【証言】埼玉 服部道子 20131214 その後のくらし

【聞き取 り票 】
ヒロシマ・ナガサキを語り、受け継ごう
2013 年 12 月
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)
ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会
広島・長崎の被爆から間もなく 70 年を迎えようとしています。
この長い間、被爆者のみなさんは体と心に深い傷を負い、不安と苦しみを抱えながらも、原
爆は人間に何をなし続けるのかを身をもって告発してきました。核戦争の地獄の体験と、被爆
者として生きねばならなかった「生」を通じての命の叫びは、国内外の人びとに原爆被害の実
相を知らせ、
“核兵器は人間と共存できない”
“ふたたび被爆者をつくるな”の声を広げてきま
した。
平和を求 める世界 の人々 と手を つなぎ、 地球上 から核兵 器をなく すため には、“ノー モア・
ヒバクシャ”の志を被爆者とともに共有する人びとの輪をさらに広げていかなければなりませ
ん。
日本被団協とノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は、被爆者とヒロシマ・ナガサキ
を語り、受け継ぐことを呼びかけます。被爆者と受け継ぎ手が協力して、被爆者一人ひとりの
声に耳を傾け、語り合い、記録に残す、被爆の体験の継承を取り組んでいきましょう。
そして取り組んだ成果を世界と未来にむけて、それぞれの 地 域 か ら 発 信 し て い き まし ょ う 。
[証 言者についての基本事項(太線の枠内にご記入ください)]
記入年月日
2014年2月10 日
整理 No.
-
ふりがな
服部
ご 氏 名
生 年 月 日
道子(はっとり
明・大・昭
みちこ)
4年
月
2.長崎
〔町名
性 別
日
1.男
(被爆時年齢
2.女
16歳)
現 住 所
被 爆 地
1.広島
手 帳 区 分
1.直爆
2.入市
3.救護
距離
.
㎞〕
4.胎内
5.健康診断受診者証〔一種・二種〕6.被爆者の子・孫 7.その他
氏名の公表の可否
1.可
2.不可
1
1.被爆したときのことをお聞かせください。
被爆 時 、年 齢が幼くて当時の記憶がない方(被爆二・三世の方)は自分が被爆者(被爆
ニ・三世)であることを、いつ、どのようにして知りましたか。
*2013年7月2日の聞き取り票参照
2.その後の人生についてお聞かせください。
3.いま、被 爆者として訴えたいこと、世界と次世代の人々にこれだけは伝えておきたいこと
をお聞かせください。
原爆から終戦までの間は軍の兵舎を貸してもらって私たちはそこで生活をしていました。母
親が勤労動員を近所の奥さんに代わってもらって、それでその奥さんが大やけどをすることに
なって、隣組には居ずらいからということになって。軍の兵舎に住めたのは、父親が佐官待遇
だったものですから特別のことだったと思います。
終戦後、軍から東京はアメリカ兵、広島にはソ連兵が入る。占領されたら女子供は八つ裂き
にされるから山奥に逃げるようにと言われていました。ところが私たちは東京の蒲田 の家は空
襲で焼けているし、行くところがない。しょうがなくて父親の遠い親戚が弘前にいるので、そ
こに行こうということになりました。
終戦からちょうど1か月、9月15日に広島を脱出しました。
飯盒、水筒、そういったものもかっぱらい、強盗ですね、盗られてしまう。だからおにぎり
を甕に入れて、そのおにぎりも麦もないから高粱のおにぎりです。水筒も軍用のいい水筒を父
親は持っていたんですが、それも盗られるというので一升瓶に水を入れて。リュックも盗られ
るというので貴重品は風呂敷に包んで背負って広島駅に行きました。
広島駅は復員で帰る兵隊でいっぱいでした。汽車には兵隊が鈴なりで、屋根の上や窓にまで
しがみついている。到底、私た ちは一緒には乗れない。そうかといって家族バラバラで脱出は
できない。結局、家族で貨車に乗ることになりました。貨車と言っても箱型の石炭が積まれる
貨車で屋根がないんです。その石炭も粉のような石炭です。その上に兵隊が 10 人くらい乗っ
ているところに私たち家族も乗り大阪の方を目指しました。
汽車ですからトンネルを抜ける時は息ができない。風呂敷で顔を覆ったり、いちばん困った
のはおしっ こです 。いつ 出発して 、いつ 止まる のかもわか らない 。男は いいでし ょうけ れど、
