だってロンドンに行きたいんだもん

留学大河(ノンフィクション)
だってロンドンに行きたいんだもん
〜海を渡ったユニ学生たち〜
後に初代内閣総理大臣の座に登りつめた伊藤博文(旧千円札)が、死罪覚悟で英国への密航留学を企てた日からほん
の 150 年後の今、留学はかなり普通の人の選択になったようです。
このページにたどりついた方、こんにちは。ようこそいらっしゃいました。あなたは多分、イギリスとかロンドン
に関心があるか好きで、チャンスがあれば留学してみたいと思っていらっしゃる? とは言うものの、仕事とか資金
調達とか家族とか結婚とかあれこれ考えると簡単に決められないし、でも行ってみたいし……
ほかの方はどんな感じで留学を決めてるんですか?
という問いかけを多くの方からもらいます。わかりました。それでは、ある日ユニコン事務所のドアを押して、そ
れがきっかけでロンドンに渡った3人の寄稿文をもとに、彼らの姿を時系列的に追いかけてみましょう。3人とも地
方出身の普通の女性です。年齢もバックグラウンドも出身地も留学した時期も選んだ学科もなにひとつ共通点はあり
ません。3人が何を思ってどういう過程で海を渡る大決心をしたのか、
渡ってからどのようなドラマが幕を開けたのか、
私と一緒にご覧になってください。
— 寄稿者は次の 3 人です ( 3人の名前は出身地からぱくった仮名です ) —
静子さん
1983 年生まれ。3 人姉妹の末っ子
( 静岡出身 )
得意だった科目:英語
弱かった科目:世界史
部活:バレーと山歩き ( 登山 )
趣味:ハイキング
リスペクトする人:緒方貞子
●ユニコンのドアを押し開けたのは高校三年生のとき
熊子さん
1974 年生まれ。兄一人
( 熊本出身 )
得意だった科目:数学・英語・体育
弱かった科目:理科全般
部活:バスケ
好きな芸能人:ティム・ロス
●ユニコンに初コンタクトしたのはOL5年目のとき
福子さん
1980 年生まれ。弟一人
( 福岡出身 )
得意だった科目:国語・英語
弱かった科目:数学・物理・化学
部活:弓道
●ユニコン・コンタクト当時は大学 2 年生
第 1 話 : 始めてのオーベー記憶
そろいも揃って3人とも地方出身者です。熊子さんにいたっては生まれてから(旅行以外で)九州から出たこともあ
りませんでした。それがなぜ、東京留学をぶっ飛ばしていきなりの英国となったのか? と、詮索する前に、彼らとオー
ベーのファースト・エンカウンターはなんだったのでしょうか?
福子さん (1980 年頃 : 当時 8 歳 )
小学2年生の頃、アジア圏の小・中学生を日本人家庭
にホームステイさせるプロジェクトが地元で開催され、
我が家にもマレーシアから女の子が二人やって来ました。
彼女たちとの 2 週間がわたしの最初の身近な海外体験
だったのですが、このとき「わたしも一人で外国に行っ
てみたい」と言い出したという話です ( 母親談。じつは
私は子供すぎて覚えていません・・・) それを真に受
けた両親に夏休みのホームステイや海外旅行に行かせて
もらっているうち、いろいろな国の人や、日本人で海外
留学しているお兄さん・お姉さんに出会い、まさしく「世
の中にはいろんな国があっていろんな人がいるのだ」と
いうことを体感しました。当たり前といえばそうなので
すが、日本のしかも九州にいるとなかなかわからないこ
となのです。子供の私には、そんな単純な事実がとても
衝撃的に感じられました。やがて、
「わたしも外国の学校
に行ってみたい」と思うようになりました。
1996 年の出来事
●アトランタ・オリンピック開催
●世界初のクローン羊ドリーの誕生
●チャールズ皇太子ダイアナ后離婚
●オウム麻原初公判
●ミドリ十字薬害エイズ裁判
●ペルー日本大使公邸人質事件
熊子さん (1996 年 : 当時 22 歳 )
福岡で大学生をしていた 4 年生の春休みに、大学の短
期留学プログラムでマンチェスター大学へ行きました。
1996 年春です。同じプログラムで来た日本人学生たちだ
けのクラスが作られ、英語の授業+課外授業+エクスカー
ション等を体験しました。 これに行こうと思ったきっか
けは、そのまた 1 年前、95 年の春に「就職に役立つかも
だし」と思って英会話スクールに通い始めたことでした。
それまでは海外になんて一切興味がなく、
むしろ
「海外 ( 特
当時の首相:故橋本龍太郎
当時の英国首相:ジョン・メジャー
当時の米国大統領:クリントン
当時のロシア大統領:エリツィン
にアメリカは ) 行ったら殺されちゃう
(すごい田舎もん・
・
・
笑)
」とけっこう本気で思っていたのですが、スクールで
●小室ファミリー、パフィーがブレーク
英語を習ううち「せっかくだから海外行ってどんくらい
●流行った歌:名もなき詩(ミスチル)
つうじるものか試してみたいな」と思って行くことにし
●ベストセラー:失楽園
ました。
静子さん (1996 年 : 中学生 )
中学生の時、社会の授業で緒方貞子さんの記事を読み、
世界と渡りあうことができ、各国の人から認められてい
る緒方さんはすごいなぁと尊敬の念を抱きました。それ
以来、緒方さんのように国際的に活躍する女性になりた
いと思うようになりました。世界で通用するには、まず
コミュニケーション・ツールである「英語」を身に付け
なければ!と、学校での英語の勉強に力を入れました。
( 為替レート:1 ポンド= 170 円 )
第 2 話 : 福子イギリスに目覚める
時は流れ、バブルなんかとっくにはじけていたのに気分はまだまだバブリーな 1998 年。ああ、あのカネはどこに行っ
たの?熊子さんは大学を卒業してそのまま地元熊本の地場企業に就職。これからしばらくの間、熊本に埋もれること
になる。静子さんはアタック No.1 な中学3年生。熊本に比べれば静岡ははるかに東京に近いとはいうものの、都心の
灯はまだまだ遠かった。
さて、第一話では8歳児だった福子さんも高校生になっていました(福岡で)
。
福子さん (1998 年頃 : 当時 8 歳 )
留学してみたいとは思っていたものの、わたしにとっ
ところが、1997 年 5 月 2 日、英国でブレア政権発足。
ての外国といえば断然アメリカでした。こう言っても首
その夜のニュース・ステーション(久米宏)でトニー・
都圏の人はなかなか信じてくれないのですが、田舎では
ブレアの等身大パネルを見て衝撃を受けました。足を一
海外といえばとにかくアメリカ、外人といえばアメリカ
歩前に踏み出してネクタイが風になびいている、颯爽
人のことを思い描きます。なので、当時は「留学=アメ
としたスピード感のある写真でした。
「おぉーっ、かっ
リカ留学」という図式がごく自然に頭の中にできていま
こいい!!こんなかっこいい若い人が首相になるなん
した。ヨーロッパというと、
「どこか遠いところ」
「なんか、 て!!!イギリスってすごい!これが外国=アメリカと
外国」という意識しかありませんでした。
いう腐ったような図式が自分の観念から抜け落ちた瞬間
だったのでは?
