======================================================== シュリー・スワミ・シヴァナーンダ著 『クンダリーニ・ヨガ 』 by Sri Swami Shivananda "KUNDALINI YOGA" (© The Divine Life Trust Society) ======================================================== OM パタンジャリ・マハルシ ヨギ・ブースンダ サダシヴァ・ブラフマン マチェンドラナート イエス・キリスト ゴーラクナート シュリー・クリシュナ ヨガの解説者らすべてのヨギに捧ぐ (*序文のみ ‘10 年 5 月作成) グル・ストートラ(グルの賛歌) 生物無生物 動きあるものないもの この世のすべてに遍在する神を知ることは 可能であると伝えるグルに頭を垂れます 求めるすべてを授け ビンドゥと結ばれたオームカーラを瞑想する者に解放をもたらす オームカーラに頭を垂れます 叡智と大いなる力に根ざし 世俗の繁栄 霊性の解放 叡智の花飾りで飾られ 両者を授けるグルに頭を垂れます 2 デーヴィ・ストートラ(女神の賛歌) トリプラスンダリのご加護を乞います 三つの目をもつ者の妻 黄金盤に座し カダンベの森で暮らす者 ヨギらの六つの蓮に住まう者 成就に至った者らの心で 稲妻のように光り輝く者 ジャパの花をもしのぐ美しさ おお 万物のセルフよ 額の満月で讃えられる者よ あらゆる時 あらゆる場所 あらゆるもののセルフよ 原因と結果の背後の大いなる力である者よ あなたを十分に讃えることなどできましょうか 至高の叡智 マーヤー 知性 神々と魔族らの大いなる力 記憶 幻惑 そのものである者よ 3 シヴァ・スートラ(シヴァ神の賛歌) 行いによりなされた罪悪 ───手足 体 言葉 目 耳でなされたもの 想いによりなされた罪悪 あやまちからであれ 怠惰さからであれ 讃えます 慈悲の海である者よ! 讃えます おお マハーデーヴァ おお なされた罪悪すべてをお許しください シャンボーよ! ───シュリー・シャンカラチャリヤ 4 音声 四つの領域 ヴェーダは「イシュワラ(至上の主) 」が音声で示されたものです。この音声には四つの領域があります。 1. パラ───プラーナに見いだされるもの 2. パシャンティ───意識に見いだされるもの 3. マディヤマ───インドリヤ(行為器官)に見いだされるもの 4. ヴィカーリ───実際の音声に見いだされるもの (詠唱などによる)実際の音声「ヴィカーリ」は、神の音声エネルギーの最も粗雑な領域です。音声エネルギーの最 高次の領域、原初の音、神なる声が「パラ」です。パラの音が、思念のもと、思考の種になります。パラの段階に具体 的な形はありません。パラ、パシャンティ、マディヤマ、ヴィカーリは、音声のグラデーションを形成します。 マディヤマは、いまだ発されていない音声と発された音の間の領域で、心臓に座します。 パシャンティはヘソのチャクラ、マニプーラ・チャクラに座します。精妙な内なる「目」で見ることのできるヨギは、 色と形をそなえるパシャンティの領域の言葉を体験します。どの言語にも共通するものであり、音声としての均質な波 動をそなえます。インド人、ヨーロッパ人、アフリカ人、日本人、鳥、動物───すべてが、音声のパシャンティ領域 内の同じバーヴァナ(創造の展開)を体験しています。身ぶり手ぶりはある種の言語であり、あらゆる人に共通します。 どの国の人であれ、手を口もとへと運ぶ似たような動作で、のどが渇いたことを示します。シャクティという唯一同一 のエネルギーの働きにより、耳が聞き、目が見、またそれ以外のものが活動するように、同一のパシャンティが様々な 音声となります。 神御自身が、自らのマーヤーの作用により、まずパラとしてヘソのムーラダーラ・チャクラ[ママ]に自らを顕し、 次にマディヤマとして心臓に、ついにはヴィカーリとしてのどと口で自らを顕します。これが「神なる声」の神聖な「下 降」です。あらゆるヴィカーリは「神なる声」そのものです。ヴィラート・プルシャ(この世の姿の神)の声です。 5 前書き おお、聖母神クンダリーニ、人のうちにひそむ神聖なる宇宙エネルギーよ! カーリー、ドゥルガー、アディー・シャクティ、ラージャーラージェシュワーリ、 トリプラスンダリ、マハーラクシュミー、マハーサラスワティである者よ! あなたはこれらすべての御名御姿をとられます。 プラーナ、エネルギー、電気磁気、結びつけ惹きつける力であられます。 あなたのふところに、全宇宙が抱かれます。 何千回もの礼を尽くしましょう。 この世の神なる母よ! スシュムナーを開き、サハスラーラまでチャクラを昇り あなたと、あなたの伴侶シヴァ神へと、私を溶かしたまえ。 クンダリーニ・ヨガでは、クンダリーニ・シャクティ、霊性エネルギーの六つのセンター(チャクラ) 、眠れるクンダ リーニ・シャクティの上昇、頭頂サハスラーラ・チャクラでのシヴァ神との合一、それらをあつかいます。正確的確な 科学であり、ラーヤ・ヨガとも言われます。クンダリーニ・シャクティは、六つのセンターをつらぬき(チャクラ・ベ ーダ)、頭頂へと上昇します。 「クンダラ」とは「うずを巻いた」の意で、クンダリーニ・シャクティがとぐろをまいた 蛇のような形であることから、 「クンダリーニ」と呼ばれます。 人のあらゆる行いが幸福に至ることを目的とするのは、誰もが認めることでしょう。人の最上にして究極の目的は、 たゆまず永続する無限にして至上の幸福です。この幸福は、自らのセルフ、アートマンにのみ見いだされます。よって、 永続する至福に達するには、自らのうちを探すことです。 人間のみが思考力をそなえます。人にのみ、理論立て、熟慮し、判断を下すことができます。比較検討し、長所短所 を考慮し、推論結論を導きだすことができます。だからこそ、人は神意識に達することができます。ただ食べて飲むだ けで、自己覚醒にむかう精神活動をしない人は、野獣であるにすぎません。 おお、世俗へとむかう人々よ! アジュナーナ(無知)の眠りから目覚めよ。目を開け。 アートマンの叡智をえるべく立ちあがれ。 サーダナ(霊性修養)を行い、クンダリーニ・シャクティを目覚めさせ、 眠らぬ眠り(サマディ)に至れ。 アートマンに没我しよう。 「チッタ」は心である物質であり、様々な形をとります。それらのとる形が「ヴリティ」です。ヴリティは変質変容 (パリナーマ)します。この変質変容が、思考の波、ヴリティのうずです。チッタがマンゴーを想えば、チッタの海に はマンゴーのヴリティが起こります。ミルクを想えば、マンゴーのヴリティはひき、ミルクのヴリティが形づくられま す。チッタという大海には、数知れぬヴリティが生じてはひいていきます。これらヴリティにより、心はせわしなくな 6 ります。なぜチッタにヴリティが生じるのでしょう。サムスカーラ(潜在する心象)とヴァーサナー(傾向・性質)に よります。あらゆるヴァーサナーが消失したなら、ヴリティもおのずとひいていきます。 ヴリティは、無意識にくっきりした印象を残しひいていきます。これを、 「サムスカーラ」 、潜在する心象といいます。 サムスカーラの集積が、カルマサヤと呼ばれるこれまでの行いの入った入れものとなり、集積そのものをサンチタ・カ ルマ(行いの集積)といいます。人が肉体を去るときには、一七のタットヴァからなるアストラル体とカルマサヤをた ずさえ、精神界にいきます。このカルマサヤは、アサンプラジュナータ・サマディにより焼きつくされます。 心を集中させるには、あちらこちらにむかう心を注意深く集めます。チッタの海にはたえずヴリティがわきおこるも のです。生じるたびに鎮めます。すべての波がひいたとき、心は穏やかに静まります。そうして、ヨギは平安と至福を 享受します。つまり、真の幸福は内にあります。この幸福は、金銭、女性や子ども、名声評判、権力階級によるのでな く、心の統制をつうじえていくものです。 清らかな心がヨガの成就へ導きます。人と接するときにはふるまいを整えなさい。嫉妬を抱かずにいなさい。慈悲深 くありなさい。罪人をも憎まずにいなさい。すべてにやさしくしなさい。最大限のエネルギーをヨガの修養にそそぐな ら、急速にヨガに熟達します。解放への切望と、強力なヴァイラーギャ(無執着)を抱きなさい。熱心に真摯に努力し なさい。サマディに至るには、休まず瞑想を続けることが大切です。 