日中国交正常化 - Ryuji HATTORI

史料紹介・「日中国交正常化J(服部)
史料紹介
一
一
ー一九七二年七月︺
ニ五﹁日中国交正常化(諸外国の反応)﹂二O一一│O七一O
月│一九七三年二月)
二回﹁田中総理中国訪問﹂二O戸一 10七二一(-九七一年九
年一O月│一九七O年]一月)
二一ニ﹁カナダの中共承認(報道)﹂二O一一lO七O八三九七O
O七O九{一九七O年五月l一九七一年四月)
二二﹁中共承認/イタリア(諸外国の反応)﹂ニO一一│
一月│一九七一年六月)
二一﹁中共承認/ベルギー﹂ニO一一lO七O七(一九六九年
(一九六八年四月│一九七一年七月)
二OO九年九月に民主党政権となってから、外交記録公開は日米﹁密
一ー九﹁日中国交正常化﹂二
o
- 一│O七一六(一九六五年九月
0七一七(一九五五年四月l一九六八年三月)
一八﹁日中国交正常化(中共要人の発言)﹂二O一一 1
二O 一一年一 二月二二日公開ファイル ﹁日中国交正常化﹂
はじめに
龍
・エO﹁日中国交正常化(重要資料)﹂二O一一│O七一九
二O一一年一二月一一二目、外務省記録一二六冊が公開された。
部 か
約﹂を含めて加速しており、今回もその一環といえるだろう。
主な内容は、沖縄返還交渉、福田越夫首相の東南アジア歴訪、日米
貿易、核兵器不拡散条約 (NPT) 保障措置協定、一九七一年の昭和
天皇皇后両陛下訪欧、日中国交正常化などである。
大型案件としては、沖縄返還の文書公聞が﹁密約﹂調査委員会の関
係もあり以前から進んでいたのに対して、日中国交正常化の外務省記
録は初の本格的公開となる。
公開された文書のうち、日中国交正常化に関するものは一五冊ある。
年代でいうなら、一九五五年から一九七三年に及ぶ。ファイル名、管
理番号、ファイル期聞は次の通りであり、移管時の主管課はすべて中
国・モンゴル課となっている。
(一九七二年六月l一九七二年九月)
-79-
D
l
Iほ
二六﹁日・台政治関係(日中国交正常化の反響)﹂二O一一│
O七一五(一九七二年七月l一九七二年一O月)
二七﹁日中国交正常化(米、台の反応)﹂二O一一 10七一八
(一九七二年七月l一九七二年九月)
二人﹁日中国交正常化(諸外国の反応)﹂二O一一│O七一一
(一九七二年八月l一九七三年一月)
二九﹁日中国交正常化(田中総理中国訪問(諸外国の反応))﹂
ニO一一ーーO七一四(一九七二年九月!一九七二年一O月)
三O﹁日中国交正常化(諸外国の反応)﹂二O一一lO七一二
三九七二年九月l一九七三年一月)
三一﹁日中国交正常化諸外国の反応﹂二O一一│O七一三
(一九七二年九月│一九七二年一O月)
一一一﹁日中国交正常化(重要資料)﹂二O一一│O七二O
(一九七二年一O月1 一九七三年一一月)
冒頭ご入﹂などは、インターネットでも閲覧可能な﹁平成二三年
一一一月一一一一日外交記録公開概要﹂の番号である。外交記録公開の概
¥¥﹃
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4
2
要については、次のホ lムベ lジ上に目録が掲載されている。
宮晋
主 ¥gs-¥VOロ岳O¥岳町凶﹃O¥mvoNO¥阿佐町¥
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・
H
E
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(二O一一一年七月一六日アクセス)
FES}
・
二O二一年七月コ二日にも、日中国交正常化についてのファイルが
一冊公開された。
六﹁呂中国交正常化﹂ニO二一│O七六人(一九五一年一二月
│一九六五年一O月)
日中国交正常化については過去一年間に、二ハ冊の原本が中国・モ
ンゴル課から外交史料館に移管されたことになる。以下では、二ハ冊
の主な内容を紹介していく。史料が膨大なため、ファイルごとの目次
項目と抜粋を中心として、若干の解題を加えたい。
﹁日中国交正常化(中共要人の発言)﹂二O一一lO七一七
一、周思来総理発言(経済問題)
﹁周恩来総理との会談記録111964年7月1 9日 於 北 京 ・ 人
民大会堂福建庁﹂一九六四年九月二四日。周恩来と黒田寿男社会党衆
議院議員らの談話記録。
中国課﹁陳毅・宇都宮会談﹂一九六七年七月一一一目。
中国諜﹁客年秋季広州交易会に関する周恩来談話﹂ 一九六八年三月
八日。
中国課﹁L/T貿易連絡駐在員﹂ 一九六七年六月三O目。
中国課﹁日中気象協定問題﹂ 一九六七年六月三O目。
二、陳毅外相発雷
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2月)
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史料紹介・「日中国交正常化J(服部)
して中国は、日本が米国人の追髄を辞め、 A-Aグループに留まるこ
中して、陳毅外交部長と会談したことに関するもの。﹁日本の友人と
録﹂一九六四年一一月二四日。自民党議員の木村武雄、久野忠治が訪
﹁中共事情(渡情・号外)(1964.9.17) 陳毅外交部長発言
忘れましょう﹂と語っている。岡田晃﹃水鳥外交秘話││ある外交官
あって伺った訳です﹂と述べた。周は、﹁戦争中のことはもうお互に
からお詫びしたいと思ったこと、その他に二二一一お願いしたいことが
争中、わが国はお国に対し種々御迷惑をおかけしたことに対して、心
高碕は冒頭で、﹁本日、お伺いいたしましたのは、まず、第一に戦
の証言﹄(中央公論新社、一九八三年)四六l 六ニ頁が参考になる。
とを切望する﹂など。
。
中国課﹁中共陳毅外相の発言について﹂ 一九六五年九月三O目
﹁周・高碕会談記録﹂一九六O年一 O月一一一目、一 O月一一一一一目。中
南海における周恩来、高碕達之助会談。陳毅、越安博らが同席してい
年
三、小坂元外相・陳毅外受部長会談
五
月
岡田晃(アジア局第二課)﹁高碕・周会談録﹂(写し) 一九五五年四
復促進議員連盟編﹃日中国交回復関係資料集﹄(日中国交資料委員会、
党議員、総評の蜂谷武弘など。訪中議員名簿については、日中国交回
三日。人民大会堂貴賓室における会見記録。日本側は、猪俣浩三社会
月二二日。バンドンのアジア・アフリカ会議における高碕達之助と周
一九七二年)五八七
i 五九六頁が参考になる。
議庁は同年七月に経済企画庁となる。
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1-
る
。
の
会
見
記
録
中国課﹁陳毅、小坂会談及び中共の現状に関する中共側の説明高
総
碕事務所大久保事務局長の内話﹂一九六六年九月三O目。日中覚書貿
五、川島特使・周思来会談
理
と
易事務所の大久保任晴事務局長による内話。小坂、古井喜実議員ら自
九
斎藤鎮男駐インドネシア大使から椎名悦三郎外相宛て電報﹁川島・
罰
陳
民党議員団が八月二九日から九月二五日に訪中し、陳毅らと会談した
と
。
周会談について﹂一九六五年四月二O 目
日
ことなど。ベトナム戦争とアメリカ、佐藤内閣、 L T貿易、中ソ関係
本
代
表
団
に対する中国の見解などが伝えられている。
中国課﹁訪中に関する小坂元外相内話﹂一九六六年一 O月五日。
中国課﹁小坂議員の訪中報告﹂一九六六年一 O月一七日。
語
﹁中国訪問日本代表団と陳毅副総理との会見記録﹂一九六二年五月
国
恩来の会談。高碕は、鳩山一郎内閣の経済審議庁長官だった。経済審
四、高碕・周思来首相会談
日
)中
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2月)
七、訪中元軍人固と摩承志一行との会見(一九五七年一二月二八日)
﹁屡承志一行との会見記﹂。
八、中共・米国関係
中田豊千代駐台臨時代理大使から椎名外相宛て電報﹁中共の対米政
策(周恩来談話)﹂一九六六年五月一一一日など。
九、刀︾︿m大使・棟毅外相会談
加川隆明駐仏臨時代理大使から椎名外相宛て電報﹁ヴイエトナム情
勢に関しマナック談(チンキ・司﹀ペ開会談)﹂一九六五年一月一五日。
一
O、陳毅外相とインドネシア首脳会議
斎藤駐インドネシア大使から椎名外相宛て電報﹁陳毅中共外相とイ
ンドネシア首脳との会談概要﹂一九六四年一二月五日ほか。
一一、周恩来首相・プリサラ・カンボディア外相会談
栗野鳳駐カンボディア臨時代理大使から三木武夫外相宛て電報﹁周
恩来首相とプリサラ﹃カ﹄外相との会談﹂一九六七年九月二九日。
一 l O七二ハ
﹁日中国交正常化﹂二O 一
一、目撃平和条約の適用範囲問題
中国課﹁日華平和条約の適用地域に関する国会議事録抜粋﹂
一九六七年二一月一日。重光葵外相、下回武三条約局長の答弁を抜粋
したもの。
法規課﹁日華平和条約の条項の地域的適用﹂一九六九年三月一九日。
適用地域に関する交換公文について、従来の国会答弁を整理してある。
Il従来の国会答
法規諜﹁日華平和条約の条項の適用の地域的限定
弁より﹂一九六九年三月一九日。
法規課﹁日華平和条約の適用範囲について﹂一九六九年四月二二日。
大臣発言資料。
条約局﹁目撃平和条約に関する主要国会答弁(法律問題)﹂
一九七一年二月。
条約局﹁日華平和条約について﹂一九七一年一月二七日。
西村熊雄﹁奇妙な台湾の。法的地位。﹂(﹃世界週報﹄一九六一年二
月号)。
三宅喜二郎﹁日華平和条約の処置﹂一九七二年七月一人目。法眼晋
作次官宛て私見。日中国交正常化に伴い、日華平和条約は﹁消滅﹂す
るように処置するというもの。
