【 第 三 章 】 豪華絢爛・ 横綱同士

大分合同新聞社 那賀 泰彦 著
【第三章】
豪華絢爛・
横綱同士
初版発行/二〇〇九年四月十日
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高校野球の戦後が開幕
監 督 の 無 念 の 気 持 ち
国際的にも日本が一大飛躍を遂げた1964(昭和 )年の
東京オリンピック。
「東洋の魔女」
とうたわれた女子バレーボー
う思いが 年近くたった今でも心に強く残っている。
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ら応援したが、やはり東京オリンピックは素晴らしかったとい
敗」という声まであった。テレビの前で胸をドキドキさせなが
級は無念の銀。たった一つの、それも無差別級での2位で「惨
が、あのアントン・ヘーシンク選手(オランダ)の前に無差別
この東京から始まった柔道では3階級で金メダルを獲得した
ルや体操、
レスリング勢の金メダルなどが国民の胸を熱くした。
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(昭和 )年
高校野球では〝戦後〟が始まった。3年生は
生まれで、球児はすべて戦争を知らない世代となった。この年
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いた。大分商はこの津久見に県選手権では延長十四回の末に2
テトレーニングコーチ)を擁して2年連続甲子園出場を狙って
1回戦で別府商に快勝、2回戦で最大のライバル津久見に競
り勝った。
津久見は後にプロでも活躍した池田重喜投手(現ロッ
この年もまた本番の夏は思いがけない結果となってしまった。
優勝。大分商としてはここまでは順調に推移していた。だが、
4に進出。夏の前哨戦の県選手権では鶴城に大敗したものの準
ないチームとなっていた。春の九州地区大会県予選ではベスト
同様、猛練習に培われた伝統校の不気味さを漂わせ、油断なら
の大分商は特別に強くはないが、弱くもなかった。それに例年
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
―1で勝ったが、夏もまた2―1の大接戦を制した。野球に限
)=大分リース別府営業所長=は
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らずスポーツの世界ではしばしばこんなケースに遭遇するが、
不思議なことに2度とも同じスコアだった。
津久見に勝って意気揚々としていたが、準々決勝では中津東の
秋元投手にひねられ、あろうことか0― の五回コールド負けを
にベストで、心を落ち着けて試合に入らなければ大分商といえ
いまま終わってしまった―というのが真相のようだ。心身とも
しまい、ナインは動揺したままゲームに入って力を出し切れな
関係者の話を総合すると、よもやのコールド負けの原因は試
合前にあった。中心選手がけがの治療のため集合時間に遅れて
たが、結局は弱かったんですよ」と言葉少なに振り返った。
チーム全体がいまひとつかみ合わなかった。いろんな敗因はあっ
喫してしまった。松田監督は「病気とか、けがの選手がでるなど
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ども五回でコールド負けするという大きな教訓を残した。主将
で捕手だった清田敏さん(
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「結局は弱かったんですよ」
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
「みんな落ち着きがなく、
なにもできないうちに終わってしまっ
年に大分商に同期入学です。若かっ
た。
せっかく池田投手の津久見を倒したのに、泣くに泣けなかっ
たです。
松田先生とは昭和
たし、熱血漢。練習が厳しいのはこの上なかったですが、ノッ
クひとつにしても愛情をもってやってくれました。1年生の時
に甲子園に行ったんですが、上級生の捕手がけがをして大分大
会で1試合だけ志手監督に使ってもらったのがいい思い出で
す。松田先生は兄貴分として接してもらい感謝しています。な
