横浜開港資料館見学記

平成 27 年(2015)10 月 3 日
他館見学会
第 57 号
第41回報告
横浜開港記念館 見学記
海口 平太郎
猛暑が一段落した8月 28 日、曇り空の下、「横
浜開港資料館」に見学会参加者 12 名で訪ねました。
平成27年(2015)年8月28日 金曜日
1828 年・文政 10 年
『新編武蔵風土記稿』によると、横浜村は「民戸
常設展のほか企画展は「ハマを駆ける-クルマが広
87」とある。東海道から外れていたが、保土ヶ谷宿
げた人の交流-」[平成 27 年 7 月 18 日(土)~9
とは陸路で、神奈川宿とは海路でつながり、横浜村
月 23 日(水)]でした。
の渡船所の近くに洲干(しゅうかん)弁財天が祀ら
れ、村の脇には水神の森があり、ここに元祖「たま
この企画展は、「わがまち横浜再発見・交流の
くす」が植わっていたと思われる。
場としてのヨコハマ」をコンセプトとした、横浜市
ふるさと歴史財団による横浜市内8つの歴史関連施
1854 年・嘉永7年
設連携展のひとつです。「交通」手段の革新がヨコ
3月に日米和親条約が締結され、ペリー来航時
ハマの地域と暮しにどんな影響をもたらしたのか、
に随行していた画家ハイネが描いた「横浜上陸」や
クルマがもたらした社会の構造変化の様子を展示す
「水神の祠」などに描かれている木が「たまくす」
るものでした。
の元祖であると言われている。
横浜開港資料館では明治・大正期の馬車・人力
車・自転車・自動車などの資料が展示の中心、今回
は未訪ですが、横浜都市発展記念館では昭和期の自
動車がテーマでした。
1858 年・安政5年
7月に日米修好通商条約が締結され、神奈川・
長崎・函館・新潟・神戸の5港が開港地となる。
横浜開港記念館は、かつてのイギリス領事館を
旧館として中庭を形造るように凹型に新館を配置し
た2棟構成の施設です。中庭にはタブノキ、通称
「たまくす」の大木が生い茂っています。
1859 年・安政6年
6月に通商条約が締結され、東海道の宿場でも
あった神奈川が変更され、横浜が開港の地となった。
この見学記では、「旧イギリス領事館・記念樹
木・企画展クルマ」の 1828 年頃から 2000 年頃まで
の約 170 年間のトピックスを一緒に並べてその交差
を概観してみました。
1861 年・文久元年
五雲亭秀貞(玉蘭斎橋本老父)による「再改横
浜風景」という外国人居留地の絵にも「たまくす」
が描かれている。
幕府は開港後の混乱を防ぐために長崎の出島を
モデルに吉田橋をかけて関門を設置。開港場はこの
関の内側なので「関内」と呼ばれた。関内の東半分
が外国人居留地、西半分が日本人町と分けられた。
1864 年・文久4年
11 月に横浜居留地覚書を締結し、「たまくす」
のある地はイギリス領事館の建設用地となった。
1865 年・慶応元年
館報「開港のひろば№129」・企画展パンフレット
「開港のひろば№129」は企画展の解説書にもなってい
ま す 。 各ト ピ ック ス の 参考 資 料は ウ ェブ サ イト 「 館
報・開港のひろばバックナンバー№73」などです。
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水神社は現在の弁天橋近くにあった洲干弁財天
に遷宮、「たまくす」はそのまま領事館の敷地に取
り込まれた。なお、洲干弁天社は明治2年(1869)
に羽衣町に移転、「厳島神社」と改称。
五雲亭秀貞による『横浜開港見聞誌』の挿絵に
平成 27 年(2015)10 月 3 日 第 57 号
は街を駆け抜ける馬車とともに、外国人を乗せた駕
籠が描かれている。
1866 年・慶応2年
10 月、末広町より出火、外国人居留地まで延焼
する大火事で「たまくす」も大きな被害を受けた。
その後、諸外国は居留地への延焼防火道路の計画を
幕府に要求。幅 36mもある「日本大通り」が明治
初期に完成することになった。
1870 年・明治3年
三代目歌川広重が描いた横浜浮世絵には、3つ
イチョウが植わる開港広場から資料館東門へ
の塔屋がある初代イギリス領事館の横に「たまくす」
が描かれている。
3月、和泉要助他3名が、日本で初めて東京府
に人力車の製造販売の申請をした。それから、駕籠
より早く馬より安い人力車は爆発的に増加していく。
1872 年・明治5年
10 月、日本で最初の鉄道が東京・横浜間に開通。
間外、弁天橋の近くに初代横浜駅(後の桜木町駅)
開設。
横浜開港資料館配置図(資料館パンフレットから)
1873 年・明治6年
歌川国鶴による『横浜繁栄本町時計台神奈川県
