(2004年5月17日発行) PDF

読書運動通信
16 号
2004 年5月 17 日発行
★特集→先生方の一冊★
はじめに
5月になりだんだんと夏の気配が感じられるようになってまいりましたが、
皆さんお変わりありませんか?最近風邪が流行っているようなので、体調管理
をしっかりしてくださいね。
さて、今回はコミュニケーション学科設立記念号・諸橋先生特集をお届けします。
諸橋先生は、アンケートの回答という枠をはるかに飛び越えて、少年の頃の本
との出会いから青春の日々を経て、現在に至るまでの大河読書記をお寄せくだ
さいました。迫力の 12 ページです。先生、本当に有り難うございました。
今年から設立されたコミュニケーション学科の諸橋先生の一面を、是非皆さ
ん覗いてみてください。諸橋先生の「風の歌」が、少しだけ聞こえるかもしれ
ません。
1
読書遍歴、あるいは本との関係
コミュニケーション学科
諸橋 泰樹教授
■「本」はあったが「おとな向け」過ぎた50年代後半
小さい頃から本好きだったが、ウチも標準的にビンボーだったので、子ども
らしい絵本はほんの少ししかなかった。中でも、たった1冊の「乗り物」の絵
本はお気に入りだったが、それ以外は父がぼくにあてがったアメリカの分厚い
絵本スタイルの辞典のようなものを繰り返し見ていた。1950年代の後半に
は、まだ近所には外人ハウスがあり、道路では濃紺のアメリカンスクールのバ
スやUSエアフォースのジープ、ぺったんこで幅広い外車が走り、近くのアメ
リカ人の子どもたちと遊び場の縄張り争いのケンカをし、外人ハウスにはなぜ
か日本人の女性がおり、クリスマスには玄関にリースやイルミネーションがか
けられ、数駅行けば広いひろいアメリカ軍基地がある時代だったのだ。英語に
よる辞典絵本の絵柄は、そんなアメリカの「独特の匂い」を伝えていた。
ほかに「子どもらしい絵本」といえばせいぜい、幼稚園に上がる前、講談社
から刊行されていたディズニー映画のシリーズ絵本くらいで、これはほぼ全巻
そろえてくれた(しかし後に知人の家にはさらに続刊の本が揃っていたのでシ
ョックを受けた憶えがある)。
親の方針もあったのだろう、年齢より高いものをあてがわれ、幼稚園に上が
る前後からは『少年サンデー』『少女フレンド』のようなマンガ雑誌、小学館
の学年雑誌『小学3年生』をたまに(たとえば旅行先で)買ってもらった。し
かし何せビンボーだったので継続的に買ってもらう余裕などなく、これら数冊
の雑誌を暗記するほど読むか、創刊号から揃っていた母の『暮らしの手帖』の
写真を繰り返し眺めるしかなかった。いわゆる「子ども名作全集」や「偉人伝」
のような子ども向けのものも全く買ってもらえなかったので、従兄妹からもら
った名作集を、これも繰り返し読んだものだった。
小学校に入る前から、1950年代はじめに配本されぼくが生まれる前から
家にあった、筑摩書房の文学全集の宮沢賢治や芥川龍之介、河出書房の世界文
学全集のマーガレット・ミッチェルやヘッセ、全巻そろっていた下村湖人の『次
郎物語』などに、親がルビを振ってくれて、読まされていた。しかしいかんせ
ん漢字が旧字体だったりして読みづらいことこの上なく、読んだ気がしないし
当然だが最後まで読了できるわけがない。遅ればせながら、近所で1人くらい
いた子ども向け名作全集を全巻持っている家へ行っては、内外の子ども向け物
語を借りてきて読んだりしていた。
2
最初の「文学によるインパクト」は、小学校1年の時、3人きょうだいのい
る隣の家から借りてきた『坊っちゃん』だ。出だしから笑い転げながら読んだ
もので、「おとなの文学は大したもんだ」と感心したものだった。それ以外に
まともに本を買ってもらったのは、筑摩版でとりあえず読んでいた大好きだっ
た賢治の、吉岡たすくの挿絵の入った岩波版『風の又三郎』と『銀河鉄道の夜』
の2冊で、多分小2か小3の時だったと思う。表題作や「セロ弾きのゴーシュ」
