神が前にいる!」 神が前にいる。目の前にいる。こ

使徒言行録10章23節b~33節
「神が前にいる!」
神が前にいる。目の前にいる。これは、今朝の御言葉の最後に出で、てくる、ローマ人
コルネリウスが語った言葉ですが、この「神の前に向き合って立つ」ということは、この
キリスト教という宗教そのものにとって、また特に、この改革派教会の信仰の内容にとっ
て、第一の中心に位置する、非常に大切な事柄です。神の前に向き合って立つ生き方につ
いて、今朝はこの御言葉を通して、御一緒に教えられたいと思います。
この使徒言行録の 10 章は、突然神様からのお告げを受けたイタリア人のコルネリウス
が、ペトロに会うようにというメッセージを受けて、使いの者をペトロのもとに送り、ペ
トロを自分の駐在している北の街まで呼び寄せるというストーリーになっていますが、今
朝のところでは、そのコルネリウスとペトロが、とうとう出会う場面に至ります。
そして、イタリア人コルネリウスの求めに応じて、ペトロがカイサリアまで出向いて行
って彼と会うということは、ペトロにとっては、自分の殻を破るような、この歳になって、
人生の半ばを過ぎて、そこで初めて経験する、新しい挑戦でした。
なぜなら、今朝の 28 節でこう言われているからです。「ユダヤ人が外国人と交際した
り、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたした
ちに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しにな
りました。」ユダヤ人であるペトロが、イタリア人の、しかもユダヤを属国にして支配し
ているローマ軍の百人隊の隊長の家に行くということは、当時はありえないことでした。
なぜかというと、ペトロも自ら語っていますように、この背後には、清さと汚れという
問題があったからです。ユダヤ人たちは、かつて戦争に大々的に負けて、バビロン捕囚と
いう暴力を味わって、彼らの国ごと、民族ごと、すべてを破壊されました。バビロン捕囚
とは、日本が経験した敗戦などとは、とても比較にならないほどの破壊です。国と町が物
理的に破壊され、すべてが廃墟となり、女性と高齢者だけを残して、少年たちも含めて、
男性がすべて奴隷としてバビロンに連行されました。幸いバビロン捕囚が終わった後でも、
帰ってきた人々は、既にヘブライ語を話せなくなっていた。さらに、アレクサンドロス大
王のヘレニズム政策が世界を席巻し、ローマの神々が世界中に輸出され、国際結婚が奨励
され、宗教的にも文化的にも、ローマ式が地中海世界を全体に及んでいった。そうした中
で、もうヘブライ語も、旧約聖書の神も、ユダヤ人という民族そのものも、もう存亡の危
機に直面しました。
それに対する危機感の中から、清さと汚れという問題が出てきました。
宗教的、民族的純潔を固く守ることが、そこでは必要とされました。そこで、モーセによ
って語られた旧約聖書の律法は、直接それを禁じてはいなかったのですが、しかしユダヤ
人たちは、固い決意をもって、外国人と付き合わず、汚れているとされる動物は食べず、
安息日を厳格に守って、
その日は長距離を歩くことさえしないのだと、そしてこれこそが、
我らユダヤ人なのだという、周囲と自分たちを区別する、分かりやすい、清さの基準を作
って、周りと自分を差別化した。
簡単に言えば、こういう背景の中に、ペトロを含めたユダヤ人たちは立っていました。
ですから彼らは、ナショナリズムに立ったかなり右翼的な方向性ですけれども、民族のア
イデンティティーを守るため、ユダヤ人がユダヤ人としてしっかりと立ち、ユダヤ教とい
う宗教を保つために、旧約聖書にある律法の規定をかなり偏って重視して、そのやり方で
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数百年間頑張ってきた。ユダヤ民族という小さな民族と、旧聖書の神に立つユダヤの宗教
を、彼らはそうやって何とかつないできたのです。
けれどももう、ユダヤ人たちがそうやって、自分の城の守りを固くする時代は過ぎ去り
ました。なぜか?それは、主イエス・キリストが来たからです。ペトロたち、使徒たちが
主イエスに出会って、話を聞いて、その十字架と復活を見て、神の御子の言葉とその生き
方に、使徒たちが直接触れたからです。
杓子定規の宗教、決まり、しきたり、伝統、そういうものがあったのですけれども、今
までそういう中で生きてきたのですけれども、そして、その決まりしきたりは神様に由来
していると思っていたのですけれども、自分は神から遣わされた神の御子だと名乗る主イ