により大分商に愛着をもっていました」と懐かしさにあふれた
声で話した。
)=創価学会九州文化会館組
内野手だった飯塚恵吉さん(
織 局 担 当 部 長 = も 松 田 監 督 と の 思 い 出 は つ き な い よ う だ。
〝守
くれない。
「結局は弱かったんですよ」という松田監督の言葉
いから万全になるまで待ってほしいといくら頼んでも待っては
実力のうち」といわれる。オリンピックも甲子園も体調がわる
試合や大会を振り返った時、勝てば「つき(運)があった」
などという言葉をよく耳にする。逆に負ければ「けがや病気も
が、日ごろの練習とかノックは松田監督でした」としみじみ。
松田監督には一番恩がある。試合は志手監督がやっていました
くなったと思うし、自分のためだけにやってくれたと思うと、
ンツーマンでノックをしてもらいました。きつかったけどうま
かった。
「授業が始まる前に朝練習をやるんですよ。毎朝、マ
りの大商〟といわれていただけに守備にはことのほかうるさ
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の裏にはベストの状態で試合に臨めなかった無念の気持ちが隠
されていたようだ。
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
静かな闘志を胸に秘める松田監督
春を待つ充電の時
〝弱さ〟の中で貴重な体験
)年の大分商がまさにその谷間の年だったの
人 生 に 山 や 谷 が あ る よ う に チ ー ム に も 必 ず 強 弱 が あ る。 い
く ら 名 門、 強 豪 と い え ど も 避 け て 通 れ な い 宿 命 で も あ る。
1965(昭和
の年は弱かったな」と切り出したが、遊撃手だった伊藤憲次さ
ではないか。松田監督は腕組みをしてつらそうに「うーん。こ
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ん( )=大分市=も「全然です。強くはなかった」と振り返っ
た。
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前年秋の九州地区大会県予選では2回戦で鶴城の山中正竹投
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
手(今季から横浜ベイスターズの球団顧問、前法政大監督、バ
ルセロナ五輪野球日本代表監督)に0―2で完封された。3年
生 に 進 級 し た 春 の 九 州 地 区 大 会 県 予 選 で は 別 大 付( 現 明 豊 )
、
夏の前哨戦となっている県選手権でも鶴見丘にいずれも1回戦
で敗れた。
「弱かった」と、口をそろえて出てくる言葉を裏づ
けるような成績だった。
こうして迎えた締めくくりの夏の大会。1回戦で日田林工に
8―0で快勝したものの2回戦では別大付に3―5で敗れ、す
べてを終了した。
このチームは県選手権大分地区予選を除いた県レベルの公式
戦ではわずか2勝しただけに終わっている。卒業後、日鉱佐賀
)=日鉱金属佐賀関製錬所総務課主事=は、「打線
を任せられる投手がいないことはその年の選手にとってこれほ
かし、下級生にどんな好投手がそろっていても同級生にすべて
手がおり、この年はもっぱらこの下級生投手に頼っていた。し
料理かわはら社長、大分商野球部OB会副会長=の2人の好投
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関に進んで都市対抗にも4番として出場した経験をもつ野中邦
雄さん(
)=滝尾土木専務=、1
大分商には2年生に野田静投手(
年生には後にドラフト1位でプロ野球入りした河原明投手=肉
けたの選手しか残らなかった。
あったが、日がたつにつれて次々とやめていき、最終的には一
こともあったようだ。この年、最初は100人くらいの入部が
という。やむを得ず外野手だった野中さんがマウンドに登った
こういたんですが、
どうゆうわけか次々にやめていったですね」
はまあまあよかったが、
投手がいなかった。入学した時は、
けっ
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
ど悲しいことはない。