シュルティ、シャーストラ(聖典経典)をゆらぐことなく信ずる者、サダーチャーラ(正しい行い)をする者、たえ ずグルに仕える者、欲望、怒り、モハ(幻惑) 、どん欲、虚栄をのがれる者は、このサンサーラ(この世)の大海をたや すく渡り、迅速にサマディに至ります。炎が枯れ葉の山を燃やすように、ヨガの炎はあらゆるカルマを焼きつくします。 ヨギはカイヴァリヤ(解放)に至り、サマディをつうじて直感をえ、真の叡智が瞬時にしてきらめきます。 ネーティ、ドーティ、バスティ、ノーリ、アーサナ、ムドラーらは、健康で丈夫な体をつくり、肉体を完全な統制下 におきます。しかしそれがヨガのすべて、ヨガの行きつく先ではありません。これらクリヤ(ハタ・ヨガの浄化の技法) は、ディヤーナ(瞑想)の助けとなり、ディヤーナからついにはサマディ、自己覚醒へと至ります。ハタ・ヨガのクリ ヤを実践するのがプールナ・ヨギ(完全なヨギ)ではありません。アサンプラジュナータ・サマディに没入する者のみ がプールナ・ヨギであり、スワタントラ・ヨギ(完全なる解放に至ったヨギ)です。 サマディには二つあります───ジャダ・サマディ、チャイタニヤ・サマディです。ケチャリー・ムドラーの修養を するハタ・ヨギは、箱に入れられ地中に埋められても、何か月、何年と生きることができますが、この種のサマディに それ以上の叡智はありません。これはジャダ・サマディです。チャイタニヤ・サマディでは、ヨギは完全に「意識」を たもち、五感を超える新たな叡智とともに戻ります。 ヨガのクリヤをおこなうことで、様々な「シッディ(特殊能力) 」がおのずと獲得されますが、シッディは覚醒の障害 です。さらに先へ進み、より高次の悟り、最終目標に至ろうというヨギは、それらシッディには何らかまわずにいるこ とです。シッディを追い求めれば、最大級の家長となり、世俗にむかう者になります。全宇宙のかなりの量の知識であ れ、自己覚醒により手にする霊性の叡智にくらべれば、無にも等しいものです。 7 ヨガの道は細心の注意で昇りなさい。行く道では、雑草、いばら、とがった石をとりのぞきなさい。名声評判がとが った石、かすかにひそむ欲望が雑草、家族や子ども、金銭、弟子、アシュラムへの執着がいばらであり、いずれもマー ヤーの姿です。霊性の徒を先へと進めなくするつまずき石です。そうして、偽のトゥシュティ(幸福)にとらえられ、 サーダナをやめ、愚かにも自分が覚醒したものと思いこみ、人々を高めようとします。盲人が盲人の手をひくようなも のです。ヨガの徒がアシュラムを開けば、じょじょに金銭資産がしのびより、そもそものヴァイラーギャもしだいに衰 えます。手にしたものに心奪われ、身を落としたことにも気づきません。アシュラムは乞食の精神性と組織の利己心を 育てます。サンニャーシンの衣をまとおうと、もはや別の形の家長(ルーパンターラ・ベーダ)と同じことです。おお、 求道者らよ、気をつけたまえ! 厳重に警告す! アシュラムを建てるなかれ。スローガン───独り身、瞑想、信仰 ───を心にとめよ。目標へと直進せよ。ブーマ(至上の目標)に至るまで、サーダナへの熱意とヴァイラーギャを捨 てるなかれ。名声評判、シッディの車輪に巻きこまれるなかれ。 ニルヴィカルパは超意識の境地です。そこには何のヴィカルパもありません。それが生命の目標です。あらゆる意識 の活動が消失し、知性も一〇のインドリヤ(五つの行為器官、五つの感覚器官)も消失し、霊性の徒はアートマンに浴 します。主体と客体の区別もありません。この世も、対立する二項も、完全に消失します。あらゆる相対を超える境地 です。セルフの叡智、至上の平安、言葉にならない無限の至福に達します。ヨガルーダともいわれる境地です。 クンダリーニがサハスラーラに導かれシヴァ神に結ばれると、完全なるサマディに至り、ヨガの徒は不滅の甘露を飲 みます。最終目標に達し、神なる母クンダリーニは役目を終えます。聖母神クンダリーニを讃えよう! てを祝福してくださいますように! オーム、シャンティ! シャンティ! シャンティ! 8 聖母神がすべ 概論・要約 =聖母神クンダリーニへの祈り= 9 目覚めたまえ 聖母神クンダリーニ 不滅の至福───ブラフマンの至福───である者よ! ムーラダーラの蓮の花に 眠る蛇のごとく住まう者よ 肉体と心のうちにいる私は どうぞ私を祝福し シヴァ神の 痛み 動じ 嘆いております 最も低き蓮の花から立ちのぼりたまえ 森羅万象の因そのものの 伴侶である者よ 中央の経路を上昇し スワディシュターナ あなたの主 マニプーラ あなたの神 アナーハタ アージュナをあとにされたまえ シヴァ神と結ばれたまえ 千の花弁の蓮 サハスラーラで戯れよ おお 至上の幸福の授け主よ 聖母神 ヴィシュッダ 存在・叡智・絶対なる至福である聖母神よ 目覚めたまえ 目覚めたまえ 目覚めたまえ! =クンダリーニ= (*以下、文中の(1)~(7)は、便宜上、ムーラダーラ・チャクラ(1)~サハスラーラ(7)として、番号をふったもの) 「クンダリーニ」という言葉は、ヨガの徒らによく知られるものです。七つのチャクラの一番目、ムーラダーラ・チ ャクラ(1)にある、とぐろを巻いた蛇のようなエネルギーのことです。他の六つのチャクラは、二番目から順番に、 スワーディシュターナ(2) 、マニプーラ(3) 、アナーハタ(4) 、ヴィシュッダ(5) 、アージュナ(6) 、サハスラー ラ(7)と呼ばれます。 いずれのサーダナ(霊性修養)も───ジャパ、瞑想、キルタン、祈り、美徳を養い、真理、非暴力、節制を遵守す る、など───、この蛇のエネルギーを目覚めさせ、スワーディシュターナ(2)からサハスラーラ(7)まで、チャ クラを通過させることを目的とします。頭頂のサハスラーラは「千の花弁の蓮」ともいわれ、サダーシヴァ、パラブラ フマン、絶対なる者の座であり、それと分かたれたクンダリーニ・シャクティがムーラダーラ(1)にひそみます。こ のクンダリーニが各チャクラを通りふたたびサダーシヴァと合一すると、ヨガを熱心に実践し、その努力の実った霊性 の徒には、解放が授けられます。 世俗にむかう人々は、五感の快楽や性欲の快楽を享受するのみで、何らかの霊性修養により、このクンダリーニのエ ネルギーが刺激されることもありません。この世の富や財を所有して手にする力でなく、修養からもたらされる力のみ が、この蛇のエネルギーを目覚めさせます。ヨガの徒が、シャーストラ(経典聖典)の定める修養、または指導者の授 ける修養のすべてを真摯に実践するとき、クンダリーニを包んでいたヴェールや層が払われ、ついには散り散りとなり、 この蛇のエネルギーが引きだされ上昇するのを体験します。このとき、修養を授ける指導者とは、すでにクンダリーニ が目覚めサダーシヴァの宿る座に至った者のことであり、この祝福多き成就に至ったことで、これからそこにむかう者 らのグル、導き手となる資格を有する人物にかぎられます。 10 クンダリーニがチャクラからチャクラを上昇し通過すると、ヨガの徒の「目」は五感を超えるヴィジョンを見、言葉 にならない魅力的な神秘世界がおのずと展開され、次から次へと壮大なる様々な領域が明かされ、より大いなる神聖な 叡智、力、至福を授かります。それらの景観は、クンダリーニふれる以前には明かされなかったありとあらゆる栄華に 咲きほころび、神聖なる光と芳香を放ちながら、世俗にむかいその存在すら否定する人々らの目からは隠されていた、 神聖なる神秘を呈します。 ヨガの徒は、クンダリーニがチャクラをひとつ上昇するごとに、ヨガのはしごを一段昇ります───次のページ、ま た次のページへと、 「神の書」を読み進めていきます。クンダリーニが上昇するごとに、霊性の成就という目標へと進ん でいきます。クンダリーニが六番目のアージュナ・チャクラに届くと、ヨガの徒は自らの神、サグナ・ブラフマンのヴ ィジョンを見、このエネルギーが最終にして最上のサハスラーラ・チャクラに至ったときには、個としての自己が消失 し、「サット・チット・アーナンダ(存在・叡智・絶対なる至福)」の大海へと溶けこみ、至上の魂、至上の主と合一し ます。そのときには、もはや一個人でも、ひとりのヨギでもありません。───不滅にして無限なる神の王国を征し、 完全なる光明をえた聖者、───幻惑にうち勝った英雄、───無知の海を渡りきり、輪廻しつづけることから解放さ れたムクタ(覚醒者) 、───相対の世界で奮闘する他の魂らをすくいあげる技量と力量をそなえる超人───となりま す。