全図』には、沢山の乗り物(クルマ)が描かれてい
る。乗用馬車、荷馬車、中国型の輿(こし)、荷車、
乳母車そして人力車。駕籠は描かれていない。
明治 22 年(1889)築港工事
着工による横浜港の拡大と
共鳴するがごとく、「たま
くす」はすくすくと成長し
ペリー提督横浜上陸
ていきました。
1906 年・明治 39 年
輸入業の石川商会本店(石丸自転車の前身)が、
事業拡張のため弁天通から尾上町に移転。絹織物ほ
かアメリカ製高級自転車ピアス号(当時の金額 195
円=現在の金額に換算すると 390 万円)等を輸入。
1909 年・明治 42 年
7 月、横浜開港五十年祝典が関税新埋立地(新港
埠頭)で行われた。この時、横浜市の「き章」と市
歌が制定された。
2階展示室の記念撮影コナーにて
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平成 27 年(2015)10 月3日
第 57 号
1917 年・大正6年
1930 年・昭和5年
2月に発行された絵葉書「横浜名所絵」の中の
6月、震災復興のトップとして新領事館建設の
1枚に「横浜の銘木 玉樟」があり、「開港の当時
ために「たまくす」は海側に 10m ほど移植された。
ペルリ提督初めて上陸せしハ此玉楠なり今ハ英国領
事館構内にあり横浜市の記念名木として市の保存に
1931 年・昭和6年
係る数百年を経たる大樹なり」と紹介されている。
10 月、領事館が竣工。設計は英国工務省により
7月に完成した時計塔のある開港記念横浜会館
ロンドンでなされ、施工は昭和土木建築が担当。玄
が写っている絵葉書「大正期の本町通り①」(企画
関のコリント式円柱に象徴されるようにギリシャ建
展パンフレットの写真)には、馬車や人力車のほか
築のモチーフが取り入れられている。
に自転車が4台ほど走行している。
1935 年・昭和 10 年
1914 年・大正3年
廛六消防((外人居留地消防)が英国製ガソリ
ンポンプ自動車(「メリーウェザー1号」)を輸入、
3月 26 日から 60 日間、山下公園を中心に横浜
復興大博覧会が開催された。
絵葉書「震災復興期の桜木町通り」(「開港の
薩摩町消防組(現在の中区役所付近にあった)に配
ひろば№129」表紙の写真)には荷車・牛車・自転
置された。
車・市電・自動車・人力車・荷馬車・省線電車(後
の国電)が勢揃いしている。
1919 年・大正 8 年
横浜市は、交通網・ライフライン・住宅施設等
の計画に着手。この都市計画事業は、財政難や関東
大震災によって一時中断したが、震災復興の過程で
・・・・・[明治・大正編はここまで]・・・・・
1941 年・昭和 16 年
12 月8日、太平洋戦争勃発。
部分的に実現し、現在の都心部の骨格が形成された。
1945 年・昭和 20 年
1922 年・大正 11 年
この年、横浜は 25 回の空襲にさらされ、特に5
『神奈川県統計書』に、横浜市内の自転車の数
月 29 日の大空襲で横浜市中心部は壊滅、都市機能
が初めて記録されたのは明治 36 年(1903)で 778
が麻痺した。領事館と「たまくす」は戦災の被害を
台、大正 11 年では 18,516 台となった。同年、自動
免れた。
車は 334 台(乗用 291 台/荷物用 43 台)であった。
絵葉書「大正期の本町通り②」には、人力車が行き
交う中 1 台の自動車が走行している。
1972 年・昭和 47 年
9月、東京の総領事館に統廃合されたことによ
り業務閉鎖となる。
1923 年・大正 12 年
9月1日、関東大震災で「たまくす」は、領事
館と共に甚大な被害を受けたが、11 月に根元から
「ひこばえ」が生え、若木として復活した。
1979 年・昭和 54 年
4月、横浜市が買い取り「横浜開港資料館」と
して再生、新館の設計は浦辺建築事務所、施工は清
水建設が担当。
1924 年・大正 13 年
7月に横浜復興のための都市計画が決定。道路
幅を広げ直線化、宅地も方形化を計った。復興の過
1981 年・昭和 56 年
6月2日の開港記念日に開館した。
程で、新しい乗り物として多くの自動車が導入され、
古い乗り物である馬車や人力車が駆逐されていった。 1988 年・昭和 63 年
「たまくす」は有形文化財となった。
1925 年・大正 14 年
震災で黒焦げとなった「たまくす」の余材によ
る「黒船壁掛け」が完成。
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2000 年・平成 12 年
旧領事館は横浜市指定文化財となった。