アレキサンダー大王の伝記

“神に誓う人”エフタ
旧約単篇
士師記の福音
“神に誓う人”エフタ
士師記 11 章
「神に誓った人」の方が、史実を言い表して自然ですが、「誓う人」とし
たのは、私たち自身の中に同じエフタがいるという適用のためです。
エフタの物語を夕集会で読んだのは 7 年前でした。その時は題も「誓いを
貫いた人エフタ」と聞こえ良くしていました。あの時は 10 章、11 章から 12
章の前半までを含めましたし、特に 12 章の「ヨルダンの渡し場の大殺戮」に
ポイントを絞って、主の器であった士師エフタの記事が結局は残酷と流血で
(12:6)幕を閉じる点、それも、同じ主を仰ぐイスラエル同士の憎しみと殺
し合いで終わる悲惨を指摘しています。
「ひょっとしたら、若い時から軽蔑と憎悪を浴びて育った悲劇の人、憎し
みと殺意の固まりのようなこの人の、最後のエネルギーを振り絞った事業が、
まさに血に酔うような、この惨劇だったことを、聖書は告げるのです。それ
がこの、主に用いられてアンモンを撃ち破った英雄の、ナマの姿であったの
は悲しいですね」と語っています。「神の憐れみを要する人間、罪の中にあ
る人間の崇高さと惨めさを、余すところなく描いて、英雄エフタの伝記は終
わります」と、結んでいました。
なぜ、このエフタにもう一度、興味を引かれたのかを考えてみますと二つ
の理由があります。一つはギリシャの黒澤と言われるテオ・アンゲロプロス
監督の映画「アレクサンダー大王」を見たことです。90 年ほど前のギリシャ
の共産村を舞台に、宗教的なカリスマを持つ人物「メガレクサンドロス」
が 7 人の英国人貴族を人質にして立てこもる話です。この人
の幼い頃からの被疎外者としての恨みと、愛する者を殺された憤りとが、救
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済者としてのこの人を燃やしている……だけではなく、この人物が亡妻の連
れ子であった娘と暮らしている状況まで、これは士師記が下敷きになってい
るのだろうか、とも思えました。アレクサンダーは最後に、その娘を反逆者
と一緒に銃殺します。劇の中では、使徒パウロのローマ書の言葉がそのまま
セリフの中にあったり、監督の頭の中には、かなり聖書からの発想があるよ
うに、私には見えました。
もう一つの理由は、ヘンデルの晩年の作品「エフタ」というオラトリオを
FM で、初めて通して聞いたことです。エフタの娘の名がイフィスで、エフ
タの妻の名がストルジェだったりするのは、「えっ、ホント」ともう一度聖
書を開かされましたが、もちろん、これは台本を書いた人の創作です。でも、
「メサイア」より後で書いたと言われる、ヘンデル最晩年の作品を聞きなが
ら、私は、エフタのドラマをもう一度、現代も繰り返される悲劇として考え
ました。もちろん、自分の娘を燔祭にして捧げる行為は今の世界にはありま
せんが、エフタが「信仰」だと信じて疑わなかった不信仰と反抗は、私たち
現代人の中にも、繰り返されていると思うからです。最初から、この人の生
い立ちは不幸そのものでした。
1.ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で、父親はギレア
ドである。 2.ギレアドの妻も男の子を産んだ。その妻の産んだ子供たちは成
長すると、エフタに、「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたち
の父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と言って、彼を追い出した。 3.
エフタは兄弟たちから逃れて、トブの地に、身を落ち着けた。そのエフタの
もとにはならず者が集まり、彼と行動を共にするようになった。
ダビデも不遇の時代には、荒れ野に逃れ、彼の回りには「ならず者」が集
まりましたし、やがてその集団はふくれ上がって、サウル王を悩ませるくら
いになります。
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エフタが遊女の子であったのは、彼の責任ではない筈です。父のギレアド
が外で、しかも遊女に生ませたのがエフタでした。この「遊女」というのが、
文字どおりの「娼婦」であったのか、それとも、今日で言う「自由な女」の
一人だったのかは分かりません。もちろん、エフタの妻は許せなかったでし
ょうし、妻の生んだ息子たちがエフタを軽蔑して、イジメの対象にしたとし
ても無理はありません。イエス・キリストの恵みを知らなかった時代の人で
す。妻も、夫のギレアドと女とを、生涯許せなかったとしても、当たり前で
しょう─キリストの赦しを知っている女性なら、話は別ですが……。時代
はまだ、福音の前なのです。
こういう境遇に育った若者エフタ自身が、ならず者の首領としてカリスマ
的な指導力を発揮して、ついには、ギレアドの長老たちがエフタに頭を下げ
て、町と村を守ってくれるように頼みに行く場面が、次の 25 行です。「七人
の侍」の最初のシーンを思い出します。実際は、あれよりはもっと規模も大
きいのでしょう。それにエフタに従う野武士の群れは七人どころか、少なく
とも七十人はいたでしょう。まだ七百人にはなっていなかったとしても……。
4.しばらくしてアンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきた。 5.