経典聖典は、可能なかぎり最大限の賛辞で彼らを讃え、天界の存在らも、三大神───ブラフマー神、ヴィシュヌ 神、シヴァ神───でさえ、彼らをうらやみます。 =クンダリーニの上昇= 各チャクラは、生命力であるシャクティ・エネルギーのセンターです。言いかえるなら、生ける肉体のうちのプラー ナヴァーユより具現された、プラーナシャクティのセンターです。各センターには遍在意識がそれぞれの姿形のデーヴ ァターとなって宿り、その名で呼ばれます。チャクラは粗雑な五感で認識されるものではありません。また、生ける肉 体において認識され整えうるものであれ、死により有機体が分解されれば消失します。 清らかな心がヨガの成就へと導きます。人と接するときにはふるまいを整えなさい。嫉妬を抱かずにいなさい。慈悲 深くありなさい。罪人をも憎まずにいなさい。すべてにやさしくしなさい。最大限のエネルギーをヨガの修養にそそぐ なら、急速にヨガに熟達します。解放への切望と、強力なヴァイラーギャ(無執着)を抱きなさい。熱心に真摯に努力 しなさい。サマディに至るには、休まず瞑想を続けることが大切です。 世俗にむかう人の心は、ムーラダーラ(1)とスワーディシュターナ(2)のチャクラ、それぞれ肛門と生殖器官近 くのセンターで活動します。 心が浄化されマニプーラ・チャクラ(3) 、ヘソのセンターに上昇すると、ある程度のエネルギーと歓びを体験します。 さらに浄化され、アナーハタ・チャクラ(4) 、心臓のセンターに上昇すると、至福を体験し、イシュタ・デーヴァ(そ のヨガの徒を導く神格)の輝ける姿のヴィジョンを見ます。 さらに高度に浄化され、瞑想と親愛が深まり高まると、ヴィシュッダ・チャクラ(5) 、のどのセンターに上昇し、さ 11 らなるエネルギーと至福を体験します。このセンターまで上昇してもなお、心はより低位のセンターに戻ることもあり えます。 アージュナ・チャクラ(6)、眉間のセンターに達すると、サマディに至り、至上のセルフ、ブラフマンを悟ります。 霊性の徒とブラフマンの間には、ごくわずかに分離の感覚が残ります。 大脳のセンター、サハスラーラ・チャクラ(7)、「千の花弁の蓮」に達すると、ニルヴィカルパ・サマディ、超意識 の境地に至ります。非二元のブラフマンとひとつになり、分離の感覚は完全に消失します。これが、最高次の意識、至 上のアサンプラジュナータ・サマディです。クンダリーニはシヴァ神と合一します。 成就に至ったヨギは、ヨガの徒らを指導し、また他の人々の善のため(ローカサングラハ) 、のどのセンター(5)ま で降りることがあります。 =クンダリーニ上昇の兆候= 瞑想する間、神聖なるヴィジョンを見、神聖なる味、香り、触感、音を体験し、また神からの導きを受けとるとき、 それらはクンダリーニ・シャクティが目覚めたことの兆候です。ムーラダーラ(1)が動き、髪が逆立ち、ウッディヤ ーナ、ジャラーダーナ、ムーラバンダナがおのずとおこるとき、クンダリーニが上昇しています。 努力を要さず呼吸が停止し、おのずとケヴァラ・クンバカがおこるとき、クンダリーニ・シャクティが活動していま す。プラーナがサハスラーラ(7)へと上昇するのを感じ、至福を体験し、おのずと「OM」がくり返され、心に世俗 の想いが一切ないとき、クンダリーニ・シャクティが目覚めています。 瞑想の間、視点がトリクーティ(眉間)に定まり、サンバーヴィ・ムドラーがおこるとき、クンダリーニは活動して います。肉体の様々な部位でプラーナが振動するのを感じ、電気ショックのようなひきつりを体験するとき、クンダリ ーニは活動しています。瞑想の間、肉体がなくなったかのように感じ、開こうとしても閉じた目が開かず、電気のよう なエネルギーが神経系を上昇下降するのを感じるとき、クンダリーニは目覚めています。 瞑想の間、啓示や洞察をえ、万象の神秘がおのずと明かされ、ヴェーダの言葉の意味がはっきり理解されるとき、ク ンダリーニは活動しています。体が空気のように軽くなり、混乱にあっても心は落ちつき、動いても動いてもエネルギ ーがつきないとき、クンダリーニは活動しています。 神に没我し、弁舌豊かになるとき、クンダー二は目覚めています。みじんの痛みも疲れもなく、様々なアーサナを行 うとき、クンダリーニは活動しています。美しく崇高な賛歌や詩がおのずと編みだされるとき、クンダリーニは活動し ています。 12 =クンダリーニ それぞれの道= 1.タントラ クンダリーニ・ヨガはタントラ(霊性修養)のサーダナに属すものであり、このエネルギーとチャクラについてが詳 細に解説されます。聖母神、存在・叡智・絶対なる至福の活動的な相は、クンダリーニの姿形をとり、あらゆる男性女 性の肉体のうちに宿ります。タントラのサーダナは、総体的に、この聖母神を目覚めさせ、サハスラーラ(7)の主、 サダーシヴァと合一させることを目標とします。タントラのサーダナでは、その手法として、聖母神の御名を唱えるジ ャパ、祈り、儀式供儀を行います。 2.ハタ・ヨガ ハタ・ヨガでも、クンダリーニにまつわる体系が築かれてはいますが、タントラのサーダナとは手法が異なります。 ハタ・ヨガでは、肉体を整え、ナディを浄化し、プラーナを統御することで、クンダリーニを上昇させます。身体を用 いる様々なポーズ、ヨガ・アーサナにより、神経系全体を高め意識下におきます。バンダやムドラーでは、プラーナを 統御し、その活動を規則化したり、さえぎり封じたりします。また様々なクリヤで体内の器官を浄め、さらにはプラー ナーヤマで心をも統制下におきます。これらの手法を組み合わせ、クンダリーニをサハスラーラへと上昇させます。 3.ラージャ・ヨガ ラージャ・ヨガでは、クンダリーニには言及しませんが、より精妙かつ高次の道、哲学的で理性的な道が示され、ヨ ガの徒は、心を統制し、五感のすべてをおさめ、瞑想に専念します。ハタ・ヨガとは異なり、ラージャ・ヨガは整然と した秘技体系であり、八肢(八段階・八分野)にわたる技術が説かれ、ヨガの徒の知性と心に訴えかけます。ヤーマ、 二ヤーマにより倫理道徳を培い、スワディヤーナ(聖典経典を学ぶ)により知識教養を向上させ、創造主の意思に自ら をゆだねる歓びにより感情と信仰心を満たします。さらに、八肢にはプラーナーヤマの秘技がふくまれ、また「集中」 により準備を整えたのちには、絶対なる者のたゆまぬ瞑想へと進みます。ラージャ・ヨガでは、その哲学と手法いずれ においてもクンダリーニに言及されることはなく、むしろそれら哲学および手法は、「チッタ(心)」を滅すためのもの とされます。チッタこそが、魂の本質を忘れさせ、誕生と死をもたらし、万象内に存在することにまつわる苦しみをも たらすとされるためです。 4.ヴェーダンタ しかし、ヴェーダンタ哲学においては、クンダリーニについても、様々な秘技体系や手法についても論じることはあ りません。問いと哲学的な思索がそのすべてとなります。ヴェーダンタ哲学では、滅すべきは人の本質についての「無 知」であり、この無知は、学究、プラーナーヤマ、行い、身体のポーズのいずれを実践しようと消失するものではなく、 「サット・チット・アーナンダ(存在・叡智・絶対なる至福)」という自らの本質を知ることでのみ消失します。人は、 神性であり、自由であり、至上の主とたゆまずひとつです。それを忘れ、魂に投影された幻の姿形である肉体を、自分 と同一視しています。解放の境地とは、この無知から解き放たれることであり、霊性の徒は、あらゆる制約制限からた えず自己を切りはなし、ブラフマンの遍在性、一元、至福、平安、ひとつなる魂こそが自分であるとするよう、助言さ れます。瞑想が深まりゆき、 「存在」という大海では、個としての存在性は完全に吹きとびます。熱したフライパンに一 滴の水が落ちれば、あっという間に蒸発し消えてなくなるように、「個としての意識」は「普遍の意識」に吸いこまれ、 すっかり没入します。ヴェーダンタ哲学では、多様においての真の解放はありえず、完全なる一体性が最終目標であり、 全創造はゆっくりとそちらへむかい進んでいます。 13 =クンダリーニとプラーナーヤマ= 1.鼻孔の交換 この修養を行うときには、クンダリーニの宿る三角形のセンター、脊椎の基底部のムーラダーラ・チャクラ(1)に 意識を集中します。 ・右の鼻孔を右手の親指でふさぎます。 ・左の鼻孔より、 「OM」をゆっくり三回唱える長さで、息を吸いこみます。 このとき、周辺の空気からプラーナを吸いこんでいるのだと心にとめます。 ・次に、右手の薬指と小指で、左の鼻孔をふさぎます。 