「注文の多い料理店」以外に、「グスコーブドリの伝記」と「よだかの星」が
可哀想で悲しくて好きだった。
また、月1回学校で希望者に販売される学研の『かがく』と『がくしゅう』
は、4年生くらいまで買っていた。実験セットなどが魅力のこれらを購入して
いたのはクラスで3分の1くらいだったかもしれない。ぼく以上に本や雑誌と
縁のないクラスメートが大多数だったのだ。考えてみれば、2歳半からバイオ
リンのレッスンに通い、4歳からはピアノを習っていたのだから、ぼくは充分
「恵まれた子」だった。
もちろんリアルタイムで放映されていた『鉄腕アトム』の、光文社カッパコ
ミクス版「シール付き」は創刊された小学校2年(1964年)の時から揃え
ていたが、当時マンガは親から禁止される筆頭代名詞だった。結局、全巻揃え
ることができず、のちのちまで悔いが残った。
どこの地域、いつの時代にも、浦沢直樹『20世紀少年』の「ともだち」の
ように、親から潤沢に玩具やプラモデル、名作全集、マンガ雑誌、マンガ単行
本、学年雑誌を買い与えてもらえ揃えている子どもがいるものだが、そのよう
な家の子どもが羨ましかったのが正直なところだった。子ども期に子どもは、
「我が家の階級」を否応なく知らしめられ、自覚させられる。
「遅れてきた子ども期」を取り戻すかのようにマンガの膨大な収集が始まる
のは、大学院に入ってからの20代後半になって以降である。また、へたな町
の図書館よりも多いであろう小説・学術書などの現在の蔵書(と言うより本フ
ェチ)は、ビンボーなために子どもの頃好きに本を買ってもらえなかった反動
だ。現在では、狭いマンション3部屋に本が天井まで平積みとなり(しかも1
部屋はドアが開かず、「死蔵」である)、本棚の前、玄関、靴箱の上、トイレ、
万年床の脇、テレビの前、箪笥の上、ソファの脇、ピアノの上、あらゆるとこ
ろに本があふれて、ぼくと母親は立って寝ている。
「ともだち」=フクベエのように雑誌には折り目
をつけず、マンガ単行本も全巻そろえ、学術書も
マンガ単行本も文庫本も表紙カバーには全てパラ
フィン紙をかけ、蔵書印を押しているのだから、
「病膏肓に入る」と言うしかない。
3
■日本の現代文学に目ざめる60年代後半
文学的には割と早熟だった。その後小学校4年生くらいから、ドストエフス
キーの『罪と罰』(手塚治虫のマンガの影響だ)、三島由紀夫(もちろん『潮
騒』のレベルで、『仮面の告白』はさっぱりわからなかった)、さらにろくに
読めもしないのに、60年代後半という時代風潮もあって安部公房や大江健三
郎、開高健、また小田実、柴田翔、高橋和巳、倉橋由美子、それに野坂昭如な
どの名を挙げる、今から思えばかなり生意気なガキだった。
ご多分にもれず小学校低学年の頃まではアトムと鉄人を足して割ったような
「大長編」マンガも描いていたが、この頃から志望はそれまでの「マンガ家か
科学者」から、「新聞記者か小説家」になっており、いっぱしにシナリオを書
いたり、手書き新聞を出したりしておとなに見せたり近所の上級生に見せたり
していた。
小学校5年生から大学生による家庭教師がついたのだが、その影響も小さく
なかった。彼らは、鉄道模型やラジオ制作、反戦フォークソングなどを教えて
くれ、そういったおとなっぽいサブカルチャー・趣味・文化の存在、ラジオや
鉄道やフォークソングなどの専門雑誌の存在が、「大学」という「知の世界」
や「おとなの世界」を知らしめてくれた。
大江や高橋の名を挙げてはいたものの、だが実際に小学校5、6年生の頃に
暗記するほど読んだのは、井上靖の『しろばんば』とその続編『夏草冬濤』だ
った。主人公伊上洪作の中学受験に自分をダブらせ(しろばんば)、旧制の中
学生のおとなっぽい生活や会話(夏草冬濤)に憧れてのことだ。
同時期には北杜夫のエッセイ「マンボウもの」にもハマり、特に『どくとる
マンボウ航海記』が大好きだった。直後の小6の時に、旧制高校の疾風怒濤時