二、中共政府承認に閲する法律上及び事実上の問題点
武内龍次駐米大使から椎名外相宛て電報﹁アルパニアの承認振りに
関する調査﹂一九六六年四月二七日。
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史料紹介・「日中国交正常化J(服部)
法規課・中国課﹁中共承認に関する法律上および事実上の問題点﹂
保障条約との関係について﹂一九七二年一月二七日。アメリカが米華
条約に基づいて台湾防衛のために集団的自衛権を行使する際、事前協
議に該当する場合を除いて、日本の施設区域を使用できる条約的権利
。
一九六九年一月三O日
条約局﹁中共に対する黙示の承認について﹂一九七O年二月一四日。
を有する、など。日中交渉における問題点も検討されている。
玉、中国問題に関するダレス米国大使宛吉田書簡(昭和二六年一二月)
なかった経緯(未定稿)﹂一九六八年九月二日。
中国課﹁サンフランシスコ平和条約と中国││条約の署名固となら
四、サンフランシスコ平和条約と中国の関係
指している。
全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存を
周恩来とネ1ルの間で合意されたものであり、国家主権および領土保
差異があることを分析している。平和共存五原則とは、一九五四年に
各国が中固と外交関係を樹立するに際して、平和共存五原則の扱いに
。
条約局﹁﹁平和共存五原則﹄等について﹂一九七二年七月二O目
一ニ、中共の提唱する﹁平和共存五原則﹂
﹁中共を承認するとどうなるか。﹂一九七O年一一一月三日。
栗山尚一法規課長﹁昭和4 6年度国際法学会秋季大会について﹂
一九七一年一 O月一九日。
条約局﹁(日中国交正常化交渉資料)平和条約等における﹃戦争状
態終了﹄についての規定振りの先例﹂一九七二年六月。
条約局﹁(日中国交正常化交渉資料)第2次大戦におけるドイツと
の戦争状態終結方式と問題点の考察﹂一九七二年七月。
法規課﹁﹃中国問題﹄に関する国会答弁調(条約関係部分抜粋)l
l 第十三回国会(日華平和条約審議)から第四十九回国会(昭
四0・八・一一閉会)まで﹂一九六六年五月。
栗山尚一 ﹁わが国の中国政策との関連で検討すべき問題点﹂
一九七O年一二月一回目。
条約局﹁中国問題の法的側面について﹂一九七一年一月二一日。中
あくまで研究であり、日中国交正常化を現実のものとは見なしていな
の効力に関する国会答弁
国との国交正常化を想定して、国際法的な側面などから検討している。
いと思われる。﹁台湾の最終的帰属は法的に未決定である﹂などに赤
一九六八年八月七日。国会答弁などを検討し、吉田書簡は法的に日本
中国課﹁中国問題に関するダレスあて吉田書簡(昭和2 6年1 2月
)
﹂
中国課﹁対日講和と中国代表権問題﹂一九七一年一 O月一四日。
を拘束する国際約束ではなく、﹁その後の政府が中国大陸ないし北京
線が引かれている。
条約局﹁日中国交正常化交渉との関連における台湾問題と日米安全
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を﹁米日反動派の軍事的結託を新しい段階に推し進めたもの﹂とし、﹁沖
﹃人民日報﹄が社説で日中関係を論じたのは、一九六七年の佐藤訪
政府との関係を法律的に規定することは、さしっかえないと考えられ
橋本恕中国課長﹁﹃吉田書簡が歴史的文書である﹂という意味﹂
台以来二年ぶりという。社説は、共同声明で台湾を﹁日本の安全にと
縄の返還は全くペテン﹂であると非難した。
一九七一年一月二五日。﹁吉田害簡は、すでに、使命を果し了えた歴
ってきわめて重要な要素﹂と述べたことに対し、﹁日本が台湾省をか
る
﹂
。
史的文書であるといえる﹂。余白に赤で、﹁官房長官に提出した紙﹂と
すめ取ろうとする企みを、ますます暴露したものである﹂と批判した。
の可能性。
日。在日中国共産党系華僑の指導者が中国課長に内話した政府間接触
中国課﹁日中政府間接触の可能性について﹂一九七O年一一月二六
六、日中政府間接触の可能性(内話)
一九七O年一月二七日。
中国諜﹁中共・国府の見通し (70年代の国際情勢の見通し)﹂
玉、七0年代国際情勢の見通し中共、国府
た﹂など。
とくに国府の国際的地位に悪影響を及ぼさざるよう配慮方強く要望し
ダの中共承認の動きに対し、日米は協力して、カナダ側に慎重な態度、
中国課﹁カナダの中共承認問題﹂一九六九年二一月一一一日。﹁カナ
四、カナダ中共承認問題
記されている。
﹁日中国交正常化(重要資料)﹂二O 一
一 │ O七一九
一、吉田書簡問題について
中国課﹁吉田書簡問題について﹂一九六八年四月二七日。吉田茂元
首相による書簡の扱いなどを分析している。
二、中共承認に関する加、伊、ベルギーの動き
中国課﹁中共承認に関するカナダ、イタリア、ベルギーの最近の動
きと、わが方のとった措置﹂ 一九六九年二月二四日。
三、日米共同声明に関する人民日報社説攻ひ周恩来演説
中国課﹁日米共同声明に関する人民日報社説及び周恩来発言につい
て﹂一九六九年二一月一日。一一月二八日の﹃人民日報﹄社説、二九
日の周恩来総理演説に関するもの。いずれも佐藤・ニクソン共同声明
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史料紹介・「日中国交正常化 J(服部)
七、最近の日中関係(内話)
中国課﹁最近の日中関係について﹂一九七O年一一月二七日。日中
覚書貿易事務所の大久保任晴事務局長が中国課長らに内話した要旨。
藤山愛一郎議員訪中問題、日中記者交換など。
八、各国の中国政策(﹁一つの中国﹂、﹁二つの中国﹂)
中国課﹁各国の中国政策(﹃一つの中国﹂か﹃二つの中国﹄か)﹂
一九七O年二一月一目。国連におけるアルパニア型決議案で賛成票が
中国諜長に内話したもの。蒋介石は﹁本年の国連における中国問題に
ついて、中心的役割を果たすのは、米国よりも、むしろ日本であり、
日本に米国を引っ張って行ってほしいと思う﹂と述べたという。
二、法眼外務審議官・ハlツ米国務次官補代理会談要旨
中国課﹁法眼外務審議官・ハlツ米国務次官補代理会談要旨﹂
一九七一年二月五日。
唯一の合法政府と承認している国がコ二カ国、国府支持が一 0カ国(日
わたって省内で検討してきた論点を整理したもの。﹁コンセンサスの
アジア局﹁中国政策検討の現状﹂ 一九七一年二月一一目。四カ月に
一二、中国政策検討の現状
本、アメリカ、 フィリピン、タイなどて﹁二つの中国﹂を言明してい
ある点﹂として、長期的には﹁北京政府との聞に外交関係を樹立する
反対票を上回ったことから、七0カ国の態度を分類した。中国政府を
る国が九カ国(マレーシア、シンガポールなどて﹁二つの中国に傾斜
ことが望ましい﹂。台湾と中国が﹁﹃二つの中国﹄ないし﹃一つの中園、
ンサスの得られていない点﹂が続く。
り遅れるな﹄との立場を軽々にとるべきではない﹂。これに﹁コンセ
る武力行使にも反対するとの立場を堅持すべきである﹂。﹁﹃パスに乗
﹁わが国としては、北京、台北、いずれの側による台湾海峡におけ
ない﹂。
りわが国の政策目標として﹃二つの中国﹄を明確に打ち出すことはし
益に合致する。︹中略︺ただし北京と国民政府の双方が合意しない限
一つの台湾﹄方式による中国問題の解決を認めることが、わが国の国
している国﹂が二 0カ因。 一覧表が付されている。
九、中国問題に関する報告(三者定期協議)
橋本恕中国課長﹁中国問題に関する報告﹂一九七O年一二月一九日。
香港における板垣修駐台大使、法眼晋作外務審議官、岡田晃香港総領
事らとの会議、台北における国府外交部首脳との協議など。
O、代表権問題等に関する国府首脳(蒋介石など)の考え
一
中国課﹁代表権問題等に関する蒋介石等国府首脳の考え﹂一九七一
年一月一八日。鉦乃聖駐日台湾公使が一時帰国したときの模様を橋本
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ける施政につきなんらの発言権を有しない﹂と述べている。ただし国
が国は・・・・・台湾の最終的帰属あるいは中華民国政府の台湾にお
法眼晋作外務審議官﹁中国問題処理上の感想﹂一九七一年ニ月二O
会答弁では、岸信介首相が一九六O年三月七日の参議院予算委員会で、
=二、中国問題処理上の現状
目。国連中国代表権問題については、﹁本年も亦重要事項の案で進む﹂
﹁究極においては、私はサンフランシスコ条約に加盟しておる固によ
中国課﹁藤山愛一郎氏の内話﹂一九七一年三月一一日。藤山が周恩
二八、藤山愛一郎氏の内話
晋作外務審議官を来訪した際の内話。
一九七一年二月二六日。ドイツのア1 ヘン大学メ 1ネルト教授が法眼
中国課﹁中国問題に関するクラウス・メ!ネルト教授の内話﹂
一玉、中国問題に関するクラウス・メlネルト教授の肉話
って決定されるものと考える﹂と述べていることなど。
案を考慮し、﹁僅少の差をもって勝つチャンスは相当多いと思われる﹂。
中国国連加盟の提案も検討しつつ、台湾の議席を守ろうとしている。
このことが、﹁二つの中国を作る陰謀﹂と批判されると理解しつつも、
﹁国府が国連の議席を失うことはやがて国府の没落への一歩となるべ
きこと﹂などから、﹁国府は結局において従うべき公算砂からずと観
測する﹂。
﹁現在、中共のわが国に対する態度は、わが政府とわが外交政策の
非難攻撃、特に安保条約の廃止要求、軍国主義攻撃(天皇に対する非
難攻撃)﹁政治3原則の強要﹄等、自にあまるものがある。︹中略︺中
共が国交正常化交渉について、前提条件を固執するが如き場合は、交