「OM」一二回分の長さの間息を止め、脊椎をつうじプラーナをムーラダーラ・チャクラ、 三角形の蓮の花へとまっすぐ送りこみます。 神経系がこの蓮を刺激し、クンダリーニを目覚めさせるのだと心にとめます。 ・右の鼻孔から、 「OM」六回分の長さで、ゆっくり息を吐きだします。 ・このプロセスを、同じ手順で、同じように心にとめ、今度は右の鼻孔からくり返します。 このプラーナーヤマは、クンダリーニを急速に目覚めさせます。この一セットを、朝三回、夜三回行います。自分の 力量に十分注意しながら、朝晩それぞれの回数をじょじょに増やしていきます。ここで大切なのは、ムーラダーラ・チ ャクラに意識を集中させることです。集中力を高め、規則正しく実践するなら、クンダリーニは急速に目覚めます。 2.イメージ瞑想 このプラーナーヤマでは、プラカ(吸気)、クンバカ(停止)、レチャカ(呼気)の長さや割合に気を配るより、バー ヴァナ(イメージすること)に重点をおきます。 ・パドマ・アーサナ、もしくはシッダ・アーサナで、東もしくは北に面して座ります。 ・心の中でサットグルの蓮華の御足に頭を垂れ、神やグルを讃えるストートラを唱え、 次のプラーナーヤマをはじめます。 ・雑音をたてずに、深く息を吸いこみます。 息を吸いながら、ムーラダーラ・チャクラ(1)で眠るクンダリーニが目覚め、各チャクラを上昇するのをイメージ します。 呼気の終わりには、クンダリーニがサハスラーラ(7)にたどりついたイメージをします。 このとき、チャクラからチャクラへと上昇していくイメージが鮮明に描けるようになるほどに、 このサーダナも向上します。 ・息を止め、プラナヴァ(「OM」 ) 、もしくはイシュタ・マントラ(自分のマントラ)をくり返します。 聖母神クンダリーニの恩寵により、魂を包みこむ無知の暗闇が払われていくのをイメージします。 心身魂が、光、力、叡智で満たされていくのをイメージします。 ・ゆっくり息を吐きだします。 14 息を吐きながら、クンダリーニ・シャクティがサハスラーラから各チャクラを通り、 ムーラダーラに降りていくのをイメージします。 ・ここまでをくり返します。 このプラーナーヤマのすばらしさははかり知れません。迅速に成就へと至る魔法の杖です。数日行うだけでも、その めざましさ、輝かしさを体験することでしょう。さあ、今日から、今から、行いましょう。 神の歓び、至福、永遠という恩寵がありますように。 15 イントロダクション ───クンダリーニ・ヨガ =ヨガとは= 「ヨガ(YOGA)」という言葉は、語幹「Yuj」に由来し、「結びつける」という意味です。霊性についていえば、「人 の魂(human spirt) 」を「神の魂(Divine Spirit) 」に近づけ意識的に合一させる、つまり「神の魂」に溶解させるプ ロセスです。 人の魂は、その性質上、「神の魂」と分かたれているか(ドワイタ、ヴィシュタドワイタ)、ひとつであるか(アドワ イタ)であり、ヴェーダンタ哲学では、後者(アドワイタ)の命題をよしとします。ヨガとは、ヨギつまりヨガの実践 者が、二者(ジーヴァートマンとパラマートマン)が同一であることを───実際のところ、つねに同一である─── 真に知るプロセスです。このことは、心と物質として自らその叡智を曇らせているマーヤー(幻惑)のヴェールを魂が つらぬきとおすことで理解されます。それをなしとげる手段が、ジーヴァ(個の魂)を、マーヤーから解放するヨガの プロセスです。『ゲーランダ・サンヒター』は言います。「マーヤーのくびきほど強力なものはなく、そのくびきをうち 砕くヨガ以上に強力なものはない」アドワイタ、つまり一元論からいえば、ヨガを「最終的な合一」とするのは、 「合一」 それ自体に神の魂と人の魂の二元性が示唆されるためふさわしいものでなく、そのような場合は、ヨガは「結果」でな く結果に至る「プロセス」であるものとして解説されます。二者(神の魂と人の魂)を別のものとする場合においては、 「結果」 「プロセス」いずれをもふさわしいものとします。 ヨガを実践する人を「ヨギ」といいます。誰もがヨガに適するものでなく、ごくわずかの人に適します。今生もしく は過去世で、行いの結実に執着することなく、カルマつまり無私の行いをし、また儀式供儀を遵守する、またはウパサ ナつまり献身崇拝をすることにより、清らかな心(チッタシュッディ)を手にしていなければなりません。これは、不 純な性欲から解放されるというだけのことではありません。その他の性質にもすでに達していることが、サーダナの初 歩、ABC です。そうした清らかな心に達していようと、それで完全にヨガに適すとはいえません。チッタシュッディと は、あらゆる倫理道徳のみならず、叡智、無執着、純粋な知性、集中、瞑想、その他で成りたちます。 カルマ・ヨガやウパサナで清らかな心に達している、またはジュナーナ・ヨガの場合には、この世とこの世の欲望に ひかれず無執着である、そのときヨガの道が究極真理への扉を開きます。ごくわずかの人のみが、高度なヨガに適しま す。多くの人々は、カルマ・ヨガ(行いの道) 、バクティ・ヨガ(親愛の道)での前進向上を求むることです。 =ヨガそれぞれの道= ヨガには四つの主要な道があり、ある学派は、それぞれマントラ・ヨガ、ハタ・ヨガ、ラーヤ・ヨガ、ラージャ・ヨ ガと呼びます。クンダリーニ・ヨガは、実のところラーヤ・ヨガのことです。五つに分類される場合には、ジュナーナ・ ヨガ、ラージャ・ヨガ、ラーヤ・ヨガ、ハタ・ヨガ、マントラ・ヨガであり、これは霊性の五つの理想───ダルマ、 クリヤ、バーヴァ、ジュナーナ、ヨガ───にもとづき、またマントラ・ヨガは、クリヤの道とバーヴァの道の二つか らなるとされます。 16 ヨガのサーダナには七つあり、サット・カルマ(a)、アーサナ(b) 、ムドラー(c) 、プラティヤハーラ(d) 、プラー ナーヤマ(e) 、ディヤーナ(f) 、サマディー(g)で、ぞれぞれ、肉体の浄化(a) 、ヨガを目的とした座やポーズ(b、c) 、 対象からの五感の撤退(d) 、呼吸の統制(e) 、瞑想(f) 、忘我法悦(g)のことです。不完全な(サヴィカルパ)サマデ ィは、完全には二元の克服がなされないもの、完全な(ニルヴィカルパ)サマディは、完全なる一元の体験です。後者 のニルヴィカルパ・サマディは、マハーバーキャ「アハム・ブラフマースミ」を悟ることであり、解脱(モクシャ)を もたらす観察されうる叡智でなく、解脱そのものである叡智を言います。ラーヤ・ヨガのサマディは、サヴィカルパサ マディであり、完全なるラージャ・ヨガのサマディが、ニルヴィカルパ・サマディであるとされます。上記七つのうち、 先の四つが身体にまつわるものであり、残りの三つが意識、超意識にまつわるものです。これら七つのサーダナにより、 それぞれ特定の資質───純粋さ(Sodhana・a) 、堅牢さ(Dridhata・b) 、不屈の忍耐(Sthirata・c) 、着実さ(Dhairya・ d)、軽快さ(Laghava・e) 、覚醒(Pratyaksha・f) 、モクシャへと導く無執着(Nirliptatva・g)───に達します。 八肢のヨガ(アシュターンガ・ヨガ)として知られるものは、上記のうち五つのサーダナ(アーサナ、プラーナーヤ マ、プラティヤハーラ、ディヤーナ、サマディ) 、および次の三つをふくめます。ヤーマ───統制、節制、非暴力(ア ヒムサ) 、ニヤーマ───神への献身(イーシュワラ・プラニダーナ)とともになされる宗教上の遵守や慈善行為、ダー ラーナ───ヨガの修養にそって体内器官を対象に集中させること。 =人体という小宇宙= 人の肉体は「小宇宙(クシェドラ・ブラフマーンダ) 」です。外の世界にある「大宇宙」が、人の内に存在します。あ らゆる「タットヴァ」、あらゆる「界」が内にあり、「至上のシヴァ・シャクティ」が内にあります。人体は大きく二つ の部位に分かれます───頭および胴体と、両足の二つです。人の場合、肉体の中心はこの二つの間、足ののびはじめ るところ、脊椎の基底部にあり、胴体および全身を支えているのが脊椎です。この世の中心がメル山であるのとまった く同じく、人体の中心は脊椎です。このことより、脊椎を「メルダンダ」 、メル山、軸の杖ということがあります。白質 と灰白質から成る脊椎のある胴体に比べれば、両手両足にはさほどの意識がありません。胴体もまた、白質と灰白質か ら成る脳、心理機能をそなえる脳に従属します。脳と脊椎の白質と灰白質は、それぞれ位置が逆になっています。 