私とお母さんと妹がいて、妹は 12 歳、私は 16 歳、母親も 40 歳ちょ っとです。恥ずかしいん
ですけれど、いつ出発するか分からないから貨車から降りる ことができない。だから風呂敷で
囲いながら甕に私たちはおしっこをしました。広島から大阪 ま で 行 く の に 3 日 か かり ま し た 。
大阪では炊き出しがありました。軍から証明証をもらっていますから、私たち家族は兵隊と
同じように炊き出しをもらうことができたんです。一般の人はもらえない。その時のおにぎり
2
がおいしかったのを覚えています。その おにぎりには高粱ではなく麦が入っていました。
大阪も焼けていますし、浮浪者があちこちにいて、隙あらば盗ろうとしていて荷物を置いて
おけない。私たちもどこで取られたかはわからないけれど、広島を出る時にもらった罹災証明
が青森に着いた時には無くなっていました。
大阪からは馬と一緒の貨車に乗ることになりました。兵隊 3 人と馬 3 頭。馬一頭に兵隊がひ
とりずつついているんです。馬も復員兵と同じで故郷に返すわけで。その貨車に父親と母親と、
妹と弟と私、家族 5 人で乗ったわけです。蝋燭を持っていましたが火をつけると馬が暴れるの
で、片隅で小さな明かりを灯して旅をしました。大阪から京都。京都からは新潟の方を目指し
ました。新潟に着くと沖合に船が見えるんです。それはロシアの船だから気を付けなくてはい
けないと言われ、終戦になっているのに 灯火管制をして避難をしました。
新潟にいる時に、あれは 9 月の終り頃だったと思います。台風が来るというので、今度は横
断して仙台の方に出ようということになりました。台風に福島で 合いました。あれはついらか
ったです。兵隊さんたちと持っているものを分かち合いながら過ごしました。仙台に着くのに
半月ぐらいかかったと思います。
仙台から岩手を通って青森に向かったんですが、私のそばに私より二歳くらい年下の 汚い恰
好をした男の子が、浮浪児だと思うんですけれど私に抱きつくんです。混んでしまっているの
で親とは離れ離れになってしまっていて、私は逃げたいんだけれど逃げることができない。怖
かったです。叫べないし、人さまにも言えない。まだ 16 歳ですから周りの兵隊さんに助けて
とも言えない。我慢していました。
青森の手 前の浅虫 という ところ で列車が 止まっ てしまい ました。「海の 方を見 てごら ん」と
言われ、見てみるときれいな船がある。それはアメリカの船なんです。そして着ているもので
列車の窓から明かりが漏れないように灯火管制をしろって。もう負けたんだからそんなことを
しなくてもと腹の中で思いましたよ。
そうやって弘前にたどり着いたんですが、青森が 空襲で焼けて焼け野原で、その被災者でい
っぱいで弘前には住むところがない。親戚の家もいっぱいなんです。そ うして私たちを広島か
ら乞食が来たって言う 。そうですよね、お風呂も入っていなくて真っ黒けだし 。列車で浮浪者
からシラミをもらっちゃって、それが痒くて痒くて。ひどい目に遭いました。
弘前では住むところがなくて旅館生活です。旅館生活をしたんですけれど食べるものは決ま
っている。ちょうど預金封鎖で 300 円以上持てない。そのお金で旅館にお金を払って。たしか
竹輪が一つ1円でした。お昼はそれを食べるのがやっとで、竹輪を並んで食べるんですけれど、
おいしかったのを覚えています。
シラミはお酢で殺すのがいちばんだというけれどお金もないし、うっかりシラミがいること
が旅館にわかったら追い出されてしまう。我慢しながらみんなでシラミを潰して、そんな生活
でした。
3
弘前にはリンゴがいっぱいあって台風でリンゴがみんな落っこちていたのね。朝早く 妹と弟
を連れて散歩に行って、そのリンゴ畑に行って落ちているリンゴを拾って食べました。私の家
は拾ったものを食べたり、人から恵んでもらってはいけないっていう教育を受けていたんです。
そんなことをしたら怒られる。でも、ひもじさには敵わないんです。落ちているリンゴを服で
拭いて弟に与えました。弟はかじって、おいしいねって。私も食べました。おいしかったです。
弟は「お姉 ちゃん 、また 明日来よ うね」 って言 うんです 。「絶対 にお父 さんやお 母さん には言
っちゃいけないよ」って堅い約束をして。そういう旅館生活をしていました。
母親にはたくさん兄弟がいて、五番目の男の子が水産学校を出て、優秀なもんですから青森
