人権状況に関する国別報告書(2005年版)

ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
米国国務省民主主義・人権・労働局
2006 年 3 月 8 日
ビルマ
人権状況に関する国別報告書(2005年版)
米国国務省民主主義・人権・労働局
2006年3月8日
目
次
(目次は訳者作成)
目次 ....................................................................................................................................1
セクション1:人としての全体性の尊重、以下の事項からの自由を含む...........................4
a.恣意的あるいは非合法的な生命の剥奪................................................................... 4
b.失踪 ........................................................................................................................ 6
c.拷問、その他の残虐または非人道的、非常に侮辱的な処遇または刑罰................. 7
刑務所と収容施設の環境 ........................................................................................ 8
d.恣意的な逮捕または拘束 ........................................................................................ 9
警察と治安組織の役割.......................................................................................... 10
逮捕と拘束 ........................................................................................................... 10
特赦 ...................................................................................................................... 11
e.公正な公開裁判の否定.......................................................................................... 12
審理手続 ............................................................................................................... 12
政治囚................................................................................................................... 13
f.プライバシー、家族、自宅、通信への恣意的な干渉 ........................................... 14
g.国内外の紛争での過度の武力使用と人道法違反 .................................................. 17
セクション2:市民的自由の尊重。以下の事項を含む .....................................................19
a.言論と報道の自由................................................................................................. 19
b.平和的な集会と結社の自由 .................................................................................. 23
集会の自由 ........................................................................................................... 23
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結社の自由 ........................................................................................................... 24
c.信教の自由 ........................................................................................................... 25
社会的虐待と社会的差別 ...................................................................................... 27
d.国内移動、外国渡航、移民、帰還の自由 ............................................................. 27
国内避難民(IDP).......................................................................................... 30
難民保護 ............................................................................................................... 30
セクション3
政治的諸権利の尊重:市民が体制を変更する権利 ...................................30
選挙と政治参加 .................................................................................................... 31
政府の汚職と透明性 ............................................................................................. 32
セクション4:人権侵害が疑われる事例に関して国際機関あるいは非政府組織が行う
調査への政府の態度..........................................................................................................33
セクション5
差別、社会的抑圧および人身売買 ............................................................35
女性 ...................................................................................................................... 35
子ども................................................................................................................... 36
人身売買 ............................................................................................................... 40
障碍者................................................................................................................... 42
国籍、人種、民族に基づく少数者........................................................................ 43
その他の社会的虐待と差別 .................................................................................. 44
セクション6
労働者の権利............................................................................................44
a.結社の権利 ........................................................................................................... 44
b.労働者の組織化と団体交渉の権利........................................................................ 45
c.強制労働の禁止 .................................................................................................... 46
d.児童労働の禁止と就業の最低年齢........................................................................ 50
e.好ましい労働条件................................................................................................. 50
日本語版付録 ....................................................................................................................52
地名対照表................................................................................................................... 52
略号対照表(アルファベット順)............................................................................... 52
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ビルマ
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2006年3月8日
ビルマ(推定人口5200万以上)では1962年以来、多数派民族集団のビルマ民族が
権力を掌握する独裁度の高い軍事政権による支配が続いている。現軍政の国家平和開発評議
会(SPDC)は、タンシュエ上級将軍を元首とする事実上の政府であり、下部組織として
行政単位(管区、民族州、市、郡、区、村)毎に平和開発評議会(PDC)を設置している。
1990年には総選挙がおおむね自由かつ公正に行われ、
民主化政党が総議席の8割以上を
獲得したが、軍政はこの結果を認めていない。本年2005年には、軍政が提唱する「民主
制への7段階ロードマップ」の一部として制憲国民会議(NC)が二度開催された。国民会
議は新憲法起草を趣旨としながらも、有力な反対政党を排除しており、自由な議論も認めな
かった。軍政は国内の軍事力を、若干の反政府武装組織を除き、完全に掌握している。
政府による人権侵害は2005年を通して悪化しており、
深刻な被害を多数引き起こして
いる。以下の人権侵害が報告された。
•
政治体制を変更する権利の剥奪
•
超法規的処刑(拘束中の死亡事例を含む)
•
失踪
•
囚人や被収容者への強かん、拷問、殴打
•
上訴なしの恣意的逮捕
•
政治目的での逮捕や身柄拘束
•
外部との連絡を絶たれた拘禁
•
国民民主連盟(NLD)のアウンサンスーチー書記長、ティンウー副議長の自宅軟禁の
継続、ラングーンの同党本部以外の政党支部の閉鎖の継続
•
統一諸民族連盟(UNA)のメンバーの投獄、特に、シャン諸民族民主連盟の指導者の
クントゥンウー氏、サイニュンルウィン氏の投獄
•
国民のプライバシー権の侵害
•
強制移住と土地および財産の没収
•
言論や報道、集会、結社、運動の自由への制限
•
信教の自由の制限
•
ムスリムへの差別や嫌がらせ
•
国内の人権団体への様々な規制、国際人権団体との協力の不実施
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•
女性への暴力と社会的差別
•
子ども兵士の強制徴用
•
宗教的、民族的少数者への差別
•
人身売買、特に売春や強制結婚を目的とした女性や少女の人身売買
•
労働権の侵害
•
強制労働(子どもを含む)。なお大半の事例の目的は、民族的少数者の居住地域でのビ
ルマ国軍の駐屯地や作戦の支援。
カレン民族連合(KNU)、カレンニー民族進歩党(KNPP)、シャン州軍‐南部方面軍
(SSA‐South)などの民族武装勢力も、国軍より小規模ではあるが、殺人、強かん、
強制労働といった人権侵害を行ったとの報告がある。ワ州連合軍(UWSA)、カレンニー
民族人民解放戦線(KNPLF)など、支配地域内で民間人への人権侵害を行ったと報告さ
れた停戦団体もある。武装集団と停戦組織は共に子ども兵士の強制徴用を行った。
人権の尊重
セクション1:人としての全体性の尊重、以下の事項からの自由を含む
a.恣意的あるいは非合法的な生命の剥奪
2005年には、民主化活動家が拘束中に不審な状況の下で死亡した事件が複数起きた。
5月7日、アウンフラインウィン氏(NLD党員)が拘束中に死亡した。5月1日、氏は5
年前にタイの「非合法組織」に接触したとして、軍保安局(MAS)1に逮捕された。5月
10日、警察は家族に対し、氏が心臓疾患で死亡したと伝えたが、検死官の検視報告によれ
ば、遺体には24ヵ所の怪我と打撲傷があった。同事務所は家族に10万チャット(100
米ドル、約11万5千円。2006年7月時点の実勢レート計算。以下金額については同じ)
の補償を申し出たが、家族はこれを拒否した。家族はマヤンゴン郡裁判所に不法死亡の訴え
を起こした。判事は検死官の検視報告を証拠として採用せず、死因に関する警察側の報告書
に沿った判決を下した。
NLD司法顧問委員会は家族側が最高裁に上告する支援を行ったが、
最高裁は下級審の判断を支持した。
5月22日、労働運動家モーナウン氏が、拘束後まもなくコータウンで死亡したとの報告
がある(セクション6.a参照)。
1
軍保安局(Military Affairs Security: MAS)はビルマ軍政の諜報機関。諜報機関のトップで強力な権限
を有していたキンニュンが2004年に失脚した後、2005年10月に戦略研究室(Office of Strategic
Studies: OSS)と防衛諜報本部(Directorate Defence Service Intelligence: DDSI)が廃止され、軍保安
局が新設された(以下はすべて訳注)。
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5月31日、ミントゥーウェイ氏(NLD党員)の妻は夫が拘束中に死亡し、遺体は同日
中に火葬されるとの電報を受け取った。5月26日、警察はミントゥーウェイ氏を、理由を
示せずに逮捕し、2日後にモーラミャイン刑務所に移送した。家族は電報を受け取ってから
1時間以内に刑務所に到着したが、遺体は前日に火葬されたと告げられた。囚人の一人と検
死官は、夫を失った妻に対し、氏は5月29日に殴られた際に頭に受けた深い外傷が原因で
死亡したと伝えた。
7月20日、当局者がソー・スタンフォード氏の家族に対し、氏は尋問センターで心臓疾
患を発症して死亡したと告げた。家族は布でぐるぐる巻きにされた遺体に近づくことも触れ
ることも許されず、顔を見ることができただけだった。氏は、軍保安局がイラワディ管区タ
ワコ村に捜索に入った際、武器と爆発物を隠匿しているとして拘束された。
10月4日、マンダレー管区アウンミェイターザン郡に住むテイルウィン氏が、拘束中に
警察所で死亡した。当局は同日に彼を窃盗容疑で逮捕していた。氏の妻は面会のために警察
署を訪れたが、許可されなかった。その1時間後に警察は妻に対し、氏が留置所で自殺した
と告げた。10月5日、妻は夫の遺体と対面させてくれなければ書面にもサインしないし葬
儀の準備もしないと主張した。地元の平和開発評議会(PDC)職員と連邦団結発展協会(U
SDA)地区支部のティンマウン書記長は、300米ドル(30万チャット)の補償を提案
した。10月6日、地元の平和開発評議会と病院の当局者は死亡証明を発行せずに、遺体を
妻に送り届けた。家族によれば、テイルウィン氏の頭蓋骨には殴打痕が、全身には無数の打
撲傷が、また両目と首、腹部には縫合跡があったという。家族は警察長官と管区警察署長に
対し、調査を行って責任者を処罰するよう求めた。年末の段階でこの事件に関する進展はな
い。
11月5日、バゴー在住のアウンミンテイン氏(37歳)がインセイン刑務所で収容中に
死亡した。氏は「非合法結社」に関わる容疑で審理中だった。死因については、下痢、コレ
ラ、肝硬変などいくつかの報告があるが、当局側は遺体を家族に引き渡そうとしなかった(セ
クション2.aと6.c参照)。
12月31日、コータンタイッ氏は地元の平和開発評議会の職員に激しく殴打されたこと
が原因で死亡した(セクション6.c参照)。
2004年3月、シャン人権基金(SHRF)は、第514軽歩兵大隊の指揮官がシャン
州ムンクン郡の軍検問所の前で、強制労働のための車の供出を拒否したとして、民間人一人
を撲殺したと報告した。
2004年7月、窃盗の容疑で逮捕されたマウンエイ氏が警察署で拘束中に暴行を受け死
亡したとの、裏付けはされていないが、確度の高い報告がある。
2003年に政府の関連組織がディペーイン村付近でNLD指導者アウンサンスーチー
らの車列を襲撃したが、政府はこの件についての調査を行っておらず、責任を一切認めてい
ない。地元住民と生存者の証言によれば、襲撃した側は約70人の民主化運動支持者を殺害
したとのことだが、この人数は正式には確認されていない。年末の段階で、車列にいた31
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人の民主化運動支持者を含む負傷者の行方は不明である。
襲撃に関与したとされる当局者は
責任追及を免れ、昇進した人物も数人いる。
同様に、シャン人権基金(SHRF)とカレン民族連合(KNU)が報告した2003年
の殺害事例に関して、政府が兵士の調査あるいは処罰を行ったとの事例は一切報告されてい
ない。殺害されたのは、シャン州ナムサン郡でシャン軍兵士だとされた、あるいは兵士を支
援した容疑を掛けられた農民2人、シャン州ライカー町の避難民の農民1人、シャン州内の
僻地の畑で作業中だった農民1人、カレン人の村長2人である。
治安部隊が民間人に地雷除去をさせたことによる死亡または負傷事件が、裏付けはないが、
複数報告されている。しかし報告された事例の数自体は、政府とカレン民族連合との一応の
停戦合意により、前年までより減少している。
4月のマンダレーでの爆発事件、5月7日のラングーンでの3件の同時爆弾事件では、公
式発表によれば、死者23人、後遺症の残った負傷者55人を数えた。事件に対し、政府は
多くの人々を逮捕し、様々な民主化運動組織を一連の事件の当事者だとした。しかし政府は
確度の高い証拠を一切出しておらず、実行犯は逮捕されていない。