エスを見たときに、この方は、どんどん病人の中に入って行ったり、罪人と呼ばれていた
徴税人たちと食事をしたり、働いてはいけない安息日に人を癒したり、外国人、貧しい人、
忌み嫌われている人の所にもどんどんと入って行って触れ合っていく。自分たちが清さと
汚れという基準で出ていかず、腰が引けていた部分にも、主イエスはどんどん入って行っ
て、タブーなき生き方をし、見たこともないぐらいに、まったく分け隔てなく、本当に広
く、自由に、深く生きて、そこで出会う人々を神様に、結び付けていった。ペトロは、こ
の 10 章の前半で語られている幻を見た時に、きっとこの主イエスの生き方を思い出した
のだと思うのです。そして、この主イエスに従うということは、それは一個の宗教ではな
いのです。
そういう狭いものではないのです。ユダヤ教がどうだこうだという枠を超えた、
生き方がそこにあったのです。
キリスト教は、この頃にはまだまだ宗教としては、しっかりとした形あるものとして確
立していません。まだ新約聖書もありません。その中で、ペトロは、「神が清めた物を、
清くないなどと、あなたは言ってはいけない。」という言葉を受け、さらにイタリア人か
ら、自分のところに来て欲しいと招かれた。しかもペトロには、なぜ招かれたのかという
理由も、その時まだ分からなかった。しかしペトロは、枠を踏み越えてゆきました。
思えば、旧約聖書の、ユダヤ民族の発端となり、祖先となったアブラハムも、彼も自分
の住んでいた土地から、新しく出発した人でした。神様の目線に自分の目線を合わせるよ
うにして、上からこの自分と世界を見下ろすような視点に立って、視野を広く持ち、常に
新しく挑戦し、踏み出し、それによって成長していけるということが、クリスチャンの一
つの性質ですし、クリスチャンはいつも、殻を破るように召されていて、主なる神にあっ
て、自分の手足を用いて、神様の御国を、新しい場所に広げていくという責任を担わされ
ていると言えます。
そして、踏み出していったペトロは、外国人のコルネリウスと出会いました。実は、今
朝の御言葉は、ほとんどが 10 章前半の言葉を繰り返している言葉ですので、そうではな
い部分の、今朝の終わりの 33 節をこそ、私たちはじっくりと読まなければならないので
すが、33 節は、ペトロに出会ったコルネリウスの出会いの挨拶です。彼はこう挨拶しまし
た。33 節、「それで、早速あなたのところに人をやったのです。よくおいでくださいまし
た。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前
にいるのです。」
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ここに、ペトロの「なぜ招いてくださったのですか」という質問に対する答えが語られ
ています。その答えとは、翻訳の言葉を補いつつ再度読みますならば、今わたしたちは皆、
わしたちに語るために、主が、あなたの心に置いた言葉を、残らず聞こうとして、という
ことです。ペトロが、コルネリウスたちのために語るようにと、主なる神から伝えられた、
すべてのことを、残らず聞き取るために、そのためにコルネリウスはペトロを招き、ペト
ロもここに来たのだ。つまり、お話をしてください。それをすべて聞き取りたいのです、
と彼は言ったのです。しかもここでは、面白いのは、ペトロの話を聞きたいと言っている
のではなくて、主があなたに、私たちに対して語るようにとお命じになったことのすべて
を聞きたいと言っていることです。そしてさらに 33 節最後の言葉が効いています。「神
の前にいるのです。」やっとの思いで会うことができたペトロですけれども、今わたした
ちは皆、ペトロの前に居るとは言わず、今、私たちは皆、神の前にいると言っています。
さらにこの部分の言葉は、ただ、そこに居るという言葉ではなくて、フェイス・トゥー・
フェイス、顔を向き合わせているという言葉が、元の言葉では使われています。
コルネリウスたちは、ペトロの姿を透かして、その背後に、神を見ている。ペトロにい
ることで、今、神と、顏と顔とを突き合わせていると自覚しているのです。
説教の冒頭で、「神の前に向き合って立つ」ということは、このキリスト教という宗教
そのものにとって、また特に、この改革派教会の信仰の内容にとって、第一の中心に位置
する、非常に大切な事柄だと、語りましたけれども、神のみ前に立つというこのことを、
「コーラム・デオ」というラテン語の呼び名で呼んで、キリスト教会は、信仰の本質を表
