スコットの表現するところの)ある種の「高度の近代化」であったということです。彼らはナショナリ
ズムにおいては典型的に反西欧主義でしたが、彼らが信じていたのは、ローカルな伝統をほとんど容
認することなく西洋の国民国家モデルにもとづいて新たな国家を造ることができるということでした。
それに続く世代のエリートは、過去の経験から学び、混合型の教育を受けていましたが、以前より
も一層グローバル化された世界に直面していたにもかかわらず、グローバリゼーションの過激なイデ
オロギーに傾倒することは少なくなっていきました。再び後からの解釈をしてみると、マルクス主義
も、またおそらくナショナリズムでさえも「発育阻止された近代化」と私が言うところの例であって、
ローカルな伝統ばかりでなくグローバルな資本主義の最もダイナミックな要素をも攻撃するものだっ
たのです。
東南アジアの過去に関する私のこの粗略な概説は、現代世界におけるグローバリゼーションとロー
カリゼーションの対立を理解するのに役に立つでしょうか。グローバリゼーションの各段階が、勝者
と敗者を生み出し、多様な借用のスタイルや新伝統主義的なラディカリズムや真の革新を生み出して
きたのは明白です。現代の世界で我々に求められているのは、パワフルな外部のモデルに対応してい
くための選択肢について今まで以上に熟慮を重ねることです。私が1993年の著書の最後に記したよう
に、東南アジアの歴史には「かつて、急速な経済的変化や社会の多様な形や、多様な政治的・知的可
能性に対して、
東南アジアの人たちがさまざまな創造的対応をなしたことを示す証拠がたくさんある」
のです(43)。
※本文は、第13回福岡アジア文化賞学術研究賞受賞者アンソニー・リード氏の基調講演の原稿を掲載しています。
(43)
Reid, Age of Commerce II (1993), p. 330.
- 14 -
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