静子さん (1999 〜 2000 年 : 高校生 )
高校生活も半ばを過ぎると、友達、先生と進路の話を
そんな折、部活の先輩が卒業後にオーストラリアへ留
するようになりました。英語が好きだったし、英語を喋
学したことを聞きました。それまで「留学」という選択
れるようになりたいと思っていたので、日本の外国語大
を考えたことがなかったので、なんだかショッキングで
学を目指して勉強していました。外国語大学といっても
はあったけれど、そういう道もあるのか!と道が開けた
幾つかあるので、その中でどこがいいかを知るために、
気がしました。
気になる大学いくつかについて調べました。けれど、在
学生の話を聞いてみると、
「あまり楽しくない」
、
「英語は
喋れるようにならない」
、
「みんな休学して留学している」
といったあまり満足していない声が多数聞かれました。
それを聞いて、日本の外大に魅力を感じなくなり、どう
したものかと途方に暮れていました。
第 3 話 : ユニコンを探して
熊子さんのOL生活もそろそろ 5 年目。
「夕食は毎日必ず家族と一緒に食べていました」
(本人談)という規則正しい
生活を送りながらも、何かがポッとココロに芽生え始めた頃です。
その間に福子さんは東京(の大学)に進出。静子さんも将来の進学を考えるべき高校 2 年生になっていました。さて、
最初にユニコンのドアを押し開けたのは誰?
福子さん (2000 年夏 :19 歳の大学二年生 )
留学先をロンドンにしようと思い立ったので、実際に彼の地で生活できるもの
か見てみようと思い、大学 2 年生、2000 年の夏休みにロンドンへ一ヶ月遊学し
ました。UCL の校舎を使って民間の語学学校がやっていたバケーション・プログ
ラムに参加しました。このとき、
「ニューヨークよりマイペースな感じだし、こ
こなら 1 年間暮らせそうやな」と思い、帰国後本格的に留学計画に乗り出そう
と決めました。ロンドンの街角で当時無料配布されていた「LondonZok」という
日本語無料誌を拾ったのですが、そこにユニコンの広告が出ていたのを見て存在
を知りました。
ロンドンでの短期滞在を終えて帰国するや否や、ユニコン事務所を訪問しまし
た。ロンドン事務所から出張中のおじさんによるロンドン芸術大学の説明会に出
席したのですが、開口一番「お前、大学おもしろくないんだろ?!」と言われ、
ガーン!なんでわかるのーッ!と驚きました。実際、両親との「日本の大学にと
にかく一度入りなさい。それでどうしても嫌ならやめて海外に行ってもいい」と
いう約束のまま東京の大学に進学したものの、つまらないと思い失望していたの
で、1 年留学して軌道に乗ればそのまま退学してイギリスで大学に通おうと思っ
ていたのです。それと、これはやたらと地元好きな福岡の人間ならではの理由で
すが、カウンセリングしてくれたおじさん(後にユニコンの社長と判明)が同じ
福岡出身ということにも非常に縁を感じ、
「とにかく、なんでもいいからこのヒ
トの言うとおりにしておこうっと。そうすれば間違いなかろう」と思い、アドバ
イスのままに留学先の学校やコースを決めました ( 単純ですね…)。
2000 年の日本
●当時の首相 : 小渕首相が急逝。後
に料亭首相の異名を取る森善郎が
首相の座へ。
●沖縄サミット開催
●長島巨人 vs 王ダイエーの日本シ
リーズ対決
●富士+第一勧業+日本興銀=み
ずほファイナンシャル・グループ
発足
●2千円札発行
●ハリーポッターと秘密の部屋
●活躍した人:タイガーウッズ全
英オープン優勝 ( このとき 24 歳 )
●流行った曲:TSUNAMI( サザン )、
らいおんハート (SMAP)
●流行語:おっはー、IT 革命、最
低でも金 ( 柔ちゃん )
( 為替レート:1 ポンド= 160 円 )
静子さん (2001 年夏:高校 3 年生 )
「留学する」という進路選択を考え始めてから、留学に関する資料をいくつか
のエージェントから取り寄せて読んでみました。様々なおいしい情報があるなか、
ユニコンの資料だけは厳しいことを書いていて、むしろ現実的で信用できるな、
と思い、ユニコンにコンタクトすることにしました。
高3の夏にユニコンのミスター S との面談をアレンジしてもらい、田舎から東
京へ出てきました。ユニコン事務所の民家具合とミスター S の怒涛のカウンセリ
ングにびっくりしながらも、留学しておけば間違いない!というミスター S の話
にとても納得し、田舎へ戻るころには留学しようと心は決まっていました。
学校の授業と英語の読み書きをしておけ、というミスター S のアドバイスに
2000 年の世界では
●シドニー・オリンピック開催
●プーチン大統領就任
従って、みんなが必死に受験勉強をしているのを横目に期末テストの勉強と英語
の勉強に励んでいました。( ミスターSがユニコンのシャチョーだと知ったのは
数年先のことです )。
第 4 話 : わたしがコレを選んだわけ
2001 年、アヒル第1号が飛び立つ日が近づいていました。第1号は、東京モンを装っているが 2 年前までは福岡(の、
しかも市外の県道)を自由奔放に走り回っていた福子さんでした。
ところで、福子さんは東京の大学ではファッションと全然関係ない学科を専攻しています。それなのに、なぜいき
なり突然、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションを選ぶことになったのでしょう。
実は同カレッジへの進学希望者にはファッション界と無縁な人が毎年多く含まれています。また同カレッジは、お
そらくこの 10 年、英国全土の大学の中で最も急激に拡大し発展し力強い成長を続けてきています。福子さんの選択動
機をさぐればロンドン・カレッジ・オブ・ファッションの急激な成長の秘密がわかるかも。
福子さんのファッション道の歴史
母も祖母もとにかく着道楽でした。独身時代の母は給料
のであったのか思い出せないのですが(とりあえず日本
日になると祖母と二人で博多の街で待ち合わせをして買
の大学を出ておけ、という親や教師の意見に外堀から強
い物に出掛けていたそうです。話によると、曾祖母も着
く影響されていたのかも)
。
道楽で、界隈ではなんとか小町と呼ばれるほどハイカラ
大学では美学や美術史を専攻し、先輩がやっていた
で鳴らしていたというし、祖母の妹は(あの時代に)洋
アングラ演劇の舞台衣装を作ったりしているうちに、
装ブティックを経営していたし(田舎では浮きまくり?)
