“青春三部曲”为中心 - 上海外国语大学论文管理系统

上海外国语大学
硕士学位论文
村上春树小说中主人公的“心病”和“治愈”
——以“青春三部曲”为中心
院系:日本文化经济学院
学科专业:日语语言文学
姓名:刘超
指导教师:徐旻
2016 年 5 月
上海外国語大学
修士学位論文
村上春樹の小説における主人公たちの「心の病」と「癒し」
―「青春三部作」を中心に
学部:日本文化経済学院
専攻:日本言語文学
氏名:劉超
指導教官:徐旻
2016 年 5 月
謝辞
本論文の執筆から完成に至るまで、多方面からのご指導やお世話をいただきまして、誠に感
謝の意を表したいと存じます。特に、指導教官の徐旻先生はテーマの選定、論文の書き方から、
論文の修正まで、熱心なご指導をくださいました。この場を借りて、徐旻先生に心より厚くお
礼を申し上げます。
また、ご多忙中に審査していただき、貴重なご意見やご助言を賜った曾峻梅先生、張昕宇先
生、高潔先生にも心より感謝の意を表します。
最後に、在学中、いろいろな方面でご指導とご配慮を下さった先生方、一緒に頑張ってきた
同級生の皆様、また、本論文の作成中、ずっと私のことを信じ、応援してくれた家族にも深く
感謝いたします。
I
摘要
村上春树是当代日本文学最具代表性的作家之一。1979 年以处女作《且听风吟》登上文坛,
经过 30 多年的发展,现已成为世界范围内最具影响力的日本作家。主要长篇小说有《寻羊冒险
记》,《挪威的森林》,《发条鸟年代记》,《海边的卡夫卡》等畅销作品。他的作品被翻译成 40 多
种语言被传播到世界各地,在全世界掀起一股“村上热”。尤其是在年轻群体中受到极大的追捧。
为什么村上春树的作品能够得到世界各地读者,特别是年轻读者的青睐呢?在很大程度上是由于
主人公也多是生活在都市的青年人,他们所表现出的孤独感和失落感能够引起广大独自生活在都
市的年轻一代的共鸣,由此产生情感上的共鸣。
随着“村上热”的持续发酵和大批“村上迷”的出现,研究村上春树的学者更是大批涌现,
相关的研究成果也层出不穷,切入点包括主题意蕴,问题风格,叙事结构等。本文主要以《且听
风吟》,
《1973 年的弹子球》,
《寻羊冒险记》为中心,探析村上春树早期“三部曲”中表现出的青
年主人公的内心孤独与迷茫,以及主人公为了走出心灵的困境而做出的努力。第一章为序论,主
要介绍了本文的研究目的和先行研究。第二章主要分析了主人公的的“我”和“鼠”,作为生活
在都市中的年轻人,享受着高度发达的物质世界所带来的轻松而又惬意的都市生活,而另一方面
又不得不承受着都市生活中的人情淡薄和空虚寂寞。虚浮的内心使得主人公们对家庭,恋爱关系
的感受都只停留在表面,家人和朋友的疏离变为无关痛痒的事情。另一方面,对自身存在的怀疑
态度也使主人公陷入深深的心理困境。第三章研究了为了将自己从深深的心理危机中解救出来,
主人公们做出的努力。作者将迷失于都市,迷失了自我的主人公们引导到一个非现实的世界,在
这个现实世界,所有沉寂的矛盾都爆发出来,最终主人公们都为了坚持自我而做出了相应的选择,
从而实现了自我的坚守。另一方面,对于主人公来说,在苦闷的状态下,能够找到一处包容自我,
包容自我的矛盾和痛苦的异质空间,在这个温暖包容万物的世界中,所有的矛盾都暂时的缓和,
消失,从而起到了治愈的效果,虽然真正的矛盾还是没有消失,但至少,矛盾的主人公得到了暂
时的喘息和面对矛盾的勇气。这就达到了作者的治愈人心的目的。最后,关于“生”与“死”的
讨论。小说中大量的关于死的描写透露出主人公们无时无刻不表现出的对死的考虑。最后,主人
公之一的“鼠”甚至不得不选择“死”这一方式,来表达自己对自我坚守的决心。而主人公的“我”
也某种程度上由同伴的“死”而更加领悟到“生”的意义。这是一种“向死而生”的态度。
关键词:青春三部曲 孤独 丧失 自我 治愈
II
要旨
村上春樹は日本文学の代表的な作家である。1979 年に『風の歌を聴け』で日本文壇にデビ
ューし、30 年以上が過ぎた今、村上春樹は世界中でも人気を呼ぶ日本を代表するような作家
になったのである。主な長編小説は『羊を巡る冒険』、
『ノルウェーの森』、
『ねじまき鳥クロ
ニクル』、『海辺のカフカ』など。彼の作品は 40 種類以上の言語に翻訳され世界中に愛読さ
れていて、「村上ブーム」を起こした。なぜ、村上春樹の作品が世界各地の読者、特に若者
に愛読されるのか。それはたぶん、彼の小説の主人公も皆都市に住んでる若者で、彼らにあ
る孤独感や喪失感が若者に共鳴を感じさせたのではないか。
「村上ブーム」の出現に伴って、村上春樹の作品を研究する学者も輩出してきて、研究成
果も数多く送り出されてきた。研究の視点はいろいろあった。本稿は『風の歌を聴け』、
『1973
年のピンボール』
、
『羊を巡る冒険』を中心に、若者の主人公の心の孤独や喪失を研究し、お
よび主人公は心の苦境から脱出するための努力を研究する。第一章は序論で、本稿の研究目
的や先行研究を述べた。第二章は、主人公の「僕」と「鼠」は都市に住んでいる若者として、
豊かな物質生活を楽しみながら、激しい孤独感や喪失感をやむを得なく味わっているのであ
る。家族や恋人に対しては表面化された感情を持ち、自分に対しても厳重な喪失感を感じて
いる主人公たちは心の苦境に落ちてしまったのである。第三章は、心の苦境から離脱するた
めに、主人公の癒しの試みである。主人公たちはある非現実的な世界まで導かれて、その世
界で全ての矛盾が爆発して、主人公たちはその戦いの中からそれぞれ選択し、自我の本心を
守る目的を遂げたのである。一方、小説の中で、異質空間のような存在があって、主人公は
そういう空間によって癒されるのも大切である。最後に、癒しのもう一つの手段として、
「生」
と「死」の関係を直面するようになる。主人公のそれぞれ、「生」と「死」に対する態度が
違って、結局それぞれの癒しを感じたのである。以上は、主人公たちの癒しの試みであった。
キーワード:青春三部作 孤独 喪失
自我 癒し
III
目次
謝辞............................................................................................................................................................... I