前年までとは異なり、武装民族組織が殺害を犯したとの情報はない。国営メディアは20
04年8月にシャン統一革命軍2がナムサン郡で農民5人を殺害したとの疑惑を報じた。
b.失踪
民間人と政治活動家の「失踪」が引き続き発生した。期間は数時間から数週間以上に及び、
多くは二度と戻ってこなかった。こうした失踪事例の原因は一般に、当局が家族に知らせず
に、尋問のために個人を拘束したり、軍がポーター(荷役労働)や関連の作業に民間人を、
しばしば家族に知らせずに強制徴用したりすることにあった(セクション6.c参照)。軍
当局に情報を照会したケースについては殆ど進展がなかった。多くの事例で、尋問のために
拘束された個人はすぐに釈放され、家族の元に戻された。
国軍部隊がポーターを行わせるために拘束した人物や、労働やポーターを行わせるために
移送された囚人の行方がわからないことが往々にしてあった。家族が身内の消息を知りうる
のは一般に、同僚の囚人が生還し、家族に情報を伝えにくる場合に限られた。
2003年に学生(15歳)と3~4人の若者がラングーン市内の喫茶店で失踪し、軍の
ポーターのために強制的に身柄を拘束されたと見られる事件が発生したが、この事件に関す
る進展はなかった。
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シャン州軍‐南部方面軍に同じ。軍政が用いる名称。
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c.拷問、その他の残虐または非人道的、非常に侮辱的な処遇または刑罰
拷問を禁止する法は存在している。しかし治安部隊が囚人や被拘束者、その他の民間人に
拷問や殴打、他の方法を用いて虐待を行ったことが報告された。治安部隊は拘束した人物に
対し、脅し混乱させることを目的とした過酷な尋問技術を常習的に用いた。
12月1日、ビルマ政治囚支援協会(AAPP)は、軍政が政治囚に行った「残虐で組織
的な」拷問についての報告書を発表した。報告書は元政治囚35人の証言に基づき、軍政が
軍政に反対する活動家に行う肉体的、精神的、性的虐待を写実的に詳述し、拷問を行った人
物の多くの氏名を特定した。この報告書は軍政による拷問の数々を詳しく説明している。例
えば、激しい殴打(意識不明に陥ることもあり、時には死に至る)、局部を含む身体のあら
ゆる部分への度重なる電気ショック、肉がはがれ落ちるまで鉄棒をすねにこすりつけること、
たばこやライターの火の身体への押しつけ、ロープや拘束具を首や足首につけ、最大数ヶ月
に渡って身体を動かせないようにすること、数時間にわたって毎秒人体の同一箇所を打ち続
けること、とがった石、金属、ガラスの破片が敷き詰められた場所を歩かせたり這わせたり
すること、犬による男性囚の強かん、女性囚に強かんすると脅迫することが挙げられた。
この報告書によれば、内務、国防、外務の各大臣が3人で、国家保護法で起訴された政治
囚の拘束を監督する委員会を作っている。
報告書はまた、尋問の初期段階での拷問は軍保安局(MAS)が主に行っていることを指
摘した。尋問は特別調査局と内務省管轄下のビルマ警察特別部も行っていた。
政治囚5人が拘束中に死亡した(セクション1.a参照)
。
7月6日、ジャーナリストで元NLD中央執行委員のウィンティン氏が、インセイン刑務
所内の釈放前に調書を取られる一室に移動されたが、釈放はされず、再び房に戻された。反
政府筋は、ウィンティン氏が虚偽の自白に署名させようとする当局の働きかけに応じなかっ
たとしている。
2004年6月、NLD党員4人が拘束、尋問され、3日間踏み台に強制的に立ち続けさ
せられた。全員が虚偽の供述書に無理矢理署名させられ、その結果緊急規定法(1950年)、
非合法結社法(1908年)および入管法(1947年)違反のために最大15年の刑を言
い渡された。裁判所は、被告人は3つの罪に基づく刑期を順番に務めるのではなく、3つの
中で最も長期の刑(7年)を務めればよいとした。被逮捕者の中で最も有名なNLD党員の
息子も治安部員に拘束され、殴打を受けた後に釈放された。
信頼できる情報筋によれば、2004年2月にインセイン刑務所の当局者によってNLD
党員のキンマウンウー氏が殴打され、意識不明になった。同じ2004年2月には、ラング
ーン警察と消防の職員が、理由は不明だが、サンテイ氏を殴打したとの未確認情報がある。
2004年7月には、未確認だが確度の高い情報として、窃盗の容疑で逮捕されたマウンエ
イ氏が警察署で拘留中に殴打され死亡している。
軍は個人の所有物、現金、食糧を常時徴発し、強制的で残虐な方法によりポーター徴用を
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行った。ポーターやその他に労働に徴用された人は、非常に困難な状況に置かれ、殴打、強
かん、食糧不足、清潔な水の不足、時には死につながる虐待に直面した。
2005年を通じて、NGOやコミュニティ・リーダーから、バゴー管区、カレン州、モ
ン州、シャン州、タニンダーイー管区で国軍が民族的少数者に対し殴打、強かん、強制地雷
除去、強制労働などの虐待を続けているとの報告が出された。
2004年9月、カレン州内の信頼できる情報筋によれば、親軍政の民主カレン仏教徒軍
(DKBA)が、若いティラーシン3数人(8~11歳)を強かんした。
2003年には民主カレン仏教徒軍の司令官と国軍兵士がカレン州内の住民を強制労働
に徴用するために脅迫、殴打したとの報告があったが、政府はこの件について調査を行わな
かった。
2003年、治安部員は、教師のチョーイェウィン氏と学生のキンフラフラスーウィン氏
が、ラングーン市庁舎前で政治囚全員の釈放を求めるデモをしたとして、2人を拘束し、ユ
ワタジー精神病院に移送した。2人は2004年11月に特赦された。
刑務所と収容施設の環境
刑務所と労働キャンプの環境は総じて厳しく、命を落としかねない状態のままであった。
刑務所局はビルマ全土で約35ヵ所の刑務所と約70ヵ所の労働キャンプを運営していた
(セクション6.c参照)。刑務所では、食糧、衣類、医薬品がかなりの程度不足していた
と伝えられる。寝具は床の上に敷物一枚だけだった。囚人は家族(面会は2週間ごとに一回
あたり15分が許可されるのみ)に生活必需品を頼らざるを得なかった。囚人は何週間ある
いは何ヵ月も起訴されずに収容されており、何らかの容疑で正式に起訴されて初めて、家族
に対し、面会や非常に貴重な食糧の差し入れが許可されるようなる。刑務所内でのHIV/
エイズの感染率は高い。
その理由として注射器の使い回しや他の囚人からの性的虐待がある
と伝えられる。2004年3月には、政府には囚人が定期刊行物を読み、テレビを見る権利
を取り消したとの未確認の報告がある。これらの権利は国連の人権状況に関する特別報告者
パウロ・セルジオ・ピニェイロ氏の2003年の訪問後に与えられたものだった。
4月9日、インセイン刑務所に収監されていた政治囚18人が2日間のハンガーストライ
キを行い、劣悪な所内環境と家族による訪問の拒否に抗議した。刑務所当局は環境改善に同
意した。ストライキを行った政治囚が4月27日に家族に面会した後、当局によって他の刑
務所に移送されたり、独房拘禁されたり、雑居房に入れられ同室の一般刑事囚から殴打を受
けるなどした。しかしこの措置を受けた政治囚は再びハンガーストライキを行い、前回より
も多くが独房拘禁されたが、そこでもハンガーストライキを続行した。他の区画に収容され
ている政治囚もストライキに参加した。
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仏教の女性出家者のこと。ビルマ仏教では女性が比丘尼(尼僧)として出家することはできない。
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所内の医療は一般にビルマ国民が受けられる医療の水準を部分的に反映していたとはい
え、政府が囚人に十分な医療措置を行わない状態が続いた。9月にタラワディー刑務所で囚
人11人が死亡し、少なくとも80人が入院した。寄生虫の沸いた米やレンズ豆、肉と、不
衛生な水および廃棄物処理法によってコレラが蔓延したことが原因だった。10月にも同じ
原因から、タラワディー刑務所でさらに40人が下痢で死亡した。12月下旬にはシットゥ
エー刑務所で囚人9人が下痢で死亡し、60人が入院したと伝えられる。原因は不衛生な食
事にあったと見られている。
2005年中に複数の政治囚の健康状態が悪化した。健康状態が悪化した著名な政治囚に
は、19990年総選挙でNLDから出馬し当選したタンニェン博士、ナインナイン氏や、
ジャーナリストとしての経験が豊かなウィンティン氏がいる。政治囚のアウンゾーラッ(3
0)氏は12月15日にバゴー刑務所内で、結核で死亡した。
政府は政治囚を一般囚と隔離していると説明する。しかし囚人からの報告によれば、当局
は政治囚を頻繁に雑居房に入れており、政治囚はそこで犯罪常習者から殴打や虐待を受けて
いた。インセイン刑務所の第3区画の政治囚は特に被害を受けやすい状態にある。収容され
ているミンソーナイン氏、ミンミン氏、ミンタントゥウィン氏、オーンマウン氏、ポンアウ
ン氏、氏名不詳の仏教僧侶一人が、2005年中に他の囚人から激しい殴打を受けたとの報
告があった。被害を受けた囚人の親族とビルマ政治囚支援協会(AAPP)によれば、囚人
の犯罪組織が8月24日に政治囚のコートゥントゥン氏を容赦なく殴打した。刑務所当局は
この集団に何の処分もしなかったと伝えられており、これを受けて政治囚側はハンガースト
ライキを行った。当局はスト実行者を独房拘禁し、後日、遠隔地の刑務所に移送した。
2005年中に政府は赤十字国際委員会(ICRC)に、被収容者への薬の配布、囚人と
家族の手紙の仲介、家族が囚人を毎月訪問することに便宜を図るなどの従来の業務を行うこ
とを許可した。同委員会は囚人4000人以上の詳しい状況を個別に把握していた。対象と
なっていたのは、治安上の理由で収容されている人物、未成年、外国人、病人や高齢者など
特に弱い立場にある囚人である。刑務所内の諸問題について政府と協議を重ねた結果、同委
員会は立会人なしで囚人と話す権利、必要なときに面会を繰り返し行う権利、大多数の囚人
にいつでも接触する権利を得た。同委員会は刑務所と労働キャンプにいるさらに多くの被収
容者への接触を実現しようと努力している。同委員会の報告によれば、収容環境、被収容者
の処遇、全般的な健康状態については、刑務所局が同委員会の勧告に基づいて是正措置を行
った結果、2005年中にほとんどの刑務所と労働キャンプで改善が見られた。しかし同委
員会側は11月にタラワディー刑務所への訪問については、大衆動員組織である連邦団結発
展協会(USDA)が同委員会職員に同行すると主張したため、これを切り上げなければな
らなかった。
d.恣意的な逮捕または拘束
拘束の合法性の司法判断についての法的規定が存在せず、
政府は恣意的な逮捕と外部との
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連絡を絶たれた拘禁を日常的に行った。法の定めるところによれば、当局は囚人が刑期を満
了した後に量刑を延長することが可能であり、政府はこの条項をたびたび用いている(セク
ション1.c参照)。
警察と治安組織の役割
警察は国軍の補助部隊であり、国軍将校の直接の指揮下にある。警察は主に一般的な犯罪
を扱い、政治犯罪は扱わない。ミャンマー警察(MPF)は行政機構の上では内務省管轄と
なる。汚職と刑事免責が深刻な問題だが、これは警察に業務を自弁するよう定めた政府のや
り方に原因がある。警察が犯罪捜査のために犯罪被害者に多額の金銭を要求することは日常
的なことで、民間人からも金をせびることが行われた。一般刑事事件では保釈されることが
よくあるが、政治囚が保釈を認められることは、絶対にないとは言えないが、現実にはあり
えないだろう。
軍保安局職員とミャンマー警察隊特別部の職員が、政府の脅威になると判断された「政治
犯罪」の容疑者の拘束を担当する。拘束が行われると、同事務所の職員(特別部職員のこと
もある)が、囚人を地域毎にある軍保安局の尋問センターに連行し、数時間から数ヵ月に渡
って、被拘束者を拷問する。職員は尋問中いつでもその人物を起訴できる。政治犯として起
訴されたあるいは容疑を掛けられた人物は逮捕時にフードを被らされることが多かった。
逮捕と拘束
法によれば、捜索と逮捕には令状が必要だが。軍保安局(MAS)と警察は自由に捜索と
逮捕を行う特権を有している。政府は無期拘束を認めた緊急規定法(1950年)をしばし
ば適用し、民間人を逮捕し起訴せずに長期間拘束することを引き続き行った。政府は日常的
に、被拘束者が弁護士に接見する権利や、被拘束者または家族が独立の法的代理人を選任す
る権利を認めず、被収容者に政府が指定した弁護士の選任を強要した。
外部との連絡を絶たれた拘禁が問題となっており、被収容者の親族は当人が拘束されたこ
とをかなり後になってから知るケースが多かった。長期の独房拘禁が囚人への懲罰として行
われた。2004年12月には、テッナウンソー氏がすべての政治囚の釈放を求めて刑務所
内でハンガーストライキを行った。家族が面会を申請したが、看守側は本人の筆跡によるメ
モを見せた。そこには「今は家族に会いたくない」と書かれていた。ある刑務所職員は、テ
ッナウンソー氏が一時的に食事を摂ることを拒否しており、刑務所内の病院にいると述べた。
2005年末時点で氏は重度の発疹で所内の病院に依然入院しており、鬱状態となっていた。
7月13日に、女性出家者ドー・ティッサワディが「仏教の中傷」の容疑で逮捕された。
氏は国家サンガ総監長老会議に対し、男性僧が「比丘」と名乗るように「比丘尼」を名乗り
たいとして許可を申し出た。氏は他の仏教社会では比丘尼の称号は認められていると述べた。
同会議からの反応はなかったが、宗教省が氏を告発し、拘束させた。拘束から1ヵ月後に当
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局は氏に出国するよう圧力を掛けた。
8月13日、ジャノー、ウィンモー、ブランアウンサンの学生3人がモーマウッ郡で麻薬
取締特殊部隊に逮捕された。しかし同部隊は3人から麻薬は押収せずに、アムネスティ・イ
ンターナショナル(本部、ロンドン)発行の人権教育用CD‐ROM、サルウィン川水力開
発計画に反対する書籍、反薬物教育用の教材を押収した。
2004年2月、当局はNLD副議長ティンウー氏(2003年5月のディペーイン襲撃
事件後に逮捕された)をザガイン管区のカレー刑務所からラングーンの自宅に移送した。氏
は現在も裁判のないままに自宅軟禁されていた。2005年を通して、アウンサンスーチー
氏は起訴も裁判もされないままに自宅軟禁されていた。氏への拘束は11月27日に半年間
延長された。住み込みの家政婦2人(敷地内からの外出を禁じられている)を除いて、氏は
依然として外部から隔離されている。
2005年末に、ディペーイン襲撃事件中または直後に逮捕された153人のうち、自由
を剥奪された状態が続いていたのはアウンサンスーチー氏とティンウー氏だけである。
当局は民間人や政治活動家を拘束することを続け、失踪した者もいた。失踪が一時的であ
ることもあった(セクション1.b参照)。
2005年中に、政府はロヒンギャ政党所属の国会議員当選者チョーミン氏に47年の刑
を、妻と娘2人、息子1人に17年の刑を宣告した。容疑は住宅登録証が不十分だったこと
だった。さらに義理の妹がチャウピューで当局によって逮捕された。容疑は許可なくチャウ
ピューに旅行をしたこと、必要な滞在許可証を持たずに夫の家に住んでいたことだった。
特赦
2004年10月にキンニュン首相(当時)が粛正されて以降、ビルマ政府は5回の囚人
大量釈放を行った。2005年中に、政府は1月2日と7月6日に大量釈放を行い、約6,
000人が釈放された。
政府は政治囚368人を釈放したが、他方で政治囚の逮捕を続けた。
2004年11月と12月に、ビルマ政府は、解散された軍中央情報部局に「不適切な行動」
があったとして、囚人14,318人を釈放した。しかしこのうち政治囚とされるのは76
人だけだった。
2005年中に少なくとも5人の国会議員当選者が出獄した。1月2日にはチョーキン氏
(NLD、タウンジー)が釈放された。氏は2月25日に再逮捕され、14年の刑を宣告さ
れた。容疑は、氏が在籍する大学の学友にアウンサンスーチー氏の受賞歴のリストを渡した
ことだった。オーンチャイン(別名アウンウィン)氏(NLD、マンダレー)も1月2日に
釈放された。3月6日にミンナイン博士(NLD、ザガイン管区カンブル)が釈放された。
7月6日には、セインフラウー氏(NLD、ラングーン管区インセイン)と、キンマウンウ
ィン氏(NLD、バゴー管区オウトゥイン)の2人が釈放された。
3月6日、ミンナイン博士が釈放された。3月11日にもイラワディ管区ボーガレイ郡の
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NLD党員11人が釈放された。7月6日には、2003年にラングーン市庁舎前で民主化
を訴えるスローガンを叫び、冊子を配って逮捕された女性出家者2人とその仲間が釈放され
た。
2003年と2004年で、政府は2003年5月とその前後に逮捕したNLD所属の国
会議員当選者24人を釈放した。
e.公正な公開裁判の否定
司法機関は政府から独立していない。ビルマ政府が最高裁判事を指名し、最高裁判事が下
級裁判所の判事をビルマ政府の承認を得て指名する。そして全国の裁判所は、ビルマ政府が
布告した命令(事実上の法的効力を有する)に基づき裁判を行う。郡、区、州、全国それぞ
れのレベルに裁判所がある。
審理手続
2005年を通じて、政府は命令による統治を引き続き行い、公正な公開裁判あるいはそ
の他の権利を保障する憲法上のどの規程にも拘束されなかった。英領時代の法制度の名残が
形式的には有効だが、裁判制度と裁判の進行については、特に政治関係の事件で深刻な欠陥
があった。包括的な規程を持つ法(緊急規定法、非合法結社法、常習犯法、破壊分子の危険
から国家を守るための法など)の乱用ほか、政治目的のために裁判制度が自由に操られたこ
とで、民間人は依然として公正な裁判を受ける権利を奪われていた。汚職の蔓延が司法制度
の公正性の低下に拍車を掛けた。
12月12日付の報道発表で、アムネスティ・インターナショナルは、2005年を通し
て、平和的な反体制運動を鎮圧するために政府が司法制度を用いるケースが増えていると指
摘した。アムネスティは、反体制運動の支持者が刑事犯罪をでっち上げられて有罪判決を宣
告されていると指摘した。この指摘は、国連の人権状況に関する特別報告者ピニェイロ氏の
声明とも一致する。氏は10月28日に国連総会の委員会で、ビルマでは「法、秩序、正義
を確保する機構が、市民の諸権利を擁護するどころか、弾圧を行い、反体制運動を封じ込め
るために用いられている」と述べた。
一般刑事事件と政治事件の審理手続には根本的な違いがある。弁護士に代理される権利な
ど、基本的な法の適正手続は刑事事件ではおおむね尊重されたが、政府が特に敏感だと判断
した政治事件では尊重されなかった。刑事事件では、被告側弁護人は公判準備に15日の猶
予を与えられるのが一般的で、証人を呼んだり反対尋問したりできる。また公判準備のため
に期日を15日先送りすることが認められることもある。
しかし弁護人の第一の役割は依頼
人の無罪を証明することではない。
通常、有罪判決が出ることは最初から決まっているので、
判事と交渉して被告人の刑罰をできるだけ軽くすることにある。信頼できる報告によると、
政治事件については、軍政上層部が証拠の有無や法を検討することなく、判決を直接決定し
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ていた。政治事件の審理は非公開である。
2003年5月のディペーイン事件に関連して逮捕されたNLD党員や数百人の民主化
運動支持者の誰一人として公開裁判を受けていない。2003年に警察は、カナダの鉱山会
社の運転手のテッルウィン氏を逮捕した。容疑は、外国人の上司を乗せてラングーンのアウ
ンサンスーチー氏の自宅近くを通ったことだった。2004年2月、裁判所は非公開のうち
にテッルウィン氏に、当初の逮捕理由とは関係のない刑法上の罪で7年の刑を宣告した。2
005年末時点で、氏はインセイン刑務所に収監されていた。
NLD党員は、弁護士側が逮捕される心配をせずに、弁護士を雇うことが通常は可能であ
るようだった。しかし、弁護士側は常に裁判の開始日を告知されるわけではなかった。14
