その日は飲み会 3月11日は電車で出張した。会議は東仙台であったが

○その日は飲み会
3月11日は電車で出張した。会議は東仙台であったが、夜には仙台市内の国分
町で、前年末に参加した「杜の都の演劇祭」の打ち上げが予定されていた。それは
朗読と舞踏と音楽をコラボさせたエキサイティングなイベントで、私はイベントか
ら2ヶ月ぶりに演出家や共演者たちと会うのをとても楽しみにしていた。そのため
にカバンの底にピアニカを忍ばせていた。宴会の中で機会があれば一発芸を披露し
ようと思っていたからだ。
会議場所近くのレストランで一人のんびりと昼食を食べ、帰りに工事現場のフリ
ー落書き板に落書きした。2時間後に起きることを考えればなんとも呑気で平和な
ことだ。ただ2時過ぎに職場に電話し、先週の地震と津波被害の有無を確認したの
には、我ながら何か予知的な働きがあったのかもしれない。とはいうものの、前日
にも地震が起きていたから誰しもが話題にしていたのだから不思議でもなんでも
ない。
やがてその時は来た。確か前日夕方にも地震があって知人と宮城県沖地震の話を
していたので、揺れ始めはあまり深刻に思っていなかったが、揺れの大きさはもち
ろん、延々と続く揺れの長さにただ事ではないことを感じたのは私だけではなかっ
た。会議出席者みんなが机の下に隠れたのはもちろんだが、真っ先に念頭に浮かん
だのは1978年に起きた宮城県沖地震のことである。その時には帰宅が大変だっ
たことと自宅の後片付けが大変だったことが頭に浮かんだ。だから、地震が終わっ
ても地盤があんなに沈下したとかあれだけの津波が来るとか、これっぽっちも思わ
なかった。むしろ30年以内に起きると予想されていた宮城県沖地震が来て、これ
でしばらく大型地震は来ないな、と安心したくらいだった。
停電したこともあり会議は中止になった。地震発生時にやっていた発表テーマは
興味のあったカキの食中毒に関するもので、中断になったことがとても残念だった。
参加者に従って屋外に出てみると貯水槽が割れて水が噴出しており、誰かの「建物
内は危ない!」という声もあり、やがて会議参加者含め屋内にいた全員が屋外に避
難し、呆然としている状態だった。
やがてその建物で勤務していた職員たちの点呼が始まり、会議に来ていた自分の
居場所がなくなった。まずは公共交通機関の運行を確認するために駅に向かったが、
道すがらの家々の窓ガラスは割れ、向かいの大型家電量販店では天井が落ちて火災
報知機が鳴り響いていた。地震被害だけでも相当であることがなんとなく感じられ
てきた。やがて新幹線の高架が見えてきたところで、多くの電柱が傾いているのを
見たとき、駅に行くのは全くの無駄であることを理解した。
携帯で家族や職場に電話したがすでに通じない。電話しながら考えたのは行き先
である。こうした場合、近場の県の機関に行かなければならないのだが、電車が動
かないとなれば、そこに長期間缶詰状態になるだろう。自宅に戻れば尐なくとも家
族の安否が分かるし、自家用車があるので気仙沼の職場に行くことも可能だと考え
た。
とぼとぼと自宅方向に向けて帰りだした。ほどなく妻からのメールで次男と一緒
に小学校にいるつもりらしいことが分かったが、それ以上連絡は取れなかった。自
宅まで50km弱だろうか、決して歩けない距離ではない。寒いが歩くうちに温ま
るだろう。次に捕まえてみたのはバスである。行けるところまで乗せてもらうこと
を考えて交差点で渋滞しているバスを捕まえてみたが、どれも別方向、そしてその
後はバスターミナルへ向けて回収状態になるとのこと、乗せてはもらえなかった。
ワカマツ自動車の工場は天井が落ち、下になった中古車が壊れているのが目に入
る。地震被害も相当だと実感する。歩きながら店を片付けている人たちから情報を
取ろうともした。何人かに聞いてみたが、停電のせいでほとんどの人も情報を持っ
ていなかった。その中の数人はラジオから得たのだろう、大津波警報が出ていると
いう。自分の耳で聞いた情報でもなく、昨年のチリ地震津波も先週の軽い津波も大
したことがなかったことから、今度も大したことなかろうと本気でたかをくくって
いた。
普段から基礎体力は人並み以上と自負してきたこともあり、帰宅は深夜になるだ
ろうが歩こうと決めたものの、幹線道路にも関わらず意外にも自宅等に向けて歩く
人がほとんどいない。他の人も歩っているなら納得できるが、車内暖かくして通り
過ぎる車を見ているうちに次第に腹が立ってきた。4号バイパスを横切る手前あた
りで石巻に行きそうな会社名や運送トラックを物色し運転席に回って声をかけて
みるが、石巻に行く車はないか乗るスペースがない車ばかり、4号バイパスを横切
ってからは両側田んぼの吹きっさらし道となって寒さもひどいのと車が一時止ま
るような交差点もなくなり、歩きも長期戦となることを覚悟せざるを得なくなった。
となると、次は食料確保ということになる。田んぼの中のコンビニが閉店仕度を
しているのが見えたので、店員に声をかけて何か売ってくれないかと交渉してみた。
停電でどうせレジが動かなくなっているだろうから、閉店すれば日持ちしないもの
は捨てるしかないことになる。捨てるくらいならレジを通さずとも売ってくれるく
らいのことをしてくれるのではないかと思ったのだ。長距離帰宅を訴えての泣き落
としである。
店員ははじめ訝しがっていたが、2~3度頼みこむうちに同情してくれたのだろ
う、店内に入ってパンを二個、無償で譲ってくれた。カバンに入れていたお茶と食
料確保で気分は回復、再び歩き出した。おそらく津波が到達していただろう時間帯
のことである。
が、1時間もしないうちに道は吹雪となった。足元も頭にも雪が積もり出し、足
が疲労してきた。その一方、深夜に自宅に帰って子どもたちをびっくりさせたいと
いう不純な動機もあり、がんばって歩を進めた。
仙台市内に向かう上り車線はずっと渋滞状態だが、石巻方面に向かう下り車線の
流れは割とスムーズである。その下り車線も、利府に差し掛かると交差点前で止ま
っている車が出てきた。逆にこの場所を抜けてしまうと車を止めるのは至難になり、
吹雪の中をずっと歩き続けることになる。私以外に誰も歩く人もいないことから決
心もぐらつき始め、これも覚悟がいるのだが止まっている車の助手席をすべて叩い
てヒッチハイクを頼みまくることにした。
10数台にもなっただろうか。1台のグループホームの車の助手席に頼んだとき
のことだ。助手席には女性が、そして老人たちを乗せたバンにはまだ乗車スペース
がありそうだった。松島まででいいなら、というありがたい言葉に心底ほっとした。
感謝の言葉もそこそこに、バンの後ろのほうに座らせてもらい、アメまでもらっ
て座っているとラジオのニュースが微かに聞こえていた。
はっきりとは覚えていないが、大規模な津波の被害があったが膨大な死者につい
ての報道はまだ無かったような気がする。それに年寄りたちのコンビニでのトイレ
休憩などであまり真剣に津波被害の自覚はなかった。
バンは松島町内で何人かの年寄りを降ろし、グループホームに戻ろうとしていた。
ホーム職員から20時の満潮に吉田・鳴瀬川を渡るのは危ない、その川を通らなけ
ればならない石巻には帰らないほうがいい、と言われ、一度はその晩グループホー
ムにご厄介になることを考えた。ところが、町内は冠水していて車はグループホー
ムに戻れず、来た道を戻ってお寺に避難することになった。私は石巻に向かう国道
に出たところで当初の予定どおり帰宅することとし、慰留を固辞し、礼を言って車
を降りた(グループホームには数ヶ月後にお礼に行ったし,1年以上経ってから演
奏もしてきた)。
もらったパンをかじりながらしばし夜道を歩った。降りて歩き出してから気が付
いたが、空は星空、そして放射冷却のせいでつるっつるの凍結路面である。転ばず
に歩くのが困難なくらいだ。何がなんでも自宅に帰るつもりだが、歩道がない暗い
夜道を車を避けながら帰るのもつらい。また車を捕まえたほうがよさそうだ。
そうこうしている間に信号のある三叉路に到着、ここを過ぎればまた車を見つけ
るのは至難となる。その三叉路で停車している車に声をかけた。なんとラッキー!