胴体と中心(脊椎基底部)から下の両足は、大宇宙のエネルギーつまりシャクティに維持される、より低位の七つの 界です。中心から上には脊髄と脳のセンターがあり、意識もより自由に表されます。その間に七つの界、 「ローカ」があ ります。 「ローカ」とは、 「見ることのできるもの(ローキャンテ) 」の意、つまり体験されうるものであり、何らかの形 で誕生したカルマの結実です。七つの界は、ブー(Bhuh)、ブハワ(Bhuvah)、スワハ(Svah)、タパ(Tapa)、ジャ ナ(Jana)、マハー(Maha)、サティヤ(Satya)と呼ばれ、六つのセンター(チャクラ)に結びつきます───五つ までが胴体、六つめが大脳下部で、大脳上部の七つめには「至上のシヴァ・シャクティ」が宿ります。 六つのセンターは、それぞれ、脊椎基底部、外性器と肛門の間、会陰のムーラダーラ・チャクラ(1) 、少し上の生殖 器官のスワーディシュターナ(・チャクラ 以下同)(2) 、腹部のマニプーラ(3)、みぞおちのアナーハタ(4)、胸 からのどのヴィシュッダ(5)、眉間のアージュナ(6)といわれるチャクラ、「蓮」です。経典によっては、ララナ、 マーナサ、ソーマとよばれるチャクラも記されますが、この六つが中心的なセンターです。これらチャクラを超えた七 つめの界は大脳上部で、肉体の内で最上の意識が表されるセンター、つまり「至上のシヴァ・シャクティ」の宿るとこ ろです。 17 「宿る」とは、何か物をおくときのように、そこにある、そこにあるから他にない、というものではありません! 「至 上の主」とは、場所ではなく、形でもありません。肉体の内と外、至るところに存在しますが、人がシヴァ・シャクテ ィを知るのがサハスラーラ(7)であることから、そこにあるものとされます。このことは、意識がより高次の意識、 サットヴァマーイー・ブッディに入り過ぎゆくことで知れることであり、さらにはそれを超え、チットとチドルーピニ・ シャクティそのものとなります。 このシヴァ・シャクティのタットヴァから「意識」が派生し、ブッディ、アハンカーラ、マナス、感覚器官(インド リヤ)となり、そのセンターはアージュナ・チャクラ(6)からサハスラーラ(7)までの間にあります。アハンカー ラがタンマートラ、一般にいう五感となり、さらに五元素(ブータ)───「アーカーシャ(エーテル) 」、 「ヴァーユ(空) 」、 「アグニ(火)」 、 「アパ(水) 」 、 「プリティヴィ(地) 」───に展開します。英語でいう元素、 「air(空)」 、 「fire(火) 」 、 「water(水)」 、 「earth(地) 」と、ブータでいう元素は、同じことを示すものではありません。五つのブータは、エー テル体から固体までの物質の段階を示します。たとえば、 「プリティヴィ(地) 」は、プリティヴィの様態の物質すべて、 つまり嗅覚のインドリヤで知覚されるもののことです。 意識と物質は全身にいきわたります。しかし、それらを統御するセンターがあります。アージュナ・チャクラ(6) が意識のセンター、より下位の五つのチャクラが五つのブータのセンター───ヴィシュッダ(5)-「アーカーシャ」 、 アナーハタ(4)-「ヴァーユ」 、マニプーラ(3)-「アグニ」 、スワーディシュターナ(2)-「アパ」 、ムーラダー ラ(1)-「プリティヴィ」───です。 端的にいえば、小宇宙である人は、 「普遍の魂」───サハスラーラ(7)で最も純粋なるものとして顕される─── であり、意識と物質の形をとったシャクティに乗る、意識のセンターは六番目のチャクラ、物質のセンターは以下五つ のチャクラである、といえます。 =六つのチャクラ= 六つのチャクラは、それぞれ神経叢にあるとされます。低位のものから、陰部神経叢(ムーラダーラ 叢(スワーディシュターナ 経叢(ヴィシュッダ 2) 、太陽神経叢および腰神経叢(マニプーラ 5)、二つの半球の小脳(アージュナ 1) 、仙骨神経 3) 、心臓神経叢(アナーハタ 4) 、頚神 6)、その上部、大脳中ほどのマナス・チャクラ、大脳上 部のサハスラーラ(7)になります。これら六つのチャクラは、脊髄の白質と灰白質にあり、生命力のセンターです。 各チャクラは、おそらくは、脊椎の六つのセンターそれぞれの周辺にある体内器官を統御するのであろうとされます。 各チャクラは、生命エネルギー(プラーナ)として顕されたシャクティのセンターです。言いかえれば、各チャクラは、 生ける肉体のうちのプラーナヴァーユがプラーナシャクティとなったもののセンター、 「遍在意識」がそれぞれのチャク ラの形をとり、デーヴァターとして宿るセンターということです。 チャクラは粗雑な五感で認識されるものではありません。たとえ生ける肉体の内で認識され整えうるものであるにし ても、死により有機体が分解されれば消失します。検死解剖で脊椎にチャクラが見あたらないことから、そもそもチャ クラなど存在しない、想像力豊かな脳のつくりごとだという人もいます。そうしたとらえ方は、いくつもの死体を解剖 したのち、なお「魂」など発見されなかったという医師らの姿勢にも通ずるでしょう。 18 「蓮」の花弁は、ムーラダーラ(1)からアージュナ(6)まで、四枚(1) 、六枚(2) 、一〇枚(3) 、一二枚(4) 、 一六枚(5) 、二枚(6)とそれぞれ異なります。全部で五〇枚となり、それぞれの花弁には五〇のアルファベット(デ ーヴァナーガリー)が示され、つまりマートリカー(女神)とタットヴァ(要素)が結びつけられます。このことは、 マートリカーもタットヴァも、同一の創造のプロセスが、生理機能もしくは心理機能として表されたものであるためで す。ここで、花弁の数が、アルファベットの「Ksha」、 「La」をのぞいた五〇であること、また五〇に二〇をかけると、 サハスラーラの花弁の数、一〇〇〇になり、 「無限大」を示すことにふれておきます。 しかし、なぜ花弁の数が異なるのでしょう。たとえば、ムーラダーラ(1)は四枚、スワーディシュターナ(2)は 六枚です。これは、各チャクラの花弁の枚数が、それぞれのチャクラ周辺のナーディ、つまりヨガでいう神経の数を示 すためです。ムーラダーラ(1)のナーディは四つであるため、四枚の花弁の蓮として示されており、各チャクラも同 様に示されます。この「ナーディ」は「ヴァイディヤ」───物理的な身体の神経───のことでなく、ヨガでいうナ ーディ、プラーナの流れる精妙な経路(ヴィヴァラ)のことです。「ナーディ(Nadi)」という言葉は、「動き」の意の 語幹「Nad」に由来します。人体は無数のナーディに満たされます。目に見えたなら、肉体はきわめて複雑な海の海流 図のように見えることでしょう。表面上、海面全体は同一のもののように見えますが、調べてみると、あらゆる方向に あらゆる力の強さで動いています。これらの「蓮」がすべて脊椎に位置します。 「メルダンダ」は脊椎のことです。西洋の解剖学は、脊椎を五つの部位(頸椎、胸椎、腰椎、仙椎、尾椎)に分けて います。解剖学上の理論が、五つのチャクラの位置に対応するのは、特筆すべきところです。脊椎のシステムは、頭部 の大脳をふくめ(ララナ、アージュナ、マナス、ソーマ、サハスラーラのチャクラがある) 、頸椎から腰椎へと下り、 「終 糸」とよばれる繊維質につながります。脊椎には大脳の白質、灰白質から成る脊髄が通っています。かつて終糸はただ の繊維であると考えられており、そこにムーラダーラ・チャクラ(1)やクンダリーニ・シャクティがあるとは思われ ていませんでした。しかし、近年のより詳細な研究から、終糸にも高感度の灰白質が存在することが判明し、そこがム ーラダーラの位置とされます。西洋医学では、脊髄は感覚や意志を周辺に伝達するばかりでなく、独立したセンター、 もしくはセンターの集合であるものとします。 スシュムナーは、脊椎にあるナーディで、ブラフマ・ドワラ(ブラフマンの門)から発しています。チャクラと生理 学の関連をいうならば、ムーラダーラ・チャクラ(1)より上の四つのチャクラが、生殖排泄(2)、消化(3)、心臓 (4) 、呼吸(5)に関わるとされ、アージュナ(6)は大脳の様々な活動、サハスラーラ(7)はヨガをつうじて到達 される「純粋意識」の宿るところとされます。イダーとピンガラーのナーディは、脊椎左右にある交感神経で、アージ ュナでスシュムナーと合流し、トリヴェニと呼ばれる三つのナーディの結び目になります。これはメドゥラーにあると され、イダーとピンガラーがひとつになる、またはここから二つになる場所です。