人前後の弁護士が2005年末時点で獄中にあった。政治囚が弁護士を雇いやすくする措置
を政府が取った1998年以前に判決を下された人が大半だった。
政治囚
2005年末時点で、約1,300人の「治安上の理由で収容されている人物」が存在し
た。これには政治囚(約1,100人)、武器取引をした商人、治安法の違反者、宗教騒乱
の扇動などの容疑をかけられた者が含まれる。
1月2日、国会議員当選者のチョーキン氏(NLD、タウンジー)が釈放された。氏は2
月25日に再逮捕され、14年の刑を宣告された。容疑は、氏が在籍する大学の学友にアウ
ンサンスーチー氏の受賞歴のリストを渡したことだった。
2月9日、政府はクントゥンウー氏(シャン諸民族民主連盟=SNLD議長)とサイニュ
ンルウィン氏(同党書記)を拘束した。同党は民主化を支持する有力な民族政党である。ま
たシャン人指導者8人もほぼ同時期に逮捕された。SNLD指導者の秘密裁判がインセイン
刑務所で行われ、国家転覆罪の他、外貨取引規制違反など8つの政治および経済犯罪の容疑
について裁かれた。クントゥンウー氏には終身刑2回と53年の刑が、ソーテン将軍には終
身刑3回と46年の刑が、サイニュンルウィン氏には終身刑3回と25年の刑が宣告された。
2005年末時点で全員が僻地の刑務所に収監されていた。
8月3日、サオウーチャ氏(シャン州諮問会議)が自宅で逮捕された。容疑は新世代シャ
ン州会議とシャン州の日の記念行事に参加したことだった。氏には後日、国家中傷罪とホテ
ル・観光法違反で13年の刑が宣告された。11月22日、氏の控訴は棄却された。
11月20日、カチン州当局は、NLD党員のコーコーミン氏、テインゾー氏をアヘン所
持容疑で逮捕した。アヘンは当局側が逮捕の口実に用意したと見られる。2005年末時点
で2人の拘束は続いていた。またヤカイン州当局は、NLD党員のサンシュエトゥン氏、ア
ウンバンター氏を7月に外為法違反で逮捕した。この件では当局が2人の自宅にバングラデ
シュの通貨を忍ばせていたとされる。
2004年4月、政府はNLDマンダレー管区支部の党員11人に7年から22年の刑を
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宣告した。容疑はタイの亡命組織と「違法に連携」したことである。2004年6月、当局
は同種の容疑で、タンタンテイ氏(NLDマグエー管区・郡支部執行委員)、ティンミン氏
(同ラングーン管区・郡支部執行委員)を拘束した。2人は数週間の取り調べを受けた後、
インセイン刑務所に移送された。2004年9月、タンタンタイ氏とティンミン氏は、NL
D党員1人と共に、3件の国内法違反について有罪とされ、7年の刑を宣告された。政府は
判決の根拠となる信頼できる証拠を一切示さなかった。2004年6月、当局はイェイェウ
ィン氏、サンヤ氏、イェテッ氏(共にNLDモン州テインザヤッ郡支部党員)をタイの複数
の亡命組織と接触した容疑で拘束し、外部との連絡を絶ったままで拘禁した。2004年9
月、裁判所は3人に7年の刑を宣告した。2005年末時点で、これら全員が収監されたま
まだった。2004年12月、NLD党員5人がラングーンで逮捕された。容疑は、冊子「大
衆への呼びかけ」を所持、配布していたとされることだった。全員が6月13日に終身刑を
宣告され、2005年末時点でインセイン刑務所に収監されていた。2004年12月、ザ
ガイン管区チャウンウーでNLD党員チョウスウェ氏が未登録オートバイの所持と公務執
行妨害で逮捕された。同月に氏は2年の刑を宣告された。
政府は破壊分子の危険から国家を守るための法に基づき、
刑期の延長を日常的に行ってい
る。内務大臣は刑期を6回、2ヵ月ずつ(合計1年)独断で延長する権利を有する。国家平
和発展評議会議長タンシュエ上級将軍は刑期を5年追加することができる。前年までと異な
り、政府は同法違反で拘束されている囚人を一人も釈放しなかった。2005年中に、政府
は、刑期を超えて収監されていた15人前後の学生と政治活動家を全員釈放した。
f.プライバシー、家族、自宅、通信への恣意的な干渉
撤廃された1974年憲法にプライバシー権の規定はなく、当局は常時民間人のプライバ
シーを侵害している。諜報組織のネットワークと行政手続を通して、政府はすべての民間人
の移動を組織的に監視しており、多くの民間人、特に政治的に活発なことが知られている人
物の行動を綿密に監視している。
裁判所の命令なしでの強制立ち入りは合法である。登録した居住地以外の場所で夜を過ご
す場合は、法により事前に警察に連絡するよう定められている。居住者以外を宿泊させる場
合、その家は、法により、客のリストを作成して警察に提出しなければいけない。この法律
は選択的に執行されていたが、マンダレーで4月に、またラングーンで5月7日に起きた爆
弾事件後に執行件数が増加した。2003年のディペーイン襲撃事件と、同年に起きたラン
グーンでの爆弾事件後に、治安部隊は民間人の監視活動を著しく強化した。区平和開発評議
会の当局者は、未登録訪問者がいないかどうか調べる夜の抜き打ち検査の回数を増やした。
政治囚として長期間獄中にあったトゥエミン氏は、解放されてから3ヵ月後の3月18日に
再逮捕され、14日の刑を受けた。理由は、葬儀に参列している間、兄弟の家で一晩過ごす
ことを報告しなかったことだった。
治安部隊員は私信や電話の内容を恒常的に検査しており、
通常は保護されている通信も監
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視した。2004年6月、ある外国の調査団は大使の会議室の壁に盗聴装置が仕掛けられて
いるのを発見した。2003年には、国連の人権状況に関する特別報告者が、刑務所内で政
治囚と面会した際、その部屋に盗聴器が仕掛けられているのを発見した。
当局は民間人が外国の出版物を直接定期購読しようとすることを妨害することが多かっ
た(セクション2.a参照)。
政府はあらゆる双方向電子通信機器の使用許可と調達を綿密に管理・監視し続けた。未登
録の電話機やファックス機、パソコン用モデムの所持は投獄の対象となる。例えば、未登録
のコードレス電話機を国内で使用していると、最大3年の刑と多額の罰金を科せられる。
私的所有権が弱く、土地所有に関する記録が整っていないことが、政府による個人の非自
発的移住を容易にした。
法は土地の私的所有を認めず、土地使用権の諸形態を定めるのみで、
その多くは自由に譲渡することができない。植民地期以後の土地法は、土地への私的権利は
土地の生産的使用を条件に許可されるという植民地期以前の伝統を復活させた。
歴代の軍政は過去数十年に渡り、民族武装組織への支援を妨害する目的で民族的少数者集
団への強制移住作戦を行っている。
こうした強制移住は2005年中にも引き続き行われた。
報告によれば、強制移住の際には強かん、処刑のほか、住民や国軍部隊が使用するインフラ
整備目的での強制労働の徴発が行われた(セクション1.c、1.e、2.d参照)。10
月4日、政府はシャン州南部ワンザン、クーンキェンにある複数の村の約100世帯に対し、
ライカー郡ワンポンに移動するように命令を出した。目的はシャン州軍‐南部方面軍(SS
A-South)を地元住民から引き離すことだった。
都市部での強制移住の報告は減少した。しかし伝えられるところによれば、政府は「治安」
を理由に住民の強制移住を引き続き行った。ラングーンでは、商業目的に利用可能な土地に
ある住宅や住居に住む人々が強制退去の対象となった。補償がほとんど支払われなかった事
例もあった。2004年には政府は、ラングーンの少なくとも2ヵ所に住む退職公務員に、
2005年までに退去するよう文書で命じた。
だが2005年末時点で対象者は退去してい
ない。11月、政府は公務員に新首都ピンマナへ単身赴任するよう命じた。
国軍兵士が、強制移住対象者や家を離れている住民の財産や所持品を略奪、没収したとの
多数の報告があった。押収物は軍施設の建設に使われることが多い。外交団の報告によれば、
軍やVIPの移動に民間所有の自動車が徴発され、所有者には一切補償が支払われない事件
が全土でごく日常的に発生している。中でもシャン、カヤー、カレン各州と、モン州とバゴ
ー管区の一部でこの事例が多発している。
これらの地域ではまた、民間人が数千人単位で昔から暮らしている集落を追われ(元の集
落は跡形もなく焼かれてしまうことが多い)、ビルマ政府の戦略圏内にあり、国軍部隊が厳
重に管理する場所へ移住させられた。元の集落を追われた住民が森に逃げこんだ場合には、
十分な食糧、安全、基本的な医療が確保されず、地雷が多数敷設されている状況に直面する
ことが多い。
強制移住は、
近隣国や政府の支配が及ばない地域への難民の大量移動を頻繁に引き起こし
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た。政府が元の住民を移住させた後、元の場所にビルマ民族を住まわせた地域もあった。ま
た国軍部隊がカレン人を民主カレン仏教徒軍(DKBA)の支配地域へと強制的に移住させ
た、あるいはさせようとした事例もあった。
政府は補償を払わずに土地を没収する権利を有する。こうした没収が全土で行われていた
との信頼できる、しかし未確認の報告が複数存在する。例えば、11月には、ヤカイン州ブ
ディタウン郡で新たに「モデル村」が建設されたとの信頼できる報告があった。仮釈放中の
囚人の80世帯が、元の住民から補償なしで没収された200エーカー(約245坪)の土
地に移住させられた。2004年3月には、インド・ビルマ・タイ間の自動車道路を建設す
るために政府はチン州で住民を立ち退かせ、土地を没収した。2004年7月、国軍はモン
州イェ郡の150世帯の土地を没収し、軍の建物を新築した。2003年の外交団の報告に
よれば、政府はラングーン郊外のコンドミニアム建設のために、墓地に埋葬されている親族
の遺体を掘り起こすように遺族に命じた。
政府が行った農民の虐待や搾取についての報告が複数あった。2005年を通して国軍は
モン州の農民からの土地接収を引き続き行った(セクション4参照)
。2004年1月に当
局は、イラワディ管区レッコピン村の農民5人を、農地が補償なしに接収されたことに不平
を言ったとして拘束した。2004年には、国軍がモン州内の数千エーカーの農地を補償な
しで接収したとの信頼できる報告があった。この他にも政府はシャン州北部で農地を接収し
たとの報告がある。このケースでは、
当該地域では栽培実績がない中国産のハイブリッド(高
収量)米の作付けを政府に命令された農民が、籾を購入し、作付する際に負った債務を返済
できなかったことが接収の理由だった。2003年には、複数の地域の公務員が既に耕され
ている農地を接収し、接収された農民は生活を続けるために、価値の低い土地を購入せざる
を得なかった事例が報告された。
国軍兵士も家畜、燃料、備蓄食糧、養魚場、アルコール飲料、自動車、金銭を恒常的に接
収していた。こうした濫用は広範に見られた。地域レベルの司令官が民間人に対して金銭、
食糧、労働、建設資材を徴発することが全土で行われた(セクション1.c、6.c参照)。
国軍兵士と反政府武装勢力は国際人権法に違反し、子どもを含む兵士の強制徴用を行った
(セクション1.g、6.c参照)
。
政府職員は政党に加盟したり政党を支援したりすることが一般には禁じられた。
しかしこ
の措置は選択的に実施されていた。政府系の大衆動員組織である連邦団結発展協会(USD
A)、ミャンマー女性問題連盟(MWAF)、ミャンマー母子保健協会(MMCWA)につい
ては、政府はほぼすべての公共セクターの被雇用者と学生など多くの人々に対して、強制的
に、または脅迫によってこれらの組織に加盟させ、政府支持の集会に出席させた(セクショ
ン2.a参照)。
女性市民と外国人の間の結婚は公式には禁止されていた。政府は地元の弁護士に対し、こ
うした結婚では証人とならないよう命じた。しかし禁止措置は実際には執行されていなかっ
た。
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g.国内外の紛争での過度の武力使用と人道法違反
いくつかの民族武装組織が、抵抗の度合いに差はあるものの、自治または独立を目指して
政府と戦闘を継続していた。こうした組織には、チン民族戦線(CNF)、ナガ民族評議会
(NNC)、アラカン・ロヒンギャ連帯機構(ARSO)、モン領土回復軍(MLRA)、シ
ャン州軍‐南部方面軍(SSA‐S)、カレンニー民族進歩党(KNPP)、カレン民族連合
(KNU)の軍事部門のカレン民族解放軍(KNLA)がある。最大組織のカレン民族連合
は、政府と2003年に和平交渉を開始し、拘束力の弱い停戦合意に至った。しかし雨季の
終わった2004年9月に、カレン州内の村への攻撃が再開されたとの信頼できる報告があ
る。2005年を通して、ビルマ国軍部隊とカレン民族解放軍部隊との間に複数の小競り合
いがあったが、より深刻な戦闘が9月にバゴー管区タウングーで勃発した。
4月に、シャン州民族軍(SSNA)は、シャン州軍‐南部方面軍と同盟することで反政
府民族武装組織の一員に復帰し、政府との停戦協定を破棄した最初の停戦組織となった。
信頼できる報告によれば、7月11日に子どもを含むカレン人住民27人が、カレン民族
連合と接触したとの嫌疑で逮捕され、後にビルマ軍に虐殺された。殺された人々は、タニン
ダーイー管区パラウ郡沖の島内の森で、潜伏して生活していた国内避難民(IDP)だった。
ある信頼できる報告によれば、12月23日にビルマ国軍第426および428大隊がカ
ヤー(カレンニー)州ヘーゴーベー村の26戸に火をつけ、住民610人は村を出て、隠れ
住むことを余儀なくされた。
2004年11月、バゴー管区ニャウンレービン県シュエジン郡の複数のカレン人の村を
国軍が襲撃し、家と備蓄米に火を放ったとの信頼できる報告がある。推計で水稲約2万バス
ケットが被害を受けた。2004年末には一連の襲撃が停止したと伝えられているが、強制
移住させられた住民は、
元の村があった場所に国軍の駐屯地を3つ建設するために強制労働
を課されており、民間人の強制追い立てが続いていた。
2004年11月と12月には、バゴー管区タウングー県で民間人に対する国軍の攻撃が
あり住民3,000人以上が家を奪われたとの信頼できる報告がある。伝えられるところに
よれば、被害を受けた住民は、カレン民族連合の旧支配地域へ通じる道路を建設するための
強制労働に徴用された。一連の工事は2005年を通して続いており、この地域では一番最
近では8月にも国軍とカレン民族解放軍との間で戦闘が発生したとの報告があった。
バゴー管区ニャウンレービン県北部モン郡では、地元住民が無理矢理自分の家を破壊させ
られ、モーダローに国軍の駐屯地を新設する労働に徴用されたとの信頼できる報告があった。
工事は2005年中も続けられた。
2005年にはカヤー州で民間人への攻撃が続いたとの信頼できる報告があった。伝えら
れるところによれば、国軍部隊は、バゴー管区タウングー県とカレン州北部のパプン県に逃
れたカレンニー避難民を引き続き追跡した。
紛争地域やその他の民族少数者の居住地域で強かん事件が引き続き発生した。5月と6月
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には、モン人のコミュニティ指導者から国軍に対し、国軍兵士が起こした少なくとも4件の
強かん事件の申し立てがなされた。そのうちの一つでは、強かんされた少女(14)の教師
がモン州イェ郡の大隊長に申し立てた。この事件は軍事法廷に掛けられ、兵士には7年の刑
が宣告された。大隊長は後日その少女の村の住民に対し、自分の娘たちをきちんと監督して
いないのが悪いと叱責した。それ以外の3つの事件で何らかの措置がとられたかは不明だ
7月にヤカイン州ポンナジュン郡の女性(24)が、チャヌンタウン警察署のシュエエイ
署長に強かんされたと申し立てた。この女性は事件を地元警察に報告し,郡の平和開発評議
会に報告したが,年末の時点で調査は一切行われなかった。9月8日に、チャウンタヤ海軍
基地のテインシュエ上級曹長がヤカイン州ミェボン郡の小学校教諭を強かんしたとの疑惑
があった。当局は家族が告発を見送り,事を荒立てないように圧力をかけた。
2004年1月、モン人権基金(HRFML、本部タイ)は、2003年にモン州南部で
始まった反政府民族武装勢力への攻撃の過程でビルマ軍兵士が行った5件の強かん事件に
関する報告書を発表した。この報告書はさらに、地元女性への強かんはビルマ軍部隊が習慣
的に行っていることであり、特に第299軽歩兵大隊は、モン人女性3人を毎日国軍基地内
で働かせるために徴用し、仕事が終わった女性を強かんすると指摘した。政府はこれらの事
件が記録として残されているにも関わらず、一切調査を行わず、この報告に公式に応答もし
なかった。
クリチャン・ソリダリティ・ワールドワイド(CSW)4の報告によれば、2004年4
月にシャン人女性がタイ国境付近でビルマ軍兵士に集団強かんされた。
複数のNGOの報告によれば、ビルマ軍兵士は2003年にシャン州やその他の民族的少
数者居住地域で非常に多くの女性を強かんした。例えば、シャン州では国軍部隊の隊長が、
夫を別の兵士に取り押さえさせた上で、女性(20)を強かんした。この女性と夫は地域の
平和開発評議会に強かん事件を申し立てた。しかし何の措置もとられなかったため、夫婦は
身の安全に不安を覚え、越境してタイに逃れた。2003年には、シャン州で隊長と兵士2
0人が女性一人を集団強かんした。
この指揮官は事件を通報したら村長と村民を罰すると脅
迫した。政府がこれらの人権侵害事例を調査したとの情報はなかった。
シャン州中部と南部では、治安部隊が引き続きシャン州軍‐南部方面軍と交戦状態にあっ
た。国軍はこの地域で住民の強制移住を引き続き行っており、殺害、強かんなどの民間人へ
の人権侵害が付随して発生したことが伝えられた。
カレン人NGOの消息筋によれば、和平交渉が断続的に行われていたにもかかわらず、2
005年にカレン州での人権侵害は増加した。報告によれば、バゴー管区タウングー郡西部
とニャウンレービン郡内でビルマ国軍とカレン民族解放軍との戦闘が発生した。
タウングー
の東を走る道路は起点から13マイル(約21キロメートル)より先が9月中数週間に渡っ
て閉鎖された。非常に多くのカレン人の村が襲撃・放火され、住民数百人が限られた物資だ
4
現在は英国に本部があるキリスト教系の人権団体。
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けを手に森に避難した。
以下の件については2003年から進展がなかった。カレン州パアン郡ノーアウラー村の
住民一人を、ビルマ国軍と民主カレン仏教徒軍(DKBA)の混成部隊が逮捕・拷問した事
件。この事件の被害者の男性はその場を逃れたところ、部隊は男性の母親から450米ドル
(45万チャット)と牛1頭を強奪した。また国軍兵士がシャジボ村の住民から200米ド
ル(20万チャット)相当の食糧を強奪し、ジピュゴン村の女性一人を拉致した事件。この
被害者が解放されたかは不明だった。この他に、カレン州ニャウンレービン県でチャウチー
郡トーンゲドー村の男性一人を国軍部隊が銃殺し、50米ドル(5万チャット)を奪った事
件についても進展がなかった。
2003年には、国軍兵士はナブエ郡の住民を徴用して弾薬や物資を運ばせるポーターと
しただけでなく、兵士の行軍時に地雷除去役をさせた5と伝えられる。このため住民や囚人
の多くが地雷の爆発で死亡あるいは負傷している。
政府はタイに拠点を置く複数の亡命組織を、マンダレーのゼイジョー市場で4月に起きた
爆弾事件、ラングーンの高級街区に5月7日に起きた3連続爆弾事件、2004年と200
5年中に発生した複数の小規模な爆弾事件の犯人だとした。政府の報告によれば、2003
年に反政府武装組織は重大な人権侵害を行った。例えば、政府は、バゴー管区ピュー郡で2
003年に映画館が爆発し、5人が負傷した事件の犯人をカレン民族連合だと主張した。同
連合側は関与を否定した。国連児童基金(ユニセフ)、アムネスティ・インターナショナル、
ヒューマンライツ・ウォッチ(本部、ニューヨーク)は、反政府武装勢力が、国軍部隊同様
に、子ども兵士を徴用していると報告した(セクション5参照)。
セクション2:市民的自由の尊重。以下の事項を含む
a.言論と報道の自由
法は政府に言論の自由と報道の自由の制限を許しており、
実際に政府は2005年中にこ
れらの自由を厳しく、組織的に制限し続けた。政府は、現体制を批判する政治的意見を表明
したとして、また反体制的な見解を掲載した出版物を配布または所持したとして、民間人を
逮捕、拘束し、起訴した上で有罪を宣告し、投獄することを引き続き行った(セクション1.