大分商に限らず、
甲子園に出場できなかっ
た名門や強豪の選手から「ピッチャーがいなかった」と嘆く言
葉をよく耳にした。伊藤さんは「野田君もいい投手だったので
申し訳ないが、もし河原君が2年生だったらあるいは甲子園に
行けたのではないかといくら思ったかしれない」とほろ苦い胸
の内を明かした。
だが、嘆くことばかりではない。他の学年ではなかったであ
ろう貴重な経験もした。弱かったためにこの年はほとんど遠征
にも行かなかった。それで夏の大会が終わった後、
「お前たち
はどこにも行ってないから」と3年生全員で宮崎旅行に出かけ
た。伊藤さんは「練習はきつかったが、すべてが終わった後は
優しかったですね。松田先生から宮崎につれていってもらった
し、回転焼きをおごってもらったりしたことが今ではいい思い
出です」と懐かしそう。
それにチームが弱ければみんなで力を合わせて強くなるよう
な努力をし、足りない部分を補う工夫などもする。野中さんは
168センチの中心打者。
毎日、「大きい選手には負けたくない。
常にどうすれば小さな体で強くはじき返せるかを考えて練習し
ていました。松田先生には悩みを相談し、話を聞いてもらいま
した」
という。それはバントや守備でも同じ。共通していたキー
ワードは「手で覚える」というものだった。
「バントは手でボールをつかむようにしてバットを出し、ボー
ルを殺せと教えられました」と野中さん。抽象的だが、いかに
も大分商らしい指導法。もちろん、技術的なことをしっかりと
教えるのはいうまでもない。それだけ丁寧に、きっちりと決め
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
な さ い と い う 精 神 的 な 部 分 も 含 ま れ て い る の で は な い か。 付
け加えるとまだ高校も社会人も木製バットを使っていた時代。
シーズンをたった2本のバットで乗り切ったことが野中さんの
自慢でもある。
守備でもグラブをはずし、
素手で受けることはしょっちゅう。
こんな練習は今でも大分商の伝統として受け継がれている。つ
きつめていけば苦しい時ほどチームの本質がみえてくるし、弱
いのは強くなるための充電期間と受け止めてもいいのではない
(1967)年春の選抜、5年後の昭
)年夏の選手権で津久見が見事に甲子園で頂点を極め、
年代〟と呼ぶ。昭和
和 (
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た栄光の時代。野球では、昭和
(
)年に大分商出身の故荒
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あろう。
巻淳投手らを擁し、都市対抗を制した別府星野組以来の偉業で
24
された。これに代表されるように大分県が全国的にも光り輝い
紫紺と深紅の大旗が故小嶋仁八郎監督によって豊の国にもたら
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か。厳しい〝冬〟がすぎれば必ず満開の〝春〟は訪れる。
こんな中にいつも松田監督がいて、その時に備えての知識を
蓄えていた。
年代
年に〝悲願〟の九州一
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黄金の
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県高校野球史の中にさんぜんと輝く時期。関係者は〝黄金の
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
思い出を語る松田大分商元監督
年春の九州地区大会で県勢として初
頂点には立てなかったが、5チームが準優勝。実に延べ 校が
優勝争いに絡む華やかさ。
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最近は覇権から遠ざかっているが、県勢が 年代以外で九州
を制したのは、まだ黄金期の名残をとどめていた昭和 年秋と
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この黄金期の扉を開いたのは鶴城。山中正竹投手(横浜ベイ
スターズ球団顧問、前法政大監督、バルセロナ五輪野球日本代
