野上キリスト福音教会 ◎礼拝説教 2012 年 8 月 12 日 ◎説教者・・・中村準一 牧師 ◎タイトル:放蕩息子 ◎今日の聖書:ルカ福音書 15 章 11∼32 節 11 またこう話された。 「ある人に息子がふたりあった。 12 弟が父に、 『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふた りに分けてやった。 13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、 そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世 話をさせた。 16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようと はしなかった。 17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。 『父のところには、パンのあり余っている雇 い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 18 立って、父のところに行って、こう言おう。 「お父さん。私は天に対して罪を犯し、また あなたの前に罪を犯しました。 19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。 」 』 20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かっ たのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 21 息子は言った。 『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。 』 22 ところが父親は、しもべたちに言った。 『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着 せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。 』そ して彼らは祝宴を始めた。 25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて 来た。 26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、 27 しもべは言った。 『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、 お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。 』 28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろ なだめてみた。 29 しかし兄は父にこう言った。 『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破っ たことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったこ とがありません。 30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子 のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。 』 31 父は彼に言った。 『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえ のものだ。 32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つか ったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。 』 ◎宣教 放蕩息子の物語は有名です。だらしない次男が父の財産を分けてもらって、家を出ました。 そして毎日、湯水のように金をつかって遊びまわり、ついに財産を使い果たしました。金が なくなると、友人たちも去りました。生きるためには働かなければなりませんが、満足な職 が見つかりません。ある農家を尋ねて、「仕事をください」と頼むと、豚を飼う仕事を与えて くれました。イスラエル人は豚を食べませんから、その農家は異邦人の家でした。彼は豚を 飼いましたが、自分の食事さえも満足に食べさせてもらえません。腹が減って我慢できなく なり、豚の餌であるイナゴマメを食べようとしましたが、堅くて食べることができません。 これが神から離れた人々の姿なのです。この放蕩息子は、何を譬えたのでしょうか。放蕩息 子とは、だれのことですか。神から遠ざかっている人類そのものです。神から遠ざかってい るすべての人が、放蕩息子なのです。人間は神によって創造されましたが、神を敬わず、神 に従わず、自己中心的な生活を追求してきました。それが現代人の放蕩の実態なのです。そ して、現代人は絶望的な時代を迎えているのです。 彼はついに、父の家に帰ること以外に、生きることができないことを悟りました。そこで、 彼は父のもとに行って、 「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪 を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一 人にして下さい」 と頼もうと思いました。しかし、彼が帰ると、彼の父は彼を歓迎して、 大喜びで、祝宴を開いたのです。これが神の愛なのです。そして、現代の世界を救う方は、 この神の愛しかないのです。ですから、人類は最後に悔い改めて、「神様。私たちはあなたに 対して罪を犯しました。もう、子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとりに してください。」と祈る時が来るのです。それがリバイバルです。私たちは、日本がリバイバ ルするために祈りましょう。日本は立ち直るために、神のもとに帰らなければならないので す。 しかし、この物語は、もうひとつの大切な事を教えています。放蕩息子が帰ってきて、父親 が喜んで祝宴を開いていると、仕事から帰ってきた兄が、父親に文句を言いました。 「ご覧 なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありませ ん。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありませ ん。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあ なたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」 この兄はだれを指しているのでしょうか。現代のクリスチャンです。真面目に教会生活に励 んでいるクリスチャンです。 兄は本当なら、 弟のことを心配しなければならなかったのです。 しかし、彼は弟のことを心配しませんでした。また、兄は、弟が帰ってきたのを知っても、 喜びませんでした。兄は父に文句を言いました。 「お父さん。私は一生懸命に働いてきたのに、あなたは私に子ヤギ一匹さえも下さった事があ りません。それらのに、あなたの財産を使い果たして帰ってきた弟のために、小羊をほふっ て、宴会をするのですか。」 兄は、どんなに冷たい心をもっているでしょう。そのように、現代のクリスチャンも、冷た い心をもっていないでしょうか。私たちは自分たちの信仰生活を悔い改めましょう。父親は 兄に言いました。 「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえの ものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなって いたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」 私たちはまず、私たちが神から離れたのではないことを感謝しましょう。次に、信仰を持た ない人々の救いのために祈りましょう。今、信仰をもっていない人々も、やがて、信仰を持 ったときは、私たちの弟となるのです。そのとき、私たちは、この兄のように、冷たい心を 持つことなく、すなおに、天の父のように、弟の救いを喜ぶ者となりましょう。
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