d、1.e参照)。治安機関も反体制的な意見を持つと見られる人物を監視し、嫌がらせを
行った。
言論の自由への法的規制は1996年以降強化されている。政府はこの年に「国家の安定
に支障を来たす」発言や文書を禁じる命令を発行した。国内全域で、政府は1990年総選
挙国会議員当選者などあらゆる人が、また政党指導者が、人々の前で行おうとする政府批判
5
兵士の前を行軍させて盾にすることを指す。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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2006 年 3 月 8 日
の一切を封じ込めるために暴力を引き続き用いた。政府は、これまでほぼ例外なく一貫して
この政策を維持している。
1月2日、政府はゾーテットゥエ氏を釈放した。氏は2003年、同氏が主宰するスポー
ツ誌「ファースト・イレブン」の編集者4人と共に、政府転覆計画に関与した容疑で逮捕さ
れた。しかし逮捕の実際の理由は、国内スポーツ界の汚職に関する記事を掲載したことだと
の見方もあった。政府は逮捕した編集者のうち3人を釈放したが、元学生指導者のゾーテッ
トゥエ氏、投獄中のNLD所属国会議員当選者の娘のソーパパフライン氏を起訴した。20
03年の後半に政府はゾーテットゥエ氏に死刑を宣告し、ソーパパフライン氏を釈放した。
2004年5月に政府は死刑判決を3年の刑へ減刑した。
12月13日、いくつかの政党の代表者計3人が内務省から呼び出しを受け、ほぼ終日拘
束された。3人はラジオのインタビューで憲法に関する話題に触れたことを非難され、制憲
国民会議の進捗状況を口外することは違法行為であることを重ねて確認させられた。
NLDは政治改革のための実質的な対話を求め続けており、政府の政策や行動を公に批判
した(セクション1.a、1.d参照)。2004年7月、NLDは、アウンサンスーチー
氏とティンウー氏の釈放と党事務所の再開を求める国家平和開発評議会(SPDC)宛書簡
への署名集めを行った。2004年8月、政府はNLD支持者9人を逮捕し、長期刑を宣告
した。2004年11月、ダヌビュー郡当局はNLD党員3人を逮捕した。ハンセイン、タ
ントゥッ、ウインマウンの3氏は容疑のないまま2週間拘束され、2004年11月になっ
て違法に「パンフレットを配布した」容疑で起訴された。しかし問題のパンフレットは合法
的に印刷され、NLD党本部で封筒に入れられて密封されたものだった。このため3人は別
の罪で裁かれた。集会と運動の権利を制限する国家法秩序回復評議会(SLORC)6命令
3/90違反とされ、5米ドル(5000チャット)の罰金(ほぼ1週間分の給料に相当)
か2ヵ月の服役を宣告された。3人は罰金を納めて釈放された。その後管区裁判所に上訴し
たが、2005年末の時点で裁判所は判断を示していない。
多くの著名な作家やジャーナリストが、政治的意見の表明を理由に投獄されたままだった。
NGOの国境なき記者団(RSF、本部パリ)によれば、2005年末の時点で少なくとも
6人のジャーナリストが投獄されていた。ハンタワディー・ディリー紙のウィンティン氏の
投獄は16年以上も続いている(セクション1.c参照)
。氏の他にはタウントゥン氏、タ
ンウィンフライン氏、モンユワアウンシン氏、ネーミン氏、ラジンラフトイ氏が獄中にいた。
2004年5月、裁判所は元BBC特派員のネーミン氏に対し、在タイの亡命団体に情報を
流したとして15年の刑を宣告した。政府検閲委員会は獄中者の著作について、出版と配布
を禁止している。
投獄されていたジャーナリストの釈放が2005年中にあったかどうかは不明である。
政府は日刊紙全紙および、国内のラジオとテレビの全放送設備を所有、管理している。こ
6
ビルマ軍事政権が1988年~1997年まで用いた自称。
20
ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
米国国務省民主主義・人権・労働局
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れら政府メディアは政府のプロパガンダ装置となっており、政府に反対する意見については、
それを批判する場合以外に報道することはなかった。部分的にだが例外と言える唯一の刊行
物は「ミャンマー・タイムズ」紙だった。同紙は在ラングーンの外国人向けに英語とビルマ
語で発行される週刊紙である。同紙の共同所有者ミャッスエ(サニースエ)氏と、父親で国
軍情報部局長室(OCMI)元職員テインシュエ准将は、2004年10月のキンニュン首
相粛正劇後に逮捕された。ミャッスエ氏の妻ヤミンティンアウン氏はこの人気週刊紙の大株
主だが、政府は氏に対して、株を政府系出版社に売却するよう圧力を掛けた。
「ミャンマー・
タイムズ」紙の検閲を受けており、内容も政府寄りだが、国連や国際機関による政策批判を
時折報道した。
民間出版社はすべて政府検閲委員会による出版前検閲の対象となったままだった。同委員
会の承認に時間が掛かることが一つの理由となり、民間の定期刊行物は週単位で刊行される
ことが多かった。しかし政府は週刊誌については、出版前検閲を免除する譲渡可能な証書を
発行している。結果的にタブロイド版の週刊紙が激増した。2005年中に政府は報道審査
委員会を改組した。同委員会はこれまで内務省の管轄にあったが、情報省の管轄下に移り、
出版社の免許申請を承認する際の手順が新しくなった。新規の免許は政府の縁故者に与えら
れた。政府は現地で発行されているすべての定期刊行物に対し、反政府派とその支持者を批
判する記事を掲載するよう命じた。こうした政策によって自己検閲が促進され、出版物は通
常、国内の政治ニュースや、経済や政治に関するデリケートな話題を扱わなかった。
輸入出版物は、原則的に政府検閲委員会による配布前検閲の対象となっていた。また政府
検閲委員会が承認していない出版物の所持は引き続き重大な法律違反とされた。
また政府は
外国で発行されたニュース雑誌の合法的な輸入を制限しており、外国の定期刊行物の購読を
妨害していた(セクション1.f参照)。しかし、外国語の新聞はラングーンで購入するこ
とができた。外国語の新聞と雑誌の一部は検閲なしで流通していた。
政府は外国人ジャーナリストへの査証の発給をほとんど行わなかった。例外として2月と
12月に制憲国民会議の再開時に査証規制が緩和され、主要通信社の特派員の一部が査証申
請を勧められた。当局はこれまで観光査証で入国した外国人ジャーナリストの一部を拘束、
送還している。こうした措置は2005年中にはとられなかった。2005年中に政府は何
度か記者会見を開き、最近の政治的話題についての見解を述べた。ラングーンでの連続爆弾
事件へのコメントや国際労働機関(ILO)批判などが行われた。国外の報道機関のビルマ
人代表者は記者会見への出席を許された。
貧困が蔓延し、識字率が高くないこと、またインフラ整備が遅れていることから、ラジオ
が最も重要なマスメディアであった。ニュースを伝える定期刊行物が都市部以外で流通する
ことはまずなかった。政府は引き続き、2局ある国内ラジオ局を独占し、管理下に置いてい
た。外国放送局にはラジオ・フリー・アジア(RFA)、ヴォイス・オブ・アメリカ(VO
A)、英国放送協会(BBC)、ビルマ民主の声(DVB)7が検閲を受けない情報の主要な
7
ノルウェーから民主化勢力が発信する短波放送。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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情報源だった。
7月4、5日に、政府はフラミンタン氏(NLDバゴー管区支部党員)と他7人を逮捕し
た。RFAとBBCのビルマ語放送を喫茶店で聞き、ニュースについてグループ討論した容
疑だった。フラミンタン氏以外は7月6日に釈放されたが、後日、別の2人と共にその7人
は再逮捕され、
「非合法組織」
(ビルマ自由労働組合連合=FTUB)との接触、衛星電話の
所持、同労連への強制労働に関する情報提供、タイへの非合法出国の容疑で起訴された。9
人は収容先のインセイン刑務所で11月11日に長期刑を宣告された。7人に8年の刑、ウ
ィンミン氏(バゴー出身)に17年の刑、ウェイリン氏(同)に25年の刑が宣告された。
2005年末の時点で全員は投獄されたままだった。被収容者の一人アウンミンテイン氏は
11月5日に刑務所内で死亡した。死因は不明である(セクション1.a、6.c参照)。
政府は国内テレビ局をすべて独占し、厳しい管理下に置いている。チャンネル数は国軍放
送を入れて3つだけである。一般人は手数料を支払えば衛星テレビ放送の受信装置を登録す
ることができた。非合法な衛星放送も利用可能だが、衛星放送は貧困にあえぐ国民の大部分
には高価すぎるものだった。テレビ・ビデオ法は国家検閲委員会の承認を受けていないビデ
オの公開、配布、所持を犯罪としている。2005年中に政府は未承認の外国製ビデオとD
VDの取り締まりを行い、多くの民間販売業者が閉店に追い込まれた。
政府はあらゆる文化行事を厳しく監視・検閲している。9月、韓国のポップス・グループ
が大きなコンサート会場を使う許可を取り消し、参加人数が限られるより小さな会場でコン
サートをさせた。政府は電子メディアへのアクセスを体系的に規制していた。すべてのコン
ピューター、ソフトウェア、関連する電信機器は登録が義務づけられており、未登録機器の
所持は投獄の対象とされていた(セクション1.f参照)
。
7月8日、ナイセインエイ氏(モン文学文化委員会議長)がモン州タンビューザヤッ郡で
逮捕された。モン王マヌハの退位と、モン州の古都タトンのビルマへの陥落を記念する行事
を同委員会が主催したことが理由だった。同委員会は1948年から活動を続けていたが、
解散を求められた。ナイセインエイ氏は2ヵ月後に釈放された。
8月26日、塾講師でNLD支持者のアウンペ氏が私塾法違反で3年の刑を宣告された。
氏は2月12日に逮捕された。容疑は生徒に国民的英雄アウンサン将軍の生涯について講義
し、将軍を讃える歌を唄ったことだった。
2004年11月まで、当時の国軍情報部局長室(OCMI)は国内最大級のインターネ
ット接続会社2社のうち、契約数の多い方を経営し、検閲付きのインターネット接続を有料
で提供していた。2004年11月以降、国軍通信部隊と通信郵便電信省が2社を管理下に
置いた8。国内には複数のインターネット・カフェが存在している。しかし利用料金は高く、
政府の規制によりウェブサイトへの自由なアクセスはできず、民間の無料電子メール9の利
8
2004年11月のキンニュン元首相の失脚が原因。国軍情報部局長室は元首相の勢力下にあった。
9
ヤフー・メール、ホットメール、Gmailなどを指す。
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用もできなかった。政府は電子メールによる通信をすべて検閲していた。
政府は学問の自由を制限していた。大学の教師と教授には言論の自由、政治活動、出版に
ついて他の国家公務員と同じ制限が引き続き加えられていた。教育省は教員に対し、政府批
判を行なわないよう常時警告していた。また教師に対し、政治問題を職場で話題にするなと
指導し、政党への加盟や支持、政治活動への参加を禁止し、外国人と会う際には事前に許可
をとることを求めた。国家公務員と同じく、教授と教師は政府の大衆動員組織である連邦団
結発展協会(USDA)への加盟を求められた。すべての教育機関の教員は学生の政治活動
への責任を引き続き負わされた。外国人は事前の許可なしに大学構内に入ることはできず、
卒業式など学生が参加する式典にも一切参加できなかった。
近年、政府は学生運動が起きる可能性を低くするための様々な措置を講じてきた。学部教
育用のキャンパスは郊外に移転させられた。教師と生徒は、騒乱を起こせば厳しく対処する
と警告され、大学内の寮は大半が閉鎖された。教育の質が著しく低下したため、自宅学習や
家庭教師 や私塾による講義を望む学生が多くなった。政府は、開校している大学以外の学
校の周囲を厳重に警備しており、その措置は夏期休暇中も続いた。
国内の私立教育機関は数が限られているが、政府は学校とその教育内容を厳しく管理した。
仏教の僧院学校、キリスト教神学校と日曜学校、マドラサ(イスラム神学校)にも同様の管
理が行われた。
b.平和的な集会と結社の自由
集会の自由
法は集会の自由を制限しており、政府は実際に規制を加えた。5人以上が許可なく屋外で
集まることを禁じる法令が一応存在しているが、常に適用されたわけではなかった。200
4年4月、政府はNLDに対して、2003年5月の襲撃事件以降閉鎖されていたラングー
ンの党本部の再開を許可した。しかしその他の党支部はすべて、政府の命令により閉鎖され
たままで、NLDは党本部の建物の外で党活動を行うことができなかった。NLD以外で合
法的に登録されている9つの政党については、
党員が参加する集会を行う際には政府に許可
を申請することが求められた。2005年にはNLDの事務所の外で政府の許可を得ずに集
会が行われた(例えばNLD女性部が毎週火曜日に行うシュエダゴン・パゴダへの礼拝)。
しかし治安組織はこれらの「非合法」活動を厳しく監視しており、政府は参加者に対して、
政治的な絵柄やスローガンの入った政党の缶バッジ、記章やジャケット、シャツを身につけ
ることを禁じた。
政府は1990年総選挙の結果に基づく国会召集を引き続き阻止した。2月17日、政府
は制憲国民会議を7カ月の中断後に再開した。
この会議は1990年総選挙の結果を「無効」
とし、新しい憲法を承認する民主制へのロードマップの一環である。しかし政府はNLDや
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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その他の民主化政党の参加を許可せず、参加者には会場外で会議の話をすることを禁じ、会
議や憲法草案を批判すれば厳罰に処すると脅した。国民会議は3月31日に休会し、12月
5日に再開した。
昨年までと異なり、政府当局はNLD党員の代表団に対し、殉教者の日10にアウンサンス
ーチー氏の父親であるアウンサン廟への墓参を許可した。しかし当局は、代表団がNLD党
員とわかる服装で墓参することを禁じた。
政府は宗教団体の集会を妨害することもあった(セクション2.c参照)。
結社の自由
政府は結社の自由を、特にNLD党員、民主化支持者、亡命組織と接触した人物に対して
制限していた。2005年中には、国外の亡命組織、とりわけビルマ自由労働組合連合(F
TUB)、NLD‐解放地域(NLD‐LA)、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)と「非
合法に接触」したとして、複数が逮捕あるいは有罪判決を受けており、一人は拘束中に死亡
している(セクション1.b、1.d、2.a参照)。ここ何年もの間、政府はNLD所属
の国会議員当選者を始めとする同党党員に対して役職の辞任を強要した。
アムネスティ・インターナショナルの報告によれば、2004年1月、政府はダゴン大学
の学生7人に対し、2003年に非合法組織(スポーツ団体)を結成したとして7年~15
年の刑を宣告した。
政府は公務員を連邦団結発展協会(USDA)に強制加盟させていた。政府は中等教育機
関と専門学校に通う学生に対し、履修登録時に協会への加盟を強要した。また熟練労働者や
職能団体の構成員にも協会への加盟を強要した。政府は協会員を動員して、政府が提示する
民主制への7段階ロードマップを支持する大規模な集会を行った。ミャンマー女性問題連盟
(MWAF)
、ミャンマー母子保健協会(MMCWA)は女性に対し、自団体が主催する会
議に参加するよう、また組織に加盟するよう引き続き強要していた。最近の事例では12月
15日にヤカイン州ポンナジュン郡で起きたものがある。郡当局はアウンピュビン、パダラ
イ、タイエッチョー、ヨタヨウ、パンニラの各村の女性に対して、地元の女性団体が主催す
る集会に参加するよう命令し、集会の場で参加者に正会員になるよう圧力を掛けた。
別の形で強要が行われたケースもある。チン州ティッディム郡当局は、ティッディム町と
周辺17カ村の住民に対し、3月21日にビルマ政府のイェミン中将が参加して行われるマ
ンサウン吊り橋の開通式への出席を命じた。移動手段は公共、民間とも存在しなかったので、
人々は会場まで最大6時間歩くか、欠席時の罰金として1.5米ドル(1500チャット)
を支払うかを選択することになった。
一般的に、結社の自由を認められたのは政府が認可した組織、例えば産業団体や職能団体、
10
アウンサン将軍が暗殺された毎年7月19日が記念日となっている。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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連邦団結発展協会などだけだった。非宗教的な非営利団体はほとんどなく、存在する団体は
政府の方針に沿った行動をとることに特別な配慮をした。
法に則って登録された10の政党
があるが、ほとんどが消滅寸前の状態だった。2005年中に当局は、国軍の支配に反対す
る反政府政党3党への嫌がらせと脅迫を行った。その他の合法7政党は、嫌がらせと脅迫を
受けない代わりに政府の政策を支持した。
c.信教の自由
信教の自由を保障する憲法上の規定はない。登録を行っている宗教の信者のほとんどは、
自らが選んだ宗教をおおむね自由に信仰することができる。しかし政府は一部の宗教行為に
規制を課し、仏教をそれ以外の宗教よりも奨励した。現実には、政府は人権や政治的自由を
擁護する仏教僧侶の活動も規制している。
政府は国内に張り巡らされた治安機関によって、ビルマ政府は宗教団体を含む、ほぼすべ
ての組織の集会や活動への潜入か監視を行っていた。宗教に関わる活動と組織は、表現と結
社の自由に対する規制の対象となっていた。
事実上すべての団体が、
宗教団体かどうかを問わず、政府への登録を義務付けられている。
政府の命令によって「純粋な」宗教団体は登録を免除されていたが、実際には登録された団
体だけに財産の売買や銀行口座の開設が許されていた。したがって大半の宗教団体が政府へ
の登録を行っている。さらに政府は登録した宗教団体に対して、一部の公共料金を優遇した。
国教はないが、政府は実際のところ、多数派宗教である上座部仏教を優遇してきた。政府は
2004年12月に「世界仏教徒会議」の受入を行った。軍人や公務員が昇進する際には、
一般にその人が仏教徒であることが条件となった。
2005年中には宗教暴動は報告されなかった。
「仏教と矛盾する有害な活動」
政府は仏教僧団(サンガ)11を引き続き管理しようとした。
を行ったとして僧団の成員(僧侶)を裁判に掛け、僧団に対して、刑事罰に基づく行動規範
を課した。2004年11月の報告書で、ビルマ政治囚支援協会(AAPP)は、投獄中の
僧侶と見習い僧の人数を約300人と推計した。政府は、政府に反対する僧侶をためらうこ
となく逮捕、投獄した。2003年、ラングーン管区のガバエーティピタカ・マハーガンダ
ーヨン僧院の僧侶26人12が軍政高官から施物を受け取るのを拒んだとして、政府によって
強制還俗させられ、7年から18年の刑を宣告された。全員が2005年7月6日の特赦で
釈放された。政府はまた僧団に、表現の自由と結社の自由に関する特別な規制を課した。例
えば、僧団の成員は政治に関する法話を行うことは許されなかった。宗教に関する講話には、
政治的見解を反映する言葉、文句、逸話があってはならず、僧団の成員は、政治や政党、政
11
僧侶の全国組織で日本仏教の宗派別組織に類似。
12
実際には見習僧。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
米国国務省民主主義・人権・労働局
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党の党員と距離を置くことが義務づけられている。政府は、国家サンガ大長老委員会(SM
NC)の権威に従属する公認僧団9宗派以外の仏教僧侶の組織を禁じた。政府はすべての聖
職者に対して、いかなる政党の党員になることも禁じた。
政府は、少数派の宗教団体による宗教的建造物の建設を引き続き規制し、宗教教育や改宗
に関する活動を制限した。特に仏教徒の改宗に熱心なキリスト教とムスリムの組織が対象と
なった。
9月2日、チョウッタダパベダン郡当局は、ラングーンの繁華街にある純福音アッセンブ
リー教会の指導者に対し、教会は住宅地内にあるので以後礼拝はできないと通告した。信徒
の大半はチン人であり、10年以上に渡って何のトラブルもなく礼拝を続けてきた。通知の
あった翌週、信徒はホテルの一室を借りて礼拝を行ったが、ホテル側は、次回以降は部屋を
貸さないとした。
2005年にはチン州での宗教弾圧が引き続き報告された。チン人権団体の報告によれば、
1月にビルマ国軍兵士は、チン州マツピの、とある丘の上の高さ50フィート(約16メー
トル)の十字架を破壊した。チン人キリスト教徒が、元々十字架のあった場所に仏教寺院を
強制的に建造させられたという報告もあった。
国内のほとんどの地域で、キリスト教徒やムスリムの団体が、大通りから一本入った通り
などの目立たない場所に小さな礼拝所を建てようとする場合、建設を進められることも時に
はあったが、それも地元当局の非公式な許可があったときに限られた。こうした団体の報告
によれば、正式な申請を行うと長期間待たされた上に拒否されることが多く、上部機関で決
定が覆される可能性もあった。2004年6月、チン人権団体は、チン州南部でのバプテス
ト教会の新築を許可した地元軍司令官の決定を、彼より上位の軍関係者が覆した事例を報告