、 「ファッションするなら衣装デザインがいい」と思うよう
母の従兄弟もニューヨークにファッション留学してその
になりました。それなら、文学というもうひとつの自分
ままあちらで働いていたし、よくよく聞けば父方の祖父
の好きなものにも関係してくるし、こんなハッピーなこ
の実家も元は仕立屋だったらしいし、なんだか妙に服飾
とはないと思いました。大学自体は全くもってつまらな
一家?そんな中で初孫として生まれた私は和洋の装を問
い場所だと思ってふてくされていた時で、それならここ
わず全員によってたかって飾り立てられ、着せ替え人形
らで幼いときからの思い入れがある「留学」をファッショ
として人生をスタートしたらしいです。
ンでやってやろう、と計画が自分の中でどんどん拡大。
そんな環境の刷り込みのせいかファッションへの関心
ユニコンのおじさんにこんなマイ・ヒストリーを語っ
は高かったのですが、進学先として美大や服飾大学が選
たところ、
「ウン、じゃ、お前はカレッジ・オブ・ファッショ
択肢に含まれることはありませんでした。どの学校の学
ンね。で、コースはファッション・ポートフォリオ。経
生の作品を見ても、田舎者ながら「なんとなく型にはまっ
験もないし 21 歳にもなっていないからこれしかない(と
た感じでイマイチ面白くなさそう」という印象を受けた
いうか他に入れるコースないし)
。おいしいコースよ、こ
」と大声でアドバイスされました。へぇ、そういう
からです。
「それなら、将来ファッションをやるにしても、 れは。
まず普通の大学で自分の哲学ちゅーもんを深めたほうが」
ものかと思い、
「あい、わかりました」とそのまま面接へ。
という結論に達しました。まだ田舎の純な高校生だった
ので、そんな思考回路が果たしてどこまで自分自身のも
ゲスト・インタビュー
福子さんに断言アドバイスをしたユニコンのおじさん(社長)にインタビューしました。
質問:福子さんのカウンセリングは 5 分間で終わったと聞いていますが、5 分でしかも断言アドバイスできた理由は
なんですか?
社長:服買うのが好きだからファッション勉強したい
しょ。1 年ぽっきりで時間がたっても心変わりしても、
というのに比べればまだマシなんだけど、着道楽だの、
留学のミヤゲを残せるものと言ったら英語力だろうと、
ちょっと舞台衣装を作るのを手伝ったら面白かったから、
僕は思うわけ。好きなファッションを英語でやれば上達
だの、マジでデザイン勉強するには動機がまだまだ薄い
も早いだろうしね。最近は福子さんのように休学留学し
のよ。ファッションの基礎全然やってないし。この調子
てくる学生が多いからボクも妙に慣れていて、おかげで
だと好きなものがいつ変わってもおかしくない。しかも
5 分でケリがついてしまったという次第です。
大学じゃ関係ないことを専攻していて、おまけに 3 年生
になってしまってからの休学で、1 年ポッキリの留学で
熊子さん (2001 年 :27 歳。OL生活 5 年目 )
大学卒業後に地場企業に事務として就職しました。上
無かった。で、その頃ちらっと習っていたグラフィック・
司にも同僚にも待遇にもそれなりに恵まれ、仕事にも慣
れてこれと言った大きな不満もないまま、5 年の月日が
デザインのことを思いつき、
「そうだ、グラフィックをや
たっていました。だけど、
「何か、このままではいけない
りたいんだ、私は!」と、今思えば無理やりそう思い込
ような気がする」という思いが生まれたのもこの頃。こ
み、ネットで情報集めをしました。下調べを進めていく
れといった確証も無いまま趣味的にグラフィック・デザ
と、ロンドン・インスティチュート(現ロンドン芸術大
インなんかを習ってみたり。当時は意識してなかったけ
学)の 1 校である London College of Printing(現 London
ど、きっと何か変化が欲しかったのかも。やがて思いつ
College of Communication)にグラフィックのコースがあ
いたのが「生まれて初めて行った外国、
イギリスへの留学」 るらしいことが分かり、日本にその入学受付機関(ユニ
という大胆な夢。学生のとき行ったのはイギリスといっ
コン)があることを知りました。
ても田舎のマンチェスターだったけど、それでも楽しかっ
「すぐに渡英!」というつもりはなく、軽い気持ちでユ
た(そういう意味では熊本も負けていないし)
。英語うま
ニコン東京事務所にメールで初の問合せをしました。何
くなったからって人生大きく変わるかどうかわからない
度かメール通信をかさねた頃いきなりユニコン・ロンド
けど、でも英語好きだしうまくなりたいし。
ン事務所から自宅に電話がかかってきて焦りました(そ
留学しようと決めたものの、この歳での留学ともなれ
ばに母親が居て、しかも留学のことなんて一言も話して
ば単なる英語の勉強だけで終わるわけにいかないと思い
いなかったので)
。自分で電話番号を書き送ったくせに、
ました。でも、正直、これを勉強したい!というモノが
「いきなし電話はちょっと…」と思いました(笑)
。
ゲスト・インタビュー
当時、熊子さんに「いきなりの電話」をかけた S 氏にインタビューしました。
質問:どうしてまたいきなり電話をしたのですか? 熊
質問:熊子さんと初めて話したときの印象はいかがでし
子さん、かなり引いたらしいですよ。
たか?
S氏:当時の東京事務所のマネージャーから「すごく遠
S氏:ロンドンからのいきなりの電話で驚いたせいかも
いところから時々思い出したような感じで問合せをして
しれませんが、なんか、疑ってるような声を出していま
くるお客さんがいるんですが、なんかラチがあかなくて」
したね。てゆうか、オレ疑われているかも、と、ちょっ
「田舎が熊本で民俗学的にもSさんと近いから同国人とし
と感じましたよ。てゆう僕も、断言を避けたようなモゴ
て一度コンタクトしてあげたらどうでしょうか?」と報
モゴした彼女の熊本訛りを聞いて「ちょっと怪しいかも」
告を受けて、
「よし、それなら地元の共通語(九州弁)で
と思わなかったわけでもありませんが。九州だからって
わかりやすく説明してパパッと解決してやろう」と思っ
全県の民族性が同じわけではありません。はっきり言っ
て電話したんですよ。
て、福岡は超都会だし県民はオープンだし言葉も熊本ほ
ど訛りが強くないし。
(おぉ〜っと、ここで福岡自慢に方
向が変わる前にインタビューを終了します)
第 5 話 : ロンドン一番乗り
あわよくば、LCF( カレッジ・オブ・ファッション ) での 1 年が実りある楽しいものであったら ( 休学してきた日本
の大学は退学して ) そのままロンドンでの留学を続けよう、と心密かにトラたぬ算段 ( 取らぬ狸の皮算用 ) をしての渡
英をした福子さん。さて、5 分間の断言アドバイスで決めた Fashion Portfolio コースの実態は?