代をつづる『どくとるマンボウ青春記』がベストセラーになったが、『青春記』
よりも当時は『航海記』の方が面白かったのだから、やはり幼かったのだろう。
大江の『個人的な体験』『性的人間』、柴田の『されどわれらが日々−』など
も、字づらは追えるものの小学5、6年生には何やら難しいハナシで、あまり
冒険譚でもないため(何となくエッチな雰囲気だけはわかっ
たのだが)、むしろ開高の『パニック』や『裸の王様』がわ
かりやすかった。大江には「青年」ものがタイトルに多かっ
たので、『孤独な青年の休暇』『青年の汚名』『われらの時
代』など初期作品に取り組もうとしたが、石原慎太郎『青年
の樹』の方がはるかに面白かった(そりゃそうだ)。ただ、
のちに中学に入ってから再チャレンジした『遅れてきた青年』
だけは、後半が割と活劇が多く、「青年」ぽかった。
『万延元年のフットボール』『憂鬱なる党派』あたりにな
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ると、当たり前だが『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』と同様、小学6年
生には全くお手上げだった。にもかかわらず、大江や小田実、高橋和巳の政治
的なエッセイを意味もわからず、つまりカッコをつけて読んで、線なぞ引っ張
っていたものだ。
『帰ってきたヨッパライ』を大ヒットさせた大学生のフォークバンド、ザ・
フォーク・クルセダーズの『イムジン河』発売中止事件も耳に入ってき、『悲
しくてやりきれない』を含む4曲入りのレコード、解散シングルの『青年は荒
野をめざす』などを買ってもらったそんな1969年、東大の安田講堂の攻防
戦が行われ、ぼくはテレビで生中継を観ていた。東大合格率をほこる私立中学
と国立大学付属中学の入試勉強をしていた真っ最中のことだ。その年は雪の多
い年だった。
受験した2校に落ち、公立中学に入った頃には、大江、開高、小田、柴田、
高橋、野坂らに加えて、直木賞で台頭し始めていた五木寛之や井上ひさしなど
がそこに加わり、「好みの作家」はここらで大体固定した感じがある。
生き方、政治的想像力、そして文体に影響を与えたのは、大江、高橋、北、
そして後述する庄司薫だ。小学校高学年には北杜夫と三島の影響で一人称に
「私」を使いだし、それ以外にも北杜夫の文体には随分と影響を受けた。中学
に入ると高橋和巳の漢語調の文体の影響を受け、また大江のブッキッシュな文
体からは強い影響を受けた。今でもぼくの文章のセンテンスが長いのは、大江
からきていると自覚する。埴谷雄高や吉本隆明らは当時さらに「巨人」の批評
家たちだったが、その影響を受け出すのは、鶴見俊輔、加藤周一、竹内好らと
ともに高校に入ってからのことである。
高橋和巳がガンで死んだのは1971年、中学3年の5月であり、いまのぼ
くよりはるかに若い39歳だった。筑摩書房から出ていた『人間にとって』や、
『文藝』の追悼特集号を、乏しい小遣いの中から購入した。ちなみに三島の自
決は70年の中2の秋のことで、「とんだ猿芝居だが、ホントにやるとはカッ
コイイ」と、あまり意味もわからずはしゃいで日記に書いたものだった。その
時の朝日1面の首が隅に写っている紙面はまだ取ってある。また川端康成や小
林秀雄は、三島と並んで彼の右翼的な政治的言動もあって好きになれなかった。
もっとも、中3生にとって読みやすく、より重要だったのは、フォークル解
散後も深夜放送のDJなどをやっている医学生・北山修のエッセイ集『戦争を
知らない子供たち』や『さすらい人の子守歌』、学生運動と恋愛に破れて自死
した立命館大学生・高野悦子の日記『二十歳の原点』、そして同じく学生運動
と恋愛の末にブロバリンを呑んだ横浜市大生・奥浩平の遺稿集『青春の墓標だ
ったが。