表監督)らを擁し、昭和
めての優勝を飾った。
ク、小さな大投手と呼ばれた。
年
40
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48
これに続いたのが大分商、鶴見丘、津久見など。昭和
の春、秋合わせて 回の九州地区大会で6度の優勝。昭和
年代
沖縄を除く九州各県の中では最も遅い優勝。山中投手はその
後、法政大に進み、東京六大学リーグで最多記録の 勝をマー
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春には津久見―中津工の県勢同士の夢の決勝対決まであった。
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同 年春の日田林工、それに津久見と大分が2度目の県勢同士
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
の決勝対決をし、津久見が勝った昭和
年春の3度だけ。いか
に 年代が強かったかを歴史が如実に物語っている。
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鶴城が先陣を切った〝九州一〟を確かなものにしたのは大分
商。翌年の昭和 年春、福岡で開かれた第 回九州地区大会で
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うしようかと最後まで心配したが、伝統の堅い守りが生きた試
田監督は「あんなにドキドキした試合はなかった。負けたらど
当初の予定通りといえばそれまでだが、大変に苦しい試合。松
点とし、七回に敵失で決勝点を挙げて勝ったが、2―1の辛勝。
びて先行されてしまった。五回に中英治二塁手の内野安打で同
生エースの野田静投手(滝尾土木専務)が、四回に本塁打を浴
勝負に情けは禁物。前の試合が長引いてナイトゲームになる
などいやな予感はあったが、試合は思わぬ展開となった。3年
いつもは完ぺきな勝利を望んでいたが、この時ばかりは手加
減して勝とうと思っていた。
いい」などと甘く考えていた。
のもまたわるい。1点差か2点差くらいで静かに勝つのが一番
は「負けたらわるい。かといってコールドゲームでやっつける
野球では「一億総沖縄びいき」の世相の中での対戦。松田監督
今のように強くはなく、日本人の判官びいきとも相まって高校
勝。続く準々決勝の相手は首里
(沖縄)
。まだ復帰前の沖縄代表。
1回戦では2年生の河原明投手(肉料理かわはら社長、大分
商野球部OB会副会長)の好投で選抜帰りの小倉(福岡)に快
見事に初優勝した。
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完 投 勝 利 の 野 田 さ ん は「 み ん な が 首 里 を 応 援 す る 中 で ナ イ
合だった」と振り返った。
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
ターになり、不慣れなまま先に打たれてしまった。打たれると
いう思いは全然なく、三振を取りにいった高めのストレートを
レフトに運ばれた」と、ちょっぴりほろ苦さの残る試合を回想
した。野田さんは3安打しか打たれなかったが、その1本が本
塁打。そして「全体的には河原の大会だった」と後輩に花を持
たせた。
準決勝の熊本一工戦では再び河原投手が好投して1―0の完
封勝ち。一回裏に中二塁手がたたき出した貴重な〝スミイチ〟
を守りきった。中学時代から評判だった河原投手の度胸満点の
投球が光った試合。
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決勝の相手は鹿児島実。これまでの戦いぶりとは裏腹に試合
はシーソーゲームの打撃戦。五回に3点を与えて逆転された大
分商は七回に4安打を集中して再逆転。八回に同点とされたが、
九回に決勝の2点を挙げ、
野田、
河原両投手のリレーで逃げ切っ
た。
)=大分赤十字病院施設用度係長=は
長い歴史を刻む大分商野球部の中でも初めての快挙。新たな
一ページを付け加えたが、決勝戦で3安打を放つなどの活躍を
みせた伊東英郎さん(
校門から本館へ通じる道路の両側に全校職員、生徒が並び、