●● 福子のLCFライフが始まった(2001年9月 )●●
チューター: ふぅん、みんなおもしろいわね。次は違
うものを選んで利き手じゃないほうの手で描いてきて。
エピソード 1: これがファッションの勉強なの?
?? 初日授業は校内マラソン・デッサン !??
わたし : わーい、やっと違うものを描けるど。今度
は小さいものを描こうっと ( そのまま教室に残りそこら
「これで将来は舞台衣装デザイナーね、へっへっへっ」と
に転がっていたはさみを選ぶ )。ボディは描きやすいけ
軽くその気になって登校した LCF での第一日目、教室に
ど形が単純だし何度も描いてもう飽きたもん。はさみは
入るとチューターが全員にスケッチブックと鉛筆を配り
ちょっと複雑な形だから楽しめるかも。
ました。
( スケッチ 5 回目 : 皆が戻ってくるのを待つ )
チューター: 今からドローイングをやります。各自こ
チューター: 次は階段ホールに行って、2 本の指だけ
れから校舎内の好きなところへ行って、そこにあるもの
で鉛筆を持ってドローイングしてください。
をスケッチして 5 分間以内に帰ってきてください。
( 全員で校舎の階段部分へ行き、踊り場に陣取ったり階段
わたし :どこに行こうか、と、校舎をうろついてる
の途中に座り込む )
うちにボディ ( トルソー ) を置いている教室を発見。こ
れにしようっと。大きいもののほうが描きやすいし、ボ
わたし : そう言えば何を描けとは言われなかった
ディってなんかファッションっぽいしィ。 ( スケッチ
よね。みんなは何描いてんのかな ?( と見渡すと、踊り場
1 回目 : 描き終えて教室に戻る )
から階段にかけての空間全部を描いている人、手すりを
描いている人、階段の 2 段分くらいをクローズアップし
チューター: おかえりー。さっそくだけど、今スケッ
て描いている人、落ちてるゴミを描いている人など色々 )。
チした場所に戻って、同じものを違う角度から描いてき
ふーん。じゃ、わたしは階段の端っこでも描いてみるか。
てください。
(線がへろへろしていてちょっとお習字的。新鮮な感覚)
(スケッチ 6 回目 : 描き終えて教室に戻る)
わたし : えー、またかよ。 ( スケッチ 2 回目 :
描き終えて教室に戻る )
チューター: 階段ホールに戻って、今度は鉛筆をグー
で握ってドローイングしてきてください。
チューター: もう一度今の場所に戻って、同じものの
一部をクローズアップして描いてきてください。
わたし : 同じものを描けとは言ってないのだから、
別のものを描こうっと。
わたし :はぁー、三度目だぜ。 ( スケッチ 3 回目 :
( 木製の階段の手すりと踊り場が交差点に彫刻してある飾
ふぅ )
りを写生しました )
(6 回目とは別の意味でコントロールがきかず、自分の力
チューター: 今度はアウトライン ( 線 ) を描かない表
のごつごつした感覚を味わいました )
現方法で同じものを描いてきてください。
( スケッチ 7 回目 : 描き終えて教室に戻る )
わたし : えーっ四度目だぜ。ていうか線を使わな
チューター: 今度は描く対象に目線を固定したまま同
いで描くってどういうこと?
じものを描いてきてください。
(・・・しばし考え、そこの場所の影を黒く塗っ
( スケッチブックは見るな、ということね )
て持ってくる )
( スケッチ 4 回目 : ゼェゼェ )
わたし : ( スケッチ 8 回目 : 飾りに目を据え
たまま描き終える )
チューター: 同じものをもう一度描いて来て。ただし
スケッチブックを見ながらでいいから、手で触って形を
確かめながら描くこと。
わたし : ( スケッチ 9 回目 : 飾りをさわさわ
しながら描き終える )
チューター: 最後です。目を閉じて対象を手で触りな
がら、ワンライン ( ひと筆 ) で描いてきてください。
わたし : ( スケッチ 10 回目 : ゴールイン )
3、4 回目あたりまではチューターの狙いがわからないの
で全員狼狽気味だったが ( なんか、全然ファッションと
関係なくない ?)、後半は「次は何がくるのか」とむしろ
ワクワク。ファッションもやはりデッサンのウォーミン
グアップから始まるのだという UAL 哲学を印象付けたス
タートでした。この後も、年間を通して一般的なアート
&デザインのプロジェクトが必ずどこかに入りました。
一般的なプロジェクトとは、CSM やチェルシー、キャン
バーウェルなどのファウンデーション・コースでやって
いるような「general art & design」のプロジェクトとい
う意味で、これには立体造形、ドローイング、ペインティ
ング、コラージュ、写真など、
「ファッション」とは直接
的には全く関係のなさそうな内容が含まれました。もち
ろん、ファイン・アーツを下敷きにしたアート&デザイ
ンのファウンデーションほどは深くないしコマ数も少な
いけれど。カレッジ・オブ・ファッションだからといっ
て、1 から 10 までもろにファッションと直結する勉強
( ファッション・スケッチや服のデザイン、パターン、服
作りなど ) をするところと思ったら大間違いですね。
2001 年の日本
2001 年の世界の一大事
●純ちゃん(小泉純一郎)内閣総理大臣就任
●ジョージ・ブッシュ合衆国大統領就任
●愛子様ご誕生
●その直後のアメリカ同時多発テロ (9.11)
●イチロー選手メジャー(マリナーズ)へ移籍
●ユーロ流通開始
● USJ と東京ディズニー・シーの開業
●三井住友銀行誕生
●目立った芸能人 : 宇多田ヒカル、氷川きよし
●流行った曲 :Can You Keep A Secret(宇多田ヒカル)
●流行語 : 聖域なき改革、骨太の方針
●●● アヒルさんに聞いてみました ●●●
「留学することに決めた」と公表したときの周りの反応を教えてください。
福子さんの場合
両親は高卒後すぐ留学することには断固反対していたものの、
「日本の大学に入りさえすれば、後は地球上である限
りどこへ行ってもいい」などと「?」なことを言っていた手前もあったのか、特に反対はされませんでした。むしろ
賛成…というか諦めていたのかも。親戚間にも拒否反応はとくに見受けられず、行ってらっしゃいムードでした。ゼ
ミの先生も「ウン、ボク、そういうの大好き。どんどんやりなさい。
」と言ってくれました。
ただ、
友人の反応は性別によって分かれました。女性陣は「よかったね〜」とか「いいな〜私もどっか行こっかなー」
とか「ファッションで行くのね。いーじゃん」と暢気な応援コメントをくれましたが、男性陣は「えー、お前、就職は」
とか「いいね、女は好きなことできて」とか「ますます世間離れした潔い方向に行くね」とか、妙にじめじめしたコ
メントが多くて驚きました。もちろん、そういう男ばかりじゃなかったけれど。
第 6 話:17 歳の選択
アヒル第1号がロンドン・カレッジ・オブ・ファッションにデビューした頃、静岡ではアヒル第 2 号がロンドン留学
への確かな足場を築きつつありました。
「留学だとぉー?」担任の教師には真っ向から反対され、
優しい両親を当惑させ、
それでも君は行くのか、
ロンドンへ?
