「老舗の風景」 第十七回 レストラン東洋軒:あわや・ヤノメガネ

第十七回
レストラン東洋軒
あわや
ヤノメガネ
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初版発行:2010 年 3 月 19 日
創業当時の東洋軒は木造 3 階建てのモダン建築
期待裏切らぬ味
■ レストラン東洋軒/別府市石垣東
ハンバクステーキ
サンドウ井ツチ
コー茶…
―一九二六(大正十五)年、創業当時のメニュー。今でも店
内で保存されている。
故・宮本四郎さんが当時栄えていた市内中浜筋(現・楠町)
に開業。
「東洋軒」の名は、修業中に勤めていた東京の高級料
理店から取った。
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「老舗の風景」第十七回
大正時代からの味と伝統を守り続ける宮本さん夫婦
開業時の建物は木造三階建てのモダン建築。洋食料理店も少
なく、通りを歩く人たちが足を止めて見上げる姿もあったよう
だ。三階にあった大広間では、
結婚式や披露宴も開かれていた。
ここで式を挙げた人たちも多くいるに違いない。
国内外の著名人も数多く訪れ、蒋介石介石の書なども残って
いるという。昭和初期には台湾から料理人を招き、中華料理も
メニューに加わった。
鶏ノ天プラ
魚ノ天プラ…
―「 鶏 ノ 天 プ ラ 」 略 し て「 鳥 天 」。 当 時 か ら の 定 番 料 理 で、
大分名物「鳥天」のルーツでは、と言われることもある。
東洋軒で腕を磨いた料理人が県内各地で〝味〟を受け継いで
いる。
「地元に帰った料理人の店に行くと、味がほとんど変わ
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「老舗の風景」第十七回
らないことも」と、三代目・博之さん(
( )
。
)と妻の真理子さん
つでも飲めるように水を置いているんですよ」
を止め、おいしそうに冷えた水を飲む。「通り掛かった人がい
夕刻、学校や遊びから自宅に向かう小学生たちが、店頭で足
「品質第一」貫く
■ あわや/竹田市竹田町
別府支社・大塩信(二〇〇六年七月一九日掲載)
二人は声をそろえた。
お客さまを裏切らない味と伝統を守り続けていく」
「いつまでも素材にこだわった料理を提供したい。すべての
中には「入院する前にどうしても食べておきたい」と来る客も。
幸せそうに食事する年配の夫婦を見るとうれしくなる」と笑顔。
昔からの常連客も絶えない。真理子さんは「昔を懐かしんで
すると、
「観光客や若い人、新しいお客も来るようになった」。
焼失。代替地で営業を続け、九五(平成七)年に現在地に移転
振り返る。八三(昭和五十八)年には開業以来の建物が火災で
観光港に移り、
「人の流れが変わってしまった」と博之さんは
二代目・丞さん(故人)の時代に、別府港が現在の別府国際
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)と店長を務める妻
「あわや」の四代目、都築員守さん( 54
) が に こ や か に 話 す。 水 は 竹 田 市 内 で く ん だ
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の 玲 子 さ ん(
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「老舗の風景」第十七回
わき水。さりげなく、地域の人たちへの気配りをし、観光客ら
をしている。
に竹田の PR
初代の惣兵衛さんは徳島県出身。一八八七(明治二十)年、
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竹田市に移り、行商を始めた。数年後、出身地にちなんだ屋号
「阿波屋金物店」として店舗を構えたという。
店頭には、通り掛かった人がいつでも飲めるように竹田市内でくんだわき水を置いている
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「老舗の風景」第十七回
モットーは「品質第一」
。信頼できるかじ屋から仕入れた包
丁やのこぎり、
かまといった金物には自信を持っている。主立っ
たものには、商品に責任を持つという意味合いで、初代の名前
の刻印を入れている。
「刃物のデザインは決まっているが、品質で差別化を図りた
い。使ってもらえれば違いが分かると思います」と話す。
一九七八年、
愛知県内の自動車関連メーカーで働いていたが、
「品質で差別化を図りたい」と話すあわやの都築員守さんと玲子さん
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「老舗の風景」第十七回
先 代 の 父 親 が 体 調 を 崩 し た た め、 二 十 七 歳 で タ
U ー ン し、 店
を手伝い始めた。その後、日用品やギフト、消防設備などを扱
うようになり、現在は福祉、介護用品も加わり〝多角化〟した。
「時代や環境の変化に対応し、お客のニーズに応えていくた
めだが、メーンは金物として、昔からの筋を通し、品質と信用