この二つのナーディと、アージュナ の二つの花弁、さらにスシュムナーがひとつになる様を、ヘルメスの使者の杖の形で表す人もいます。 =クンダリーニ・ヨガとディヤーナ・ヨガ= クンダリーニ・シャクティの上昇、シャクティとシヴァの合一は、どのような忘我法悦(サマディー)と、霊性の体 験をもたらすのでしょう。 19 まず、ヨガには大きな二つの流れがあります。ディヤーナ(バーヴァナ) ・ヨガと、クンダリーニ・ヨガです。この二 つには明確な違いがあります。ディヤーナ・ヨガでは、瞑想という知性のプロセス(クリヤ・ジュナーナ)を中心に、 マントラ・ヨガ、ハタ・ヨガ(クンダリーニの上昇はふくめない)を補足とし、この世への無執着を培い、忘我法悦(サ マディー)に達します。一方、ハタ・ヨガの一部であるクンダリーニ・ヨガは、知性のプロセスを排除しないものの、 全身にいきわたるシャクティの創造維持の力と「至上の意識」とが、実際に合一します。このヨガの修養者は、シャク ティによりシャクティの主のもとへと導かれ、合一の至福を享受します。シャクティを上昇させるのはヨギですが、叡 智(ジュナーナ)を授けるのは叡智そのものであるシャクティです。ディヤーナ・ヨガでは、ヨギは瞑想により至上の 境地に至りますが、身体の根源的なエネルギーをつうじてシヴァと合一する歓びを知ることはありません。二つのヨガ は手法も結実も異なります。ハタ・ヨギはハタ・ヨガとその結実が最上であるとし、同様に、ジュナーナ・ヨギはジュ ナーナ・ヨガとその結実を最上とします。 クンダリーニは広く知られ、多くの人が知りたいと求めます。クンダリーニ・ヨガの理論を学んだ人は思います── ─「これでなくとも、解放に至ることはできるのだろうか」 。その答えは、 「何を求めるかによります」 。クンダリーニを 上昇させ、シャクティをつうじた合一の享受、それにともなう各種能力(シッディ)をえたいのであるなら、その目標 は、唯一クンダリーニ・ヨガでのみ到達されるものです。しかし、リスクも生じます。クンダリーニによる合一は欲せ ず解放を求めるなら、このヨガは必須ではありません。純然たるジュナーナ・ヨガの無執着、瞑想、心の静けさにより、 肉体のエネルギーを上昇させずとも、解放に至ります。ジュナーナ・ヨギは、解放に至るのに、シヴァとの合一へとむ かうかわりに、この世から身を離し成就に至ります。前者は享受の道であり、後者は禁欲苦行の道です。また、バクテ ィの道、 (親愛の道、叡智への愛の道)でも、サマディに至ることができます。至上の親愛(パラ・バクティ)とは、事 実、神の叡智そのもののことです。 いずれの手法も「解放(ムクティ)」に至りますが、この二つの道(クンダリーニ・ヨガ、ディヤーナ・ヨガ)には、 にも違いがあります。ディヤーナ・ヨギは、自分というものが意識であり物質でもあり、それぞれが相互に影響しあう ことからも、身体を無視してしまってはいけません。身体を無視したり、身体の禁欲のみをすれば、真の霊性の体験で なく、混迷した妄想を生じることがあります。しかし、ディヤーナ・ヨガでは、ハタ・ヨガほどには身体を気にかけま せん。よって、解放に至ったディヤーナ・ヨギでありながら、身体の健康をそこね、病気になり、寿命が短くなること もありえます。死の時を決定するのは自分でなく身体であり、自らの意志で死ぬことはできません。サマディーにあっ ても、クンダリーニ・シャクティはムーラダーラ(1)で眠ったままであり、その場合は、クンダリーニの上昇にとも なう身体の徴候、幸福の体感、各種能力(シッディ) 、いずれも見られません。ディヤーナ・ヨガで「生きながらの解放 (ジーヴァンムクティ) 」と呼ばれるものは、真の解放とはいえません。なお肉体の苦しみにさらされ、死ぬことでのみ 完全な解放に至ります。ディヤーナ・ヨギの忘我法悦は瞑想によるものであり、 「空(バーヴァナ・サマディ) 」に入り、 あらゆる思考(チッタ・ブリティ)を否定し、この世を離れることによるものです。積極的に身体のエネルギーを上昇 させることのない、いわば消極的なプロセスであるといえます。クンダリーニがプラクリティ・シャクティとして生じ る心と、心の欲望を、自らの力をつくして静め、心の働きにより生じたヴェールを意識からとりのぞきます。一方、ク ンダリーニ・ヨガでは、クンダリーニをヨギが上昇させることで、シャクティがヨギに光明をもたらします。 =シャクティ 森羅万象= しかしなぜ、まれなるリスクと困難がともなうのに、身体とそのエネルギーをとりあつかうのでしょう。答えはすで 20 に示されました。叡智そのものであるこのエネルギー(ジュナーナルーパ・スワルーパ)をつうじての覚醒、それにと もなう各種能力(シッディ)の獲得、最終的な歓喜が、確実にして完全なものであるからです。 究極真理というものが、 「セルフ」の活動なき歓びと、あらゆる形や対象にまつわる活動的な歓び、この二つの相の両 者に存在する「唯一なる者」であるならば、真理との完全なる合一には、この二相の完全なる合一が要されます。これ は、この世(イーハ)でもあの世(アムルタ)でも、そうあるべきものです。それが正しく理解され実践されたときに は、人はいずれの世であれ最善をつくすべきである、との教えが真実となります。具象にまつわる普遍の原理に一致し た行いがなされるかぎりにおいて、実質上、この二つの世に矛盾はありません。この世の幸福とは、歓びの不在にある、 苦しみと禁欲の追求のみにあるという教えは、誤りであるといわれます。至上の至福の体験も、苦痛と快楽の混じりあ う一生を送る人の姿形も、唯一なるシヴァ神です。人のあらゆる行いにこのシヴァ神が見いだされるなら、この世での 幸福、この世とあの世での解放の至福、いずれも到達されうるものです。これは、人のあらゆる行い働きを、例外なく、 供儀と崇拝の宗教的行い(ヤジナ)にすることでなされます。 太古アーリヤの儀式では、食べもの飲みものの歓びには、まず儀式や供儀が行われました。その歓びは供儀の結実で あり、デーヴァたちからの贈りものでした。より高邁なサダカの段階においては、この供儀は、あらゆる贈りものの源 であり、またより制約のある神々の姿をもとる唯一神に捧げられます。しかしここには、最高次の一元(アドヴァイタ) のサーダナにはない、二元性がふくまれます。一元のサーダナでは、個の魂とこの世での暮らしは、ひとつであるもの とされます。よってサダカは、食べ、飲み、また身体のその他の自然な活動を、いわば「シヴォーハム(シヴァと私は ひとつ) 」として行います。行いと歓びは、たんに分かたれた個のものでなく、個をつうじて行うのはシヴァ神です。そ のように解する人は、自らの人生、人生のあらゆる行いとは、分かたれた個の利己心により行われ追求されるもの、分 かたれた意識で分かたれた個の力により、盗むようになされるものとはしない、とされてきました。人生や人生のあら ゆる行いは、人の姿をとり、人を介して働く森羅万象(シャクティ)のうちの、神の行いの一部であるとされます。自 らの心臓の鼓動に、万象に脈打つ律動を見いだし、遍在する命の歌を聞きます。 身体の要求を無視し否定し、また何か神聖ではないと思うのは、身体もその一部であるより大いなる生命を無視し否 定することです。万物はひとつであり、物質と魂とは究極的に同じものである、という偉大な教えをゆがめることです。 肉体はシャクティであり、肉体が要するのはシャクティが要することです。人が歓びを享受するとき、人をつうじシャ クティが享受します。人が目にし行うすべては、聖母神が見て働くことです。人の目も人の耳も、聖母神の目と耳です。 全身とその働きのすべてが聖母神の具現です。聖母神をあますことなくそのように理解することで、聖母神そのもので あるこの万象が完成されます。自らを修めようと求むる人は、肉体、精神、魂すべてのレベルを、いずれも切りはなす ことなく修めます。それぞれが関わりあい、 「遍在する唯一なる意識」の異なる相であるにすぎないからです。 どちらの人がより神性でしょう───霊性のすぐれた境地を幻想し、心と体を無視してはねのける人と、いずれも「唯 一なる神」のとる姿形であるものとして、正しく手入れする人と。すべての存在、すべての活動に神を見いだし、また 神であるものとし、そこから、霊性にそぐわぬもの、幻惑幻想、行く道の障害を識別し、脇にのけてのがれるならば、 より迅速に、より確実に、覚醒に到達します。それが正しく理解されないなら、障害となり堕落の原因ともなりますが、 正しく理解されたなら、成就への手段となります。