の○○というところに養子に行かないかと校長先生に言 われて、それで口減らしではないです
けれど、そこに養子に行っていました。そこの一人娘と結婚して。そのお店はすごく流行って
いて漁船を何十隻も持っていて、ソ連の方に漁船を出したり、すごく景気がいいんですよ。や
むを得ないからそこへ訪ねていこうと一家で八戸に訪ねて行ったんです。
そうしま したら玄 関払い ですよ 。乞食が 来たっ て。 母親 がね、み んな着 の身着 のままだ し、
お父さんも怪我をして左手を吊っていました。そしてみんなが下痢をしていました。私も嘔吐
したり、そういう状態だからどんな部屋でもいいから貸してほしい。納屋でも何でも いいから
住まわせてくれって頼みこんだんです。それでもダメだというんです。養子に来た身だし、と
にかく旅館だけ世話をするということで旅館にお世話になりました。
そうしたら、その家の女中が3人、五重のお重を持って来て 、白米のご飯とお魚、それから
かまぼこ、卵焼き、私たちが何年も食べたことがないようなご馳走です。お重には手紙が付い
ていました。その手紙には、これを食べたらすぐにこの土地から出て行ってくれ。商売の妨げ
になると書かれていました 。みんなで泣きました。それっきり私は叔父を叔父だとは思ってい
ません。そういうときこそ助け合うのが人間じゃないかと思うんです。そういう冷たい目にも
遭いました。
行くところがなく困って母が手紙を里に出しました 。里も蒲田でしたが空襲で焼けましたで
しょう。そ れで母 の両親 は宮城県 の大張 村に、 息子が使っ ていた 人を頼 って住ん でい ま した。
だから肩身が狭いんです 。あまり裕福な村ではなかったんですが、○○からお魚とかを送って
もらっていて、それをお米やお野菜と交換してどうにか生活していました。
母が「八戸まで来たけど追われている」と手紙を出したら、道子だけ面倒をみるという電報
が旅館に届 きまし た。そ れが電報 屋さん の一字 間違いで「 ミナコ コイ、 メンドウ ミル」。本当
は「ミチココイ、メンドウミル」だったんですが。それでみんなで喜んで訪ねて行ってしまっ
た。そう したら、お爺さんとお婆さんはびっくりしてしまって。でもね、追い返すわけにはい
かない。お 爺さん とお婆 さんも一 部屋し か借り ていない。 それで 蚕小屋 を借りて くれま した。
それで私たちはそこに住めたんです。それが暮れの12月 でした 。
お父さん は疲れて やつれ てしま って、私 たちも 安心して しまった のか身 体がだ るいし吐 く、
下痢するでどうしようもない状態でした。そこは無医村でしたから医者 にもかかれない。私た
4
ちは持っているもの、着ているものを売って毎日を過ごしました 。交換してもらうものはジャ
ガイモ。それも、あまりいい土地ではないものですから 梅干しみたいな大きで。それを頂いて
囲炉裏にくべて焼いて食べました。それから干し柿。その干し柿の皮を干したものを石臼で引
きますと、きなこのようになって、その粉が甘いんです。父の褌を洗濯して干します。下痢を
しているから6枚くらい干すんです。そうすると村の人が譲ってくれと言ってきます。褌3枚
でお茶碗一杯のお米です。そのお米を伸ばして、大根の葉やハコベを刻んで入れたりして食べ
ました。
私は戦争中よりも戦後の方が辛かった。戦争中は父親が軍隊にいましたから、お砂糖だとか
おみかんだとか届くんです。戦争中は一般には切符だとか配給だとかでサンマ一匹を5人で分
けるような生活でしたが、軍隊からみかんが一箱届いたり。家に公用という腕章を付けた兵隊
が来て、玄関先で敬礼して「服部殿のお宅ですか。ただいま砂糖を2kg持ってまいりました」
とか声を出して言わなくてもいいこと大きな声で言うんです。そうするとね、近所の人が「服
部さんのと ころは 特別扱 いだ」。 軍にい たから いいことも ある反 面、そ ういう 偏 見が隣 組の中
にありました。それでいて「服部さん、砂糖を少し分けてください」とか。
それから後、蚕小屋にもいられなくなって郷倉という、これは米蔵なんですが、そこが空 だ
ったので、そこを借りて住 むことになりました。そこは電気もガスも水道もないんです。お水
は桶で前の家までもらいに行き、お米は川の水で研ぐような生活でした。元気ならばいいので
すが、私たちは病気がちでお父さんも下痢をしている 。
そういう生活をしていると、もっているお金も知れています 。どんどん減っていくのでお父
さんが焦ってね、身体が悪いのに雪の降る中、干し柿の粉を東京に持って行って売ると言うん