している。
政府は上級公務員の扱いに関しても非仏教徒を差別していた。国家平和開発評議会と閣僚、
国軍の現役の将官クラスに非仏教徒は一人もいない。政府はムスリムの国軍への入隊を積極
的に妨害しており、少佐以上の昇進を望むキリスト教徒かムスリムの軍人は仏教への改宗を
勧められた。民族的少数者の居住地域の一部、例えばチン州では、ビルマ政府が、報償金や
昇進での優遇措置を用いて、国軍兵士がキリスト教徒チン人女性と結婚し、その女性にビル
マ語を教え、仏教に改宗させるように奨励したとの報告が複数あった。
政府はあらゆる聖職者による改宗行為を妨害した。キリスト教の一部宗派やイスラムなど
福音伝道型の宗教はこうした政府の規制に最も大きな影響を受けた。
政府は1960年代中
頃13に外国人宣教師をほぼ全員国外に追放し、私立学校や病院をほぼすべて国有化して以降、
外国の伝道組織が国内で布教活動をすることを通例許可していない。
当局は強制改宗作戦はやめたようだが、非仏教徒を仏教に改宗させるその他の手法が用い
られていることを示す証拠が引き続き存在した。キリスト教チン人は仏教学校や僧院に行く
13
ネウィン独裁政権の誕生後のこと。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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よう圧力を掛けられ、仏教への改宗を勧められた。2004年4月、亡命チン人権団体は、
地元当局がチン人牧師15人を、ビルマ人仏教徒との「団結」を示すためとして仏教の新年
行事に強制的に参加させたと報告した。この人権団体はまた、地元当局者はチン人キリスト
教徒の子どもを仏教の僧院に通わせて仏教の教えを学ばせ、親の認知も同意もないまま仏教
に改宗させたと主張した。政府がザガイン管区のナガ人を似たような方法で仏教に改宗させ
ようとしたことを示唆する複数の報告があった。
宗教関係の出版物は管理と検閲の対象となっていた(セクション2.a参照)。聖書もコ
ーランも輸入は許可されていない。しかし政府の許可があれば、聖書の民族語訳を地元で出
版することはできた。大部分のムスリムはコーランを翻訳するという考え方に反対している
が、要望があった場合には、コーランはビルマ語への翻訳のみが許可されており、それも出
版検閲委員会が出版とコミュニティへの配布を許可した場合に限られる。
国民と永住者には国民登録証の常時携帯義務が課せられていた。登録証には宗教と民族が
記載されていることが多い。登録証に宗教を記載すべきかどうかを定める一貫した基準はな
いようだった。国民にはまた、旅券申請時など一部の申請書類に自分の宗教を記入すること
が求められた。
社会的虐待と社会的差別
2005年中にはラングーンとアラカン州でムスリムと仏教僧侶との小競り合いが報告
された。最も深刻な事件はアラカン州チャウピューで1月に発生したものだった。暴動は数
日続き、ムスリム2人が死亡し、仏教僧侶1人が重傷を負った。ムスリム団体の中には、政
府は「分割統治」戦略の一環として、仏教徒とムスリムの対立を煽ったと批判するものもあ
った。伝えられるところによれば、2004年5月、タニンダーイー管区キュンス郡の仏教
徒住民が、ムスリム14家族を襲撃し、財産を破壊した。
ラングーン市内にはシナゴーグ(ユダヤ教会)が1カ所あった。地元の8家族のみが参加
して礼拝が行われている。反ユダヤ的行為の報告はなかった。
詳しい情報については、2005年版の「世界各国の信教の自由に関する年次報告書」を
参照のこと。
d.国内移動、外国渡航、移民、帰還の自由
政府は移動の自由を制限しているが、大多数の国民は国内を移動することができた。ただ
し、ヤカイン州を出入りし、同州内を移動するムスリムや、反対政党の党員の一部のような
二、三の例外はあった。しかし国民の移動は監視されており、地元当局に所在地を告げるこ
とが義務づけられていた(セクション1.f参照)。武力紛争地帯では移動は制限された。
国民は一方的に居住地の移動を命じられた。当局は、首都ラングーンでの党行事に参加する
ために上京したNLD党員に対し、ラングーンでの宿泊を禁じた。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
米国国務省民主主義・人権・労働局
2006 年 3 月 8 日
政府はNLD指導者アウンサンスーチー氏、ティンウー氏を引き続き自宅軟禁とし、他の
反対政党指導者についても移動の自由を厳しく制限した。2003年前半、政府系団体はラ
ングーン外を移動する反政府民主化政党党員への嫌がらせを激化させており、最終的に20
03年5月の襲撃事件を引き起こした。生存者の大半は襲撃後に逮捕、拘束され、最終的に
は釈放された(セクション1.d参照)。政府は民族指導者の移動に厳しい制限を引き続き
課し、国内移動時には毎回政府の許可を求めるように命じた。
民族的少数者が住み、以前は紛争の影響を受けていた地域、例えばイラワディ管区に広が
るカレン人の居住地域では、引き続き個人の移動に厳しい制限が課された。多数の検問所が
設置され、軍保安局(MAS)や国軍の守備隊による監視が行われた。国境地帯の検問所で
は「非公式税」つまり賄賂が徴収された。ヤカイン州では、多くの検査や検問所がムスリム
住民のみを対象としていた(セクション5参照)。
政府はムスリムであるロヒンギャ(彼らには完全な市民権が与えられていない)について、
バングラデシュ国境のブディタウン、チャウトー、マウンドー、ヤテタウン(ラテタウン)
各郡での移動を厳しく管理していた。政府はまた、その他の国民以外の人々(多くが南アジ
ア系か中国系)に対し、国内移動の際には事前に許可を取得することを義務づけていた。し
かし、中国、タイ、バングラデシュ、インドとの国境は監視が行き届いておらず、非正規移
民や商人が頻繁に行き来している。
普通の国民が国外に移動するには3つの書類が必要となる。すなわち内務省発行の旅券、
財務歳入省発行の収入証明書、移民人口省発行の出国申請書である。人身売買問題への対応
として、政府は書類の申請手続きを厳しくし、女性、特に25歳以下の女性の国外渡航を妨
害または制限した。
新しい旅券処理策が2004年8月に施行され、国民は国外渡航から帰国後も有効期間内
は旅券を保持できるようになった。すなわち、特に目的のない14旅行については1年、被扶
養家族については3年、就業については4年、商用渡航については1年半である。1月に政
府は新規旅券を申請から1週間以内に発給すると発表した。しかしいまだ旅券取得には数カ
月は掛かることが多い。
早く処理してもらうための賄賂を申請者が払おうとしない場合には
特にそうなる。
政府は旅券所持者全員について、予定されている国外渡航を入念に精査していた。旅券と
出国査証の発給に関する管理は厳しく、汚職の蔓延を引き起こした。申請者は賄賂として最
大300米ドル(30万チャット。給料1年分に相当)を強制的に払わされた。旅券発給申
請を審査する委員会は旅券発給を政治的理由で拒否した。旅券を取得した大卒者は(一部の
国家公務員を除いて)教育に掛かった費用を政府に返還するため、手数料を払うことを求め
られた。
合法的に国外移住した国民が親族訪問のために帰国するのは一般的に許可されており、国
14
観光などを指すと思われる。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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外に非合法に居住し、外国の市民権を取得した人物についても一部は帰国が可能だった。
政府はラングーンで生活する外交官と国連の外国人職員に対して、ラングーン外への移動
規制を緩和し、指定された観光地を事前許可なく訪れることは許可したが、その他の国内移
動には事前許可を求めた。赤十字国際委員会(ICRC)職員については事前許可を不要と
した。政府はビルマ在住の外国人および市民全員(外交官を除く)に対し、出国許可を申請
することを義務づけた。
居住してない外国人が国内の一部地域に移動する際の規制も緩和された。政府はまた団体
旅行者について「到着時査証発給」制度を開始したものの、取得にはインターネットで事前
に申請しておく必要があった。大使館は有効期間1カ月の観光査証を申請から24時間以内
におおむね発給している。しかし、いくつかのカテゴリーに属する申請者、たとえば人権活
動家、ジャーナリスト、外交官、政治家については、政府が容認するスポンサーの後援があ
るか、政府が認めた目的での渡航でない限り、入国査証を一様に拒否される。
撤廃された1974年憲法には国外追放の規定はなく、政府は国外追放処分を通例行わな
かった。しかし女性出家者ドー・ティッサワッディに出国するよう圧力を掛けたことは、追
放処分に等しいものだった。
政府は他国から送還されたビルマ国民を受け入れる法的手続を確立していない。
しかしこ
れまでにも政府は、タイから送還された非合法移民数千人を受け入れており、タイに住むカ
レン人難民の将来的な帰還については国際機関と予備的な議論を開始している。
嫌がらせ、弾圧の恐れ、社会経済状況の悪化によって、多くの国民が近隣国やそれ以外の
国へと引き続き出国した。民族的、宗教的少数者の多い国境地帯では、政府は強制労働の徴
用、土地の接収、食糧や金銭の強制提供、強制移住を引き続き行った。2005年中に治安
部隊がバゴー管区ニャウンレービン県の複数の村を燃やし、住民の帰還を阻止したとの信頼
できる報告があった(セクション1.g参照)
。
こうした一連の政策によって、タイ、インド、マレーシア、バングラデシュなど近隣国に
数十万の難民が生まれた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の報告によれば、20
05年末時点でチン人3~4万人が、難民や経済難民として、国境のインド側で劣悪な環境
下で生活していた。また同事務所からは、ヤカイン州出身のムスリム・ロヒンギャ2万2千
人がバングラデシュ側の2つの公式キャンプで生活しており、6千人以上がバングラデシュ
のテクナフ付近にある、
劣悪な状態の非公式難民キャンプで生活しているとの報告があった。
さらに信頼できる情報筋によれば、
10万人以上のロヒンギャ非合法移民がバングラデシュ
南東部のコックスバザール付近に定住している。
ヤカイン州に帰還したロヒンギャ・ムスリムはビルマ出国を非難されることはなかったが、
ロヒンギャだという事実によって差別を受けていた。帰還者の主張によれば、移動の範囲、
経済活動、教育を受ける機会、出産、死亡、婚姻の登録について制限を受けた。2005年
を通して、ヤカイン州のムスリム青年で州外の大学や医科大学への入学許可を得た者の多く
が、移動規制のために入学できなかった。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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2004年2月、政府は国連難民高等弁務官事務所に対し、カレン州、モン州、タニンダ
ーイー管区(いずれもタイ・ビルマ国境地帯)の、従来は立入禁止とされていた地域に調査
チームを派遣することを許可した。政府は同事務所と協力し、タイ側に住む難民の一部また
は全体を地元の村が受け入れるための計画を開始するにあたり、信頼関係を築くための初期
の訪問を許可した。2月に同事務所は、タイからの難民帰還を行うにふさわしい情勢ではな
いとの報告を行った。4月に政府は、何の説明もなく、同事務所が当該地域への訪問を続け
る許可を取り下げた。2005年末の時点で、政府は同事務所の現地職員に対し、タイ国境
付近の地域を訪問する許可を与えていた。
国内避難民(IDP)
国内には大量の国内避難民(IDP)が存在した。タイ側のNGO筋によれば、2005
年末時点で国内に50万人以上のIDPが存在した。
2005年を通して、ビルマ政府とカレン民族連合の間には停戦合意を結ぼうとする動き
が散発的にあったが、国軍は引き続き数千人の住民を虐待し、故郷から追い出した。特にカ
レン、カヤー、シャン各州での軍事作戦中に虐待が発生した(セクション1.f参照)。ク
リスチャン・ソリダリティ・ワールドワイド(CSW)とタイ側のNGO筋は、2004年
の早い時期にカレン人とカレンニー人5000人が、国軍の攻撃によって、カレン州とカレ
ンニー(カヤー)州の州境地域で住処を追われたと報告した。CSWはまた、国軍と同盟組
織のカレンニー連帯機構(KSO)の攻撃により、カレン州との州境地帯に住むカレンニー
人のうち1000人以上が住処を追われたと報告した。
カレン人団体の報告によれば、カレン州内での軍事攻撃は2004年2月で停止した。し
かし複数の信頼できる報告によれば、2004年9月にはバゴー管区タウングー付近のカレ
ン人住民に対し新たな攻撃があった。攻撃は2005年も続いた(セクション1.g参照)。
難民保護
1951年の難民の地位に関する条約と1967年の同議定書に沿って庇護や難民の地
位の付与を定める法はない。政府は難民を保護するための制度を設けていない。
2005年に同国へ正式に亡命を申し出た人物についての報告はない。強制送還について
の報告もなかった。
セクション3
政治的諸権利の尊重:市民が体制を変更する権利
国民には体制を変更する権利がなかった。ビルマ政府は1990年総選挙に基づく国会召
集を引き続き拒否していた。軍政は組織的な弾圧や脅迫を続けることで、国民が体制を変更
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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する権利を否定した。
1962年以来、現役の国軍将校が中央政府と地方政府の要職を占めており、ビルマ政府
は全省庁の最高幹部クラスに現役または退役将校を配置していた。2005年末の時点で、
現役または退役将校が、首相を含む38の大臣級の職のうち36と、ラングーンとマンダレ
ーの市長職を占めていた。
選挙と政治参加
1990年総選挙でNLDが勝利して以来、軍政は選挙結果に基づく国会召集を拒否し、
国会議員当選者の多くを資格剥奪、拘束または投獄してきた(セクション1.d、1.e参
照)。2004年には少なくとも4人のNLD所属国会議員当選者がビルマから脱出した。
2005年中に脱出した国会議員当選者は1人だけと見られる。
1998年、NLD執行部は他の民主化政党と共同で、残存する1990年総選挙の国会
議員当選者の過半数の委任状に基づき、国民議会代行委員会(CRPP)を設置した。同委
員会は、自らを国会召集まで国会を代行するものだとみなした。政府は報復を行い、NLD
を公的には禁止せずに破壊するための、持続的で組織的な作戦を開始した。当局はNLDの
党員や各地の党役員など数千人に脱党するよう圧力を掛け、全土で党事務所を閉鎖した。2
005年中には少なくとも国会議員当選者5人が投獄された。クントゥンウー氏、チョーキ
ン氏、チョーミン氏、チョーサン氏、ソーフライン氏である。国会議員当選者の一人ドクタ
ー・ミンナインは3月8日に釈放された。2005年末の時点で、当選者14人が政治的な
理由で収監されていた。
中には1990年代前半から過酷な条件の下で投獄されている人も
いる。
1990年総選挙ではNLD党員392人が当選した。このうち有効な当選者として残存
するのは130人だった。その他は亡命(19人)、死亡(73人)、強制辞職もしくは強制
的な不信任決議によって当選無効(170人)となった。辞職の場合の理由は様々だった。
例えば、連邦団結発展協会(USDA)は一部の国会議員当選者に対する「不信任」集会を
行った。同協会と政府当局者は本人だけでなく家族にも圧力を掛けた。
国会議員当選者は辞職強要の嫌がらせや圧力を受けた。2004年、シャン州北部の地元
当局はサイトゥンアウン氏(シャン諸民族民主連盟)に辞職を迫った。国会議員当選者タン
テイ氏(NLD所属、シャン州ラーショー)は政府による辞職強要に応じなかった。その結
果、警察は氏を逮捕した。合法的に登録した電子製品販売店を経営していた同氏の息子が、
「違法な」コードレス電話と電子製品を顧客に販売したという容疑だった。
この他に、NLDは党規律違反を理由に、また政府による同党そのものの非合法化を免れ
るために、党員46人について除名または資格停止処分を行った。除名された国会議員当選
者のうち9人は政府選挙管理委員会から無所属議員となることを許可された。国民議会代行
委員会は、国会議員当選者の資格剥奪処分をこれまで一切行っていない。
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2月17日、
政府は、2004年5月~7月の会期を最後に休会中だった制憲国民会議(初
会議は1993年~96年)を再招集した。当会議は、1990年総選挙の結果を無効にし、
新憲法制定を目指す7項目ロードマップの一環だった。政府は制憲国民会議を自ら指名した
1000人以上の代表で構成しており、その中には17の停戦組織の代表も含まれた。だが
政府は、1990年総選挙で議席を獲得したNLDやその他の政党など有力政党からの参加
を実質上拒み、新憲法草案作成についての自由な討論も禁じた。政府は憲法制定プロセスを
批判すれば、5~20年の刑に処すと警告した。制憲国民会議は3月31日に休会し、12
月5日に再開された。2005年末の時点で会議は開会中だった。
8月に国連総会に提出した報告書の中で、国連の人権状況に関する特別報告者は次のよう
な意見を述べた。「有力で代表権もある政治的アクターがこのプロセスから排除され、その
関与に制限が加えられ、
批判的な意見を表明することが許されず、民主化活動家が脅迫され、
拘束されている現状では、民主化プロセスというものが意味のないものになっている。」 彼
は続けてこのように述べた。「もし政治への参加に関する様々な制限が解除されず、反政府
民主化勢力の代表者が国民会議に参加できないのであれば、出来上がってくる憲法はいかな
るものであれ、信頼性を欠いたものとなるだろう。」
2004年8月に国連総会に提出した声明で、国連の人権状況に関する特別報告者は、政
府がタン・ラザリ・イスマイル国連事務総長特使との協力を再開することが「不可欠」だと
述べた。しかしニャンウィン外相は2005年7月にラオスで開かれたASEAN(東南ア
ジア諸国連合)地域フォーラム会期中にラザリ氏との会談を拒否した。
女性は、政治の場では指導的地位から排除されていた。国家平和開発評議会、内閣、最高
裁に女性または民族的少数者は一人もいない。
一部の少数者集団の成員は、完全な市民権と、政府や政治で役割を果たすことも否定され
ていた(セクション5参照)。
政府の汚職と透明性
汚職が政府と社会のあらゆるレベルで蔓延していた。経済学者と経営者層は、これをビル
マに投資し、ビジネスを行う際の最大の障壁の一つと捉えていた。複雑で頻繁に変わる規制
のあり方が汚職の温床となった。
当局が汚職取締法を適用することはほとんどなく、適用自体にも一貫性がない。同法が適
用されるのは往々にして、政府の面目が潰されるような類の目に余る汚職を行った職員につ
いて、軍政指導部が対策を講じようとした場合に限られた。2004年11月、ビルマ政府
は、失脚したキンニュン首相の追放を釈明する際、理由の一つに「賄賂と汚職」の容疑を挙
げた。同元首相は、インセイン刑務所内での秘密裁判により、賄賂、汚職、不服従など多数
の容疑について有罪判決を受け、44年の刑を宣告された。政府は執行猶予を決め、7月2
1日に元首相を刑務所から自宅に移して無期限自宅軟禁とした。元首相の家族と知人数百人
が元首相の追放後に拘束や尋問を受けた。国軍では、26人に上るキンニュンの部下が20
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05年中に様々な汚職の容疑で逮捕され、判決を受けた。刑期は12年~142年で、複数
回の終身刑を宣告された軍人もいた。軍政はまた、同元首相の支配下にあった情報部が管理
していた中国国境の検問所ムセでの汚職に関与したとして、国軍と3つの官庁の「職員」計
186人に有罪判決を下したと発表した。
政府は大半の公的書類の閲覧を許可しなかったし、閲覧を許可する法もない。政府のデー
タの大半は機密扱いか、政府の管理下に置かれている。政策決定過程は透明性を欠き、意志
決定ができるのは政府上層部に限られていた。新しい政策が公表されたり、公然と説明され
たりすることはなかった。
セクション4:人権侵害が疑われる事例に関して国際機関あるいは非政府組織
が行う調査への政府の態度
政府は、国内人権団体の独自活動を認めなかった。また人権状況に関する外部の調査には
依然として一般的に敵対的な態度をとった。
赤十字国際委員会(ICRC)や複数の国連機関以外に、約35の非政治的な国際人道N
GOが国内で活動している。この他にも2、3の団体が、常駐して活動を始めるために必要
な長期にわたる交渉をしながら暫定的な拠点を設けている。官庁の一部には、2004年に、
従来タブーとされた問題(人身売買、HIV/エイズ、子ども兵士、教育)に以前よりも積
極的に取り組む姿勢が見られたが、2005年半ばまでには、多くの国際人道NGOや国連
機関が、政府が民族的少数者の居住地域での活動を縮小せよとの圧力を強めていると報告し、
外国人職員が現地に行くことが以前よりも難しくなった。
一連の規制は2005年末までに、
一部の(ただし全部ではない)NGOと国連機関について、ある程度緩和された。
政府は、外国人ジャーナリスト、NGO職員、国連職員の一部、外交官に対し、一部地域
内での移動制限を強化した。人権活動家は、政府が認める保証人の後ろ盾があり、政府が認
めた目的での渡航でない限り、入国査証の発給を一様に拒否された(セクション2.