摘要.............................................................................................................................................................. II
要旨............................................................................................................................................................. III
1 序論.......................................................................................................................................................... 1
1.1 研究の目的.................................................................................................................................. 1
1.2 先行研究....................................................................................................................................... 1
1.3 本論についての先行研究...........................................................................................................2
2 主人公の心の病...................................................................................................................................... 4
2.1 孤独な「僕」と「鼠」...............................................................................................................4
2.1.2 孤独な恋愛....................................................................................................................... 6
2.2 自我の喪失................................................................................................................................... 8
3 癒しの試み............................................................................................................................................ 13
3.1 癒しの空間の構築.................................................................................................................. 13
3.1.1 非現実な世界................................................................................................................. 13
3.1.2 異質の世界..................................................................................................................... 16
3.2 生と死の問題............................................................................................................................. 19
3.2.2 内心を守るための死.....................................................................................................20
4 終わりに................................................................................................................................................ 23
参考文献:................................................................................................................................................ 24
村上春樹の小説における主人公たちの「心の病」と「癒し」
―「青春三部作」を中心に
1 序論
1.1 研究の目的
村上春樹は今日本の代表的な作家といっても過言ではない。ノーベル文学賞は獲得していな
いが、近年では有力候補と見なされ結構人気がある。村上は 1979 年にデビュー作の『風の歌
を聴け』を出して一気に「群像新人賞」を獲得して、彼の輝かしい文学生涯を始めたのである。
その後、彼に莫大な成功をもたらしたのは 1987 年に刊行された『ノルウェーの森』は、上下
