キリストの十字架(死)と復活を適用する

主の 復活 記念 集会 2015.4.5
キリストの十字架(死)と復活を適用する
ローマ人への手紙6:1-11
めぐ
ま
くわ
邪悪な自分だけでなく、善良な自分もある。勤勉な自分もある。キリストを頼みとしない人、自力で頑張る人と
も言える。自分の善行によって神に義と認められようとする人、律法主義者でもある。古い過去の業績を誇りとす
る人、自分を誇りとする人でもある。神は「古い人」については、改善や矯正の余地がなく、死以外に価値がない
わたし
つみ
なか
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、 私 たちは罪の中にとどまる
べきでしょうか。
ぜつ たい
つみ
たい
し
わたし
なか
い
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ 私 たちが、どうして、なおもその中に生き
ていられるでしょう。
し
う
わたし
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた 私 た
し
う
ちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
わたし
し
ほうむ
6:4 私 たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに 葬 られたのです。
み ちち
えいこう
し しや
なか
わたし
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、 私 たちも、いのちに
あたら
あゆ
あって 新 しい歩みをするためです。
わたし
あ
し
おな
かなら
6:5 もし 私 たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、 必
ふつかつ
おな
ずキリストの復活とも同じようになるからです。
わたし
ふる
ひと
じゆう じ か
つみ
ほろ
わたし
6:6 私 たちの古い人がキリストとともに 十 字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、 私 たち
つみ
ど れい
わたし
し
がもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、 私 たちは知っています。
し
もの
つみ
かいほう
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
わたし
し
い
しん
6:8 もし 私 たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信
じます。
し しや
なか
し
し
し はい
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配し
わたし
し
ないことを、 私 たちは知っています。
し
いち ど つみ
たい
し
い
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生き
かみ
たい
い
ておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
じ ぶん
つみ
たい
し
もの
かみ
たい
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イ
い
もの
おも
エスにあって生きた者だと、思いなさい(みなしなさい)
。
と宣告した人である。
パウロについて言えば、キリストに出会って回心する前のパウロ。アブラハムの子孫として、ユダヤ人の血統を
誇りとし、様々な肉の誇りを持つパウロ。律法を守ることによって義認を得ようとするパリサイ人でもある。
(3)キリストの十字架
ロマ6章には、新しい概念が紹介され、6節には、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」と
ある。主は私たちの身代わりとして(すなわち、私たちのために、あるいは、私たちの代わりに)死なれただけで
なく、私たちの代表者としても(すなわち、私たちとして)死なれたのである。古い人すべてを包括する死である。
したがって、主が死なれた時、私たちの「古い人」も死んだとみなすことができる。
この6章で鍵となる3つのことばは、
「知る」(3,6節)、
「思う」(11節)、「ささげる」(13節)である。
イエス・キリストの血は私の罪を洗い落とすことができるが、私の「古い人」(ロマ6:6)を洗い落とすことはで
きない。
「古い人」には十字架の死以外に救いの方法はない。
(4)「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」(7節)
例えば、警官を殺したために電気椅子で死刑に処せられる人がいるとする。その人は死んだ途端、その罪から「解
放される」(原文では「義とされる」)のである。刑罰は終わり、事件は解決したのである。私たちはカルバリの十
字架でキリストとともに死んだ。私たちの刑罰は終わり、罪から全く解放されている。
(5)このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエ
スにあって生きた者だと、思いなさい(11節)
この11節では10節までに述べた「キリストの十字架(死)と復活」において神が成し遂げられたみわざに基づ
いて、「古い人」の死を私たちの生活に適用することを教えている。これは勝手に古い自分は死んでいることにしよ
う、とか心理療法で「古い人は死んでいる」と考えることではない。キリストの十字架のみわざに基づく適用であ
る。間違ってはいけない。単なる考え方ではないし、思い込みでもない。
キリストの十字架のみわざに基づいて、「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスに
【祈りながら考えよう】
(1)私たちはどのようにして「罪に対して死んだ」者となりましたか。
(2)「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(6節)との意味を説明して下さい。
(3)11節の「思いなさい」とはどのような事実に基づいてのことですか。
【解
説】
(1)イエスの血による贖い
贖いとは、代価を払って買い戻すことである。イエスは罪の奴隷市場から私たちを買い戻された。主の尊い御血
は、聖なる、そして義なる神の要求を満たすために払われた贖いの代価だったのである。
ロマ書第3章21-25節において、「イエス・キリストを信じる信仰者に与えられる神の義が示されている。ただ、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」「神は、キリスト・イエスを、
その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」とある。
アブラハムが神の約束を信じたゆえに義と認められたように、私たちも主の贖いのみわざを信じ受け入れて、神
の御前に義と認められた。すべては主が十字架で流された血による贖いに基づく。私たちの行いによるものは1つも
ない。ただ十字架での身代わりの死を、「主の十字架
わがためなり」と信じたことによる。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるの
です。」(ヘブル10:19/エペソ2:13参照)
あって生きた者」だ、と思いなさい(英訳consider/みなしなさい)と言っている。神が私たちについて言ってお
られることを真実として受け入れ、その光の中で生きるという意味である。
「古い自分」を改善しようとか、矯正しようと考えてはいけない。どんなに努力してもそれは無駄である。クリ
スチャン生活は演技することではない。古い人をなんとかしようとするのではなく、古い人については、神がすで
に十字架で終わりとしていること、また主を信じて新しいいのちを得た自分、キリストにある新しい自分を喜ぶこ
と、健全な霊の糧、みことばにあずかる生活習慣を身につけること。その結果、古い人の死を経験することになる。
(続けて「キリスト者の標準」第3章“進歩の行程・知ること”をお読み下さい)
《11節の「思いなさい」(みなしなさい/英語欽定訳)の意味でないこと》
(ロイドジョンズ・ロマ書講解6章メッセージ⑨より)
かんが
①私がキリスト者として立てた誓いに 鑑 みて、罪に対して死ぬことが私の義務だという意味ではない。
②罪を犯すことに死になさい、あるいは、罪を犯すことに死んだ者となりなさい、という私への命令ではない。
③これは、私の中にある一個の勢力としての罪が死んでいるとみなすべきだとか、私がキリスト者である以上、罪
と全く縁を切ってしまったという意味ではない。
④罪が死んでいるとか、罪が私の中から根絶されているという意味でもない。
⑤ある人々は言う。「自分は罪に対しいて死んだ者だとみなしなさい」。そうし続ける限りにおいてあなたは勝利し
続けるでしょうし、あなたが勝利する限りにおいて、罪はあなたに関する限り本当に死んでいるのです、と教え
る人がいる。この節はそうしたことを意味してはいない。
⑥ある人は、自分に向かってこう言う。罪は、私に関する限りはここにはないのだ。私がキリスト者になっている
以上、罪は本当に私にとっては存在していないのだ。そのように言い続けるのです。そうすることによって、あ
(2)私たちの古い人
「私たちの古い人」とはどんな人を指すのか。一言で言えば「アダムにある人」。生まれながらの人、堕落したア
ダムの子孫としての私。昔の習慣や欲望を持ったままの、新生していない人である。
-1-
なたは勝利を収めることでしょう」と。これは、この節が意味していることではない。
⑦この節は、この事実を「みなす」ことで私が罪に対して死んだ者となるとも言っていない。
-2-
(2015.4.11 更新)