●●● 静子、高校2年生の回想(2000 年)●●●
「留学してみたいなぁ〜と思いつつもどうすればよいのかわからず、高校の英語の先生に相談したところ、
「まずは
日本の大学を卒業した方がいい」と言われました。留学なんかすると、スタンダードな人生のレールからはみ出るこ
とになるし、日本の大学を出ておかないと就職が難しくなるだろうというのが理由でした(先生の言う《大変》の意
味とは多少違っていたが、留学が大変ということ自体は正しかったと思います。大変なことは別に悪いことではない
と思うけれど…)
。
留学の方法を聞きにいったのに、留学はしない方がよいと言われて戸惑いましたが、私が知りたいことではなかっ
たので先生の意見は心の隅に追いやりました。
両親は、
私の
「留学」
という選択に当然ながら驚きました。というか、
それまで日本国を一度も出たことのない親にとっ
て外国自体が未知の世界で、そんなところに 18 歳の娘を一人で送り出すことに親としての責任や心配・不安を感じ
たからでしょう ( 当たり前だと思います )。
●●● 高3の夏。父親連れでユニコンのドアをノック (2001 年 ) ●●●
「2001 年の夏に、当惑気味の父親を引き連れて上京。ユニコン東京事務所でミスターSに会いました。話題はすぐ
にどんな留学計画が私にとって最適なのかという点に進みました。
わたしの将来の夢と目的、現時点での成績や英語力、性格、適正という材料を調合した結果、
「英国最難関の文系ファ
ウンデーションを目指そう」というターゲットをミスターSから提示されました。当時の最難関ファウンデーション・
コースといえば、ロンドン大学キングス・カレッジ。要求されるのは、5.5 以上の IELTS スコア(ただし、Reading と
Writing スコアは 6.0 以上であること)
、高校の最終成績評価が 4.0 以上であることの 2 点。
渡英前の具体的準備としてミスターSが示したのは、
「高校卒業まで平常の授業の手を抜くな、高校課程までの英語
教科書(文法)をしっかり消化しろ、
くだらない英会話学校にカネを使うな、
渡英前に日本で一度 IELTS テストを受けろ、
高校を卒業したら静岡でタラタラしてないで早めに渡英してロンドンの優良な英語学校に数週間通え、その英語学校
での数週間を終えたら IELTS テストをもう一度受けろ」というもので、これがそのまま具体的な留学プランになりま
した。こんな話をしている間も、父が口をはさむことはほとんどありませんでした。
父親はもともと自分の意見をあまり言わない人なので、
●●ロンドンを選んだ理由●●
内心どう思っていたかわかりません。でも母親は若いとき
自分も留学したいと思っていたこともあり、私の気持ちを
理解してくれました。
家に帰って 3 人で話し合った末、
「あんたが決めたことだから頑張れるなら応援するよ」
と、最終的に合意してくれました。
友達は「いいな〜、
羨ましい」
「すごいね、
勇気あるねぇ!」
「なんで、留学しようと思ったの?」
「頑張ってね」
「遊び
に行かせてね」などなど、ポジティブな反応ばかりで特に
批判的な意見はありませんでした。とは言うものの、実の
ところは ( わたしが通っていた高校は地元では著名な進学
校で誰しもが日本の有名大学を目指すエリート軍団だった
ので ) わたしの選択は彼らにちょっとした「衝撃」を与え
たはず、と自負しています。
消去法でした(英語圏というカテゴリーで)
。
●アメリカは銃撃事件とかあるから、怖そう
●カナダは山々しすぎて(山ばかり)で、なんか寒そ
う
●オーストラリアは行ったことがあるから、新鮮味に
欠ける
●ニュージーランドは…マジに勉強するところには、
思えない
●●●じゃぁ、イギリスだね。
第 7 話:Fashion Portfolio の秘密
ちょちょっと本気出せばファッション・デザイナーくらい案外スイスイかもね〜と内心なめていた福子さん。いやはや、
しろうとさんは怖いあるよ。そんな福子さんでしたが、コースが進むにつれて正気を取り戻して…
●●● 福子さんの LCF ライフは続く (2002 年 ) ●●●
エピソード 2: 東アジア勢の団結
?? ガイジンってマジ疲れる? ??
授業の大黒柱
ファッション・デザイン、写真 ( 撮影から現像まで )、ドローイング ( 静物と着衣デッサン )、チューターを囲んで
10 人くらいでやるカルチュラル・スタディーズのセミナー ( ゼミ ) が年間を通して行われます。これらを柱として色々
なコマがタームごとに加えられます。
アート枠とファッション枠
[アート枠]では、ペインティング、立体造形、コラージュ、
[ファッション枠]ではスタイリング、服のリメイク、
ファッション写真の撮影、ファッション用語解説、ファッション史、ファッション・マーケティング、ファッション・
ジャーナリズム、アクセサリー・デザイン、パターン・メイキングなどの学科をやりました。
服作り
ところで、パターン・メイキングの最終課題は自分が作ったパターンを使って実際に服を作ることでした ( 小学校
の家庭科でやった運針以外、縫製の勉強なんかしたことないのに…ブツブツ )。幸い、服飾学校出身の日本人クラスメー
トが多かったので、その人たちに助けてもらうことができましたが。
第二、第三タームではメイク・アップと刺繍の授業を選択履修できるのですが、ポートフォリオ作りや卒業制作の
大詰めで忙しかったのでパスしちゃいました ( わたしだけじゃないもん、ほとんど全員パスしていたもん )。
卒業制作とわたしのガイジン観
卒業制作のネタはグループ・プロジェクトによるマガジ
ン作り。マイ・グループは【日本のマキモノ ( 巻物 )】と
( キャバ系 ?) の
「お洋服」
ばかりデザインしたがるヨーロッ
いうコンセプトで、布をくるくる巻いていくような形の
その一方では、アジアからもヨーロッパからも完全に
雑誌を作りました。
ずれてサリー風のデザインばかりしているインド人がい
わたしのグループは、日本人 5 人、台湾人 2 人のアジ
て。南アジア人は全員お嬢で金持ちだから学校に来たり
ア勢で構成されていました。やはりと言うか ( 残念なが
来なかったり。ていうか、
課題をやってる気配すらないし。
らと言う気持ちも多少込めて ) アジア同士だと「かっこ
しかもガイジン、わがままだし、適当だし、作業は雑だし、
いいと思うもの」の好みが合うのですね ( 日本人と台湾
すぐ人に押し付けるし。キーッ!やってられんのじゃ!