430 万部を売ったベストセラーとなった。それが世界中に「村上春樹ブーム」を起こした。2006
年、ノーベル賞文学賞の前哨賞とも呼ばれるフランツ・カフカ賞にも受賞して、オーストラリ
アのプラハ市に開かれた贈呈式に参加した。現在、村上春樹の作品は全世界に 40 種類の言語
に翻訳されて、正真正銘の世界的な作家と言える。
デビュー作が「群像新人賞」を受賞したため、村上春樹の小説は最初から大衆の目線を浴び
てきたのである。最初は「青春小説」と評論家に位置づけられたのである。そして、彼の作品
の中に現れていた現代の都市に暮らしている主人公たちの日常生活、言語、習慣などの元素が
彼らの心理状態を我々に伝わってきたのである。それは、全ての現実が表面化されていて、主
人公たちは都市の豊かな生活を楽しんでいるばかりで、誰もが内面の心を探ることを断ってい
るみたい。村上春樹はそういう虚無な世界を描いてくれると共に、彼は解決策を求めようとし、
心の「出口」を探しているのである。その「出口」を探している途中に、読者や作家の心もあ
る程度癒されたと見なされる。
「青春三部作」というのは一九七九年六月『群像』に発表された『風の歌を聴け』、一九八〇
年三月『群像』に発表された『1973 年のピンボール』、そして、一九八二年八月『群像』に発表
された『羊を巡る冒険』の三つの作品である。村上春樹の最初の三部作は人物やプロットの関
連性で「三部作」や「「鼠」の三部作」と呼ばれ、一体と見なされている場合が多い。それに、
「三部作」は主人公の青春時代の体験を主題としているため、「青春三部作」とも呼ばれてい
る。
本稿は「青春三部作」を中心として、作品の中に現れた主人公たちの様々な行為の背後にあ
る心の状態、特に病的な心理状態を究明したい。それに、主人公と同じ、そういう苦境に陥っ
ている作家が「癒し」を得るためにどんな試しをしたのかを究明したい。
1.2 先行研究
日本の村上文学研究の中で、村上春樹に最初に注目したのは川本三郎でした。村上のデビュ
ー作の『風の歌を聴け』が「群像新人賞」を受賞した時点とほぼ同時に、川本三郎は『二種類
の青春小説―村上春樹と立松平和』で村上文学を「都市文学」と定義された。村上の早期作品
の『歌の風を聴け』
『1973 年のピンボール』には「都市の感受性」が現れていると主張された。
川本三郎に続いて「全共闘世帯」1と呼ばれた批評家の加藤典洋、武田青嗣、笠井潔、黒古一夫
などが村上文学研究の中堅になった。加藤典洋は『自閉と鎖国――村上春樹の「羊をめぐる冒
険」』で、村上春樹はここで初めて自分の青春を、60 年代末から 70 年代初期にまでの、「全共
闘」「連合赤軍」などの政治体験と結ぶようになった。60 年代末の大学紛争が彼に与えた影響
1
「全共闘世代」;1965 年から 1972 年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送っ
た世代である。この世代の者は 15%が学生運動に関わっていたと言われている。いわゆる「怒れる若者たち」
。
1
は『羊をめぐる冒険』などの三部作を貫く赤糸である2。村上春樹の作品がだんだん増えてくる
のにつれて、それなりに数多くの関係研究が雑誌や新聞に掲載されたり、単行本として刊行さ
れるようになった。
「2006 年末まで関係書籍は単行本だけで 80 冊近くも出ている、それととも
に『国文学』、『文学界』、『群像』のような文芸誌によって村上特集はすでに 8 冊も出ている」
3
。21 世紀に入ってから、村上春樹の文学研究には多くの若い研究者が輩出した。日本で村上
春樹を研究する最初の博士論文は日本専修大学の石倉美智子の博士論文であった。
中国国内の村上文学研究も村上文学の流行につれて始まってきた。1989 年に林少華によって
翻訳され漓江出版社によって出版された『ノルウェーの森』から始め村上春樹の作品は次々と
中国に紹介されてきた。でも、最初から中国で大きな人気を呼んだわけではなかった。村上文
学についての研究もすくなかった。その中、中国の村上文学研究に大きな意味を持っている研
究結果が二つあった。それは『北京師範大学学報』に載せた王向遠の『日本後現代主義と村上
春樹』『解放軍外国語学院』に載せた林少華の『村上春樹作品の芸術魅力』である。王氏は、
村上春樹作品のポストモダニズム(後現代主義)の消費性と自我の解消性を主張した。林氏は
『村上春樹作品の芸術魅力』で、村上春樹の創作のテーマ、言語の特徴などについて研究した。
4
20 世紀に入ってから、『村上春樹と彼の作品』、『傾聴村上春樹 村上春樹の芸術世界』『村上
春樹 転換中の迷失』『村上春樹 精読<海辺のカフカ>』などの村上文学の研究に大きな意
味のある作品が表した。上海外国語大学の張昕宇の綴った『日本という歴史的コンテクストか
ら村上春樹を読む』は国内で村上春樹を研究する最初の博士論文である。「全共闘」から「戦
後」へ」、
「転換の文学」、
「村上春樹にとっての日本文学」、
「村上春樹と第三の新人」という四
つの面から、村上文学を「戦後」と言う時代背景の中に置いて、日本のほかの作家と比べるこ
とに通じて村上文学と日本文学を関係を研究した。
1.3 本論についての先行研究
日本の論文捜索ツールの「CINII」で「村上春樹」をキーワードとして検査した結果は、2015
年 7 月までの文章本数は 1433 本であった。「三部作」あるいは「「鼠」の三部作」として研究
する論文は 9 本があった。『風の歌を聴け』の結果は 69 本、『1973 年のピンボール』の結果は
18 本、『羊をめぐる冒険』の結果は 35 本だった。国内の論文捜索ツールの CNKI で検索した結
果、「青春三部作」についての修士論文は 3 本で、『羊をめぐる冒険』についての修士論文は 2
本があった。そして、学術雑誌に掲載された『風の歌を聴け』
『1973 年のピンボール』
『羊をめ
ぐる冒険』についての研究文章は数多い。
村上文学の研究の中で、「青春三部作」を全体の作品として研究するのが少なくない。
尚一鴎は彼の博士論文『村上春樹小説芸術研究』の中で、『風の歌を聴け』と『1973 年のピ
ンボール』の関係性について主張した。『1973 年のピンボール』は『風の歌を聴け』の主人公
の三年後のことである。1970 年の「僕」、
「鼠」、
「ジェー」と 1973 年の「僕」