読みを誤ったことになるのだが、その聞にニクソン・ショックがあっ
実際には同年一 O月、国連代表権は台北から北京へと逆転する。票
湾に深入りしているのは、アメリカよりも、むしろ日本である。今後、
件であるとはいわなかった﹂、﹁アメリカは変わり身が早い。現在、台
周の発言として、﹁目撃平和条約の破棄が日中国交回復交渉の前提条
来総理ら中国要人と会談した印象を橋本恕中国課長に内話したもの。
た。日中国交正常化については慎重な姿勢であり、田中内閣の成立が
中共との関係においては、アメリカが先行して、日本がとり残される
渉は開始されないであろう﹂。
これを転換させる。
のではないか﹂、﹁佐藤首相ではダメだと考えている﹂など。
同時に、台湾の国連代表権を死守しようとしていた日米にくさびを打
周の発言は、日華平和条約の廃棄を前提にしないなど柔軟であると
中国諜﹁台湾の法的地位について﹂一九七一年二月二五日。一月
つものともいえる。アメリカの対中接近を示唆する内容でもあるが、
一回、台湾の法的地位について
二一日付け条約局調書﹁中国問題の法的側面について﹂を引用し、﹁わ
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史料紹介. 日中国交正常化 J(服部)
r
日本がそれを重視した形跡はない。
﹁朝日新聞﹄一一O 一一年一二月一一一一一日朝刊一二面、﹃信漉毎日新聞﹄
一二月一一一一一日朝刊一面は、筆者のコメントを交えながら、この文書を
大きく取り上げている。
一七、日中関係に関する周恩来発言
中国課﹁中共・クウェート聞の外交関係開設と国府の態度﹂
一九七一年三月二九日。
ニO、米国の中国政策(出張報告)
橋本恕中国課長﹁米国の中国政策(出張報告)﹂ 一九七一年四月
一一一目。﹁わが国の中国政策は、米国に同調することを第一の主眼と
する必要はなく、わが国の国益を主として、自ら決定すべきである。
一九七一年四月
一九七一年四月
中国課﹁国民党実力者の内話﹂一九七一年四月一九日。李焼中国国
民党台湾省委員会主任委員が橋本恕中国課長に内話したもの。尖閤諸
島問題について、﹁昨日、蒋経固から、本件に関して台北・台中等に
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中国課﹁日中関係に関する周恩来の発一言﹂一九七一年三月一七日。
ア
端的にいって、繊維問題その他で?﹂じれた﹄日米関係を、中国問題
局
日中覚書貿易事務局長の大久保任晴が橋本恕中国課長に内話したも
昇
華
務照
孝
祥
で改善しようと考えることは、誤謬である﹂。
ガZ
の。周恩来は、日本側覚書代表団と会見し、﹁日中関係のような重要
ナ曹
な問題は、事務下僚に任せるべきではない。日中政府間接触の第一歩
は、日本の現職の外務大臣か総理が北京に来ることだ。前外相とか元
総理でなく、現職の外相か総理が来てくれるなら、いつでも北京の空
港をあけて待っている﹂と述べた。
ユ
/
にい
って
長
て
宮乙
- y
二三、国民党実力者の内話
の共
﹁周はじめ中共側要人は、すべて次の日本の総理が誰になるかとい
う点に強い関心を示し、口々に見透しを質問した﹂。
一八、国交樹立に関する中共・クウェイト共同コミュニケについて
中国課﹁国交樹立に関する中共・クウエイト共同コミュニケについ
て﹂一九七一年三月二四日。﹁いわゆる﹃カナダ方式﹂と比較した場合、
台湾問題に全く言及されていないことが大きな特徴である﹂。
一九、中共・クウエイト聞の外受関係開設と国府の態度
政の
府中
議費
中貿
共易
貿制
易眼
制緩
限和
緩措
和置
措に
置つ
日眼
。晋力
作ナ
外ダ
務外
審務
「政
米府
三法一
四中二
日因
。諜米
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2月)
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L
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L
ER
月
報ー
しh
七
につき合意をみた﹂。
二八、中共情勢について
法眼晋作外務審議官﹁中共情勢について
て、発言力も往時ほどでなくなっている。張群に代って、最近、黄少
﹁張群は最近、とみに体力、気力が衰えており (83才)、したがっ
通が保たれ、緊密に協議を行なうことである﹂。﹁わが方の基本的な立
分(総理)が最も重要であると考えるのは、日米聞に完全な意思の疎
の会談において、佐藤栄作首相が中国問題について述べた要旨。﹁自
であるが、いずれにせよまず台湾の国連における議席を確保する要が
その場合台湾が安保理常任理事国として残ることとなればなお更結構
谷(国家安全保障会議秘書長)が発言力を増加しつつある。とくに外
中国課﹁総理・マイヤl大使会談﹂一九七一年六月三日。六月二日
ニ丸、総理・マイヤl会 談
一九七一年六月三日。
イ エ ツ ユ ル ヒ ア l紙論説員エルニスト・クックス博士の来信)﹂
(5月1 4日付在スイスノ
一九七一年六月一目。﹁米国の中国政策は現在のままでよいという点
中国課﹁米国のアジア・太平洋地域大使会議における中国問題討議﹂
ニ七、米国のアジア・太平洋地域大使会議における中国問題討議
叔i:
韓国の大統領
プリ
フ
1
カオ
大
,
1
)
おいてデモがあったので急拠帰国せよとの電話があり
選挙視察をやめて、帰国することとなった。尖閤諸島の問題は、わが
国政府として、きわめて頭の痛い問題である。学生達は、愛国心から
デモ等を行っており、心情的には理解できる面もあるが、本件問題は、
それ程簡単な、直ちに解決しうる問題ではない。また、本件に関し、
必らず中共が関心を示すであろうし、わが国としては、そのことをも
考慮して、慎重に対処しなければならない﹂。
二四、台湾の法的地位に関する国務省見解
﹁台湾の法的地位に関する国務省見解││第九一回米国上院議会の
﹁米国の安全保障条約及び対外コミットメントに関する小委員会﹄公
聴会(通称サイミントン委員会)記録﹂。
二五、台湾内部の動揺
中国課﹁台湾内部の動揺﹂一九七一年五月一 O日。新聞記者を台湾
日中
場は何とかして台湾を国連にとどめる必要があるということであり、
に派遣して、張群ら国府要人らと接触せしめ、帰国報告を受けたもの。
ア国
メ課
交問題において然り﹂。
二六、オーストリアの中共承認
一部一
の。駐
史料紹介・「日中国交正常化 J(服部)
あるということである﹂。
中国が国交樹立の条件を明示するのはまれであり、一九五九年の﹁対
日政治3原則﹂も単に﹁日中関係において遵守されるべき原則﹂の条
件として述べられたに過ぎなかったという。別添によると﹁対日政治
3原則﹂とは、中国敵視政策をやめること、二つの中国の陰謀に加わ
三O、自民党若手議員、公明党等の訪中
中国課﹁自民党若手議員・公明党・覚書貿易等の訪中﹂一九七一年
らないこと、日中両国の正常関係の回復を妨げないこと、であった。
3
. 尖閤諸島問題
尖閤諸島は、沖縄の一部であって、桑港平和条約第3条に
れば、沖縄の一部(桑港条約第3条にいうところの南西諸島
ω
部を紹介したい。
が国の中国政策﹂、﹁尖閤諸島問題﹂、﹁東シナ海大陸棚問題﹂など。
中国課﹁中国問題(新大臣用報告資料)﹂一九七一年七月五目。﹁わ
三二、新大臣報告資料
六月九日。川崎秀二を団長とする自民党・公明党若手議員訪中国、岡
崎嘉平太日中覚書貿易代表の訪中について。
三一、日中国交回復5条件に関する周恩来の発言
中 国 課 ﹁ 日 中 国 交 回 復 5 原則に関する周恩来の発言について﹂
一九七一年七月一日。六月三O日付け本邦各紙報道によると、周恩来
は二八日に竹入義勝公明党委員長と会談した際、﹁公明党の意見﹂を
自ら五点に要約し、﹁この 5点が実現すれば、日本政府と中華人民共
和国との国交を回復することができ、戦争状態を終らせることができ
五点とは、第一に、一つの中国を認め、中華人民共和国政府を唯一
の一部)として、わが国に返還されることとなっている。し
より、現在は米国の施政下にあるが、沖縄返還協定が発効す
の政府と認める、第二に、台湾は中国の一つの省であることを認め、
かしながら、国民政府は、尖闇諸島が台湾に属する諸島であ
る﹂と述べた。
台湾未帰属という誤った見解に反対する、第三に、日台条約は不法で
るという見解をとり、したがってこれが中国の領土であると
を表明している。また国民政府は、最近、本問題を日華聞の
破棄すべき、第四に、台湾のアメリカ軍は撤退すべき、第五に、中国
実際には第四、第五が抜け落ちて、中国側の復交三原則となるのだ
話し合いによって解決すべき旨、わが方に公式に申し入れて
主張し、尖閤諸島が日本に返還されることに強い反対の意向
が、﹁中共と公明党との会談がかなり中共ペ l スで進められているこ
きた。
を常任理事国として国連に加入させる、というものだった。
とをも物語る﹂。
-8
9-
『外交史料館報j第 2
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2年 1
2月)
閤諸島がわが国の領土であることは議論の余地のなき事実で
たがって、この問題については、日華聞の円満なる話し合いに
一方的な権利の主張は国際法上有効なものとは認め難い旨、し
政府は、昨年1 0月以降、国民政府に対し、大陸棚に対する
あるから、尖閤諸島の領有権問題についていかなる国の政府