です。大張村は白石から4kmほど離れた山の中でバスが一日に一本しかなく、雪の日はその
バスもないんです。
父はその粉を3kgくらい買ってリュックに入れて東京に行くと言って聞かない。雪が降っ
ていてバス もない からお やめなさ いと母 は止め るんですが 、それ でも行 く という んです 。「道
子、悪いけれど駅まで送ってくれないか。どこかで馬車が来たら載せてもらえばいいから」と
言われ出かけましたが、雪がどんどん降ってきてしまって、馬車なんか来ないんです。行けど
も行けども雪が降っている。道をとうとう 3kgの柿の粉を背負って白石まで父を送ってしま
いました。 その日 は朝の 7時頃に 家を出 たんで す。そして 白石の 駅まで 行って切 符を買 って、
お父さんを 東京行 の汽車 に乗せ 、 私一人 でご飯 も食べずに 帰る始 末。「 道子、ご 飯もた べさせ
ないで悪かったな。時間がないからお前はすぐに帰れ」と言われ、ひとりで来た道を帰りまし
た。その時の辛かったこと。お父さんの長靴を借りて履き替えて歩きましたが、雪が降り積も
って長靴の中に入ってくる。その道には私とお父さんお足跡しかないんです。山の中ですから
3時、4時になると暗くなってくる。はるか遠くに明かりが見えると狐火じゃないかって。雪
が重たくて 足が抜けない。雪道には狐が横ぎった足跡があります。そうすると狐に化かされな
いようにしなくっちゃって思ったり。帰ったのは真っ暗になってからで、郷倉が見えたときに
は疲れて一歩も歩けなくなっていました。
5
父親は東京に行きましたが昔の人間ですから売ることができないんです。みんな親戚の東京
の家に置いてきてしまって一銭にもならない。2回、3回と父親は東京に行きましたが 一銭も
お金になりませんでした。
そうして4月、父は床についてしまいました。無医村でしたが田端から疎開したお医者さん
が隣村にあったので、そのお医者さんを迎えに行 きました。迎えに行って診てもらうのに馬を
仕立てて、往復八里ですよ。そういうことをしてお父さんを診てもらったら、
「なんだこれは。血便が出ているじゃないか」
「吐いたものを見せて」
そして
「これはチフスじゃないか!」
「おまえたちはどうなんだ。」
私も下痢をしています。
「それじゃあ、一家みんなチフスじゃないか。隔離しなくちゃ!」
「こんなところに置いておけない。でも今は隔離できるような状況じゃあない」。
それで、 どうした らいい んだろ うと言う んです 。どうし たらいい んだろ ういと 聞かれて も、
私たちも困まる。
「とにかくお薬をください。」
「そんな腸チフスに効くような薬なんかない。」
とにかく薬をだすから来いと言われて、私が一緒についていってお薬をもらって帰りました。
そうして2、3回医者に診てもらいましたけれど、4月19日の朝です。父が「道子、鏡を
見せろ」と言うんです。お父さん、鏡を見ちゃダメと言ったんですけれど、どうしても見たい
というので 見せた ら、「 俺はもう 死相が 現れた 。もうダメ だ。お まえは 長女で辛 い思い をさせ
たけど母親と妹、弟を頼むな」って。遺言で すよね。そのころには髪の毛がバサッて束になっ
て抜ける、そして顔にブツブツ紫の斑点ができました。そして重湯を一口食べて、それからや
っと手に入ったリンゴを母が摺って、それをちょこっと食べて死んでいきました。
その土地には寝棺がなくて座棺といって四角いお棺なんです。お父さんを四角いお棺に座ら
せて、それをリヤカーに積んで、母と土地の人が白石に焼に行きました。私は家で留守番をし
ていました 。今で も私、 かわいそ うだっ たな。 父を寝かせ てあげ たかっ たな、と 思うん です。
父のお骨を持ってきたときに土地の人が、なんだ電気がなかったのかと言って、そのあと電気
だけは引いてくれました。電気はつきましたがトイレは相変わらず上の家で、新聞紙もなくて
柿の葉で拭くんです。それほど物がない。そういう生活をしていました。
父が亡く なった あとも その村に 住んで いまし たが、 村の 若者が 私をめ がけて来 るんで すよ。
でも私は男女は七歳にして席を同じくせず、という教育を受けていたんで拒否をして いました。
看護を少し勉強していたので役場の診療所で働くことになりました。そこには週に2回ほど
6
若いお医者さんが白石から来るんです。ですけれど若い先生より私の方が注射もうまい し、包