一台目にして乗せてもらえたぞ。
仙台の工事現場から矢本に帰る車であった。ラジオからは相変わらず石巻の状況
は分からなかったが、どうやら仙台東部沿岸部で500人以上の死体が路上で発見
されているというニュースが伝わってきた。呆然とするが、こちらもまもなく満潮
を迎える吉田・鳴瀬川を越えなければならない。川の土手道に出ても暗くて異常は
分からないが、そこで渋滞に遭遇した。そのまま車が動く気配はない。Uターンし、
沿岸の国道を行かずに上流の橋を渡って内陸部の迂回路を行くことを提案したと
ころ、運転手も賛同してそちらを走ってくれた。順調に赤井まで来たところでお礼
にたまたま持っていたお菓子を彼に渡した。彼は津波のある沿岸方向に向かって車
を走らせて行った。名前を聞いても教えてくれなかったが、彼の自宅が津波被害に
遭っていなかったことを祈る。
赤井まで来れば石巻まではもうすぐである。満天の星空の下、どちらを見ても真
っ暗だが、帰宅のことを考えれば寒さもそれほど気にならない。気持ちに余裕さえ
生まれたが、消防団の車が行き来するくらいで内陸の道路は交通量も尐ない。でも
まだ道のりは残り10kmはあった。暗い中で手を上げても見えにくいから止まっ
てくれるかどうか分からないが、あえてヒッチハイクを試みることにした。結果、
またまた1台目で成功。運転手は手を上げる人影に驚いたと言い、本来は一般の人
を乗せられない介護タクシーであるようなことを言っていたが、「おれは人間じゃ
なく荷物だから」と言ったら快く市内まで運んでくれた。
この三台目の車は、国・県道に比べて安普請の市道を走ったせいで大きく揺れた。
あちこちの道路の陥没がひどい。45号線を横切って市内に入ろうとしたら冠水で
誘導員に止められ、別のほうに回っても冠水していて通れなくなっていた。そこで
車と分かれた。ここからは徒歩しかなかった。
○3人組
ここまで来たらもう一息だ、と思っていた。それにしてもなぜこんなところが冠
水しているのか、交通指導隊だろうか、誘導員に聞いてもあまりよく分からなかっ
たが、踏み切りまでくると線路だけが高く盛り上がっていて水没を免れていること
に気が付いた。
この線路、石巻線を伝って石巻駅に向かえばもしかして、と思いながら歩く。何
かメロディの断片が浮かんできたが、口ずさんでも曲にまではならなかった。映画
「千と千尋の神隠し」で主人公とカオナシが夕暮れに水びたしの線路を駅まで歩く
イメージが浮かんできた。不思議な浮遊感。町明かりのすべて消えた石巻の夜空は
これまで見たことが無いほど星が美しく静かで、沿岸部で激烈な被害が起こってい
ることなど想像だにできなかった。
やがて住宅地に入り、両側の半水没家屋を横目に見ながら歩く。家々では懐中電
灯の明かりが揺らめき、水没車のヘッドライトが濁った水中を照らし、残り尐ない
バッテリーを使ってクラクションが音量を下げながらかすれ声を上げていた。見慣
れぬ明かりの祭り。既視感のない例えようがない光景。
だがロマンティックな散歩はすぐに終わった。ほどなく運河に到着すると、いつ
も流れがほとんどない運河の水はいまやうねる水塊となり、水位は既に堤防に達し
て両側にあふれており、静かに、しかし見たこともないスピードで上流に向かって
いた。ここはその後もトラックや車が多数水中に残されており、たぶん大勢の死者
も流れた三途の川だったかもしれない。この恐ろしげな流れを足元に、線路の作業
通路を慎重に渡ると、その先のエリアがすべて水没しているのが目に飛び込んでき
た。もはや自宅が水没していることは間違いなかった。ただ、まだ自宅付近は浸水
がそれほどひどくないのでは、という淡い期待を持っていた。
線路を石巻駅に向かってさらに歩っていくと、向こうから本当に小さい明かりが
近づいてくるのが見えた。警戒しながら待つと二人の男だった。話を聞くと、同じ
ように市内に行けないかと思っていたようで、このまま行った線路の先が水没して
いることを教えられ、引き返さざるを得なかった。
一人は小さな電灯を持っており、近辺の情報を持っているようなので、この二人
と行動を共にすることにした。運河の手前で鉄道のフェンスを乗り越え、運河の土
手を伝って上流の北上川の土手に向かった。運河の土手は既に水面と同じ高さにな
っており、それはそれで危険な状態だったが、同行の二人が全く意に介さない様子
で先に進むので、泤まみれの土手を転ばないように気をつけながら後に従った。
さて、着いた先の北上川の堤防沿いの道路は車と人で大混乱となっていた。車は
身動きできない状態となっており、結果的にほとんどの車の人は車内で夜を明かす
ことになった。
次男と妻がいると思しき小学校の前に着いたのは8時半頃だろうか。あと200
m、最も自宅に近いところまで来たことになる。そこから見ても道路はすべて冠水
しているため、濡れないで帰宅することは不可能、自宅が相当浸水しているだろう
ことも分かった。で、次は水の中を家に戻るべきかどこかで夜を過ごすべきかの見
極める必要があった。その時の水位は土手の下で水没車のタイヤが見えなくなるく
らい。無理をすれば水の中を漕いで移動することはできるが、先の水位はもっと深
いはずだった。ともかく夜にこの浸水エリアに入るのは危険だし、水位の変化を見
ることにした。
我々「謎の男3人組」はさらに様子を見るため土手を東に移動してみたが、中学
校も入るのは困難そうだった。土手から離れた公園の高い位置になぜか人がいたが、
声をかけてみるとそこに取り残されただけだった。小学校に戻ると水位は車の窓の
高さ半分をさらに上がっており、ここで下半身を濡らし水中を漕いで家に戻ること
を断念した。実際後で家の浸水高さを見ればそれは正解だった。
星空の下、時間だけが経過し、防寒着を着てても寒さが増してきた。歩かずにた
だ立っているだけだと放射冷却の寒さがさらに身にしみた。既に行くべき目的地を
失ったとなれば、一晩過ごせそうなところを物色するしかない。うろうろと西に向
かった。運河学習館などの建物も閉まっていて、途方に暮れていたが、やがて唯一
明かりの点いた建物、国交省の河川事務所に辿り着いた。先客に聞いてみると幸運
にも休ませてもらえるとのこと、こうして寒さをしのげてかつ明かりの点いた建物
で夜を過ごせることになった。本当にラッキーだった。
○ピアニカ
ここに至っても明日には水が退いて家に帰れると安易に考えていた。20時の満