d参照)。
政府は外国人の動向を監視し、外国人と接触した国民を頻繁に尋問し、国民の表現と結社の
自由を規制し、政府の人権侵害に関する情報を外国人に提供した国民を逮捕する。こうした
ことすべてが、人権侵害に関する情報収集と調査を行う上での障害となった。人権侵害につ
いての報告は、特に刑務所内や民族的少数者の居住地域で起きた場合には、事件があったと
されてから何カ月あるいは何年も後でなされることが多く、立証不可能な場合がほとんどだ
った。
また政府は、首都ラングーンにある複数のNGOや人道団体、宗教団体の活動を厳しく規
制した。10月には、タイに本部を置くNGO「教育に魂を運動」15のラングーン事務所が
15
タイの著名な思想家で社会運動家のスラック・シワラック師が創設した。
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家宅捜索を受け、少なくとも職員一人が拘束された。このNGOは、現地のビルマ人学生に
コミュニティ・リーダーシップと持続可能な開発についてのトレーニングを行っていた。
国際NGOと国連機関の一部は、現地訪問の際に、政府側代表者を当該団体の負担で同行
させることを求められた。しかしこの規則は必ず適用されるわけではなかった。
(セクショ
ン1.f参照)。
赤十字国際委員会は民間人に対する援助プログラム(保護、リハビリテーション、基礎衛
生、保健)の大半を、シャン州以外で継続して実施した。同州では紛争地域への移動が制限
されたため、通常の独立した人道支援活動が不可能となり、活動の中断を余儀なくされた。
2003年に政府は、クーデター計画に関与したとし「政府に対する共同謀議」の容疑で
11人を逮捕、9人に死刑を言い渡した。裁判所はナインミンチー、シュエマン、エイミン
各氏に死刑判決を下したが、理由の一つとして、国際労働機関(ILO)と、タイを拠点と
する亡命労働団体のビルマ自由労働組合連合(FTUB)に接触したことが挙げられた。こ
れを受けたILOが外交的な働きかけを行った結果、特別上訴裁判所はナインミンチー氏と
エイミン氏への死刑判決を3年の刑にした。またシュエマン氏への刑を終身刑に減刑した。
2004年10月の決定で、シュエマン氏の刑期は5年に、他の二人については2年に短縮
された。ILOが働きかけを続けた末に、ナインミンチー氏とエイミン氏は1月3日に、シ
ュエマン氏は4月29日に刑務所から釈放された。エイミン氏は8月28日に、農民に法律
に関する助言をした容疑で再逮捕された。この農民たちの土地は、第40軽歩兵大隊に接収
された後、軍、地元当局、連邦団結発展協会(USDA)に分配されていた。10月31日、
バゴー管区ダイッウー郡裁判所は、エイミン氏に7年の刑を宣告した。容疑は「情報が事実
ではないことを知りながら、あるいはそう信じるに足るだけの根拠がありながら、誤った情
報を流した」ことだったが、これは農民たちにILOにこの問題を訴えるように助言したと
の疑惑をほのめかすものだった。氏は2005年末時点で刑務所に収容されていた。
2004年2月、政府と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、カレン州とタニン
ダーイー管区の従来立入禁止とされていた地域について、
同事務所が調査チームを派遣する
ことを許可する合意書に調印した(セクション2.d参照)。同事務所はその後当該地域に
「アセスメントのための」訪問を行ったが、4月に政府は同事務所について、当該地域への
訪問許可を取り消した。
度重なる要求にも関わらず、政府は国連の人権状況に関する特別報告者のビルマ訪問を、
2005年中には許可しなかった。2003年に特別報告者は同国を2度訪問した。8月に
国連総会に提出した中間報告の中で、特別報告者は、前回の報告以来「基本的諸権利と諸自
由の行使に関する状況には実質的な変化がない」と述べた。また「基本的諸権利や諸自由の
制限や侵害についての事例報告が絶えず寄せられている」と述べた。
政府人権委員会は内相が委員長を務め、警察長官が参加していた。2005年中に人権委
員会委員は、国連機関主催の人身売買に関するセミナーに複数回参加した。政府は労働に関
する違反行為についてのILOの申し立てを受け取り、事例については調査中だと発表した。
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1月には複数の職員が強制労働に関する違反行為で逮捕、訴追されており、数カ月投獄され
た後に釈放された(セクション6.c参照)。
セクション5
差別、社会的抑圧および人身売買
ビルマ政府は命令による統治を引き続き行い、
差別に関する憲法上のいかなる条項にも拘
束されなかった。
女性
女性へのドメスティック・バイオレンス(配偶者からの虐待を含む)が問題となっていた。
しかし、配偶者からの虐待やドメスティック・バイオレンスに関する統計を政府が発表して
いないため、その程度を判断することは難しかった。政府系組織のミャンマー女性問題連盟
(MWAF)は、警察など地元当局に働きかけ、配偶者による暴力を含むドメスティック・
バイオレンスの事例を調査するよう求めることがあった。
強かんは違法である。しかし配偶者による強かんは、妻が12歳以下でなければ犯罪では
ない。既婚女性は拡大家族と同居することが多く、その社会的圧力が妻を虐待から守る傾向
があった。政府は強かんに関する統計を発表していない。だが政府は、強かんは人口の多い
都市部ではそれほど発生しておらず、地方でよく発生していると述べた。にもかかわらず、
日没後に男性の付き添いなしで女性が移動するのは危険だというのが一般的な見方であり、
一般に雇用者は女性を夜間に安全に帰宅させるために、バスかトラックを手配しなければな
らなかった。夜間のタクシー利用は、特に女性にとっては、強かんや強盗のリスクがあるた
めに危険だと考えられていた。夜間に移動する売春婦(原文ママ)は総じて、タクシー運転
手に高額な追加料金を払わなければ、強かんや強盗の被害に遭う、または警察に引き渡され
る恐れがあった。NGOや外交官筋からの信頼できる報告によると、警察に拘留された売春
婦は、警官による強かんや強盗の被害を受けることがあった。紛争地帯や民族的少数者の居
住地域での強かん事件が引き続き発生していた(セクション1.g参照)。
売春は法によって禁止され、3年の刑が科せられる。しかし最近になって都市部、特に首
都ラングーンの「ボーダー・タウン」や「ニュー・タウン」と呼ばれる地域の一部で売春が
著しく増加している。この地域の住民の大半は、市内の旧地区から強制移住させられた貧し
い世帯が占めている。2003年の信頼できる報告によれば、女性売春婦が多数投獄されて
おり、獄中では身体への虐待や言葉による虐待にさらされていた。政府と少なくとも1つの
国際NGOが元売春婦のための学校を運営するほか、社会復帰プログラムも提供している。
セクシュアル・ハラスメントを禁止する法はない。
伝統文化に従い、女性は結婚後も元の名前を名乗り、家計を切り盛りすることが多い。し
かし女性は、伝統的に男性が従事してきた職業の大半で働くことがまだまだ少なく、国軍将
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校などいくつかの職業については実質的な排除が続いていた。女性は男性よりも貧困による
影響を受けやすかった。
女性には同一価値労働同一賃金が常時支給されていたわけではなか
った。法によれば女性には最大26週分の妊娠・出産支援策を受ける権利があったが、実際
には給付されていないことが多かった。
女性の権利を擁護する独立した団体は存在しないが、政府と関係のある団体は複数存在し
た。ミャンマー女性問題連盟は、2003年12月に結成され、首相のソーウィン将軍の妻
が会長を務めており、女性の権利擁護に取り組む有力な「非政府」組織だった。同連盟は国
内14の州と管区すべてに支部があり、女性の利害を擁護する最大の政府系組織だった。ミ
ャンマー母子保健協会(MMCWA)も政府が管理する団体で、女性と子どもへの支援を行
っていた。ミャンマー女性企業者協会は、女性実業家の職業団体で、起業する女性に融資を
行っていた。
子ども
18歳以下の子どもは人口の約4割を占めた。極貧の両親によって学校を辞めさせられ、
物乞いをさせられる、あるいは工場や喫茶店で働かされる場合があったため、子どもは大き
な危険にさらされていた。孤児院に預けられる子どももいた。技能をほとんど、あるいはま
ったく身につけていない状態で、インフォーマル経済や街頭での労働に従事する子どもが増
加しており、そうした子どもは職場で薬物、軽犯罪、逮捕の危険、性的虐待、搾取、HIV
/エイズの危険にさらされた。
適切な児童保護制度や少年司法制度は存在しなかった。この分野に関する取り組みは、リ
ソース不足によって厳しく制約されていた。社会福祉局(DSW)が担当となって、社会福
祉サービスをわずかながら供給しているが、行政が任命するソーシャル・ワーカーはわずか
数人だった。
政府は国連子どもの権利委員会に協力した。2004年6月、同委員会の議長がビルマを
訪問した。国連児童基金(ユニセフ)の報告によれば、同基金は社会福祉局および教育省と
実務上の緊密な関係を築いており、初等教育と少数言語教育の分野で支援を行った。宗教的
な社会活動団体や仏教僧侶、女性出家者、地域で活動する民間団体も、教育などの分野で子
どもへの援助を行った。
政府は公教育に対し、相変わらずほんのわずかなリソースを割り当てるに留まった。20
05会計年度(2005年4月~2006年3月)に関する政府の公式数値によれば、一般
教育全体への公的支出には国家予算の8.9%が割り当てられていた。しかし主要な国際機
関は実際の数字をもっと低く見積もっている。公教育は10年生(16歳頃)16まで名目上
は無料とされた。しかし公立学校の教師の月給は平均でわずか5.3米ドル(5,300チ
ャット)に過ぎず、最低生活賃金よりも低いため、多くの教師が離職するか、教え子に追加
16
日本での高校3年生に相当する。
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負担を求めざる得ない状況に置かれていた。したがって多くの家庭が子どもの学校教育につ
いて、初等教育の段階ですら、金銭を負担する必要に迫られた。タイで活動するカチン人女
性団体によれば、カチン州内の世帯は、子どもを10年生に通わせるために年間300米ド
ル(30万チャット)もの負担を求められた。これはビルマの平均年収を上回る額である。
家庭が非公式な支出を負担できない一部の地域では、教師が教えるのを止めることが一般化
していた。政府が対策を講じていないために、民間団体が、私立学校の運営が法で禁止され
ているにも関わらず、教育支援に着手していた。
学校は4年生までが義務教育である。ユニセフの報告によれば、小学生の5割が4年生終
了以前に退学していた。2005年に学校の出席率と学業成績は低下したが、大きな原因は
経済的苦境であり、生徒が家政婦や都市部の喫茶店で接客係として働き口を探さざるを得な
かったためだ。男女間で学校の出席率に差はなかった。
政府は地方で仏教僧院学校を推進しており、ラングーンとマンダレーの仏教大学に補助金
を支出した。民族的少数者の居住地域では、政府は現地語による教育を禁止することが多か
った。
政府による医療の提供がきわめて立ち後れていることも、子どもに悪影響を与えていた。
政府の公式数値によれば、2005年度の保健省予算は全政府支出のわずか3.3%だった。
政府は防衛費支出を総予算の24%と控えめに提示しているが、国外のビルマ専門家の多く
はこれを現実とかけ離れた低い数字だと考えている。政府が小児医療の提供に関して男女差
別を行っているとの報告はなかった。5歳以下の1000人当たり乳幼児死亡率は、推計で
66(ミャンマー保健省、2003年)~109(国連開発計画=UNDP、2004年)
の開きがあった。死亡例の4分の3は生後1年以内のもので、1000人当たり乳児死亡率
は50~77だった(典拠は同上)
。幼児死亡例の多くは生後1カ月以内のものだった。本
報告が参照したデータはいずれも、
地方の死亡率が都市部に比べ、少なくとも25%は高く、
特に「丘陵地帯」と「中央平原地帯」で最も死亡率が高いと推計している。ユニセフによれ
ば、生後6カ月~59カ月の乳幼児の死亡原因の最大56%が、栄養不足と感染症である可
能性があった。ビルマ全土では体重不足と成長阻害が32%、体力の消耗が8.6%だった。
2005年に世界食糧計画(WFP)の代表が行った推計によれば、シャン州と中央乾燥地
帯で「労働の対価としての食糧援助(フード・フォー・ワーク)」17に取り組んでいるが、
子どもの33%が慢性的な栄養失調になっていた。
法によって児童虐待は禁じられている。政府は、児童虐待は深刻な問題ではないと表明し
たが、主張を裏付ける統計は提示しなかった。2004年5月に国連子どもの権利委員会は、
ビルマ政府による第2回定期報告書を検討した。同委員会は最終意見を表明し、委員会は依
然として「子どもに対する肉体的、性的虐待と養育放棄を含むドメスティック・バイオレン
17
同基金のWebサイトによれば「地域社会の自立を促すことを目的としたプロジェクト」であり、
「生活
するうえで必要な農地や社会インフラを整備するプロジェクトを受益者参加型事業として実施し、その労
働の対価として基本的な食糧を支給」する事業。
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スを予防し対策を講じる適切な処置やメカニズム、リソースが不足していること、虐待を受
けた子どもへの対策が限定的なものであること、また以上の事項に関するデータが不足して
いることに重大な懸念を抱いている」とした。
子ども買春と買春目的の少女の人身売買が、特にタイに送られる、または誘い出されるシ
ャン人の少女に関して、依然として大きな問題だった。ラングーンとマンダレーについて、
外交官による代表団は、10代前半と思われる女性売春婦の雇用が拡大していること、彼女
たちに大きな需要があると伝えられることを指摘した。さらに一部の売春宿は、十代の若い
女性の「処女」をかなり高額の追加料金で客に提供していた。2004年6月の国連子ども
の権利委員会の報告書は次のようなコメントを記した。「本委員会は、買春やポルノなどの
性的搾取の被害を受ける子どもの数が、特に児童労働を行う子どもたちやストリート・チル
ドレンの間で、増加していることを懸念する。また、こうした被害や搾取の犠牲となった子
どもたちの肉体的、心理的回復や社会への再統合のためのプログラムが依然として不十分で
不適切であることに懸念を表明する。」
5月に発行された報告書「"Driven Away":中国-ビルマ国境で起きているカチン民族女
性の人身売買」18で、タイ・カチン女性協会(KWAT)は、カチン人の少女と成人女性の
中国への人身売買の状況を文書化した。女性たちは、就労のため中国に入ったことになって
いるが、実際には強制売春させられるか、地元で結婚相手が見つけられない中国人男性の花
嫁として強制結婚させられていた。原因は中国の「一人っ子」政策と、子どもに男の子を好
む中国人の伝統にあるとされた19。拘束先からの脱出に成功したカチン人女性85人20への
インタビューによると、10%がビルマ国内に売られており、約5割が中国人男性の結婚相
手になっていた。中国東北部で結婚させられたケースもあった。
国軍への入隊開始年齢は18歳と定められているが、志願兵については15歳以上なら未
成年者でも採用することが認められていた。政策のレベルでは、子ども兵士の徴兵は行って
いないというのが政府の見解だが、採用担当者はこの方針をたびたび無視していた。3月1
5日の記者会見で、政府は「無能な」採用担当者が未成年者を入隊させたことを認めたが、
2003年にこうした採用者5人に「措置を講じた」と主張した。また政府は、強制徴兵し
た子ども兵士を2003年には75人、2004年には50人、家族の元に帰したと主張し
た。2004年1月、政府は子ども兵士徴兵防止委員会(CPRCS)を設置し、2004
年8月に再度会合を行った際には、
子ども兵士を徴兵した者を罰する新しい規則と規制を公
布したとされている。2004年3月、外交団は、当局がラングーンで子ども12人以上を
逮捕し、強制入隊させたとの報告を受けた。過去には国軍が、表向きは完全志願制とされる
国軍の定員を充足させるために子どもを採用作戦の標的としていたが、伝えられるところに
よれば、少なくともラングーンではこうした活動はすでに一般的ではなくなっていると見ら
18
日本語版は在日カチン女性協会(KWATJ)が発行する。
19
中国では子どもの男女比が男性過多になっていることを指す。
20
正確には、14~20歳の少女と成人女性。
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れる。
2004年6月、国連子どもの権利委員会は、政府による子ども兵士徴兵防止委員会の設
置を歓迎したが、他方で「武力紛争が子どもに与える影響、特に政府軍と武装民族勢力の双
方が15歳以下の子どもを兵士として使用していることが及ぼす影響への懸念」
を引き続き
抱いているとした。
国軍による子ども兵士の強制徴兵が依然行われていることを示す証拠があった。
国際メディアの報道によれば、4月23日、未成年の兵士2人がビルマ軍からカレンニー
民族進歩党へ戦闘中に投降した。ミョーミン二等兵(15)とソートゥ二等兵(16)は、
共に第55師団第112軽歩兵大隊(シャン州カロー)所属だと述べた。ミョーミン君は、
2004年12月、ザガイン管区シュエボーで給仕をしていた時に強制徴兵されたと述べた。
ミョーミン君は軍隊に入るか刑務所に入るかを選ばされた。そして兵士になることを選んだ
が、母親への連絡を許可されなかったため、自分の身に何が起きたのかを母親がまだ知らな
いのではないかと懸念していた。4カ月間の訓練後に、軍当局からティッパウンゼイッの駐
屯地に配属したが、ミョーミン君はそれから1カ月も経たずに脱走した。ソートゥ君もミョ
ーミン君をと同じような経験をしており、半年従軍した後に脱走した。
2005年に、国際労働機関(ILO)はアウンミョーパイン二等兵(16)のケースを
解決することができなかった。同二等兵は所属連隊である第6歩兵大隊(ラングーン管区シ
ュエピタ近郊)から脱走し、ILOに軍から除隊する手助けを求めた。ILOは子ども兵士
徴兵防止委員会(CPRCS)に書簡を送り、同二等兵の除隊を許可するよう求めた。しか
し連隊長はアウンミョーパイン君を軍事法廷で裁き、1年の刑を宣告した。別の事例では、
所属部隊から脱走したとされる子ども兵士が逮捕された後、前線への移動を命じられていた。
ILOの支援により、強制徴兵された未成年兵士数人が解放された。2004年、ILO
は政府に対し、子どもが強制的に国軍に入隊させられたとする9つの訴えについて政府に通
知した。うち2つは有期刑を宣告されている少年たちと、脱走の罪で軍法会議に掛けられて
いる少年たちの事例だった。政府はこれらのILOの調査の一部に協力しており、独自調査
を行い、8つの事例についてILOに報告したものの、強制徴兵は一切なかったと主張した。
うち2つについては、部隊は少年たちを釈放して家に帰したが、それ以外には何の措置も講
じられなかった。また5つについて政府は、少年たちは皆18歳以上だったとした。政府は
子ども兵士とされた人物のうち1人を特定することができなかった。
国連消息筋によれば、2004年11月に兵士3人からなる国軍の徴兵チームがラングー
ン管区トングワ郡セーユワ村を訪れた。4人の青年がトングワ郡ミンガラドンの国軍徴兵所
への同行を求められた。住民によれば、この4人はその後パテインの国軍第6訓練所に送ら