帯も上手なんです。経験を重ねているからね 。村の人が鎌で切ったと傷口にニラを貼って来る
んです。それを上手に治療してあげると、私の方が上手だと評判がいい。そうしましたら明く
る年に辞めてくれって言われました。やればやるほど反発を食ってしまうんです。それで時に
はバカでいた方がいいということを覚えました。
そうしたら今度は福島の方で教員が足りないから行かないかということになって、宮城県か
ら福島県に移ることになったんです。母は教員資格 を持っていたんです。母は関東大震災の時
に聖路加病院がフランスからテントをもらって、そこで孤児をみていた当時はちょっと有名人
だったんです。そんな関係で母親に金谷川の小学校に空きがあるから、そこの分教場を任せる
から分教場の先生をしてくれということになって。1~3年生を受け持って、私は代用教員で
本校の3年生をみなさいということで、1年間本校に通ったりもしました。
分教場の思い出はアメリカが学校に脱脂粉乳をたくさんくれた ことです。本当に田舎の人も
みんな栄養失調でガリガリでした。脱脂粉乳を大きな釜でみんなに飲ませたん です。唯一の栄
養源でした 。アメ リカで は捨てる ような ミルク だというけ れど日 本人は みんな助 かりま した。
こっぺぱんと脱脂粉乳を子どもたちといただきました。そこでもシラミが出てDDTをまいた
り、私もバリカンで頭を刈ってやったりしました。
そこで3年生を教えていた時に倦怠感があって、一生懸命授業をした後は伏してしまうよう
な状態で。教員というのは授業の後も職員会議があったりカリキュラムを作ったりする仕事が
あるんですが、そういうことができないんです。子どもが帰った後でいつも突っ伏して 職員会
議にも出られない。そうしたら服部は怠け者だと散々非難されるんです。医者に行って、こっ
そり被爆者だということを言っても、医者もそういうことを知らない 、わからない。本当にひ
とりで苦労しました。蚊に刺されても、そこが化膿してしま う 。 そ う い う こ と で 困り ま し た 。
父が亡くなって、家族を食べさせるために教員になろうと 私は8月に福島で教員試験を受け
ることにしました。他の人はみんなは金谷川から乗るんですけど、私は松川から乗らなくては
ならない。そうして松川の駅に行こうとしたら松川事件ですよ。それで私の人生はまた変わっ
てしまった。松川で汽車が転覆して二人くらい人がヒーヒー言っている。それを助けなきゃっ
て。機関車が燃えている。結局 その二人は亡くなりました。その後、警察から被爆者だという
ことで、何か知っているのではないかと疑われ辛かったです。それで私の教員生活は終わって
しまいました。
苦しんで、村八分にはされるし、乞食をしても東京に出た方がいいのかなと思って、東京に
出てきたんですが、東京に来ても住む家はないし、親戚を訪ねても追い出されて、芝公園でお
トイレを借りて、新橋から銀座を毎晩、アメリカの兵隊がパン助と歩いている街をさ迷い歩い
たりしました。
弟が病気になってし まって、薬欲しさに花売りをしようというんで、妹と花を千円で10本
7
買いました。でも 買って下さいと言えなくて一本しか買ってもらえなくて900円はパーです。
あれも縄張りがあるんですね。アメリカのジョージという兵隊が銀座を縄張りにしていて、こ
こで商売をしてはダメだというんです。いくらかお金を払えばいいんでしょうけれど、そうい
うことも知らなくて花売りは二日で辞めました。そういうことまでしたんです。辛い思いもし
ましたよ。
ですから戦争はしてはいけないということにつながるんです。みじめな思いをするのは一般
の人たちなんです。上の人たちはふんぞり返って指揮だけしていればいいんですけど、犠牲に
なるのは一般の人たち、子ども たちです。私も何度死のうと思ったかしれません。家族がいな
ければ死んでいたと思います。お父さんから、母親と妹、弟を頼むなと言われた、その一言が
あったから今まで生きてきました。生きていたからこそ、こうやって皆さんとお話もできます。
とにかくあの時に亡くなった方のあの形相、死にたくなかった辛さ、それをみんなに知らせた
い。私も84歳、あと3ヵ月で85歳になりますけれど、生かされたこの命を大切にして死ぬ
まで語り継いでいきたいと思います。事実を学んでもらえば、学べば学ぶほど核とか戦争がい
けないことだということがわかると思うんです。
※被 爆 の実 相 を伝 え残 すため、あらためて詳 しくお話をうかがうことはできますか?