よって解決すべきであるというわが方見解を再三、申し入れて
政府としては、国民政府がいかなる主張をしようとも、尖
とも話し合う考えはないという見解を累次内外に明らかに
きた。しかしながら、国民政府は、本件大陸棚は国府に帰属す
ω
し、その旨国府にも説明してきた。
捜し合うことは、日華聞の友好協力関係に悪影響を及ぼす恐
前記尖閤諸島問題と同様、東シナ海大陸棚問題をめぐって日華
ための目撃聞の話し合いは開始されていない。政府としては、
るという主張を固持して譲らず、したがって、未だ本件処理の
れがあり、かっ、またこの問題をめぐって日華の対立が浮き
の友好関係が悪影響を蒙むることは日華双方にとって損失であ
しかしながら、尖閤諸島領有問題をめぐって日華双方が反
ぼりにされるにおいては、中共をして日華の友好関係に棋を
るという観点から本問題の円満解決を目指して忍耐強い努力を
ω
打ち込む絶好の口実を与えることになるので、日華双方の政
払ってゆく方針である。
一l O
七O八
﹁カナダの中共承認(報道)﹂二O 一
イタリアの中国承認に関するもの。紙幅の関係から省略としたい。
一l O
﹁中共承認/イタリア(諸外国の反応)﹂二O 一
七O九
ベルギーの中国承認に関するもの。紙帽の関係から省略としたい。
﹁中共承認/ベルギー﹂ニO 一
一 l O七O七
府は本問題を重大問題としないよう極力配慮する必要があ
又制。
4
. 東シナ海大陸棚問題
ここ数年来、各種の学術調査により東シナ海大陸棚にかなり
豊富な海底油田が存在する旨伝えられてから、東シナ海大陸棚
問題について日華双方及び中共において強い関心が示されるよ
うになった。国民政府は、一昨年7月、一方的に東シナ海大陸
棚の領有宣言を行ない、その後、中華民国の圏内法に基づいて、
海底油田の鉱区を設定するとともに昨年7月、国府は米系石油
会社と海底油田の共同開発計画を締結した。(ただし、現在ま
でのところ、国府側は試掘をはじめ海底油田開発に未だ着手し
ていない)
一卯一
史料紹介・「日中国交正常化 J(服部)
カナダの中国承認に関するもの。紙幅の関係から省略としたい。
﹁田中総理中国訪問﹂二O 一
一 l O七二一
﹃中華週報﹄第六三人号、
一九七二年一 O月一 O日からの抜粋。
玉、日中共同声明関係想定問答
﹁日中共同声明関係想定問答(北京記者会見用)﹂。欄外に﹁北京に
来総理、張春橋上海市革命委員会主任のスピーチが日本語と中国語で
九月二五日から二九日にかけて、数回行われた田中角栄首相、周恩
日華平和条約は、もはや台湾との関係においては存続の基盤がなくな
については、﹁わが国と台湾との法的関係は解消することとなるので、
正常な状態﹂などに関するもの。日華平和条約が﹁存続の意義を失う﹂
おいて作成の跨邑版﹂とある。共同声明前文および第一項における﹁不
収録されている。なかでも重要なのは、訪中初日の九月二五日、周恩
ったわけであり、また、この条約を今後日中聞において適用していく
一、田中総理訪中スピーチ一覧
来主催の晩餐会における田中スピーチだった。初日ということもあり、
ことはできない﹂と説明されている。
の
交
霊
-9
1-
テレピ中継もされていた。
外
スピーチは事前に配布され、翻訳もなされていた。中国側も、少な
六、外相説明
明
演
説
外
相
くとも外交部の事務レベルでは、スピーチを事前に知っていたことに
﹁日中共同声明に関する大平外務大臣の対プレス説明﹂ 一九七二年
所
信
表
なる。
九月二九日。大平談話として知られているものであり、﹁日華平和条
約は、存続の意義を失ない、終了したものと認められるというのが日
理
二、報道関係
本政府の見解であります﹂と結ぼれている。
Z耳
二階堂進官房長官による邦人記者に対するプリl フイング。
七、英文テキスト
.
d
.
三、羽田空港到着時の田中総理ステートメント
総
日中共同声明の英文テキストが、各在外公館長に宛てて送付されて
回
国
﹁羽田空港到着の際における田中総理大臣のステートメント﹂
7
0
いる。
第
。
一九七二年九月三O日
四、台湾外交部反応
八
『外交史料館報』第 2
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2月)
調査部﹁回章﹂一九七二年一 O月二四日(外相による外交演説案、
第五稿)、中国課﹁大臣の国会における外交演説原稿﹂一九七二年
一O月二二日、企画課長﹁第七O回国会田中総理所信表明演説案ご検
討依頼﹂ 一九七二年一 O月二O日など。
九、日中共同声明に関する決議に対するステートメント
中国課﹁日中共同声明に関する決議に対するステートメント﹂
挨拶、共同声明、記者会見、田中のステートメント、大平正芳﹁日中
国交正常化を終えて﹂(一 O月六日、帝国ホテル)など。
アジア局中国課﹁田中総理・周恩来総理会談記録 (1972年9月
2 5日1 2 8日)│日中国交正常化時交渉記録﹂。会談記録としては
最重要だが、情報公開請求。一│四一一 l 一(外交史料館で写しを公開)
などで知られている。一九七二年当時のものではなく、一九八八年九
月にタイプしたもの。ニ O O八年に一九七二年の記録の開示請求を
ましたが、該当する文書を確認することが出来なかったため、不開示
行ったが、﹁請求文書が含まれている可能性があるファイルを検索し
中国課﹁日中間の懸案事項﹂一九七二年七月一 O 日。﹁中共は
(不存在)としました﹂(以下、﹁不開示(不存在)﹂)という回答だっ
(1972年9月2 6日j27日)│日中国交正常化時交渉記録﹂。情
報公開請求。一 ll
四一一│一一(外交史料館で写しを公開)などで知られ
ている。一九七八年五月にタイプしたもの。同様に二 O O八年に
一九七二年の記録の開示請求を行ったが、﹁不開示(不存在)﹂という
回答だった(情報公開法による外務省開示請求、二O O人│六四六)。
田中・周恩来会談記録、大平・姫鵬飛会談記録の原本については、
情報公開請求以外にも調べたことがあるものの、一部しか解明できな
かった。
一九七二年九月二七日の田中・毛沢東会談については、記録がもと
から存在していない。田中、大平、二階堂が毛沢東らと書斎で会った
-9
2-
一九七二年一一月八日。
1971年1 2月3 0日以来、尖閤諸島に対する領有権を公式に主張
た(情報公開法による外務省開示請求、二O O八│六四六)。
二、田中総理大臣の中国訪問
外務省﹁田中総理大臣の中国訪問﹂ 一九七二年一 O月。日程、名簿、
アジア局中国課﹁大平外務大臣・姫鵬飛外交部長会談(要録)
しはじめたが、わが政府としては、同諸島がわが国の領土であること
は議論の余地なき事実であるので如何なる国の政府とも同諸島の領有
権問題につき話し合う考えはないとの立場を堅持している﹂など。
中国課﹁日中国交正常化後わが国から中国を訪問した主要団体リス
一九七三年二月七日。
中国課﹁請願に対する処理意見について﹂ 一九七二年三月一七日な
一
O、日中国交正常化促進に関する請願書
ト
ど
史料紹介・「日中国交正常化 J(服部)
際、外務省員は入っていなかった。通訳は中国側の王妓賢、林麗韓だ
けだった。実質的な交渉の場ではなかったとはいえ、本来は日本側の
通訳や記録者を入れるべきところだろう。
田中・毛沢東会談についても、二OO八年に一九七二年の記録の開
示請求を行ったものの、﹁不開示(不存在)﹂という回答だった(情報
﹁日・台政治関係(日中国交正常化の反響)﹂二O
O七一五
宇山厚駐台大使から大平外相宛て電報﹁蒋経国行政院長と前回日情
一、台湾の反響
なお、後に述べるように、﹁日中国交正常化(重要資料)﹂(一一O一一
工商会理事長との懇談(報告)﹂一九七二年七月一二目。宇山はその後、
公開法による外務省開示請求、二OO入│六四六)。
│O七二O)は、田中・毛沢東会談について大平が語った文書を収録
沈昌焼外交部長や張群、孫運稽経済部長らと会談し、日中国交正常化
中国課﹁中華民国蒋経国行政院長の談話(在京中華民国大使館より
協力関係に重大な影響を及ぼすことになる﹂というもの。
ようになれば、国際間における日本の信用、および中華民国との友好
して手交した。声明とは﹁もし日本国政府が﹁国交樹立﹄を談判する
二一日。林金重駐日台湾大使館参事官が沈外交部長の声明を口上書と
中国課﹁日中関係に関する国府外交部長の声明﹂一九七二年七月
後も日台経済関係を維持するのは容易ではないと大平に伝えた。
している。
﹁日中国交正常化(諸外国の反応)﹂二O一一lO七一O
各国新聞論調の要約、台湾、アメリカ、アジア、オーストラリア、
中近東、アフリカ、南米、西欧、東欧など諸外国の反応、日本の在外
公館と中国の接触に関するものなど。紙幅の関係から詳細は省略とす
アジア局長﹁大平大臣1彰大使会談﹂一九七二年八月一六日。大平
わが方に対する通報)﹂一九七二年八月九日。
一例として、スナイダ l米国務次官補代理の内話として、﹁日中国
は彰孟絹駐日台湾大使に対して、日中国交正常化は﹁断腸の思いで行っ
る
。
交正常化の動きについて米国政府としては基本的にその方向を支持し
ている﹂と語った。
二、華僑の反応
ているが、政府部内には極めて早いテンポでことが動いていることに
つき危ぐの念を持っているものがいる﹂と伝えられた(牛場信彦駐米
大使から大平正芳外相宛て電報、一九七二年八月二四日)。
-9
3-
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2月)
中国課﹁日中国交正常化の動きに対する主要国の反応﹂ 一九七二年