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北山は、現在九州大の教員として、メディアや精神病理などぼくのフィー
ルドとも多少重なる仕事をしている(学術的には彼を批判すべき点も少なくな
いと感じるが)。『イムジン河』を含む2001年のフォークル再結成のアル
バムは、9・11を反映した反戦色強いものだった。柴田翔のおつれ合いとは、
フェリスで同僚となり、たまに話をする。柴田は東大を定年になったのち女子
大に勤めているが、この前エッセイ集を出したそうだ。ぼくが大きな影響を受
けた手塚治虫のそのアシスタント、石坂啓には、今年度からこの大学に非常勤
で来てもらっている。いずれも浅からぬ 縁 を感じる。
ぼく自身は、新聞をはじめメディアや文化や政治を研究する社会科学者とな
り、本も何冊か出して執筆生活をし、日本の現代作家も扱う日本文学科に就職
し、社会的な発言を行い、メディアにも出、学生や聴衆や読者にメッセージを
伝えるなど、当時志望していた新聞記者や科学者や作家・市民運動家を満たし
たような仕事をしている。シンガーの夢は破れたが、カラオケや同僚たちとの
バンドで人前で歌ったりもしている。
60年代後半から70年代にかけて影響を受けた「大学生」や「その周辺」
を、永久にやっているのだと思う。その意味で、小・中学生の頃の「夢」がほ
とんど実現してしまった。
■まだ海外文学が力のあった70年代
中学3年に高橋和巳の死に接する前、1970年の中学2年の夏休みに(大
阪万博に行った年だ)、既に芥川賞を受賞していた庄司薫の『赤頭巾ちゃん気
をつけて』を読んだ。69年の東大入試中止にぶつかって「大学に行かないこ
と」を選んだ主人公に、ぼくはやがて大きな影響を受けることになる。その当
時は、「由美ちゃん」とのやりとりや主人公の性的な体験が目的で読み、庄司
の時代を見るシニカルかつ前向きなまなざし(たとえば主人公の「大きな森の
ような男になろう」といった決意)がよくわからなかった。間もなく「薫くん
シリーズ4部作」となる2作目(ストーリーとしては3番目に位置づく)『さ
よなら快傑黒頭巾』を読むが、こちらの方が同時代である1970年の学生風
俗がわかって(また女の子たちも魅力的で)面白かった。
政治学者・丸山真男門下であった庄司のレトリック、民主主義観、文体の影
響を強く受け出すのは、エッセイ集『狼なんかこわくない』と、『バクの飼主
めざして』で72年の連合赤軍「浅間山荘事件」をめぐる巻頭エッセイにふれ
てからだから、高校1年になってからのことだ。この浅間山荘の攻防戦は、中
3の時の高校受験の真っ最中だった。どうも、受験前になるとぼくのシンパで
ある学生たちの「夢」が無惨にも破れる事件が起きていた感じがある。柴田翔
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の『贈る言葉』と『われら戦友たち』を泣きたい気持ちで読んだのもこの前後
だった。
時代は、60年代後半の若者たちによる「プロテスト」「造反有理」から、
中学時代の「70年安保」の収束とともに「ラブ&ピース」を経て、ぼくが高
校生になると庄司が予見したように急速に「3無主義」か「内ゲバ」に向かっ
て行った。
ぼくは例のごとく高校受験に失敗して近郊の公立高校に進み、お定まりのよ
うに学校の勉強を全くせず、小説読みと音楽活動(作曲と作詞)に耽溺するこ
とになり、いよいよ大江、開高、小田、柴田、高橋、野坂、五木、井上ひさし、
安部公房、倉橋由美子らを全て読破してゆくことになる。「現代日本文学で最
も良質の長編小説」を挙げろと言われれば、いまでも10代からの持論で、大
江健三郎『洪水はわが魂に及び』、北杜夫『楡家の人びと』、高橋和巳『邪宗
門』の3作を挙げるが、大江のノーベル賞は『洪水はわが魂に及び』をリアル
タイムで戦慄とともに読んだ高校2年の時に確信し、その頃から大江がノーベ