それ以外に何が残るでしょう。 行いにおいて奮闘し、心(バーヴァ)とともになされるなら、行いが歓びとなり、バーヴァを継続することで、つい には神の体験(タットヴァ・ジュナーナ)、「解放」がもたらされます。万物万象に聖母神を見るとき、すべてを超える 21 聖母神をも悟ります。 これら一般原理は、ヨガの道に入る前、この世の暮らしにも適用されます。またここに記されるヨガもまた、これと 同じ一般原理の適用です。よってそこから、ブクティとムクティ(歓びと解放)両者に至るものとされます。 =ハタ・ヨガの完全性とリスク= ハタ・ヨガの初期段階として、完全な肉体に達する努力をします。完全なる肉体は、心の機能を働かせるにふさわし い手段となります。さらには、完全に働く心により、サマディへと近づき、 「純粋意識」そのものへと達します。よって、 ハタ・ヨギは、鋼のように健康で、不調のない、長寿をもたらす肉体を求めます。肉体を修める者は生と死をも修め、 輝かしい身体は若々しい活力を享受します。生きようと意志する間生き、姿形のあるこの世を享受します。意志による 死(イッチャ・ムルティ)のときには、すばらしき、めざましき、「偉大なる印(サンハラ・ムドラー)」をとり、崇高 に旅立ちます。 しかし、ハタ・ヨギであれ、病を患い死ぬこともあるといえましょう。第一に、完全なる統御には困難とリスクがと もない、有能なグルの導きのもとでのみ可能であるためです。導きもなく、修養も身を結ばなければ、病気になるばか りか死に至ることもあります。 「死の神」にもうち勝とうと求むる者は、この神によりさらに迅速に成就へとむかうこの 道で、リスクや失敗をもともないます。失敗した人は、通常の体の弱さばかりか、誤った修養や、自分に適さなかった 修養から、その他の困難をも生じます。 成功の度合いもまた様々です。神聖な年齢とされる八四才、または一〇〇才かそれ以上、寿命ののびることもあるで しょう。理論上、「成就に至った者(シッダ)」は、少なくとも、自らの意志で肉体を去ることができるといわれます。 誰もが同じ技量と機会───意志の力、肉体の強さ、環境など───をえているわけではありません。また、成就に至 るに要される厳しい決まりに、すべての人が喜んで続くものでもなければ、また続くことができるものでもありません。 さらには、一般に言って、現代の生活様式は物質文化であり、その機会をえるのも難しくなります。あらゆる人がそう した生き方を欲するものでも、あえてこの成就の道に参与しようとするものでもありません。 よってそこから、 「解放」に至るほうが、 「不死」にいたるよりやさしい、と言われるのです! 解放には、無私の心、 この世への無執着、倫理道徳、感情の統制により至ることもできますが、死を克服するのはさらに困難であり、先のふ るまいの規範のみでは不可能なことです。実際に死をも克服した人は、一方の手のひらに命をのせ、成就に至ったヨギ (シッダ)であるなら、もう一方の手には解放をのせます───生命の享受、魂の解放、両者を手にします。この世を 修める王者にして、あらゆる界をも超える至福の所有者です。ハタ・ヨギが、あらゆるサーダナをハタ・ヨガに劣るも のと主張するゆえんです。 ハタ・ヨギは、ラーヤ・ヨガのサーダナ、つまりクンダリーニ・ヨガをつうじ「解放」に至る修養を行います。クン ダリーニを上昇させたチャクラそれぞれの幸福を体験し、それぞれの特殊能力を獲得します。大脳のセンター(7)ま で上昇すると、 「解放」そのものである至上の幸福を享受し、それが確かに永続するならば、魂と肉体とがゆるむ「解放 そのもの」となります。 22 =シャクティの二極= エネルギー(シャクティ)それ自体が二極化します───潜在性の「静」のエネルギー(クンダリーニ)と、 「動」の エネルギー(プラーナとして働く身体エネルギー)です。あらゆる活動の背後に「静」があります。身体のうちの「静」 のセンターは、ムーラダーラ(1)の中心の、蛇のエネルギーです。全身および全身でくまなく働くプラーナのエネル ギーを静的に支えるエネルギー(アーダーラ)です。この中心的な(ケンドラ)エネルギーは、チットつまり「純粋意 識」が粗雑な形をとったものです。つまり、このエネルギーそれ自体(スワルーパ)のうちに「意識」があり、この「意 識」が形をとったものが、最高次のエネルギーとして顕されます。 静的な至上の「意識」と、その活動のエネルギー(シャクティ)が、 (そもそも同一のものでありながら)異なるもの であるのとまったく同じく、 「意識」がエネルギー(シャクティ)の形をとるさい、シャクティそれ自体が、潜在性のエ ネルギーと活動性のエネルギーの二面相をそなえます。真理において違いはありません。成就に至ったシッダの目には、 形をとるプロセスは帰結(アディヤーサ)ですが、より低き領域でなお力をつくす渦中にあり、自らを様々な領域と同 一視する魂においては、このプロセスは形の「出現」であり、出現した形は実在します。 クンダリーニ・ヨガは、ヴェーダンタ哲学を現実的な視点で表したものであり、この世というものの展開を、 「意識」 それ自体のうちの二極化であるものとします。ヨガでは、身体意識の均衡をかき乱す、身体のうちの二極性、身体とい う二極性を消失させます。この身体意識は二極が保持された結果です。人の身体、潜在の極にある至上のエネルギーが かきたてられ、それに支えられる動的エネルギー(動的シャクティ)がそこにひきこまれ、それらすべてが上昇の動き となり、 「至上の蓮」 (7)で活動なき「意識」と合一します。 シャクティは二極化されます───「静」と「動」です。この二極性は、いわば「純粋意識」と、それにまつわる作 用、圧力の二極として、心の状態、体験にあらわに反映されます。つまり、この圧力、シャクティが、制約のないエー テルとしての「純粋意識」───チダーカーサ───のうちで、無数の形をとり無限に変化します。こうした分析から、 シャクティもまた、 「静」と「動」に二極化することが示されます。この二極性は、最初期のものであり、絶対性に近い ものではありますが、純粋なるチットでないかぎりにおいては、絶対的な静止ではないと心にとめおきます。森羅万象 のエネルギーは、絶対でなく、相対のうちでの均衡にあります。 次に、心の領域から、物質の領域に進みましょう。現代科学でいう「原子」は、物質をそれ以上切り分けられない単 位とする、という意味においては、もはや原子ではなくなりました。電子の理論によれば、原子は私たちのいる太陽系 の縮図です。原子核は陽性(+)の電気をおび、その周囲を陰性(-)の電気をおびた電子が円を描きまわります。陽 性の電気質は、原子がエネルギーの均衡状態にあるよう互いに制御しあっており、通常は崩壊しないよう保たれていま す。もちろん、あらゆる物質の性質として、消失のときには崩壊します。これは、ラジウムの放射能にはっきり示され ます。よって、ここでもふたたび、中心にある陽性の電気質が「静止」にあり、陰性の電気室が中心の周囲をまわると いう「活動」にあります。 このことから、この原子の理論が宇宙全体に適用されるものとします。太陽の周囲を惑星がまわっており、つまり、 おそらくは(全体として) 、相対的に「静止」した中心の周囲で「活動」する物質がこの宇宙の体系であり、その核心は ブラフマ・ビンドゥー、完全なる「静止」に達するものであり、そこからあらゆる物質が展開し維持される、というこ とになります。 23 同様に、生ける肉体の細胞でも、活動のエネルギーは二極化されます───同化作用と異化作用です。一方が細胞に 変化をもたらし、一方が維持しています。細胞は、この二つの作用が同時に存在し同時に活動する、その単純な結果で す。 簡潔にまとめるならば、シャクティは形をとるさい、それ自体で二極───「静」と「動」───に分かれます。つ まり、磁石の二極のように、 「静」のエネルギーなくして「動」のエネルギーはありえません。エネルギーがどの領域で 活動するのであれ、その背景には「静」があるという万象の原理により、静的な、「とぐろを巻いた」、シャクティがあ ることになります。この科学的真理は、女神カーリーの肖像にも描かれ、動的エネルギーである聖母神が、活動なき純 粋なるチット、 「静」の背景であるサダーシヴァの胸に立って活動し、聖母神グナマイーは完全なる活動にあることにな ります。 =シャクティの活動と休止= =シャクティの活動と休止= 「大宇宙のシャクティ(マハークンダリーニ) 」は、集合(サマシュティ)としてのものであり、それと相対して、特 定の個の身体のクンダリーニは、個(ヴァシュティ)のクンダリーニ・シャクティです。先にも述べたとおり、人体は 小宇宙(クシェドラブラフマーンダ)です。つまり、生ける肉体にも、先に言及したのと同じ二極があります。 シャクティの至上の姿は「静止」の状態にあり、とぐろを巻き、シヴァ・ビンドゥとの合一(チドルーピニ)にあり ます。そこから、とぐろをゆるめ具現に入ります。このとき、クンダリーニ・ヨガで言われる三重のとぐろは三つのグ ナであり、三重半の場合には、プラクリティと三つのグナを合わせたヴィクリティになります。また、五〇重であるな ら、 (デーヴァナーガリーの)アルファベットです。とぐろが解けるにつれ、シャクティから、ヴァルナの母胎であるタ ットヴァとマートリカーが生じます。活動はさらに続き、シャクティ自らが生じたタットヴァのうちでさらに活動しま す。 「ジャガット(あらゆる世界) 」というサンスクリット語には、 「活動する」の意がふくまれます。よって、シャクテ ィの活動は、最後のタットヴァ、 「プリティヴィ(地) 」に展開するまで創造を続けます。 まず心を生じ、それから物質を生じます。物質は密度を増していきます。マハーブータ(五元素)とは、現代の科学 でいう密度であるともいわれます───「空気」は、重力の最大速度の密度、「火」は光速の密度、「水」つまり液体は 分子速度の密度、 「地」はニュートン理論でいう音速の密度です。いずれにせよ、それぞれのブータが、物質が固体にな るまでの密度の度合いを示しているのは明らかでしょう。シャクティは、最後の「プリティヴィ・タットヴァ(地) 」を 生じたなら、それ以上にすることがあるでしょうか。何もありません。よってシャクティは、再び休止します。 「休止」 とは、ここでふたたびふれますが、 「静」であるということです。 かといって、シャクティは尽きてしまうのでなく、つまりは、いずれの形でもない状態になります。この時点のクン ダリーニ・シャクティは、いわば、 (完全ではあるものの)プリティヴィの残りであり、ブータの最終ということになり ます。つまり、マハークンダリーニが、チドルーピニ・シャクティとして、サハスラーラ(7)で絶対なる休止にある ことになります。相対として「静」であるクンダリーニは休止にあり、その周囲で全身のエネルギーが活動します。こ のエネルギーはシャクティであり、クンダリーニもまたシャクティです。その違いは、全身のエネルギーが、差異化さ れた、特定の姿形それぞれのシャクティであり、クンダリーニ・シャクティは、差異化されていない、残りのものとし 24 ての、休止にある、とぐろを巻いたシャクティです。クンダリーニは、ムーラダーラ(1)───「根底から支える」 の意であり、また、最後のタットヴァであるプリティヴィと、その残りとしてのクンダリーニの座───でとぐろを巻 きます。 つまるところ、人体は磁石の二極になぞらえることができます。ムーラダーラ(1)は、クンダリーニ・シャクティ の座としていうかぎりにおいて、相対的に、チットの粗雑な形(チット・シャクティおよびマーヤー・シャクティ)で あるものとして、「静」の極にあり、残る全身が「動」にあります。全身が活動するのに必須の前提であり、「静」であ る支えであることから、「ムーラダーラ」と呼ばれます。その意味においては、ムーラダーラの「静」のシャクティは、 創造的に活動する全身のシャクティを必須とします。 「動」の相、極は、それに相対するものとしての「静」なくしてあ りえません。表現を変えれば、 「静」のシャクティは、それら活動の残りものとしてのシャクティです。 =クンダリーニの上昇= それでは、このヨガの成就で何が起こるのでしょう。 「静」のシャクティが、プラーナーヤマその他のヨガの修養によ り「動」になります。完全に「動」となり、クンダリーニがサハスラーラ(7)で合一すると、身体の二極が消失しま す。二極がひとつに結ばれ、サマディと呼ばれる意識状態になります。もちろん、この二極は意識のうえでのことであ り、肉体は実際に観察しうる物質として存在しつづけ、有機体でありつづけます。しかし、修養者の意識についていう なら、心の活動が止み、心の諸機能もその源である至上の「意識」に撤退することから、身体の意識、この世の対象に まつわる意識も撤退します。 このとき、身体はどう維持されるのでしょう。第一に、クンダリーニ・シャクティは、人の全身、意識をもった有機 体全体の「静」の中心ですが、身体の各部分やそれらを構成する細胞には、その部分またはその細胞を支える独自の「静」 のセンターがあります。第二に、ヨギの理論では、クンダリーニが上昇したさいには、シヴァとシャクティのサハスラ ーラ(7)での合一により流れでる甘露が、全身を維持するものとします。この甘露は、合一により生じ発せられるエ ネルギーです。 「静」のクンダリーニ・シャクティは、そのすべてでなく一部が「動」になるものであり、シャクティは───ムー ラダーラ(1)にある状態であれ───無限であり、尽きることがありません。つねに潜在的な蓄えが保持されます。 「動」となったのは、 「静」のエネルギーの一部が別のエネルギーに変わったものです。しかし、ムーラダーラでとぐろ を巻いたエネルギーが完全にとぐろを解くと、三つの体───粗雑体、精妙体、原因体───は消失し、結果的に、ヴ ィデハ・ムクティ、肉体なき解放となります。理論上、何らかの形としての存在の背景である「静」のエネルギーが、 完全に消失するためです。シャクティが肉体から去ると、死体のように冷たくなりますが、これは、ムーラダーラの「静」 のエネルギーが尽きて消失するためでなく、通常全身に分配されていた「動」のエネルギー───「静」のクンダリー ニ・シャクティを背景とする「動」のエネルギー───が、五つのプラーナとして集中収束にむかうためです───全 身の細胞から撤退し、軸に集中していきます。 通常、この「動」のエネルギーは全身にいきわたるプラーナです。ヨガではそれが軸に集まりますが、 「静」のクンダ リーニ・シャクティは、いずれの場合も存続します。ヨガでは、すでに活動するプラーナの一部が、精妙な働きにより 脊椎の基底部で活性化し、それにより、基底部のセンターつまりムーラーダーラ(1)がいわば過剰の状態になります。 25 さらにそこから、全身に分配されていた「動」のエネルギー(プラーナ)すべてが細胞から撤退し、脊椎軸への集中が 生じます。 つまりヨガの視点でいうならば、上昇するのはシャクティのすべてではなく、凝縮された稲妻が発せられることであ り、ついにはそれが「パラマ・シヴァシュターナ(至上のシヴァ意識) 」に達します。個である人のこの世の意識を支え る「中心エネルギー(クンダリーニ)」が、「至上の意識」に溶解します。かぎりのある意識が、この世の様々な概念思 考をすぎ超え、万象の変遷の背後にある普遍の真理を、直観的にじかに知ります。クンダリーニ・シャクティがムーラ ダーラ(1)で眠るとき、人はこの世に目覚めており、クンダリーニが目覚め、至上の「静」の意識、シヴァに合一す るとき、この世の意識が眠りに落ち、万象万物の光とひとつになります。 主要な原理として、クンダリーニ・シャクティは、目覚め上昇するとき、この世の意識を支える「静」のエネルギー ではなくなります。この世の意識はクンダリーニが眠る間のみ支えられるものです。それが活動にはいると、シャクテ ィ自身である「千の花弁の蓮(サハスラーラ)」(7)───至上の「静」のセンター───へとひきよせられ、この世 の姿形を超え、シヴァ意識の忘我法悦に合一します。クンダリーニが眠る間、人はこの世に目覚め、クンダリーニが目 覚めると、人が眠ります───つまり、この世のあらゆる意識が失われ、自らの原因体に入ります。無形の意識へと超 えゆきます。 聖母神を讃えよう! 無限の恩寵、無限のエネルギーで、チャクラからチャクラへとサダカを導く。 知性を照らし、自らが至上のブラフマンとひとつであると悟らせる。 すべてに、聖母神の祝福がありますように! (序文 26 終了) 参照 ───原文・ウィキペディアなど ─── =脊椎= =6つのチャクラ= =6つのチャクラ= =プラーナと人体= プラーナと人体= 27 =チャクラ= 28
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