八月二五日など。
﹁日中国交正常化(米、台の反応)﹂二O一一│O七一人
一、日中国交正常化に対する米国の反応
駐米大使館や総領事館からは、田中・ニクソン会談に対するアメリ
2. わが国政府の立場と意見は既に、わが国政府首のうより詳細
にシイナ特使にお伝えした。
3. 日本と中国共産党なるはん乱集団との国交じゅ立は、単に中
日平和条約を廃棄し中日国交関係を破かいするのみではなく、
日本とアジアに止どまるところを知らないわざわいを招来する
であろう。
同じ電報は、﹁日中国交正常化(諸外国の反応)﹂二O一
O七一一にも含まれている。
椎名訪台に関する台湾の報道として、九月二O日の宇山電報は蒋経
け菌
カの報道、国府系諸国体による抗議文、牛場信彦駐米大使とロジャー
A
Jら>IL
-94-
国行政院長の発言をこう伝えている。
直
言慢
ス長官との会談などについて、情報が寄せられた。
情 ζ
本省では、情報文化局報道課が﹁米紙﹃週間論調﹄││九月七日よ
現在の目撃関係のすべては1952年に台北にて締結された目撃
ずゆ
り十三日まで﹂(一九七二年九月二O日)などを作成している。
平和条約に基いたものである。︹中略︺若し日本政府がかかる基
ばんそのものを破かいするなら日華両国及びアジア太平洋地域に
り
二、日中国交正常化に対する国府の反応
発生するであろう一切の不幸な結果は日本政府が全責任を負うベ
e
椎名悦三郎の訪台と前後して、宇山厚駐台大使からの電報が多い。
きである。
事
i
の 、
国民大会の憲政研討会外交委員会会議の対日抗議決議、外交部声明、
ノゲ
誠,
椎名・蒋経国会談後の行政院新聞局長声明に関するものなど。
感F
日付は前後するが、九月一七日の字山電報は、椎名一行が台北の空
+の
宇山は一九七二年九月二三日、沈昌焼外交部長に呼び出された。沈
T 特
3
:別
港で取り囲まれた様子を記した。
八港
日
は蒋介石の命により、田中宛て蒋介石﹁メッセージ﹂を宇山に伝えた。
空白
筑立
議峯
プ
z
し
極
め
供三
)
その内容は、次の通りである。
- シ イ ナ 特 使 が 携 行 さ れ た9月1 3日付貴簡はい承した。
民特
間使
諸一
団行
体は
史料紹介・「日中国交正常化J(服部)
取り囲まれた。デモ隊は抗議文、くだもの、たまご、いし等を自
護衛車に取り固まれていた特使車を含め、各車とも一時デモ隊に
書、ニO O人
l七一五)。
その前後の史料しか出てこなかった(情報公開法による外務省開示文
ている。二O O人年に外務省に対して情報公開請求を行った際には、
一 l O七一一
﹁日中国交正常化(諸外国の反応)﹂ニO 一
動車に投げつけ、つばきをはきかけ、またコンほう、プラカード、
足等で乱打し、全車りようとも破損をきたし、自動車2りょうの
まどガラスにはひび割れを生じたが、人体に対する危害はなかっ
た。この聞を通じ当国警察当局は普備のためちん着に大いに努力
宇山電報は、台北の空港から宿舎に向かう椎名一行の車列配車など
スコにおける華僑団体の日中国交正常化反対声明、シンガポールの論
香港における国府系団体の日中国交正常化反対運動、サンフランシ
した。
のほか、台湾からの要請によって、空港ステートメントの中止を事前
調、玉置和郎参議院議員の訪台、国民党中央常務委員会資料、福永一
一、国府・国府系華僑
に決めていたことを示している。駐台日本大使館は、椎名が到着時に
臣衆議院議員らと教育界などの懇談会、椎名悦三郎の訪台と宇山厚駐
台大使所感、椎名訪台時の高雄情勢、田中訪中発表に関する台湾外交
発表する予定のステートメントを台湾外交部に見せていたが、沈昌焼
外交部長が書面でこれを批判し、﹁シイナ氏が当地に到着後また当地
部声明、田中訪中直前の沈昌換外交部長内談など。
﹁日中国交正常化︿田中総理中国訪問(諸外国の反応))﹂
新聞報道が多いため省略としたい。
州、八、中近東、九、アジア
二、西欧、三、アメリカ、四、米州、五、ソ連、六、東欧、七、大洋
滞在期間中に政策的な如何なるステートメントまたは談話をも発表さ
れないことを希望する﹂と要請していた。
九月一四日の宇山電報は、﹁ショウ総統との会見は総統りょう養中
のため殆ど不可能の模様である﹂と伝えていた。そのほか、蒋経国行
政院長らの対日メッセージ、宇山・張群会談、字山・沈昌換会談など
に関する電報もある。
椎名訪台で最重要となった蒋経固との会談記録は本ファイルには含
まれないものの、中江要介﹁椎名悦三郎・蒋経国会談記録││﹃中江
メモ﹄﹂(﹃社会科学研究﹄第二四巻第一号、二O O三年)で紹介され
-9
5-
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2月)
ニO一一│O七一四
一、台湾
一九七二年九月二九日の外交部声明などが採録されている。
一O月二日の字山駐台湾大使電報は、断交直後の台湾について九月
三O日の﹃民族晩報﹄記事を要約した。一部を紹介したい。
外交部は一度出来上がった声明文をさらに手直しするとのこと
で、発表が遅れる。︹中略︺
午後1 0時3 0分になりやっと柳情報司長が発表を行なう。
外交部の l官吏は、自分(台湾の記者││服部注)に次の通りの
べた。
﹁わが立国の精神は、軽々しく報復を口にしないことだ。今度
のことは田中角栄の﹁官進英雄主義﹂によるものであって、日本
の多数人民はわが中華民国を擁護する友好善隣の士である。田中
角栄のやったことには、田中自身が責任をとればよいのであって
多数の善良な日本人とは関係がない。﹂
断交の夜、台北の街とくに日本人が多くあつまるところは日頃
のにぎやかさがない。日本人は大部分自宅かホテルにひっこんで
いるのであろう。︹中略︺
中華民国断交の夜、一切は極めて平静である。この平静のうち
にどれだけの人が悲痛な断腸のおもいをしていることか。
講和条約を敗戦国の側が破棄するのは、異例のことであろう。台湾
の報復が懸念されたが、そうはならなかった。
=、アジア・大洋州
シンガポール、ラオス、パキスタン、インド、マレーシア、インド
ネシア、韓国、タイ、北朝鮮、フィリピン、カンボディァ、香港、ア
ルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランドの新聞報道など。
一、中近東
イラク、クウェートの新聞報道など。
四、アフリカ
エジプト、ケニア、モロッコ、 マダガスカルの新聞報道など。
﹁日中国交正常化(諸外国の反応)﹂二O一一10七
﹁ニューヨーク・タイムズ﹄などに掲載された華僑団体の田中訪中
に対する抗議、日中共同声明発出前後の高雄情勢、日中共同声明に対
するマレーシア、インド、インドネシア、韓国、ニュージーランド、
アメリカ、カナダ、 メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ベ、不
-96-
史料紹介・「日中国交正常化J(服部)
ンランド、ドイツ、ソ連、アルパニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、
ズエラ、ペル l、ニカラグア、フランス、イギリス、アイルランド、フイ
関係は日中関係に悪影響を及ぼさざるかぎり従来どおり維持してゆく
目。﹁台湾との関係については人の往来ならびに経済・貿易等の実務
経済局﹁台湾に対する経済協力方針について﹂一九七二年一 O月五
外相が記者会見の際公表することにした。私達が日米安保問題に
題について触れなかったのだ。しかも日台条約(の失効)も大平
は適用されなくなった。だから私達は話し合いの中で日米安保問
台湾の情況が変わったために日米安保条約の台湾に関する部分
通報したもの。周発言の一部を紹介したい。
周恩来が木村武雄議員に語った内容について、木村が橋本中国課長に
。
中国課﹁周恩来の木村議員に対する説明﹂一九七三年一月三O目
二、周思来
。
三O目
橋本恕中国課長﹁宇山大使記者会見要領(案)﹂ 一九七二年一一月
一九七二年二月一目。
中国課﹁在本邦国民政府大使館、総領事館の不動産処分について﹂
する照会﹂一九七二年一 O月四日。
中国課﹁文部省検定の地図教科書中における中華民国の取扱いに関
る﹂など。
台湾側の債務不履行等の特別な事態が発生しない限り、次の方針によ
との基本方針に従い、既に交換公文で約束ずみの円借款については、
ポーランド、エジプト、トルコ、ス lダンの新聞報道など。
一 l O七
﹁日中国交正常化諸外国の反応﹂二O 一
一、米国・米州
アメリカの新聞報道や﹁全美中国同学反共愛国聯盟﹂の抗議書、カ
ナダ、キューバ、コスタリカ、ペル 1の新聞報道など。
二、西欧
イギリス、アイルランド、ドイツ、ヴァチカン、スイス、デンマ l
ク、ハンガリーの新聞報道など。
三、ソ連・東欧
ルーマニア、チェコスロバキアの新聞報道など。
﹁日中国交正常化(重要資料)﹂ニO 一
一lG七二O
一、台湾
-97-
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1
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2月)
触れなかったことは、中国が安保に費成するとか、もしくは反対
v ことではない。
しなくなったとい つ
もし核戦争がおこるとすれば、二つの国字 l米ソーだけが行な
う資格がある。実際に米ソ間で核戦争が発生すれば日本はこれに
まきこまれざるを得ないであろうが、もし日本が免れ得ないとす
れば、だれが核の傘になるか。それはアメリカである。しかし、