、
「鼠」、
「ジェー」。
新しい人物は出てきたけど、やはり『風の歌を聴け』とは姉妹篇と見なされる。
張昕宇は『日本という歴史的コンテクストから村上春樹を読む』の中で、「青春三部作」の
中の「墓」というイメージの「僕」と「鼠」にとっての意味を探究した。「その墓の中には失
った 60 年代に対する深い思い入れが含まれていながら、それを閉じ込めて、葬りたい思いも
含まれているのである」。
「僕」と「鼠」は自分の青春を葬り、別れを告げ、新しい未来を切り
開こうと同じ、村上春樹も「青春三部作」を通じて、「墓」を作って、過去の「残務処理」を
遂げたいのである。「墓」というイメージが本論の研究する「青春三部作」の癒し特性にとっ
て大切なポイントと考え、張氏の観点が参考になれる。
「青春三部作」の中で、主人公たちの都市生活の中での「自我喪失」、
「迷い」と言うテーマ
2
3
4
加藤典洋 『論村上春樹 1』若草書房 2006 年 p8
張昕宇 『日本という歴史的コンテクストから村上春樹を読む』
杨炳菁 后现代语境中的村上春树 中央编译出版社 2009 年 9 月 p7,8
2
がよく研究者に論及されている。それゆえ、その迷いや喪失の反面の「探し」というテーマの
文章もたくさんある。蔡雁鳴の『迷失、尋找、回帰―解読村上春樹の「青春三部作」』の中で、
『風の歌を聴け』の迷い、心の放浪を捨てて、主人公はやっと『1973 年のピンボール』で「探
し」の一歩を踏み出し、そして、『羊をめぐる冒険』で本当の「自我の探し」を始めたのであ
る。この「探し」の過程も主人公あるいは村上の「自我癒し」の過程だと考えられる。
以上のように、
「青春三部作」に対して、研究者たちはいろいろ角度から解読したのである。
本論では、「青春三部作」の時代背景を結び、主人公たちの心の病を分析する上に、村上春樹
が作った「癒し」の空間を探究したい。
3
2 主人公の心の病
「青春三部作」は全部 1970 年代を舞台として展開されていた。『歌の風を聴く』は 1970 年 8
月、『1973 年のピンボール』は 1973 年、『羊をめぐる冒険』は 1978 年(最初は 1970 年の思い
出がある)
。主人公の「僕」と「鼠」も 60 年代の政治年代を経験したのである。60 年代に、世
界の政治潮流の影響で、日本にも民主と平和を求める政治運動が盛んになっていた。その中、
「全共闘」と「反安保デモ」が代表的で、当時では相当の影響力がある。でも、その後には政
府に鎮圧されて、当時の大学生などの青年に消滅しかねる大きな打撃を与えたのである。その
時代の若者は小さいごろから戦後民主主義の教育を受けて成長してきた。小さいごろは先生に
「日本は農業人口が六十一パーセントを占める農業国であり、所得水準も低いし、輸出も繊維
製品に頼っている、つまり貧乏な国であると、でも、憲法で戦争を否定した国は世界中に日本
しかなかった。だから、そこに誇りを持ちなさい」5のような教育を受けたのである。村上春樹
はそういう戦後民主主義の影響の中で成長してきた。でも、「全共闘」では、政府軍隊は学生
に対する無情な鎮圧を学生に与えて若者の心の中の「民主」、
「平和」に裏切ってしまったので
ある。「それで僕は、ああそういう国なんだなと思いながら大きくなったわけ。ところがさ、
実際はそうじゃないわけじゃない。戦闘機もあれば戦車もあるしさ。これはもう軍隊だよね。
十歳くらいだったと思うけど、これでガックリきたわけですよ。」6。こういう政府からの「裏
切り」は若者の意識の中にトラウマを残したであろう。そして、彼らの人生への理解にも影響
が出てくると言っても過言ではない。本章はこういう時代背景に育てられてきて、都市に暮ら
している若者の心の病をいくつかの方面から研究したい。
2.1 孤独な「僕」と「鼠」
戦後の日本経済は猛烈なスピードで発展し続ける中、国民の生活も現代化された。高度な資
本主義社会は、豊かな物質や情報に満たされて、個人個人としての存在感が薄れていくのであ
る。こんな中、人と人の繋がりが弱くなり、若者は自分を失い、孤独感を募らせたのである。
「青春三部作」の中の主人公は大体孤独な人間である。常に接触している人はほとんど周り
の人間である。彼らは軽い仕事して、自分の趣味で時間を潰して、家計などに心配することな
く、楽に生きていると言える。こんな状況の中で、人は希望を失い、他人にも何も望まない、
もちろん他人事にも興味は持たない。こういう冷淡な関係に落ちるのである。都市に暮らして
いる主人公たちは自分の世界に夢中しながら、周りの人に対しては常に善意を持っている。で
も、それは、心を交わさないことを前提としての善意で、寂しい善意である。
2.1.1 孤独な家庭関係
こういう孤独はまず社会関係の中の家庭関係の面でよく見られるのである。家庭関係は人間
が生まれてから最初に会った社会関係である。「青春三部作」の中では、主人公の家庭関係の
雰囲気はあまりにも薄すぎて、ただいくつかのところで言及されて、ほとんど記憶の中子供の
ごろの家族の話で、現実の中の主人公は家庭関係と一切に切り離している状態に見える。むし
ろ、自分の家庭には不満がある。
「金持ちなんて·みんな·糞くらえさ」7「鼠」は『風の歌を聴け』の中、最初に出場すると
ころの怒鳴り声である。「鼠」はお金持ちが嫌いそうである。でも、実は彼の父親は戦争の商
売をやってお金持ちになったのである。「僕」と「鼠」が最初に酔っ払って、公園でフィアッ
トを石柱にぶつかった時、「鼠」は「車は買い戻せるが、ツキは金じゃ買えない」って言い張
って、でも、自分がお金持ちかどうかと言う質問には答えなかった。「鼠」は大学で機動隊の
人に殴られた後、大学をやめて実家に帰った。でも、実家に居ても、「鼠」にとって、家庭よ
5
村上春樹 村上龍共著 『ウォーク·ドント·ラン』講談社
村上春樹 村上龍共著 『ウォーク·ドント·ラン』講談社
7
『村上春樹全作品 1979~1989(1)』p12
4
6
1981 年
1981 年
p132-p133
p132-p133
り「ジャズバー」のほうがずっと親しい存在だと考えられる。「鼠」の家が大きいが、彼と父
親の一番心地よいところはガレージだった。でも、「鼠」の小さいごろには、家族は仲良くし
ているそうで、家族で北海道の別荘に行って休みを取るとか、海辺に遊びに行ったりした。家
族とは楽しい時間を過ごしたのである。でも、大きくなってきて、お金持ちの父親の不正な商