拍手で迎える中、堂々とがい旋した。
りました」と振り返った。
自分たちがあっさりやってしまっていいのかなという思いもあ
しかったですね。でも偉大な先輩たちがなし得なかったことを
好投で勝った。あとは〝あれよあれよ〟という間の優勝。うれ
「初戦は選抜出場の小倉。さすがにすごいと思ったが、河原の
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
甲子園を逃した九州の王者
調子を崩したまま大会へ
初めて九州の頂点に立った1966(昭和 )年の大分商。
松田監督にとっては熊本では入り込む余地がなく、
大分でも「い
うにして投げていたのを先生の指導で変えたらよくなった。投
いう。野田さんは「最初は曲がらんかった。手首を巻き込むよ
る要領で手首だけでひねったら切れ味鋭いカーブが誕生したと
野 田 投 手 の カ ー ブ は 有 名 だ っ た が、 最 初 か ら 切 れ の い い 球
だったわけではない。2年生になったころ、ストレートを投げ
ときていた。河原はとにかく速かった」という。
よってそれぞれに任せていた。
野田は球の切れがよく、ピューッ
陣に心配はなかった。2人とも完投能力を備えており、試合に
中心・伊東英郎さん(大分赤十字病院施設用度係長)は「投手
の2人の好投手を擁し、史上屈指の強さを誇っていた。打線の
、2年生の河
大分商は3年生の野田静投手(滝尾土木専務)
原明投手(肉料理かわはら社長、大分商野球部OB会副会長)
国の姿を強烈にアピールした。
民の士気高揚に大きく貢献するとともに、全国に躍進する豊の
この年の大分は男女総合優勝に輝き、栄光の天皇杯を獲得。県
高知県が開催地の連勝記録をストップさせて反響を呼んだが、
国民体育大会(夏季、
秋季大会)が郷土大分で開かれた。昨年、
らん」と冷たくあしらわれ、人生の若き日々を揺り動かされた
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球に自信をつけた球でした」という。ドラフト1位で当時の西
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
大分商業高の野球部を率いた松田元監督
鉄ライオンズに入団した河原投手の速さは抜群。河原さんは「調
子のいい春先はプロでも球の速さで負けたことはなかった」と
いうほどの剛腕。この〝2枚看板〟がいたから松田監督も「文
句なしに強かった。打線もよかった」と振り返る。
春の九州地区大会に続いて夏の前哨戦の県選手権でも優勝し
た。1回戦は河原投手が好投して高田を2―1で下し、準々決
勝は野田投手が豊南を相手に1―0の完封勝ち。準決勝は今度
は河原投手が鶴見丘を相手に2―0の完封勝ちを収めた。決勝
戦は津久見と大熱戦。
6―0から8―1と楽勝ペースだったが、
終盤、にわかにもつれて終わってみれば8―7の1点差勝利。
野田、河原両投手の継投で逃げ切ったが、4試合のうち3試合
が1点差。決勝戦こそ大量点を与えたが、接戦を制したり、少
ない得点を守り抜いての勝利はいかに投手力が優れていたかを
示すものだった。
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
九州地区大会、県選手権優勝で夏まで招待試合、練習試合も
多かったが、エースが2人いる強み。大分商の春からの連勝は
止まらなかった。野田さんは「負ける気がしなかった。自信で
いっぱいだった」という。だが、勝ち続けていた陰でチームに
は少しずつひずみが出始めていた。意気揚々と出かけた広島遠
征で広島商に2連敗した。野田投手はひじを痛め、河原投手は
三村敏之さん(元広島東洋カープ選手、監督)に本塁打を浴び
て調子を落としてしまった。
高校野球では強くなければ甲子園に行けないが、強いから甲
子園に行けるとは限らない。あれほど順風満帆だったチームに
かげりが出たまま夏の大会に入った。初戦の2回戦こそ東明に
八回コールド勝ちしたが、野田、河原両投手の継投で3点を取
られている。そして準々決勝では鶴城を相手に一回から1点ず
つを挙げて三回表まで3―0とリード。絶好の展開に持ち込み
ながら三回裏に2点、
六回裏に1点を与えて同点に持ち込まれ、
九回裏に無念のサヨナラ負けを喫した。河原さんは「下り坂の