潮が過ぎればだんだん水は退く。これまでも大雤で道路が冠水することがしばしば
であったが、長続きしなかったからだ。
我ら3人組は休憩室にいた老若男女10人と合流し、情報交換した。年配者は事
務所から防寒着を貸してもらっており、自家発電が動いていて自動販売機も動いて
おり、暖かくはないもののそこそこ寒さをしのげ、なんとかその夜を越せる目処は
ついた。みんなで自己紹介し、互いに打ち解けてきた。3人組のうちの一人が自分
の菓子や甘食(皆さん知ってますか?)やらカロリーメートを気前良く出してくれ、
前からいた人たちの菓子もみんなで尐しずつ分け合って食べ、防寒着を回すなど互
いを気遣いながら過ごした。私はお礼に何かできないか考えた。何も持たないおれ
にできるとすればピアニカ演奏だけだ。
演奏の準備をしていると誰かが「あ、分かった」と言った。どこかでデコビキを
見たことがあるのだろう。だがおれのはただのデコビキ演奏ではない。頭で「函館
の女」を弾きながら同時に吹き戻しを出してみせた。ウケたこともあり、その夜は
和やかな雰囲気で過ぎていった。
やがて、さらに10mの高さの津波が来るという情報があり、二階に移動するこ
とになった。ロビーに並べられた椅子で休むことになったが、近くの事務室の大型
テレビが入り口からこっそり覗けた。見ると恐ろしい映像が見えた。燃えさかる気
仙沼の町の放送である。とはいえ、当日テレビで流れた恐ろしい映像のほとんどは
1ヶ月以上経ってから自宅のネットで初めて見ており、本当の悲惨さはまだ自覚で
きなかった。
そうした放送の中、私と同姓同名の方の死亡報道には、彼には申し訳ないが正直
苦笑せざるを得なかった。年齢が20歳も違ったので誰も間違うはずはないと知っ
ていたが。
夜が更けても町の東側が何箇所も明るくなっていて、大規模な火災が起きている
ことが誰の目にも明らかだった。常に誰かが時々外に行って様子を見たり周辺の人
と情報交換をしていたので門脇小学校が燃えているらしいという話も伝わってき
たが、なぜ津波で火事が起きるのか不思議だったし、複数の火の手が上がっていた
が、近くのビバホームにも火がついたなどという根も葉もない噂ばかりで、ほとん
ど情報はないに等しかった。海水の上で油が燃えてるのだからすぐ消えるだろうと
も思っていた。
そんな折り,市長が職員を連れてやってきた。知人である職員に聞いてみると私
と同じように仙台から帰ってきて市中心部に入れなくてここに来たということだ
った。何もできない状態のようなので、被災者に挨拶してはどうか、と提案したと
ころ、後で挨拶に回って来た。彼は仮眠中の1時過ぎに自衛隊のジープで浸水を突
っ切って市役所に向かった。水陸両用車でもあるまいし、ジープがよく浮かなかっ
たものだ。
私の眠れない夜の過ごし方としては、一冊だけ持っていた文庫本を読んだり横に
なったりしていた。すぐ話しかける婦人が一人テレビゲームを楽しんでいた。みん
なで一人が持ち合わせた携帯の充電器を借りてなんとか連絡を取ろうともがいて
いた。その中でおれは他の被災者に対して深夜
には干潮になり、朝になればきっと水が引くだ
ろうという自説を自信ありげに話をしていた。
今になって思えば排水管が壊れるかガレキで
詰まるかしたのだろう。全く排水の見通しもな
く、とりあえず明るくなるのを待って妻子がい
るだろう小学校の前に行ってみることにした。
○カヌーでゴー
12日。朝6時を過ぎても水は引かず、自説が崩れてひどくがっかりした(写真)。
運河にいるアヒルがデコイのように動かなかったのは、彼らも何か感じるものがあ
ったのだろうか。
普段から交通安全協会で活動している人なのだろうか、土手の入り口で誰かが自
発的に車の誘導をしている。時に喧嘩腰ではあったが、行き場のない土手の狭い道
路に車を入れるとさらに混乱するのは誰の目にも明らかだったので非常によい判
断のボランティアであろう。誰もが、こんな時にこそ自分ができる何かを為すべき
と考えて自主的に行動しているのが手にとるようによく分かる。
水没しているエリアの縁である土手を行くと何人かの知り合いに出会い、家族の
消息などを聞きあったりした。さらに行くと、小学校の屋上で妻が「ここに避難者
が1400人いて飲み水や毛布などを持ってきて・・・」などと叫んでるのが目に
入った。土手で県議に会ったので、一緒に河川事務所にとって返し、河川事務所の
土木専用回線で県経由で自衛隊にミルク・おむつ・毛布を依頼した。
近くに流れ着いていた赤いカヌーのことが頭
に浮かんだ。カヌーに向かって走りながら「船
があったら出してくれっ」と通り過ぎる人々に
叫んだ。近くに落ちていた釘が出たままの板き
れをパドルにし,水を積んで小学校に赴き、ま
た、水没したアパートからは妊婦や病人を搬出
した(写真中央,たまたま土手にいた同僚に写
されたおれ)。日赤の車も到着し、また通りす
がりの多くの手がカヌーの病人に向けて土手の
上から差し伸べられた。助け合う素晴らしい光
景だが、慣れないカヌーで腰が痛くてそれどこ
ろでなくなってきた。
トイレにも行きたいし家族も探したいのでちょっとカヌーを代わってもらい、人
また人で溢れかえりごったがえす小学校に入り妻と次男を探した。知人が教えてく
れてすぐに妻は見つかった。普通に保健室で保健師をやっていた。次男は次男で階
段で普通に他の子らと一緒にうろうろしているのに行き会った。屋上で友達に教え
られておれのことを見ていたそうだ。学校で先生も同級生もいるから気持ちも普段
どおりなのだろう。指定避難所だったせいもあるが、あの大混乱の中で予想外に早
く妻と次男を発見できたのはラッキーに尽きる。安心して水没地帯の救助に戻った。
他にゴムボートが到着し、さらに土手と小学校の間にロープが張り渡されて船が
無くとも物資の受け渡しができるようになった。カヌーの役割が減ったので水没エ
リアの奥に入ることにした。回転寿司の看板等にぶつかりながらカヌーで4車線道
路を進む。居並ぶ商店群はすべて水没し、車の姿は全く見えず沈黙に包まれていた。
ベネチアのような幻想的な光景が広がっていた。疲労の極みにありカヌーは遅々と
して進まなかったが、なぜか感傷に浸る余裕があった。慣れ親しんだ街は風もなく、
空には青空と雲が静かに流れ、SF映画のように完全に時が止まってしまっていた。
と、おれの姿を認めたあちこちのビルから救助を求める声が飛んだ。JAビルだ