ル賞をとることをぼくは「予言」していた。この年73年には、オイルショッ
クによるトイレットペーパー騒動が起き、小松左京の『日本沈没』を嚆矢に終
末論ブームが起きている最中だった。浅間山荘事件とその後のリンチ殺人事件、
終末論、いずれも大江の『洪水(はわが魂に及び)』は、想像力により見事な
造形をみせていた。赤軍派による連続企業爆破事件が起きたのはその翌年の高
3のことである。
同時期、海外文学を乱読したが、ドストエフスキーが「洗礼本」だった。『悪
霊』を挙げられるとカッコイイのだが、やはり『カラマーゾフの兄弟』にとど
めをさすと言えるだろう。英米文学は、中学から高校にかけて庄司薫の影響も
あってサリンジャーやフィリップ・ロスにハマり、大江がしきりに紹介してい
たヘンリー・ミラーやノーマン・メイラー、ジョン・アップダイクやソール・
ベローと続き、80年代からカート・ヴォネガット、そのあとジョン・アーヴ
ィングへと進んだが、そこで止まってしまった。ただ今でもアーヴィングやヴ
ォネガットはたまに読み返したりする好きな作家だ。仏文学は、これも中学・
高校時代にサルトル、カミュ、ボーヴォワールと「お約束」
のコースから始まり、ポール・ニザンにハマった。そのあ
とはポンティ、バルト、フーコーと、思想界の方へと続い
ている。ドイツ文学ではトーマス・マンとゲーテ、ヘッセ、
そしてカフカなどを読んだ。こう何でも齧ってしまうと、
まるで筒井康隆の『文学部唯野教授』だ(そして事実その
通りになった)。
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あとは浪人時代からイタリアのパヴェーゼ、ドイツのギュンター・グラス、
それに一時期ラテンアメリカ文学に凝ったので、ガルシア・マルケスやルイス・
ボルヘスなども読んだ。のちに、これまたフェリスでこれらの翻訳者・紹介者
の先生に会えることになるのだから、やはり 縁 があると言うべきだろう。
■文学への夢が破れる、そんな辛い青春時代
こんなていたらくで、大学に受かるわけはない。高3の受験時期には、国内
外の小説からさらに思想書や学術書へエスカレートし、志望大学の学部で勉強
するはずの文学理論、社会学、心理学、政治学、人類学、ジャーナリズム、社
会思想などの本を読みあさって、受験勉強から逃避していた。おかげで、マッ
クス・ウェーバー、南博、レヴィ=ストロース、マルクス、エンゲルス、丸山真
男、高畠通敏、宮城音弥などの本は書き込みの線だらけになった。大学院なら
受かったかもしれない。
ぼくの希望学部は、人文科学部のようなところで広く心理学や社会学をやり
ながら人間や社会をきわめ、文学を「余技」でやるか、さもなければ政経学部
のようなところでもっとコミュニケーションの勉強・研究をすることだった。
相変わらず大学生ミュージシャンデビューや、学生作家も夢見ていた。
しかしながら1975年の3月に高校を卒業したぼくは、どこにも「所属」
のない人間になっていた。だが、庄司薫の主人公ほどカッコよい存在ではなか
った。
76年に発表された村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は、ショックだ
った。既に「戦後生まれの作家」の芥川賞第1号と喧伝された中上健次が『岬』
で世に出ていたが、群像新人賞に続いて芥川賞を受賞した村上龍が戦後生まれ
の芥川賞作家第2号となった。ドラゴンのそれは、ぼくも多少の記憶のある戦
後の「基地の街」の雰囲気に関して「オレでも書ける」という内容にもかかわ
らず、しかしドラッグとセックスで荒れた若者たちが不思議にさわやかな印象
を与える、やはりぼくには書けない小説だった。
当時、20歳になろうとする記念に小説を書いていたが、むしろルポルター
ジュや評論の方が向いているようで、すでに大学生になっている友人たちと出
していたミニコミでのぼくの文章は小説よりも好評だった。一方の詩や小説の