時 に 大 会 に 入 っ て し ま っ た。 最 後 は 何 と か 抑 え て や ろ う と 精
いっぱい投げたが、気負いすぎて力が入りすぎた。肩を痛めて
いたこともあって抑えきれなかった」という。野田さんも「い
い展開になって安心していたらやられてしまった。甲子園は行
くまでが難しいですね」と悔しそうに話した。
ノックの時、水を入れたバケツを置いて、倒れるとその水を
ぶっかけてまた練習を続けていた内野手。投手も外野手も、打
撃 練 習 な ど も す べ て が 志 手 監 督 や 松 田 監 督 と の〝 真 剣 勝 負 〟
。
そんな苦労も報われなかった伊東さんは負けた後、1カ月くら
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
いは何も手につかなかったそうだ。「ぼーっとしていて気力が
わかない。ショックでした。春の優勝で土曜、日曜は毎週のよ
うに遠征。疲れもあったかもしれない。慢心もあったし、楽勝
ムードで気の緩みもあった。それに『おれがおれが』の気持ち
も強かった」としょんぼり。
『 戦 後 最 強。
よ う や く 最 後 に「 な ぐ さ め に し か な ら な い が、
甲子園に一番つれていきたかったチーム』と松田先生らにいわ
れたのを心の支えにしてきた」と続けた。
合っての投げ合い。
かわはら社長、大分商野球部OB会副会長)ががっぷりと組み
試合は予想通り1点を争う大熱戦。選抜優勝の津久見・吉良
投手と、後にドラフト1位でプロ入りした河原明投手(肉料理
杯をかけた千秋楽結びの大一番といったところ。
少し時代がさがって栃錦―若乃花、はたまた大鵬―柏戸戦。賜
戦。大相撲に例えれば郷土が生んだ大横綱・双葉山対羽黒山。
大分商。全国級の横綱同士ががっぷりと組み合った県代表決定
の覇者・津久見。この野望を阻止しようと立ちはだかった古豪・
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県高校野球史に残る大熱戦
河原、吉良の息詰まる死闘
まさに熱闘。これほどのドラマがあっただろうか。1967
(昭和 )年夏の県春日浦球場。甲子園で春夏連覇を狙う選抜
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
松田元監督と大分商野球部OB会
試合が動いたのは終盤にさしかかった七回裏。大分商はこの
回先頭の4番・後藤美次選手(臼杵商監督、元大分商監督)が
カウント2―0と追い込まれながら右中間に三塁打。全国制覇
の最大の武器となった吉良投手の伝家の宝刀・カーブを2球続
後 藤 さ ん は「 吉 良 投 手 の 球 は カ ー ブ 以 外 は 頭 に な か っ た。
けてファウルしたあとの直球。
全打席ともカーブ
狙 い。 フ ァ ウ ル、
ファウルときたあ
と直球が甘く入っ
て き た。 ま さ か 3
球勝負とは思わな
かったが、追い込ま
れていたので夢中
で バ ッ ト を 出 し た。
感 触 は よ か っ た し、
右中間を抜けたあ
と は 走 れ、 走 れ で
す よ。 三 塁 に 立 っ
た時はスクイズが
あ る か も し れ な い、
犠牲フライも考え
ら れ る。 と に か く
何とか1点と思っ
て い ま し た。 本 当
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
は外角にはずすつもりがストライクに入ったんじゃないです
か」と、会心の一打を振り返った。
願ってもない無死三塁。本来の〝大商野球〟ならば、しぶと
くねちねちと攻めてスクイズなどで1点を取りに行くのであろ
うが、この時は違った。
下郡謙悟捕手(クリーンアップ社長)が初球をいきなり左中
間二塁打して後藤選手を迎え入れた。
「打席に入る前に志手監督に呼ばれたんです。
『い
下郡さんは
いか。1球目は必ずカーブがくる。思い切って狙え』とね。そ
の通りになった。本当にうれしかったです」とはりのある声で
話した。
結局、この1点が決勝点。河原投手は津久見の強力打線を2
安打に完封した。大分商はこの試合で6安打を放ち、津久見を
押 し て い た が、 一 生 懸 命 に 取 り 組 ん だ カ ー ブ 打 ち の 成 果 で も