けでも100人からの人がいた。だが、「明日(13日)まで待ってればきっと救
助が来るから!」と叫びまくった。だが本格的なヘリコプターとボートの救助は実
際は翌日(13日)ではなく翌々日(14日)以降だった。もっと早く来てくれる
と思っていたが、あんなに被害エリアが広いのは想定しようがない。救助を待つ彼
らをがっかりさせてしまったことは申し訳なかった。
暗くなり、12日の夜半に河川事務
所に行って見ると、電気が点いた建物
がそこだけだったせいかごったがえ
していた。
入り口脇に座ると疲労のあまりすぐ
眠りこむが、人が通るたびに起こされ
て辟易した。そこで、イオンが避難所
になっており、しかも暖かいという話
を聞いて移動することにした。疲労困
憊、板切れのパドルの釘で手は血だら
け、カヌーでだら濡れのままとぼとぼ
とイオンまで歩く。前日にも増して寒
くてせいぜい2kmの暗い夜道のなんと遠かったことか。
さて、イオンに着くと、真っ暗の中で店員たちが誘導している。どこから持って
きたものか外に仮設トイレもある。大したリスク管理である。ただ、そこでもらえ
たのが小さめのダンボールとプチプチ各1枚。広いフードコートも通路も既に人で
溢れており、寒さで眠れないままフードコートの片隅で震えながら朝を待った。
○長男と食べ物を探す
13日。朝イオンの好意でペットボトルの水とみかん1個とお菓子尐々の配布を
受けた。そこで同僚たちと会い、互いの無事を喜んだ。彼らは自宅を流されてしま
っていた。
この日のテーマは長男を探すことと食物アレルギーの子どもたちの食料調達で
ある。まずはヨークベニマルで100円均一で食料を販売しているのを発見、わず
かに食べられそうな栗や落雁、野菜煮などの食料を購入。通常からスペースと資材
を有する大手スーパーが被災に強いのを実感。被災後中1日で曲がりなりにも販売
開始である。これが他国だったら勝手に入って奪い合いの暴動だ。関西でもそうか
もしれない。同様に販売を開始した生協にも並んでみたが、数人を制限なく自由に
買わせ、その後入れ替えているため行列が全く動かず、4時間5時間待ちの状態と
なっていることが分かったので並ぶのを止めた。
長男は蛇田中、蛇田公民館と回り、蛇田小でやっと発見したので、当面の食料を
渡した。
長男を発見し、食べ物をある程度確保したら、
再び救助のことが気になった。おれにしかできな
いことって何だ?カヌーを使う救助要員は他に
いるし、根本的解決を考えてみた。既に運河の水
位は下がっているのに中心市街地は水没して水
位が高いままである。排水は国土交通省のポンプ
車がチョロチョロ流しているだけだ(写真)。県
議を探し、堤を切り市街地の水を運河に流す提案
をしてみた。それからバイパス入り口でボートを
出して救助を始めていた自衛隊員を捕まえ、水没
エリア内部の情報を教える。自衛隊も船やヘリが
なく、まだまだ救援体制が整わないことを実感し
た。
その日、ブロックを橋脚代わりにして妻子のいる小学校から土手まで板を渡し仮
橋ができた。大勢がその気になればすぐ可能になる。感銘を受けた。
長男発見を教えるために仮橋を渡って学校に入ると、備蓄の全くなかったこの小
学校に大沼製菓提供のおはぎとウグイス餅が来たというのでもらって食べた。2日
ぶりのまともな食べ物である。その後河川事務所に戻って11日の被災仲間(仲間
といえるのか?)と情報交換をした。普段から仙石線でおれを見かけているという
人がいるという人がいて驚きながらも、仲間のリクエストにお応えしてピアニカ演
奏をする。そのままイオンに荷物を取りに行き、疲労と筋肉痛のあまりちょっと仮
眠し、その後配給のおにぎりをもらって帰り、妻にあげる。
その晩から小学校で次男と寝るが、寝具がなく寒くて眠れなかった。教室の黒板
に被災当日、日直だった次男の名前がずっと書いてあるままだったのが笑えた。
○うぐいすもち
14日、小学校に長男を連れてきた(写真は長
男の救助を伝える共同通信のネットニュース)。
早速学校で自治組織を作ることになり、各教室
でも掃除した後、役割分担を決めることになっ
た。偶然黒板に次男が当番と書いてあり、周り
から給食係にとの声が上がったが、強く嫌がっ
たために代わりに、責任を取っておれが部屋長
(班長)になるはめになってしまった。仕事や
救助のことが頭にあったので身動きが取れなく
なるのを懸念したが、自分以外に班長ができるような年代の人がおらず、なりゆき
というしかない。
大沼製菓からは被災者のために冷凍していたうぐいすもち20万個が提供された
という。某市議が動き回った結果らしい。桃次郎(大沼製菓のキャラクター)に感
謝。事の善し悪し(小学校だけに優先配布させていいのか?)を別として、空きっ
腹だったので、ウヒョ~、という感じであった。当面の水と食べ物があればこの小
学校でもしのげるはずだ(大沼製菓にはいずれお礼しなくっちゃ)。
で、その晩配給として揚げ蒲鉾がきたが、当然我が家は食べられなかった。ただ
うぐいすもちとおれが買ってきた若干の食料があるので心配はいらなかった。毛布
も配布され、全校・各部屋で争奪戦が始まったが、自分としては当然高齢者を優先
させた。妻は昼夜問わずのひっきりなしの病人でほとんど寝られず、疲労困憊の状
況にあった。今でもどうしたらいいか考えるのに必死で、その頃のことはよく覚え
ていないと言っている。
こうした中、水は校門まで引いてきており、状況が改善しつつあった。窓からた
くさんのヘリがホバリングしているのが見え、やっと自衛隊の救助が本格化したこ
とを実感した。
○自宅に帰る
15日、5日目にしてだいぶ水が引き、長靴を借
りて泤だらけの道を自宅まで行ってみた。家に入る
と腰壁に使っていたヒノキが芳しい匂いとなって
いたが、それ以外は泤に満ちてすさまじい状態であ
り、呆然とせざるを得なかった。米は腐敗し、家具
のほとんどは倒れ、2階にあった調理器具・食器も
落ちて壊れていた。車は泤の臭いで充満していてエ
ンジンなどかかろうはずもなかった。
自宅で片付けをしていると元同僚の奥さんが訪
ねてきた。当日網地島に出張した元同僚と連絡が取れないという。我々は逃げ足だ
けは速い。いつも避難訓練をしており、網地島の状況は分からなかったが元職場に
連絡するのでとりあえず安心するように話をした。結局、彼は翌日網地島から自衛
隊のヘリで霞の目飛行場に救出されていた。
自宅に行けたということは、これまで行けなかった職場に行くことができるよう
