音楽教育の学科課程の変遷とその実践 - 東京女子体育大学・東京女子

33
音楽教育の学科課程の変遷とその実践
在原 章子
昭和25年 東京女子体育短期大学となる。専門
1.学科課程の変遷
科目として器楽、声楽2単位が必修として課せら
れている。
明治35年11月 体操と音楽を合体し、私立東
昭和37年 東京女子体育大学を設置。専門科目
京女子体操音楽学校と改名、音楽科が新設され2
として器楽、声楽必修2単位ずつが課せられてい
科を兼修出来るようになる。音楽は週18時数を占
る。
めていた。この事は高橋忠次郎の、女子の体育に
補助学として体操と音楽を兼修し、音楽のリズミ
カルを運動に融和しようとした事による。
明治36年 体操科と音楽科を合体し体操音楽教
員を養成する事と改められた。
明治38年 週38時数の本科、別科が34時数に
減り、本科の和声学が消えている。研究科は35時
数中音楽は17時数と際立っている。
明治41年 藤村トヨの登場である。高橋忠次郎
昭和41年 器楽、声楽必修1単位ずつに減少。
昭和46年 必修の声楽がソルフェージュに変更
(声楽は選択科目として残っている)
昭和62年 音楽と名称を変え必修1単位に減
少。
平成6年 音楽が専門に関する科目から専門以
外の科目に移り必修2単位が課せられている。
平成20年 音楽は必修1単位に減少の予定であ
る。
はヴァイオリン、オルガン等を用い盛んに遊戯の
実演を行ない、遊戯の比率を増すべきと主張して
2 音楽教育の実践
いたが、既に明治39年に渡米していた。トヨはこ
の意見を尊重し、体操10時数、遊戯6時数を保持
した。
大正8年 修学年限を2年に延長し夜学部を設
け兼修を可能とした。音楽科は普通科、高等科と
大正15年第31期卒業生の宗石千代子氏と昭和
18,19年の「音体」から専門学校への昇格時に
在籍した、井上れん子氏を中心に卒業生数名の方
の体験から、その実践をまとめた。
している。音楽科は、普通科1年12時数、2年11
大正14,15年当時は前述のように音楽は34時
時数、高等科11時数であり、特筆すべき点は2年
数と定められていたが、その教育は藤村トヨを尊
11時数に教育として音楽教授法がはじめて加えら
敬して来校される教授陣に支えられていたようで
れ、明確に教員養成に切り替えられたのである。
ある。教科は声楽、器楽(オルガン、ピアノ、ヴ
昭和19年 東京女子体育専門学校に昇格。音楽
ァイオリン等)ソルフェージュ、理論などで、昼
科の設置は認められなかったが、学科課程音楽は、
夜、日曜日、祝日を問わず、先生方の来校に合わ
声楽、器楽9時数とかなり重視され「音体」の伝
せてクラスを編成し授業を受けた。器楽はピアノ
統は授業の中で生かされている。
1台とオルガン6台で教則本(バイエル、ソナチ
34
ネ等)を習得し、バイエルが終了するとピアノで
の演奏が許されたため、少ない楽器が取り合いに
なったそうである。声楽はコンコーネ50番、小学
唱歌、日本歌曲を中心に現在で言う愛唱歌のよう
なものを習得した。ソルフェージュはコールユー
ブンゲンを使用した。教授陣には熱意を感じたが、
学生は昼夜とも勉学に忙しく、音楽をもっと勉強
したいという気持ちが強かった。トヨは内容に関
して特段のことは述べず、ピアノの調達や教授陣
の招聘に力を注いだようである。「健康の女性」の
学生募集欄に、大和田愛羅(バリトン、汽車の作
曲者)小松耕輔(音楽教育、沙羅の木の作曲者)
立松房子(ソプラノ)長坂好子(ソプラノ)太田
勘七(器楽)などの著名な教授陣を確認すること
が出来る。大和田愛羅作曲「山の水車」、小松耕輔
作曲「子猿の酒買い」、梁田 貞(テノール)作曲
「城ヶ島の雨」などの曲は、トヨのダンスにピアノ
で演奏しながら作曲したということである。可能
性はあるものの、確認する資料を見つける事は出
来なかった。
「音体」から専門学校昇格時、音楽は声楽、器
楽で週9時数となったが、これは「音体」の伝統
を引き継いでいると見られる。その授業形態は、
器楽については、1年生は合同で授業を受け、2
年生はピアノ検閲と言う個人レッスンを受けた。
教材はオーソドックスなバイエル、ソナチネ、ソ
ナタなどを使用したが、トヨの要望もあり、式典
の曲、君が代、行進曲等は全員が演奏出来るよう
習得した。この課題は東京女子体育短期大学、東
京女子体育大学にも引き継がれ、多くの学生がそ
の後の教育現場で活用したようである。
[参考文献]
1)藤村学園七十年の歩み 昭和47年1月
学校法人 藤村学園
2)藤村学園1
00年のあゆみ 平成14年11月
学校法人 藤村学園
3)健康の女性 第2巻∼第8巻 大正15年
日本女子体育協会 4)藤村トヨに関する研究(1)
新田典子著
東京女子体育大学紀要第17号