1.可
2.不 可
【原稿確認時の服部さんからの追記】
弟は1931年(昭和6年)満州事変後、私より2年後に誕生しました。
私の先祖は忍者、服部半蔵の子孫です。服部家に男子誕生とのこと、大喜びでした。ただし
一年未満で消化不良で入院、高熱におかされ死を宣言され、父は全財産をなげうっても助けた
いと、注射や薬を与えたそうです。その結果、命はあったものの発達が遅れ7歳まで歩けませ
んでした。その後、知能の遅れはありましたが身体に不自由はありませんでした。現在のよう
に福祉が発達しておらず苦労はしましたが、他人さまには可愛がられ、好かれて過ごしました。
原爆の時は14歳、防空壕兼用にもなっている押し入れに首を突っ込んで玩具で遊んでいた
そうでかすり傷で済みました。
8月6日は弟がおねしょをしてしまったために2階のベランダ(皆実町3丁目1014の3
番地)に干した布団80cm四方(濡れたところ)が焼け焦げていました。このことを厚生労
働省の役人に証言しても、写真はあるか、現物証拠はあるか言われます。戦争当時を知らない
役人には理解してもらえませんでした。広島を脱出した際に物が不足していたので大切な布団、
きな臭いけれど持ち歩き宮城県伊具郡で父が死んだときに山 の 畠 で 燃 や し ま し た 。あ の 時 世 、
カメラなど持っていたら憲兵に引っ張られました。事実を語っても役人たちは当時のことを学
ばず、学ぼうともしないことに憤りを感じています。
弟は1961年(昭和36年)交通事故で死亡しました。
8
[聞 き取 りをおこなった方の記入欄〕
聞き取り日時
2013 年 12 月 14 日(土 )
聞き取りをされたのは
1.個人
聞き取り票記入者
島村雅人
~
場所
レン会議室新御茶ノ水
2.グループ〔名称:ヒロシマ・ナガサキを語り受け継ぐつどい〕
TEL/メール
[email protected]
連 絡 先 住 〒102-0085
所等
東京都千代田区六番町 15 プラザエフ 6F ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会
4.聞 き取りの感想 、受け継ぎ手 として世界 と次世代の人 々に伝 えたいことをお書きくださ
い。
【ディスカッションの様子】参加者7名(被爆者 2 名
■)
司会:服部さんには戦後の話を 中心にお話していただきまし た。その中でいち ばん印象に残
ったこと、感 じたことを順番にお願いし ます。
■:まだ戦いは残っています。認定訴訟だけではないと思います。熱線、爆風、放射線が複
合して被害として出たんです。原爆被害の全体を国に認めさせなくてはならない。まだ戦うこ
とはたくさんあるんです。だから長生きしましょうよ。
□:被爆したときの体験は 聞く機会があっても、その後の話はなかなか聞けなくてはじめて
お聞きして、どれもこれもびっくりでした。私も親戚が弘前にいて両親が福島ですから、あの
辺は寒いし、今は雪が少ないけれど豪雪地帯ですし、相当大変だったと想像がつきます。ほん
とうにお会いできてお話ができてよかったです。
□:私は終戦が台湾でしたが引き揚げてきてからは服部さんのような苦労はしていないです。
父方が名古屋近郊の農家の末っ子だったので、昔の本家があって、本家の農機具小屋を改造し
てそこで生活していました。食べ物とか、そういう点での苦労は初めて聞きま した。ただ台湾
からこっちへ来る間とか向こうでの食べ物、何もなくてね。そういうひもじい体験は共通して
います。
亡くなった彼は広島一中で、やっぱり学徒動員で出ていて2.5kmぐらいのところで自分
の親と妹がいて、その辺をうろうろして火が迫ってきたから逃げたという話は聞いているんで
す。彼も広島から早く出ようと思って卒業した後、大阪の方の学校に行って資格を取って愛知
県に来て。あと教員免許があったからそれで生活してきたみたいですが、やはり黙っていたみ
たい。黙っていて原水爆禁止世界大会に出て被爆者の運動があることを知って、それから被爆
者運動に加わって。
9
最近、彼がどういう活動をしてきたかということを、原水協と平和委員会、被団協、それか
ら愛知県のこととか。愛知の被爆者たちも黙っていたけれど、80歳近くなって黙っておられ
ないということで話したいという人がボチボチ出てきているんです。行ける時は愛友会に新聞
発送の手伝いに行くんですけれど、そこに来る人は被爆の記憶がない人たちで、そういう人た
ちは自治体行脚、語り部に行っても体験がない、記憶がない。