になったということである。とにかく職場のみんなの安否を確認したいと思った。
そこで職場に行ってみると、かつての部下が駐車場整理をしていて無事で安心した。
別の事務所が仮事務所となっているとのこと。吹雪の中を自転車で行ってみると、
中は混乱していたが、衛星電話でとりあえず職場の(というか結局自分の)安否確
認だけはできた。
子どもたちだけでヨークベニマルに買い物に行かせた。納豆、生で食べられると
いう人参、海苔、ラップ(?)を買ってきた。
トイレを使うために、プールから水を持ってきたりトイレや廊下を掃除したりし
なければならない。当番や段取が決まった。自治組織の体制づくりが生活の中心と
いう感じになった。
○本格的避難所生活
16日、妻は中里小学校を退出して別の避難所に配置換えされることになった。
これまでも保健室に缶詰だったが、これから本格的父子生活が始まったわけだ。
6日ぶりに歯磨きや着替えをした。幸運にも自宅冷凍庫の中の食材は腐ってなか
ったので、夕方、ガスコンロを使って子どもたちと鯨肉と玉ねぎを焼き、震災後初
めて暖かい物を食べた。冷蔵庫に残ったきゅうりと味噌で本格的な食事(?)をし
た。
道端には死んだ魚が転がったままだった。
職場が、南境に借りた仮事務所を置くことに決まり、体制を決める打ち合わせを
した。専修大で被災者用に電話を無料開放しているという情報をもらい、早速親戚
や知人に安否を連絡した。おれ自身は自家用車が被災したので気仙沼の職場に行け
ず、逆に気仙沼から石巻に通勤できない職員の代わりに当面石巻勤務となる。
一方、自宅に帰れたことで、携帯を充電できる発電機を部屋に持って行き、自分
が使うより前に同室の連中に貸したとたん、早速ハンドル部分を壊されて使えなく
なってしまった。携帯が使えないままとなってしまったが、まあ仕方がない。
中里小学校(以下避難所)では夕方5時に班長会議と配給の食事。後は6時過ぎ
ると真っ暗。すると7時過ぎには寝ることになるので、深夜の1~2時を過ぎると
早寝と寒さで目覚めるパターンであった。
ほぼ昼は仕事、夕方自宅、夜は避難所というライフスタイルになりつつあった。
17日、仕事に行くも、どことも連絡が取れず、現状を調査しようにも車もなく、
仕事にならなかった。
義理の弟の消息を聞きに回ったり、自宅を清掃したり、水を運んだり、やるべき
ことは山ほどあった。
生活を考えるとまだまだ寒く、電気が来て暖房を使うことができなければ自宅へ
は帰れなかった(オール電化の弊害である)。避難所の配給はリッツなどのお菓子、
ヤマザキのおにぎり、バナナ・リンゴなどの果物と、多尐バリエーションがでて落
ち着いてきた。同室の連中には、食物アレルギーを理解してもらい、代わりに食べ
られるおにぎりや果物を回してもらえたので、暖かい物がないとはいえ、量的に支
障がない状態となっていた。
一方、自宅にはガスコンロと若干のガスがある。水は水道事業団まで行けばもら
える。多尐の冷凍庫の食材はある。となるといずれ必要になるのは主食の米である。
この日、米をどこかから調達しようと思い自転車で桃生に行こうと思ったが、猛吹
雪のため断念せざるを得なかった。
避難所では、我が班がトイレ当番となり、班長なので率先して掃除をした。避難
所は誰でも出入りできるため不審者が出入りしており、一人警察に連行することに
なった。どこまで本当か分からないが、被害のひどかった大街道や釜、渡波地区で
は車を奪うために鉄パイプを持った輩が横行しているという(実際向こうのコンビ
ニはすべてガラスが叩き割られており、あながち噂ではなかったようだ)。1階に
市職員が張り付いて施錠することになり、仮設トイレが設置、介護ボランティアも
来て、相当体制的に整ってきた。
それにしても震災直後の1週間は避難所の空気がピリピリしていた。
どこも食べ物も毛布も情報も極めて尐なく、忍耐による疲労感が全体を占めてい
た。
○自転車を盗まれる
18日、震災後一週間ともなればいろんなことがある。自宅内の清掃のためうっ
かり自宅外に置いていた自転車を盗まれてしまった。小一時間ほどのうちだろうか。
地団駄踏んだが後の祭り、自分の迂闊さにがっかりだ。車もガソリンもない今、み
んな自転車が欲しいのだ。
専修大の避難者専用無料電話から食物アレルギー対応の店に連絡するとともに、
いつも米を配達してもらっている河北の知り合いにも米など食べられる物を依頼
した。夕方には一時的に自分の携帯(ドコモ)も繋がるようになったが、電池残量
がなくなっていた。
避難所では、やっと班全体に毛布が行き渡り、おれのための毛布も手に入った。
ダンボールとプチプチからやっと開放。ああ寒かった・・・。窓から外を見ると日
和山や蛇田のほうで電気が点いているのが見え、みんなでそれを眺めながら、こち
らに電気がくるのを首を長くして待っていた。おれ自身盗難被害を受けてしまった
が、どうしても不安な噂に陥りやすいためか、こちらでも中国人が刃物を持って歩
っているという、関東大震災のような風評が発生し、みんなで風評防止に努めてい
た。
夕方、ちんどん屋で訪問したことのある登米の若鮨が小学校にカレーとおにぎり
を差し入れしてくれた。震災後初めての暖かい汁物は本当にうまかった。
19日、4日ぶりに妻が帰ってきたので、子どもらに調理させ、みんなでバーベ
キューをした。子どもたちは避難所の作業も自宅の清掃もよく手伝ってくれた。午
後には頼んでいた河北の業者が米の他に炊きたてごはんとウインナーまで持って
きてくれて本当に感謝である。寒いときの暖かい料理は精神的にも安定させてくれ
るものだ。
ところで、タンスの引き出しが開かないのには困った。木が膨張したのである。
壊すつもりでやっても壊れないし、閉口した。数日かけて壊したが腰が痛くなった。
20日、水びたしになった家族の写真やCDを洗って整理した。改めてみんなで
見るいい機会だった。でもぐちゃぐちゃになっているものもあり、半分は捨てた。
大丈夫だと思った写真やCDもその後数ヶ月経ったらだめになった物も多かった。
町内会の配給も始まり、おかゆと水が提供された他、住吉中から炊きたてごはん
の配給があり、ここ数日炊きたてごはんが食べられてうれしかった。
○仮設風呂
21日、掃除し過ぎて手の血豆がつぶれてしまった。避難所の小学校でやっと電
気が復活し、携帯での通話が可能となり、ひっきりなしに電話がかかってきて忙し