投稿への 反応 はさっぱりだった。77年になっても諦めきれずに音楽関係の
オーディションを受けたり作曲のコンテストに応募したりしていたが、高校時
代に多少「いい線」いった程度でプロになれるはずもない。一方、その後立て
続けに中島梓が評論『文学の輪郭』で群像新人賞を受賞、さらに栗本薫の筆名
で『ぼくらの時代』シリーズを出し、三田誠広が『僕って何』で芥川賞、高橋
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三千綱が『九月の空』で芥川賞を受賞し、団塊世代の早稲田勢が一挙に出てく
る。
文学も、音楽も、市民運動や学生運動(学生でもないのに)へのコミットな
ど、だんだん自分が思うほどに自分には才能がないことに気づいてゆかざるを
得ない、そんな20歳前後だった。「いまだ実現しない夢の可能性」がたくさ
んあることが「若さ」の特権だと庄司薫が書いていたが、その意味で「可能性」
が1つ1つ潰えてゆくこの頃、ぼくの「青春」は終わろうとしていた。あるい
は今でも続いている「長すぎる青春」の始まりだったのかもしれない。
77年に書いた小説で、既に20歳にして「特定の相手」を決めようとして
いる「君」に、主人公の「僕」が、「この短すぎる青春を君はなぜ生き急ぐの
か、この長すぎる青春をなぜ僕はぬらりくらりと生きるのか」とモノローグす
るシーンがあるが、このフレーズはそのまま当時のぼくの気持ち、バンド仲間
で振り向いてくれなかった好きだった子への「恨み」も含む周囲への思いでも
あった。
■村上春樹の70年代の「雰囲気」と80年代の「風」
かつて作家は政治的なオピニオンリーダーだった。だから高校から浪人にか
けて集会や講演会で、大江や小田などを結構見た(見に行った)ものだ。ベ平
連、革自連などの市民運動に多少かかわったこともあって小中陽太郎や中山千
夏、矢崎泰久らと一緒になることもあった(ぼくのことは憶えていないだろう
けれど)。
また、自宅近くでは現在でも黒井千次をよく見かける(メーデー事件の後日
談を扱った『五月巡歴』は、バンド時代に好きだった子が住んでいた高円寺と
おぼしき場所が出てきて、辛い作品だった)。浪人時代、当時芥川賞を取りた
ての森敦や、まだ電通にいた新井満などとテレビに出て討論したこともある。
どうでもいいことだが、スタジオで一緒になった2級下の高校生の女の子は、
偶然、当時一緒にミニコミを出していた大学生の友人の妹で、現在彼女は博多
に暮らしておりドイツ人の政治学者の夫と離婚してNPO法人をやりながら大
学の講師もしている。お互いもうそんな年なのだ。
いずれにせよ、「生身の作家」と会うことで、こちらも「文化度」が上がる
ような気がしたものだ。そして、事実彼ら・彼女らの謦咳に接することは、や
はり意義深いことでもあった。
そんなミーハー的な憧れの中、親しく話したことがある作家(もっとも1回
きりだが)として印象深いのは、井上光晴のことだ。
1981年の大学生のとき(と言ってももう20代半ばだったけれど)、や
がて市役所に就職が決まる女性、その後ぼくより遅く大学教員になる同じ年の
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男性の友人Tとで、雨の山下公園・元町・山手あたりで遊んだ。ホテルニュー
グランドのレストランに3人とも濡れたGパン姿だったため入れてもらえず、
高校時代から行きつけだった中華街の鴻昌という店で飲み食いをしていた時、
その頃留学先から帰ってきて国内演奏活動をしていた新進バイオリニストの天
満敦子を連れて井上光晴がその店に入ってき、ぼくたちと席が一緒になったの
だ。友人2人も文学や政治状況に造詣が深く、文学談義(と言うより文壇ゴシ
ップ)や政治談義に花を咲かせ、あまつさえ彼に老酒とカニをおごってもらっ
た。