売を見てきた「鼠」は父親のようなお金持ちに対して抵抗的な感情が芽生えて、身の回りの物
事に懐疑の目で見るようになったのである。それに、もちろん彼は父親が代表している富裕層
あるいは権威階層をも敵視するようになったのである。
「はっきり言ってね、金持ちなんて何も考えないさ。懐中電灯とものさしが無きゃ自分の尻
も搔けやしない」。
「うん。奴らは大事なことは何も考えない。考えてるフリをしてるけどさ。」8
こんなお金持ちが嫌い「鼠」が自分のお金持ちの親父(しかも汚い手段で戦争商売してお金
持ちになった親父)の心には見えない溝があるのではないか。
さらに、大学に進学して、学生運動の行列に参加して、「お巡りさん」に殴られて、各局は
退学まで済んだ。政府に裏切られ、傷つけた「鼠」は自分の信じてきたものをもっと疑うよう
になった。そうやって、「鼠」の心の中で不信の種が芽生えたのである。
「だけどさ、時が来ればみんな自分の持ち場所に結局は戻っていく。俺だけは戻る場所がな
かった。椅子取りゲームみたいなもんだよ。」
「鼠」は実家に帰ったとは言え、毎日のようにジャズバーでビールを飲んだりして時間を潰
していた。それに、実家に帰っても、「鼠」は父親の高級マンションで孤独な一人暮らしして
た。「穏やかな午後の時間を、鼠は藤椅子の上で送った。ぼんやりと目を閉じると、緩やかな
水の流れのように時が彼の体を通り抜けていくのが感じられる。そして何時間も何日も何週間
も、鼠はそんな具合に時を送り続けた。」9。幸せで暢気な生活を過ごしているそうだが、実は
「鼠」はそういう生活のパターンが嫌い。大学の生活を体験してきた「鼠」は故郷に対して「外」
の生活を味わったのである。「外」の世界の考え方、価値観などが彼に新しい認識を与え、彼
を考えさせたのである。でも、「外」の世界で自分の居場所を見つからないまま、大学をやめ
た「鼠」はむしろ「外」との繋がりを自ら切ったと言える。そういう「鼠」にとって、例え故
郷に帰ったとしても、もう故郷に馴染み込むことができなくなった。だから、「鼠」にとって
もう「戻る場所」がなくなったのである。すでに、故郷や家庭の関係から離脱した「鼠」は心
の居場所を失ってしまったのである。だから、原生の家庭関係は彼の生活の軌道からますます
遠くなっていった。そういう心の居場所を探している「鼠」にとって、原生の家庭が彼の心を
癒せないのである。
『風の歌を聴け』で、「僕」家族についての話:
「まさか。親父の靴さ。家訓なんだよ。子供はすべからく親父の靴の磨くべしってね」、
「さ
あね。きっと靴が何かの象徴だと思ってるのさ。とにかくね、親父は毎晩押したみたいに 8
時に家に帰ってくる。僕は靴を磨いて、それからいつもビールを飲みに飛んで出るんだ」10
以上は「青春三部作」で「僕」と父親の関係についての唯一の手がかりである。二人の直接
な会話や接触などは一切なくて、ただ「僕」が父親の靴を磨くだけである。「靴」は二人の媒
介のような存在である。もし、「靴を磨く」の必要がなければ、たぶん二人の繋がりも切れた
かもしれない。父親は「僕」にとって実存している人ではなくて、家庭関係の象徴のような存
在である。
「鼠」が家族、特に父親に対してある種の抵抗感があると違って、「僕」はそういう家族に
対する具体的な感じ、たとえば、愛、恨み、反感とかは一切なく、家族は「僕」の生活から消
えたようである。つまり、家族は「僕」の喜怒哀楽の世界から消えたのである。「僕」は原生
『村上春樹全作品 1979~1989(1)』p12
『村上春樹全作品 1979~1989(1)』p152
10
『村上春樹全作品 1979~1989(1)』p61
8
9
5
に家庭から独立して、独りとして生きているのである。
2.1.2 孤独な恋愛
ギリシャの神話の中ではこういう説があった。人間はもともとで一つ整っている存在ある。
人は背が高くて強かった。でも、人はあまりに己惚れで、ゼウスを怒らせた。人を懲罰するた
めに、ゼウスは人を真ん中から真っ二つに割ってしまった。それから、人間が男性と女性に分
かれた。ということである。男性と女性は自分の残りの部分を探すために愛情ができた。だか
ら、円満な一生を過ごすために、男性と女性は結合しなければならない。人間は他人を愛する
ことと他人に愛されることで、自分の存在価値を確認して、孤独から離脱できるのである。11人
間は愛を渇望し、伴侶との心と体の交流で自分を認識し、相手を認識する。恋愛という手段を
通じて、人は自分以外の相手、そして相手と関連するいろいろほかの存在を認識する。恋愛と
言う人のは、相手の心の深い所まで探ることを前提としての激烈な精神の躍動である。徹夜し
て人生の相談をする、あるいは互いの悩みを語る。12でも「青春三部作」の中の主人公たちの
恋愛は恋愛の原則と擦り違って歪んだ恋愛になってしまったのである。こういう歪んだ恋愛は
心を孤独から開放することができない。
「青春三部作」の主人公も孤独な都市生活の中で心を慰める恋を探し続けていたのである。
愛は心の愛と体の欲望の二つの部分を含めている。心の通じない愛は性欲と呼ばれ、体の欲望
の欠いている愛はプラトンの愛と呼ばれ、精神的な愛である。作品の中の「僕」と「鼠」は両
方とも本当の愛を心から渇望していたが、結局誰かを真剣に愛することができなくて済んだの
である。『羊をめぐる冒険』で、妻は「本当のことを言えば、あなたと別れたくないわ。」「で
も、あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ。」と言い捨てて家を出た。妻にとって
「僕」はすでに「失われた人間」だった。二人の間が「何かが壊れた」と「僕」が離婚の原因
だったと思った。その「何か」と言うものは、
「僕」が自分を自分の孤独な世界に閉じ込めて、
外と交流するのを断ったことだった。「僕」が周りの人、たとえ毎日暮らしている一番親しい
妻に対しても、自分の周りに高い壁を築き、本当の心を他人に見せ、開放するのが断じて断っ
たのである。妻が「僕」にとって単なる他人である。
「それと同じように、彼女が僕の友人と長いあいだ定期的に寝ていて、ある日彼のところに
転がりこんでしまったとしても、それはやはりたいした問題ではなかった。そういうことは十
分起こり得ることであり、そしてしばしば現実に起こることであって、彼女がそうなってしま