司会:それは幼すぎて覚えていないということですか。
□:そうですね。だからあなた被爆者だよと周りの人から聞いて、手帳をとるのに50年か
かったとか、いろいろな人がいるんです。今は一対一ではなく、こういうグループだと話しや
すいということで、そういうことを愛知ではやり始めているところです。愛知県では被爆者が
手分けをして毎年自治体を訪問していて、今年は55でしたか。被爆者が来て生の話をすると
行政の方も緊張感が違うんです。これを引き継ぐために生の証言を中学校で話させてください
とか、新しいパネルを買ってみんなに広げてくださいとか。そういう中である市では中学二年
生全員が市のお金で広島に行く、修学旅行とは別にね。そういう自治体も出ているんです。被
爆者の生の証言は一言二言でも大切だなって。服部さんのことは今日話されたことしか知らな
いので、服部さんのそのあとのことも聞きたいと思いました。
司会:お父さ んの他に服部さんのご家族 で亡くなられた方は いらっしゃるんです か。
服部:弟は交通事故で亡くなりました。妹は今年2月に大腸がんで死にそうになって。奇跡
的に生きていますけれどね。妹は何でもなかったんだと話していたんです。妹は学童疎開をし
ていたの。それを私と父が迎えに行ったんです。先生が帰せないというのを軍にいたし父親は
頑固ですので。妹は12歳だったんですが、父親が風呂敷をかぶせて見せないようにして帰っ
てきました。それが9日。
市内を通って迎えに行く間に死体も見ましたよ。9日の朝に出て妹を連れて帰ったのは夜で
した。その晩、皆実町の家の庭に埋めてあったお米と缶詰を掘り出して晩餐をして、お父さん
が死ぬときはきれいに死ねよと言いました。妹は9日に帰ったので何でもないと思っていたけ
れど、今年の2月に大腸がんになって。
司会:服部さんが語り部をはじ めたのは幾つぐらいの時に 、どんなきっかけだ ったんですか。
服部:私は孫が生まれたときに、遺伝というのはひとつおいて出るから気をつけろと言うで
しょう。そ れが五 体満足 で生まれ たから 、(聴 取不能)最 初に毎 日新聞 の大阪支 社の記 者が私
のところに来て、それが新聞に出たんです。それを京都の友だちが読んで、これは服部さんの
ことだって。それがひろがっちゃってあっちの報道、こっちの報道と聞きに来るから、やっぱ
り言うべきことは言わなくちゃいけないなっと思って。子どもには話しませんでしたよ。被爆
10
者だということは話しても詳しいことは話していませんでしたよ。あの日のことを記者にお話
して、それがあちこちに広がってしまったんです。そうしたら、広島にいる女学校時代の友だ
ちに、広島に行った時に、服部さんは最近ようしゃべっとるねって批判を受けました。あなた
は死んだといってもお父さんだけでしょう。私なんかしゃべれんわって。でも、その人が一昨
年、広島に行った時に、私も服部さんにあんなことを言ったけれど、今はしゃべっていますっ
て。
司会:ここで 7 月にコープネッ ト埼玉エリアで行った聞き取 りの記録をお配りします 。この
中で 、服部さんは「日 本政府に対して被爆者だけではなく東京 大空襲などの一般空襲の被 害者、
沖縄戦の非戦 闘員の被害も補償してほし い」とお話になって いますが、そのこ とについてもう
少しお話しい ただければと思います。
服部:確か第6回目の原水禁世界大会だったと思うんですけれど、蕨から行ってくれと言わ
れて参加したんです。その時に参加して分科会で被爆者の話が合って原水協の取り組みについ
て話があったんですっけれど、私は何も知らないものだから手を挙げて「戦争被害は広島はも
ちろんだけれども、東京にも空襲があった。それだけではなくて内地のあちこちで空襲があっ
たし、沖縄戦でも親や子どもが犠牲になって死んだでしょう。そういう人たちと一緒になって、
みんなで腕 を組ん で政府 に申し立 てをし よう」 と言ったの 。そう したら ね、「今 はそん なこと
より被爆者のことをやっているんだ」と、こうきたの。それを聞いて私は2度と行くまいって
ずっと拒否していたの。
■:いつごろ。
服部;6回です。
■:じゃあ分裂する前だ。その頃はいろいろな人たちが参加していたから、被爆者の話をし
ようとした ら、「 そんな こと、こ こで話 すもん じゃない! 」と会 場から 声が飛ん で止め られた
んです。運動の流れは様々なことがありながら、被爆者は一致して分裂せずにやってきたんで
す。