『地の群れ』『虚構のクレーン』をはじめとする党派的小説で名を馳せ、熱
心なファンのいた作家だったが、ぼくももちろんほとんどの作品を読んでおり、
中でも『心優しき叛逆者たち』『未成年』『ファシストたちの雪』など、不気
味な管理社会を描き、人物たちが章ごとに異なる多層的な手法の作品が好きだ
った。それほどの年齢でもなかったのに井上光晴が死ぬのは、それから何年も
なかったような気がする。
また、よもやその十数年後、好きな散歩コースであった山手のカソリック教
会の裏にあるフェリスに勤めるようになるとは思わってはいなかった(ちなみ
に、天満敦子もフェリスにゲストで来てくれたことがある)。
ところでその時、ぼくたち3人は既に村上春樹を読んでいた。
村上春樹が『風の歌を聴け』で群像新人賞を受賞したのは、ぼくが大学に1
年生として入り直した1979年のことだ。大学の図書館の『群像』で丸谷才
一らの選評を読み、単行本になってからはすぐに購入した。翌80年にはぼく
と同年齢の田中康夫が『なんとなく、クリスタル』で文芸賞を受賞することに
なるが、モノの固有名詞や数値にこだわる、「記号とのたわむれ」を臆面もな
く書き連ねた小説ともいえないような小説で、村上のそれの方は大江に似て固
有名詞や数値を散りばめはするが、あやういところで品位を保っていて好感が
持てた。
翌年、社会理論ゼミの夏合宿のレジュメでは、「みんな大嫌いよ」「あらゆ
るものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。/僕たちはそんな
風にして生きている」などの彼の小説のフレーズをあちこち散りばめた何十ペ
ージにものぼるレジュメを配布しようとし、担当教員から不興をかった。
ぼくとTとは、学部生とはいえ2人ともあちこち「回り道」をしてきたため
20代半ば近くになろうとする同い年であることもあって親しかった。やがて
我われは『風の歌を聴け』の続編である『1973年のピンボール』もリアル
タイムで読み、ホテルのプールで泳ぎ、プール一杯分のビールを飲み、日比谷
公園で鳩にポップコーンをやり、ピンボールにハマり、マイヤーズのラム酒を
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バーで飲みながら、「ジェイズ・バーごっこ」と称して最近見なくなった同級
生たちのことをネタにしたりしながら、会話を真似したりした。
「みんないなくなるね」
「どこかで松ぼっくりか何か食べて死んでしまったかもしれない」
「人生はこのグラスの中の氷みたいなもんだ」
「あんたは上手いことをいう」
「キザなんだ」
3人で雨の横浜に遊び、中華街で井上光晴におごってもらったのはそんな時
期だった。英文科でヴォネガットだったかメイラーだったかミラーだったかを
卒論に選ぼうとしている(英米文学に多少詳しかったぼくと、話がよく合った)、
のちに市役所に勤めることになる女性は、ぼくとTとの「ジェイズ・バーごっ
こ」を呆れて見ていたものだ。
70年代を舞台にした作品でありながら80年代の新しい 気分 を代弁した
村上春樹の「鼠とぼく」3部作(『ダンス・ダンス・ダンス』を入れると4部
作となるが)の『羊をめぐる冒険』が刊行されたのは、ぼくとTが大学院進学
を射程に入れて卒論を書いている1982年のことだ。Tは、発売日に買って
2日で読み了えていたぼくの『羊』を速攻で借りてゆき、飲み物のしみをつけ
て1週間後に返してきた。ぼくの卒論は原稿用紙に換算して600枚近く、T
の卒論は250枚近くになるものだった。卒論のエピグラフには、『羊』のフ
レーズと大江の『雨の木を聴く女たち』を引用した。
突然ですが、ちょっとお知らせ
ジェイズ・バーごっこ・・・ではないですが、読書運動プ
ロジェクト次回のイベントは、村上春樹『風の歌を聴け』
の世界を再現する、参加型のパフォーマンスを行います。
あなたも「風の歌」の世界の住人に・・・?