人は特に近い )。日本人同士なら細かいところを詰めるの
がラクだしぃ……と、どんどんお手軽な方向に流れる私
そんなこんなで、マイ・グループは「最後くらいは、
たち ?
のびのびと心ゆくまで自分たちの好みで自分たちの納得
言い訳するわけではないが、卒業制作の頃には「ガイ
できるイケてるものを作りたいよね」と内輪で熱く団結
ジンはもうイイヨ」って感じだったんです・・・( 疲 )。
したのでした。台湾人が混じっているからインターナショ
入学してからの 8 ヵ月間いろんな課題をいろんな国の
ナルと言えば一応インターナショナルだしね。視野が狭
人とやってみた結果、
「ハクジンって、意外とダサ・パセ
いとかグローバルじゃないとか、言いたければなんとで
ンテージが高い!」という結論に達していたし。
も言ってくれ。
ファッションの学校なんだから、モード・ハイファッ
・・・とはいえ、紙面を作っていく過程で、当然モデ
ション系が主流かと思いきや、露出ばりばりのオネエ系
ルやメイクアップ・アーティスト、フォトグラファーが
パ&アフリカ系が多かったし。
必要になります。そんな時はそれなりに他グループと協
力しあったり、寮つながりや友達の紹介で他のコースや
カレッジに通っているガイジンたちとコラボレーション
したりもしましたよ。これは、やはり 5 カレッジ ( 当時 )
にわたって色々な専門学科を有するロンドン芸大の「ヨ
コのつながり」ならではの芸当でしょう。たとえば、写
真なら LCP( 現 LCC) の学生に頼んで、好みの感じに仕上
がるまで何度も現像してもらえたし。まともにプロラボ
( プロが使う現像所 ) に頼んだらいくらお金があっても足
りん・・・ようなことがタダ同然でできました。そうい
う面では大変恵まれた環境でした。
●●● はぶとはぶごっと ●●●
?? 我、英語とかく戦えり ( まさに、戦いだ )??
渡英するなり大衝撃を受けたのは「英語が英語に聞こ
に対するような遠慮が無いので ) 話すスピードが速いし
えない」こと。アメリカ英語中心の教科書で学んできた
話し方に癖があるし、出身地による訛りもあるし、わけ
せいなのかイギリス人が何を言っているのか全然わかり
わかんない単語の連発だしで、何について話しているの
ません ( これでも結構英語には自信あったのに )。英語と
かすらさっぱりわかりません。とくに若者 ( ティーネー
いうくらいだから本家本元は英国なんですけどね ( 地元
ジャー ) の言葉なんかほぼ意味不明です ( てゆうか、どこ
の英国人はアメリカ人の英語を American language と呼
の国にも若者言葉はあるのね )。
んで区分け?しています )。
ガイジン同士は母国語でない言語を使ってのコミュニ
なかでも特に鮮明な記憶として残っているのが「Have
ケーションなので、互いに思いやる気持ちがあるし、話
you got 〜 ?」のフレーズ。はぶゆーごっとぉ、何それ ?
すスピードが近いし、使う単語も限られているから、か
どうゆう意味 ? なんでハブなの ? ていうか何で完了形な
えって意思疎通が図りやすいというわけ。
の ?? どぅーゆーはぶ、じゃだめなの ?
赤面エピソードは学校 ( カレッジ・オブ・ファッション )
英語に関するエピソード ( 主に恥をかく話 ) はつきませ
でも。ズボンのことを言ったつもりで「パンツ」と言っ
んが、実際にイギリスに来て気付いたのは、非英語圏の
たらブッブー。イギリスでは、
「パンツ」は本物の下着の
ガイジン同士の英語のほうがわかりやすくて通じやすい
パンツのことなのです。ついでに「サスペンダー」はガー
ということです。ネイティブだらけの場では ( 外国人
ターベルトのこと。アメリカ人風に「ペェ〜ンツ」と言っ
たときの相手の顔には「何、この無教養で下品なガイジ
ンは」と書いてありました。
第 8 話 : 飛べ、2 号
高校の教師には「留学すると人生後悔する」とまで言われたけれど、君にはやさしい ( 口数少ない ) 家族がついている。
だからアヒル 2 号、飛べ、ロンドンへ。
静子さん、Highgate に着水 (2002 年 4 月 )
3 月高校卒業。4 月 5 日、ロンドンに旅立つ日が来ま
英語学校だよ。
した。田舎者なので、
渡英前日に家族総出で東京入りをし、
成田に近いホテルで全員一泊しました。
英語学校は St.Giles College( セント・ジャイルズ ) の
翌朝、成田空港へ。妙に細かい話ですが、エコノミー
Highgate 校 ( セント・ギレスと読んだ過去が懐かしい )。
切符なのにスーツケースは 35kg。明らかに大幅重量オー
当日はまずクラス分けのペーパーテストを受け、その後
バーでした。超過すると 1 キロにつき約 7 千円も払わな
スピーキングテストを受けました。
くてはいけないことを覚悟の上でチェックインしました。
そして、休み時間。人見知りをするほうなので、
「誰に
ところが「heavy」のタグをつけられたものの、どういう
話しかけよう。何て話しかけよう。
」と迷いながらも勇気
わけかそのまま預かってくれました ( 人生の幸運をここ
が出ず一人で緊張していたら、日本人の女の子が見かね
でかなり使い込んだ気がする )。そしてチェックイン。
たのか、話しかけてきてくれました。
後に母親が語ったところによると、
「ちょっとそこまで
当初は「英語を勉強しに来たのだから日本語は喋らな
行ってくる」みたいなノリで去っていったそうです。出
いようにしよう、日本人とはあまり交流しないようにし
る機内食はすべて完食してちょっぴりの不安とわくわく
よう」とガチガチに考えていたので、彼女の眼には多分、
感を胸に、ヒースロー到着。
すごくむっつりした感じの悪い日本人に映っていたと思
います。その女の子と話していくうちに、その子もユニ
ユニコン事務所経由でホームスティまでの出迎えサー
コン学生であることが判明(なぜかホッとするわたし)
。