あった。
吉良投手のカーブは当時〝ドロップ〟と呼ばれていた。何が
すごいかというと大分商も津久見の選手も口をそろえていう最
大の特徴は、一度浮いてから鋭く落ちてくることだった。
「バントの時、構えたバットが一度上に上がってから下がっ
てくる。バントもよくできないような球を瞬間的に判断して打
つことはできません」という声も聞いた。後藤さんは「カーブ
というか、いいドロップを投げられる選手を打撃投手にして打
つ練習はしましたが、吉良投手のようなカーブはもちろん投げ
ることはできない。目を慣らすことだけでした」という。だが、
指導陣にとっては吉良投手、つきつめていえばカーブを打たな
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
ければ甲子園はない。
松田監督は「あのカーブは打てないと思っていたが、それで
はすまされない。毎日、死に物狂いでカーブバッティングに取
り組んだ」と振り返った。
津久見に対してもうひとつやっかいな問題があった。河原投
手の〝天敵〟となっていた津久見の先頭打者五十川選手をどう
抑えるかという問題。
「いつも五十川選手に打たれて負けてい
たんですよ」と河原さん。松田監督も「五十川君だけには絶対
に打たれるな」としつこくアドバイスした記憶が鮮明に残って
いる。
試 合 は こ の ま ま 九 回、 津 久 見 の 最 後 の 攻 撃。 こ こ で 天 敵・
五十川選手が登場したが、一邪飛に仕留めた。松田監督、河原
投手は「これで勝てるかもしれない」と思った。森一太一塁手
(金太寿司店主)
も
「ファウルフライを捕ったのは自分です。
やっ
と勝ったと思いました」と今もこの時の感覚が残る手のひらを
さすりながら懐かしそう。
河原投手はこの試合、内角の直球とスライダーに近いカーブ
を多めに使って津久見打線に立ち向かった。
「調子はそれほどよくなく、勝てる気はしなかった。負けた
らひと泳ぎしてから帰ろうと海水パンツを用意して試合に臨ん
だ。津久見はいつも真ん中から外よりの直球を右狙いしていた
ので思い切って内角攻めをした。それに腕をやや下げてカーブ
を投げた。この球の切れが抜群によかったですね」と、苦心の
投球パターンを振り返った。
甲子園に向けて大きな大きなヤマを越えた。
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
49 回の選手権を振り返る松田大分商元監督
快勝と大敗
勝負では気配りが必要
1967年春の選抜で全国制覇した津久見を倒し意気上がる
大分商だったが、いつの場合も甲子園への道のりは簡単ではな
い。鶴見丘とともに臨んだ中九州大会に熊本勢は大津、熊本工
が出場した。
前評判は大分商だった。
ところが大津のアンダー
初戦は大津。
ハンド・錦野投手の切れのいい球を全く打てず、打線はわずか
2安打を放っただけ。四回に失策で挙げた拾いものの1点を河
原投手(肉料理かわはら社長、大分商野球部OB会副会長)が
守りきってようやく勝った。
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「闘将物語…松田瑞雄」第三章・豪華絢爛・横綱同士 p.
代表決定戦は戦前からのライバル熊本工。投打のバランスが
とれた大分商は下位打線の河原投手、森一塁手が2安打、是松
左翼手が3安打、島崎三塁手が1安打と9安打のうち8本を放
つ活躍などで、7―0で完勝した。
河原投手は2試合とも3安打完封勝利。「河原がいたからこ
そ勝った」という関係者は多い。
校が勢ぞろいしていよいよあこがれの甲子
全国各地区代表
園。河原投手は高校時代、1球ごとに「よいしょ」と掛け声を
発しながら剛球を投げ込んでいたが、晴れ舞台でもほえまくっ
た。県予選で本調子ではなかった肩も中九州大会あたりから回
復。甲子園では絶好調を維持していた。
本番ではナンバーワン投手のうわさにたがわず1回戦で網走
南ケ丘(北北海道)を4安打散発、8―0で完封した。2回戦
では福岡代表の小倉工を延長十回の末、1―0で連続完封。ま
たしても散発4安打の快投。そして投げ合った相手投手はとも
に「横山」だった。
こうしてベスト8に進出した大分商。春の優勝校・津久見を
破り、古豪・熊本工に完勝し、甲子園でも2連続シャットアウ