ったとしても、何かしら特別なことが起こったという風には僕にはどうしても思えなかった。
結局のところ、それは彼女自身の問題なのだ。
」13
以上の引用は、「僕」が妻が「僕」の友達と定期的に寝ている問題に対する考え方である。
主人公のこのさりげなく、他人事みたいな態度から、二人の離婚の原因が伺えるはず。「僕」
はすでに完全な自己閉鎖の状態に入って、自分を世のすべてから切り離したのである。すべて
のことに介入しない態度を持っているから、すべての事に対する怒る能力を失ったのである。
妻が「僕」を愛してくれて、それに、
「僕」から愛を求めていたが、
「僕」が妻の愛を受けなが
ら、妻の要求を無視して漠然としていた。
「僕が彼女に与えることができるものはもう何もなかった。彼女にはそれが本能的にわかっ
ていたし、僕には経験的にわかっていた。どちらにしても救いはなかった。」14の夫婦関係の中
で、ぼくは社会人としても完璧だといえる。妻が「僕」が「社会適合者」と考えて、一緒にい
てくれた。とは言え、夫婦関係の中でかけがえないものは愛である。妻が「僕」に愛を期待し
ていが、
「僕」はその期待を答えできずに、妻を手放した。
「僕」には誰かを愛する能力を失っ
11
12
13
14
張卉 『村上春樹の小説の中の孤独意識』
黒古一夫 著 秦剛 訳 『村上春樹 「喪失」の物語から
『村上春樹全作品 1979~1989(2)』p37
『村上春樹全作品 1979~1989(2)』p38
6
「転換」の物語へ』
たのである。「僕」が妻に与えられないものはまさに愛である。人間の本能は愛を求める。そ
の期待が答えられなければ、その相手を諦めるしかない。それが妻としての、一般人としての
本能である。「僕」がそれを「経験的」わかっている。つまり、現実の中のすべては自分が全
般把握しているということである。むしろ、自分がそういう結果になるのが事前でわかるまま
である。それにしても、
「僕」がそういう自分を変えて、妻を挽回するのを諦めた。
「僕」は自
分がまた一人になってしまっても構わない。妻と離婚した「僕」にとって、生活の中には何も
変わっていなかった。
「僕は朝七時に起きてコーヒーを入れ、トーストを焼き、仕事に出かけ、外で夕食をとり、
二杯か三杯酒を飲み、家に帰って一時間ばかりベッドの中で本を読み、電灯を消して眠った。
土曜日と日曜日には仕事をするかわりにに朝から何軒か映画館をまわって時間を潰した。そし
ていつもと同じように一人で夕食をとり、酒を飲み、本を読んで眠った。そんな風にして、ち
ょうどある種の人々がカレンダーの数字を一つずつ黒く塗り潰していくように、僕は一ヶ月を
生きてきた。」
「僕」はこういう孤独な一人暮らしにすっかり慣れてきた。むしろ、「僕」がそれを選んだ
のである。70 年代の大都市に暮らしている若者、豊かな物質生活に恵まれて、世界中の情報を
毎日頭に輸入して、忙しく暮らしていた。忙しすぎるから、毎日一人で充実に過ごす技能が身
に付けたのである。そういう人にとって、精一杯に誰かを愛するのが疲れることかもしれない。
だから、むしろ、一人で孤独な生活を送るほうが楽かもしれない。
誰かを愛するのがリスクが高いことである。恋愛が終わったら人はまた一人になってしまう。
人は社会の中で存在している独立な個体である。一人一人の背後には違う文化、違う経験、違
う考え方があるのである。恋愛関係は社会関係の基本単位である。それは恋愛関係が家庭関係
に発展していくからだけではなく、男であれ、女であれ、異性を認識することで、自分の家庭
関係から超脱でき、自分と他人の関係を考え始めるのである。それに、どの時代の恋愛関係で
も、必ずその時代が守ってきた伝統的な文化とぶつかるのである、そんなぶつかりの中から、
人は社会の本質の理解していくのである。15
主人公の「僕」に比べて、「鼠」はもっと根本的な孤独に落ちていったのである。大学をと
んでもない理由でやめた「鼠」は実家に帰って、孤独な生活を送り続けてきた。「鼠」が孤独
を感じたのは、自分の居場所を失ったということである。
『風の歌を聴け』で、
「だけどさ、時
が来ればみんな自分の持ち場所に結局は戻っていく。俺だけは戻り場所がなかったのである。
椅子取りゲームみたいなもんだよ」と言う内容があった。16それに、孤独が嫌な「鼠」にとっ
て一番過ごし辛い季節は何と言っても秋であろう。
「秋はいつも嫌な季節だった。夏のあいだに休暇で街に帰っていた数少ない彼の友人たちは、
九月の到来を待たずに短い別れの言葉を残し、遠く離れた彼ら自身の場所に戻っていった。そ
して夏の光があたかも目に見えぬ分水嶺を越えるかのようにその色あいを微かに変える頃、鼠
のまわりを僅かな期間ではあるがオーラの如く包んでいたある輝きも消えた。そして暖かい夢
の名残りも、まるで細い川筋のように秋の砂地の底に跡かたもなくすい込まれていった。」17
『1973 年のピンボール』で、以上の描写があった。周りの友人はみんな帰っていく居場所を
持っている。「鼠」にとって、帰ってきた友人はオーラみたいな輝かしい存在に対して、友人
たちは時が来ればただ短い別れの言葉を残して去ったのである。
「鼠」が大学をやめた理由に
ついて、誰にも説明しなかった。「中庭の芝生の刈り方がきに入らなかったんだ」、
「お互いに
好きになれなかったんだ。俺の方も大学の方もね」。小さな町で育てられた「鼠」は故郷に深
い絆を持っているのである。故郷の海の空は彼にとっての全世界だった。
「そしてそれが十歳
の鼠にとっての世界の果てでもあった」。そして港のところの灯台は彼にとって親しい存在で
15
16
17
黑古一夫 著 秦刚 王海蓝 译 《村上春树 转换中的迷失》p21
『村上春樹全作品 1979~1989(2)』p90
『村上春樹全作品 1979~1989(1)』p150
7
ある。
「それでも灯台への道は彼にとって何に増しても親しいものであった」。でも、大学をや
めて一人で帰った実家はあまりにも寂しくて、
「鼠」を呑み込んだのである。「そして帰り途、
捉え所のない哀しみがいつも彼の心を被った」
。
「鼠」が哀しいのが大都市で自分を見失った自
分のことである。外の世界はあまりにも複雑で彼にとってはたぶんなかなか理解できないだろ
う。「行く手に待ち受けるその世界はあまりにも広く、そして強大であり、彼が潜り込むだけ
の余地など何処にもないように思えたから」。こういう自分を失った孤独な「鼠」に、恋愛は