くなった。ただ、残念ながら連絡がとれなかった何人かは亡くなっていた。
夜に静岡のクリスチャンたちが炊き出しで豚汁を作ってくれたが、準備の不備
(鍋など調理器具を規模を考えずに準備していない)と一人一人に手渡ししながら
話したいということで、異例の長蛇の列となった(贅沢を言うほうが間違いだね)。
こうした状況なので多尐の除去食材の混入には目をつぶり、子どもらは3杯おかわ
りした。
避難所に暖房が点き、移動郵便局が来たり、電気が戻って自宅に戻る人が出てき
て避難所人数も当初の1400人から現在500人を切り、結構居心地がよくなっ
てきた。
22日、仕事で十三浜の各浜を回り被災者の話を聞くが、漁業者自身でなく家族
が浜に戻るのを怖がるという話を聞かされる。すさまじい風景だった(写真右は役
場北上支所)。
大橋地区にある消防署に自衛隊の仮設風呂「花笠の湯」ができたと聞き、早速行
ってみるが、ボイラー故障のため、一旦戻り、再度行き30分待ちで入り、疲れた。
ボイラーがハイチ向けに1台行っているので故障に対応できないのだそう。この後
週2~3回ずつ「花笠の湯」を利用させてもらったが、混雑しており、待ち時間が
長いことと待っている人がいるのでゆっくりできなかった。時に1時間待ちもあっ
た。だが、若い自衛隊員たちはみな例外なくまじめで礼儀正しく、中国(自衛隊な
のに!)から提供された水やパンをもらえたりしてそれなりに満足度が高かった。
救助や捜索活動はもちろんだが、この「風呂」を通じて自衛隊に対し認識を新たに
した被災者は尐なくないと思う。
食物アレルギー食材の店ヘルシーハ
ットはわざわざ車で自宅まで食材を届
けてもらった。本当にありがたかった。
23日、仕事で雄勝の海に出たが、
被害の大きさに愕然とする(写真)。
まだまだ海に家が浮いたままだし岸壁
は逆さの家。
避難所の配給はゴマおにぎりしかな
く、おにぎり表面のゴマを一つずつ取
って食べる。どこもかしこもゴマおに
ぎりで閉口。数日内の帰宅を意識して
班長を辞任、同部屋の若者に引き継ぐ。
こうして2週目の避難所を考える
と、支援物資が豊富になり、知り合い
からの救援物資到着や炊き出しが始
まり、避難所の自治組織化が本格化し
たために日常というサイクルが生ま
れ余裕が生じている。それと同時にワ
ガママを言ったり勝手なことを始め
る人間が生まれてきて被災者間の繋
がりと軋轢が出てきたものだ。それに
しても旧市内には膨大なヤマザキの
パンとおにぎり、感謝限りないがそろ
そろ要らない。必要なところに必要な
ものが行ってなかった。
○避難所を退去
24日、バンド仲間からクロネコ経由で初めて支援物資が届く。宅配はクロネコ
が最も早かったが、中継所に取りに行く決まりであり、実際取りに行った中継所は
混乱していた。自宅2階の電気が復活。
以下が被災後に友人知人恩人から支援いただいた酒一覧である。被災時に必要な
のは「心のガソリン」とメーリングリストに書いたせいである。おかげで元気に動
き回ることができた。ありがとう。
「月桂冠ワンカップ、トリス、焼酎(麦の舞)、日本酒(CGC)、焼酎(霧島)、
フォアローゼス、日本酒(加賀鳶、手取川)、焼酎(霧島)、アーリータイムス、
ムンベ酒、ワイン(ロールサンマルタン・ミネルヴォア)(ゴールドヘブン)、ア
サヒ生ビール1カートン、久米島の久米仙」
避難所で自衛隊の炊き出しが始まった。ただ変わりご飯の具のために我が家では
食べられず。
25日、子どもらとともに道路から駐車場へのステップを拾ってきて設置したり、
風呂に行ったり。
子どもたちだけで買い物に行かせ、途中で肉と米を買ってくる。電気と食材の目
処が着いたため、避難所の部屋でアコを演奏し(子どもたちは嫌がって廊下に出て
た)被災2週間にして退去、帰宅生活を始める。
26日、次男が通信簿をもらってくる。評価の余地がないのですべて斜線であっ
た。
水も復旧。地震で炊飯器とレンジが落ちて壊れたので、閉店間際のケーズデンキ
で閉店時間(このときは3時)後に「必ず買うから」と言って無理に店を開けてお
いてもらい、急いで妻を呼び寄せて在庫から購入。
27日、蓄積疲労のせいか熱が出る。浸水した写真のほとんどを捨てる。連日バ
ンド仲間から支援物資が届く。宅配が使えるようになった
ので、壊れたアコのうちタンスの下敷きにならず水没度合
いのひどくない一台を修理に出し、1年待ったが結局直ら
なかった。
30日、やっと体調が戻り、盗まれた自転車の代替とな
る自転車を拾って直す。大手ゼネコンの友人から工事用投
げ込みヒーターを送ってもらい、被災後自宅で初風呂を楽
しむ。そういえば、友人たちは安否確認サイトを利用して
河川事務所におれがいたことをいち早く把握していた(写
真)。
町は津波で打ち上げられた海底泤由来の粉塵だらけ、ち
ょっと風が吹くと粉塵が町中を舞い散り、マスクは不可欠
であった。1日中マスクをしているとマスクが真っ黒にな
るくらいだ。
ツルハでは被災商品を勝手に持っていっていいということになり、店の前に人だ
かり。各自宅から出された家財ゴミがどこの市道をも半分を埋め尽くす。
31日、仮設業務の部屋は10畳程度の部屋に20人。入れないので廊下や屋外
でたむろする状態。職場の片付けも危険な場所に出入りできなかったので、手探り
状態。
3週目の避難所の様子はといえば、避難所になっている学校の授業再開等に向け
て避難所部屋の縮小・統合が始まっていて、居住環境が再悪化していた。軋轢や不
満が表面化する一方、自宅へ帰る人間やアパートを探す人も出て、生活再建に向け
て意識が外に開かれていたようだ。我が家も避難所で一緒だった老夫婦に支援物資
の差し入れをしたりした。
○4月の出来事
4月1日、谷川に行く途中女川を通過、当地の被災の激しさに慄然とする。ここ
から半島に向かう道は満潮時に通行できなくなっていたので、時間調整に苦労。谷
川に行ってみると、海底の砂が陸上を覆ったせいか他地域と違って建物の基礎やガ
レキも見えず、自分の家の位置さえ分からない空しい砂漠状態。施設の薬品庫は相
当の泤に埋まっており、大量の薬品を出すのに相当苦労した。
2日、子どもたちと一緒に自転車で出かけ、中瀬や港地区の被害を見せた。
3日、実家の親が入っている施設からの好意で仙台のお風呂に入らせてもらい、
帰りも送ってもらう。
5日、友人たちから支援物資が続々届く。家を失った同僚に支援物資を届ける。