にこだわっていきたい」と揺るがない。
本業のほかに、商工会議所、観光協会、消防団など各分野で
活動しており、多忙な毎日。
「両立は大変ですが、頼まれると
断り切れないので」と苦笑するが、百二十年近く商いを続けさ
せてもらっている地域や人に役立ち、お返しをしたいという気
持ちからに、ほかならない。
竹田支局・赤坂耕(二〇〇六年七月二十六日掲載)
■ ヤノメガネ/大分市中央町
受け継がれる技術
創業者の矢野権平さんは金銀細工の職人だった。しかし、こ
の仕事だけでは食べていけず、大分市大工町(現中央町)の店
で治療用のはりを作って売っていた。
眼鏡の商いを始めたのは、権平さんが目の病気になったこと
がきっかけ。眼鏡を掛けると、見えなかった物が見えるように
なった。
「こんなに人の役に立つ商売はない」と感動、はり店
の店先で眼鏡を扱うようになった。
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「老舗の風景」第十七回
一九一九(大正八)年の創業当時、
眼鏡の需要はまだ少なかっ
さんが眼鏡部門を切り盛りしていたという。
)が復員し、営業を再開してからだ。六一年、眼
本格的に眼鏡屋を始めたのは第二次大戦後。二代目で会長の
峯生さん(
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鏡専門店のグループ「オールジャパンメガネチェーン(AJO
C)
」に加盟。
当時、
まだ県内になかっ
た技術や情報を取
り入れ、チェーン
展開を始めた。
)は眼
三代目社長の博
久さん(
めは丸いレンズ
棚 が。
「昭和の初
い眼鏡を陳列した
中央店二階には古
す 」 と 振 り 返 る。
い、職人の世界で
れば一人前じゃな
でした。できなけ
のカットも手作業
た。
「昔はレンズ
鏡に囲まれて育っ
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に、細く巻いた金
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た。権平さんが店の奥ではりを作り続け、権平さんの娘・正子
接客する矢野博久社長(左)。専門店と
して、総合的なサービスを心掛けている
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「老舗の風景」第十七回
大分市大工町にあった矢野眼鏡店 = 大正末期
属製のコイルの弦が主流。昭和三十年代後半にセルフレームが
出たのは画期的でしたね」
扱う眼鏡の種類は格段に増え、眼鏡作りの工程は機械化した
が、その機械を操る社員には、今も長年培った技術と経験が受
け継がれている。
現在、県内外で三十四店舗を展開。
「ただ単に眼鏡を物とし
て売るのではなく、快適な視力実現のため、専門店としての総
合的なサービスを心掛けています」と博久さん。「これからも
専門技術を磨き、地域のお客さまに質のよい品を適正価格で提
供していきたい」と決意を新たにしている。
社会部・小野良子(二〇〇六年八月二日掲載)
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「老舗の風景」第十七回
「老舗の風景」第十七回
追加情報を受けながら逐次、改訂して充実発展を
■オオイタデジタルブックとは
オオイタデジタルブックは、大分合同新聞社と
学校法人別府大学が、大分の文化振興の一助とな
図っていきたいと願っています。情報があれば、
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ることを願って立ち上げたインターネット活用プ
NAN-NAN では、この「田舎暮らし」以外にも
ロジェクト「NAN-NAN(なんなん)」の一環です。
デジタルブック等をホームページで公開していま
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別 府 大 学
デジタル版「老舗の風景」 第十七回
大分合同新聞社
編集
初出掲載媒体 大分合同新聞(2005 年4月 6 日~ 2007 年 3 月 28 日)
《デジタル版》
2010 年 3 月 19 日初版発行
編集 大分合同新聞社
制作 別府大学メディア教育・研究センター 地域連携部/川村研究室
発行 NAN-NAN 事務局
(〒 870-8605 大分市府内町 3-9-15 大分合同新聞社 企画調査部内)
ⓒ 大分合同新聞社
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●デジタル版「老舗の風景」について
「老舗の風景」は、大分合同新聞社が 2005 年 4
月から翌 2007 年 3 月まで、同紙夕刊に掲載した連
載記事。今回、デジタルブックとして再構成し、公
開する。登場人物の年齢をはじめ文中の記述内容は、
新聞連載時のもの。
2009 年 11 月 20 日
NAN-NAN 事務局
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