ビスを頼んでいたので、きょろきょろしながら「静
その日の午後、まだ右も左もわからない私をユニコン・
子」の名前を書いたボードを持つドライバーを探しまし
ロンドン事務所まで連れて行ってくれました。
た。が、見当たらない。すぐに見つからない場合はイン
フォメーション・デスク前で待つようにと指示されてい
次の日にはクラスの友達もでき、友達になった日本人
たので、スーツケースをひしと握りながら待ちました。
の子を通して友達の輪は更に広がり、一ヶ月もたつとブ
数分後「静子」ネームのボードを持つドライバーと遭
ラジル・スペイン・ウクライナ・フランス・中国…と様々
遇。片言でちょろっと苦しい会話をしつつ北ロンドンの
な国の人たちと交流を持てるようになりました。
Highgate( ホームステイ先 ) まで送ってもらいました。 1 時間後に無事ホストマザーと初対面 !! 対面後もし
St.Giles は Social Programme も豊富で、ミュージカル
ばらくドライバーさんが後ろにぼーっとしてるので「何
を格安で見にいけたり、週末はバスツアーの企画で学校
だろう?」と思いながら「Thank you」と精一杯伝える
の人たちと観光を楽しむことができました。
と車へ戻っていきました。今思えばチップを待っていた
のかもしれない…。ドライバーさん用のおみやげ ( おかき )
初めて見たミュージカルは ”Phantom of the Opera”。
を用意していたのに、テンパっていたのですっかり忘れ
チケットはなんと 2500 円くらい !! しかし「I love you」
ていました。
以外の英語は何を言っているのか全くわからず、かなり
ホストマザーと少し世間話をして、家のルールを確認
へこみました。へこみすぎて、ミュージカルに集中でき
し、疲れていたのでその日は就寝。
なかった記憶があります。
週末の Cambridge や Stonehenge へのバスツアーは、
次の日曜、ミサに行くホストマザーに英語学校までの
緑と羊以外何もないイギリスの田舎を見学できるよい体
道を案内してもらいました。道の確認を済ませてから
験でした。
International Phone Card( テレフォンカード ) を購入し、
ハウ・ポップ!
さっそく親に連絡。無事到着したこと、ホストファミリー
に無事会えたことを話しました。
The Beatles の「Hey Jude」を聞いてその歌詞を聞き取
る練習(リスニング)をしたり、映画「Four Weddings
and a Funeral」を見てその内容についてクラスの人とディ
スカッションしたり、
「ドラキュラ」の本を読んでそれに
2002 年の日本
まつわるテストをしたり、と、” ポップ ” な授業内容に少
●当時の首相:小泉純一郎
し驚きました。高校ではそのような英語の授業はなかっ
●ゆとり教育本格スタート
たので…。テキストを使って文法を勉強する真面目な授
●小泉首相、訪朝
業と楽しい授業の組合せ方が上手だなぁと思いました。
●田中耕一氏ノーベル化学賞受賞
ハウ・サプラ〜ィズ!
●拉致被害者5名が帰国
私が St.Giles にいた 2002 年 5 月〜 6 月に、
日韓共同ワー
●芸能人:浜崎あゆみ、Dragon Ash
ルドカップが開催されました。ロンドン中が異様に盛り
●流行った歌:voyage、H、
もらい泣き(一青窈)
上がっていましたが、St.Giles にも大きなスクリーンとプ
●話題の人:ベッカム様
ロジェクターが用意され、終日試合の様子が放送される
●話題のクリーチャー:タマちゃん
ことになりました。スクリーンの設置で熱気が更にエス
●テレビCM:アイフルのチワワ
カレート、全員で遅くまで学校に残り試合観戦をしまし
●事件:雪印牛肉偽装
た。
ここで驚いたのが、突如出現した「St.Giles—ワールド
( 為替レート :1 ポンド =180 円 )
カップのルール」
。これは「自分の国が試合に出ている時
はレッスンをさぼってもよい」というもの。えぇ〜っっ、
2002 年の世界では
そんなのあり !? とかなり驚きました。学校側から「さぼ
●ソルトレイクで冬季オリンピック
り OK」を提案されるとは……さすがサッカー大国、イギ
●ワールドカップ日韓同時開催
リスです。授業よりも、英語よりも、サッカー。
●悪の枢軸発言 ( ブッシュ大統領 )
第 9 話 : ロンドンに心残して
2002 年 8 月。ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションでの1年が終わりに近づいていました。
「このままロンドン
に残りたい、でも」の葛藤を心に、福子、君はどうしようと言うのだね?
●●● I left my heart in London ●●●
〜〜福子、最後の悪あがきか〜〜 (2002 年 4 月 )
そんなこんなで無事卒業制作を終え、あとは日本に帰
めるんだけど、ここまで来たら卒業するしかないでしょ
るばかりか…という時に至っても「日本に帰るかどうか」
う。ボクは思うのよ。これまでの人生で積み上げてきた
について悩んでいました。もともと日本の大学はツマラ
経歴は無視できない事実なのだから、それは尊重しなく
ナイと思っていたし(つまらないから留学してきたのだ
ちゃいけないって。たとえどんな不本意な選択だったに
が)
、ロンドン楽しいし、もっとアートやりたいし(実
しろ、今までのものをぜぇ〜んぶ捨てて、1 から新しく
はこっそり幾つかの英国大学に出願して学部からのオ
やり直すってことには賛成しかねちゃうんだよね。
」
ファーを隠し持っていたのだ)
。
耳が痛いけれど「た、確かに…」と思った。そういわ
当時のユニコン事務所の奥には「学生広場」みたいな
れてみると、自分では意識してなかったが、これまでの
スペースがあり、あちこちの学校に散っている多くのユ
人生って全て自分自身の選択で造られて来たってこと?