長男が腹痛で休む。過労のようだ。
7日、深夜に大きな地震。翌日に停電と断水となり、
ガスコンロ生活に戻るが夕方には電気のみ復旧。
11日、水道復旧。
12日、被災前日に注文したポリビンについて、キ
ャンセルするかどうか電話あり(職場がないのに誰で
もキャンセルするでしょう、普通)
14日、被災後初めて知人宅の壊れた部屋で飲み会。
15日、家を建てた大工さんにケルヒャーで外壁を
洗浄してもらう。
16日、電話で急かしてやっと軽乗用車を納車して
もらう。石巻の職場には自分の机がなく、18日からのその職場で座る場所もなか
ったのでなんとか助かった。
18日、気仙沼の職場に初出勤。自分のかつての机も書類も一切なくなり愕然(写
真)。25年間の自分の仕事データを諦めきれずに数日にわたり周辺の畑や空き地
を長時間かけて探したが見つからなかった。それにしても周辺には加工場から流れ
てきた原料魚の腐敗臭で、耐えられない本当にすさまじい臭いだった。
22日、被災当日に車に乗せてもらったグループホームにお礼に行った。乗せて
くれた方々には会えなかったが、たぶん覚えてるだろうなあ。
30日、グランドホテルで越路姉妹のライブを見る。
○気仙沼通勤
石巻から気仙沼へ片道85kmの通勤。道路はでこぼこ、ゆっくり走る自衛隊・
警察車両と電柱等を積んだトラック。時として自動車道でも時速40kmになる。
時間がかかってしょうがない。毎日4時間通勤。
しょっちゅう道路工事だらけで困る。夜の
9時から自動車道は通行止め。ICにはすで
に係員がいて9時ちょうどになるのを待っ
てやがった。
車を飛ばして8時58分。危なかった。先
日は逆に朝6時ちょっと前なのになかなか
空けない。待ちきれず下を行ったら次のイン
ターではもう上を車が走っていてかえって
遅れた。
ねずみ取りしてないので遠慮なくスピード
を出せるとか、電車が来ないので踏切を止ま
らなくてすむとか(なんでここに垣根が、と思うとそりゃ線路と枕木だったりする)。
通勤途中のコンビニで,自宅に置いて海水に浸った錆びた貨幣を使ったら怪訝な
顔をされた。
さて、仕事の話。海底のガレキの種類と場所を調べるため、用船して海底をソナ
ー調査(写真)。
何か分からないが、とにかくあちらこちらにたくさん何かある。船だと分かった
のは2回くらいだろうか。ソナー画面を見続けてのシルエットクイズ。海底にはガ
レキ、得体の知れない巨大構造物、超音波に異常反応するけど固体ではない不思議
な水塊。
5月の連休にも休まずにやれ、と業界から要望があった。もちろん沈んでない船
もたくさんあった(写真下)が、船の処分だけで2年はかかるだろう。
ある日の調査の後、用船してた船長が言った。「国の調査のヒト、あんたのこと
知ってたよ」そう言われても言われた名前に覚えがない。
名前を検索してみて分かった。ああ、あの時の・・・
20年前の酒飲み&徹夜マージャンが現在の放射能調査に繋がる不思議さ。
南三陸町のガレキだらけの市場前でカップ
ヌードルを食う(なぜか船では毎日カップヌ
ードルだった)。
とにかくすさまじいハエの量。絶えず手を
振り続けていないとカップにハエが入って
くるようだ。知人送付のハエ除けもハエの数
には勝てないようだ。
どこもかしこも異臭がすごい。二ヶ月も経
ち、風景は変わらないのに臭いはどんどんひ
どくなってる。
状況が悪くなってるのに、ボランティアが確実に減っていた。東京や、仙台の人
間にすらこの皮膚感覚の異常さが全く伝わってないと思う。
既に二か月前のこと、注目は原発、記憶は風化するだけなのか、という印象が哀
しい・・・
別の日、津波で原野になってしまった元住宅街をトラックで走っていた。
幹線道路は大渋滞、脇道に入ったのが間違いの元。
どの道路も冠水、細い道はあちこちで寸断、道かと思ったらレールも枕木も流さ
れた線路だったりする。
で、問題はそのあと。細い道もその先が行き止まりのようだ。
Uターンしようと思ったら、後輪は津波で寄せられてうねったアスファルトの挟
間に器用にはまり、前輪は泤で空回り。
4駆だったが脱出不能になり、通る車は全くない。
仕方なく前輪を覆ってしまった泤を木切れで地道に除去、周りにあった瓦や板(こ
れはいくらでもある)を咬ませる。
誰もいない原野でラジオの国会中継を聞きながら一人で泤まみれで立つ。
ここも大潮や高潮時には冠水するだろう。
壊れた家財が残る訪れる者の全くないこの広い原野はいずれ鳥たちや野生動物の
巣になるのだろう。
もはや誰の土地でもない。
人間が来る前に戻っただけなのだ。
それは津波以前からずっと思っていたこ
とでもある。みんな土地も家もすべて自分
の物だと思っているけど、そんなことはな
い。命も含め,それは偶然に唐突にそこに
あり消滅する。
今回、津波で命も物も「失った」と思って
いる人がいるがそうではない。初めから人
間の所有物などない。
無くなったのではなく、唐突に生まれ、唐
突に消え、唐突に形を変えて再生するだけ。
「自然をねじふせないこと、逆らわないこと」
本当にいろいろな種類の自衛隊の艦船が来た。見たことがない珍しい船を近くか
ら見ることができた。きっとマニアにはたまらないだろうなあ。
ある日,船で海上のガレキ撤去をしている漁業者の横を手を振って通る。みんな
で浮いてるタンクを回収しようとしてるみたいだ。
後で聞いたらタンクの横に遺体があったのだそう。
「誰だった?組合員?」 「首がなかったので分からん」
職場に寄付されたのはシトロエン。メーターは最大210km。ターボが効いて
加速は軽快。トップが白、その下は黒とシックで斬新なカラー。
内装も白と黒、ブレーキは遊びが尐なくバケットシートの座席が硬めだが、高速
走行にはいいだろう。
ダッシュボード中央には香水入れ、さすがフランス車。ドアの外にはフランス語
でいろいろ書いてある。
ウインカーとライトはハンドルの左、ワイパーは右。曲がるたびにワイパーを動
かしてしまう。困るなあ,これ。
日和山で花見。写真の遠景が長淵剛が紅白で歌
った門脇小のある南浜町。
○避難所演奏
5月になり、2月経っての被災者の精神状態を考えてみた。住む家が見つけられ
ず、避難生活が長期化していたから、メンタルケアの出番だろう。被災当初は「無
力」だと思った音楽も、49日も過ぎたこともあり、避難所演奏をして回ることに
した。
一応避難所毎の受け付けボランティ
アに連絡先と意図を語って連絡をもら