中国は、アメリカが日本のために核の傘になることを歓迎するわ
けではない。
小川平四郎駐中大使﹁本使と周恩来総理との会談要録﹂一九七三年
一七日。実務協定など。
中国課﹁9月8日小川大使と摩承志中日友協会長との会談記録﹂
一九七三年九月八日。実務協定、ソ連情勢など。
目、親書之類
木村武雄議員携行の周恩来宛て田中親書(写して 一九七三年一月
一O目。
小川平四郎駐中大使携行の姫鵬飛宛て大平親書(写して 一九七三
年三月二九日。
小川平四郎駐中大使携行の周恩来宛て田中親書(写して 一九七三
年三月二九日。
。
大平宛て姫鵬飛親書、一九七三年九月一 O目
九月九日。人民大会堂における小川初代駐中大使と周の会談記録。日
本とモンゴルの国交樹立、日中国交正常化一周年、実務協定の推進、
藤井勝志衆議院外務委員長携行の姫鵬飛宛て大平親書(写して
中国課﹁衆議院外務委訪中議員団と中国側関係者との会談記録﹂
台湾関係、航空協定など。
﹁水野政務次官と陳楚大使との会談要旨﹂一九七三年一一月一目。
日。橋本恕中国課長が岡崎会長を往訪した際の会談。
中国課﹁岡崎日中綜合貿易連絡協議会会長談﹂一九七二年一 O月九
玉、会醗
。
田中宛て周恩来親書、 一九七三年九月一 O目
一九七三年九月一一一目。
台湾の扱い、北方領土、日中平和友好条約、ソ連のアジア安全保障体
制、キッシンジャー構想など。
三、小川大使
中国課﹁小川大使記者会見要領﹂一九七三年二月七日。
﹁小川大使・姫鵬飛外交部長会談録﹂一九七三年九月六、七日。姫の
訪日問題、大平外相の訪中問題、実務協定、ソ連のアジア安全保障構
想、北方領土問題に対する中国の支持、中ソ関係、日中国交正常化一
周年記念など。
中国課﹁小川大使と総理及び運輸大臣との会談﹂ 一九七三年九月
-98-
史料紹介・「日中国交正常化J(服部)
一九七三年一 O月一九日。
六、日中関係
中国課﹁日中関係主要事項(国交正常化以降昭和4 8年6月まで)﹂
。
一九七三年七月一 O日
中国課﹁日中間の当面の実務的諸問題﹂一九七三年二月八日。
. 中国との関係における日米関係(ア中)﹂
一九七三年七月二ニ目。﹁8
によると、﹁日本側の﹃貸しとはニクソン・ショックによって生じた
﹁米国に対するシコリ感﹂だが、﹁対米シコリ感は徐々に解消し、昨年
9月、わが国が米国より先に中国との国交を正常化したことにより、
ほほ完全に解消した﹂。
﹁米側の﹃貸し﹄﹂としては、米中対立の時代にも﹁わが国が中国と
経済・貿易交流を進めいわば﹃金儲け﹄するのを米国が黙認したこと
﹁ニクソン・ショックは、わが国にシコリを与えたとは言つでも、
﹁実務協定に関する参考資料(貿易、海運、航空、漁業)﹂。
園贋道彦中国課長﹁日中実務関係の処理状況﹂一九七三年五月七日。
結果としてわが国の対中国交正常化を促進し、またそれを容易にした
を、米圏内では日本に対する﹃貸し﹄とみる向きもある﹂。
大使館土地問題、航空協定、海底ケーブル、海運協定、貿易協定、漁
ことも看過できない﹂。
裏
九
長七
-99-
﹁四協定の進め方﹂。
業協定、遺骨の相互返還問題。
ニクソン・ショックは、日本の頭越しであったことが強調されがち
恕ェ
前よ
中」
中国課﹁日中関係正常化後の両国間の人的交流について﹂ 一九七三
なものの、結果的に日本にとって有利な国際環境を築き、日本がアメ
本支
ゐ話
橋
年七月九日。
リカに先だって中国と国交樹立することを可能にしたということであ
す談
中江要介アジア局参事官﹁中国に関する諸情報││航空協定予備交
ろう。文書は大平に渡された。
任理
赴~
渉のため中国滞在中に得たもの﹂一九七三年四月一二目。
対年
園贋道彦中国課長﹁中国をめぐる日米関係﹂一九七三年七月二六日。
主
自
中国課﹁日豪首脳会談・外相会談発言要領﹂一九七三年一 O月 二
冒す
と z
、
警関
七、第三国(米・加・豪)
*
係
参
害
松浦晃一郎アメリカ局北米第一課長﹁回章木村大臣・キッシン
在中内
中国話
国関
ジャー国務長官会談(発言要領作成依頼)﹂一九七四年一 O月二四目。
管事
松浦晃一郎アメリカ局北米第一課長﹁回章田中総理・フォード大
統領会談(発言要領作成依頼)﹂一九七四年一 O月二回目。
アメリカ局北米第一課﹁日米関係のバランス・シート(試論)﹂
五回飯
田課話
日
三 八
月中
『外交史料館報』第 26号 (
2
0
1
2年 1
2月)
われるので、化学肥料その他について出来るだけのことをしたい﹂な
て話をすることが出来る。中国は食糧不足がかなり恒常的に続くと思
もしたい。現在の日中関係は、今までとは全く違い、相当ハラを割っ
して、田中が語った談話。﹁中国との関係において出来ることは何で
らば訪中後自分にも教えてくれるよう頼んで置いた。︹中略︺
る問題点
1骨格的な部分1に関する中国側の考え方を知り得たな
で、人柄も真面目な人であるので、訪中の際、国交正常化に関す
竹入氏は日中のかけ橋になろうという使命感に燃えている人
田中の信頼感を示す。橋本が中国課長として日中国交正常化を下支え
首相から参事官への談話が残っているは異例であり、橋本に対する
立場が明確でなければならないからである。田中首相は訪米前に
に決めるとの考え方をとった。米国と話し合うに際してわが方の
けた。田中首相はなかなかきめなかったが、結局訪中は訪米以前
自分は田中首相が行けば先方は何とかするだろうとの見当をつ
したことへの高い評価を反映したものだろう。大きな方針だけを示し、
日はコミットできないとの連絡を北京に対して行った。ハワイで
訪中招待受け入れの決断をし、北京訪問招待はお受けするが、期
さらに、﹁周総理を本邦に招待することについては、公式の招待で
米固と協議した際にはわが国が安保条約を堅持する、小骨一本ぬ
後は大平と官僚に任せる田中の手法がよく表れている。
あるかどうかは別として、現在迎賓館を建設中であるので、これが完
かぬと説明してアメリカを納得させた。︹中略︺
周とは認め合う関係であった田中は、建築中だった迎賓館に周を最
表して来ているのであるから共同声明に﹁軍国主義﹂を云々して
首相は自分は軍国主義者も共産主義者も含めて日本国民全体を代
べ、自分が全権を委されたので交渉はやりやすかった。但し田中
総理は共同声明は自分にまかせるからうまくやってくれと述
成したら第一回の賓客として招待したい旨、自分(総理)から周総理
に一言つである。ただ、中国は現在色々の問題をかかえているので、周
︻
マ
マ
︼
初の国賓として招こうとしていた。迎賓館は一九七四年から国賓用の
国民の一部を非難することは出来ない旨述べ﹁軍国主義﹂という
総理も仲々来れないと思う﹂などとも記されている。
宿泊施設となるが、周の訪日は実現しなかった。
究所)﹂一九七三年二月一目。重要と思われるところを抜粋したい。
文で日本側の立場を入れたため論理的に矛盾があるが、これによ
共同声明は妥協の産物である。前文で中国側の言分を入れ、本
言葉を入れる位ならば帰るとだけは注文した。︹中略︺
毛沢東との会談については、日本側の公的記録が残されていないだけ
り過去を清算したという所にとり得がある。共同宣言とするには
調査室﹁日中関係に関する大平大臣の内話(メモ)(於国際問題研
に、長めに引用する。
政治的に過ぎるので共同声明とした。︹中略︺
∞
一
-1
ど
史料紹介・「日中国交正常化J(服部)
台湾については、中国は自分の見る所では相当長い時間帯の中で
とやかく言わないという態度で議論の対象にしなかった。︹中略︺
安保条約については、中国側は、本件は日米聞の問題である故、
言ったと述べた。)アメリカについて、周恩来は今日のアメリカ
コスイギンが長すぎると返答したので﹁それでは9000年﹂と
中した際毛沢東は中ソ聞で一万年議論しようと提案したところ、
った、といっていた。蒋介石については毛・周とも双方高く評価
はダレス外交の誤まりから来ている。 1954年のジユネlヴ協
毛沢東との会見ができることについては中国側は事前に何らの
しているようであった。即ちダレスは台湾、滋湖島と大陸聞に線
考えている模様である。自分は、もし日本の立場を追求して来た
言質をも与えなかった。毛沢東は田舎の横着な長者と言った風格
を引き二つの中国を画策したが、蒋はこれに抵抗して金門、馬祖
定に米国が署名いがドったのは選挙をやるとホlチ・ミンが勝つ
であり、周恩来もきくきゅう如として小さく見えた。きして大き
を離さず、一つの中国を主張し続けたと述べ自分らはそれを多と
ら、先ず米国と交渉して解決してくれと言うつもりであったが、
く豪勢でもない書斎には中国風にとじである書籍が一杯積んであ
し、中国は偶数日に両島を砲撃して蒋の両島保持理由付けを助け、
からやらなかった。あんなことをするからアメリカは泥ねいに入
った。毛沢東はたまたま田中首相が指した本(楚辞)を取り上げ
一つの中国論を支持したと説明した、他方蒋経国はスケールが小
中国側は、この間題に余り深入りして来なかった。︹中略︺
田中首相に謹呈し、四書五経は人民をだます本でありよい本では
賠償については、日本側案によれば中国側声明文中において中
さいとして評価していなかった。︹中略︺
論語の言葉を引用した話をした。ニクソン大統領に言及して﹁自
国側が賠償請求権を放棄する旨明らかにすることになっていたこ
ないが、役に立つこともあると述べて子供の時親に叱られた時に
分はニクソンに一票を投じた﹂旨述べ、民主党よりも共和党の方
可よnut} ヴ
'qd.
とが、中国側を痛く刺激したが、﹁権﹂の字を落し合意した。
4.