ト勝ち。大分商株・河原株はうなぎ上りとなった。高い評判の
中で、大分商関係者もひそかに「津久見が春に優勝したんだか
ら夏は大分商」と考えても何の不思議もない。ところが大分商
の運命はここから思ってもいない方向へと進んでいく。
準々決勝の相手は市立和歌山商(紀和代表)。大分商は河原
投手、
市立和歌山商は野上投手と右と左の好投手を擁しており、
1点を争う好試合が期待されていた。しかし、それをあざ笑う
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かのような大乱戦となった。河原投手は二回に、津久見との県
代表決定戦以来初めて失点し、先取点を許した。すかさず追い
点を許した。
ついたが、四回に守備陣が足を引っ張り、乱れに乱れて9失点。
結局は大量
「体ががくがくになってわきゃわからんごとなった。零点が
当たり前、取られても1点と思っていただけにショックが大き
かった」と河原さん。下郡謙悟捕手(クリーンアップ社長)は
松 田 監 督 か ら 試 合 中 に ひ ど く し か ら れ た の を 覚 え て い る。
「投
げる球がありません」というと、一段低くなっている甲子園の
ダッグアウトの後ろに連れていかれ、
「ばかたれ。まだ試合は
終わっちょらん。あきらむんな」とほおをたたかれ、気合を入
れられた。
大分商はこの試合、野上投手から5点も奪っている。本来の
大分商の野球ならば絶対の勝ちパターン。それだけに松田監督
の記憶も鮮明だ。
「
『出すサインがありません』と弱気なことを
言ってきたからしかった。5点も取って負けたのが、はがいい
ではがいいでたまらんかった」という。
下郡捕手、森一太一塁手(金太寿司店主)によれば河原投手
の球は三回までは走っていたそうだ。それがまずい守備をきっ
かけに崩れたのは下痢のためといわれている。練習の際、河原
年がすぎた今も
さんは二つあった水道の蛇口のうち、冷たい方の水を飲んだ。
これが体調を崩した原因の一つ。あの時から
あったようだ。
すから」と頑として口を割らなかったが、このほかにも原因は
河原さんは「自分のためによかれと思ってやってくれたことで
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回大会の記念切手のモデルと
こうして優勝候補だった大分商はベスト8で散った。本来な
ら甲子園での八強入りは称賛に値するが、この年ばかりは不完
全 燃 焼。 投 げ る 勇 姿 が 翌 年 の
なった河原さんも「最低でもベスト4を狙っていた」と話し、
下郡さん、森さん、後藤美次さん(臼杵商野球部監督、元大分
商監督)らナインは「あんなかたちで終わったのでやはり心残
りがあった」という。
松田監督も「絶好のチャンスだっただけに惜しかった。優勝
できたかどうかは神だけが知っているが、勝負ではあらゆるこ
とに気を配らなければいけなかったですね」と残念がった。
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「闘将物語…松田瑞雄」 第三章●豪華絢爛・横綱同士
●デジタル版「闘将物語 松田瑞雄」について
著者 那賀 泰彦
初出掲載媒体 大分合同新聞夕刊(2002 年 9 月 21 日~ 2004 年 9 月 4 日)
《デジタル版》
2009 年 4 月 10 日初版発行
編集 大分合同新聞社
制作 別府大学メディア教育・研究センター 地域連携部
発行 NAN-NAN 事務局
(〒 870-8605 大分市府内町 3-9-15 大分合同新聞社 総合企画部内)
ⓒ 大分合同新聞社
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「闘将物語 松田瑞雄」は、2002 年 9 月 21 日か
ら 2004 年 9 月 4 日までの 2 年間「私とスポーツ
闘将物語 松田瑞雄」として松田瑞雄元大分商業
高校野球部監督を取材執筆、大分合同新聞夕刊に
70 回にわたり連載された記事です。これをデジ
タルブックに再構成しました。登場人物の年齢を
はじめ文中の記述内容は当時のものです。
2009 年 2 月 20 日 NAN-NAN 事務局
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