アンモンの人々が戦争を仕掛けてきたとき、ギレアドの長老たちはエフタを
トブの地から連れ戻そうと、やって来た。 6.彼らはエフタに言った。「帰っ
て来てください。わたしたちの指揮官になっていただければ、わたしたちも
アンモンの人々と戦えます。」7.エフタはギレアドの長老たちに言った。「あ
なたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。
困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのです
か。」 8.ギレアドの長老たちは、エフタに言った。「だからこそ今、あなた
のところに戻って来たのです。わたしたちと共に来て、アンモン人と戦って
くださるなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の、頭になっていただき
ます。」 9.エフタは、ギレアドの長老たちに言った。「あなたたちがわたし
を連れ帰り、わたしがアンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださ
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るなら、このわたしがあなたたちの頭になるというのですね。」 10.ギレア
ドの長老たちは、エフタに言った。「主がわたしたちの一問一答の証人です。
わたしたちは必ずあなたのお言葉どおりにいたします」と答えた。 11.エフ
タはギレアドの長老たちと同行した。民は彼を自分たちの頭とし、指揮官と
して立てた。エフタは、ミツパで主の御前に出て自分が言った言葉をことご
とく繰り返した。
打ち砕かれて謙遜になったギレアドの人々の姿と、本当はエフタごとき素
性の怪しい者に頭を下げるのは、沽券に拘わるけれども「背に腹は変えられ
ぬ」事情とが、二重映しになっています。エフタの側にも、神が自分のよう
な者を召してお使いになる、という感動と感謝とから出た“聖なる誇り”と
同時に、あわよくば、この地位を利用して、日ごろ自分を卑しめた人たちを
土下座させてやる。俺の力を示してやるという執念が、この人を燃やしてい
たかも知れません。神の器、神の人を含めて、肉なる者の悲しさが、エフタ
という人物にはモロに出ています。ところで、いつか「アレクサンダー」を
御覧になる機会があれば、私がエフタについて申したことを思い出されるで
しょう。
次の 1 頁あまりは、武力を背景にしての、エフタとアンモン王の交渉と言
いますか……境界線に関する紛争と、非難の言葉の応酬です。
12.エフタは、アンモンの王に使者を送って言わせた。「あなたはわたしと
何のかかわりがあって、わたしの国に戦いを仕掛けようと向かって来るの
か。」 13.アンモンの王はエフタの使者に答えた。「イスラエルがエジプト
から上って来たとき、アルノンからヤボク、ヨルダンまでのわが国土を奪っ
たからだ。今、それを平和に返還せよ。」
25.あなたはモアブの王ツィポルの子バラクをしのごうとするのか。彼はイ
スラエルと争ったり、戦火を交えたりしただろうか。 26.イスラエルはヘシ
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ュボンとその周辺の村落、アロエルとその周辺の村落およびアルノン流域の
すべての町々に三百年にもわたって住んできたが、なぜ、あなたたちはこの
間にそれを取り戻さなかったのか。 27.わたしはあなたに何も間違ったこと
をしていない。あなたこそ戦いを仕掛けて、わたしに不当なことをしている。
審判者である主が、今日、イスラエルの人々とアンモンの人々の間を裁いて
くださるように。」 28.しかし、アンモン人の王は、エフタが送ったこの言
葉を聞こうとはしなかった。
ここで、いよいよエフタの悲劇の部分が始まります。物語の中でも、どの
部分がいちばん悲惨か、朗読を聞きながら、考えてみてください。私はこの
エフタの誓いを読むときに、1505 年、エルフルト大学の学生であったマルテ
ィン・ルターが、突然襲った激しい雷雨の中で、「聖アンナよ、お助けくだ
さい。私は修道院に入ります」と叫んで、二週間後に修道士になったという
話を思うのです。
29.主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアド
のミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。
30.エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの
手に渡してくださるなら、 31.わたしがアンモンとの戦いから無事に帰ると
き、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたしま
す。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」 32.こうしてエ
フタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しに
なった。 33.彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラ
ミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエ
ルの人々に屈服した。
エフタは、「召し使いの一人くらいは、いけにえにしても惜しくありませ
ん」という程度の軽い気持ちで、この誓いを立てたのでしょうか。一見、も
っとも純粋にみえる誓い……そこまで追い詰められれば「無理もない」と思
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われる、いじらしいまでに人間的な誓いの中に、神は、こと“信仰”に関す
るかぎり、人間のもっとも恐ろしい罪と反逆をごらんになったのです。それ
が、この後の裁きに明白に出ています。
34.エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴ら
し、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘も
いなかった。 35.彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わ
たしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になる
とは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」 36.
彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わ
たしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あな
たの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」 37.彼女は
更に言った。「わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わた
しを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わ
たしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」 38.彼は「行くが
よい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々
で、処女のままであることを泣き悲しんだ。 39.二か月が過ぎ、彼女が父の
もとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男
を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。40.
来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフ
タの娘の死を悼んで家を出るのである。
エフタは果たして、娘を燔祭に捧げたのでしょうか。それとも、アブラハ
ムの場合のように、角を薮にかけた羊を見いだして、羊の血を代わりに流し
たのでしょうか。ラビたちは皆、エフタが「誓いどおりに娘をささげた」と
いう 39 節の言葉から、本当に、娘を屠って、祭壇の上で焼き尽くしたものと、
理解していたようです。もし、そうだとしたら……。
私は時々、娘を捧げた後のエフタを想像します。「これだけの犠牲をお捧
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げしたのだから、神も、よもや御不満ではなかろう。最も大事なものを献げ
た私の信仰は、娘を献げないで易々と勝利にあずかった家来や仲間たちの信
仰とは、格段に違うのだ!」―エフタは涙しつつ、自分の行為に自分で感
動していたのでしょうか。
考えてみると、これ以上の悲惨はありません。それはおそらく、手を下し
て娘の頚動脈を切る瞬間のエフタ以上に、悲惨であります。娘の体が祭壇の
上で、焼けて、突っ張って、膨れて、縮まって、ついに灰になるのを見守る
エフタ以上に、この感動と誇りは悲惨なのです。
士師エフタの悲劇が、なぜ士師記に記録されたか? これを私の信仰のこと
として、どう受けとめるか? 人には、それぞれの受けとめ方がありましょう。
私自身にとって、エフタの誓いとエフタの悲劇は、自分に対する警鐘として
響いています。神から一方的に頂いた救いに、自分の功績をさも価値あるよ
うに付け加えるな。「私は、これだけの痛みに耐えて大きな犠牲を払いまし
た。この勝利は一部は私の痛みによって支えられています。」それを言いた
い人は、エフタの悲劇を味わうのです。「律法によって義とされようという
魂胆があなたにあるなら、そのような人はすべて、恵みから落ちて無縁にな
ったのだ」(ガラ 5:4)という、パウロの断言は、実にエフタの誓いの延長
線上にあります。「“霊”で始めながら、今さら“肉”で仕上げるつもりか!」
(ガラ 3:3)とパウロが言ったそのことを、エフタは初めから、畏れを知ら
ぬ者のように、神に挑む者のように、昂然と試みたのです。
神に誓いを立てたために、自分の最も大事な者を犠牲に献げなければなら
なくなる……というテーマは、聖書の外にもあります。モーツァルトのオペ
ラ「イドメネオ」も、ギリシャ神話を下敷きにして、形の上では、同じテー
マを扱っています。というより、同じ状況―シチュエーションを作ってい
ます。もっとも、イドメネオが海神ポセイドンに献げねばならなくなるのは、
娘ではなくて息子イダマンテです。このテーマは、ある意味で、いろんな民
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族に共通のものなのかも知れません。
ただ、海神ネプチューンの意志に縛られて、残酷な運命のままに破滅する
物語と、「わたしの家の戸口からわたしを迎えに出てくる者……を……焼き
尽くす献げ物といたします」というエフタの悲劇の間には、一つの大きな相
違があります。それは、クレタの王イドメネオの場合が、冷酷な“神”の意
志が支配する“神の我がままのドラマ”であるのに対して、エフタの場合は、
人間の肉の執念と誇りのドラマ、引っ込みがつかない人間の神への主張のド
ラマ、恵みを恵みとして受け得ない“人間の意地のドラマ”である、という
点です。少なくとも、聖書の記者は、その角度からだけエフタを描いている
と、私は見ました。
全面的に聖なる神の意志に発して「神に献げる」ことの意味を語るイサク
奉献の記事―「献げて悔いのない」神をすでにその時点で体験しているア
ブラハムを描く、モリアの祭壇の物語(創 22 章)が一方にあり「もしあなた
がアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら」と、誇り高き取引を申し
出るエフタの誓いが他方にあって、私たちは、本当の意味で「神に献げる」
とは何なのか……「献げる」ことにもまして厳しい、重いことは何なのか…
…を学ばせられます。エフタのこの物語は、十字架の千年裏側から、ガラテ
ヤ書の問題に光を当てています。
(1992/02/09,南星台)
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