れた。徴兵された学生4人の親は、子ども兵士徴兵防止委員会に訴えた。
2004年、ビルマ国軍は、国連の代表団を2カ所の新兵訓練所に案内したが、当然なが
ら、代表団は訪問中に未成年の子どもが徴兵された形跡を目にすることは一切なかった。国
外のビルマ問題専門家筋には、国軍による強制徴兵容疑を独自に調査するために必要な、自
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由なアクセスが禁止されていた。
複数の国際NGOと国際機関が子どもの権利を擁護する活動を国内で行った。赤十字国際
委員会(ICRC)、ワールド・ヴィジョン、セーブ・ザ・チルドレン英国支部、ケア(C
ARE)、国連児童基金(ユニセフ)、国連開発計画(UNDP)と外国政府である。ユニセ
フは2004年に活動を拡大し、子ども保護を専門とするセクションを設けた。2004年
6月、ユニセフは、ビルマ最高裁判所と共同で「少年司法と子どもの保護に関する全国ワー
クショップ」を開催した。ワークショップは既存の少年司法制度の強化を目指す行動計画を
策定した。
民族的少数者の停戦組織と反政府武装勢力も子ども兵士を強制徴兵しており、大量の子ど
もがこうした組織で、なかでもワ州連合軍(UWSA)で兵役に就いていた。武装勢力の支
配地域には近づけないため、民族武装勢力でこの問題がどのくらいの広がりを見せているか
については、信頼できるデータを収集することが難しかった。
人身売買
9月13日、政府は人身売買取締法を制定した。この新法は、これまで人身売買を取り締
まってきた、誘拐禁止法、売春禁止法のほか、子どもの売買や虐待、搾取を禁じた子ども法
などの複数の法律の組み合わせに代わるものである。
子ども買春と子どもポルノの取り締まりに特化した法があるが、効果的な運用はなされな
かった。2004年5月の、あるNGOの報告によれば、政府は子どもの性的虐待について
外国人1人を逮捕、訴追し、有罪判決を下した。伝えられるところによると、これが子ども
の性的虐待についての初の有罪判決だった。タイからの報告によれば、同国でのHIVの感
染率増加に伴い、「より安全」と思われている年少の売春婦への需要が強まっており、その
多くがビルマ出身者だった。ビルマ国内での子どもの売買の問題も深刻化していると見られ
るが、その程度を示す信頼できる統計は存在しなかった。
政府によれば、人身売買業者342人に対し、5年以下(78人)~終身刑(2人)の判
決が2002年7月~2004年7月の間に下された。5年~10年の刑を科された者が1
17人でもっとも多かった。政府によれば、この期間に474件を訴追し、485件の有罪
判決を下した(同一人物に複数の判決が下されたケースが存在する)
。政府は人身売買業者
と密輸人との区別をしていないため、有罪とされた人身売買業者の数は、実際のところおそ
らくもっと少ない。政府のデータによれば、タイが人身売買被害者の最も多い送出先(約8
0%)で、中国、バングラデシュ、インドにはタイよりずっと少ない人数が直接送り出され
ていた。内務省はまた、2001年~2004年の間に、国境地帯に住む約70万2千人に
人身売買についての情報を配布したと報告した。
当局者は人身売買の防止と人身売買業者の訴追の重要性を認識していた。政府はこの分野
で国内外のNGOとの協力を拡大した。2004年4月、政府は「犯罪に関する相互協力法」
を発布した。同法は国際犯罪(人身売買など)の捜査について国際協力を可能にするもので
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
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ある。
人身売買に反対するメコン大臣級協調イニシアティブ(COMMIT)がラングーンで2
004年10月に開催された。会議では関連する諸問題での協力を約束する覚書が調印され、
行動計画が策定された。ビルマ、カンボジア、中国、ラオス、タイ、ベトナムから高官およ
び閣僚レベルの当局者が参加した。3月にビルマの当局者は、ベトナムのハノイで開かれた
COMMITのフォロー・アップ会合に、他国の当局者と共に参加して、人身売買防止のた
めの域内行動計画を完成させた。
2004年、
国連機関とNGOは、政府について、
人身売買に取り組む政治的意志を示し、
国際社会との協力態度にも改善があったことを評価した。2004年3月、政府は国際組織
犯罪対策局を新設した。警視副総監が局長を務め、薬物以外の分野で国際犯罪に対処する。
同局には人身売買を扱う40人の部署がある。
2005年を通して、政府は人身売買に関してわずかな成果しかあげていない。政府の執
拗な治安管理措置、情報の自由な流通への様々な規制、そして透明性の欠落は、ビルマ国内
での人身売買の実態を包括的に把握する障害となった。同国からの人身売買が相当な規模で
ある点で専門家は一致するが、政府を含めた一切の組織には被害者の人数を推計する能力も、
意志もなかった。政府は、政府が行ったとする人身売買対策に関して、独立の評価を受ける
ことを拒否した。
成人女性と少女が売買される先はタイのほか、中国、インド、バングラデシュ、パキスタ
ン、マレーシア、日本、中東諸国で、その目的は性的搾取や工場労働のほか、召使いにさせ
ることだった。こうした人身売買も問題だった。シャン人などの民族的少数者の成人女性と
少女は、ビルマ北部で国境を越えて売買させられ、カレン人とモン人の成人女性と少女は南
部で国境を越えていた。国内での人身売買も行われており、一般的な人の動きには、貧しい
農村地帯や都市中心部から、買春が盛んな地域(物流ルート、鉱山地区、軍基地)に向かう
ものと、タイ、中国、インドの国境地帯に向かうものがあることを示す証拠もあった。伝え
られるところによれば、
成人男性や少年も性的搾取や就労のために、外国へ売買されていた。
ほとんどの専門家はこうした被害者を少なくとも年間数千人と捉えていたが、信頼できる推
計値は存在しなかった。
大半の人身売買業者は組織には属せず、小規模に活動している模様だった。業者は村のつ
てをたどって、より力のある人身売買の「ブローカー」に被害者を引き渡していた。
内務省は、政府関係者は人身売買に一切関与していないとの立場だが、地方政府の当局者
には汚職が蔓延していた。NGOの報告によれば、政府関係者の人身売買への関与はあるが、
それは土地や地方の当局者が人身売買を見て見ぬふりをする程度に限られていた。またNG
O筋は、警官が個人のレベルで、経済移民や、その他の出国する人々から金銭を恐喝してい
るらしいと報告した。
近年、政府は女性が人身売買の被害者として海外に流出するのを防ぐことを名目として、
独身女性の旅券取得や外国人との婚姻に規制を加えている(セクション1.f、2.
d参照)。
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さらに規制によって、25歳以下の女性は後見人の同行なしに越境することが禁止されてい
た。しかし強制的に、または騙されて売春を行うビルマ人のほとんどは、旅券なしでタイ側
に越境していた。社会福祉局(DSW)によると、政府は人身売買被害者の家族を見つけ、
本人の帰国を支援する取り組みに着手している。
政府はタイ・ビルマ国境に帰国者用施設を設けており、2001年からこれまでに不法移
民10,500人(人身売買被害者だけではない)を扱ったと推計される。2004年、2
9人もの人身売買被害者がマレーシアとタイから帰郷した。2005年1月~6月の間に、
マレーシア、タイ両政府はビルマに人身売買被害女性76人を帰国させたと伝えられる。人
数は昨年よりも増えた。
ミャンマー女性問題連盟(MWAF)と社会福祉局は、家族の元に戻る前の人身売買被害
者に対し、ある程度のカウンセリングと職業訓練を提供した。同局はまた、人身売買被害者
の同定と援助提供に関する公務員向け研修を実施した。政府はタイから帰国した人身売買被
害者に医療と住居を提供した。しかし政府がこれらの事業に拠出した金額は非常に少なかっ
た。被害者がビルマ帰国後に逮捕された事例は報告されなかった。人身売買被害者が人身売
買業者を訴えた事例の報告はなかった。
複数のNGOが人身売買対策として貧困改善や教育を目的とする事業を行った。
これらの
事業は一定の成果を収めたと伝えられている。
障碍者
政府は障碍者について、雇用、医療へのアクセス、教育、その他の国家によるサービスの
提供に関する積極的な差別を行わなかったが、障害者支援のリソースはほとんどなかった。
建物や公共交通機関、政府施設でのバリアフリーを義務づける法は存在せず、障碍者は社会
的差別に直面していた。
いくつかの小規模な国内外のNGOが障害者支援に取り組んでいた
が、ほとんどの障碍者は自らの生活を家族に全面的に依存せざるを得ない状況にあった。
傷痍軍人は優先的な便宜供与を受け、健常者と同額の給料となる公務員職に就くことが多
かった。原則的には、軍人以外の障碍者への公的支援は、一時的障碍については1年以内に
限り収入の3分の2が補償され、恒久的障碍については年金(免税対象)が支払われること
になっていた。しかし政府は障碍者となった人に対し、民間部門での就労保障を行わなかっ
た。
保健省が障碍者の医療面でのリハビリを担当し、社会福祉省が職業訓練を担当している。
政府は盲学校3校、聾学校2校のほか、リハビリ施設については成人用と子供用を各2校運
営していた。政府は障碍者の学校と事業内容に対して不十分な予算しか拠出しなかった。国
内NGOが盲学校4校を運営していた。
赤十字国際委員会(ICRC)は地雷被害者へのリハビリ事業を引き続き行った。民間人
か軍人かを問わず、地雷によって手足を失った人を対象とした。カレン州パアンで整形外科
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のリハビリ施設を運営するほか、国境の奥まった村にいる、弱い立場に置かれた地雷被害者
を特定し、同委員会による義足事業を受けられるようにするアウトリーチ事業に積極的に取
り組んだ。
国籍、人種、民族に基づく少数者
少数者に対する政府による差別、社会的差別が様々な領域で依然として続いていた。国内
の数多い民族的少数者と、独立以来今日まで政府と国軍を支配してきた多数派ビルマ民族21
との対立は、依然として武力紛争の原因となっており、これによって2005年にも深刻な
人権侵害が生じた。伝えられるところによれば、侵害行為の内容は殺害、殴打、拷問、強制
労働、強制移住、強かんであり、チン、カチン、カレンニー、シャン、モンやその他の民族
集団に対し、国軍兵士が行ったものだった。民族武装勢力が人権侵害を行った可能性もある
が、ビルマ国軍と比べると非常に小規模だった(セクション1.a、1.c、1.f、1.
g参照)。
一族が長年ビルマ国内に住んでいることを証明できる人にのみ完全な国籍が与えられた。
ビルマに生まれたが、原住民族とはされない人々(中国系、インド系、ベンガル系、ロヒン
ギャ)は完全な市民権を与えられず、公務員になることができなかった。ヤカイン州のロヒ
ンギャ・ムスリム少数者に属する人々は、過酷な法的、経済的、社会的差別を引き続き受け
ていた。政府はロヒンギャの大半に国籍を与えることを拒んでおり、その理由として彼らの
先祖が、英国統治が始まった1824年の1年前の時点で国内に住んでいなかったことを挙
げた。これは極めて厳格な国籍法によって国籍取得要件と定められている。
2004年6月、国連子どもの権利委員会は「ヤカイン州北部に住み、ロヒンギャとも呼
ばれるベンガル人の子どもの状況について、またその他の民族的、先住的あるいは宗教的少
数者の子どもの状況について」懸念を示し、「特にこうした子どもたちの権利の多く、例え
ば食糧、医療、教育、生存と発展、自文化の享受、差別からの保護への権利が否定されてい
る」ことに懸念を示した。
ロヒンギャ・ムスリムは公立学校には初等教育までしか通学できなかった。政府が中等教
育の対象者を国民に限定していることがその理由だった。
こうして排除された人々は大半の
公務員職に応募することもできなかった。
ムスリムの強制労働がヤカイン州で引き続き広範に行われていた。民族的少数者集団の強
制労働が東部国境地帯とチン州で蔓延していた(セクション6.c参照)。
完全な市民権のない人には国内移動に制限が加えられていた(セクション2.d参照)。
また医学や技術分野では大学での応用レベルのコースの一部を受講することができなかっ
た。
21
民族としての「ビルマ人」のこと。
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民族的少数者集団は家庭内では自らの言語を用いることが一般的だった。しかし政府の管
理下にある国内の全地域でもれなく、民族的少数者の居住地域を含めて、公立学校ではビル
マ語が使われていた。民族的少数者の居住地域であっても、
大半の初等・中等教育機関では、
民族的少数者が用いている現地語での教育は行われていなかった。少数言語で書かれた国内
出版物はほとんどなかった。
政府はビルマ民族を各地の民族的少数者の居住地域に移住させているとの報告があった
(セクション1.f参照)。
ビルマ民族と非先住民族集団との間には民族的緊張があった。こうした集団には南アジア
系住民(多くがムスリム)と、人口が急増中の中国系住民(大半が中国雲南省からの移民)
が挙げられる。中国系移民は上ビルマの経済への支配を強めていた。
その他の社会的虐待と差別
同性愛者を軽蔑する国民は多い。刑法は「性的にアブノーマルな」行為を禁止する条項が
あり、好意的でない関心を向けられたゲイやレズビアンに適用された。とはいえ、同性愛者
は社会的な伝統によって、ある程度の保護を受けていた。トランスジェンダーの芸人が伝統
行事で舞台に上がることは一般的だった。一部は精霊(ビルマ語で「ナッ」)信仰のシャー
マンであり、そのために社会的に特別な立場についていた。こうした人々は、マンダレー近
郊で一週間に渡って毎年行われる極めて有名な祝祭行事に参加する。
この行事は宗教的なも
のと考えられており、性的な差別や行為とは関係なく、政府からも公式に認められていた。
この行事には、軍や警察なども含めどこからの干渉もなかった。
HIV感染者は差別を受けており、感染者を診療した医師も同様の扱いを受けた。
セクション6
労働者の権利
a.結社の権利
労働組合法(1926年)が現在も有効で、同法によれば、労働者は政府の事前同意を条
件に労働組合を結成することができる。しかしビルマに自由な労働組合は一切存在していな
かった。
国際組織に加盟する労働組合は、労働組合そのものが禁止されているために存在していな
かった。政府は、船員雇用管理局を通して外国船籍での職を見つけた船員に対し、国際運輸
労連(ITWF)との接触を禁止していた。また政府は国外にいる船員への証明書発給をた
びたび拒否した。適切な書類がない場合、船員は国外で正規雇用職を見つけることができな
かった。
信頼できるタイの消息筋によれば、5月19日に、武装した複数の正体不明の男がモーア
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ウン氏をタイ南部のラノーンの自宅から誘拐し、ビルマ側のコータウンの第八マイルにある
ビルマ軍の歩兵連隊基地に連行した。氏は国際運輸労連傘下のビルマ船員組合の指導者だっ
た。伝えられるところによれば、氏はその3日後の5月22日に拘束中に死亡した。
政府はタイに拠点を置くビルマ自由労働組合連合(FTUB)を「テロリスト」と呼び、
同労連との接触を犯罪としていた。だが政府はこの件について、適切な公的手段を用いて国
際労働機関(ILO)に提出してはいない。2005年にもこれまでにも、政府は同労連や
その他のタイで活動する亡命組織との接触を理由の一つとして、逮捕や有罪判決の宣告を行
っており、こうした囚人の一人アウンミンテイン氏は拘束中に死亡した(セクション1.a、
1.b、1.d、2.a、2.b、6.b参照)。
b.労働者の組織化と団体交渉の権利
政府は労働組合の結成を許可していない。したがって労働者は組織化し、団体交渉を行う
権利を有していない。政府の中央調停委員会は、かつて大きな労使紛争の仲裁手段として機
能していたが、1988年以降は休眠状態であり、以降は労働局がいくつかの労使紛争につ
いて仲裁役を果たしたと伝えられている。郡区レベルでの労働監督委員会が小規模な労働問
題の解決のために設置されていた。
政府は公共部門の賃金を一方的に決定した。民間部門では市場での需給が賃金をおおむね
決定していた。しかし政府は政府との合弁事業に対して、労働者の賃金を大臣や政府高官の
俸給よりも高い水準に設定しないよう圧力を掛けていた。
このため一部の合弁企業は賃金を
抑える代わりに、追加の手当や特別のインセンティブ制度を設けた。外国企業は一般的に有
力な民間部門に近い水準に賃金を設定するが、
追加の手当や報奨金を支給する合弁企業の例
にならっていた。
法によれば、労働者は一般にストライキを禁じられているが、ごく一部の労働者にはスト
権が認められていることになっている 。4月17日、当局はラングーン管区のフラインタ
ーヤー工業団地のグストン・モリネル社の繊維 工場で働く4人の女性労働者を、4月9日
のストライキを扇動した容疑で逮捕した。しかし判事は容疑を退け、4人は再度こうした行
動はしないとの念書を取られた上で、5月2日に家族の元に帰された。11月8日、フライ
ンターヤー工業団地のX‐スクエア社の靴工場の労働者が、無賃金で残業を強制されている
として抗議した。訴えは解決され、逮捕者は出なかった。
輸出奨励地域の設定はされていない。しかし国軍が所有する工業団地が存在した。例えば
ラングーン近郊のピンマビン工業団地は外資を誘致しており、また2、000エーカー(約
8、094平方メートル)
の敷地を持つ、ラングーン管区のフラインターヤー工業団地では、
複数の企業が操業していた。ビルマの労働法は全工業団地の全産業に適用されることになっ
ているが、必ずしも均一に適用されているわけではない。
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ビルマ-人権状況に関する国別報告書(2005 年版)
米国国務省民主主義・人権・労働局
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c.強制労働の禁止
強制労働は依然として広範に存在する深刻な問題で、特に民族的少数者が標的にされてい
た。刑法には他人に強制労働を課した人物を処罰する規定があり、2004年と2005年
には、国際労働機関(ILO)の報告によれば、この条項に基づいて8つの告訴が裁判所に
行われた。告訴は、被害者と主張する人物か、ILO連絡官(リエゾン・オフィサー)から
の指摘を受けた当局のいずれかが行った。8つのうち2つは退けられ、1つは原告が告訴を
撤回した。3つの事件が審理され、1月31日にラングーン管区コーフム郡裁判所の裁判官
は、強制労働を用いたとして現地職員4人に 8カ月の刑を宣告した。投獄された職員は全
員7月に繰り上げ釈放された。それとは別に、関連する事案について、スースーヌェ氏がコ
ーフム郡の職員を強制労働の容疑で告発することに成功した。告発されなかった別の郡職員
は、同氏を「服務中の政府職員を侮辱、妨害した」容疑で逆告訴した。同氏は10月13日
に1年6カ月の刑を宣告された。
2005年には、ILO連絡官からの指摘を受けた当局が政府職員を告発した事例がほか
にもあり、強制労働を課したとして職員4人が有期刑を宣告された。
国外の専門家は、ビルマ全土で政府が建設および補修工事に依然として民間人の強制労働
を恒常的に用いていることを確認した。民間人はまた、国軍が所有する工業団地でも労働を