守'円
昨秋田中総理に対し、天皇陛下によろしくといったが、これは
5)﹂。いくつか紹介したい。
﹁外国問題に関する中国首脳の発言(事項別
が好きだと述べた。さらにニクソン訪中は、ニクソンが来たいと
申し入れて来たので来いと言ったと説明した。また﹁今度は田中
さんに一票投ずる﹂旨述べた。毛沢東に会ったのは共同声明合意
の前の晩で、姫外相との会談の途中で呼ばれた。自分はこれでま
お茶の話、煙草の話、酒の話が出た。﹁大平﹂という名前がよい
何も天皇制をそのまま認めるということではないので一言申し上
とまるなと判断した。帰ってからまた姫鵬飛と交渉した。その他、
といった。大きな平和だ。(周恩来は別の機会にコスイギンが訪
-1
0
1-
『外交史料館報』第 2
6号 (
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2月)
田中総理との会見で、台湾が中国の一部となっても台湾と日本
との往来は自由にできるように約束してあるので、それらについ
げておく。
(1973. 1. 中旬に訪中した木村議員との会談における周総
祖国訪問団団長として72.9下旬110中旬に訪中した陳規曜
ては守る。つまり、高度な自治区をめざすわけだ。(国慶節慶祝
中国と日本の聞には陸地での国境の問題はない。台湾の問題も
東京華僑総会副会長との会談における周総理発言要旨。 72.
理の発言要旨。在北京大使館報告。)︹中略︺
あり、魚釣島の問題もあるが、魚釣島問題については今後道理を
12.4、第2回九州華僑連絡会議における陳焼曜の報告。)
一O、雑件
策﹂一九七三年四月二一目。
園贋道彦中国課長﹁外務大臣の摩承志との会談についてのプレス対
uc
口
中国課﹁総理と摩承志団長と会談の際のメモ﹂ 一九七三年五月一一
一九七三年四月一四日。
中国課﹁摩承志一行の表敬訪問における総理御発言用参考メモ﹂
モ(屡承志一行の訪日の際に適宜使用)﹂一九七三年四月一四日。
中国課﹁日中関係上の具体的案件等に関する政府関係者御参考用メ
年四月一四日。
中国課﹁屡承志一行の表敬訪問の際の大臣御発言用メモ﹂ 一九七三
九、鹿承志
園贋道彦中国課長﹁岡崎嘉平太氏の意見﹂ 一九七三年七月二三目。
もって話しあえばよい。 (73.4. 小川大使に対する董必武の
発言。在北京大使館報告)︹中略︺
日本が日米安保条約により米国の核の傘の下に入ることは、ソ
連の核を考えるとき、現時点ではやむをえない。しかし将来たと
え日本が米国の核の傘と交替に中国の傘を求められでもそれはで
きない。中国にはそれだけの核能力もないし、また、何よりも中
国の核はあくまでも防禦用であって攻撃用ではないからである。
(73.1. 中旬に訪中した木村議員との会談における周総理発
言要旨。在北京大使館報告)︹中略︺
中国側はわが国のチユメニ、イク lト、サハリンの資源開発問
題に関しては現状の説明を求め、強い関心を示した。 (73.1.
中旬に訪中した中曾根大臣と周総理との会談の模様。在北京大使
館報告)︹中略︺
中国政府は、武力で台湾を開放するようなことはなく、台湾省
の人民の力によって解放する。中華人民共和国が建国されたとき
も、約8年間チベット省に費やし、台湾省にあって2 0年ぐらい
の期聞が必要であると思う。
-1
0
2-
史料紹介・「日中国交正常化J(服部)
中国課﹁﹃楚辞集注﹄について﹂ 一九七二年一 O月一七日。 一部を
紹介したい。
楚辞集注は楚国の忠臣、屈原が作った詩を後世の学者が註釈し
条・条
田村教授の見解(別添)の要点は、共同声明第三項は日本政府
が台湾の中国への帰属を法的に認めたことを意味するとの前提に
立ちつつ、日本政府のかかる承認はサンフランシスコ対日平和条
法的立場にない筈である、というところにあると考えられる。
約第二条刷の修正を意味するが、日本政府は、同条約を修正する
たものを集めた本である。この詩は﹁離騒﹂といい、措字用語が
r難解である。この本は中国の文学史、あるい
奇麗であるが二一似
右に対する政府の立場は、次の通りである。
日平和条約第二条仰の規定から明らかである。
関して独自の認定を下す立場にないことは、サンフランシスコ対
法的に認めたものではない。日本政府が台湾の現在の法的地位に
1. 日中共同声明第三項は、日本政府が台湾の中国への帰属を
は詩に志す人が、最初に読まねばならない本とされている。
屈原は楚国(揚子江以南、紀元前三百年)の官吏で愛国者であ
った。︹中略︺
毛主席は郭沫若と共に中国の大詩人であり、また、平素屈原を
研究し尊敬しているので、田中総理に﹁楚辞集注﹂を贈られたも
2. しかしながら、同時に、カイロ、ポツダム両宣言の経緯に
に返還されるべきだというのが、日本政府の政治的立場である。
のであろ、ヮ。
条約課﹁日中共同声明の第三項(台湾問題)に関する田村教授の見
ポツダム宣言第八項に言及したのはこの趣旨に出るものである。
照らせば、台湾は、これらの宣言が意図したところに従い、中国
解に対する反論(メモ)﹂一九七二年一 O月六日。田村幸策の見解に
3. 従って、日中共同声明第三項は、平和条約第二条仰を修正
こ の フ ァ イ ル だ け は 、 二 O 一二年七月=二日に公開された。
一
一l O七六人
﹁日中国交正常化﹂ニO 一
するものではない。
関するもの。別添を除いた本文を紹介したい。日中共同声明第三項に
ついて、法的立場と政治的立場を区別し、サンフランシスコ講和条約
第二条仰を修正するものではないとする。
)l
日中共同声明の第三項(台湾問題)に関する田村教授の見解に対
する反論(メモ
四七・十・六
-1
0
3-
『外交史料館報』第 26号 (
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2年 1
2月)
二O 一一年一一一月に公開された﹁日中国交正常化﹂一五冊を補うもの
である。ファイル名は﹁日中国交正常化﹂となっているが、時期は
一九五一年一一一月から一九六五年一 O月までであり、一九七二年の日
中国交正常化に直結するものは少ない。
中国課、法規課、国会答弁の抜粋などが含まれている。重要と思わ
れるところは、次の二点であろう。
第一に、台湾の法的地位をめぐって、日本、アメリカ、イギリス、
ソ連の聞で立場が論じられている。台湾外交部は、台湾未帰属論を批
ヨーロッパ、アフリカなどの例。
。
条約局法規課﹁分裂国家とわが国の関係﹂一九六五年一 O月
一
一
一O目
(
E
) 中国﹂から一部を紹介したい。
﹁
ω各国の立場
ω 1 9 6 5年1 0月1 3日現在中華民国政府を承認している
国は5 7カ国、中共を承認している国は5 2カ国であり、セ
ネガルは双方を承認していると主張している。
第二に、後宮虎郎アジア局第二課長研修所講演﹁日華平和条約交渉
のいずれも承認していないが、中華民国の領事館を接受して
に領事館を維持しており、マレイシアは中華民国政府と中共
なお、英国は中国を承認しているが、台湾においても淡水
経緯﹂一九五二年六月二五日である。日台交渉の内実を示しており、
いる。
(1961年)では重要事項指定決議が採択されるとともに、
の国際先例﹂
わが国は日華平和条約締結(昭和2 7年8月5日発効)
-1
0
4-
判するようなステートメントを発表した。
後宮は所管の課長だけに信愚性がある。順に見ていきたい。
∞ 国 連 に お け る 中 国 代 表 権 問 題 に 関 す る 審 議 は 第1 5総会ま
法規課﹁領事関係と国家.政府の承認との関係﹂一九六O年一一一月
中共加盟を支持する案は否決された。続いて第1 7総会及び
では審議を棚上げする決議が採択されていたが、第1 6総会
一六日。﹁向従来から領事館が設定されている場合に認可状なしに領
第1 8総会においてもそれぞれ中共加盟を支持する案が否決
一、政府承認問題
事を派遣、接受することは承認を意味しない。(台湾における英国の例、
されている。
(EoER5)
(
i
)
する場合には認可状を伴はないときでも明示の留保がない限り承認と
解される倶れがある。)﹂など。
法規課﹁領土帰属に関する住民投票
一九六四年一一一月二五日。第一次世界大戦後、住民投票が実施された
が
中国
基華と
本民の
的国関
関 係
係
満州国における米国の例。但し従来領事館が存在せず新に領事を派遣
(
4
)
(イ)わ
史料紹介・「日中国交正常化 J(服部)
によって、中華民国政府によって代表される中国との平
和を回復した。
なお、日華平和条約付属交換公文第1号は、同条約の
5. 台湾の法的地位に関するわが国の見解
台湾および諺湖諸島の帰属は、カイロ宣言およびポツダム
政府は、
ω
宣言によって政策的に中国領有とすべきものとされたにとど
条項は﹁中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に
現にあり、または今後入るすべての領域に適用がある﹂
まり、法律的に確定したものではない。
わが国に関する限り、サンフランシスコ条約によりこれら
地域に対する領有権は完全に消滅したものであるが、その最
終的な法的地位の確定は連合国が決定すべきものである。と
“
ヮ
と規定しているが、これは平和条約の関係条項の適用に
あたって中華民国政府の事実上の施政領域範囲が問題と
なるような場合にこれに従うというにすぎない。
(台湾及び諺湖諸島の帰属はカイロ宣言、ポツダム宣
いう見解を一貫してとってきた。
湾及び諺湖諸島に対するすべての権利、権限及び請求権
︹中略︺米国政府は国民政府が台湾および膨湖諸島に
米国
-1
0
5-
言によって政策的に中国領有とすることが予想されてい
たにとどまり法律的に確定したものではない。しかし、
を放棄しており、わが国に関する限りこれら地域に対す
き任。江司を行使している事実を認めつつも、国民政府が法
6. 連合国の見解
る領有権は完全に消滅したものであり、その最終的な法
的な領有権を取得したとする立場は未だかつて明らかにした
わが国はサン・フランシスコ平和条約第2条により、台
的地位の確定については、日本としては何ら発言権がな
ことはない。︹中略︺
英国政府も、台湾および諺湖諸島はサンフランシスコ条約
であるとの態度を貫いている。