彼に大きな慰めを与えたのである。孤独な故郷に「鼠」にとって大切な存在は港と霊園である。
「敷地の半分以上は空地だった。そこに収まる予定の人々はまだ生きていたから」
。夏になる
と林の中には何台の車が泊っている。霊園でデートしてる若い男女が多い。「鼠」も少年時代
からバイクを乗って女の子を連れて霊園でデートした。その時の思い出は「鼠」の心を慰める
霊薬とも言える。
「まだ車には乗れない高校生の頃、鼠は 250CC のバイクの背に女の子を乗せ、
川沿いの坂道を何度も往復したものだ。そしていつも同じ街の灯を眺めながら彼女たちを抱い
た」。18
でも、新しい恋愛は彼を一時的に救ったのである。でも、「鼠」はそれに満足できず、引き
続き心の中の自分を探している。彼女との霊園でのデートも、彼女のアパートでの寝ることも
ただの過去への追憶のようなもので、「鼠」の頭の中で、少年時代の無邪気な感情を思い出さ
せる。でも、彼にとって、何もかも最後になったら必ず消えるのである。「様々な香りが鼠の
鼻先を緩やかに漂い、そして消えていった。様々な夢があり、様々な哀しみがあり、様々な約
束があった。結局みんな消えてしまった。」少年時代の結果のない恋愛と大学時代の学生運動
の挫折はいずれも彼に「裏切られた」感じをさせ、彼の不信感を募らせたのである。不信感と
虚無感が強くなり、もっと完全な孤独に落ちるはず。彼女とであったのはちょうど「空がまだ
僅かに夏の輝かしさをとどめている九月の初めだった」で、友人が「鼠」から去っていって、
「鼠」にとってもっとも「過ごし辛い」時期である。
「鼠」を魅力したのは彼女の「育てよさ」
や「ナイーヴ」だけではない、彼女の「努力」である。前にも述べたように、「鼠」はお金持
ちが嫌い理由は彼らは何もできない、それどころが、何もしなくてもお金持ちであり続けてい
ることである。しかも、「鼠」自身もお金持ちの一員である。でも、彼女は「確かに彼女は彼
女なりの小さな世界で、ある種の完璧さを打ち立てようと努力しているように見受けられた。
そしてそういった努力が並大抵のことも鼠は承知していた」19。彼女の努力している姿はある
意味で彼の心を癒したのではないか。彼女は「鼠」に家の暖かさを感じさせたのである。「鼠
は肩から脇腹にかけて、彼女の重みをずっしり感じる。それは不思議な重みだった。男を愛し、
子供を産み、年老いて死んでいく一個の存在の持つ重みであった」。彼女と一緒にいる時間に、
鼠の心は落ち着いて一時的に孤独から解放されたと言える。でも、「鼠」の心の中の弱さはも
う一度彼を現実の世界に連れ戻したのである。結局のところ、「鼠」は街を出て彼女と別れた
のである。しかも、彼女と別れるのが非常に簡単である。ある夜に、彼女に電話をかけなくて
いいのである。「鼠」の恋愛はあくまでも彼一人自身の問題であって、最初から恋愛に期待を
抱かなく、恋愛を徒労だと思い込んでいる。恋愛の喜びや暖かさを彼は感じているだけ、信頼
感は失っていたのである。そしてそれが「鼠」が自分の弱さのために、外から自分を完全に閉
鎖した結果である。一人で孤独のままが彼にとってもっとも心強い状態と言えよう。
2.2 自我の喪失
村上春樹は都市の「感受性」を持つ作家と言われている。彼の作品では、商品世界の匂いが
強く、都市に満ちている商品のシンボル、数値、名称が溢れている。過去の作家の作品の中で
描かれていた、人と人の間の愛情、恨み、友情などの感情は彼の作品で完全に姿を消えてしま
ったのである。それに対して、彼の作品の中であるのは、「<カリフォルニア·ガールズ>」、
18
『村上春樹全作品 1979~1989(1)』P181、P182
8
「ビーチ·ボーイズ」、
「ベートーベンのピアノ·コンチェルトの 3 番」、
「グレン·グルート」、
「ギャル·イン·キャリコ」、ヘミングウェイ、フィツジェラルド、ハートフィルドなどの西
洋の新鮮な音楽とか、映画とか、好きな小説家とかが溢れている。作家はこういう豊富な物質
生活に溢れた暢気な生活の中で思想を見えあい空の果てまでに遊ばせたのである。でも、毎日
周りで生活している人間に対して、こんな「楽しい」主人公たちは一切「無視」の態度を取っ
ているのは過言でもない。むしろ、主人公たちは現実の人間に何かの態度を取るのを断ってい
るのである。これがつまりいつも言われている「都市の感受性」20である。川本三郎によると、
村上春樹の小説には、生活のそのままの様子は消え去った。村上春樹が関心を持っているのは
都市の表面の様子、そして、楽しそうな消費生活である。彼はそういう生活を楽しみ、あるい
は楽しんでいるふりをする。それが彼の小説の表現の方式である。こういう都市で、テレビの
画面や新聞のニュースばかり生活の中で飛び込んでいて、生活の実感や人の実感は薄れて行っ
て消えるのである。これは、生活する場所と言うより、数え切れないシンボルや情報が共存す
る場所と言うほうが適正である。
大都市で暮らしている人にとって、周りには人と言うより、機械、情報、テレビ、ハ
イテク商品などに囲まれているのである。現代の世界はあまりにも便利で、われわれは家を出
なくても世界の情報が入手できる、つまらない時は、友達がなくとしても映画、音楽、小説な
どの時間潰しの楽しみを提供してくれる。一言で言うと、人にとってもっと生活しやすい環境
である。一人一人は誰かに必要とされてもないし、自分も誰かを必要としていない。こんな中、
一人一人の人間性は弱めてしまったのである。現代社会の豊かな物質はほかの人間の機能性の
弱めて、すべての人は「片道切符の島流し」のように、物質豊富の孤独な島に追放された現代
版の「ロビンソン」のである。この結果、人は機械にだけ感情を持ち、機械にだけ何かの態度
を取る。そして、人間自身もある程度機械のような存在に同化されたかもしれない。むしろ、
人としての価値は機械の価値よりも低い場合もある。
『1973 年のピンボール』の中で、
「僕」と一緒に暮らしている双子は名前さえなく「208」と
「209」と呼ばれているだけ。双子はスーパー·マーケットからもらった開店記念のシャツの
上には「208」と「209」が印刷されているだけである。しかも、主人公はその番号について「機
械の製造番号みたいだな」と直接突っ込んだのである。でも、双子がシャツを交換して着替え
たらまた主人公は見分けられなくなるのである。主人公にとって、双子はスヌーピーのような