強制されていた。
経済インフラの建設と整備のために強制労働が用いられたとの報告は、1990年代半ば
をピークに低下している。特にビルマ民族が多い中央部でその傾向が見られる。
対照的に、国軍部隊の守備や軍事作戦の支援を目的とした政府による強制労働の使用は、
民族的あるいは宗教的少数者の居住地域で特に深刻な状態が続いていた。ILOは、ヤカイ
ン州での強制労働が「本格的に再開されている」との国連難民高等弁務官事務所の報告を確
認している。同州では首相が橋6脚の新設を軍に命じた。ILOは政府に対して強制労働の
使用停止を引き続き求めた。しかし地元当局は中央政府の強制労働停止命令を無視しており、
特に命令を出している中央政府自体から、期限内に公共事業を完成させるよう圧力が掛かる
際に命令が無視されている。
9月8日にアムネスティ・インターナショナルは、報告書「ミャンマー:故郷を離れて」
22を発表し、依然終息しない国内での人権侵害行為を文書化した。報告書は、政府への武力
による抵抗が弱まり、ビルマ国軍が以前は敵地だった地域を拠点化するにつれ、ポーター(荷
役労働者)徴用は減少していることを指摘した。しかしポーターへの需要が減少するのと引
き換えに、強制労働の需要は増加している。というのも国軍が兵舎の新設やその他のインフ
ラ整備を行う必要があるためだ。報告書はまた、カレン民族解放軍(KNLA)と民主カイ
ン仏教徒軍(DKBA)は共にビルマ国軍とまったく同じ人権侵害行為をしていることがあ
るとした。例えば、両軍の兵士から米や家畜、その他の貴重品を強制的に供出させられてい
22
訳者による仮題。原題は Myanmar, Leaving Home。
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るため、既に栄養状態の悪い村人から食糧を強制的に没収する行為が行われていた。
11月12日、ヤカイン州ムラウー郡コーンカウン村のチン人住民70人が、第377軽
歩兵大隊にポーターとして強制徴用された。住民は10マイル(16キロメートル)先のカ
ラマ山へ物資を運ばされた。食料の米は自弁だったため、6.5ポンド(2.95キログラ
ム)余計に荷物を運ぶことになった。11月、別の報告によれば、6つの村の住民がヤカイ
ン州ヤテタウン郡アングモー村に国境警備隊の基地を新築させられた。住民には無償労働さ
せられただけでなく、材木と竹、屋根材などの物資も提供させられた。
ラングーンの国際労働機関(ILO)連絡事務所の報告によれば、政府の強制労働停止命
令は、ばらつきはあるものの、広く伝達されてはいるのだが、強制労働を削減する効果は限
られており、持続性も持っていなかった。
過去5年に渡り、国際労働機関(ILO)などの国際機関は、政府が強制労働を徴用する
手法に変化が生じていることを確認してきた。ILOの報告によれば、国軍部隊は強制労働
を命じる文書を村長に発行することはやめ、口頭で命令を伝えるように変わってきた。また、
政府は強制労働の代わりに、資材や食料、金銭を強制的に徴収したとの事例も報告された。
2005年を通して、国軍兵士が民族的少数者の村落に対して、米やその他の日用品の提供
を強要しているとの報告が頻繁かつ広範に寄せられた。2004年にILOは、政府はたま
に強制労働に賃金を支払うことがあるが、その額は一般的な賃金水準からかけ離れたもので
あることが多いと報告した。
ILOの報告によれば、2002年以来、政府は懲役刑を宣告されていない囚人を、民間
人の代わりとして強制労働に用いる機会が増えている。これはおそらく民間人を使わないよ
う求める国際的な圧力が背景にあると見られる。伝えられるところによれば、国内には約7
0カ所の労働キャンプが点在した。その多くは一時的なもので、工事終了時には畳まれるも
のだった。過去には国軍は国内の刑務所から囚人を連れ出して、ポーターとして使用してい
た。例えば2003年にはカレン民族解放軍に対する攻撃の過程で、国軍は囚人300人を
ポーターとして使用したと伝えられる。
当局は世帯や個人に対し、金銭や食糧の供出と引き換えに、インフラ事業での労働を免除
することをしばしば認めた。しかし地方では貧困が常態化しているため、大半の世帯は労働
の供出を強いられる。両親は、世帯に課せられた強制労働のノルマの完遂を子どもにも手伝
わせた。
12月30日、イラワディ管区ンガータインジャウン郡ミョーティッ村の平和開発評議会
当局は大工のコータンタイッ氏を逮捕し、同評議会事務所に拘束して、激しく殴打した。当
局は氏を、道路建設のための木材伐採をする非自発的労働を提供せず、村の民兵訓練に資金
を供出しなかったとして非難した。12月31日、家族は現地の病院に氏を入院させたが、
激しい殴打が原因で同氏はまもなく死亡した。イェイチェイ警察暑は、暴行に関与した地元
の平和開発評議会の職員を逮捕した。逮捕者には同評議会議長アウンミンテインが含まれた。
11月1日、ヤカイン州ポンナジュン郡タラッチョー村の男性(35)が、国軍による強
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制労働が原因で、深刻な体調不良で帰宅した2日後に死亡した。ビルマ軍第550大隊は基
地建設の支援のために氏を強制的に徴用した。
2005年には、村落での小規模な事業に強制労働が用いられているとの報告が、全国か
ら絶えず寄せられた。2003年、マグエー管区チャウンネッ村の平和発展評議会議長は各
世帯から一人ずつを動員して、ラングーン・マグエー間の自動車道路の下草刈りにあたらせ
た。動員を拒否した世帯には5米ドル(5000チャット)の罰金が科せられた。当局はま
た全国で強制労働を引き続き用いて、既存の民間インフラ(交通網、灌漑設備等)の整備を
行った。
2004年は民間人が自らILOに人権侵害の申し立てを行った最初の年だが、
以降20
05年9月までに同ラングーン事務所は、調査の必要な、強制労働に関する102件の申し
立てを受理した。ILOはうち59件を政府の強制労働委員会に転送した。委員会はすべて
の事例に返答し、全部で10人が有罪となり、刑を宣告された。同委員会は強制労働事件を
報告、調査および訴追する適切なメカニズムを運用していなかった。5月にILOは申し立
ての受理を停止した。政府が、強制労働に関する訴えのうち自らが「虚偽」だと判断したも
のについては、その訴えを提出した人物をすべて訴追する意向を示したためだ。
民族的少数者の居住地域では強制労働の報告が日常的になされた。信頼できるNGO筋の
情報によれば、住民は軍の駐屯地のインフラ建設や補修のほか、駐屯地内で歩哨などの業務
を行うように命じられた。またこれらの消息筋によれば、住民は、軍施設の建設や補修のた
めに製材を自己負担で持参するよう命じられた。2004年5月、ILOラングーン事務所
はチン州ティッディム、ファラン両郡の住民が、2つの町をつなぐ幹線道路の拡張作業をさ
せられているのを目撃した。2004年にアムネスティ・インターナショナルは、ヤカイン
州北部のブディタウンとマウンドー両郡での強制労働の事例を複数報告した。これらの事例
では、国軍(ここでは国境警備隊のこと。警備隊は警察、軍情報部、国内治安担当、関税官、
移民・人的資源局から構成される)が住民に対し、歩哨の任務遂行、道路建設、薪割りや政
府施設の建設を命じた。チン人権機構(CHRO、本部インド)はまた、チン州南部で20
05年に行われた強制労働の事例を複数報告した。これらの事例では、地元の国軍部隊の隊
長は村長に対し、住民を道路建設事業、軍の建設工事、農場労働へと強制的に動員するよう
に命じた。同機構の報告によれば、地元の国軍当局者が2004年6月に村長一人を逮捕し
た。理由は、村民に割り当てられた分の道路建設工事が完了していなかったことだった。
ILOや国外の観測筋によれば、カレン民族連合(KNU)とビルマ政府が2004年1
月に休戦合意に達して以降、カレン州での強制労働やその他の侵害行為は減少した。しかし、
2003年に同連合は、東部国境沿いの紛争地域で強制労働が広範に使用されているとの、
信頼性はあるが、事実確認ができなかった報告を行った。2003年、国軍兵士はカレン州
モン郡でポーター500人を強制徴用し、軍用の食糧品を運ばせた。荷物を運べない人には
一人当たり5米ドル(5000チャット)が科せられた。
2005年を通して、ILOは、外交団の移動に適用される一般的な規制に従わされてい
た。ILOの外国人職員は同行者なしでの移動が可能だったが、中央政府は地方当局に職員
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の動きを伝えていた。ILOと政府との関係は、2005年半ばにかつてないほど冷え切っ
てしまった。6月にジュネーブで開かれたILO総会では、ビルマ政府がILOとの協力を
引き続き拒否していることが問題として取り上げられたからだ。2005年の後半には、政
府系組織(連邦団結発展協会、ミャンマー女性問題連盟、退役軍人機構など)が、大衆集会
を開いてILOを批判し、政府にILOとの関係断絶を求める高圧的なキャンペーンを繰り
広げた。ILOに対するこうした公然の非難と敵対的なムードにより、ILOが国内を移動
し、マンデートを効果的に履行する能力はいっそうの制限を受けた。ILO連絡官は繰り返
し暗殺の脅迫を受けていたが、政府は何の対応も取らなかった。
10月、政府はILO脱退の意思表明を口頭で行ったが、その脅迫通りの行動は取らなか
った。11月のILO理事会で、参加者はILOとビルマ政府との協力関係および強制労働
の実態が著しく悪化していることに留意した。理事会はビルマ政府に対し、連絡官の身の安
全を確保し、任務を効果的に実行できるようにすることを求めた。理事会はまた、ビルマ政
府に対し、強制労働の被害を訴え、廃絶に向けた努力を続ける強制労働被害者を訴追しない
よう求めた。2005年末、政府関係者は連絡官の身の安全を確保し、任務再開を可能にす
ることについて口頭で確約を行った。
ILOラングーン事務所は、現地の情報提供者が、ILOに強制労働に関する情報を提供
したとして拘束、尋問された事例を複数報告している。2005年にナインミンチー、シュ
エマン、エイミンの3氏が刑務所から釈放された。2003年、裁判所は全員に死刑判決を
下したが、理由の一つは、ILOとビルマ自由労働組合連合(FTUB)に接触したことだ
った(セクション4参照)。しかし2005年8月28日、バゴー管区当局は弁護士のエイ
ミン氏を再逮捕した。氏は9月後半にバゴー刑務所に移送された。氏は10月31日に7年
の刑を宣告された。伝えられるところによれば、氏が第40軽歩兵大隊に補償なしで土地を
接収された貧農に法的援助をしたことが当局の不興を買った。
2004年12月にマグエー管区で強制労働中に死亡したウィンルィン氏について、家族
は政府を相手取って提訴した。10月、政府はこの家族が住む村落の住民と 家族側の弁護
士をILOに虚偽の情報を提供したとして告訴した。
11月5日、公判中だったアウンミンテイン氏がインセイン刑務所で死亡した。当局によ
れば、父親のミンテイン氏(77)は裁判の過程で、両氏が何度かタイに出国し、ビルマ自
由労働組合連合と接触したと証言した。アウンミンテイン氏の死後、同労連は氏がメンバー
だったことを確認したと伝えられる。ミンテイン氏は8年の刑を宣告された(セクション1.
a、2.a参照)。
兵士の強制徴用は広範に行われていた。信頼できる報告によれば、政府は服務期間が終了
した兵士に対し、場合によっては強制徴用を使ってでも代わりとなる3~4人を入隊させな
ければ除隊を認めなかった。
法は子どもの強制労働と債務労働を特定して禁止してはおらず、子どもの強制労働は引き
続き深刻な問題だった(セクション6.d参照)。
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d.児童労働の禁止と就業の最低年齢
法は子どもが就業する最低年齢を13歳と定めているが、
実際にはこの規定は履行されて
いなかった。児童労働の蔓延は著しく、ますます目につくようになっている。働く子どもの
姿がきわめて頻繁に目につくのは都市部であり、その大半は小企業か家族企業で働いていた。
地方の子どもは、家族が営む農業関係の仕事をしていた。ラングーンやマンダレーの都市イ
ンフォーマル・セクターで働く子どもは、幼いときから働き始めることが多かった。都市イ
ンフォーマル・セクターでは、働く子どもの大半が、食品加工業、路上の物売り、ゴミ拾い、
軽工業のほか、喫茶店の店員に従事していた。2002年の政府統計によれば、都市部の子
どもの6%が働いているが、賃金を得ているのはそのうちのわずか4%だった。多くが家族
企業で就業していたためだった。
法は子どもの強制労働を特定して禁止してはおらず、子どもは強制労働をさせられた。伝
えられるところによれば、当局はラングーンとマンダレーで10代の子どもを検挙し、強制
的にポーターや軍役を行わせた(セクション5参照)。
社会福祉局(DSW)は、何らかの事情で家族と別居する孤児や子どもたちを少ない人数
ではあるが支援し、教育を施した。支援の目的の一つには、子どもたちに搾取に対抗する能
力を高めてもらうことにあった。
e.好ましい労働条件
公務員と少数の伝統産業の被雇用者のみに最低賃金条項が適用されていた。月給払いの公
務員の最低賃金は一日あたり0.13米ドル(136チャット)で、一日の労働時間は8時
間だった。様々な補助や手当がこれに追加された。最低賃金でも高官が得る比較的高い賃金
であっても、労働者と家族が適切な生活水準を確保することはできなかった。公的部門での
実質賃金の低さと価値下落によって、汚職と欠勤が常態化していた。民間部門では、都市労
働者の収入は一日あたり0.50~1.00米ドル(500~1,000チャット)だが、
地方の農業労働者の収入はその約半分だった。
公共部門の労働者の中にはこれよりかなり多
い収入を得ているものもいた。例えば熟練工の収入は一日あたり約3米ドル(3,000チ
ャット)だった。
労働力が余り、経済に活気がなく、政府による保護が行われていないことが引き続き原因
となり、低水準の労働環境が維持されていた。労働者基本権法(1964年)と工場法(1
951年)が労働条件を規制している。公共部門では週5日35時間労働、民間企業と国営
企業では週6日44時間労働と定められており、それ以上の労働には残業代が支払われるこ
とになっている。法によれば、1週当たり24時間の休憩時間が定められており、労働者は
年間21日の有給休暇を取得することができる。しかし実際にはこうした規定の恩恵を受け
たのは、国内労働人口のごく一部に過ぎなかった。というのは労働人口の大半は地方の農業
かインフォーマル・セクターに就業していたからだ。これらの法は政府部門ではおおむね適
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用されていたが、民間企業では違反が横行していた。
健康や安全に関する規制が多数存在していたが、実際には政府はこれらの規制の実行に必
要なリソースを準備できていなかった。労働者は原則的には危険な労働環境を拒否すること
ができるが、現実には労働者の多くは、そうした行動を取ってもなおその職に留まることは
望めなかった。
(訳、箱田徹。協力、秋元由紀)
出典:'Burma,' Country Reports on Human Rights Practices – 2005, The Bureau of
Democracy, Human Rights, and Labor, United States Department of State, March 8,
2006, at <http://www.state.gov/g/drl/rls/hrrpt/2005/61603.htm>.
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日本語版付録
地名対照表
ラングーン ...................ヤンゴン
カレン ......................... カイン
イラワディ ...................エーヤーワディー
カレンニー .................. カヤー
バゴー ..........................ペグー
モーラミャイン ........... モールメイン
ザガイン ......................ザガイン
シットゥエー............... アキャブ
タニンダーイー............テナセリム
パテイン ...................... パセイン
ヤカイン ......................ラカイン、アラカン
略号対照表(アルファベット順)
AAPP ............. ビルマ政治囚支援協会
MLRA .............. モン領土回復軍
ABSDF .......... 全ビルマ学生民主戦線
MMCWA .......... ミャンマー母子保健協会
ARSO ............. アラカン・ロヒンギャ連帯機構
MWAF .............. ミャンマー女性問題連盟
ASEAN .......... 東南アジア諸国連合
NC ..................... 制憲国民議会
CHRO ............. チン人権機構
NLD ................. 国民民主連盟
CNF ................. チン民族戦線
NLD‐LA....... NLD‐解放地域
CPRCS .......... 子ども兵士徴兵防止委員会
NNC ................. ナガ民族評議会
CSW ................. クリスチャン・ソリダリティ・
OCMI .............. 国軍情報部局長室
ワールドワイド
DKBA ............. 民主カレン仏教徒軍
DSW ................. 社会福祉局
FTUB ............. ビルマ自由労働組合連合
HRFML .......... モン人権基金
IDP ................. 国内避難民
RSF ................. 国境なき記者団
SHRF .............. シャン人権基金
SLORC .......... 国家法秩序回復評議会
SNLD .............. シャン諸民族民主連盟
SPDC .............. 国家平和開発評議会
SSA‐S .......... シャン州軍‐南部方面軍(SS
ILO ................. 国際労働機関
A-Southとも)
ITWF ............. 国際運輸労連
SSNA .............. シャン州民族軍
KNLA ............. カレン民族解放軍
UNA ................. 統一諸民族連盟
KNPLF .......... カレンニー民族人民解放戦線
UNHCR .......... 国連難民高等弁務官事務所
KNPP ............. カレンニー民族進歩党
UNICEF....... ユニセフ、国連児童基金
KNU ................. カレン民族連合
USDA .............. 連邦団結発展協会
KSO ................. カレンニー連帯機構
UWSA .............. ワ州連合軍
MAS ................. 軍保安局
WFP ................. 世界食糧計画
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