により日本が放棄した領土であるが、その法的帰属は未決定
qh
いわけである。)
二、台湾の法的地位
中国課﹁台湾(諺湖諸島を含む)の法的地位について﹂ 一九六一年
二月二四日。旧連合国のうち米英とソ連の聞で、台湾の法的地位につ
いて見解が異なることを示す。一部を抜粋しておく。
。
円
英
国
ソ
連
『外交史料館報j第 2
焔号 (
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2年 1
2月)
ソ連は、カイロ宣言の規定が法的拘束力をもっとの見解を
とっている。(但し、ソ連はカイロ宣言の当事国ではなく、
あとでポツダム宣言に加入した結果として、間接的に発言し
うるにすぎないと解される。)
木村四郎七駐台大使から大平正芳外務大臣宛て﹁台湾の法的地位に
関する件﹂一九六四年三月一 O目。外交部声明に関するもので、声明
には池田首相への批判が含まれる。
台湾の法的地位に関し、 3月6日外交部スポークスマンは次の
切の権利、権原及び請求権を放棄している。
中国は1945年1 0月2 5日台湾を回復し、省を再び設置し
外電によれば日本の池田首相は国会において、台湾は法律的に
は如何なる国家にも属していないと述べたが、日華関係好転のこ
の際本件が日華聞の国交に影響を与えないことを望むものであ
る。云々
以上御参考までに報告する。
三、諸外国の中共承認問題
1895年の日清戦争後台湾の割譲をきめた下関条約を含む一切
1 9 4 1年 1 2月9 日 中 国 が 日 本 に 宣 戦 を 布 告 し た 際 、
語ったというもの。﹁本件に関係ある過去の事例は、アフリカ諸国と
の中国および南北両ヴェトナムと外交関係を樹立する計画であると
一九六二年七月五目。ラオス連合政府フォンサパン外相代理が、二つ
中国課﹁ラオス連合政府の二つの中国承認問題に関連する事例﹂
の日華聞の条約は全部廃止された。 1952年4月2 8日の日華
の聞に二、三、存するが、中共、国府の双方が一国と同時に外交関係
ような声明を発表した。
平和条約第4条は、﹁1941年1 2月9日前に日本国と中国と
を樹立した例は存しない。﹂
弁資料。法規課による国会答弁追加資料あり。
﹁国会答弁用資料﹂一九六四年二月。中仏国交正常化に関連した答
。
アの分割諸国承認の件﹂一九六三年九月一 O目
倭島英二駐エジプト大使から宮津喜一外相代理﹁ア連合によるアジ
月一一目。
欧亜局﹁アルパニア政府の事実上の承認に関する件﹂ 一九六三年七
の聞で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果と
して無効となったことが承認される﹂と規定している。台湾が中
国に所属することは1943年1 2月1日のカイロ宣言に明白に
規定されており、又1945年7月2 5日のポツダム宣言にも同
様この規定がある。日本は1945年9月2日投降した際ポツダ
ム宣言を受諾している。
日華平和条約第2条によれば日本は台湾及び瀞湖島における一
-1
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6-
た
史料紹介・「日中国交正常化 J(服部)
てくるかもしれないと洩らした。︹中略︺
る意向であることを明示した吉田書簡が日米両国政府によって同
従って数日後、日本は在台国民政府を中国の政府として承認す
中国課﹁吉田・ダレス書簡について﹂一九六O年三月三O目。﹁(大
時に公表されたとき私は驚いた。日取りについても発表について
四、吉田・ダレス書簡(中国問題)
臣の国会における説明要領)﹂。吉田茂﹃回想十年﹄、イ 1デン前イギ
も、私の同意なしに行われたことである。
一九五二年五月二三目、衆議院外務委員会。
﹁台湾の法的帰属に関する日華平和条約批准国会における質疑応答﹂
玉、日華平和条約に閲する国会答弁
件)﹂一九六O年三月一目。
大野勝巳駐英大使から藤山愛一郎外相﹁(イ lデン回顧録に関する
リス首相回顧録を慎重に検討したという。
条約局﹁中国問題に関する吉田内閣総理大臣からダレス大使にあて
た書簡及びダレス大使の返簡﹂一九五二年一月編集。
中国課﹁イ lデン回顧録における吉田書簡問題について﹂ 一九六O
年三月二日。一部を紹介したい。
1951年6月、当時外相であったハ lパlト・モリソンとダ
レスは話合いの結果、英国も米国も日本の中国に対する態度につ
私(イ lデン)もこの見解に賛成であった、とくに、貿易上の
よる講演を記録したもの。﹁後宮虎郎アジア局第二課長研修所講演速
一九五二年六月二五日。アジア局長、駐韓大使などを歴任する後宮に
後宮虎郎アジア局第二課長研修所講演速記﹁日華平和条約交渉経緯﹂
理由からますます強くそういう意見をもっていた。何故ならばも
記﹃日華平和条約交渉経緯﹄一九五二年六月二五日﹂と題して、﹃中
き日本に何ら圧力を加えないことに意見の一致を見た。
し日本が将来再び輸出貿易のためのはけ口を求めるとすれば、中
央大学論集﹄第三四号(ニO 一一一一年)に全文を掲載予定である。
日華平和条約(英文、中文、和文)。
国本土こそは当然のはけ口であることは明瞭であるからであっ
た。私は、日本に中共に対する弾力性のない敵視態度をとらせる
法規課﹁﹃中共政府による日華平和条約の継承問題﹄に関する国会
一二月一六日など。
答弁(抜粋)﹂一九六五年二月八日。衆議院外交委員会、一九五四年
ことによって、日本から中国大陸における市場を奪うべきではな
いということは大切なことであると考えた。︹中略︺
ダレスは、吉田首相から受領した書簡について述べ、上院にお
いて平和条約批准が討議される際、この書簡を利用する必要が出
-1
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『外交史料館報』第 2
6号 (
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おわりに
から一九七八年となる。この部分は、情報公開請求を除けば外交史料
館では公開されていない。
日中国交正常化の特徴は、第二段階と第三段階が分離されたところ
をめぐる国際環境が大きく変化した。一九七一年七月一五日にニクソ
中航空協定(同年四月調印)、日中海運協定(同年一一月仮調印)、日
実務四協定、すなわち、日中貿易協定(一九七四年一月調印)、日
にあった。日ソ問、日韓関の交渉と異なり、日中国交正常化では実務
ン大統領が訪中を発表すると、一 O月二五日には国連総会が中国の加
中漁業協定(一九七五年八月調印)の締結には時聞を要した。実務四
日中国交正常化は便宜的に四段階に分けられるだろう。
盟を決定し、台湾は国連脱退を表明した。中国代表権が台北から北京
協定のなかでも日中航空協定は、台湾が関係するだけに最大の難関
協定をすべて後回しとして、短期間で国交を樹立した。
に移るとき、佐藤内閣は福田越夫外相のもとで台湾の議席を守ろうと
だった。これらに関する史料は、これまでごく一部しか公開されてお
第一段階は佐藤栄作内閣までである。佐藤内閣の最後一年間に中国
して失敗した。
今回は第二段階、つまり田中内閣による日中国交正常化についての
らず、今後の本格的な公闘が待たれる。
しかし中国は佐藤内閣後を見据えており、佐藤内閣で通産大臣だった
史料が多く公開されている。従来、それに関連する外交記録として出
佐藤内閣の末期には、日中国交正常化を模索する動きがみられた。
田中角栄に期待した。今回の記録公開では、中国課が作成した文書な
・要公開準備
されていたのは、﹁日中国交正常化/国会関係﹂(印﹀ -HNN
O l六二四一)などに限られた。
制度二O 一
ど、多くがこの時期のものとなっている。
第二段階は、一九七二年七月七日の田中内閣成立から、九月二九日
この度の公開によって、日中国交正常化における日本の立場が、あ
らためて示された。例えば、﹁田中総理中国訪問﹂(二 O 一 一 │
O七二一)所収の﹁日中共同声明関係想定問答(北京記者会見用こ
の日中共同声明調印までである。その文書が初めて本格的に公開され
第三段階は日中共同声明調印後の調整である。具体的には、各国へ
では、日華平和条約が﹁存続の意義を失う﹂ということの意味を論じ
た
。
の特使派遣、日台断交後の善後処置、日中実務協定などである。現時
ており、日華条約はあくまで合法という解釈である。
O年)
録沖縄返還・日中国交正常化・日米﹁密約﹂﹄(岩波書底、二O 一
詳細は、栗山尚一/中島琢磨・服部龍二・江藤名保子編﹃外交証言
点では一九七三年までしか公開されておらず、この時期の記録は多く
含まれていない。
第四段階は日中平和友好条約までであり、年代でいえば一九七四年
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8-
史料紹介・「日中国交正常化 J(服部)
などに譲るが、復交三原則に象徴される中国の主張を日本がそのまま
受け入れたわけではなかった。復交三原則とは、第一に、中華人民共
和国が中国唯一の合法政府であること、第二に、台湾は中国領の不可
分な一部であること、第三に、﹁日蒋条約﹂こと日華平和条約は不法
であり、破棄されるべきこと、だった。
公開された文書の内容としては、日中国交正常化それ自体もさるこ
とながら、その前後に関連するものが多くなっている。台湾の対日批
判、諸外国の反応、中国との外交関係樹立に際しての大使館開設や初
代大使派遣、実務協定交渉の初期方針、人的交流、各種報道などであ
る
。
そのなかでは相対的に、中国課の情報収集が質量ともに充実してい
る。例えば、佐藤内閣末期における佐藤首相、法眼外務審議官、条約
局などの文書と比較検討すれば、当時の日本側動向が立体的に浮かび
上がるだろ、っ。
近年では、この分野に関する研究が進んでいるものの、情報公開請
求によるところが大きかった。本稿で紹介した文書についても、先行
研究で知られているものが散見される。それでも、日中国交正常化に
関する記録が大型案件として公開されたことは、包括的な研究を促す
うえで意義深いといえる、だろう。
(﹁日本外交文書﹄編纂委員)
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