我々は一緒にやりたいと思っているけれど、残念ながら空襲の被害者は全国に散らばってい
るでしょう。それがまとまらない。やっと2年くらい前からまとまってきた。今まではできな
かった。
服部:今から2年前でしょう。それが遅いと言うのよ。
■:これはね、自分らが自覚して起たないと運動にならないんですよ。空襲、さらに今はフ
クシマ。フクシマの人たちは今ね、起たないんですよ。不安でしょう。どうやったらいいかわ
11
からないのね。あの人たちも一緒にやらなくてはならないんだけど、こちらからそれを言うと、
「なんだ、 お前ら はいろ いろなも のをも らって いるくせに 。」そ ういう 反論が出 てくる 。そう
いう難しさがある。だけど核時代の戦争の被害、核被害だけど、それをどうやっていくかが今
の問題だと思うんです。考えなくてはいけない。
□:今裁判を起こしている女の方がいらっしゃるの。その方は被爆者だけど結婚して子ども
もいて、ご主人は亡くなられているけど、ずっと被爆者だということは黙ってきた。でもフク
シマのことを知って、黙っていたらあの人たちが私たちみたいになるからと、私の病気を放射
能だと認めてくださいと。
■:私たちの内部被爆を国は認めてこなかった。
服部:息子が成長期に脱臼で腰が外れそうになって手術して9ヵ月、東邦医大で。それが先
天性のものだというんです。家は先天性でそういうことになったものは誰もいないんです。で
も50歳になって痛みが出てきて。でも国は原爆のせいだとは認めないですから。
□:僕は日本と韓国、朝鮮の友好の運動をしていますが、韓国に広島で被爆した人がたくさ
んおられます。陜川(ハプチョン)というところに特別たくさんおられるんです。そこへ行っ
たら、今のお話しはるのと同じで三世、四世、五世くらいの人たちまで、早い人は死にますけ
れども、元気な人は大きくなりますわね。そうすると今言うとられるような病気がいっぱい出
て。その町では放射能の影響は遺伝するんだということを証明しろ言うて裁判してはる。韓国
の国会も動かしてやりでしていますね。
司会:時間になりますので 、今日のような取り組みを埼玉 でも引き続き取り組んでい ただけ
ればと思いま すし、今日のよう に前回のお話を記録した聞き 取り票と合わせて 、その後のお話
をお聞きする ということも初めてだと思 います。こうした記録 の取り方、使い方も、さらにみ
なさんのとこ ろで創意工夫していただけ ればと思います 。被爆の証言を聞くと きに「同じ方か
ら何回も話を 聞くことも大切です 」と言葉にすると簡単です が、それがどうい うことなのかは
なかなか実感 できないと思います。それで、今回はあえて服 部さんには「あの日 」のことでは
なく、その後の ことを中心に語っていただ きました。今日は証 言の時間で1時間、ディスカッ
ションで1時 間ありましたけれど、実際 にやってみると時間 が足りないんですね。
■:それはね、原爆被害、戦争被害と言うのは一回聞いただけではわからない。時間をかけ
ないと話せないし、話す間に被爆者自身も勉強になって、そういうこともあったと思い出すん
です。ですから被爆者からの聞き取り、語り継ぎというのは何回も集まって膝を突き合わせて
話し合うことが大切だと思うんです。そういうことをこれからやっていかなくてはならないと
思います。難しいことではあるんですが。
12
□:すでにお話を聞こうとする方が手記なり本なり書いている場合はどうすればいいんでし
ょうね。
服部:私も書いた。今日は重いから持ってこなかったけど。
□:それぞれいろいろだと思います。服部さんのように一度では全部語れない、そのことが
手 記 な り で わ か れ ば 今 回 の よ う に2 回 に 分 けて 話 を お 聞 き す る と い い う 配 慮 をす る こ と もで
きます。それと聞き書き証言集を出すときにテープから起こした原稿を確認のために本人にお
送りすると、この部分は載せないでくださいということが少 なくありません。それがその人の
体験の核心部分だったりすることもあります。手記や本に書かれていることが全てではないん
だとそれで学びました。
<返送先>〒102-0085 東京都千代田区六番町 15 プラザエフ 6F
ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会
電話/FAX03-5216-7757
Email: [email protected]
13