すひとつの大切なキーワードとしてきましたし、特に改革派教会はこの点を大切にし、徹
底してきた教派です。
私たちは基本的に、キリスト教という宗教を奉じていて、キリスト教という主義主張と
か、その思想とかいう、哲学的なもの奉じているわけではなく、私たちは皆、神の前に立
っているのです。今朝も私たちは、キリスト教についての何かのお勉強をするためにここ
に集まったのではく、神と向き合うためにここに来たのです。
神が今わたしたちの前にいるということは、すごいことです。神はわたしたちを創造し
てくださった造り主であり、支えてくださっている力の源であり、これから先の私たちの
歩みを、天国の救いへと導いてくださる導き手でもあられます。過去・現在・未来を跨い
で、この私たちの始まりであり、また終わりの目標でもある、そんな大きな、私たちそれ
ぞれにとって大事な神様が、向き合ってくださり、しかも語ってくださるならば、その重
大なチャンスを逃すことは私たちにはできない。その語られる言葉をすべて、私たちは聞
く必要がある。聖書を読めば、神の言葉に触れることができますけれども、けれども私た
ちは、その神の言葉を、もっと詳しく、もっとわかりやすく、そして何より正しく、聞き
たい。聞かなければならないと分かる。だからこそ教会に来ているのです。だからこそ私
たちは、礼拝の全体と、またそこでの御言葉の語りに、説教者は精力と力を注ぎ込んで、
集う私たちは、神が説教者を通して語る、私たちが聞くべきことを、残らず聞こうとする
のです。このキリスト教会とは、宗教的な思想を学ぶ場であるというよりも、本気で神様
の前に立ち、そこにこそ人間の立つべき場所があると考え、神と向き合う関係の中を、真
剣に生きようとする人々の集まる場です。
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そして、この改革派教会という教派は特に、この礼拝の中で色濃く際立つ、私たちが神
の前に立つという現実を、礼拝とか教会という限定された場所だけでなく、日常生活と人
生のすべての場面場面に、徹底して当てはめていき、すべての場面で、神様の前に立ち、
生きるということは、どのようなことなのかを、真剣に問うていき、それを追求していく
ことに力を傾けてきた教派です。そうなると、どうなるのか。生活の隅々が問題になるわ
けです。日曜日だけでなく、平日も、その仕事や家事や育児の中で、いかにして神様の前
に生きていくのかということが問題になってきます。そして、仕事について、子育てにつ
いて、結婚恋愛について、死について、色々な人生の問題について、神様がそれにどのよ
うにして答えておられるのかということを知るために、目を皿のようにして聖書を読むこ
とが必要になってくる。そしてその時には、生活のすべてを神様との関係の中に置くとい
うことですから、そこでは、すべてのことについて神様に祈って、日常と人生のすべての
ことを、神様と向き合って座っているそのテーブルの上に、祈りによって、言葉にして、
出すということの必要性が出てきます。
改革派教会の二十周年記念宣言には、改革派信仰というのは礼拝的な人生観をもつ、と
いう言葉が使われています。それは、人生のすべてを、神様への礼拝というスタンスで、
神様の間に、神様と向き合いながら生きていくということです。逆に言えば、この神様へ
の礼拝というセッティングを、人生の全体に、その隅々に、引き伸ばしていく、そういう
生き方を、私たちの教会は目指してきましたし、今も目指しています。改革派教会の信仰
の、本質的に大切な部分が、このコーラム・デオ、神のみ前に生きるということの中に、
含まれています。
主イエスは、マタイによる福音書の終わりの最後の言葉で、「私は世の終わりまで、い
つもあなたがたと共にいる。」と語られました。「いつも」と約されている言葉は、「す
べての日々に」という言葉です。嬉しい日も悲しい日も、生まれた日も死を迎える日も、
将来にわたって、世が終わるまで、そのすべての日々に、主イエスは共にいてくださる。
主イエスが共におられない日は一日たりともなく、一瞬たりともない。という約束です。
神様は、私たちが、神様の御前でいつも生きることができるように、神様の方から、共
にいてくださる。その中で主イエスは、行けと、弟子たちを送り出してくださいます。
私たちも、私たちのこの新しい一週間の中にも、隙間なくそこにいてくださる神様の一
週間を、神様と向き合いつつ、ここから始めていきたいと思います。
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