ニコン学生の溜まり場になっていました。どこからか大
「親が」
「先生が」って言い訳してきたけど、それを鵜
量に仕入れたどん兵衛や UFO が冷蔵庫の上に積まれて
呑みにしてここまで来てしまったのは自分自身?だった
あって、食べたい人はその脇においてある貯金箱(ユニ
ら半分以上の責任は自分にあったということ? おーし、
コン社長が博多駅の売店で買ったという招き猫)に代金
わかった。ならば、ちゃんとケジメをつけよう、と日本
を入れ、自分でお湯を沸かして食べるシステムになって
の大学に戻ることを決意しました。
いるのが大変ユニークでした(しかも、かなり繁盛して
いたらしい)
(男子学生の多くはどん兵衛をオカズに UFO
LCF での(てゆうか、
ロンドンでの)一年はホントにとっ
を食べていた)
(醤油味に飢えてる学生を狙い撃ちにして
ても楽しかった。いろんな意味でいろんなことを学んだ
ユニコン社長がかなりな押し売り営業していたらしい)
。
もん。で、何といっても最大の収穫は「自分の目で」モ
ノを見られるようになったこと(前にも増して単に態度
「帰りたくない」思いで悶々としていた私は、ある日そ
がでかくなっただけ、という説もあるが)
。
こで、やはりどん兵衛をすすりながら「ニホンの大学な
んて辞めたい、辞めたいっ、辞めてやるぅ〜」と、あた
外国にいると、日本で日本人だけの中にいた時気づか
り構わず逆上。他にも客(多数のユニコン学生)がどん
なかったことに気づかされます。まず、自分が「ガイジ
兵衛にかじりついている中でわめき散らす私がよほどう
ン」という立場になります。それも、ルックスの近いア
るさかったのか、ガメつそうなユニコン社長が言った言
ジアじゃなく、ぜ〜んぜん違うヨーロッパにいるので「超
葉は意外にも、
「3 年分も学費払った挙句の中退はダメあ
ガイジン」です。ぼーっとしたまま分かることなんて 1
る。そこまで払ったのなら日本の大学出るしかないある」
つもないし、たまには差別を受けるし、何もかも日本と
でした。
勝手が違います。
「どうするか」をいちいち自分で考えな
くてはいけません。自分はどうしたいのか? ていうか、
「おまえね、今、学生でしょ。留学生っていうのはこの
自分って何なんだ?と、いやでも自分を見つめざるを得
国にとって所詮お客さんに過ぎないのよ。確かに今はロ
ません。今までぼやけていた「自分」というものの輪郭
ンドンにいて楽しいだろうけど、でもそれは夢なのよ。
がはっきりしてきます。
キミは今、夢の中にいるわけ。そりゃ楽しいよ、夢だか
ら。でも夢はいつか醒めるもんなんだよ。だったらダラ
それが留学の最大の収穫であったのならば、留学の
ダラと醒めるのを延ばしちゃダメ。引っ込みがつかなく
トピックは別にファッションでなくても良かったのか
なるよ。今回は 1 年の計画で来てるわけだし、なんだか
なぁー、と思わないでもありません。LCF のおかげでアー
んだでお前も学校行かないままに自動的に 3 年生になっ
ト学生同士のカジュアル英語にはずいぶん慣れたけど、
てるわけだろ?これが大学の1,
2年ならむしろ中退を勧
バリバリのお勉強系(ロンドン大学なんかでやってるア
カデミックな英語コース)で留学している友人のような
しっかりした高尚な英語は LCF では習えませんから。
選択を間違ったのか?アカデミック風コースを選ぶべ
きだったのか?(アカデミックって雰囲気かっこいいし)
と思うことも。う〜〜ん…… はっ、なんですって?デ
ザイナーになる話はどうなったのかって?そんなとんで
もない図々しいこと、わたしいつ言いましたっけ?
まあ私も若かったし、アート&デザインの勉強で「モ
ノの見方」をひたすら訓練する経験を積んで人生観が豊
かになったのは確かで、あの時点であれをやれたことは
ヤッパよかったな、と思います。
2002 年 8 月。福子、LCF キャンパス前のオックスフォー
ド・ストリートの石畳に「いつかぜったい戻ってきてやる」
とリターンズを誓う。
::: 福子さんにインタビュー :::
■心に残る一冊:夜間飛行
■好きな作家:村上春樹
■心に残る映画:ニュー・シネマ・パラダイス
■好きなブランド:zucca
■クールな人:自分の祖父
■今度生まれ変わったら:男に生まれたい(顔が良くて頭も良い)
■ロンドンで最も通った食堂:チャイナ・タウンの「赤い店」
■留学時代の得意料理:和風パスタ
■どこの外国人が最も付き合いやすかった?:台湾人
■ホームスティの感想:なんだかんだで楽。いざと言うとき頼れる知り合いが
ロンドンに出来たのは大変心強い。
第 10 話:美しくも短きバカンス
緑輝く美しいクールな夏のハイゲートで(超つかの間の)楽園生活を送る静子さん。今の内に思い切り遊べや親のな
い雀。キングス・カレッジのファウンデーションに合格しちゃったら最後、1 年間の格子なき牢獄生活がキミを待っ
ているもの。
●●● 静子さん、ユニコン訪問(2002 年 5 月)
●●●
セント・ジャイルズに入学して1ヶ月後、キングス・
カレッジのファンデにしろ、セントマの趣味コースにし
カレッジのファウンデーション申込みの件をもっと詰め
ろ、過去に多くの学生を送り出してきた実績?があるし、
ようと思い、とりあえずユニコンへ相談に行きました。
まぁお任せして間違いないと信じていたので、何一つ悩
んだり迷ったりはありませんでした。
「ところで君は将来どんなふうに生きていきたいの
か?」と唐突に口火を切るユニコン社長。当時は緒方さ
5月中旬、キングス・カレッジ、ファウンデーショ
んのように国連で働きたい ! という夢を持っていたので
ン・コースへの申込みをしました。申込書の Personal
国際関係学に興味があると答えたところ、
「じゃ、学部の
Statement(志願動機欄)に書く短い英作文ですでに苦労
ターゲットはキングス・カレッジの War Studies と LSE
しました(こういう形の英作文、日本の大学受験勉強じゃ
の International Relations だね。そのためにはキングスの
出てこないから)
。万事スローという定評のイギリスにし
ファンデの最終試験で A グレードをとらなくてはいけな
ては異常に早い仕事ぶりで、5月末には『合格』の返事
い」と、
(ファウンデーションに申し込む相談どころか)
を受け取ることが出来ました。
ファウンデーション入学後のアドバイスをされてしまい
した。
合格通知さえもらってしまえば大安心(と、当時は思っ
てた。だって、日本の大学だったらそうでしょう、入り
あっという間のことだったのでボーッとしていたら、
さえすれば出るんだから)
、9月から始まるファウンデー
「ところでさ、英語学校ばっかだと飽きるから、キミの選
ション・コースを前に、かえって IELTS の勉強に身が入
択とはあんまり関係ないけど、ちょこっとアートスクー
りました。また、勉強の合間に一人旅に出たり、club か
ルに通ってみないか?」と勧める社長。
「ジュエリー・メー
ら朝帰りしたり、ジュエリー・メーキング・コースに通っ
キングなんか、とぉっても楽しいぞ、セントマは本物の
たりと、たっぷり遊ぶことも忘れませんでした。まぁ遊
銀を使わせるから作品がそのまま自分のアクセサリーと
ぶのさえもユニコンに「Foundation に入ったら勉強が大
して残るぞ」って、
この商売上手ッ! しかも軽々しく「い
変になるから今のうちに遊んでおけ」と勧められて、で
いですねー」
と乗る私。すぐに申し込みました。キングス・
したが…。