展覧会の絵 - So-net

その 2
「展覧会の絵」―消えた原画
団長
佐藤育男
後半のステージは二曲。ともにロシア五人組による作品である。一曲目は交響詩
「中央アジアの草原にて」。作曲者のボロディン(1833∼1887)はペテルブルグ医
科大学薬学部の教授でありヨーロッパ中の化学者から尊敬を集めた学者である。
自らを日曜作曲家と称し趣味で作曲した。ムソルグスキーとの交友などに面白い
エピソードもあるが、紙面の関係で別の機会に述べさせて戴きたい。
2 曲目は「展覧会の絵」。原曲はピアノの名手ムソルグスキーによって作曲された
ピアノ独奏曲である。ラベルが管弦楽曲に編曲して世に広まった。モデスト・ム
ソルグスキー(1839―1881)については強烈な印象が 2 つある。1 つは、肖像画。
およそ芸術家らしからぬ、まるで飲んだくれのそれである。友人の画家、イリヤ・
レーピンがムソルグスキーの死わずか 11 日前に完成させた。この戦慄すべき肖像
画は 19 世紀の傑作の一つである。皆様も一度はご覧になったことであろう。レー
ピンは次のように書き残した。
「・・本当にこれが彼なのであろうか?かつては一
点の非の打ちどころもないみなりをし、貴族出身で連隊将校という上流社会の一
員だった人物・・が突然、持ち物やエレガントな衣服さえも売り払って安っぽい
サロンに入り込むと、たちまち赤いジャガイモのような鼻をもった周囲の連中と
区別がつかなくなるのはまったく信じがたい。
・・」若いときの肖像画はハンサム
でおしゃれな青年将校が描かれているが、その 20 年後、誰がこのようなアル中の
孤独死を予測し得たであろうか?
二つ目は、組曲「展覧会の絵」における第四曲「ビドロ」の原画。メロディーも
素晴らしいが、絵にまつわる謎にも魅力がある。1873 年、5 才年上の親友で、画
家・建築家のヴィクトル・ガルトマンが 31 才の若さで急逝した。音楽・美術評論
家で共通の友人だったスタッソフが遺作展を開き、ムソルグスキーはガルトマン
の 400 点もの遺作から 10 点を選んで曲を付けた。それが組曲「展覧会の絵」であ
る。この曲は「ガルトマンの思い出」としてスタッソフに捧げられた。その後、
10 点の原画はロシア革命によってその半数が行方不明となってしまった。10 数年
前、私はテレビで「革命に消えた絵画」という番組を観た。作曲家の団伊玖磨氏
が「展覧会の絵」の原画を捜し求めてロシアを訪問するが、原画の特定作業は容
易でなく難航を重ねた。そして、何とか 9 点までが特定できたものの、残り 1 点
ビドロ(牛)の絵だけがどうしても見つからなかった。その番組では、チャイコ
フスキーコンクールで「展覧会の絵」を弾いて優勝した旧ソ連の若手ピアニスト
が、
「ビドロは『ポーランドの牛車』のイメージではない。むしろ,ショパンの葬
送行進曲のイメージだ」という発言にもとづいて、
「ビドロ」とおぼしき絵を捜し
出した。それは「ポーランドの反乱」という絵で、一人の市民が街角で警官たち
によって首を吊られ,まさに息絶えた瞬間の光景が描かれていた。実は、
「ビドロ」
とは「為政者から虐げられても(牛車を引く牛のように)黙々と従う、おろかな
民衆」という意味の言葉であった。
・・という内容だった。それ以来、この曲を聴
くたびにその番組に思いを馳せていた。
ところが、去る 7 月 23 日、宇部市民オーケストラが今回の指揮者茂木大輔氏に初
めて指導を受けたときのことである。氏はビドロの曲にさしかかると、次のよう
なエピソードを団員に披露した。
「先日亡くなった岩城宏之先生には、ここの表現
は重々しく、まるで罪びとが鎖で繋がれ曳かれて行くように・・と指示されまし
た。
・・牛の話は全然なくって・・牛はどこに行っちゃったんでしょうね・・」と。
これで私の謎はとけた。オイレンブルグ版のスコアを見直すと、題はポーランド
語で bydlo、英語で cattle と書かれている。曲はチューバのソロをファゴットと
弦が伴奏する形で進む。重々しい伴奏の拍子は 4 分の 2 拍子である。
・・2 拍子で
は牛の歩きは表わせない、人の歩きのほうがはるかに納得がいく。そこで、図書
館で調べてみた。ポーランド辞典には、bydlo は、ビドロでなく「ブイドウォ」と
発音し、意味は「角を持つ家畜」(牛を指す)、あるいは人でなし、虐げられた人
とあった。ビドロが牛車でなく虐げられた人々であるならば、また違った弾き方、
聴き方があるのではなかろうか?ちなみにこの「ビドロ」は、ロシアの粘り強く
重々しい陰鬱な音楽で、私はこの組曲のなかで最も好きな曲である。ソロは最近
チューバでなくユーフォニアムで奏されることが多いが、奏者の下濃正浩氏は曲
想をよく伝えて名演である。第 2 曲目の「古城」のソロを吹くアルトサキソフォ
ンの名手安部浩信氏の演奏とともにお楽しみ戴きたい。
指揮者の茂木大輔氏はN響の首席オーボエ奏者で、特にドイツ古典音楽の演奏に
は定評がある。最近、指揮や解説、演奏会の企画等々いろんな方面から引っ張り
だこであるが、宇部市民オーケストラには精緻で迫力のある響きを引き出して戴
いた。9月3日の本番が楽しみである。
追記。CDは、ピアノ版ならホロヴィッツ。聴いたあとア然、聴きなおしてボー
然。オーケストラ版は、ラベル編曲ならフランス的瀟洒でラテンの明るさ輝かし
さでデュトワ盤、ロシア的粘っこさを加味してアシュケナージ盤、さらにロシア
的重々しさが強調された自身の編曲・指揮によるストコフスキー盤。編曲で別の
曲かと思うほど違って面白い。
(2006、8、11
宇部日報)