うことにした。
昼間は若い人が仕事に行っていて高齢者ばかりがひっそりと残っている中を演奏
するのもあったが(左:中央公民館)、子どもたちがいる夜のほうが盛り上がった
なあ。別室に椅子を並べてセッティングしてもらった避難所もあった。
4日連続演奏というのもあったし、ミッキーカーチスと避難所~イオンを回った
経験も楽しかった。
ただ,すごい芸能人がたくさん来てるけど全く会わない。
炊き出し目当てでうろうろしている人たちもいるんだろう。石原軍団や杉良太郎
のカレーも食べてみたかった。
ソロ演奏ではナツメロとかよく知られたタンゴとか子どもがいればアニソンとか。
アンコールがあったこともあるし、踊ってくれる子どもやおばちゃんもいた。
いつも何曲か静かな曲を弾いた。おれ自身が避難所でよく眠れなかったからだ。
あそこでは、身じろぎするだけで隣を起こしてしまうのではと思ったものだ。曲を
思い出して尐しでも安らいで眠れてくれていたらそれに代わる喜びはない。
○ヤシマ作戦
6月に気仙沼で初めて飲み会をする。被害のひどかった漆黒の南町。歩く者も走
る車もない。 道路の水たまりは驚くほど大きく、とても歩って渡れない。電気は
来てるんだけど周りは店をやるくらいまで復旧してない。
たまに通っていたスナックはガレキ状態で、その2階のスナックだけが派手なイ
ルミネーションを付けていた。だがそれなりに客がいた。飲食店のニーズは強い。
日本中で節電してもらった貴重な電力を使ってカラオケを歌う。
全国で計画停電といえば、アニメのエバンゲリオンで主人公が使徒ラミエルを倒
したあの超長距離射撃「ヤシマ作戦」 。ツイッターで全国的に社会運動化してる
らしい。となればやはり歌うのは主題歌。高橋洋子の「魂のルフラン」か。
でもこっちは節電だけ。ぜひ反物質粒子砲で福
島の第一原発を消滅させてほしい。
数日間だけ派遣されて石巻市役所職員になる
(写真)。こんなに短期間じゃ派遣される側も大
変だろう。もっと長くしなきゃ。
でも仕事はよく知っている内容だった。なぜな
ら先日自分が申請したばかりの被災住居応急修
理支援金だったからだ。申請に来る近所の人も尐
なくなかった。神奈川県の各市町からの派遣メン
バーと飲み会した。彼らもこっちにお金を落とす
ために毎日別の飲み屋を飲み歩き、こまめにお土
産を探して買ってくれた。皆さんお疲れ様でした
(緑のベストが神奈川県各市町から派遣の人)。
○7月
転勤した。本来4月の異動だったのが3ヶ月延びたためだ。職場が近くなった。
そんな折り,北上川沿いの歯医者に行った。麻酔をかけて治療も半分過ぎたこ
ろ 、 突 然、おれの車が水没しているので移動してほしいとのこと。駐車場
に 止 め てまだ30分しか経っていない。行ってみると本当にタイヤが半水
没 状 態 。歯医者から長靴を借りて車まで行って移動し戻ってまた治療。
支援物資の服がブックオフで売られているという噂があった。アレルギーの会の
炊き出しに並んでいるのはほとんど全部が普通の人(しかも働いている雰囲気のな
い連中ばかり)。仕事がない? とんでもない。起業支援の話を持って行っても反
応がない。もらい慣れてもう働きたくないらしい。嵩上げ問題などがあって後でな
いと支援を受けられないのは別として、「物をあげる」のは早くやめるべきなのだ
が、1年経っても単なる支援物資の話を聞く。
ところで,私には仕事がらみの仲間がいた。一人は役場のK係長。もう一人は漁
協のT係長。南三陸町志津川で飲んだくれてた。3人でとある約束をしていた。
だが今回の震災でK係長は庁舎で亡くなった。約束は果たせなかった。
残ったT係長は町の花火大会の実行委員長になった。楽天を通じて、町内企業ど
こからも調達できない花火予算の調達に奔走していた。偉いなあ。
○ちょうど1年
平成24年3月12日に水没エリアで小学校のためにポリタンクの飲料水数百
klをくれたお宅を探した。だが、結局その家を探しあぐねた。水の都状態の時と
は風景も変わったし、混乱の中、記憶も定かではなかった。パンをくれたコンビニ
へもお礼に行った。出張のついでに寄っては何か買うようにしている。
あの時なにやかや助けてもらった。お礼を述べたい人たちはいまも名前を知らな
い。あの時はありがとう。そしてきっとまだ同じ町に住んでいる。だからこれから
もよろしく!
ボランティアで起業支援や関東から被災地演奏をする人達のお膳立てをしたり
している。まずは仕事がないと人は定着しない。それから被災者と支援する者の現
地での繋ぎ役も必要だということだ。
○これから
今に至っても困るのは仙台最終と通勤の不便。仙台で飲み会をすれば9時のバス
が最終。家に着くのが11時過ぎ。
電車で塩釜の職場に行くまでは、電車~バス~電車である。被災前の2倍、1時
間半はかかるし乗り換えが面倒でバスは補助席も当たり前。仙石線の復旧2年後が
待ちどおしい。
改めて災害に備えて必要な物。
避難所生活ではティッシュ、ウェットティッシュ、マスク(花粉症の時期である
こと、感染症が流行ること、なにより海底にあった粒子の細かい泤「シルト」の粉
塵と腐った魚、ヘドロ臭がするので津波被害では必需品。地面が乾いてからなので
時間の経過とともにしばし必要。津波のコースによっては砂が打ちあがっていると
ころもあるが)、タオル、手回し式ラジオ・懐中電灯、ばんそうこ、ナイフ。
ただ、実は避難所1週間以降どれも相当量が来たので、常備は必要最小限、相手
に送る場合は希望を聞いてからでよいと思う。
我が家は無関係だが、もし早い時期に届けられるなら、年寄りには温かい食べ物
や飲み物、汁物がありがたいはず。ガソリンの途絶した今回はいずれ難しかった。
年寄りがいる家庭は発熱体タイプのマジックライス、携帯が充電できる手回し発電
機も避難袋に常備するとよい(おれの場合、自分が使う前に貸した避難者にすぐに
壊されてしまったので、貸す場合には緊急連絡のためだけに限定し5分とか時間制
限して貸す)。家屋被害のひどい知人がいる場合には、かたづけ用に雑巾、バケツ、
長靴、軍手、ヘルメット、バール、くぎ抜き、金づち。
送られてうれしかった意外な物。
投げ込みヒーター(風呂用)、大人の科学(子どもの暇つぶし用)、おもち(ガス
ボンベがあることが前提、米ではボンベが相当量必要)、あんこ、海苔(この辺は
餅とセット)、送られなかったが避難当初であれば納豆や総菜パックなんかもうれ
しかったかも。