ぬいぐるみに過ぎないかもしれない。三人の関係は一緒に暮らして、同じベッドに寝ている。
でも、恋人ではない。もともと、双子は急に現れた非現実で嘘みたいな存在である。僕いは彼
女たちについて一切知らなかった。いつかどこかに消えてもおかしくないのである。
「何故僕の部屋に住みついたのか、いつまでいるつもりなのか、だいいち君たちは何なのか、
年は?生まれは?……僕は何一つ質問しなかった。彼女たちも言い出さなかった。
」21
双子は「僕」にとってはたぶんただ生活の中の一つ物に過ぎない。一緒に暮らすのも別に何
かの理由は必要ではない。たとえいつか彼女たちは「僕」から去っていくのも大したこことで
はない。たぶん、またいつか代わりとしてほかの女が「僕」と寝るのかもしれない。まさに『羊
をめぐる冒険』の中で妻が言った通り:「あなたには何か、そういったところがあるのよ。砂
時計と同じね。砂がなくなってしまうと必ず誰かがやってきてひっくり返していくの」22。砂
時計の中の砂がなくなったら、またひっくり返すと砂がどんどん流れてくる。それも妻が「僕」
から離れる原因だと言える。
「僕」は誰かを絶対的に必要とすることはまずない。
「僕」は急に現れた「208」、
「209」と三人で一緒にコーヒーを飲む、ロスト·ボールを捜す、
散歩する、ベッドでふざけ合う。「僕」は毎日一時間をかけて彼女たちにニュースを解読し、
ヴェトナムの国内の戦争を説明し、ニクソンがハノイを爆撃する理由を説明する。まるで長年
20
21
22
《村上春树的世界》川本三郎(赖明珠译) 《书城》1992 年 2 月
『村上春樹全作品 1979~1989(1)』p148
『村上春樹全作品 1979~1989(2)』p33
9
生活してきた夫婦のようである。そういう非現実的な表象の背後には主人公の人間に対する絶
望が隠れているのである。『私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する』という本を「鼠」が読
んだことがあった。このタイトルはまさに主人公にぴったりである。愛の世界は貧弱だから、
主人公は華麗な虚偽な愛に向けたのである。双子との虚偽の愛の中には、双子の人間としての
属性の喪失である。
周りの誰かを愛することができないに対して、主人公は生活の中の物に感情を訴えようにな
ったのである。
『1973 年のピンボール』の中に、
「僕」は双子と一緒に三人で、貯水池で「死ん
だ配電盤」に葬式をやったのである。しかも、「僕」はお祈りの文句としてカントの『純粋理
性批判』を引用したのである。「哲学の義務は」、「誤解によって生じた幻想を除去することに
ある。……配電盤よ貯水池の底に安らかに眠れ」。配電盤を一人の人間として弔って、配電盤
に人格を与えて、人間と機械を間違えたのである。
上述したように、自我の個性の喪失した人間は他人から何も望まない、自分と他人の関係に
そのまま成り行きに任せて放任する態度を持っている放任主義を取っているのである。「心理
学で、人類は人と呼ばれるのは動物の中で唯一の自我意識が持っているからであると認識され
ている。人類は自我意識のおかげで僕と世界と別れているし、世界の発展によって自分で選択
できるようになる。そして、人間は個体としても人によって選択も違う、だから個性も自我意
識の一種である」23。でも、上述した完全に知らない人と一緒にも平気に楽しそうに暮らせる
のは自分で選択することを諦めて、ただ起こったことをそのまま受け取るのである。
自我意識を失ったというのは、周りの世界に現実感を失い、自分が現実の世界に暮らしてい
る実感が感じられない。あるいは、自分が二つに分裂し、自分ももう一つの自分が眺めている
「二重身」のことである。常に自分が自分ではないという感じが生じて空しい虚無感に落ちる
のである。
「足の痛みを和らげるためだ。痛みはさして激しくはなかったけれど、まるで体に幾つかの
別の部分に分断されてしまったような違和感を僕に与え続けていた。」
「違和感……。そういった違和感を僕はしばしば感じる。断片が混じりあってしまった二種
類のパズルを同時に組み立てているような気分だ。とにかくそんな折にはウィスキーを飲んで
寝る。朝起きると状況はもっとひどくなっている。繰り返しだ。
」24
ここでの「分断」というのは体が感覚は鈍くなった。まるで自分の体ではないような感じで
ある。人としての主体は自分の体に違和感を感じて全体感を失ったのである。青春期の若者が
自己表現を追及して、世界から認められようともっとも情熱な時期である。でも、こういう精
力でいっぱいの主人公たちは世界から自分の位置を見つけられなくて、自分の価値を実現する
のもなかなか難しくなり、憂鬱な状態に陥るのである。こんな状態の主人公は現実の世界に彷
徨いながら内心の自分を失って、まるで残りの自分をどこかに忘れてしまったのである。
『1973
年のピンボール』の中の耳のない女(
「僕」の彼女)は耳のモデルとして広告の写真を撮る時
だけに耳を他人に見せる。彼女の耳は「非現実的に美しかった。その美しさは僕がそれまで目
にしたこともなく、想像したこともない種類の美しさだった。すべてが宇宙のように膨張し、
そして同時にすべてが厚氷河の中に凝縮されていた」。こんなに美しい耳を持っている彼女は
いつも故意に髪を下ろして耳を隠しているのである。彼女によると、彼女はその耳の持ってい
る力を自分で把握できないということ。そして、耳は彼女が外界と繋がる通路である。耳を他
人に見せる時に、彼女は必ず体と耳の通路を塞ぐ。耳は体の一つの部分として、彼女の主体か
ら切り離された。彼女は完全な自分を人み見せるのを断ったのである。その耳は彼女の欲望を
代表しているのである。
「彼女は時折耳を見せたが、その殆どはセックスに関する場合だった。」
でも、耳を出せない時のセックスは「まるで新聞紙をかじってるみたいに何も感じないの」。
彼女の心の閉鎖の状態と同じように、
「僕」も本当の自分の半分しか生きていない。
「僕」はず
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24
『内心的困境与治愈_ 对村上春树青春三部作的解读_ 曹文沛』p20
『村上春樹全作品 1979~1989(1)』p127、128
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