Third Breeze:「再現!風の歌を聴け」
日時:6月24日(木)16:30∼18:00
場所:緑園キャンパスチャペル
参加費:無料
みなさんのご参加をお待ちしています
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あれから、さらに20年以上が経った。
ぼくにとってはこれらのできごとや記憶はついこの前のことのような気がし
てならない。
そして、小説とともに時代をきざむ本との蜜月は、大体あの時期に終わった
ように感ずる。それから先は、金に糸目をつけずマンガ単行本を揃え、専門の
学者として関連する学術書をほとんど全て揃え、幾何級数的に蔵書が増えて行
ったが、本フェチの性格だけが固着し、「内容」への愛着が薄れてきたのだ。
研究のプロともなると、単行本にせよ学会誌や雑誌にせよ、まず「所有するこ
と」が大事で、単行本の場合はとりあえず目次とあとがきを眺めておくだけ、
雑誌の場合は誰がどんなタイトルで書いているかパラパラめくる程度で、大体
様子がわかるからである。しかし、こういう「読み方」は不幸な読み方だ。
それとともに、ぼくにとっての「同時代」も80年代前半で終わった。90
年代はオウム真理教事件、21世紀は9・11と、作家や学者の想像力を超え
るできごとが起き、取り残された感じがしているからだ。だからぼくにとって、
本とともに時代を記憶する蜜月関係は終わったと感じざるを得ないのだ。
これからは、そのような「時代の産物」であることを忘れて、せっかくのこ
れだけの蔵書や、好きな作家を全作品揃えたのだから、ビンボーしていた時期
に1つの本を繰り返し暗記するほど読んだかつてのような幸福な本とのつき合
いを、老後にもう1回体験したいと思っている。それは、やっと本が「自由に
読める」ということなのかもしれない。
諸橋先生の読書記、いかがでしたでしょうか。
好きな本のことや読んだ本の話を聞くということは、その人の「歴史」も垣間見ることができて
楽しいですよね(それにしても、村上春樹をデビュー当時から注目しておられたというのは、やっ
ぱりすごい!)。先生のマルチなご活躍の基礎にさまざまな本との出会いがあったのですね。先生
のお書きになった小説も、ぜひ読んでみたいです。
************************************
さて、みなさんも、大好きな本の話をしてみませんか?読書運動プロジェクトでは、イベントや
読書会などさまざまな活動を行っています。学生メンバーは随時募集中。興味のある方は、お気軽
に図書館カウンターまでどうぞ!
また、緑園図書館2F には「私たちの今を読む文庫」として人気現代作家の文庫本を集めたコー
ナーができ、はやくも大好評で貸出が殺到しています。もしお手元に読まなくなった現代作家の本
がありましたら、このコーナーの充実のためにぜひご寄贈ください。
(事務局)
発行:フェリス女学院大学読書運動プロジェクトチーム
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